長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

まごころ星人を、君に ~映画『シン・ウルトラマン』の感想 後編~

2022年05月21日 22時10分18秒 | 特撮あたり
≪本ブログは、2022年5月現在公開中の映画『シン・ウルトラマン』の感想を好き勝手につづるものですが、いち特撮ファンとしてど~しても譲れない異常なこだわりから、一部の登場人物や用語の表記を意図的に改変しています。どうしようもねぇ昭和野郎だとどうか哀れに思し召し、ご了承くださいませ。≫

 そんなこんなでまぁ、大ヒット上映中の『シン・ウルトラマン』を観た感想の続きでございます。
 前回の記事で、わたくし個人として「おもしろくない。」と感じた3つの理由のうちの2つまでくっちゃべってきたわけなのですが、いよいよ最後の3つ目に触れる前に記事の字数がいつもの1万字に達してしまいましたので、カラータイマーピコンピコンということで一時撤退させていただきました。やっぱさぁ……ラインの色が赤から緑って、しっくりこないよねぇ!? それ、成田亨先生の構想にはありませんよね!? 結局、カラータイマーを撤廃した意味がなくなってんじゃないの。なんなんだ、その見事なまでの墓穴の掘りっぷりは!?

 前回も言いましたが、3つ目の理由は、今までの2つとはちょっと異質なものだと感じました。前の2つは、たぶん作り手としてはあんまり意図的に出しているものではないような気がするのですが、この3つ目だけは、作り手が、特に言えば脚本を担当した庵野秀明さんその人が、かなり意識的にあえて出している「おもしろくなさ」だと感じたのです。そして、そこまでして、おもしろさを捨ててまで描こうとしたその要素こそが、『シン・ウルトラマン』を世に問おうとした本質であると思うのです、あたしゃ。


3、脚本がおもしろさを狙っていない。

 この作品の脚本を通して庵野さんが問いたかったこと。それは、「あなたは『自分と異なるもの』をどこまで受け入れられるのか?」という問題提起だったのではないでしょうか。
 私が思うに、この『シン・ウルトラマン』におけるシン・ウルトラマン(便宜上、初代ウルトラマンと区別するためにこう呼称します)は、お話が進んでいくにつれて、どんどんその超能力に科学的説明すなはち現実味がついて超人でなくなっていき、最終的には、世界人類のほとんどが知らないうちに宇宙空間でひっそりとゼットンと対決し、結局両者ともに「この世からいなくなる」というフェイドアウトのような結末に(いったん)なります。その姿は、「ウルトラマンがんばれ!」と地上の人類(だいたい日本人)が応援する中で、迫りくる大怪獣を華々しく退治する初代ウルトラマンとはまったく違う異質なもので、はっきり言えば「ヒーロー」とは呼べない不気味なもの、いわば「モスマン」や「人面犬」のような得体のしれない類の世界の方がしっくりくるような気さえします。
 そこらへん、同様に表情がまったく変わらない初代ウルトラマンでも、その「雄々しさ」や「苦戦っぷり」を活き活きと伝えていた「ヘアッ!」や「ジュワッチ!!」といった肉声をシン・ウルトラマンがいっさい発しないところに、庵野さんの意図がはっきり込められていると思います。『シン・ウルトラマン』の世界に、人類がいたらいいなと願う神様やヒーローはおらず、ただ、意図の汲み取りにくい無言の「異様なひと」がいるだけなのです。

〇善人でもなく、悪人でもない「異人」ウルトラマン

 なんだかわからないけど、人類の文明を脅かす大怪獣や宇宙人を全力で倒してくれる「異様なひと」ウルトラマン。
 ただし、日本の全エネルギーを吸い尽くしかねないシン・ネロンガをスペシウム光線で撃滅したり、シン・ガボラの放つ放射能ビームを中和させた上に遺体までも持ち去って処分してくれるという異様なまでの献身っぷりに、アサミ隊員ら科特隊のメンバーは「なんらかの意志」を感じ取ります。そしてそれは、ウルトラマンの仮の姿となっているカミナガ隊員との交流を通じて、「地球人類を守る」という確固としたウルトラマンの信念による行動だったことが明らかとなるのでした。

 守る。とにかく地球人類を守る。人類の日常生活を壊そうとする怪獣から守る。人類を滅ぼそうとするシン・ザラブ星人から守る。人類を騙して地球の支配権を奪おうとするシン・メフィラス星人から守る。天体兵器ゼットンを発動させて地球を太陽系ごと処分しようとする「あのひと」から守る。それが自分の属する「光の星」の掟に背く行為なのだとしても守る。守る対象の地球人類のほとんどがその貢献に気づいていないのだとしても、守る、守る、守る!!

 大丈夫か、シン・ウルトラマン!? もはやその姿は、「守る」という強迫観念に憑りつかれているようにすら見えてしまうアブナイ域に達しています。当然、そうまでして守る理由は物語の中で明らかとなるのですが、それはあくまでもシン・ウルトラマンが地球人類という生命体に興味を持つことになった、なんとなくもっと詳しく知りたくなったという「きっかけ」でしかないのです。その点、宇宙凶悪怪獣ベムラーの追捕という任務執行中にハヤタ隊員を事故死させてしまったのを申し訳なく思ったから自分の命を預けた、という初代ウルトラマンの動機とは、ちょ~っとニュアンスが違うんですね。初代ウルトラマンはあくまでも「光の国」(原典は光の星でなく光の国)の一員という立場を捨ててはいないのですが、シン・ウルトラマンは場合によっては仕事を捨ててでも興味のあるものの保護に邁進するという、地球人から見ても光の星から見ても常軌を逸した「異様さ」があるのです。いわば公務員と芸術家みたいな、本質の違い?

 これを言ってわかっていただける方がいかほどいらっしゃるのか不安なのですが、シン・ウルトラマンって、その行動の利害を無視した異様さ・危うさと、それを引き換えに手に入れている「唯一無二の輝き」が、あの天才やなせたかし先生の手によって生まれた「初代アンパンマン」(1970年発表)のそれに近いと思います。世界の人気者になっているカッコいい有名ヒーローたちに馬鹿にされながらも、砲弾が飛び交う紛争地帯に飛んで行って、そこで飢餓に苦しむ孤児たちに自分の焼いた手作りパンを配り続けるという行為を、死ぬまでやめなかった小太りの中年男、アンパンマン。そして誰の理解を得ずとも、全宇宙を敵に回しても、自分の行動を、想いを貫こうとする異人シン・ウルトラマン。この2人には、どこか似ている孤高さがあるような気がするんですよね。初代アンパンマンも、現行のあんぱんまんのような子どもウケのする要素は意図的に廃されています。

 シン・ウルトラマンの、にわかには親しみづらい「哀しきモンスター」っぷりは、奇しくも庵野さんが声優を務めたジブリ映画『風立ちぬ』(2013年)の堀越二郎のキャラクターともオーバーラップする部分が多いのではないでしょうか。あくまで実在の人物でなくアニメの中の堀越二郎の話なのですが、知らない子どもに自分のお菓子「シベリア」をあげようとしてキモがられるさまなどは、コミュニケーションの苦手な、それでも澄み渡った清い(それがゆえに危ない)心を持っている異人っぷりを際立たせているではありませんか。

 つまり、『シン・ウルトラマン』はヒーローもの特撮のようでありながらも、実はまごころひとつを武器にして闘い続ける、誰とというと、敵味方関係なくコミュニケーションの取りづらい周囲の他者すべてと闘い続ける修羅の道を選んだ、いや、その道しか許されなかった異常人の姿を描くヒューマンドキュメンタリーなのです。まぁそりゃ、おもしろさを追求するわけにはいきませんよね。ドン引きする周囲の人を描かなきゃいけないもんねぇ。
 う~ん、シン・ウルトラマンは、ブッダであり、キリストであり、宮沢賢治であり、現代の即身仏であるのか。その常軌を逸した「身の捨てっぷり」に意味があるのか無いのかは、その死後に生きる人類全員でよく考えて決めるべきことなのだ……深いなぁ~!!

 つまり、庵野秀明さんは、21世紀も20年代に入ったこの令和の御世に「いまだかつて現れたことのなかった新たな異端児」を生み出し、その規格外の愛情、まごころを受け入れる覚悟が人類にあるのか、また、守られるに足る価値があるのかという問いを投げかけているわけなのです。
 だからまぁ~、『シン・ウルトラマン』の「シン」は、『新約聖書』のシンなんでしょうかねぇ。いかにも考察好き界隈がわきそうな連想なので、言うのもこっぱずかしいですが。本質的に、光の国のウルトラ兄弟と光の星のシン・ウルトラマンがまるで違う印象を持たせるのは、そういう理由だったんですね。要するに集団の幸せか個人の信念か。宗教が違うのです。

 そんなことよりもさぁ、私が気になってしょうがないのは、庵野脚本の次のようなとこなんっすよ、ええ!!


〇子どものいない世界『シン・ウルトラマン』

 ここ! ここがいちばん気になるポイント。
 なんでなんだろ……なんで『シン・ウルトラマン』には、子どもの姿がほとんど見えないんだろう!?
 冒頭でカミナガ隊員が助けたランドセル姿の小学生とか、メフィラス星人とカミナガ隊員が会話しているシーンで映っていた公園の子ども達とかは、ほぼ誰が演じてもいいようなモブ扱いでしたよね。あとはぜ~んぶ、いい歳こいたおじさんおばさん、政治家のおじいちゃんばっか! ヘタしたら20代の男女も、フナベリ隊員ぐらいでほとんどいなかったような。その若手枠のフナベリ隊員ですら、ミョ~に所帯じみた雰囲気の人物に描かれていたし。別に悪意はないんだろうけど、カメラのどこをどういじくったら早見あかりさんがあんなにもっさりして見えちゃうんだろうか!?

 そして、なんで!? なんで、メフィラス星人のエピソードをチョイスしておきながら、子どもが一切メインストーリーにからんでこないの!?
 わからない……庵野さんほどの特撮愛に満ちた方が、「メフィラス星人の相手に子どもを選ぶ」という天才・金城哲夫のアクロバティックな脚本の妙味を、なんでああも簡単に切り捨ててしまうのだろうか。おかげでシン・メフィラス星人のエピソードは、おそらくは金城哲夫が「それじゃおもしろくもなんともねぇな。」と回避していたつまんなさに見事ハマってしまったではありませんか。政治家ばっかでつまんねー!!

 庵野秀明さんにとって、「特撮世界における子ども」とは、一体どんな存在なのだろうか。いなくてもいいような軽さのものなのか? 『ウルトラマン』のホシノ少年は、『帰ってきたウルトラマン』の坂田次郎くんは、そして『ウルトラQ』の次郎少年(『ゴメスを倒せ!』)なり三郎少年(『鳥を見た』)なりピー子ちゃん(『虹の卵』)は、そんなにいとも簡単にカットしていいものなのか!?
 前回にも触れましたが、『シン・ウルトラマン』の冒頭の『シン・ウルトラQ』パートは、それこそサービス精神満載でテンポも最高な導入になったのですが、よくよく振り返ってみると、「あれ、リトラは?」とか「え、ぺギラ駆除されちゃったの?」とか、そもそも『ウルトラQ』最大の持ち味である「市井のなんでもない人々が力を合わせて天災に打ち克つ物語」がまるごと無いものにされている点で非常に納得のいかないものが残ります。そこを除去しといてゴメスがうんぬんパゴスがかんぬんと言われても、そんなの『ウルトラQ』をリブートしたとは言えないのです。
 まぁ、あの映像が、政府がいろいろ情報操作をしながら作成した外部向けの公的資料であると考えたらいいわけなんでしょうが、せめて一の谷研究所は科特隊にからんでこないとダメでしょ! 「地球にやってきた宇宙人第0号」の称号をセミ人間から奪っちゃうのも、大人げないよねぇ~。

 ともあれ、少なくとも『ウルトラQ』や『ウルトラマン』において、半世紀前に特撮作品を作っていた方々がいちばん大切にしていた部分は、そこにある「夢物語」としての荒唐無稽なワクワク感だったと思うのですが。当時の庵野少年だって、そこがあったから特撮の世界にすんなり入り込めたのではないのでしょうか。その要素を『シン・ウルトラマン』に取り入れないというのは……庵野さんは、次世代を担う特撮ファンを作ることには興味がないのか? そこがわからない!!
 それでいて、ぬけぬけと「空想特撮シリーズ」の御旗を振りかざすというのは、おこがましいにも程があるのでは? 『シン・ウルトラマン』のどこらへんに「空想」の悦びがあったというのでしょうか。一介の女子バレー選手が身長57m の怪獣とバレー対決を繰り広げ、どっかの寺子屋の塾講師の青年がロープとナイフだけで宇宙大怪獣改造ベムスターを瀕死に追い込む『ウルトラマンタロウ』でさえ「空想特撮シリーズ」の大名跡は襲わなかったんですよ!? そこらへんの重みをちゃんとわかっていただきたい。

 一方、樋口監督はというと巨大アサミ隊員のタイトスカートの中が見えたとか、女性の身体のにおいがどうとかで勝手に盛り上がる「思春期型特撮ファン」なていたらくという……なんだよその、文科系部室のダベリ場感!?
 『シン・ウルトラマン』と『シン・ゴジラ』を観比べるだに、樋口監督と庵野さんとでは、同じ「特撮愛」だとしても、それぞれのグッとくる観点と言いますか、それにあこがれている各人の「精神年齢」が違うような気がします。
 つまり、樋口監督は、それこそ中高生の部室のような、同好の士が集う限られた空間の中で「あれはああいう意味なんだよな!」とか「オレだったらあれはこういうアングルで撮りたいね!」と、時を忘れて語りつくす体験を、その特撮の才を愛でる最高のゆりかごとして育ってきたような「キャッチーさ」と「女性へのほのかな幻想」があるような気がします。それがこじれた結果が、巨大フジ隊員を気持ち悪くリブートした巨大アサミ隊員がらみの物議なのではないでしょうか。
 それに対して庵野さんはどうかといいますと、思春期以前の、ともかく異形で巨大なものに対する信仰に近い愛といいますか、自分があれこれアレンジしたいとかエッチに解釈したいとかいう邪念など生まれる余地もない、子どものような「あこがれ」と、その子どもの時に生まれて初めてゴジラやウルトラマンを観た時の自分自身の衝撃を、いかにして他者にわかってもらうのかという永遠のテーマに独りで取り組んでいる姿が、その才能の原点にあると思うのです。周囲の人間が大騒ぎしようがメッタメタに大批判されようが、庵野さんの作風に揺らぎがないのは、庵野さんの仕事の最終的な判定人が「庵野さんご本人」だからなのでしょう。この唯我独尊感は……スゴイ! っていうか、その姿がシン・ウルトラマンそのものじゃないか!!

 だからといって、ドラマの中に「生き生きと活躍する子ども」をいっさい登場させないというその態度は、逆にあまりにも子どもっぽ過ぎないか!? ウルトラマンの世界は庵野少年だけが独り占めってか! いやいやそこはさぁ、金城、千束、上原、市川、佐々木といったいくたのレジェンドさまの後ろ姿を拝して、ちょっとは子どもを空想世界にいざなうマネくらい、してもいいじゃねぇかよう! 今の子どもたちにも夢を見させてくれよ~!!
 でも、こういう作品を世に出してるのが当代随一のお2人なんですもんね……グウの音も出やしません。そんなに子どもを出したくないんだったら、『シン・ウルトラマン』じゃなくて『シン・恐竜・怪鳥の伝説』でもやったらよかったんじゃないですか? 東宝じゃないけど! 恐竜も怪鳥も出てこないけど!!

 ただ、「特撮博物館」というロマンたっぷりの大企画を現実化して、かつ大成功させたお2人のことなんですから、きっと、また別の作品で思いっきり子ども向けに振り切ったものを見せてくれるかも、っていう期待も持っちゃうんですよね。いつになるかわからないけど……
 もしよ? もし、庵野さんが、いつかあの『帰ってきたウルトラマン』をリブートするんだったら、それは子ども(次郎くん)を出さないわけにはいきませんよね。さすがにそこは入れるよなぁ!? まぁそこにいくまで、当面『ウルトラセブン』や『怪奇大作戦』で子どもが大いにフィーチャーされることはないかもしれないけれども。

 余談になりますが、今回の『シン・ウルトラマン』でも、「円谷プロのリブートと言ったらやっぱこれっしょ。」といった軽率さで、いわゆる実相寺アングルな画面構成が多用されていたのですが(科特隊基地でよく使われていた、やたら低い位置のデスク上や事務機器のスキ間から発言している人物を撮影しているカッティング)、これだって、子ども向け番組としての意味がちゃんとあると思うんですよ。
 創始者である実相寺昭雄監督自身がどう理論づけておられたのかはこの際おいておき、私として強く感じる印象を述べますと、あの画面構成は、明らかに「視聴者( TVの外側にいる人)」と「物語(ウルトラシリーズの世界)」にはっきりした境界線を引くものであり、人類文明や地球そのものの危機に対抗する世界有数のエリートたる地球防衛組織の隊員たちの極秘作戦を「枠外からのぞき見している感覚」から本能的な緊張感を引き出すという重要な効果があると思うのです。そして、そのアングルが大人の視点よりも意図的に低くなっている、こそこそと隠れながら見ているようになっているということは、視聴者全員が番組を観ているあいだだけ無意識のうちに「子ども」に還元されてしまうという、とんでもないトリック演出なわけなんですよ、たぶんね! あとあれよ、異常などアップで登場人物の顔を接写するのも、大人の身体が大きく見える子どもの感覚だからなんじゃない、たぶんよ!?
 あのヘンなアングルが、あまねく視聴者の子ども時代における、「オトナ同士の意味のよくわからない会話を盗み聞きしていた体験」にリンクするからこそ、単なる奇をてらった演出でなく、映像作品を手がける人間ならばなんとなくやってみたくなる魅力を持ち続けるものになっているのではないのでしょうか。
 ただ、だからといってまんま使用意図もわからずバンバン採用しちゃうと、今回の『シン・ウルトラマン』のように「あぁ~、ファンサービスね。」程度の残念な効果にとどまってしまうわけです。だって、巨大アサミ隊員のタイトスカートの中が気になったり、平和な時期が来たらいかにもそれっぽいけど中身が何にもないジャズBGM なんかが脳内に流れるような子どもなんかいないからです。子どもを徹底的に排除している人が使っていい演出方法ではないと思うんです、実相寺アングルって。もちろん、実相寺監督が子どもが観ていい作品ばっかりを作ってるわけないのは周知の事実で、そここそが実相寺昭雄の唯一無二の魔力の源泉であるわけなんですが。
 いろいろ言いましたけど、要するに私が言いたいのは、樋口監督が実相寺アングルをマネするなんて、分不相応にも程がある!!ってことなんであります。そんな暇があったらとっとと「実相寺アングル」、「中野爆発」、「川北ビーム」、「板野サーカス」みたいな「樋口なんちゃら」を創始していただきたいと。もしかしたらもうあるのかも知れませんが、寡聞にして私はまったく聞いたことがありません。「樋口絵コンテ」? でもそれ、完成作品じゃ見れないしねぇ。
 あと、これ別に樋口監督のせいじゃないかもしれないけど、科特隊のマスコットのぬいぐるみ、全然かわいくないんだよ! ちったぁ『ウルトラQ 星の伝説』(1990年)の実相寺ちな坊を見習えい!!

 あれか、庵野さんと樋口監督のお2人は、この『シン・ウルトラマン』を反面教師として、「 VS ゴジラシリーズ」に対する「平成ガメラ3部作」みたいな対抗新人が爆誕することを期待しているのかな!? その輪廻に、私は大いに期待した~い!!


 ……とまぁ、こんなわけで今回も2つの記事にわたりいろいろ言いたい放題やりましたが、やっぱり庵野さんのからむ作品は、コストパフォーマンスが素晴らしいですよね!! おもしろいおもしろくないは、ぶっちゃけ関係ない。
 作品の内容の賛否はこの際ほんとにどうでもよくて、結局それを起爆剤にして観た人の思索や、観た人たち同士の議論がこれだけ活発になされるというのは、やっぱり庵野さんの本質が、周囲の世界に嵐のような波風を沸き立たせる「台風の目」だからなんでしょう。
 そういう庵野さんの性質にとって、先人の遺産を磨き直す『シン』シリーズの商法は非常に水の合ったものなのでしょうが……そんなに「自分」がなくていいものなのかなぁ~、とちょっぴり心配になっちゃったりもしてしまいます。まぁ、エヴァンゲリオンがもうあるからいいやってスタンスなのでしょうか。

 お次の『シン・仮面ライダー』、予告編じゃそんな雰囲気はまるでなかったけど、今度こそ令和の子どもたちがワックワクするような作品を期待しておりますよ、庵野監督~!!

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2 コメント

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Unknown (mobilis-in-mobili)
2022-06-03 08:45:54
コメント入れようとしたら長くなりすぎたので自ブログ記事にしてしまいました。
(↓)こちらをご覧くださいませ~(失礼しました~)。
https://blog.goo.ne.jp/mobilis-in-mobili/e/19343367439455976cb332853dae5e47
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敵役もけっこう雑か…… (そうだい)
2022-06-05 10:40:34
 mobilis-in-mobili さま、ふたたびのコメントを、どうもありがとうございます!!

 貴方様のブログ記事を拝見いたしました。メフィラス星人の悪魔論になるほどと感嘆しました。ウルトラマンの異常性(人類とアリの関係、ほんとにそうですね!)にばかり夢中になって、メフィラス星人というキャラクターの本来の魅力が出ていなかったことに気づきませんでした。
 考えてみれば、2時間弱の物語の中でウルトラマンと人類との間にそんなに強固な信頼関係が生まれるはずもないので、にせウルトラマンの策略を弄するザラブ星人のエピソードを持ち込むのも、そうとうムリのある構成ではありましたよね。

 私個人の好きな『ウルトラマン』のエピソードから『シン・ウルトラマン』を構築するのならば、核兵器問題もからんんでくることだし、初代&2代目バルタン星人のエピソードをやってから3代目がらみでメフィラス星人編を最終エピソードとして用意する構成か、超シンプルに宇宙人ぬきの『怪獣無法地帯』&『怪獣殿下』(スフラン皆勤賞!)のザ・怪獣映画にしてほしかったような気がします。

 いずれにせよ、ああいう形で「もっとやべぇのが来たから撤退する」というメフィラス星人の退き方は、まったく彼らしくありませんでしたね。平成以降、なんだかんだいってメフィラス星人は軽く扱われすぎ! その点、『メフィラスの食卓』は非常に留飲の下がる傑作だったと激しく同意させていただきます。わかってるなぁ、円谷プロさん!!
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