ペペペ~イ。どうもー、そうだいでございます。
いや~、いよいよ暑くなってまいりましたねぇ! アイスがおいしい気温になってまいりました。
まだ梅雨はあけてないんですけど、ちょーっと扇子だけじゃあ乗り切れなくなってきちったかな!?
去年の夏にもこの『長岡京エイリアン』でさんざんっぱら言っていたんですが、うちの家には冷房になるものは扇風機しかありません。なんで、いろいろあって節電だ節電だと言われている昨今でも、おそらく私の生活は今までの夏の過ごし方とそんなに変わらないものになると思うんですけど、暑いのはヤだね~!
今年も扇子と扇風機と水ごりでやってきますかぁ~。クーラーとはいかないまでも、最近は扇風機よりももっと先鋭的で涼しくなるアイテムがあるんですよね? はねのないヤツとか。でもまぁ、古い扇風機も非常に味わいがあっていいんですよ。
最近は「古い扇風機から火が!」みたいなぶっそうなニュースもあるんですが、大丈夫。私は嗅覚にはちょっと自信があるんです。部品が焦げるにおいはすぐに察知できると思うから……たぶん!!
さぁさぁ、夏本番前にちゃっちゃと終わらせちゃいましょうかぁ、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」もね! いこういこう!
今回はモーニング娘。がいよいよ「本当のブレイク期」に入ることとなる1999年となるんですけれども、モーニング娘。をとりまく周辺の世界も、新たな時代をむかえつつありました。
1994年以来、数年に渡って続いてきた「小室哲哉プロデュース」ブームだったのですが、小室さんのプライベートでの彼女でありブームの代表的な顔でもあった華原朋美が1999年初頭から心身の疲労を理由に活動を休養するようになったころから、じょじょ~にその勢力も縮小を始めていくようになります。
ただ、トモちゃんと交替でスターダムにあがってきたような『ASAYAN』出身の新人歌手・鈴木あみのプロデュースによってまだまだ小室ファミリーの栄華は続くかのように見られたのですが、今度は2000年の末ごろにあみ~ゴが芸能事務所とのいざこざで活動を休止せざるをえなくなる事態となり、さらに2001年をもって、常に小室ファミリーの屋台骨であり続けていた安室奈美恵が小室プロデュースから離脱したことによって、5年以上続いていた「小室ブーム」は完全な終息をむかえることとなりました。小室さん自身はそれ以降もglobeとしての活動をコンスタントに続けていくのですが、21世紀の幕開けと入れ違いになるかのように、日本のアイドル界に影響を与える意味での小室さんの役割は終わりを告げたのです。
そんな流れの中で、新たに日本の音楽界、特にアイドル的な人気を博するという意味で重要な存在になったのが、女性ソロヴォーカルがめいめいのオリジナルな世界を力強く唄いあげて人気を集めるようになった「女性R&B(ディーヴァ)ブーム」でした。
だいたい、ディーヴァブーム関連で当時あった主なトピックはこんなもんだったでしょうか。
・宇多田ヒカル(15歳)が1998年12月にリリースしたデビューシングル『Automatic』がミリオンヒットとなる
・宇多田ヒカルが1999年3月にリリースした1stアルバム『First Love』が日本歌謡史上最高の860万枚セールスを記録する
・浜崎あゆみ(21歳)が1999年4月にリリースした7thシングル『Love Destiny』が自身初のオリコンチャート1位を記録する
・椎名林檎(21歳)が1999年10月にリリースした4thシングル『本能』が自身初のミリオンヒットとなる
・倉木麻衣(17歳)が1999年12月にリリースしたデビューシングル『Love,Day After Tomorrow』がミリオンヒットとなる
・小柳ゆき(18歳)が2000年7月にリリースした5thシングル『be alive』が自身初のオリコンチャート1位を記録する
・MISIA(ミーシャ 22歳)が2000年10月にリリースした7thシングル『Everything』が売り上げ200万枚のミリオンヒットとなる
こんな感じ。当然ですが、小室ブームとちがってそれぞれがそれぞれの個性を爆発させているので、「女性がソロで唄っている」というポイント以外には共通項はほとんどありません。
もちろんのように全員、武器は歌のみというスタイルではあったのですが、アイドル的な人気を得てもおかしくない容姿をした方々も多く、外見やライフスタイル、発言も含めて熱狂的なファンをつくりだすパワーはまさに、「アイドルでない新時代のアイドル」といったふぜいだったのではないでしょうか。
私、むかし「女優だった頃の」浜崎さんが出ていた映画を観たことあるんですけどねぇ、まさかあの作品でなに考えてるのかわからない情緒不安定な猫目少女を演じていたおねえちゃんが、1999年の初トップから10年以上日本の歌謡界に君臨し続ける歌姫になろうとはねぇ。苦労人だよぉ。
こういうディーヴァブームという新興勢力の台頭もありつつ、同時にあみ~ゴが最盛期を迎えることにもなった1999年だったのですが、アイドルグループというくくりにとってはどんな年になったのでしょうか。
当時のアイドルグループと言えばなんといってもSPEEDとモーニング娘。の2大勢力ということになるのですが、SPEEDは引き続きミリオン街道を驀進してはいたものの、この年から本格的にメンバー4人それぞれの歌手や女優としてのソロ活動が始まるようになり、ついに10月に解散が発表され、翌2000年3月いっぱいの活動をもって活動を終了させることとなりました。アイドルグループの中では楽曲累計売り上げ枚数1953万枚(2011年1月時点)という日本一の記録をほこる4人組にも休息の時がやってきたのです。
いっぽう、モーニング娘。のほうはといいますと、こちらはSPEEDについでアイドルグループとしては歴代第2位という楽曲累計売り上げ枚数1670万枚(これも2011年1月時点)という実績をほこっているのですが、まさしくこの大記録に向けて本域のジェットエンジンに火がつくこととなったのは、今回取り上げる1999年からのことだったのです。
前回にもたどったように、モーニング娘。にとって念願のメジャーデビュー1年目となった1998年は、その年の内にオリコン1位を獲得してあのNHK『紅白歌合戦』にも初出場するという、どこからどう見ても立派なブレイクを果たした年ではあったのですが、翌1999年の前半は不思議な沈静化を見せる時期となってしまいました。せっかく時流に乗ったかのように見えた「第1次モーニング娘。ブーム」は、早くもいったん終息してしまったのです。
原因となったのは、1999の年明けに突如として発表され、2月にリリースされた4thシングル『Memory 青春の光』をラストとして4月に現実のものとなってしまったメンバー福田明日香(15歳)の卒業でした。
のちに多くの「卒業生」を送り出すことになるモーニング娘。なのですが、史上初の卒業となる福田さんの時期にはまだ「卒業」と「脱退」の明確な使い分けは決まっておらず、当時のアナウンスなどでは「脱退」という言葉もよく使用されていたものの、両者の意味の違いがはっきりしている現在では福田さんは「卒業した」ということになっています。ちなみに現在の公式見解では、モーニング娘。史上「脱退した」メンバーは2名、それ以外は全員「卒業した」ということになっているんだそうです。さぁ、キミは誰と誰が脱退したのか知っているカナ~?
理由はいろいろとあるのでしょうが、15歳という若さで「卒業」そして「芸能界引退」という決断に踏み切った福田さんの意志は固く、モーニング娘。史上ただ1人、卒業以降現在に至るまで1度も芸能活動を再開したことのない元メンバーとなっています(TV番組の取材に応じたことはあり)。
非常に歌唱力が高く買われている方で卒業を惜しむ声も多かったのですが、ラストシングルとなる『Memory 青春の光』も、実に情感豊かないい曲ではあったのですが特に卒業とは関係のない失恋ソングだったりしたので、なんとなく盛り上がりのないしめっぽいままの別れとなったのは残念なことでした。
その後、7人メンバーとなったモーニング娘。は、結成当初からくらべてもさらにきれいに、さらに歌唱力がアップした安倍なつみさんをセンターにすえた体制を強化し、5月には定番のサマーソング5th『真夏の光線』、7月には里帰りと家族の絆を美しく唄う6th『ふるさと』を発表していくのですが、オリコン10位以内にはランクインするものの、いまひとつスマッシュヒットにはつながらない軽い停滞期に入ってしまいます。
おりあしく、同じ『ASAYAN』出身だった鈴木あみが『ふるさと』とほぼ同時にリリースした7thシングル『BE TOGETHER』で自身初のオリコン1位を獲得したこともあり、さらにその勢いの差がきわだってしまう事態となってしまいました。
いや~でもねぇ、この時期を「停滞だ低迷だ」と言うのはあくまでもセールス面だけでの話であってですね、曲はどれもこれも素晴らしい出来ですよ。つんくさんの作曲センスも1歩さがったひかえめさがあってモーニング娘。の味わいを引き立たせているし、成熟したなっちのヴォーカルとメンバーのコーラスのバランスは非常にきれい。ひいきめに見なくてもモーニング娘。は、アイドルグループとしてだけでなく歌手グループとしての魅力もしっかりそなえ始めていました。
そして、このころからモーニング娘。は、同じ『ASAYAN』のオーディション企画出身で、つんくプロデュース、アップフロントエージェンシー所属のアイドルグループを仲間に加えていくこととなります。
こんなみなさん。
太陽とシスコムーン(1999年2月~2000年10月)4人組
22~27歳 稲葉貴子(あつこ 25歳)・RuRu(23歳)ら
『ASAYAN』での芸能経験のある女性を対象としたオーディションにより結成
元大阪パフォーマンスドールの稲葉、中国で芸能活動をしていたRuRu、元オリンピック体操選手、民謡の家元の4名
アダルトな雰囲気で楽曲の完成度が高い
2000年には「T&Cボンバー」に改称していた
8枚のシングルと2枚のオリジナルアルバムをリリースするがさほどヒットせず解散
2009年に一時再結成する(RuRuは母国中国での芸能活動のため不参加)
現在は稲葉以外の3名が芸能活動を続けている(ハロー!プロジェクトからは離脱)
代表曲 1st『月と太陽』(1999年4月)
ココナッツ娘。(1999年3月~2008年4月)1~5名
15~18歳 ミカ(15歳)・アヤカ(18歳)ら
『ASAYAN』のオーディション企画により結成
ハワイ出身のメンバーによるアイドルグループ(アヤカは日本人、ミカは日米ハーフ)
5枚のシングルをリリースするがヒットせず
2000年から主に学業優先の理由でメンバーの脱退があいつぎ、2002年にはミカとアヤカのデュオ、04年にはアヤカのみの在籍となっていた
2008年にアヤカがハロー!プロジェクトを離脱したため自然消滅
現在は日本で芸能活動をしているメンバーはいない(アヤカはプロゴルファー谷原秀人と結婚)
カントリー娘。(1999年4月~)1~3名
16~18歳
『ASAYAN』のオーディションにより結成
1999~2003年は田中義剛が活動をプロデュースしており、北海道で田中の経営する花畑牧場に勤務しながらの「半農半芸」の生活を送っていた
2003年につんく♂がプロデュースを引きついでからは東京での芸能活動に専念している
メンバーは当初3名だったが、CDデビュー直前に1名が事故死してしまいデュオでの活動開始となる
メンバーの入れ替わりがはげしく、2002年には結成メンバーはいなくなっている
カントリー娘。単独での楽曲はインディーズ時代にしかリリースしていない
インディーズ・メジャーあわせて11枚のシングルと2枚のオリジナルアルバムをリリースしているが、2001年のメジャーデビュー以後は石川梨華など、モーニング娘。のメンバーをゲストヴォーカルに加えた楽曲
2002年に里田まい(18歳)が加入し、2007年に残りのメンバーがハロー!プロジェクトを離脱したためにそれ以降は里田のみの在籍となる
里田は2009年にハロー!プロジェクトから離脱するが、「カントリー娘。」は解散していない
現在は里田と元結成メンバーの小林梓のみが芸能活動を続けている(ハロー!プロジェクトではない)
代表曲 メジャー1st『初めてのハッピーバースディ!』(2001年4月 石川梨華と)
メロン記念日(1999年8月~2010年5月)4人組
15~18歳 村田めぐみ(15歳)・柴田あゆみ(18歳)ら
『ASAYAN』のオーディション企画により結成
ハロー!プロジェクト陣営としては珍しく結成から解散まで一貫してメンバーが変わらなかったグループ
ライヴでのパフォーマンス力は充分にあったのだがCDはさほどヒットせず
結成当初は「モーニング娘。の妹分」というふれこみだったが、いつのまにか「お姉さん」になっていた
2006年以降はつんく♂以外のアーティストによる楽曲提供をうけている
2008年以降は月1回ペースでのライヴを活動の中心としていた
2010年5月の東京・中野サンプラザライヴをもって解散しているが、2011年にも一時再結成している
※発表したシングルはインディーズ・メジャーあわせて18枚、アルバムはオリジナル・ミニあわせて4枚
現在は柴田と大谷雅恵の2名が芸能活動を続けている(どちらもハロー!プロジェクトからは離脱)
代表作 8th『赤いフリージア』(2003年1月 自身最高のオリコン10位入り)
いろんな方々がいたんですなぁ。
残念ながら、1999年に結成されたグループの中では単独でモーニング娘。にならぶCDセールスを記録できた人たちはいなかったのですが、実力派のベテラン(失礼?)がそろった太陽とシスコムーンに異国のトロピカルなイメージを導入したココ娘。、アイドル活動に農業を取り入れるという『もやしもん』もビックリな挑戦にいどんだカン娘。にライヴ活動による距離感の近さをうりにしたメロン記念日と、実に多彩なこころみがモーニング娘。の周辺ではなされていたのです。
メロン記念日って、つい最近までやってたんですね。見あげたもんだよおっかさん!
そして、それらのグループをおもにライヴのかたちでひとくくりにしたドリームチーム的なまとまりも、1999年ごろから具体的に形成されていくこととなります。
それがこれ。
ハロー!プロジェクト(1999年4月~)
アップフロントエージェンシーに所属するつんく♂プロデュースの女性タレント(主にアイドル)の総称
※つんく♂のプロデュースするアーティストが全員ハロー!プロジェクトに所属しているわけではない
もともとは1998年1月にメジャーデビューした平家みちよとモーニング娘。の合同ファンクラブ「ハロー!」の名前が1999年4月に改称されたものだった
1999年7月の合同コンサート「ハロー!プロジェクト'99 at 横浜アリーナ」のタイトルになった頃からのグループ全体のことも意味するようになる
※開設時点では平家・モーニング娘。・太陽とシスコムーン・ココナッツ娘。・カントリー娘。が所属
1999年の時点ですでにかなりの大所帯だったハロー!プロジェクトですが、ここからますます人数が増えていくこととなります。まさしくつい最近まで、「日本の女性アイドルと言えばハロプロだろ!」という時代が続いていたんですなぁ。
さて、こうしてじょじょに拡大することとなったつんくさん率いるハロー!プロジェクト陣営だったのですが、依然として一家の稼ぎ頭ではあったものの、モーニング娘。はいまひとつ1ランク上のネクストステージに踏み出せない空気が続いていました。
1999年上半期のモーニング娘。は、まさに1997年の試練の中から誕生したモーニング娘。と地続きの存在となっており、結成当初から彼女たちが積み重ねてきたキャリアというか、情緒の積み重ねのようなものを、彼女たちの歌唱法もつんくさんの楽曲づくりもひっくるめて持ち続けていたところはあったと思うんですね。それがとりもなおさず当時のモーニング娘。のオリジナルカラーにもなっていたわけなのですが、悪い言い方をすれば「限界」になっていたんじゃないかと。ちょっと感情の込めかたが重いんだなぁ。
特に、常にセンターにい続けていたなっちの表情、身のこなし、そして歌にはどことなくうわついたことができない節度と落ち着きがあり、それが、そういった月光のような、色で言うと「シルヴァー」のような輝き方がなんとなくのブレーキになりつつあったのではないでしょうか。
そして、この局面を打開してモーニング娘。が「なっちのいるアイドルグループ」という存在から「国民的な絶対的人気を獲得するアイドルグループ」へとメタモルフォーゼするためには、ある意味で「これまでのモーニング娘。のなりたち」という部分の空気を読まない新たなる起爆剤が必要だったのです。
「空気を読まない」。それはまさにスターのあかし。当時のモーニング娘。に足りなかったのは、ちょっと下品に見えてもいいくらいにギラギラと輝きをはなつ黄金、「ゴールド」のような存在だったのです。
そして、まさしく「念ずれば華ひらく」。
モーニング娘。を次のステージへといざなうこととなった「ゴールド」は、その年の8月に開催された「モーニング娘。第2回追加オーディション」で採掘されることとなったのでありました。
きたきたきた~!! やってくる。後藤さんがやってくる。
いよいよ始まる『LOVEマシーン』のギンギンギラギラブレイク編は、また次回のココロだ~。
……ここ数回、半年ぶんずつしか進んでいない。
いや~、いよいよ暑くなってまいりましたねぇ! アイスがおいしい気温になってまいりました。
まだ梅雨はあけてないんですけど、ちょーっと扇子だけじゃあ乗り切れなくなってきちったかな!?
去年の夏にもこの『長岡京エイリアン』でさんざんっぱら言っていたんですが、うちの家には冷房になるものは扇風機しかありません。なんで、いろいろあって節電だ節電だと言われている昨今でも、おそらく私の生活は今までの夏の過ごし方とそんなに変わらないものになると思うんですけど、暑いのはヤだね~!
今年も扇子と扇風機と水ごりでやってきますかぁ~。クーラーとはいかないまでも、最近は扇風機よりももっと先鋭的で涼しくなるアイテムがあるんですよね? はねのないヤツとか。でもまぁ、古い扇風機も非常に味わいがあっていいんですよ。
最近は「古い扇風機から火が!」みたいなぶっそうなニュースもあるんですが、大丈夫。私は嗅覚にはちょっと自信があるんです。部品が焦げるにおいはすぐに察知できると思うから……たぶん!!
さぁさぁ、夏本番前にちゃっちゃと終わらせちゃいましょうかぁ、「ざっくりすぎるアイドルグループ史」もね! いこういこう!
今回はモーニング娘。がいよいよ「本当のブレイク期」に入ることとなる1999年となるんですけれども、モーニング娘。をとりまく周辺の世界も、新たな時代をむかえつつありました。
1994年以来、数年に渡って続いてきた「小室哲哉プロデュース」ブームだったのですが、小室さんのプライベートでの彼女でありブームの代表的な顔でもあった華原朋美が1999年初頭から心身の疲労を理由に活動を休養するようになったころから、じょじょ~にその勢力も縮小を始めていくようになります。
ただ、トモちゃんと交替でスターダムにあがってきたような『ASAYAN』出身の新人歌手・鈴木あみのプロデュースによってまだまだ小室ファミリーの栄華は続くかのように見られたのですが、今度は2000年の末ごろにあみ~ゴが芸能事務所とのいざこざで活動を休止せざるをえなくなる事態となり、さらに2001年をもって、常に小室ファミリーの屋台骨であり続けていた安室奈美恵が小室プロデュースから離脱したことによって、5年以上続いていた「小室ブーム」は完全な終息をむかえることとなりました。小室さん自身はそれ以降もglobeとしての活動をコンスタントに続けていくのですが、21世紀の幕開けと入れ違いになるかのように、日本のアイドル界に影響を与える意味での小室さんの役割は終わりを告げたのです。
そんな流れの中で、新たに日本の音楽界、特にアイドル的な人気を博するという意味で重要な存在になったのが、女性ソロヴォーカルがめいめいのオリジナルな世界を力強く唄いあげて人気を集めるようになった「女性R&B(ディーヴァ)ブーム」でした。
だいたい、ディーヴァブーム関連で当時あった主なトピックはこんなもんだったでしょうか。
・宇多田ヒカル(15歳)が1998年12月にリリースしたデビューシングル『Automatic』がミリオンヒットとなる
・宇多田ヒカルが1999年3月にリリースした1stアルバム『First Love』が日本歌謡史上最高の860万枚セールスを記録する
・浜崎あゆみ(21歳)が1999年4月にリリースした7thシングル『Love Destiny』が自身初のオリコンチャート1位を記録する
・椎名林檎(21歳)が1999年10月にリリースした4thシングル『本能』が自身初のミリオンヒットとなる
・倉木麻衣(17歳)が1999年12月にリリースしたデビューシングル『Love,Day After Tomorrow』がミリオンヒットとなる
・小柳ゆき(18歳)が2000年7月にリリースした5thシングル『be alive』が自身初のオリコンチャート1位を記録する
・MISIA(ミーシャ 22歳)が2000年10月にリリースした7thシングル『Everything』が売り上げ200万枚のミリオンヒットとなる
こんな感じ。当然ですが、小室ブームとちがってそれぞれがそれぞれの個性を爆発させているので、「女性がソロで唄っている」というポイント以外には共通項はほとんどありません。
もちろんのように全員、武器は歌のみというスタイルではあったのですが、アイドル的な人気を得てもおかしくない容姿をした方々も多く、外見やライフスタイル、発言も含めて熱狂的なファンをつくりだすパワーはまさに、「アイドルでない新時代のアイドル」といったふぜいだったのではないでしょうか。
私、むかし「女優だった頃の」浜崎さんが出ていた映画を観たことあるんですけどねぇ、まさかあの作品でなに考えてるのかわからない情緒不安定な猫目少女を演じていたおねえちゃんが、1999年の初トップから10年以上日本の歌謡界に君臨し続ける歌姫になろうとはねぇ。苦労人だよぉ。
こういうディーヴァブームという新興勢力の台頭もありつつ、同時にあみ~ゴが最盛期を迎えることにもなった1999年だったのですが、アイドルグループというくくりにとってはどんな年になったのでしょうか。
当時のアイドルグループと言えばなんといってもSPEEDとモーニング娘。の2大勢力ということになるのですが、SPEEDは引き続きミリオン街道を驀進してはいたものの、この年から本格的にメンバー4人それぞれの歌手や女優としてのソロ活動が始まるようになり、ついに10月に解散が発表され、翌2000年3月いっぱいの活動をもって活動を終了させることとなりました。アイドルグループの中では楽曲累計売り上げ枚数1953万枚(2011年1月時点)という日本一の記録をほこる4人組にも休息の時がやってきたのです。
いっぽう、モーニング娘。のほうはといいますと、こちらはSPEEDについでアイドルグループとしては歴代第2位という楽曲累計売り上げ枚数1670万枚(これも2011年1月時点)という実績をほこっているのですが、まさしくこの大記録に向けて本域のジェットエンジンに火がつくこととなったのは、今回取り上げる1999年からのことだったのです。
前回にもたどったように、モーニング娘。にとって念願のメジャーデビュー1年目となった1998年は、その年の内にオリコン1位を獲得してあのNHK『紅白歌合戦』にも初出場するという、どこからどう見ても立派なブレイクを果たした年ではあったのですが、翌1999年の前半は不思議な沈静化を見せる時期となってしまいました。せっかく時流に乗ったかのように見えた「第1次モーニング娘。ブーム」は、早くもいったん終息してしまったのです。
原因となったのは、1999の年明けに突如として発表され、2月にリリースされた4thシングル『Memory 青春の光』をラストとして4月に現実のものとなってしまったメンバー福田明日香(15歳)の卒業でした。
のちに多くの「卒業生」を送り出すことになるモーニング娘。なのですが、史上初の卒業となる福田さんの時期にはまだ「卒業」と「脱退」の明確な使い分けは決まっておらず、当時のアナウンスなどでは「脱退」という言葉もよく使用されていたものの、両者の意味の違いがはっきりしている現在では福田さんは「卒業した」ということになっています。ちなみに現在の公式見解では、モーニング娘。史上「脱退した」メンバーは2名、それ以外は全員「卒業した」ということになっているんだそうです。さぁ、キミは誰と誰が脱退したのか知っているカナ~?
理由はいろいろとあるのでしょうが、15歳という若さで「卒業」そして「芸能界引退」という決断に踏み切った福田さんの意志は固く、モーニング娘。史上ただ1人、卒業以降現在に至るまで1度も芸能活動を再開したことのない元メンバーとなっています(TV番組の取材に応じたことはあり)。
非常に歌唱力が高く買われている方で卒業を惜しむ声も多かったのですが、ラストシングルとなる『Memory 青春の光』も、実に情感豊かないい曲ではあったのですが特に卒業とは関係のない失恋ソングだったりしたので、なんとなく盛り上がりのないしめっぽいままの別れとなったのは残念なことでした。
その後、7人メンバーとなったモーニング娘。は、結成当初からくらべてもさらにきれいに、さらに歌唱力がアップした安倍なつみさんをセンターにすえた体制を強化し、5月には定番のサマーソング5th『真夏の光線』、7月には里帰りと家族の絆を美しく唄う6th『ふるさと』を発表していくのですが、オリコン10位以内にはランクインするものの、いまひとつスマッシュヒットにはつながらない軽い停滞期に入ってしまいます。
おりあしく、同じ『ASAYAN』出身だった鈴木あみが『ふるさと』とほぼ同時にリリースした7thシングル『BE TOGETHER』で自身初のオリコン1位を獲得したこともあり、さらにその勢いの差がきわだってしまう事態となってしまいました。
いや~でもねぇ、この時期を「停滞だ低迷だ」と言うのはあくまでもセールス面だけでの話であってですね、曲はどれもこれも素晴らしい出来ですよ。つんくさんの作曲センスも1歩さがったひかえめさがあってモーニング娘。の味わいを引き立たせているし、成熟したなっちのヴォーカルとメンバーのコーラスのバランスは非常にきれい。ひいきめに見なくてもモーニング娘。は、アイドルグループとしてだけでなく歌手グループとしての魅力もしっかりそなえ始めていました。
そして、このころからモーニング娘。は、同じ『ASAYAN』のオーディション企画出身で、つんくプロデュース、アップフロントエージェンシー所属のアイドルグループを仲間に加えていくこととなります。
こんなみなさん。
太陽とシスコムーン(1999年2月~2000年10月)4人組
22~27歳 稲葉貴子(あつこ 25歳)・RuRu(23歳)ら
『ASAYAN』での芸能経験のある女性を対象としたオーディションにより結成
元大阪パフォーマンスドールの稲葉、中国で芸能活動をしていたRuRu、元オリンピック体操選手、民謡の家元の4名
アダルトな雰囲気で楽曲の完成度が高い
2000年には「T&Cボンバー」に改称していた
8枚のシングルと2枚のオリジナルアルバムをリリースするがさほどヒットせず解散
2009年に一時再結成する(RuRuは母国中国での芸能活動のため不参加)
現在は稲葉以外の3名が芸能活動を続けている(ハロー!プロジェクトからは離脱)
代表曲 1st『月と太陽』(1999年4月)
ココナッツ娘。(1999年3月~2008年4月)1~5名
15~18歳 ミカ(15歳)・アヤカ(18歳)ら
『ASAYAN』のオーディション企画により結成
ハワイ出身のメンバーによるアイドルグループ(アヤカは日本人、ミカは日米ハーフ)
5枚のシングルをリリースするがヒットせず
2000年から主に学業優先の理由でメンバーの脱退があいつぎ、2002年にはミカとアヤカのデュオ、04年にはアヤカのみの在籍となっていた
2008年にアヤカがハロー!プロジェクトを離脱したため自然消滅
現在は日本で芸能活動をしているメンバーはいない(アヤカはプロゴルファー谷原秀人と結婚)
カントリー娘。(1999年4月~)1~3名
16~18歳
『ASAYAN』のオーディションにより結成
1999~2003年は田中義剛が活動をプロデュースしており、北海道で田中の経営する花畑牧場に勤務しながらの「半農半芸」の生活を送っていた
2003年につんく♂がプロデュースを引きついでからは東京での芸能活動に専念している
メンバーは当初3名だったが、CDデビュー直前に1名が事故死してしまいデュオでの活動開始となる
メンバーの入れ替わりがはげしく、2002年には結成メンバーはいなくなっている
カントリー娘。単独での楽曲はインディーズ時代にしかリリースしていない
インディーズ・メジャーあわせて11枚のシングルと2枚のオリジナルアルバムをリリースしているが、2001年のメジャーデビュー以後は石川梨華など、モーニング娘。のメンバーをゲストヴォーカルに加えた楽曲
2002年に里田まい(18歳)が加入し、2007年に残りのメンバーがハロー!プロジェクトを離脱したためにそれ以降は里田のみの在籍となる
里田は2009年にハロー!プロジェクトから離脱するが、「カントリー娘。」は解散していない
現在は里田と元結成メンバーの小林梓のみが芸能活動を続けている(ハロー!プロジェクトではない)
代表曲 メジャー1st『初めてのハッピーバースディ!』(2001年4月 石川梨華と)
メロン記念日(1999年8月~2010年5月)4人組
15~18歳 村田めぐみ(15歳)・柴田あゆみ(18歳)ら
『ASAYAN』のオーディション企画により結成
ハロー!プロジェクト陣営としては珍しく結成から解散まで一貫してメンバーが変わらなかったグループ
ライヴでのパフォーマンス力は充分にあったのだがCDはさほどヒットせず
結成当初は「モーニング娘。の妹分」というふれこみだったが、いつのまにか「お姉さん」になっていた
2006年以降はつんく♂以外のアーティストによる楽曲提供をうけている
2008年以降は月1回ペースでのライヴを活動の中心としていた
2010年5月の東京・中野サンプラザライヴをもって解散しているが、2011年にも一時再結成している
※発表したシングルはインディーズ・メジャーあわせて18枚、アルバムはオリジナル・ミニあわせて4枚
現在は柴田と大谷雅恵の2名が芸能活動を続けている(どちらもハロー!プロジェクトからは離脱)
代表作 8th『赤いフリージア』(2003年1月 自身最高のオリコン10位入り)
いろんな方々がいたんですなぁ。
残念ながら、1999年に結成されたグループの中では単独でモーニング娘。にならぶCDセールスを記録できた人たちはいなかったのですが、実力派のベテラン(失礼?)がそろった太陽とシスコムーンに異国のトロピカルなイメージを導入したココ娘。、アイドル活動に農業を取り入れるという『もやしもん』もビックリな挑戦にいどんだカン娘。にライヴ活動による距離感の近さをうりにしたメロン記念日と、実に多彩なこころみがモーニング娘。の周辺ではなされていたのです。
メロン記念日って、つい最近までやってたんですね。見あげたもんだよおっかさん!
そして、それらのグループをおもにライヴのかたちでひとくくりにしたドリームチーム的なまとまりも、1999年ごろから具体的に形成されていくこととなります。
それがこれ。
ハロー!プロジェクト(1999年4月~)
アップフロントエージェンシーに所属するつんく♂プロデュースの女性タレント(主にアイドル)の総称
※つんく♂のプロデュースするアーティストが全員ハロー!プロジェクトに所属しているわけではない
もともとは1998年1月にメジャーデビューした平家みちよとモーニング娘。の合同ファンクラブ「ハロー!」の名前が1999年4月に改称されたものだった
1999年7月の合同コンサート「ハロー!プロジェクト'99 at 横浜アリーナ」のタイトルになった頃からのグループ全体のことも意味するようになる
※開設時点では平家・モーニング娘。・太陽とシスコムーン・ココナッツ娘。・カントリー娘。が所属
1999年の時点ですでにかなりの大所帯だったハロー!プロジェクトですが、ここからますます人数が増えていくこととなります。まさしくつい最近まで、「日本の女性アイドルと言えばハロプロだろ!」という時代が続いていたんですなぁ。
さて、こうしてじょじょに拡大することとなったつんくさん率いるハロー!プロジェクト陣営だったのですが、依然として一家の稼ぎ頭ではあったものの、モーニング娘。はいまひとつ1ランク上のネクストステージに踏み出せない空気が続いていました。
1999年上半期のモーニング娘。は、まさに1997年の試練の中から誕生したモーニング娘。と地続きの存在となっており、結成当初から彼女たちが積み重ねてきたキャリアというか、情緒の積み重ねのようなものを、彼女たちの歌唱法もつんくさんの楽曲づくりもひっくるめて持ち続けていたところはあったと思うんですね。それがとりもなおさず当時のモーニング娘。のオリジナルカラーにもなっていたわけなのですが、悪い言い方をすれば「限界」になっていたんじゃないかと。ちょっと感情の込めかたが重いんだなぁ。
特に、常にセンターにい続けていたなっちの表情、身のこなし、そして歌にはどことなくうわついたことができない節度と落ち着きがあり、それが、そういった月光のような、色で言うと「シルヴァー」のような輝き方がなんとなくのブレーキになりつつあったのではないでしょうか。
そして、この局面を打開してモーニング娘。が「なっちのいるアイドルグループ」という存在から「国民的な絶対的人気を獲得するアイドルグループ」へとメタモルフォーゼするためには、ある意味で「これまでのモーニング娘。のなりたち」という部分の空気を読まない新たなる起爆剤が必要だったのです。
「空気を読まない」。それはまさにスターのあかし。当時のモーニング娘。に足りなかったのは、ちょっと下品に見えてもいいくらいにギラギラと輝きをはなつ黄金、「ゴールド」のような存在だったのです。
そして、まさしく「念ずれば華ひらく」。
モーニング娘。を次のステージへといざなうこととなった「ゴールド」は、その年の8月に開催された「モーニング娘。第2回追加オーディション」で採掘されることとなったのでありました。
きたきたきた~!! やってくる。後藤さんがやってくる。
いよいよ始まる『LOVEマシーン』のギンギンギラギラブレイク編は、また次回のココロだ~。
……ここ数回、半年ぶんずつしか進んでいない。
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