長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第22回 「備中国 鬼ノ城」  デカすぎ……過ぎたるはなほ及ばざるがごとし~!

2013年04月30日 22時45分46秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 早朝に深夜バスで岡山駅に降り立ち、午前7時半に JR吉備線の服部駅を徒歩で出発。
 そこから、苦節4時間半……途中での思わぬ伏兵・経山城(きょうやまじょう)の強襲や、目的地を目前にしての突如の「スウィート鬼ホーム」ゾーンへのバシルーラ、さらにそのコースから秘境・重田池(じゅうだいけ)への寄り道といった(かってに自分で設定した)さまざまな困難を乗り越えて、ついにそうだいは目指す最大の要衝・鬼ノ城(きのじょう)へとかえってきた!! やったぜベイビィイイ。
 だが、しかし。ここまでの(かってに自分で強いてきた)艱難辛苦の末にたどり着いた鬼ノ城が、普通のお城であっていいはずが、ない!
 そうだいの眼前にその威容を現した鬼ノ城はまさに、日本の城郭の概念を軽くくつがえす「異形の城」だったのだ……


 キリのいい午前12時。ついに念願の鬼ノ城に入城! 脚はもうすでにガッタガタだけど、いっくぞ~☆

 鬼ノ城の敷地の中で私が最初にたどり着いたのは、城の東西南北に1ヶ所ずつ設けられた城門の中でも、東門と同じように小規模に造られていた掘立柱式の「北門」でした。鬼ノ城は比較的なだらかな鬼ノ城山山頂の丘陵地帯に築城されているのですが、北門区域は中でも最も低い位置にあります。

 そのためもあってなのか、この北門は間口4m ということで確かに小さめな通用口といった規模にはなっているのですが、まさに「全力で弱点をおぎなえ!」といわんばかりの力の入れようで、標高が低いために比較的どの城門よりも攻めのぼりやすいこの地点の防御がなされていました。
 まず目立つのは、北門のドまん前にあえて造られていた高さ2m の段差でした。ここには石垣と自然の傾斜をうまく利用して、北門から入城する際にわざわざよじ登らなければならない構造がもうけられているのです。要するに、城壁の中の中途半端な高さの場所にわざと入り口があるわけなんですね。これはウザい!
 これは、「懸門(けんもん)」という古代朝鮮半島の築城技術に多用されていたテクニックのようで、平時にこの懸門には木製の階段やはしごのようなものが架けられているのですが、非常時にはそれらをとっぱらって攻城側の兵の侵入を困難にさせる効果があったというわけなのです。なるほどね~! 現在の北門には、観光客用の木製のステップが常設されています。

 この懸門構造は、どうやら鬼ノ城と同じ飛鳥時代に築城されたという12の古代山城や、その他の「神籠石(こうごいし)式山城」の中ではよく活用されていた技術だったらしいのですが、それ以降の日本の城郭の歴史の中ではトンと忘れ去られたものになっていました。
 これはおそらく、城門を城壁(石垣)の中に一体化させるという大陸式の築城法がその後の日本に根付かず、城門は城門で独立させて城壁とは別に建築する工法が広まっていったからだったのではないのでしょうか。たぶん、石垣を大量投入することができない地域が多かったとか、城門を別に造ったほうが移転や修築が簡単だとか、城門をさらに強化して1個の軍事拠点(やぐらやトーチカ)にするとかいう日本の事情や考え方とはそぐわなかったんでしょうね。

 それにしても、小さいながらも懸門を中心にして左右に堅固な城壁が展開されている北門は、下から攻めてくる兵からすればかなり攻めにくい地形になっていることは間違いなく、通常、攻撃されることが予想される平地側(瀬戸内海側)からは真裏に当たるこの北門区域も、しっかり油断せずに守りが固められているという雰囲気になっていました。いいね、いいね~!

 前回の説明文にも記されていた通り、鬼ノ城は「すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く」という、山がはちまきを巻いたような構造になっており、その点でも、本丸・二ノ丸・三ノ丸といった「小さな丸」がいくつもつながってブドウのように構成されているパターンの多い日本の山城とはまるで様子の違う、中国・朝鮮半島もしくはヨーロッパのお城のような外観をなしています。とにかく城壁でぐるっと囲んでみました! みたいな。
 現在は、2.8km にわたって築かれていたという城壁のうちのごく一部しか復元されていないのですが、それでも、鬼ノ城の城壁のとらえ方が、いかに戦国時代の日本のお城と違うスケールのものになっていたのかは充分にうかがい知ることができます。

 この城壁によって囲まれた区域の総面積は約30ヘクタール。30ヘクタール!? つまりは30万平方メートルっすか!!

 これはものすごい広さなんですよ……まず、TV とかでこういう面積の話題をするときに必ず引き合いに出されて、その割にはいまいちピンと来ない比較で言いますと、「東京ドーム(およそ4.7ヘクタール)6.4コぶん」。うわ~ん、やっぱりピンとこないよう!

 最近、この『全国城めぐり宣言』で行ってみたお城を比較するのならば、お隣の経山城は「0.8ヘクタール」で、前回(の、予定)お世話になった備中高松城址公園は「6ヘクタール」。現在復元されている岡山城の城域と後楽園を合わせた面積が「20ヘクタール」ということになるので、鬼ノ城は今の岡山市にある岡山城一帯よりも広いということになるのです。行ったことのある方ならよくおわかりかと思いますが、これは広いですよ~!! ちなみに、かつて、あの小早川秀秋が城主だった時代に、いちばんの外堀に当たる二十日堀を完成させて「総構え(そうがまえ 城郭の主要な建造物だけでなく、城域のもっとも外側の防衛ラインにあたる砦や、城下町一帯も含めて外周を堀や石垣、土塁で囲い込んだ内部のすべてを含めた区域のこと)」を最大規模に拡張させた当時の岡山城の面積は「およそ100ヘクタール」あったと思われますので、それにはさすがに負けておりますが。さらにちなみに、戦国時代の備中高松城の総構えは「13ヘクタール」。


 ついでなので、いろんな東西の超有名なお城の面積を比較してみますと、

江戸城         …… 総構え2130ヘクタール(現在の皇居は115ヘクタール)
豊臣秀吉時代の大坂城  …… 総構え500ヘクタール(現在の大阪城公園は105ヘクタール)
後北条家時代の小田原城 …… 総構え675ヘクタール(現在の小田原城址公園は22ヘクタール)
故宮(紫禁城)     …… 総構え7800ヘクタール(現在の故宮は72.5ヘクタール)
ヴェルサイユ宮殿    …… 総構え2473ヘクタール(建造物の総面積は195.4ヘクタール)
バッキンガム宮殿    …… 総構え14ヘクタール(宮殿本体は4.3ヘクタール)
ウインザー離宮     …… 総構え21ヘクタール(宮殿本体は4.5ヘクタール)
シェーンブルン宮殿   …… 総構え168ヘクタール(宮殿本体は3.2ヘクタール)

 こんな感じらしいんですが……世界は広いやねェ~!!
 注意しておきますけど、これをパッと見て「バッキンガム宮殿、ちっちゃ!」とか思ったらあきませんよ!? もともとイギリスのこれらの宮殿には、「城郭の中に家来や民衆の家屋を囲い込む」という概念はないんですから。ある一族オンリーのお住まいという考え方でいくのならば、これ以上ないくらいに広いんです。
 もう、江戸城とか小田原城は都市をまるごと抱えているといって差し支えのない面積なんでございますよ……その最たるものが北京の紫禁城、というか「北京城」であるわけでして。やっぱり中華帝国はハンパない! ヴェルサイユもものすごいけどね~。

 話を戻しますが、そういったお歴々は世界にはいらっしゃるものの、やっぱり鬼ノ城の30ヘクタールというのはまったく規格外なだだっ広さで、さほど「政庁」的な機能は果たしていなかったと思われる純粋な「防衛基地」としては異常すぎるスケールを誇っていたのでした。これはやっぱり、7世紀当時にこの吉備地方を治めていた地方豪族が築城したというレベルではなく、それもひっくるめて本州を支配していた飛鳥朝廷(大和王権)が「国家的一大事業」として全力をあげて建設したもの……だったんでしょうねぇ。とにかく城全体、とくに城壁の構造から感じられる気合いの入り方がケタ違いなんですね。

 また、鬼ノ城の北門の通路は石造りの床になっているのですが、そこにしっかりと「排水溝」がもうけられているのにも驚きました。まさに当時の建築技術の粋を凝らしたというハイテク感がありますねぇ。とにかく「石」を多用した外観が、日本よりもローマ帝国の遺跡をほうふつとさせるエキゾチックな空気をかもし出しています。

 さて、私が入城した時間帯が陽光さんさんたる正午だったこともあって、鬼ノ城内には平日月曜日であるにもかかわらず観光客がけっこう入っており、老人会のような集まり、親子連れ、大学のサークルっぽいグループとバラエティ豊かな方々が行き交っていたのですが、私がちょっとビックリしたのは、みなさんが全員、かなりしっかりした「登山ルック」に身を包んでいたことでした。やっぱ、私みたいにジャケットはおって行く場所じゃなかったのね……
 また、ジャンパーにリュックという格好に加えて、竹か木でできた頑丈な杖をついている人がかなり多くて、この高い普及率の原因はのちにわかったのですが、私は「杖まで準備してきているのか!」とかなり衝撃を受けてしまいました。なんという用心深さか……私も杖、ほし~!

 現在の鬼ノ城の観光通路は、2.8km の外郭をまわる環状ルートと、城の中を通って建築物の遺跡をめぐる内部ルートがあるのですが、私はまず北門から右に向かって、鬼ノ城の「顔」として有名な復元城門のある「西門」区域に向かうことにしました。
 これがさぁ、北門から西門までは距離にして500m ほどなんですけど、北門区域が標高がいちばん低くて西門区域がいちばん高いもんですから(標高差50m ほど?)、地味~にキツい坂道なのよね……アスファルトに舗装されてんのがまた、逆にしみる……

 もはや本物以上にジジイと化した(鬼ノ城に来るような本物のみなさんはとっても元気です)肉体を引きずってたどり着いた西門区域は、本来ふもとからやって来て「鬼ノ城山ビジターセンター」に到着した人から見たら、最も近い場所にある鬼ノ城の玄関口なのですが、ここは他の地点にもまして復元に力が入れられており、可能な限り忠実に復元されたという巨大な「西門」と、非常時に西門を援護する防衛拠点「角楼(かくろう)跡」が整備されていました。

 まず角楼の方は、西門と城壁づたいにつながっている、地形的に出っ張った城の隅っこに造られた、日本のお城でいう隅櫓(すみやぐら)のような機能を果たしたやぐら(床面積は横幅13m ×奥行き4m )だったらしいのですが、建物自体は再現されてはいないものの、おおよそ角楼の中にいた兵士と同じ視線に立てる展望台は設置されており、そこに登ってみると、左手の西門を目指して眼下の登山道をのぼってくる攻城側の兵士を狙い打ちにできる格好の防衛ポイントだったことがわかります。やっるぅ~! この構造は、中国式で言う「馬面(ばめん)」、朝鮮半島式で言う「雉(チ)」という築城技術の輸入だったようですね。
 また、角楼からは西門ごしの鬼ノ城の眺めはもちろんのこと、もっと遠くに目をやれば、南の総社市や岡山市、さらには瀬戸内海をはさんで四国の香川県も視野におさめられる絶景ぶりを誇っていました。ここから見えるお城や名跡としては、南北朝時代に激戦の舞台となった備中福山城(総社市)、岡山市南区の常山城(つねやまじょう)、おなじみ備中高松城(岡山市北区)、鬼王温羅が投げた岩石が吉備津彦命の放った矢と激突して落ちたという伝説のスパークポイント矢喰宮(やぐいのみや 岡山市北区)といったものがあります。 
 あと、ここからは岡山市南区にある標高400m の金甲山(きんこうざん)という、鬼ノ城山とほぼ同じ高さの山も見えるのですが、この山の名前の由来は、あの「征夷大将軍」として有名な平安時代の名将・坂上田村麻呂(758~811年)が、倉敷市の由加山(ゆがさん 標高274m )に巣食っていたという鬼を討滅するべくこの山に陣をしいた際に、戦勝祈願のために黄金製の甲冑を地中に埋めたという伝説に基づいているようです。3世紀の鬼王温羅に続いて、8世紀は由加山の鬼かよ! 忙しいなぁ~オイ。まぁ、500年サイクルだから、いっか。

 ところで、この角楼から見えるものとして、鬼ノ城とからめて決して無視することができないのが、海を越えた香川県高松市に位置する屋島城(やしまのき)と、香川県坂出市に位置する讃岐城山城(さぬききやまのき)が視界に入っていることです。
 屋島城は『日本書紀』にその名が記録されている「古代山城」で、讃岐城山城は鬼ノ城と同じく記録にはないものの、「白村江の会戦」での敗戦を契機にして築城されたとおぼしき「神籠石(こうごいし)式山城」です。すべて、中規模の山を利用した石垣づくりの要塞という形式は非常に似通っていますね。
 ということは、今でこそ山の中に孤立したお城というイメージが強くはあるのですが、やっぱり鬼ノ城は、瀬戸内海が国際戦争の戦場になるという緊急事態を想定しての一大国家防衛プランの一環として築かれた要塞だったということは間違いがないのでしょうか……でも、瀬戸内海に軍勢が入ってきている時点でもう手遅れな感じはするんですが、ここまで他国との国家の存亡を賭けた悲愴な大戦争を見に迫って考えざるを得なかった、当時の天智天皇政権の切迫感には驚きを禁じえません。ものすごい時代だったんですね……幸い、これら屋島城も讃岐城山城も実際に軍事利用されることはなく、鬼ノ城と同じように早々に廃棄されてしまったようです。よかったよかった。
 ちなみに城の規模でいうと、3つの城の中で最も規模が大きいのは周囲7km の島全体が要塞と化した屋島城(現在は四国と陸続きになっている)だったらしいのですが、今現在、いちばん観光しやすいかたちに良好に復元・整備されているのは鬼ノ城です。ウェルカム鬼ノ城!

 さて、そんな鬼ノ城の施設の中でも特にカッコよく復元されているのが西門なのですが、2004年に復元されるまで現地には柱の穴しか残っていなかったわけで、城門の大規模さはわかるものの、実際に地上にそびえ立っていた建造物については、当時の大陸様式の城門の工法に基づいて再現されたようです。そりゃそうですよね、史料も絵画も残ってないんですからねぇ。

 再現された鬼ノ城西門は、横幅12m ×奥行き8m ×高さ13m の堂々たる3階建て、板葺き屋根の城門になっていて、1階部分は城外に通じる地下通路、2階部分は城壁に連結している地上通路、3階部分は見張り台となっています。要するに、鬼ノ城内と城外にはおよそ6m の高低差ができているんですね。
 その6m を構成しているのが城壁の基礎部分で、西門で再現されている城壁は厚さ6~7m の土台を形づくる版築土塁(はんちくどるい)の上に、外向きの板塀と内向きの石垣とが乗っかっているという構造になっていました。

 版築土塁というのは、ひたすら土をつき固めてカッチカチな厚さ数cm ほどの薄い層をつくり、それをミルフィーユのように繰り返し繰り返し積み重ねて作りあげていくという原始的な工法の土塁なのですが、それも厚さ6~7m ×6m ともなると、まさに黄土色の鉄壁といったおもむきで、石垣のような亀裂がないだけにかなり登りにくく、よけいに難攻不落な印象を強めてくれます。しっかり作られた版築土塁はまるでコンクリート壁とも見まごうような硬度を持っており、そこにはペンペン草1本生える余地すらありません。

 この城壁の版築土塁は、石垣とも、それほど強くつき固めない日本の土塁ともだいぶ違う独特の外観を持っており、西門の異様さともあいまって、まさに中国のどこかにあってもおかしくない異国的な雰囲気をあわせ持つ、鬼ノ城の特色を的確に言い表してくれています。
 ちなみに、この西門の3階部分には、城外から見た前面に、いかにも大陸っぽい赤い紋様をほどこした高さ1m ほどの木製の盾が15枚くらい、手すりの外に並べて設置されているのですが、これは現在の建築法の都合で西門3階に一般客が登ることが禁止されているため、せっかく作った盾を見やすくする目的で外に置いているのであって、別に昔の人がそういう盾の置き方をしていた、というわけではないのだそうです。そりゃそうですわ、むしろ邪魔になっちゃうからねぇ。中央の盾に描かれた、目をつりあがらせ歯をむいた真っ赤な男の顔が言うまでもなく鬼をイメージしており、まさしく「鬼の城」のトレードマークになっているのが心憎いですね。
 そんな異国情緒たっぷりな西門を駆け下りて城外から眼下の風景を一望すれば、気分はもう古代日本軍の武将ですよ……「さぁ大陸軍よ、ここまで攻めて来られるものなら来てみやがれ! でも都合が悪いんだったらそんなに無理して来なくてもいいです!!」


 さて、この西門付近のように、鬼ノ城は城壁の基礎部分の多くを版築土塁で形成しており、上部だけでなく基礎にまで石垣を使用しているという地点は、要衝の6ヶ所だけにとどまっていたようです。それにしても、7世紀当時の日本の築城技術からしたらとてつもないことですけどね!

 鬼ノ城の場合、石材がより有効に活用されていたのは、基礎部分よりもむしろ上部の城内通路部分で、西門から南門にかけての通路で一部再現されている区域では、いちばん外側の板塀から内側にかけて、1.5~5m 幅の敷石の床が形成されています。
 この石の通路は、よく見れば外側から内側にいくにつれてななめに低くなる傾斜をつくっており、これはおそらく、雨が降ったときに雨水が外側の城壁部分に流れて版築がもろくなることを避けるために、上部の敷石で水のしみこみをカバーしつつ、傾斜を利用して雨水を城内の排水路に誘導するという作用があったのではないかと解釈されているようです。かしこいね~! 石で土の弱点をおぎなっているわけなのです。
 この通路を復元するために、鬼ノ城では一部ながらも数千トンの石材が投入されたのだそうで、この構造を再現している遺跡は、日本でもこの鬼ノ城だけなのだそうです。すごいね~!

 すごいけど、足の裏にやさしくないよね~……歩き心地は石のサイズが大きくなった砂利道といった感じで、痛い、一歩一歩がいちいち痛い! 毒の沼地か、この通路は!? もう足が限界なんです、カンベンしてください!

 そこを歯を食いしばって耐えながら歩き続けると、西門から南に600m 向かったところで、西門とほぼ同じ規模の城門だった「南門」に到着します。こちらは区域が整備されて鉄筋製の柱が立てられているだけで城門は復元されていないのですが、西門と同じ巨大さを誇るものだったらしいことははっきり見てとることができました。ここをさらに通り過ぎると、500m ほどで最初に見た北門と同程度の小規模な「東門」があります。

 こうやって歩いていくと、鬼ノ城が基本的に南向きの面を重点的に強化したお城だったことがわかってきて、石垣の補強が多用されているのもこの「西門~南門~東門」ラインだし、現在発見されている6ヶ所の排水用の水門(石造り)も、すべてこの線上に設置されていることがわかりました。水門はちゃんと人の目の届く場所に置いてないと、すぐに伏兵に侵入されるからね! 私はこれを『ルパン三世 カリオストロの城』で学びました。

 そして、東門をすぎて200m ほど、鬼ノ城の東端に位置するのが、一見して「おぉっ!」とうなってしまうものすごい外観を持った「屏風折れの石垣」です。
 この地点は、鬼ノ城からまさしく屏風のひと折れように鋭角に突き出た断崖絶壁になっているのですが、そこを補強するために積み上げられた石垣の厚さと高さがそれはもう立派なもので、手法こそ最も原始的な「野面積み」ではあるものの、ここだけが時代をすっ飛ばして戦国時代の城郭になっているかのような堅固さを誇っているのです。余談になりますが、戦国時代の石垣に用いられた側面防御構造「横矢掛(よこやがかり)」のヴァリエーションのひとつにも「屏風折れ」という複雑な形式がありますが、これは文字通り、石垣の外側のラインを屏風のようにジグザグに設計するというものですので、鬼ノ城の屏風折れの石垣とは直接の関係はありません。

 東門をちょっと過ぎたあたりから、この絶壁は前方の視界に入ってくるのですが、遠景で見れば見るほど、この石垣のものすごさが伝わってきます。千数百年の時を経ているために、石垣のあいまから生い茂っている木々もかなり目立つわけなのですが、そうやって自然に同化し、石垣の上には何も残っていないという「荒城」感が素晴らしいんですね! この味わいはやっぱり時の経過のなせるわざで、人間の急場ごしらえではかもし出すことができない領域の美しさを持っていると感じ入りました。やっぱ千年モノは違うわ!

 戦国時代好きとしては、断崖の石垣の上には是非とも何かしら隅櫓のような建造物がたっていてほしい気もしたのですが、発掘調査によると、屏風折れの石垣の上にはもともと何も建造されていなかったようです。まぁ、当時の石垣工法だったらムリかぁ。残念!


 さぁ、いよいよ(そこに行くまでが)長かった鬼ノ城探訪も、おおかたの名所をのぞいて終わりにさしかかってまいりました。あとは城内をぐるりとまわって下山し、電車に乗って岡山に戻り、夜にお芝居を観て深夜バスに乗り、千葉に帰る! それだけでござ……え、「それだけ」?

 歩いてる距離としてはもう15km は超えちゃってるんですが、まだまだ道は遠いのよね……下りるだけとはいえ、大変だなぁ~!! 足ももうジンジンジンジンきてるのが通常営業になちゃってるよ。

 そんな疲労困憊の我が身なんですが、ともかく前身しなきゃあ始まんないということで!
 だいたい折り返し地点には立ちつつも、まだまだ私の鬼すぎる旅は続くのでありましたァア~ん。月をまたいでの次回、最終回!!
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