長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第21回 すみません今度こそちゃんと入城します 「備中国 鬼ノ城」

2013年04月25日 22時53分52秒 | 全国城めぐり宣言
《前回までのあらすじ》
 ……もなにもないっすよミキティ!!
 3月に行った岡山城めぐりうんぬんの話題にここまで時間をかけてしまうこととなろうとは。もう4月もおしまいだっつうの!
 ということで、なんとかして今月中におしまいにしたいと、そんなはかない願いをこめつつ、念願の鬼ノ城、入城~。



 そんなこんなで、鬼ノ城の北方一帯にひそんでいた驚くべき一大テーマパーク「いっぱしの鬼なら一度は住んでみたいオール石インテリア無料展示会」に瞠目してしまった私だったのですが、とにかく腰を抜かしたのは、その巨石群の散らばる広範囲さと、それぞれの前評判にたがわぬ異様さでした。
 これらの巨石群を見に来た人々にとって非常にありがたいのは、だいたいその大看板となる、前回に紹介した「鬼の岩屋」を中心にして、いくつかの山道沿いに木製の案内板が網の目のようにこまかく配置されていることで、一見すればどこに行っていいのか混乱しかねない RPGゲームのダンジョンそのものの鬼ホームも、足元の「→ 鬼の昼寝岩」とか「→ 鬼の酒盛り岩」という指示にしたがって行けば迷うことなく目的地にたどり着くことができるというわけなのです。これは地味ながらも本当にありがたかった!

 ありがたかったのですが……どうにも遠いのよねェ~、どこもかしこも!!

 ここで質問なんですが、そこのあなた、足元に「→ どっか」という看板があったら、だいたいそこから何分くらい歩いた距離にその目的地があるのがいいあんばいの配置だと思いますか?
 私の場合、この鬼ホームを体感するまでは、そういったものはせいぜい歩いて3分くらいが限度で、5分歩いても目的地にたどり着けなかったときにはそろそろ不安に感じてきて、看板の読み方に問題があったんじゃなかろうかと自分を疑うくらいの頃合になってくるといった感じでした。

 しかし……鬼ホームの人間サイズを超えた距離間隔は、そうやっていつの間にか「ちょっと行けば、すぐにあるんでしょ?」的なあまえきった都会っ子気分に堕してしまっていた私のちっぽけな概念を悠々と打ち砕いた!!

 鬼ホームの案内板は、20分歩いて当たり前! 下山、登山もひっくるめての覚悟の「→」なのだ!!
 すごいんですよ……歩いても歩いても目的地が見えてこないんですよ。見えてこないのに、自分の身体は確実に今までいた山を下山してきていたり、また新たな知らない山道を登りはじめていたりするんです。この、どこに行くのかも知れないのに進み続けなければならない恐怖!! まさにこの鬼ホームめぐりは、人生という旅の縮図なのだ……

 まず、総じて鬼の岩屋の地点から上に位置する、岩屋山の頂上に向かうラインと頂上部分に点在している「鯉岩」、「鬼の餅つき岩」、「八畳岩」、「屏風岩」、「方位岩」、「汐差岩(しおさしいわ)」といったあたりは、岩屋山の頂上と言うべき部分が丘のような広さになっているために、ぐるりとめぐって最も遠いところで300m くらい離れているという状態になっています。そんなに遠くもないのですが、やはりひとつの山の上にある、という言い方では微妙に違ったニュアンスになる広さがありますね。

 それで、いよいよ「あれれ~?」という感覚におちいるのが、それらの巨石群と同じようになにげなく看板で案内されているもんだからふっと歩いてみたら、それがなんと今いる岩屋山を下りて、お隣の実僧坊山(じっそうぼうさん 標高471m )のふもとまで行かなければならないという「鬼の昼寝岩」くらいからで、いったい私は何度、そこに行くまでの途中で、

「も~いいよ~、そこの道ばたにある1m くらいの石が『昼寝岩』ってことにして、早く引き返そうよ~!」

 という弱腰な提案を自分に進言したことでしょう。しかし、もはや議論する余地もなく、「こんなに歩いたからにはとてつもない奇岩があるに違いないんだよ、たぶん!」という好奇心が勝ってしまい、結局足を進めてしまうことになるのでした。こういう感覚って、東京でだったらもう絶対に「道を間違えている」フラグ、ビンッビンなんですけどね。だけどここ、鬼ホームは違った!!

 下山して数分、体感としては極度の不安感も入り混じって鬼の岩屋からトータル20分は歩いたかと思ったその地点に、凝然と「鬼の昼寝岩」は確かに存在していた!

 完全に山と山との間にはさまれた、狭い「谷」のような地点に位置しているちょっとした野っ原。そこは谷間にもかかわらず奇跡的に日当たりが良いポイントで、よく見ればはっきりと、例によって「棚田」があったとおぼしき地形も残っているのですが、そこのド真ん中にぽつねんと、しかし異様に巨大な丸い岩石(5m くらい?)が横たわっていたのでした。うーん、あれが「鬼の昼寝岩」か! 確かにこれは、誰がどう見ても昼寝岩だ。

 それは、歩いてきた道から少し離れた位置にあったのですが、道から見える空間のまさしく中央にあって日光を浴びているその姿は、「神々しい」とも「不気味」とも言いがたい一種異様な空気感をまとっており、実際に出会う前には「昼寝っていうくらいなんだから、私もひとつ、その上に寝そべってみようか!」という面白半分な気分もあったのですが、いざ本物に対峙してみると、とてもじゃないですがそんなことはできない「現役のオーラ」に出くわして圧倒されてしまったのです。
 なんちゅうかその、私が歩いている山道はかろうじて「人の空間」という雰囲気を守っているのですが、そこを出た瞬間に「別のなにか」のテリトリーに踏み込むような空気があったんですよ。その上、巨大な昼寝岩に乗っかって寝そべろうものならば、ふとそこから山肌を見たときに、そこから「おい、そこ、おれのベッド!」と言わんばかりにこちらをにらむ鬼の顔と目があってもまったくおかしくないような世界が確かに存在していたのです!
 鬼がいるかもしれないなんて、21世紀の人里ならば間違いなく信じられないことなんですが……ここではなんだか、信じられる! やっぱり、日本のいたるところには、まだまだそういった空気を残しているゾ~ンが生き続けているんですなぁ。こうやって自分が実際に肌でとらえた新鮮な感覚っつうのは、実にいいもんであります。

 にしても、とにかく遠いっすよ……私がこの「鬼の昼寝岩」を通り過ぎて次に向かったのは、実僧坊山のさらに北にある登龍山(標高461m )の、3~5m くらいの巨石が10コくらいゴロゴロと露出して集まっていできていた山頂部分「鬼の酒盛り岩」だったのですが、もうここまでくると、自分が別の山に登ろうとしているのか、はたまた下ろうとしているのかなんてど~でもいい感じになってきます。もうどうでも好きなようにしやがれ!って感じ。それぞれ400m 級の山々をさまようわけなのですが、そのたんびに400m をしっかり下りきるというわけなのではなく、ゆるやかな尾根を伝って移動するという程度のものにとどまっているのがせめてもの救いですね。死なずに済んだ……

 「鬼の酒盛り岩」はまさに見晴らしのいい山頂一体が巨大な花崗岩の集まりになっているという印象で、鬼ノ城よりもけっこう北なのでふもとの市街地はあまり見ることができないものの、北の中国山地と南の瀬戸内海がはっきりと一望できたのは本当に爽快でした。豪快に酒盛りをするにはうってつけなのですが、アクセスが最悪なのが玉にキズです。

 そういえば、この酒盛り岩に登って、そこに生えているアカマツの木のほかにはさえぎるものがまったくない蒼天を見つめていたら、今にもその上空から UFOかなんかが降り立ってきそうな感覚になってしまったのですが、そういえば山頂のこういう岩石ゾーンって、今年の初めに『ゾンビデオ』つながりで私が観たお笑いホラードキュメント映画『怪談新耳袋・殴り込み!東海道編』(2012年 監督・青木勝紀)の中で「UFO が頻繁に目撃される山」として紹介されていた、愛知県豊橋市にある石巻山(標高358m )にそっくりなのよね、かなり!
 細かいことを言えば、岡山の登龍山は花崗岩の岩石で愛知の石巻山は石灰岩の岩石という違いはあるのですが、両者とも宗教的な「霊山」として扱われており、登龍山そのものではないものの、戦乱の世には城郭とも遠くない縁があったという点で似通った部分もあるんですよね。
 まぁ~、実際に立ってみた感覚で言わせてもらえたら、登龍山のほうもUFO 見えるんじゃない? たぶん。そういううわさが立たないのは、人里からあまりに離れすぎていて誰もそこからUFO を探す気にならないからなんじゃないのでしょうか。スピリチュアルな話なんて所詮はこんな調子で、人間の手前勝手な都合次第なのよねェ。

 さてさて、実は「鬼の~」関連のポイントはこの「鬼の酒盛り岩」が最も遠い位置にあるものだったので、登龍山の山頂に登った時点でおしまいということになるはずだったのですが、私はよせばいいのに、いたるところの案内板でチラッチラ紹介されていた、

「→ 重田池」

 という看板に誘われてしまいました。そんでまぁ~、ここがよりによって特に遠かったんだ!

 まぁ、ここまで来たからには「毒を食らわば皿までも」というやけくそ気分でこの未知の池に挑戦したのですが、これがまた、登龍山からまた別の山に行く勢いで下りたり登ったりを繰り返すわけ! も~あたしゃ、この調子で中国山地を突き抜けて日本海に行くのかと思っちゃったよ。
 その重田池に行く途中で、私はそ~と~久しぶりにすれ違う人と出会ったのですが、その高級そうなカメラセットをかかえた登山服のおじさんは私を見て、「ど~も~。調査ですか?」と声をかけてくださいました。私がこの歩行距離にまったく見合わない軽~い気分のジャケット姿だったからであります……
 それで私が「いえ、観光です。」とこたえたら、おじさんは本気でびっくりした様子で「観光!?」と目を丸くされていました。そんな秘境なのか、重田池って。
 おじさんはついでに、「重田池は寒かったよぉ~。風にとばされんように気ぃつけてな!」とおっしゃって行かれましたが、それを聞いた山道は日射しも強く風もなく、私はあまりの暑さに汗だくになっています。
 「寒い? そんなばかな……」と思いながら新たな山を登っていったのですが、その山頂にたどり着いた瞬間、おじさんの言葉に間違いがなかったことを身をもって大確認。

 山のてっぺんにある重田池(じゅうだいけ)は南北400m ほどの縦長な、池というよりはむしろ「湖」に近い大きさの貯水湖なのですが、エメラルドの美しい湖面が、そこを吹き渡ってくる北風によって絶えずさざなみを立てている様子はびっくりするほど絶景で、それまで歩いてきた距離の疲労がいっぺんに吹き飛んでしまう爽快感がありました。人工の湖といっても、どうやら作られたのは明治期くらいっぽいので、人の手のつけられていない無人の味わいがハンパない! そりゃあ、あのおじさんも撮影に来るよね~。
 私はこの風景を見た瞬間に、大好きな辻村深月先生の作品の中でも、特別に私が愛している長編『水底フェスタ』に登場するミステリアスなダム湖を連想したのですが、この重田池に人間の男女や車、ましてや自転車が入ってくる余地はまったくありませんでした……ほんとにステキな風景なのにね~! いや、人里から離れすぎている風景だからこそステキなのか。

 そして、確かに異常に寒かった……到着した瞬間には湖畔をぐるりと一周する考えも頭をよぎったのですが、この規模だったら1km 以上歩くことになるのは目に見えていたし、ここまでの奥地で人に出会うのは双方の心臓によくないと判断したので、半周だけしてまた同じ道を戻り、一路最初の「鬼の岩屋」に戻ることにしました。半周してまた戻るって、それ距離的には一周するのと同じことなんじゃ……ま、いっか。

 いや~、これでまず、鬼ノ城の前哨戦となった「スウィート鬼ホームめぐり」は終わりました……って、どんだけの距離なんでしょうか。多少の予想はしていたものの、岩屋山のふもとに位置する「岩屋休憩所」にたどり着いたころには時間も午前11時半となり、柔らかな山道から硬いアスファルト道路に踏み込んだ瞬間に、私の両の足の平にはイヤ~な感じの鈍痛が……まぁ、そうなるよね~。

 結局、「岩屋三十三観音みちコース」に入っていない重田池まで行ったので、私は最初の鬼ノ城の入り口からだいたい7km 、つまり早朝の服部駅から考えればトータル14km ほど歩いて、やっと鬼ノ城の入り口に戻ってきたということになりました。「岩屋三十三観音みちコース」は看板によると3時間半ほど時間がかかることになっていたのですが、実際に私が歩いたのは午前9時半~11時半の正味2時間。なかなかいいペースなんじゃないでしょうか。おかげで脚はすでにボロボロなんですが。

 それにしても、たかだか2時間ほど人の気配のない世界を見てきただけだというのに、この人家やアスファルトのあって当たり前ないつもの風景に戻ってくることができたときの、この満身にたちのぼる幸福感というか、「た、た、助かったぁ~。」的な感覚はなんでしょうか。
 別に今までいた鬼の空間を特別に怖いと感じたわけでもないのですが、それでもなんというか、春先の陽気の中でのどかな生活のリズムが流れる人間の空気にはない、「時間が停止した」ようななんともいえない寂しさが巨石群にはあって、ここらへんの不思議な感覚が「畏ろしく」もあり魅力的でもあり、それが「心霊スポット」ほど即物的でもなく、「妖怪」ほど親しみ深くもなく、「神」ほど崇高な位置にいるわけでもないという、まさしく「鬼」にしかかもし出せない世界を今に残していると感じました。
 またいつか、50代くらいになったら行ってみたいやね~。とっても味わい深い道のりになりました。それにしても、なんとなくながら履き物に「工業用の安全ブーツ」を選択した昨日の私に大感謝……これがなければ、どうなっていたことか。リアル遭難、略して「リア遭」~!!


 鬼ノ城に向かうまでの最後に、春先でもあることだし、岩屋休憩所から10分ほど歩いた場所にある名所「岩屋の大桜」もおがんでおきたいとひとふんばりして行ってみたのですが、高さ20m はあろうかというそのヤマザクラの大木は、みごとなまでに一輪も花を咲かせてはおらず、それどころかまだ葉っぱも生えていないという冬じたくモードのまんまでした。超絶行った甲斐ねぇ~!!
 でも、今回鬼ノ城関連の山々を歩いていった時点では、20m の大木とまではいかなくても、かなり多くの場所でささやかながらも白みがかった花を咲かせているカスミザクラの木がちゃんと楽しめたので、それはとても良かったですね~。ヤマザクラは葉っぱと同時に花を咲かせるということなので、岩屋の大桜もあともうすこしだったんでしょうか。

 アスファルトの道があれば、当然のごとく人家もぽつぽつ見えてくるわけで、畑をもった瓦屋根の家の横を通り過ぎることも多くなってきたのですが、入山した早朝と違って、なにかしら農作業や昼食の準備をしているらしい雰囲気も見てとれるようになってきます。

 地方の特色としては、そういった生活のかたわらで、開放された縁側から庭先に向かって大音量で流されるラジオ放送といったアイテムが、のどかな風景をデザインする上での必需品となるのですが、私が通りすがったときにかぎって、ラジオ放送でかかっていたリクエストソングがシャ乱Qの『ラーメン大好き小池さんの唄』だったのには心底驚いてしまいました。

「♪こゥいっけスぁあ~んん こゥいっけスぁあ~んん すゥっきィすゥっきィイイ~んんんん……」

 岡山の山奥にまでさまよって来て、それでも出会ってしまうつんく♂サウンド……昨日℃-uteのお芝居を観て、今日これか! もう一生ついていきます。

 もうお昼も近くなってきましたが、真の目的地はもう、すぐそこだ! すでに体力ゲージはイエローを余裕で下回ってまっ赤っ赤になっているのですが、もう歩けないだのなんだの言っている場合ではありません。GO あるのみ!

 私は鬼ノ城山の西側に位置する「鬼ノ城ビジターセンター」の駐車場から、北に広がる一帯の山々をめぐってきたわけなのですが、岩屋休憩所から最も近い鬼ノ城の入り口は西のビジターセンターではなく、鬼ノ城の真北にある「北門」ということになります。休憩所から続くアスファルトの車道をずっと歩いていけばビジターセンターにも戻ることができるのですが、せっかちな私は少しでも早く鬼ノ城に入りたかったので、近道して北門から登城することにしました。

 休憩所からアスファルト道を使って下りると、眼前には再び巨大な山と、「→ 鬼ノ城北門」の指示板が。これが最後! 岩屋山を下りて鬼ノ城山に入る登山口であります。アスファルトをそれてふたたびの山道と木組みの階段へ。さぁさぁ~、入城!

 なだらかな沢ぞいの湿地帯をすぎて、他の今まで来た山々よりも少し勾配のきつい登山道を100m ほど登ると、そこには唐突に、人によって整地されたクリーム色の山肌が露出した、要塞の入り口のような地形が! そしてその奥には、ガハハと笑いながら通り過ぎてゆく、登山ルックに杖をついた元気なおばちゃんの集団が!! 観光地だ! ということは、ここはあきらかに鬼ノ城!!

 ここで、大変遅ればせながら鬼ノ城に関する情報をまとめてみましょう。


鬼ノ城(きのじょう)とは


 鬼ノ城は、岡山県総社市奥坂の鬼城山(きのじょうざん 標高397メートル)に存在した神籠石(こうごいし)式山城。国史跡。

 すり鉢形の鬼城山の山頂周囲を石垣・土塁による城壁が周囲2.8キロメートルに渡って取り巻く。城壁によって囲まれた区域の総面積は約30ヘクタール。城壁の要所に東西南北4ヶ所の城門と、城外への排水機能を持つ6ヶ所の「水門」を配置する。城の内部には食料貯蔵庫や管理棟などと推定される礎石建物が7棟、烽火場(のろし台)の可能性が指摘される遺跡、水汲み場、鍛冶場、工事のための土取り跡などが確認されている。

飛鳥時代
 天智天皇二(663)年八月におこなわれた白村江(はくすきのえ 朝鮮半島南西沿岸)の会戦に日本軍が敗れた後、唐・新羅連合軍の侵攻に備えた大和朝廷の政策の一環として築城されたと考えられている。『日本書紀』などには西日本の要所に大野城(現在の福岡県大野城市)など12の山城(古代山城)を築いたと記されており、鬼ノ城もそのような防衛施設のひとつであろうと推測される。しかし、どの歴史書にも一切記録されていないなど、その真相は未だに解明されていない謎の山城である。当時の城主も廃城年も不明。出土した遺物は7世紀後半から8世紀初頭のものがほとんどだった。
 鬼ノ城のように、史書に記載が無く12の古代山城に該当しないものは「神籠石(こうごいし)式山城」と呼ばれる。これらについては、国家政策として築城された城郭という説の他に、「在地勢力の祭祀遺跡」や「大陸から渡来した氏族が在地勢力に追われて山岳地帯などの奥地に建造した城郭」と解釈する説もある。

現在
 鬼城山中に石垣などの遺構が存在することは古くから知られていたが、1971年に城壁の基礎となる列石が見つかり、はじめて古代山城と確認された。1986年に国の史跡に指定。現在は総社市教育委員会が2001年より史跡整備を行っている。特に西門付近は城門・土塁・石垣が復元された。
 2006年に「日本100名城 第69番」に選定。
 駐車場横に、鬼ノ城来訪者の休憩などを目的とした「鬼城山ビジターセンター」がある(毎週月曜休館)。



 だいたい、「お城」と聞いて日本の本州に住む方々のほとんどがパッと想像する、「天守閣」や「石垣」や「お堀」といった構造物を持った城郭というものは戦国時代から江戸時代にかけて築城されたものがほぼ全てであるわけなのですが、上の解説にしたがうのならば、私が今たどり着いた鬼ノ城は、そういった有名なお城たちの約1千年前に築き上げられた超先輩にあたるわけなのです。いっせんねん~!?
 ところが、その鬼ノ城も遺跡の状況から想像するに、築城されてからおよそ50年間ほどののちに早々に廃城してしまったらしいのですから、日本で最もお城のニーズが高まっていたのちの時代には、鬼ノ城はすでに「お呼びでない……っていうか、なにそれ?」的な忘れられた伝説の存在になっていたのだそうで。古すぎる出自と、早すぎる廃棄……謎とロマンは深まりますねい。

 そういった古さを持っている鬼ノ城ですので、その雰囲気はもうのっけの「北門」から、日本的というよりもむしろ大陸的だったりアジア的な感じになっていました。そりゃそうですよね、「日本独自のテイストを持った城郭」というものが、まだ生まれるべくもなかった時代のお城だったんですから。すべて、導入するべき最新技術は大陸渡来という「日本の少年時代」飛鳥の御世のものであります。


 ほんじゃま、本格的な鬼ノ城探訪編は、字数もかさんできましたので、まった次回~!
 できれば今月中に、終わらせ、たい……
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