長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第8回「下総国 佐倉城」 フィーチャリング トマソン階段

2011年08月25日 13時53分21秒 | 全国城めぐり宣言
 やったぜ当選!! どうもこんにちは、そうだいでございます~。みなさんお元気ですか?

 やりましたね~。先日に「ただいま、祈願中」と言っていた「あるコンサートの先行予約」で合格の返信をいただきました!
 まぁ、合格だとかなんとか言っても、ただチケットを購入するのが普通よりも早くなったってだけなんですけどね。でもでも~、うれしいものはうれしいですよ~。

 コンサート当日は来月後半。
 コンサート名は~。

「モーニング娘。コンサートツアー2011秋『愛 BELIEVE ~高橋愛 卒業記念スペシャル~』」

 だッッ! ロードローラーだッッッッ!!

 言っておきますけど、私そうだいは本当に生まれてこのかた、アイドルはおろか歌手のコンサートというものに行ったことがありません。正直なところ、去年まではまさか自分がこういった場に行くだろうとは夢にも思っていませんでした。
 でもまぁ、今年に入ってからああいった形で春をまるごと投入してあんな企画をやらかして以来、どうにかしてアイドルグループの本物の熱みたいなものを体感しなくてはならぬ、という気持ちに駆られていたのです。そして、特に「モーニング娘。リーダーにしてエース」という姿での高橋愛さんだけはこの眼に直接焼きつけておかなくては、愛さんと同じ平成時代にいる人間として、彼女の「10年間トップアイドル!」という偉業を子孫代々に語り伝える義務をみずから捨てることになってしまうのではないかと確信していました。ホントにギリギリになっちゃったけど……

 しかし、コンサート経験のしょっぱながモーニング娘。というところでまず緊張するのですが、しかも東京・日本武道館すか!

 大丈夫かな……不安です。
 年が年なんで、あんまりサイリウムとかブンブン振り回してはしゃぐつもりはないのですが、「貴様! ちゃんと踊らんかァ!! 歯を食いしばれぃ!」とかなんとか言われて熱烈なファンに鉄拳制裁をくらったりするのではないでしょうか。
 それとか、入り口で持ち物検査をされて、

「あっ、軍曹! こやつ、カゴメの『野菜一日これ一本』を携行しております!」
「なにぃ!? 秋葉原からのこのことよく来おったな! このスパイを独房13号にたたき込めぃ!」
「ええっ、あ、あの『ジャバ・ザ・ハットの宴会場の地下にいたあいつ』がいるらしい、あの13号へ……ガタガタブルブル、シャー(失禁の音)」

 みたいな上官と部下とのやりとりが展開されるのでは!?
 とまぁいろんな危険事態が想定されるのですが、なるべく体調を万全にしてのぞみたいものです。最低限、当日までにおっちぬようなことのないように精進していきましょう。
 いやぁ~しかし、日本武道館って場所がとてつもないなぁ。よく考えてみると、1万人がおんなじ空間に集まってるところになんか、野球観戦ぐらいしか行った経験がねぇからなぁ。どんな雰囲気なんだろうか?
 ましてや女性アイドルグループのコンサートで、その上リーダーにしてエースの引退公演なんですからね……こちらも気を引き締めてその場にのぞまないと。

 できれば、武道館ほどの規模とは言わないまでも、まずモーニング娘。のコンサートの前にどなたかの別グループのライヴに行って勉強しておきたいのですが……ヒマがあればいいんですけどねぇ。
 いんや~、たのしみだ。間にあって良かったです、ほんと。


 ということで。
 今回も佐倉城リポート、いってみましょうか。もういい加減におしまいにしましょうね~。

 私が炎天下の中ようよう佐倉城址公園にたどり着いたのは午後3時半ごろということで、本来ならば佐倉城に来たら最大のお楽しみスポットである国立歴史民俗博物館、通称「歴博」に行くべきなのですが、ちょっとそこに行くと佐倉城をまわる時間がなくなってしまうと予想されたため、今回は遠慮することにしました。
 今まで私は歴博に2~3回行ったことがあるのですが、旧石器時代から21世紀現代までの数万年におよぶ日本列島の歴史が一挙大公開! 歴史好きにはたまらないひとときを提供してくれる博物館であることは間違いありません。

 特に今はねぇ、来月9月のはじめまで特集展示の「モノから見た近世」をやってるんですよ!
 「モノ」とはつまり、「もののけ」のことですよ~。江戸幕末に九州に現れたという予言妖怪「ひめうお」の図版が公開されているとのこと。ひめうおといえばあなた、かの「くだん」や「あまびえ」の親類ですよ!
 行きたかったなぁ~。夏休みということで、歴博に入っていく家族連れの姿もいっぱい見られましたね。

 さて前回にも言ったとおり、その歴博のあった敷地は佐倉城の家臣たちの武家屋敷などが建ちならぶ区画でした。本題の城郭部分は歴博の西側に位置しています。

 んで、その佐倉城址公園なんですけどね。
 いやぁ、「構造物」の保存状態がお見事! 構造物とはつまり、佐倉城の場合は「空堀」「土塁」ということになります。

 佐倉城にかぎったことではないのですが、実は戦国時代、関東地方を含めた東日本には現在「お城といえばコレだろ!」とイメージされる「石垣」の文化がありませんでした。
 つまり、東日本では石垣に使用できるような石材を採掘する文化が広まっておらず、敵軍の攻撃を遮断するなにかを築くとすれば、土を掘って深い外堀をつくったり、その掘った土をかたくつき固めて土塁をつくるほうが簡便だったわけなのです。

 関東地方に石垣づくりの城郭が建造された最初は、前にもふれた豊臣秀吉の北条家との戦争で、天下一の名城とうたわれた小田原城を包囲した豊臣軍の攻撃拠点「陣城(じんじろ)」として築城された、その名も「石垣山城」だったと言われています。
 石垣山城はまさに「それまでの武家社会の常識をくつがえす天才」秀吉の真骨頂ともいえる戦略で、それまでの陣城といえば敵の本城をおとすまでの仮設陣地というものだったのですが、そこで、まるで西日本ふうの石垣・白壁のバッチリきまった石垣山城をデ~ンと築いて小田原城の北条家を心理的にビビらせるという革命的手法。
 この作戦もあってか、最終的に北条家は小田原城籠城による徹底抗戦を断念し、本格的戦闘に入ることもなく豊臣軍に降伏を申し入れました。つまりは秀吉側の、お金と時間をいくらかけてもいいから全面戦争で小田原城を攻略するという「下策」はとりたくない、もっと天下人らしいやり方でハデ&クールに北条家をおとして東日本全体の大名諸侯に勢いをアピールしたいというもくろみがあった上での西日本直輸入、「異色の」石垣山城だったというわけなのです。

 そんな経緯からもわかるように、戦国時代の千葉家によって基礎がつくられた佐倉城は伝統的な「土づくり」「天然の水堀」フル活用の関東ならではの名城だったのです。
 江戸初期の土井利勝による再築城前にどこまで佐倉城の基本ができていたのかは記録に残ってはいないものの、建造物以外の部分は戦国時代の時点でそうとうできあがっていたのではないかと思われるくらい、佐倉城の空堀・土塁の構成は「実戦的」で「基本的」で「クラシック」なものとなっていました。とってもシンプル!
 ごく簡単に言ってしまうと、鹿島山の西端に築かれた佐倉城は、北を広大な印旛沼(今は開拓されて田園地帯)、西・南をそこからひいた川の水堀で守っており、残る東に向けて3重の空堀の守りを造っているというものでした。
 今はグラウンドのような広場となっている本丸部分には、天守閣の代用とされたささやかな3階建て櫓などの3つの櫓の土壇だけが残っています。そこの入り口となっている「一ノ門」の付近にはかなり深い空堀が現存しており、今は10メートルほどの窪地にうっそうとした薮がしげっている一種異様なゾーンに。整備はされていないようなので、空堀として現役だった時代にはもっと深いものだったのではないでしょうか。私はこういった空堀はかつて「生実城」跡に残るものも見ていたのですが、時期も地域も同じだし非常に似た形状となっています。興味深いですが降りてみる気にはまったくならないワイルドさがあります。
 「一ノ門」と空堀の関門のまっすぐ前には、また「二ノ門」と空堀の防衛ラインが築かれており、そこにも空堀が残っています。
 そして、ようやく歴博の建物も見えてきた最後の外郭は、やはり「三ノ門」と空堀、そして土塁をうまく構成したお城名物「馬出(うまだし)」が復元されています。
 「馬出」とは読んで字の如く、佐倉城側からの出撃ポイントとなる城門の前に、敵軍からの攻撃を避けながら開門・出撃するために土塁・空堀で築く防御構造のことです。こちらは安全のためか実際の規模よりも土塁は低く、空堀は浅く復元されているのですが、すべてを土からつくる戦国の城の雰囲気は十二分に味わえますね。

 こういった感じで、佐倉城は平和な時代につくられたとはとても思えないガチなお城となっており、「江戸城はオレが守る!」といった気概を今も色濃く残すものとなっています。
 特にガチなのが、こういった門と空堀の守りの反対側につくられた、水堀と本丸とのあいだにつくられた2つの「出丸(でまる 最前衛の陣地)」の存在で、本丸から傾斜の高い急な階段を30メートルほどおりた場所にあるこの空間はバリアフリーもどこ吹く風、おりてのぼっておりてのぼってを繰り返して2ヶ所とも見回りきったとき、私のヒザは『ドリフ大爆笑』のおばちゃん声なみにゲラゲラ笑っている惨状を呈していました……部活の走り込みトレーニングか!

 いや~佐倉城。さすがは日本100名城のひとつ。堪能いたしました。
 はっきりいってお城を思わせる建物はほとんどなかったわけなのですが、それを強く想像させてくれる地形をちゃんと保存してくれているのがありがたかったです。しかも、ただの江戸時代の役所としてなんじゃなくて、戦国時代の実戦城塞としてのお城を感じることができるのね。こういったものは、保存状態が良くても市街地から離れていたり高い山の中だったりすることが多いので、佐倉城のようにアクセスの良い場所に今もあるのは幸運ですよ。建物はなくとも、現場付近に櫓や城門などの明治時代の「古写真」つき解説ボードがあったのが親切でよかったですねぇ。要するに、なにからなにまで原寸大で復元する必要はないということです。まぁ、佐倉城の場合は天守閣だった3階櫓を復元しても、地味だし……

 あっ、あと、佐倉城址公園には知る人ぞしる「呪いの13階段」というものがありまして、そんな城跡からちょっとくだったところにある「菖蒲沼」近辺の広場わきに、一見なんの用途に使われていたのか理解に苦しむ「コンクリート製の階段だけ」が残されているのです。
 うおお、これぞ、のぼった先が存在しない超芸術トマソンでいう「純粋階段」か! わくわくするなぁ。
 私が見たあるホームページでは「兵営時代に処刑に使われていた13階段」だとされていたのですが……ちょっと広場に面しすぎじゃねぇか。

 解説ボードによると、ただの「歩兵の飛び降り訓練用のジャンプ台」でした! あと、数えてみたら12段しかなかったし。
 いや~しかし、最上段の上空3メートルからは飛び降りることができなかったね……そういう意味では充分にこわかった。

 そんな感じ! 下総国佐倉城、おすすめで~す。
 あ~……やっぱ城めぐりは体力勝負だわ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする