goo blog サービス終了のお知らせ 

長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

詰め襟学生服って、いいよね! ~映画『また逢う日まで』~

2023年01月22日 00時34分53秒 | ふつうじゃない映画
映画『また逢う日まで』(1950年3月公開 111分 東宝)

 『また逢う日まで』は日本映画である。東宝製作・配給。モノクロ、スタンダード。
 東宝争議終結後の自主製作再開第2回作品。主演の岡田英次が映画化を勧めた、フランスの小説家ロマン=ロランの反戦小説『ピエールとリュース』(1920年発表)を水木洋子と八住利雄が翻案・脚色し、フリーになった今井が監督した恋愛映画。戦争によって引き裂かれた恋人の姿を描き、戦争の残酷さを訴えている。主演の岡田と久我美子によるガラス越しのキスシーンが有名である。第24回キネマ旬報ベスト・テン第1位、第5回毎日映画コンクール日本映画大賞、第1回ブルーリボン賞作品賞・監督賞、第4回日本映画技術賞(中尾駿一郎、平田光治)受賞。

あらすじ
 昭和十八(1943)年、戦時空襲下の東京で2人の若い男女が出会った。学生の田島三郎は、空襲警報が鳴り響く地下鉄ホームで美術学校の生徒・小野螢子と出逢う。軍国主義に何の疑問も持たない法務官の父・英作と陸軍中尉である兄・二郎に嫌悪感を抱いていた三郎は、母と2人暮らしながらも明るく希望を抱いて生きる螢子に惹かれ、2人の純真な恋は日ごとに高まる。しかし戦況は悪化の一途をたどり、ついに三郎に召集令状が届き、2人に別れの日が訪れる。そして、さらなる残酷な運命が2人を待っていた。

おもなスタッフ
監督 …… 今井 正(38歳)
脚本 …… 水木 洋子(39歳)、八住 利雄(46歳)
撮影 …… 中尾 駿一郎(31歳)
音楽 …… 大木 正夫(48歳)
録音 …… 下永 尚(37歳)
特殊技術 …… 渡辺 明(41歳)
合成技術 …… 向山 宏(35歳)

おもなキャスティング
田島 三郎 …… 岡田 英次(29歳)
小野 螢子 …… 久我 美子(19歳)
田島 英作 …… 滝沢 修(43歳)
田島 二郎 …… 河野 秋武(38歳)
田島 正子 …… 風見 章子(28歳)
小野 すが …… 杉村 春子(44歳)
すがの友人 …… 戸田 春子(41歳)
学生・会田 …… 林 孝一(28歳)
学生・今村 …… 大泉 滉(25歳)
学生・井本 …… 芥川 也寸志(24歳)
学生    …… 近藤 宏(24歳)
学生    …… 芥川 比呂志(30歳)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画って、総合芸術なのねェ。 ~映画『ひみつのなっちゃん。』~

2023年01月15日 20時21分43秒 | ふつうじゃない映画
映画『ひみつのなっちゃん。』(2023年1月13日公開 97分)

 『ひみつのなっちゃん。』は日本映画。主演は、本作が映画初主演となる滝藤賢一。
 「オネエ」だった亡き友人なっちゃんとその遺族の母親のために、3人のドラァグクイーンが「ふつうのおじさん」として、岐阜県郡上市で執り行われるなっちゃんのお葬式に参列するまでを描くハートフルヒューマンコメディ。

おもな登場人物
バージン / 坂下 純 …… 滝藤 賢一(46歳)
 ドラァグクイーン。なっちゃんの友人。
モリリン / 石野 守 …… 渡部 秀(31歳)
 ドラァグクイーン。なっちゃんが営んでいた新宿二丁目の食事処の店子。
ズブ子 / 沼田 治彦 …… 前野 朋哉(37歳)
 ドラァグクイーン。人気オネエ系 TVタレント。
なっちゃん …… カンニング竹山(51歳)
並木 恵子 …… 松原 智恵子(78歳)
 なっちゃんの母。岐阜県郡上市で執り行われる息子の葬儀に参列して欲しいとバージンたちにお願いする。
山田 茂典 …… 豊本 明長(東京03 47歳)
 バージンがかつて踊っていたクラブのママ。バージンの良き相談相手。
坪井 仁 …… 菅原 大吉(62歳)
 岐阜県郡上市の旅館の主人。
仁の妻 …… 生稲 晃子(54歳)
坪井 博子 …… 市ノ瀬 アオ(15歳)
下田 信之介 …… 本田 博太郎(71歳)
 新宿二丁目で伝説となっている謎の人物。なっちゃんの過去を知る。
サービスエリアのトラック運転手 …… 岩永 洋昭(43歳)
岐阜県のスーパーの店員 …… 永田 薫(26歳)

おもなスタッフ
脚本・監督 …… 田中 和次朗(38歳)
ドラァグクイーン監修 …… エスムラルダ(50歳)
ロケ協力 …… 岐阜県郡上市
製作 …… 東映ビデオ、丸壱動画、TOKYO MX、岐阜新聞映画部

≪感想うちたいけど、時間がない~!! 本文マダナノヨ≫
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古いと侮るなかれ! 黒澤テイストは初期からマシマシ! ~映画『醉いどれ天使』~

2023年01月01日 19時42分25秒 | ふつうじゃない映画
映画『醉いどれ天使』(1948年4月27日公開 98分 東宝)
 『醉いどれ天使(よいどれてんし)』は、日本映画である。監督は黒澤明。モノクロ、スタンダード。
 闇市を支配する若いやくざと、貧乏な酔いどれ中年医者とのぶつかり合いを通じて、戦後風俗を鮮やかに描き出したヒューマニズム溢れる力作。黒澤・三船コンビによる最初の作品であると同時に、志村が黒澤作品で初主演した。第22回キネマ旬報ベスト・テン第1位、第3回毎日映画コンクール日本映画大賞、撮影賞、音楽賞を受賞した。
 やくざの親分役の清水将夫の腕の刺青メイクは、当時、東宝技術部特殊技術課に所属していた鷺巣富雄(26歳 のちのピー・プロダクション創業者のうしおそうじ)が担当した。

あらすじ
 反骨漢で一途な貧乏医師・真田は、闇市のやくざ・松永の鉄砲傷を手当てしたことがきっかけで、松永が結核に冒されていることを知り、その治療を必死に試みる。しかし若く血気盛んな松永は素直になれず威勢を張るばかりだった。更に、出獄して来た兄貴分の岡田との縄張りや情婦の奈々江を巡る確執の中で、松永は急激に命を縮めていく。弱り果て追い詰められていく松永はついに吐血し真田の診療所に運び込まれ、一旦は養生を試みるが、結局は窮余の末に岡田に殴り込みを仕掛け、返り討ちに遭い死ぬ。真田はそんな松永の死を、毒舌の裏で哀れみ悼む。闇市は松永など最初からいなかったかのように、賑わい活気づいている。真田は結核が治癒したとほほ笑む女学生に再会し、一縷の光を見出した気分で去るのだった。

おもなスタッフ(年齢は公開当時のもの。没年は省略しています)
監督 …… 黒澤 明(38歳)
脚本 …… 植草 圭之助(38歳)、黒澤 明
製作 …… 本木 荘二郎(33歳)
撮影 …… 伊藤 武夫(61歳)
美術 …… 松山 崇(39歳)
特殊効果 …… 東宝特殊技術部
音楽 …… 早坂 文雄(33歳)
ギター演奏 …… 伊藤 翁介(37歳)
挿入歌 …… 笠置 シヅ子『ジャングル・ブギー』(作詞・黒澤明、作曲・服部良一)

おもなキャスティング(年齢は公開当時のもの。没年は省略しています)
真田  …… 志村 喬(43歳)
松永  …… 三船 敏郎(28歳)
岡田  …… 山本 礼三郎(45歳)
奈々江 …… 木暮 実千代(30歳)
美代  …… 中北 千枝子(21歳)
婆や  …… 飯田 蝶子(51歳)
ぎん  …… 千石 規子(26歳)
松永の舎弟 …… 谷 晃(37歳)
松永の舎弟 …… 宇野 晃司(24歳)
ギターのやくざ …… 堺 左千夫(22歳)
やくざの子分 …… 大村 千吉(26歳)
ひさごの親爺 …… 殿山 泰司(32歳)
花屋の少女  …… 木匠 久美子(18歳)
セーラー服の少女 …… 久我 美子(17歳)
やくざの親分 …… 清水 将夫(39歳)
高浜医師   …… 進藤 英太郎(48歳)
ブギーを唄う女 …… 笠置 シヅ子(33歳)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事件の真相なんか、思いっきりぶん投げて鳥に食わせちまえ  ~映画『ピクニック at ハンギングロック』本文~

2022年02月14日 00時14分37秒 | ふつうじゃない映画
≪資料編は、こちらにあってよ!≫

 はい、ハッピーバレンタイ~ン!!
 というわけで今回の記事は、めでたく2018年に TVドラマリメイク&日本語訳出版もされた、この歴史的傑作だい! ぽっぽぴ~♪

映画『ピクニック at ハンギングロック』(1975年8月公開 116分 or 107分 オーストラリア) 

 南半球のバレンタインデーなんで思いっきり真夏なんですが、これもれっきとしたバレンタイン・ムービーよね。チョコはぜんぜん出てきませんけど!!

 この映画ねぇ、私ほんっとに大好きなんですよ!
 なにがそんなに好きって、この記事のタイトルにもしているように、「事件の真相とか、そんなのどうでもいいじゃん。」っていうオチの放り投げっぷりが、完全に確信犯的なところ! その、薩摩隼人もビックリな勇敢きわまりない決断力と、オチの欠落を充分すぎる程に埋める繊細なデティールの描写力が、バッチリ同居しているっていうものすごさなんですよね。まさに、画面の中の世界のごとくやたら「ひらひら~♡」としたフリルをまとっているだけのようでありながら、中には鋼のように硬く輝く芸術センスを隠しているって感じ!
 世の中には、お金や時間の都合や作り手の力不足で物語の流れが破綻したり、結末がよくわからない感じになってしまう、いわゆる「怪作」というフィクション作品はいろいろあると思います。それは、作り手の全く意図しないアクシデントによるものなので、プロの作る起承転結のはっきりしたウェルメイドな作品では味わえない不思議な印象を持ってしまい、「たまにはこういうのも、いいよね。」的な B級以下の出来になってしまう場合が多い気がするのですが、この『ピクニック at ハンギングロック』は、そんなほのぼのとしたものではないんです。偶然カメラのピントがズレちゃったんじゃなくて、最初っからモネやルノアールのような焦点のぼやけまくった印象画を描こうとして撮影を始めてるんだもんね! この決意の固さ……まるでこの映画の中のメンヘラ気味少女サラのようではありませんか!? そしてそれは、学校行事の最中に4人も行方不明になったというまごうことなき大不祥事を、まるで認めようとしないアップルヤード校長の頑固さにも通じると言えなくはないわけで、この映画がその2人の死をもって終幕するのもまた、非常に論理的で正しいわけなんです。生徒に優しすぎるがゆえに、ちょっぴりなあなあな関係にもなりがちなポワティエ先生のようにふわふわしたパッケージでありながらも、この映画の本質は鉄面皮な数学のマクロウ先生に近いんですよね。この二面性! それがいいんだよなぁ。

 「結末が語られない」というだけで、フィクション業界の禁じ手をやらかしている異端の作品のように見られがちなこの映画なのですが、作品の画作りからキャラクター配置まで、全てが保守的といってもいいくらいにガッチリ数学的に計算されつくしているのも魅力なんじゃないかと思います。画面の美しさについてはもう、作品を観てもらうより他はないわけなんですが、日本人の感覚で言うと「山」とも言えないような単なる岩ばっかりのロケ地を、あそこまでにミステリアスな異界に描ける想像力と、イモくさい娘ッコたちのフツーの会話をむせかえるような「あやうい」空気が満ちあふれるアップルヤード女学校の世界に変換してしまう妄想力はすばらしい!
 キャラクター配置に関しても、「サラとアップルヤード校長」、「マクロウ先生とポワティエ先生」、「マイクルとアルバート」、「ミランダとアルマ」といったように、非常に分かりやすく対立や協力の関係が構築され、その中の誰かが別のペアにちょっかいを出して波紋が広がる、といった物語の潤滑油が確実に機能しています。
 つまり、映像と物語の両面から「オチ無しでも大丈夫!」という、お客さんを最後まで引っ張っていける万全の体制が整ったうえで、この映画が作り上げられているということ。ここがこの映画『ピクニック at ハンギングロック』の、唯一無二の魅力の源泉なんですね。

 だいたい、この映画の原作小説からして、当時70歳の原作者リンゼイさんがわざわざ用意していた「4人の失踪の真相」を、こともあろうに出版社の編集担当者が「ないほうがいいっすねぇ。」と提案し、リンゼイさんも「うん、そっちのほうがいいかも。」と承諾したというんですから、この物語の面白さがハンギングロック失踪事件とは別のところ、つまりは「ある日突然に日常が崩壊していくさま」の克明な描写にあることは、映画化する以前から明らかだったのです。
 ところで、私はこの記事をつづるにあたって、2018年にやっと出版された日本語訳(井上里・訳 東京創元社創元推理文庫)を読んでみたのですが、2015年に我が『長岡京エイリアン』であげていた≪資料編≫で触れた「当時カットされた最終章」に登場した「道化師のような姿をした女」というのは、ズロース姿になったマクロウ先生のことのようです。マクロウ先生、はっちゃけすぎです!

 ここで、ミランダ、マリオン、マクロウ先生の3人が謎の異空間に引き込まれて失踪し、アルマだけが取り残されたという経緯を最後に持ってくれば、この作品はオーストラリアのアボリジニあたりの信仰する土着の山神様が、よくわかんないけどモスリン地のワンピースにヒール付きブーツという、山をナメにナメきった服装で登ってきた娘さんと、勝手にマセドン山の魅力に憑りつかれた中年女性を、うっかりお供え物と勘違いしてもらっちゃったという、日本昔話のやまんばみたいな怪談になるわけだったのですが、ここからマイクルの若さゆえの暴走捜索作戦とか、不祥事に焦るアップルヤード校長の自滅とか、帰ってきたアルマの哀しい青春の終わりとか、さすがは老練! 70歳の筆の真骨頂が始まるわけなのです。起承転、ときて、「結」だけがもんのすごいふくらんじゃってるよ、おばあちゃーん!! じゃあもう、ハンギングロック失踪事件は「転」じゃなくて「起」でいいじゃん!みたいな、決定的な路線変更があったわけなのです。編集者の方が、「失踪の真相より、女学校の崩壊のほうが百倍おもしろいわ!」と感じたのも、むべなるかな。

 あと、私は創元推理文庫版の原作小説と、カルチュア・パブリッシャーズからリリースされた116分の「映画公開版」、そしてSPOからリリースされたウィアー監督による107分の「ディレクターズカット版」を読んだり鑑賞したりしたわけなんですが、「映画公開版」が非常に原作小説に忠実であることと、「ディレクターズカット版」がマイクルとアルマ、というかマイクル周辺の物語を意図的にカットしている編集になっていることを強く感じました。
 正直、ディレクターズカット版を製作しなければならない程に映画公開版がかったるいとか、話はこびに難があるとは思わないのですが、映画公開版だと、ファーストインプレッションでマイクルが一目ぼれしたのは明らかにミランダなのに、中盤以降にロマンスが生まれるのは生き残ったアルマなので、マイクルなんやねんという腰の軽さ(別にミランダと交際していたわけでもないので浮気でも何でもないのですが)が多少気にかからなくもないのですが、それは原作小説がそういう流れなんでねぇ。それよりも、アルマが本当に自分を救助した張本人として好意の念を寄せたアルバートが、身分の違いを理由にあえて彼女に冷淡な態度をとるという愛情のすれ違いに、原作者リンゼイの筆の真価を観たような気がしました。こういうとこがいいんだよね~!!
 蛇足ですが、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中では、ハンギングロック捜索でアルバートに発見されたマイクルが、記憶喪失に陥るほどの心身衰弱状態に陥っていたという内容の会話も含まれていました。うそ、そんなにマイクルやばかったの? ディレクターズカット版だけ観てると、そこまで命を賭けていた事情が分からなくなってしまうので、ちょっと突然のように無口になって物語からフェイドアウトしていくマイクルの様子が「?」になっちゃうんですよね。いろんな意味で不憫だな、マイクル!

 それから、こうやって何回も、この『ピクニック at ハンギングロック』という迷宮に魅せられて何度もそぞろ歩きをしてみますと、あれっ、この作品、ハンギングロック失踪事件とかよりもおいしい要素を華麗にスルーしてませんか? と気になってしまう部分があるんですよね。

 それが、「サラの死の真相」と、「サラとアルバートの関係」なんですよ。こっちのほうがよっぽど謎だわ!

 サラの死に関しては、アプ女の校舎屋上から投身自殺したような状況がラストで矢継ぎ早に語られるわけなのですが、遺体発見当日の朝に「サラが荷物をまとめて退学して行ったわ。」と校長が語るのみで、実際にそうしているサラを見た人が誰もいないこと。そしてサラの死を知らないはずの校長が、なぜかすでに喪服を着て異様な落ち着きでサラの遺体発見の報にふれるという描写。う~ん、あやしい! 果たしてサラはいつ、どういった経緯を経て、その身を屋上から投じることとなったのか……にわかに自殺とは信じがたいような。
 もっと言うと、ディレクターズカット版でカットされたシーンの中には、その前日の深夜に、「サラがいない」彼女の部屋を校長が物色するという、意味深にもほどのあるくだりがありました。つまり、ウィアー監督はサラと校長の因縁もそんなに強調したくはないのかな? だいたい、ビックリするほどあっさりとした「ナレ死」でかたづけられる校長の死に際にサラの幻影が現れるというあたりもカットされてるんだもんね。でも、映画後半のサラと校長との魂の対立は、演じた女優さん2名の実力もあいまって、この映画の第二の主軸になっていると思います。サラと校長は、本質的に似ている。だからこそ憎み合うという、このアンビバレンツ!

 そして、サラとアルバートという、映画の中ではついに最後まで一度も会うことのない2人が、それぞれの世界にいながらも、かつて孤児院で一緒に苦労を分かち合った「兄妹」として互いを想っているという、この哀しき運命よ!
 ふつう、映画というフィクションの世界ならば、だいたい2人ともそうとう近い場所で生活してるんだからどこかで偶然に再会したり、うまくいけばサラの死の真相をアルバートが知って校長への復讐を誓うといったあたりの王道の展開に突っ走りそうなものなのですが、特にそういった劇的な展開もなく映画が終わってしまうといったクールさが、ものすご~く意地悪で、ものすご~くおもしろい!! 「うぉお~い、アルバート何もせんで終わんのか~い!!」みたいな、ツッコミ待ちとしか思えない伏線の放り投げっぷりが、たまらなく豪気なんだよな~! オーストラリアだけに!!

 ほんとね~、この映画、大好きなんだよなぁ。別にウィアー監督の作品ぜんぶ好きってわけじゃないんですが、この映画は別格なんですよ。
 だもんで、あっという間に字数もかさんできましたので、これ以外、映画を観て感じた好き好きポイントは以下のように簡単に列記させていただきたいと思います。ほんとに頭っからしっぽの先まで大好きな、たいやきみたいな作品なんです。


・開幕から、字幕という極端に簡素な形式で「女学生たちがピクニック中に失踪しちゃいましたとさ。」と結果を伝え、そこからおもむろにピクニック当日の一日が始まるという、まさに映画の定石をぶっ壊しまくった「ぶっちゃけ戦法」! それもきわめて静かに淡々と進むのが、たまらなくクール!! 最初の6分間で完全に魂を奪われちゃう。当然、ブルース=スミートンによるオカリナみたいな素朴な笛主体の音楽も、作品の独特すぎる雰囲気作りに大いに貢献している。とにかく最高なオープニングなんだよなぁ。
・真夏のバレンタインデーに浮かれまくり、さらには待ちに待ったハンギングロック遠足ときてテンションMAX の女学生たち。ただ、開幕であの字幕を読んでしまった観客は、「ああ、この中の何人かが、これから……」とゾクゾクしてしまうわけで、こうした画面中の楽しい空気と観客の不安感との温度の乖離は、まったくもってウィアー監督の策略通りなのである。物語の内容でなく、作品全体の大枠の演出でサスペンスを生み出すというこの作戦は、もしかしたら『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)とか『クローバーフィールド』(2008年)とかいった「モキュメンタリー映画」の系譜に連なるものなのかもしれない。そして、それらのどれよりも洗練されていて、どれよりも美しい!! 山本直樹のマンガ『レッド』(2006~18年)にも通じる超意地悪な、神視点からの演出ですよね。
・正確には制服とは言わないのだろうが、アップルヤード女学校(以下、アプ女と略称)の学生さんは全員、着る物はきつめのコルセットを巻いた上からの真っ白なモスリン地のワンピースに、こじゃれたカンカン帽風ストローハットで統一されているらしい。たぶん、校長が指定している条件に合う衣服を各家庭で用意する形式なのだろう。つまり、かなり似ていながらも、実は一人一人がそれぞれの衣装にキャラクターに沿った微妙なアレンジを加えているというわけで、ここらへんも芸が非常に細かい。昔も今も、ティーンのこだわりは細部よね! それにしても、白いワンピースと真っ黒いストッキングの対比が……露出度が低いのに、なぜこんなにやらしいの!?
・19世紀末のオーストラリアのバレンタインのプレゼント合戦は、チョコレートじゃなくてラブレターなのね! 寄宿制の女子校なので、女性同士の疑似恋愛も当たり前~! 登場して数秒でわかるワケあり生徒サラのメンヘラ気質と、サラに目をつけられた美人生徒ミランダの引きっぷりが実にリアルである。百年以上経っても、青春のドロドロは変わらないのねぇ。
・アプ女の校舎は、いかにもヴィクトリア朝のイギリス建築様式を踏襲した瀟洒な洋館なのだが、乗合馬車で町を出るとすぐに『マッドマックス』みたいな荒涼とした大地になってしまうのが、アプ女の「浮きまくった存在感」と「箱庭のようなリアリティのなさ」を象徴しているようで見事である。ちょっと離れたら毒ヘビ毒アリうようよの危険地帯って、ドラクエか!? オーストラリアあるあるなのかなぁ、これ。
・うら若きアプ女の娘ッコたちがキャーキャー言いながら行く先が、味もそっけもない標高150m そこそこの岩山なのが、なんと言うか隔世の感がある。それだけ娯楽のない時代だったのだろうし、寄宿制学校の締め付けのすさまじさの反動なのだろうが、今どき幼稚園児でも「……何ソレ。」と氷点下のリアクションを返しそうな遠足先である。『ブラタモリ』のコアなファンくらいじゃないの? ハンギングロック見て興奮するの。
・引率のマクロウ先生(数学)による、乗合馬車内でのマセドン山とハンギングロックの由来解説なのだが、数学の先生とはにわかに信じがたい情緒的な表情で語るので、異常に引き込まれる。ただの説明なのに! 演じるヴィヴィアン=グレイの実力がきらめくシーンである。
・マクロウ先生の「百万年前にできたマセドン山」という話を聞いて、「じゃあ、あのお山は百万年も、わたくしたちが来るのを待っていらしたのね~☆」とムチャクチャな論理を展開させる生徒アルマ。なんだ、このナチュラル天動説娘……若いって、こわいね!
・フィッツヒューバート家のおぼっちゃまマイクルと、その家のお抱え御者アルバートとの会話シーンで垣間見える、歴然とした身分の差がわかりやすい。人からもらった飲みかけの酒瓶の口を上着でぬぐうマイケルと、顔にたかるハエをものともせず話し続けるアルバート。対比がうまいね~。
・アップルヤード校長じきじきのマンツーマン圧迫補修授業でも、物怖じもせず自作の詩を朗読しようとするサラ。あっぱれ、中二病の鑑よ!!
・マセドン山へ遠足って、登山せずに麓の広場でバレンタインのケーキを食べてまったりするだけなんかーい!! 最高じゃないか……真夏の午後のけだるい雰囲気が実に克明にフィルムに収められている。
・御者のハッシーと、マクロウ先生の腕時計がどっちも同じ12時で止まっているという符号が、不気味な出来事の始まりを告げている。その辺の空気の持っていき方が、つくづくうまい。
・ただ昼寝をしているから動かないだけのフィッツヒューバート夫妻の脇を、元気ハツラツなアプ女の4人組が走り抜けるというだけのカットが、現世とあの世との時間の流れの違いをあらわしているようで妙にシュール。若者の「動」が向かう先があの世で、老夫妻のいる「止まった世界」が現世なのだという逆転も、面白い。
・マイクル主観の画面になった瞬間に、動きがスローモーションになるミランダ。マイクル露骨だな~! でも、それが青春。
・アプ女の4人組がマセドン山頂のハンギングロックに近づいた時点で、日差しがやや西日になっているのが、観客の不安をいやがおうにもあおる。平和な時間は、もう残り少ない!
・それにしても今さらなのだが、アプ女の指定衣服は登山に100%向かない!! 標高150m とはいえ、山をナメにナメているとしか思えない! 案外、彼女たちのそういった姿が山の神の怒りに触れたから、神隠しに遭ったのかも……日本の山でこんなことしたら、やまんばが黙っちゃいねぇぜ!!
・アプ女の4人組が登山するシーンで、いかにも危険な旅に出るといった感じのかなりドラマティックな音楽が流れるのだが……標高150m じゃん? モスリンのワンピースにヒールブーツで登ってるんじゃん? おおげさすぎでしょ! でも、お嬢様からしたら、確かに真夏の大冒険だよね。ここらへんの、ひたすらミニマムなスケールも面白い。
・他の3人と観客の予想通りに、マセドン山登山に速攻でバテて下山したいと泣き言を漏らすふとっちょ生徒イディス。やっぱり、デb ……ふくよかキャラはそうこなくっちゃ!
・きたきたきたー、黒いストッキングとブーツを脱ぐだけなのに異様にエロいしぐさ!! 4人の中でイディスだけが脱いでいないことからも、明らかにこの行為があの世に行くパスポートになっていることが示唆されている。
・イディスが太っちょキャラとして100点満点の足手まといっぷりを発揮しているのに対し、メガネのマリオンも負けじと、山頂からふもとの生徒や先生たちを見下ろして「なんだかアリみたい……生きる目的もないクセにわらわらと。」と、たいがいメガネキャラっぽい中二病発言を展開させる。こういうキャラクターの色分けの明瞭さも少女マンガっぽいよね。
・たま~に挿入される、ハンギングロックのてっぺんから4人組を見下ろしたようなカメラ視点が非常にこわい。誰? 誰が見てんの!?
・映画が始まって35分で4人が失踪するわけなのだが、ここからがこの映画の真の実力の発揮されるところである。あと3分の2を、オチなしでどうやって進めていくのか!?
・バンファー巡査部長の質問に答えるマイクルの発言が、微妙に事実と異なっているのが非常に興味深い。イディスが3人に遅れて歩いていたのは、マイクルが最初に4人組を目撃した小川の地点よりもずっと上の山頂付近のはずなのだ。ということは……? またマイクルは、なぜミランダを特別視していることをバンファーに隠しているのか……単に恥ずかしいからか? それとも……
・イディスの発言により、「赤い雲」と「ズロース姿で山頂に向かうマクロウ先生」という異常なヒントが! これ、ヒントか? 混乱するだけなんですけど!
・やめとけやめとけと言いながらも、ハンギングロックに探しに行くと言ってきかないマイクルを無下にできず手を貸すアルバート。それでこそ漢だ!! 女子には女子の、男子には男子の友情のかたちがあるんだねい。
・アリ、ハエ、セミ、トカゲ、クモ、ハデな色の鳥ときて、映画が始まって54分10秒後にしてついに、オーストラリアダンジョンの真打「こあら」が満を持して登場!! うをを~、マイクル決死の探索シーンなのに、ぜんぜん緊迫感が生まれないぜ!!
・さらに開始58分55秒後には、あのエリマキトカゲも参戦!! 盛り上がってまいりました!!
・丸2日かけたマイクルの探索も無駄足に終わったかに見えたのだが、その握りしめた拳の中には……という展開が実にうまい。ひっぱるねぇ~!!
・いくら捜索しても見つからなかったのに、失踪して1週間後に1人だけ生還するという異常事態に、ウッドエンドの町民も混乱して暴徒化の一歩手前まで行くという描写が非常にリアル。憔悴するバンファー巡査部長の視点も入れて、アプ女だけの話にしないところがこの映画の上手なところである。『八つ墓村』みたい!
・セリフもないモブなのだが、アップルヤード校長がアルマの保護を伝えた時に、サラの後ろに立っている背の高い生徒さんが非常に美人! なんちゅうもったいないことを!! なんか、なんかしゃべる役、ないの!?
・アルマが生きて帰ったことよりも、学校行事中の失踪が不祥事として取り沙汰されてアプ女の評判がガタ落ちになることを危惧する校長。血も涙もないようには見えるが……経営者はつらいのよ!!
・岩山に1週間もいたはずなのに、脳震盪と爪が全部割れてすり傷だらけの手首以外、アルマに外傷がほとんどないことをいぶかる町医者マッケンジーと、アルマが脱いだはずのストッキングとブーツが発見されていないことが気にかかるバンファー巡査部長。そしてアルマの衣服には、なぜかコルセットだけが無かった……アルマは一体、どこにいたのか? 思わず、矢追純一の UFO特番の時に死ぬほど流れていたジングル音楽(『トワイライトゾーン』のやつ)が欲しくなってしまう展開である。♪ちゃらら~!ちゃらららら~ん!!どんどん!!
・事件解決の糸口が全く見えないこの非常事態の最中に、学費を滞納しているサラを退学処分にすると言い出す校長。一見、言うことを聞かない問題児のサラに対する大人げない八つ当たりのようでもあるが、サラの分の毎日の給食も惜しくなる苦境にあるのではなかろうか。校長、大変!!
・ベッドに横たわりながら、自分のつらい身の上話をしておいて、同情するメイドのミニーの手を振り払うサラ。これだ! このめんどくささこそが青春なのだ!! サラ役のマーガレット=ネルソンさんも、うまいな~。
・数秒間のイメージショットなのだが、マイクルの寝室になぜか生きた白鳥がいるというシチュエーションが、現実なのかマイクルの夢なのかがさっぱりわからず印象に残る。マイクル「なんでいんの……?」白鳥「さぁ……?」みたいな視線のぶつかり合いが妙におかしい。
・アルマの救出後、捜索隊やら新聞記者やらカメラマンやらガキンチョやらおばちゃんやら売店やらで、事件現場なんだか観光名所なんだかさっぱりわからなくなるマセドン山の変貌っぷりが、バンファー巡査部長の苦虫を噛んだような表情と相まって、非常に生々しい残酷さに満ちている。う~ん、19世紀末にもマスゴミはいたのか!
・せっかくアルマが復帰したというのに、集団ヒステリーにおちいり1人だけ生き残った彼女を責め立てるアプ女のモブ生徒たち! しかし、激高するポワティエ先生に平手打ちされるのがふとっちょイディスだけという、この不公平な世の中よ!! イディス「やっぱ私こんな高木ブーポジション!?」
・サラに対して異常な虐待をしていたラムレイ先生といい、徐々に酒と狂気の世界に溺れていくアップルヤード校長といい、2月14日の事件を契機に日常が崩れていくさまがものすご~く怖い……神隠しに遭った4人のように、きれいに消え去れない大人たちのけがれた末路のほうが、ずっとずっと怖い。
・終盤の校長とサラの確執と、それぞれの末路。こここそが物語の核心であり、唯一の「事件」だったのかもしれない。ハンギングロックで起こったのは、あくまでも「なるべくしてなった自然の事象」であり、単なるきっかけに過ぎなかったったのかも。プライベートでもアルコール依存に悩んでいたというレイチェル=ロバーツの演技がすさまじい。


 以上、泣く泣くダイジェストでまとめさせていただきました~。ともかく、数学のように論理的に、少女マンガのようにわかりやすく「幽冥あいまいな世界」を描いているという、それこそ北半球の人間からしたら「真夏にバレンタイン!?」みたいに両極端な要素のケミストリーがすばらしいんだよなぁ。ちょっと、山岸涼子さんの世界に通じるものがあると思います。きわめて単純な描線でドロッドロの情念をえがくような。

 ところで余談ですが、私がこの作品の存在を初めて知ったのはなぜか、我が『長岡京エイリアン』ではことあるごとにその名が登場する、イギリスの伝説の TVドラマ『シャーロック・ホームズの冒険』シリーズからなのでありました。グラナダ! グラナダ!!
 なんでかっつうと、このシリーズの VHSビデオシリーズを買い集めていた時に(1巻2話収録で4千円くらい、日本語吹替えなし……)、第15話『修道院屋敷』にゲスト出演していたアンルイーズ=ランバートさんの経歴紹介で『ピクニックat ハンギングロック』のタイトルが出ていたんですよ。

「なんだ、この題名は……『首つり岩』でピクニック? 気になる~!」

 当時、中学生かそこらだった私は、このタイトルが妙に引っかかっていたのです。あと、アンルイーズさんがどえらい美人だったことも、なんとしてもこの作品を観てみたいという執心のきっかけになったかも……すいません、90%アンルイーズさんがべっぴんさんだからでした!
 作中ではその名の由来はいっさい語られなかったのですが、「ハンギングロック」という名前は、いやがおうにも大英帝国に排斥された先住民族アボリジニの悲運を暗示させるナイスネーミングですよね。そこにいかにも軽率な「ピクニック」を添えるバランス感覚が、たまらなく不穏な空気を醸し出していて最高なんですよ。

 ところでどうでもいいのですが、この作品は日本でのタイトル表記が異様にバラッバラで、創元推理文庫の原作小説とカルチュア・パブリッシャーズの映画公開版DVD が『ピクニック・アット・ハンギングロック』で、SPO のディレクターズカット版DVD と2018年の TVドラマリメイク版が『ピクニック at ハンギングロック』、Wikipedia の記事は『ピクニック at ハンギング・ロック』となっております。個人的には『ピクニック at ハンギングロック』がいちばん好きですね。ほんとにどうでもいい……

 最後に、アンルイーズさんをはじめとして非常に美しく演技力のある俳優さんがたが大挙して参加しているこの作品なのですが、やっぱりこの作品の伝説化に最も寄与しているのは誰かといえば、そりゃやっぱり、アップルヤード校長役のレイチェル=ロバーツさんなのではないでしょうか。この作品の前年の『オリエント急行殺人事件』(1974年)でもいい味出してましたが、こっちでは見違えるようなプライド激高のヴィクトリア朝貴婦人になりきっていますね!

 自分の理想の結晶ともいえるアップルヤード女学校を創立し、厳しい教育を通して一流の英国淑女を生産して世に送り出すことにより、オーストラリアという(英国人から見たら)文明未開の大地を順風満帆に「開拓」している気になっていた校長。しかし彼女が人生を賭けて築き上げてきた「箱庭」は、ハンギングロックという得体の知れない自然の「ちょっとした気まぐれ」によって、もろくも崩れ去ってしまうのであった……彼女の人生とは、いったいなんだったのか。

 そういった校長の理想とその末路を考えると、酒に溺れ精神が崩壊していくその姿を真摯に演じるレイチェルの姿は、決して子どもに厳しく当たるだけのヒステリー教育者にバチが当たったというだけでは語れない悲哀に満ちていると思います。そして、この醜い最期があるからこそ、ラストのラストでポワティエ先生が思い出す、「すぐ帰ってきますわ~。」と輝く金髪をなびかせて振り向くミランダの美しさが、ひときわ観る者の心に迫ってくるのでしょう。ホントに計算され尽くしてるんだよなぁ、最後の1カットまで!

 人類が文明という武器を持って自然に立ち向かい、そしてその力の限界をまざまざと思い知らされる物語。それこそが、『ピクニック at ハンギングロック』の本質なのではないのでしょうか。だとすれば、この作品が日本にも受け入れられるのも全く無理はないのです。芥川龍之介の『神神の微笑』とか柳田国男の『遠野物語』、石原慎太郎の『秘祭』などに通じる「大いなる存在」が、そこには潜んでいるんですよね。そしてその上、ヒラヒラフリッフリのワンピースを着た美少女たちが画面狭しとはしゃぎまわるんですから、鬼にグレネードランチャーでしょ、こんなもん!

 『ピクニック at ハンギングロック』のアップルヤード校長と、『北の国から』シリーズの黒板五郎さんとの違いを考えてみるのも、また一興なのではないでしょうか。人間、謙虚さは大事だなぁ。る~るるるるる~!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これは……ジョーカーなのか? ~映画『ジョーカー』~

2019年10月10日 09時29分23秒 | ふつうじゃない映画
 みなさま、どうもこんにちは! そうだいでございます。

 いや~、もう世の中どうなっとるんでありましょうか!? つい先日に日本の悪役キャラを代表するおぬら様が大復活を遂げられたかと思ってたら、それに呼応するかのように、海を越えたアメリカの超有名ヴィランまでもがリニューアル登板ときたもんでい! 今年の秋も忙しいなぁ~。

 というわけでありまして、私も観てきました、この映画! 楽しみにしてたんですよぉ。
 あいや~……えらいもん観てもうた。


映画『ジョーカー』(2019年10月4日公開 122分 アメリカ)
 『ジョーカー(原題:Joker)』は、DCコミックスの『バットマン』シリーズに登場するスーパーヴィランであるジョーカーを主人公とするサイコスリラー映画。R15+ 指定作品。
 本作は、「DC エクステンデッド・ユニバース」シリーズ作品をはじめ、過去に製作された『バットマン』の映画・TVドラマ・アニメ作品のいずれとも世界観を共有しない、完全に独立した作品である。ジョーカーの原点を描いた内容ではあるが、本作以前の映像作品に登場しているどのジョーカーの過去にも当たらない。
 公開時のキャッチコピーは、「本当の悪は笑顔の中にある」。

 本作の主人公であるジョーカーは、DCコミックスのアメコミ『バットマン』に登場するスーパーヴィランで、主人公のバットマン(ブルース=ウェイン)の対極に位置づけられる最悪の悪役として活躍している。ジョーカーの明確なオリジンは確立されておらず、またジョーカー自身が狂人であるため、語る度に発言が変化すると設定されている。それらの中でも最も有名なエピソードとして、「元々は売れないコメディアンで、強盗を犯したところをバットマンから逃げる途中に化学薬品の溶液に落下し、白い肌、赤い唇、緑の髪、常に笑みをたたえる裂けた口の姿に変貌した」という説が一般に浸透している。
 しかし本作では、このエピソードや他のメディアミックス作品などとの関連性は撤廃され、脚本を手がけたトッド=フィリップスとスコット=シルヴァーによって、ゴッサムシティで母と暮らす「アーサー=フレック」というまったく新たな前身が設定されたが、同時に本作のジョーカーを「信用できない語り手」とすることで、この設定もまた真実であるかどうかは全く不明という、原作コミック以来の伝統を踏襲している。

 監督を務めたトッド=フィリップスは、本作がアメリカの社会格差を風刺する作品として話題を集めたことを認めつつ、映画の目標はあくまでもアーサー=フレックという個人がいかにしてジョーカーという悪役へ変遷するかを描く人物研究であると語っている。この構想を立てたフィリップスは、スコット=シルヴァーと共におよそ1年をかけて脚本を執筆した。脚本は『タクシードライバー』(1976年)や『キング・オブ・コメディ』(1983年)などのマーティン=スコセッシ監督、ロバート=デ・ニーロ主演の作品群に影響を受け、原作コミックから大きく逸脱する内容に完成した。作品の舞台は原作コミックに共通するゴッサムシティであり、1981年当時のニューヨークをモチーフにして創造された。

 本作におけるジョーカーことアーサー=フレックには、個性派俳優として知られるホアキン=フェニックスがキャスティングされた。メガホンを取ったフィリップスは、脚本の執筆段階からフェニックスを意識してジョーカーのイメージを手がけ、彼以外の起用は考えられないと語っている。ジョーカーに次いで重要な役どころとなる TVの大物芸人のマレー=フランクリンにはロバート=デ・ニーロが起用された。

 本作に登場するジョーカーの姿は、原作コミックや先行する映像作品で見られる「白い肌」、「緑の髪」、「赤く笑ったように裂けた唇」といった特徴が踏襲されているが、これらはすべて、コメディアンになりたいジョーカーことアーサーが自ら手がけたメイクとして描かれている。衣装は原作コミックのようなスーツ姿ではあるもののカラーリングは一新され、赤系統色のジャケットが特徴となる。ジョーカーを演じるにあたって主演のフェニックスは、撮影開始前に80kg以上あった体重を「1日をりんご1個と少量の野菜のみで過ごす」過酷な食量制限によって58kgにまで減量した。

 本作は、アメリカでは公開初日からの3日間で約9,620万ドルを記録。日本では公開初週の土日を含めた3日間で動員49万8千人、興行収入7億5千万円を記録し、5日間で10億2千万円を記録した。
 このように興行的には大成功を収める一方で、本作は物語がマーティン=スコセッシ監督作品の『タクシードライバー』や『キング・オブ・コメディ』の影響が強い点、暴力や殺人を美化する内容、精神疾患に関する描写から、評論家による評価は賛否両論となった。


あらすじ
 1981年のゴッサムシティ。大都市でありながらも財政の崩壊により街には失業者や犯罪者があふれ、貧富の差は大きくなるばかりだった。そんな荒廃した街に住む道化師のアーサー=フレックは、派遣ピエロとしてわずかな金を稼ぎながら、年老いた母親ペニーとつつましい生活を送っていた。彼は緊張すると発作的に笑い出してしまう病気のため定期的にカウンセリングを受け、大量の精神安定剤を手放せない自身の現状に苦しんでいる。しかしアーサーには、一流のコメディアンになるという夢があった。ネタを思いつけばノートに書き記し、尊敬する TV界の大物芸人マレー=フランクリンが司会を務めるトークショーが始まれば、彼の横で脚光を浴びる自分の姿を夢想する。
 ある日、アーサーはピエロ姿で店の看板を持ちながらセールの宣伝をしていると、不良の若者たちに暴行を受けてしまう。後日、アーサーは派遣会社から看板を壊したことと仕事を途中で放棄したことを責められるが、アーサーを心から気にかけてくれるのは小人症の同僚ゲイリーだけだった。アーサーの生活は酷く困窮しており、母ペニーは30年ほど前に自分を雇っていた街の名士トーマス=ウェインへ救済を求める手紙を何度も送っていたが、一向に返事は届かない。不運が続くアーサーの心のよりどころは、同じアパートに住むシングルマザーのソフィー=デュモンド。アーサーはソフィーとは挨拶をする程度の関係だったが、アーサーは度々ソフィーの後をつけ、その姿を眺めていた。

 またある日、アーサーはピエロの仕事中、同僚のランドルから護身用にと強引に手渡されていた拳銃を子ども達の前で落としてしまい、上司からクビを宣告される。ランドルが保身のために自分は関係ないと嘘を吐いたことも分かり、絶望したアーサーが地下鉄に乗っていると、1人の女性が酔っ払ったスーツの男3人に絡まれていた。アーサーは見て見ぬふりをしようとするも神経症の発作が起きて笑いが止まらなくなり、気に障った3人から暴行を受けると、反射的に拳銃を取り出して全員を射殺してしまう。混乱と焦燥感に襲われ駅から駆け出すアーサーだが、次第に言い知れぬ高揚感が己を満たしていく。


おもなキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
アーサー=フレック / ジョーカー …… ホアキン=フェニックス(45歳)
マレー=フランクリン      …… ロバート=デ・ニーロ(76歳)
ソフィー=デュモンド      …… ザジー=ビーツ(28歳)
ペニー=フレック        …… フランセス=コンロイ(65歳)
トーマス=ウェイン       …… ブレット=カレン(63歳)
ギャリティ刑事         …… ビル=キャンプ(58歳)
バーク刑事           …… シェイ=ウィガム(50歳)
ランドル            …… グレン=フレシュラー(51歳)
ゲイリー            …… リー=ギル(?歳)
カール             …… ブライアン=タイリー・ヘンリー(37歳)
アルフレッド=ペニーワース   …… ダグラス=ホッジ(59歳)
ブルース=ウェイン       …… ダンテ=ペレイラ・オルソン(11歳)

おもなスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督 …… トッド=フィリップス(48歳)
脚本 …… トッド=フィリップス、スコット=シルヴァー(?歳)
音楽 …… ヒドゥル=グドナドッティル(37歳)
撮影 …… ローレンス=シャー(49歳)
配給 …… ワーナー・ブラザース・ピクチャーズ


 ものすごい映画でしたね~。湿度 MAX、タバコ臭さ MAX、そして観た後の激重だる感も MAX!!

 最初にこれは言っておかねば、とは思うのですが、本作の主人公アーサーが成り果ててしまう道化師のメイクをした連続殺人犯は、やっぱりどこからどう見ても、あの『バットマン』サーガでバットマンと丁々発止の名勝負を永遠に繰り広げるヴィランのジョーカーとは、まるで別人と言わざるを得ません。
 それはまぁ、作中に登場した大富豪の御曹司ブルース=ウェインと30歳以上の年の差があるという時系列から見ても明らかではあるのでしょうが、やっぱり「中身」というか、アーサーの「ギャグセンスが皆無」というところがずっと変わっていない以上、やはりあのジョーカーとは本質的に別の存在かと思うんですよね。
 たぶんフィリップス監督としては、本作でのアーサーの犯罪に影響されたゴッサムシティの若者の中のひとりがジョーカーになったという雰囲気をにおわせる程度で、あくまでもそのパンドラの匣を開けるトリガーとして、大都市の不条理と自身の冷酷な運命にボロ雑巾のようにめちゃくちゃにされたアーサーという名もなき中年男をいけにえに選んだのでしょう。

 この作品に登場するアーサーは、生活上の必要から大道芸人になったり、自身の夢を追ってスタンダップコメディアンを目指したりするわけですが、自分も他人も心の底から笑わせることができないという絶望的な苦境にあえぎながら生きている哀れな中年男です。彼の突発的な爆笑が、どうやら幼少期の DVの後遺症からきているらしい心理的な障害であるという設定も、あまりにも意地が悪すぎますよね……


 ここでちょっと話を脱線させまして、これまでの映像化されたバットマンシリーズにおける歴代ジョーカーの「笑いのスタイル」を振り返ってみましょう。私が好きなジョーカーは、こっち!

 シーザー=ロメロの初代ジョーカー(1966~68年)は何のてらいもない純粋なお騒がせ愉快犯として笑いを提供しており、いわば植木等~志村けん的なスタイルだったと思います。映画版『バットマン』(1966年)では悪人連合の使いっぱしりを笑って引き受けていたし、なんだったら調子に乗ったペンギンやリドラーの暴走を制止しようとする人の好さも露呈していましたからね。「お前、頭おかしいんじゃないの?」というセリフをジョーカーが言うとは……

 現代におけるサイコパスな犯罪者としてのエポックメイキングとなった、ご存じティム=バートン版『バットマン』(1989年)でジャック=ニコルソンが演じた2代目ジョーカーは、面白いんだか何だかよくわかんないけど、その強引すぎる狂気のハイテンションと言動の勢いを持って「面白いよな!? お前も笑えよ!!」と周囲をグイグイ巻き込んでいく1980年代ビートたけし的スタイルと言ってよいかと思います。まさに毒ガス!

 その一方で、なんとそのニコルソンジョーカーという高すぎる壁を跳び越えうる存在となった『ダークナイト』(2008年)のヒース=レジャー演じる3代目ジョーカーの笑いのスタイルはと言いますと、本人はひたすらムスッとして笑うことなんかほとんどないのに、そのローテンションな言動がなぜかキュートでハイセンスで面白いという、1990年代の松本人志的スタイルということになるのではないでしょうか。あの、言っときますけど、2000年代以降の、ゲストのたいして面白くもない発言にニャハニャハ笑ってる松本さんとは全然ちがいますからね? 今の松本さんはもう、面白いは面白いんだろうけど TVサイズの人間になっちゃったって感じですよ。1990年代は完全にジャンルや人間の領域を超えてましたからね。

 この3大ジョーカー俳優以後は、2015年から TVドラマシリーズ『ゴッサム』で4代目ジョーカーを好演しているキャメロン=モナハンと、映画『スーサイド・スクワッド』(2016年)で5代目ジョーカーを演じたジャレッド=レトが続くわけなのですが、モナハンジョーカーは私も大好きではあるのですが過去の映像版ジョーカー像を巧みに再編集したいいとこどりであるがゆえにオリジナリティがあるとは言い難いジレンマがあり(むしろ『ゴッサム』はハーレイ・クインが最高!!)、レトジョーカーは出演時間的にギャグを言う暇も無かったので判定不能です。
 まぁ、モナハンジョーカーは無理やりお笑いに変換すれば「コロッケ的笑い」ということになりますかね……とっつぁん坊や七変化!

 そんな感じの中で通算6代目ということになる今作のホアキンジョーカーはどうなのかと言いますと、とにかくその生き方のみじめさで人々の嘲笑を浴びるリアクション芸人的な笑いということになるでしょうか。まぁ、映画を観ても分かる通り、演じるホアキンさんもそうとう身体張ってますからね……
 でも、このスタイルってやっぱり、私の大好きな「犯罪道化師ジョーカー」とは違うような気がするんだよなぁ。カリスマ性のあるヴィランになるとは到底思えないのです。アーサーや彼の母親が憧れの対象としていた TV界の大御所司会者マレーを憎悪するようになる展開も、ある意味で過去のエンタメキャラとしてのジョーカー像を打ち砕くという下剋上の意味があるのでしょうが、アーサーのスタイルである「天然リアクション芸」というものが、祭り上げられ愛された途端に面白さを失う種類の笑いであることは間違いないのです。笑われていることを自覚したら終わり……それをずっと続けられている出川哲朗さんって、やっぱ天才なんだなぁ。

 お話を映画に戻しますが、この映画がバットマンシリーズのジョーカーを、そのまんまスピンオフさせた作品でないことは間違いありません。ひたすら暗く、テンションが低く、落ち込む展開が続く映画……でも、それなのに本作は異様に観る者を引き込む「面白い」映画になっているのです。
 それはどうしてなのかと言いますと、それはやはり、ジョーカーというブランド名にあぐらをかかない、というか徹底的に過去のジョーカー像を排斥した上で、純粋なひとつの映像作品として十二分に楽しめる「サイコサスペンス劇」になっているからだと思うのです。
 バットマンシリーズのキャラのスピンオフ作品としては、かつて2004年にオスカー女優のハル=ベリーを主演に擁した伝説の映画『キャットウーマン』があったのですが、あれがああなっちゃって今回の『ジョーカー』がああならなかったのは、ストイックなまでにジョーカーに頼らない「脱ジョーカー」な構成が功を奏したのではないでしょうか。もはや、ジョーカー関係なくてもおもしろいのです。

 ……え……じゃあ、この映画の主人公が「ジョーカー」である意味って……ま、ぶっちゃけ、無いっすね。

 ただ、ここで声を大にして言いたいのは、フィリップス監督とホアキンさんが「バットマンのジョーカーなんか出てこねぇよバーカ!」という姿勢を最後の1カットまで取り続けているということは、お客さんから「金返せバカヤロー!!」とゴミなり食べかけのリンゴなりバナナの皮なりを『バットマン・リターンズ』のペンギンみたいに投げつけられる覚悟をガン決まりに決めた上で、このとんでもなくアウェーな賭けに出ているということなのです。そしてその結果、この『ジョーカー』はかなり多くの方々の「ジョーカーじゃないけど、いいよ!!」という赦しと賞賛を得るという大勝利をつかみ取りました。これ、ものすごいことよ。
 実際に私も、私が愛してやまない、あの全身紫色のジョーカーが出てこないのはちと気になりはしましたが、今作のおいしいおいしい焼いもみたいな黄色シャツに真っ赤なジャケットの道化師が登場するシーンを見て満足してしまったのです。

 裏切られはしましたが、確かにこの映画は面白い。「だまされたと思って観てみてヨ。」なドッキリを、プロの才能が集まって頭おかしいくらいの本気度で取り組んで仕掛けた結果、ほんとに世界を騙す大傑作が爆誕しちゃったわけなんだな!


 ここからは、バットマンサーガうんぬんとは無関係の部分での本作の面白さを考えてみたいのですが、私が映画館で観た限り、その魅力のポイントは大きく分けて3つあったかと感じました。


1、「信頼できない語り手」としてのアーサー視点の可視化

 この作品は、ほんとはフィリップス監督じゃなくてリドラーが撮ったんじゃないかってくらいに、ボーっと見ていると「あれ、こことあのシーン、つながってなくない?」とか、「あのシーンってほんとにあったの? 想像?」みたいな違和感がじわじわ観客の脳内に侵食してくる謎、謎、謎だらけの映画となっております。おちおちチリドッグを食べてるヒマもありゃしねぇぜ!

 主人公のアーサーの精神状態がかなりヤバいことは明らかなわけなんですが、そのアーサーが実際に直面している現実世界のシーンなのか、それともアーサーがあまりの現実のつらさから自身の「こうであってほしい」願望に逃避している幻影のシーンなのかが、この作品はわざとはっきりボンヤリさせた上でさくさく話を進めていくので、観客の猜疑心を高めてアーサーの心理状態に近づけていくというテクニックがかなり成功しているのが、この映画の本当に恐ろしいところです。
 本作、上の情報で述べたように R指定になっている映画なのですが、作品自体を画づらだけで見ていくと、そりゃまぁ話の行きがかり上、残酷な殺人はあるにしても、適度な遠景で撮影しているので昨今のホラー映画ほどエグい描写にはなっていませんし、ましてやエッチな展開などまるで出てきやしません。ハーレイ・クインなんか出てくる気配もありゃしねぇや!

 それなのにがっつり R指定になっているというのは、明らかにこの作品が、残酷さやエロさとは別の「なにか」で危険なしろものになっているということなのです。それはやっぱり、観客の精神状態を直接的に不安定なものにしてしまう、ほとんどプロパガンダや催眠のような強制力なのではないでしょうか。そして、物語の大半でひどい目にばっかり遭わされ続けてきたアーサーが最終的に選び、一部の民衆が熱狂的に受け入れた自己救済の道は「殺人」だったのです。これは……倫理的にヤバいにもほどがあります!!

 たぶん、劇場で何度も集中して鑑賞したり、のちにリリースされるはずのソフト商品を繰り返し観たら、具体的にどこが現実パートでどこが妄想パートなのか、フィリップス監督はちゃんとわかるようにヒントなり解答なりをちりばめているのでしょうが……こんな映画、何回も観たくねぇ!!

 悪夢や……悪夢なんやけど、なんか惹かれるものがある悪夢なんや! なんか、個人的にはアンジェイ=ズラウスキー監督の『ポゼッション』(1981年)にかなり近いもののある酩酊感をもよおす作品だと思うんですよね、この『ジョーカー』って。
 そういや、あの映画も主演俳優さんにそ~と~なプレッシャーをかけてたな! 監督、こわすぎ……


2、ホアキン=フェニックスの入魂過ぎる役作り

 こりゃあもう、実際に観ていただくより他ないのですが、ホアキンさんの役作りがもう、頭おかしいとしか言いようのない熱の入れようなんですよね。ニコルソンジョーカーとヒースジョーカーという、絶対に相手にしたくない激高ハードルを前にしても、ホアキンさんは全く臆することなく真剣に真正面から、文字通り「身体一つ」でぶち当たっているのです。このうちの誰が一番すごいのかという議論は、もはや好みの問題なのでいちいち言及しませんが、ホアキンさんが負けているということは絶対に無いと断言できるでしょう。ほんと……身体をいたわれ!!

 だって、あの背中、観た!? つまりホアキンさんは、メイクも演出も CGも全く必要とせずに、正真正銘その肉体のみで、アーサーの歪んだ半生や心理状態、そしてその先に待ち受けている異形のものへの変身を、セリフすら使わずに数秒で表現しきっているのです。

 なんでも身体を張りゃいいってもんでもないけど、今回の主人公アーサーに限って言うのならば、ホアキンさんという依り代が無ければ絶対に成功しえないキャラクターだったのではないでしょうか。ふくよか系のニコルソンジョーカー、隠れマッチョ系のヒースジョーカーときて、今度はガリガリ系のホアキンジョーカーですか……う~ん、よりどりみどり!!


3、ヒドゥル=グドナドッティルの音楽のものすごい存在感&ジャストフィット感

 これもまぁ、四の五の言わずに作品を観てみてくださいって話なんですけれどもね。
 本作は劇中で流れる音楽に関して、フランク=シナトラやゲイリー=グリッターといった、作中の時代設定である1981年から見るとひと昔かふた昔にあたるなつかしの歌謡曲やジャズナンバーが多用されている部分が目立つのですが、それと同時に、アーサーの「堕ちていく」危機的状況を明示する音楽として、ヨーロッパ極北の島国アイスランド出身のチェリストであるヒドゥル=グドナドッティル女史の奏でる、異常に重力のあるナンバーが要所要所でその存在感を発揮しています。無理やり日本語で表現するのならば、まさに「ずぅぅ~ん」とか「どよよぉお~ん」としか言いようのない調べですよね……

 人生の中での「笑う / 笑われる」シーンをテーマにした、誰もが知っている有名なポップスが陽気に次々と流れていく一方で、あたかも車の両輪、陽と陰の関係にあるかのように、ふとした瞬間にアーサーの背後に現れ、首根っこをつかんで地面に叩きつける悪魔のような役割を果たしているグドナドッティルさんの音楽は、フィリップス監督の演出、ホアキンさんの演技と同程度に本作の完成度の高さに寄与している重要なファクターだと思います。サントラ買っちゃいますよ、こんなもん! まぁ、ドライブとかデートで流せるアルバムじゃないですけど……

 よく「笑いとは緊張と緩和のバランス効果である。」と言われますが、本作のフィリップス監督がコメディ映画で名を挙げたお人であるということからわかるように、この映画は非常に陰鬱な作品であるのに、さらにはまともな冗談すら全く思いつかないアーサーを主人公にしているというのに、なぜかその転落人生に時を忘れて見入ってしまうのは、フィリップス監督のバランスセンスの良さにあると思います。キツイ展開が続いて息が詰まりそうになると、アーサーの必死なあがきがなぜか滑稽に見えてしまう細やかな描写が差しはさまれるんですよね。この、ギャグ的な息継ぎが絶妙だから観ていられるのです。ここらへん、似たような感じの映画でも『ブラック・スワン』(2010年)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000年)には無かったアドバンテージだったように感じました。

 そして、そういった意味でも緩和がアメリカのオールディーズナンバーで、緊張がグドナドッティルさんのチェロの調べという白黒はっきりした采配が大成功していたのではないでしょうか。本当に、この映画は完成度が高い!


 以上、こんな感じで「ジョーカーの全く出てこない映画」なのに世界的な大ヒットを収めている『ジョーカー』を観た感想をつづってきたのですが、これ、やっぱ大ヒットしたってことは続編、出るんでしょうかね? でも、本作はラストのラストでアーサーが「全てはジョークさ……」と嘘いつわりのない微笑を浮かべた時点で充分すぎる程にオチていると思うので、続きを作るだけ野暮のような気もするんですが。

 続編を出すってことは、この世界におけるバットマンのデビューとか、アーサーに心酔した若者が「のちのジョーカー」になるっていう展開も観られるのでしょうか。う~ん、それ観たいか!?

 個人的な話になるのですが、私、『タクシードライバー』は観てるんですが、なんとも勉強不足なことにデ・ニーロの『キング・オブ・コメディ』をまだ観てないんですよ! あの、コサキンラジオで小堺さんが「気持ち悪すぎて吐いた。」って言ってた、伝説の作品です!!
 これ、ちゃんと観ないとなぁ。本作にかなり近い作品ですよね。

 そういえば、本作の最初に丸っこい「 W」の赤文字が迫ってくる1980年代のワーナーブラザースのロゴは、キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)でも使われていたバージョンでしたよね。『ジョーカー』でも、『シャイニング』へのオマージュと思われるシチュエーションのシーン、ありましたよね! まさか、ブルースのおやじがあんなにいけ好かない奴だったとは……いや、あれも妄想なのか。

 いろいろ感じるところの多い大傑作ではありましたが、それはそれとして、DCコミックス陣営としてド正統なバットマンシリーズの映画新作も、早く出してほしいかな!? そして、新たなる若き7代目ジョーカーのご登場も、楽しみにしております! モナハンジョーカーの銀幕デビューでも全然いいけどね!!

 とりあえずは、ホアキンさん大変お疲れさまでございました! ごはん食べてね!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする