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礼儀。

2006-11-18 00:27:14 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。


昨日、谷戸公民館のロビーでオネエサンにもあげよう、と、緑の葉っぱにとまった緑の直翅目の虫をくれたかたがいました。いやオネエサンではありませんがとまた余計なことを言いながら受け取りました。この技能、生かさないともったいないよねえと思いながら、打ち合わせのあと戻ると、葉っぱのくずすら残っていませんでした。

ひさしぶりに週刊文春を買ったらニュースグラビアは美香容疑者で、私はページを閉じます。こういう事件を犯した者の「やっぱりねえ」を挙げた数に比例して読者の好奇心は満足するのでしょう。こういう事件を犯すということにつらくなる自分の気持ちにそれらの言葉は優しいわけがありません。

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コミュニティーにかぎらずかかわる世界何でもそうでしょうけれど、
ほとんどコミットしなくても
そこに在ることを提示された刻印はかぎりなく曖昧でも
心の中にひそかに根を張っているらしいのです。

そこからその対象が消えたと知るときの欠落感というのは。


在るだろうと安心しているものです。
在りますかと聞いては縁起が悪いような。
なんにでも終わりがあるのでしょう。
宇宙の不思議のように始まりに終わりは匿れてゆくのでしょう。


鷲田清一さんが存在はひとに与えられるものだと思う
とテレビ番組で言っていました。

なるほどなあ
というのは表面をなぞるだけで掘り下げる理知もなし。



与える対象を通じてひとは自分の存在を見るというように思いました。
与える経過をへし折られるような又は途への入り口を閉ざされるとき
惑うて足らずに狂えぬひとは死ぬかもしくは殺すのかもしれません。

人は人の惑いには、蜜の味を味わうとき以外は礼儀として無関心です。



コミュニティーの管理人さんが亡くなったことを知った後も何も書き込めず退会もしていません。ゆうばり映画祭はこの夏に終わっていたことを知ってもせいぜいばかなことを日記に書いたなというぐらいです。ともだちがそのともだちがミクシィから去ったことで凹んでいると聞いてワケワカ言葉がくるくる頭からわき出しまして、そのうちはなしはアッチのほうへ行ってしまいます。


コメント
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