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ヒトラーヘイトグッズとホロコースト〜ボストン 第二次世界大戦国際博物館

2020-05-25 | 歴史

ボストン西部のネイティックにあった第二次世界大戦博物館から、
今日はナチスとヒトラーディスカウントに関する展示をご紹介します。

まず冒頭の写真は、アメリカで第二次世界大戦中出回っていた
ヒットラー関連グッズのうち、トイレットペーパーホルダーで、

Wipe Out Hitler

とヒトラーの似顔絵が最初にだけ印刷されたトイレットペーパー付き。
ワイプアウト、というのはそのまま壊滅させるという意味ですが、
ワイプ=拭く、とかけているというわけです。

チョビ髭を生やし、黒い髪を横分けにしておけば
とりあえず全然似ていなくてもヒトラーだと思ってもらえることから、
当時のアメリカではこういう愚にもつかないヒトラーグッズが
次々と生まれたり、盛んにカリカチュアが描かれたりしたようですね。

上のスカンクの木彫りの人形は、顔だけがヒトラー。
いったいこんなもの誰が買うと思って作ったのか。

左の絵はがきは、米中ソ英の軍隊が旗を立てて祝う日、
それはヒトラーが絞首刑になり、枢軸国の首脳が牢屋に入るとき・・・、
という図です。

前にも書きましたしこの絵を見ても思うのですが、
ヒトラーとムッソリーニはそうと分かるとして、それでは
日本の首脳って・・・・・これ誰ですか?

眼鏡をかけつり目で出っ歯、というステロタイプの日本人は
アメリカ人が独裁者呼ばわりしていた東條英機にも、ましてや
わが天皇陛下にも金輪際似ていません。

そもそも日本はドイツやイタリアと違い、独裁政治の国ではないので、
こういうときにヒトラーやムッソリーニと一緒に出てくるのは国民感情抜きにして
「解せぬ」って思うんですけど・・・まあアメリカ人にはどうでもいいのか。

ヒトラー総統、そうかと思えばロバにもなってしまいます。
Jackass、ジャッカスとは「間抜け」とかいう意味なのですが、
このゲームは、

「アドルフのお尻に尻尾を打とう」

って、全く意味がわかりません。
ヒトラーを馬鹿にしたい気持ちだけは大いに伝わってきますが。

その上のカードは、ヒトラーが便器から顔を出して、
「BENITO!」(ベニート、ムッソリーニのファーストネーム)
と枢軸国の中間を呼んでいます。

臭いもの同士一緒に入りましょう、ってか?

何かと下ネタを絡めてくる傾向は、アメリカ人の子供っぽさを表しています。

ヒトラーがお尻を突き出している人形、これはどうもピンクッションらしいですね。
ここに針を打つたびに「このヒトラー野郎!」とか罵ってやると一層効果的です。

上の金属プレートはもしかしたら車のフロントに掛けるものかもしれません。

「ヒット・ヒットラー 、ボイコット・ドイツ」

さしずめ日本語ではヒットラーをひっとらえろ、みたいなノリですかね。

左下はヒットラーの肖像画に「殺人罪で手配中」と添えてあります。
もしかしたらバッジかもしれません。(誰がつけるんだこんなもの)
ちょっと注意していただきたいのは、このバッジにさりげなく

アドルフ・シックルグルーバー、通称「ヒトラー」

とありますが、この「シックルグルーバー通称ヒトラー」は訳ありで、
というのは、ヒトラーの父アロイスは、もともと
シックルグルーバーという姓の未婚女性の私生児でしたが、
その名前を嫌って母の再婚相手の「ヒードラー」を名乗り、
それがいつのまにか「ヒトラー」になったという経緯があるのです。

つまりヒトラーというのはいきなり彼の父が創作し名乗った「通名」で、
ヒトラーの法律的な本名はシックルグルーバーだったということを、
当時のアメリカ人が
知っていたということになります。

このなんとも言えない響きの本名を揶揄しているというわけですが、
わたしも昔読んだナチス本のなかに、

「このこと(父親がヒトラー性を”創作”したこと)は、
将来のドイツ国民にとって
幸福だったと言えるだろう。

国民が手を挙げて『ハイル・シックルグルーバー!』と叫ぶ様を想像してみるが良い」

というようなことが書いてあった覚えがあり、大いに同感したものです。

思うんですが、もし仮に彼の名前がシックルグルーバーだったなら、
あそこまでカリスマ的指導者となり強大な権力を掌握できたでしょうか。

 

ちなみに、手塚治虫の「アドルフに告ぐ」のテーマになったり巷間囁かれていた
ヒトラーが実はユダヤ人だった、という説は今日では否定されています。

アンクル・サム(米)熊(笑・ソ連)英国紳士が、
ヒトラー著、「我が闘争」(MEIN KAMPF) のページに
枢軸国首脳を挟んで
押し潰してしまおうとしております。

ここにも眼鏡つり目出っ歯の謎の日本人が登場します。
だからこれ誰なんだよ!

しかし、この絵の中で戦後アメリカの敵となるのは熊だけだなんて、
このときは何人たりとも思っていなかったでしょう。

当博物館閉館のローカルニュースを見ると、そこには
いわゆるホロコーストを生き延びた94歳の生存者から
当時の話を聞く社会科見学の生徒たち、という記事がありました。

ここには、大変充実したユダヤ人絶滅収容所などホロコースト関係の展示があるからです。

当博物館の展示品を実業家にしてユダヤ人議会の大物、ロナルド・ローダー
(エスティローダーのトップ)
が買い取ったというのも、
この所蔵品が目当てだったのかもしれないという気がします。

 

まず、壁にかかっているのが囚人を打った鞭各種。

右側の囚人服を着ていたのは、ヨーゼフ・ヴォルスキーというポーランドの人で、
彼はアウシュビッツ、マウトハウゼン、ブーフェンヴァルトにいた、とあるのですが、
三つの収容所はそれぞれポーランド、オーストリア、ドイツに存在するもので、
本人が嘘をついていたのでなければきっと何かの間違いではないかと思われます。

Nur für Arier!
Juden unerwünscht!

(アーリア人専用!ユダヤ人禁止)

という看板は第三帝国では公園、遊園地、劇場、あらゆるところにありました。

ナチス国家にとって、ユダヤ人の隔離政策は不可欠とされました。
ナチスの反ユダヤ主義の最も重要な側面の一つは、彼らを
肉体的にも排除していこうとする徹底した政策を実現したことです。

1937年から38年にかけては、ユダヤ人と非ユダヤ人の間で
物理的な接触が起こらないようにする措置が奨励されました。

アメリカの政治家にはユダヤ人が入り込んでいる、というプロパガンダ。

左、バーナード・バルークはルーズベルト政権の顧問として力を持っていた政治家で、
メリルリンチの共同経営者、「影の大統領」とも呼ばれた政界の黒幕です。
「冷戦」という言葉の生みの親であり、またマンハッタン計画にもかかわり、
京都への原子爆弾投下を強く主張していた人物でもあります。

中、ヘンリー・モーゲンソーはルーズベルト政権の財務長官を務めました。
戦後、ドイツから農業以外の全ての産業を奪うという「モーゲンソープラン」
あまりにユダヤ人としての私怨が絡んでいて実現性にも欠け、却下されています。

右、フェリックス・フランクフルターは法律家で、
アメリカ合衆国連邦最高裁判所陪席判事を務めました。
民間人でありながら、ドイツに対する攻撃的な姿勢が買われて
陸軍航空軍の長官を務めたスティムソンのもとで弁護士を務めました。

スティムソンは日本に対しても強硬派で日系人の強制収容を推進し、
また、原子爆弾の製造と使用の決断を管理する立場にありました。


このほかにも、ドイツのジャーナリズムは一斉に反ユダヤ的な
キャンペーンを行い、政権を後押ししました。
戦後ドイツはその責任の全てをナチスに押し付けていますが、
あそこまで徹底的なことができた背景には、もともと国民のなかに
根深いユダヤ人嫌いの傾向があったのは否定できません。

たとえばミュンヘンで発行された新聞、「デア・シュテュルマー」は、

「ユダヤ人は我々の不幸である」

という反ユダヤのスローガンを掲げました。

「ドイツの女性よ、少女たちよ!
ユダヤ人はあなたたちを破壊する」

この過激なキャンペーンは、すぐさまドイツ国内のみならず、
世界中で有名になり、新聞のコピーは瞬く間にアメリカ、ブラジル、
カナダ、その他のドイツ移民集団に行き渡りました。

もちろんそれはキャンペーンを非難するうねりとなって帰ってきました。
主に猟奇的な性犯罪を論って激烈で下品な煽動をおこなったため、
他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ
批判の声が上がっていたといわれています。

Bundesarchiv Bild 146-1997-011-24, Julius Streicher.jpgムッソリーニリスペクト?

このキャンペーンを張った「デア・シュトルマー」紙の発行者、
ユリウス・シュトライヒャー(1885-1946)は、戦後捕らえられ、
ニュールンベルク裁判で
ユダヤ人迫害の煽動をした罪で絞首刑に処せられました。

シュトライヒャーが処刑されたのは、彼が単に新聞発行者ではなく、
ナチス党員の指導者的な立場でもあったからです。

昨年夏、アメリカで借りていた部屋で無料の映画などを見まくったのですが、
その中にアメリカのテレビが制作した

「ヒトラーの子供たち」Hitler's Children

という番組がありました。

Hitler's Children - Education Episode 3 of 5

動画の26:24と27:12に、この器具でSSの医師に
頭蓋骨の形を計測されている
ドイツの子供の映像が出てきます。

ナチスのアーリア人至上主義に始まる人種政策は、
身体的特徴が人種を示すという概念を含む「疑似科学理論」に基づいており、
こういった道具や、映像にも出てくる瞳の色を調べるチャートなどを使い、
人種のカテゴリーを分類するためのテストを行いました。

彼らの思うところのアーリア人種的要素が多ければ多いほど、
優秀なドイツ人であるとされたのです。

このことはアーリア系の選民意識をくすぐると同時に、そうでない人種を蔑み、
彼らを排除する政策になんの疑いももたない子供が育っていきます。

戦後の戦犯裁判で、ユダヤ人収容所での殺害で起訴されたドイツ人は、
かなり上の位の将校クラスであっても、口を揃えて

「ユダヤ人を絶滅させることはいいことだと信じていた」

と証言しています。
全てがこういった似非科学に基づく教育と宣伝の賜物でした。

左の木の看板は劣化している上亀の甲文字で読めなかったのですが、
「ユダヤ人と、ここなんとか」
と書いてあります。

その下の絵は収容所から自由になった囚人たちが描かれていて、
オランダ語で、

ハッセルトの元戦士の団結した戦線、都市の政治犯に感謝
(直訳)

とあります。
なんかようわからんが自由になったオランダ人囚人が描いたと見た。

 

ちなみに、所蔵品のリストを見る限り、こういったホロコースト関係の
囚人服や遺品などの展示物は全部展示できないくらいたくさんあるようで、
わたしが見たのも全体のごく一部のようです。

1933年、ナチスが政権を握ったとき、彼らは

「ユダヤ人は人間以下であり、社会から完全に排除されなければならない」

という信念に基づいて、一連の法律と社会的措置を実行に移しました。

まず、法律の適用を外し、経済的に、そして社会生活から
徐々にユダヤ人を排除していくという方法が取られます。

そして、ドイツの侵攻と東ヨーロッパとソビエト連邦の占領をきっかけに、
大量処刑が行われた後、大規模な最終解決のための強制収容所が設立されました。

戦争の陰で、600万人のユダヤ人の男女、子供たちが、
ドイツ国家の意図的な行為によって組織的に殺害されたとされます。

チクロンBのラベルも当博物館の展示の一つです。
チクロンはドイツ語発音に近く、英語では「ザイクロン」と発音しているようです。

もともとチクロンBは1920年代に開発されたシアン化合物ベースの農薬でした。
1941年8月、アウシュビッツでソ連の捕虜を部屋に閉じ込め、化学物質を注入し、
処刑したのが、捕虜を殺す方法として用いられるようになったのです。

そしてアウシュビッツービルケナウ、マイダネック収容所などに
特別なガス室が建設され、
いわばより効率的な殺害プロセスが可能になりました。

戦時中にはユダヤ人を含む約100万人がチクロンBで殺害されたとされます。

 

続きます。