ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

残る桜と散る桜〜岡山玉島 散り花見旅行

2018-04-10 | 軍艦

呉の観桜会では満開の桜を楽しんだわたしですが、
実はその翌週に「予備のお花見旅行」の予定を立てておりました。
(厳密にはわたしではなくTOがほとんど勝手に立てた計画ですが)

一年も前から予約していたその宿は、ここ備後屋。
岡山県玉島に大正年間から営業している老舗旅館です。

大正三年創業、この洋風の建物部分は当時燃料会社のオフィスだったとかで、
レトロな雰囲気です。

備後屋といいつつ、ここは備前岡山に位置します。

神戸出身で関東在住のわたしたち夫婦が、震災後くらいから
何かと足を向けることが増えたこの土地ですが、つい最近、
なんと、我が家の先祖が備前岡山出身であったことが判明しました。

児玉源太郎の陸軍時代の同僚で、退役後某地方の群長になり、
ワシントンに桜を寄贈することについても尽力したというこの先祖を
さらに辿ると、その本流は備前岡山だったらしいのです。

我々が山陽地方に行くようになったのも先祖の縁のなせる技だったのか、と
若干不思議な思いを感じずにはいられません。

その話はともかく、ここは備前藩の屋敷跡として史跡指定されています。

これが備後屋創業以来変わらない正面玄関。
この内部は燃料会社だったビルと内部で繋がっています。

チェックアウトするときに中からショパンのピアノ曲が聴こえていました。
伺ってみると、弾いているのは当家のご令嬢であるということでした。

ロビーに当たる部屋には雛人形が2セット並べて飾ってありました。
関西では旧節句(4月3日)まで仕舞わないことが多々あります。

ここは庭園の中に戸建ての部屋が点在するという稀な形状の宿で、
「庭園旅館」と銘打っています。

チェックインすると、黒いスーツ姿の若い女性がトランクを持って
坂をスタスタと上って部屋まで案内してくれました。

予約したのは敷地の一番奥の二階建ての棟です。

この二階が居室、一階でお食事をいただきます。
上にいる間に、いつの間にか一階に食事が用意されているので、
中居さんが来るたびに居住まいを正したりする必要はありません。

布団の上げ下ろしも食事をしている間にいつの間にか済んでいます。

床の間の花は季節の菜の花と木蓮。
北海道土産のような熊の木彫りが少々謎です。

昭和初期ごろ設置されたと思われる洗面台。
蛇口は取り替えてあり、トイレもちゃんと暖房付きの最新型でした。

庭の敷石はよく見たらところどころ石臼が埋め込んであります。

怖い顔のカエルさんが睨みをきかせる小さな池が玄関先の
茶室の前設えてあり、桜の花びらで表面が埋め尽くされていました。

池には金魚が二匹だけ生息しています。

晩御飯は軽い懐石コースを頼みました。
これは固形燃料で熱し熱々をいただく、自分で卵汁を投入して作る卵とじ。

食前酒には岡山なので桃のワインが出されました。
あまりに香りが良いので、つい飲めないのに二口飲み、無事泥酔いたしました。

鰆の蒸し物、鶏の治部煮など、季節の旬をあしらったお椀が続きます。

メインはなんとチーズを載せた白身魚。ソースはバターとジェノベーゼです。

わたしたちの部屋の入り口には、

「夏炉冬扇」(かろとうせん)

という書板があるのですが、はて・・・・・。

夏炉冬扇=時期はずれで役に立たない物事のたとえ。
夏の囲炉裏や冬の扇は、時期がはずれていて役に立たないことから。

なぜこんな(変な)言葉をわざわざ揮毫し、しかもそれを飾ってあるのか。
何かの間違いでなければ、皮肉とか洒落とか・・・?

この旅館には岡山県出身の政治家犬養毅が泊まったこともあるそうです。

「どの部屋だったんだろうね」

茶室に近く、一番奥まったところにあるこの日泊まった部屋は、
もし犬養木堂翁が泊まるならば一番可能性は高いと思いますが・・。

本旅館開業の大正3年頃の旅館から見た前の河川風景。
右手が瀬戸内海で、三井造船書のある玉野より広島側に位置します。

朝食は茶碗蒸しに湯豆腐の鍋といった和食。
納豆は西日本のせいか付いてきませんでした。

二階は寝るときに昔ながらの雨戸を引いて真っ暗にしてしまいます。
朝自分たちで開けようとしたのですが、どうしても仕組みがわかりませんでした。
戸袋の内側の障子を開けて、戸を一枚ずつ引き入れて奥に押し込んでいくのが正解。

昔のうちはみんなこうしていたんですね。

それからこの天井。
昔の日本家屋のほとんどはこんな天井だったですよね。
鴨居の装飾にはめ込んであるのは刀の鍔を模した木彫です。

関東では花びら一枚残っていませんでしたが、ここではまだ
桜の散るのを楽しむことができます。

TOは満開の時にここから桜を眺めたらさぞ美しかろうと一年前から予約していたそうです。
一週間、もしかしたら三、四日遅かった・・。

しかし、桜吹雪と地面に散った桜もまた風情のあるものです。
開けた窓からはひっきりなしに花びらが舞い込んできました。

家を出てすぐのところに祠がありましたが、ご神体はなさそうです。

茶室があったので戸を開けて見ました。
にじり口はこの反対側にあります。

 

茶釜は電気コンロで沸かす方式というのが風情としてはイマイチですが。

別棟の裏口は。これはもしかしたら大正モダニズム?

倉敷は戦争中アメリカ軍の空爆を免れました。
高梁川を軸として反対側に位置する水島は、当時三菱航空機製作所があったため
(今は三菱自動車)
爆撃を受けて犠牲者二人を出しています。

しかし、倉敷が爆撃目標から外されていたわけではなく、戦後の調べによると
終戦にならなければ8月22日に米軍は倉敷を攻撃する予定であったそうですし、
その2日後には岡山が目標の予定だったそうです。

何れにしてもここ玉島には当時も目標となるような施設は何もなかったので、
大正年間操業の建築物を今日でも目にすることができるのです。

旅館の部屋である棟を結ぶつづら折りの石段を登っていくと、
最後の部屋の近くにライトアップされた桜のある小さな広場があり、
かなり年季の入ったらしい石のガーデンチェアとテーブルがありました。

水道が完備していなかった頃は、ここから水を汲んで使ったのでしょう。

使われなくなって久しいようで、井戸はすっかり枯渇していました。

旅館は山の斜面をつづら折りに登っていくと
そこに各々の部屋となる棟が点在しているのですが、
さらにそれをどんどんと登っていくと、頂上と思しきところに
倉敷市が戦後建立した英霊の招魂碑があります。

公園は倉敷市の管理ですが、ここにあるのは玉島市の慰霊碑です。

高額寄付者は昭和27年当時の35万円。
今の300万円くらいの価値でしょうか。

この遺族会の方のお名前の中に「柚木」とあります。
そういえば希望の党の比例当選議員でそういう名前の人がいましたが、
岡山県に多い姓みたいですね。

一言余計なことを言わせてもらえばこの柚木とかいう代議士、
政治家としての信念も全くなく、恫喝と揚げ足取りしかしていない人、
というイメージしかなく、わたしは政治家として全く評価しておりません。

同じ広場の敷地内には「魚霊」を慰める碑も。
漁業で生計を立てている人が多く住んでいる地域だったようです。

しかし、鶏や牛馬の慰霊碑はソーセージ工場の入り口で見たことはありますが、
魚の慰霊碑は初めてです。

広場の横に、素敵(!)な廃屋がありました。

廃屋マニアには垂涎の物件ですが、残念なことに内部が
全くうかがい知れなかったので、わたし判定ではその点失格です。
(人がいたという痕跡が残っていなければだめ)

むしろ、その向こう側のいかにも100年ビンテージものが興味をそそります。

この公園の桜は、まだ十分花びらを残していました。

満開の桜もいいものですが、その後、樹に残る桜と地面に散る桜が、
同時に楽しめる時が、これもほんのひととき
やってきます。

まさにこの日の玉島がその瞬間でした。

二週続けて桜の咲き誇る姿と散りゆく姿を満喫することができました。

こういう旅館のチェックアウトは10時と大変早いので、
お天気がよければ倉敷観光でもしようと思っていたのですが、
この日は寒波が戻ってきて大変な寒さだったので、まっすぐ帰ることにしました。

新倉敷からは岡山までこだまで10分で到着します。
ただし新倉敷に止まるこだまは1時間に1本しかありません(T_T)

おまけ:新倉敷駅で目撃したマナー啓蒙用ファイルホルダー。

もう一つおまけ。

新幹線の岡山駅で見た人材派遣会社ポスターです。
これ「桃太郎の」という言葉はなくても理解できたと思う。

 

 

 

 

 



最新の画像もっと見る

3 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
 (Unknown)
2018-04-10 13:11:30
桜の花びらって、なかなか朽ちずに残るんですよ。貼り付くので、箒で掃くことも出来ません。ですから、今の時期、江田島では赤レンガは候補生が、その他の場所は一術校の甲板士官の割振りで学生が総出でお箸で一つ一つ拾います。

候補生の頃はまだ土曜が半ドンだったので、土曜の午後は日曜の見学者に備えて「お箸」の時間でした。

今の住まいは隣のお宅に立派な桜があり、先週あたりは強風でたっぷり飛んで来ましたが、掃くことも出来ないので、結局、一つ一つ拾いましたが、数時間掛りました。

この旅館はどうされるのか気になります(笑)
返信する
夏炉冬扇 (ハーロック三世)
2018-04-10 21:49:56
夏炉冬扇とは元々は役に立たないことの意味でしたが、俳聖松尾芭蕉が

「予が風雅は、夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用(もちゐ)る所なし。」

と述べたことの方の意味でしょう。

目先の華やかなことに囚われず、地道な努力を大切にし、役に立つ時がくることを待てという意味だそうです。
返信する
みなさま (エリス中尉)
2018-04-11 10:18:44
unknownさん
江田島では地面の花びらなどは全部手で拾って掃除するというのは有名ですよね。
昔はツツジの花(下に落ちず木についたまま枯れて腐る)も一つ一つ
手で取り除いたとどこかで読んだことがありますが、その季節に幹部学校にいったところ
流石に現代ではそこまでやっていないらしいことが判明しました。

しかし、桜の花びらまでやっていたとは・・・。
池の金魚の写真を見ていただけばわかりますが、この旅館はほぼ「放置」だと思います。
茶室の藁葺き屋根には花びらが積もり、全く飛ばされずにありましたが、
こういうのもどうしようもないですから・・。

ハーロック三世さん
おおおおお!そうでしたか。浅学ゆえ存じませんでした。ありがとうございます。
元々の意味を反語的に使って戒めとする、そちらの意を表したものだったんですね。
TOがこの時これを見て「商家らしい言葉だなあ」とつぶやいていたのですが、
彼はどちらの意味に理解したのかちょっと聞いてみようと思います。
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。