ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

京都お花見(+グルメ)旅行

2017-04-10 | お出かけ

全国的に桜が満開になった先週末、恒例の京都お花見に行ってきました。
朝の「のぞみ」に乗って、昼前にはもう京都着。

新幹線に乗る前もすでに関東地方は雨でしたが、こちらも降ったり止んだり。
ということでタクシーでまず向かったのは、同志社大学。

ワンパーパスドーシシャでございます。

重要文化財になっている建物もいくつかある同志社キャンパスですが、
最近建築されたものも統一性をもたせて全てが煉瓦造りの洋風です。

この「寒梅館」が完成したのは2004年のことでまだ14年しか経っていませんが、
煉瓦造りのせいで大変風格を感じさせるたたずまいとなっています。

なぜわたしたちがここにやってきたかというと・・・、

法科大学院(つまりロースクール)などが入っている寒梅館の最上階には
「WILL」という名前のフレンチレストランがあるのです。

近隣や卒業生の主におばさまがたで週末は予約がなかなか取れないくらい
隠れた人気スポットとなっているレストランですが、
今回は早めに予約しておいたので窓際の上席に案内してもらえました。

眼下には同志社大学のキャンパス越しに雨に煙った京都の山々が見えます。

予約の時に頼んであったコースの前菜は菜の花のキッシュ。
ほろ苦さがキッシュと意外なマッチングをしています。

肉か魚か選べたのでスズキのメインディッシュを選びました。
肉厚で脂がよく乗った美味しいスズキでした。

食事の後、雨が降っているのでタクシーを捕まえ、

「桜の咲いているところを走ってください」

と頼んでお花見をしました。
運転手さんが走ってくれたのはまず鴨川から分かれる高野川の河原沿い。

川沿いの信じられないくらいの桜並木をお目当てに車が大渋滞しているので
窓を開けて桜を撮ることができます。 

ちょうど望遠レンズを持っていたので対岸のサギも撮れました。

高野川は東側に桜並木があり、西側の住宅沿いにはほとんどありません。

タクシーは高野川沿いを上っていき、北大路通りで左折し、もう一度鴨川の西岸を下りました。

河原にはお天気の怪しいのにもかかわらず、桜を見に来る人たちがいっぱい。
着物でキメて河原を歩くカップルもいました。

運転手さんによると、来週の火曜日までが見ごろだそうです。
つまり今日が今年最後の週末花見。

今や世界の人々が「京都の桜」を見にやって来るので、街全体が
外国人観光客で埋め尽くされていましたが、河原でシートを広げているのは
間違いなく日本人ばかりです。

河原では雨と雨の間隙を縫って、無理やりシートを広げ、お花見パーティをしているグループもあり。
楽しそうで何よりです。

桜の下をそぞろ歩く人、お弁当を広げる人。

個人宅の前の桜ですが、目をみはるほど見事。

着物を着て歩いている人もちらほら。
いつもは川の流れに向かって座るベンチも、今日は逆向きに座ります。

桜そのものを撮るのもいいですが、わたしは桜を楽しむ人が入っている構図が好き。

ここにも鷺がいました。

ご自慢のカメラを持ったご主人と奥さん。
走る車の中からの花見でしたが、すっかり満足です。

TOは用事があったため、もう一度乗ったところに戻り、
わたしと息子だけがホテルに向かいました。

梅田雲濱(うめだ・うんぴん)の屋敷跡の碑を車から発見。

梅田雲濱は幕末の儒学者で、安政の大獄の時逮捕され、
箒尻での笞打の拷問を受けても口を割らず、獄中で死亡しました。

そして夕食は、昨年秋オープンしたフォーシーズンズ京都へ。

近年世界中から観光客が詰めかけている京都ですが、それを受けて
大小のホテルがオープンしています。
フォーシーズンズ京都はリッツに続く5つ星ホテルのオープンです

隣接地域には一部屋5億円のレジデンスもオープンしたそうですが、
売り出されるたびに売り切れていくのだとか。

食事に付いて来るパンのセットすらここではこの通り。
フォカッチャに桜味のバゲット、桜のバターを添えて。

家族で一番美味しいと意見が一致したモッツァレラチーズとトマト、マンゴーのお皿。

牛肉のタルタルは、乗せられた卵の黄身の色からして只者ではない感じ。

わたしが迷いなく選んだのは鴨のコンフィ。
リゾットとパリパリした食感のごぼうのフライが添えられています。
昼は魚だったので大丈夫!と思ったのですが、案の定多すぎました・・。

ホテルのロビーには何か石でできた花の形のオブジェが。
今回花見にいくことを思いついたのが直前だったので、
もちろんながらこのホテルは取れなかったのですが、ハイシーズンなので
そう大きくない部屋でも一泊15万円というお値段がついていたそうです。

明けて次の日。
わたしは一旦6時過ぎにiPadのアラームで起きたもののすぐに二度寝して、
今度起きたら10時という立派な朝寝坊でした。

起きてチェックアウトしていたらお昼になってしまったので、
昨日夜でしかも雨が降っていてよく見えなかった庭を見にもう一度フォーシーズンズへ。

オープンにあたっては贔屓にしていた東京のフォーシーズンズからたくさん
ホテルマンが移動していて、あちらこちらにおなじみの人がいましたので、
外のテラス席を取ってもらうこともできたのでした。
持つべきものはホテルマンの知り合い。

フォーシーズンズの敷地はずっと病院だったそうです。
ハイアットリージェンシー京都も昔病院だったそうですが、
病院跡というのはあまり家を建てたがらないため、ホテルが買い取ることが
多いということなのかもしれません。 

ゴミが投棄されていた元沼地、しかも空港騒音の緩衝地帯だったところに
学校が建つとロンダリングになって土地の価格が上がる、ということを
期待して学校法人に便宜を図って土地を売るようなもんですかね(棒)

 

しかしこの庭は、名のある(忘れた)人物の屋敷の一部で、実に800年昔に造られたものだそうです。

「そんな庭なのに、桜が一本もなかったんだ・・・・」

「桜をあえて植えないというのもポリシーがあってのことだったんだろうね」

ホテルができてから、建物側にホテルが植えた桜の木がかろうじて一本あります。
池の向こう側に見えるのは茶室。

ここでは軽いコースを取りました。
ポーチドエッグを潰してその黄身を絡めるマグロのサラダ。

デザートはざくろのメレンゲとキウイの乗ったパンナコッタ。
これは最高でした。

息子が隣で横で読んでいた本。

「The Sailor Who Fell From Grace With The Sea 」

こんな三島由紀夫の小説あったっけ?と思ったら「午後の曳航」でした。

「こんなの読んでんだ・・」

「英語の宿題で読まないといけないんだよ」

宿題・・・・だと? (驚愕)

テラス席は今日のような曇りで暑くも寒くもない日には最適です。

日曜の午後でテラス席はこの通り満席です。

帰りに顔見知りのマネージャーとばったり会い、館内のスパを案内してもらいました。

「さっきご飯食べてたら庭を猫が横切りましたよ」

この写真で見える石の橋を猫が渡っているのを見たのでそういうと、

「あ、黒い猫じゃないですか」

「いえ、シマシマの」

「黒猫が住み着いているのは確認されているんですが、シマもいましたか」

「池の鯉を狙っていたのではなさそうでしたが・・・
鯉は1匹しか見ませんでした」 

「はあ、ホテルが落成した時、大成建設さんの方から鯉を50匹いただいて
放流したのですが、サギが来てほとんど食べてしまいました」

「あらら」

「じゃ、あの鯉はその生き残りだったんだ」

大きな鯉になってしまえばもう狙われることもないのですが、
大成建設からもらった時には稚魚だったため、ほとんど鷺が
美味しくいただいてしまったということのようです。

 

当初食後は疎水に桜を見に行こうと思っていたのですが、ホテル見学に時間を使ってしまい、
タクシーの運転手さんが

「道が混むので新幹線の時間が決まっているんだったらやめたほうがいい」

というのでそこからは京都駅にむかいました。

智積院前を通り・・・、

博物館を右に見て、「うぞうすい」の前を通り過ぎ・・・。
七条通りの小さな和菓子屋さんの写真を撮りながら

「こういう店もちゃんとお客さんがきて生業が成り立っているのかな」

などと考えていると、女の子が二人店に入っていって
おばちゃんから桜餅を買って行きました。

暗くなりかかった頃帰宅。
週末一泊家を空けている間に、自宅の窓から見る桜がすごいことになっていました。

「京都の桜もすごいけど、実はうちの桜って最高だって帰ってくると思うよね」

なんか去年とその前の年も全く同じことをいった記憶が・・・・。 

 

 

 

 

 


ブッシュネルの亀〜アメリカ潜水艦事始め

2017-04-08 | 博物館・資料館・テーマパーク

潜水艦というものを最初に考え出したのは誰でしょうか。

グーグル先生によると、はっきりと名前が残っているのは

コルネリウス・ヤコプスゾーン・ドレベル 

というオランダ人だということになっています。
ドレベルは顕微鏡や望遠鏡などを発明した人で、イギリス海軍のために
1620年代に木製の潜水艇を世界で初めて考案しました。

これは今にして考えるとなかなかのもので、亀の甲らのような
木製の船の内部に革を貼って防水したものでした。
"nitre"(硝酸カリウムか硝酸ナトリウム)を加熱して酸素を作り、
櫂を漕ぐ16人くらいの乗員を乗せて数メートル潜行し、
3時間ほど水中に滞在することができたと言います。

ただしこれは実戦に投入されたわけではありません。

最初に武器として開発され実際に使用されたのが、
冒頭写真の「ブッシュネル・タートル」と呼ばれる潜水艇です。


空を飛びたいという欲望は純粋にロマンでしたが、
海に潜るための技術開発というのは、常に戦争がそれを
推進してきたという側面があります。

ドレベルの潜水艦もイギリス海軍のための発明でしたし、
ブッシュネルの潜水艇は独立戦争が開発のきっかけでした。

ニューロンドンのサブマリンミュージアムには、実物大の
ブッシュネルタートルの模型が展示されています。
中が見えるように壁をくりぬいたかたちで。

発明したのはコネチカットのデビッド・ブッシュネル
1776年のことです。 

その目的は、水中からこっそり敵の船に爆弾を仕掛けることでした。

具体的な方法は船の船体に穴を開けて59kgの火薬を詰めた樽を埋め込み、
時限信管で爆発させる。
こんな大仕事をゴソゴソやっていたらたちどころに気づかれそうですが、
それを水中で行うというのが当時としては常識的にあり得なかったので、
とにかく最初はいけると思ったのでしょう。

この発明を大統領だったジョージ・ワシントンに進言したのは、
愛国者であり軍人であり政治家でついでに画家だったジョン・トランブルでした。 



使用法具体例。
赤白のボーダー柄のTシャツと変な髪型につい目がいってしまいますが、
作業を行なっているのはエズラ・リーという人物です。

最初の実験はコネチカットリバーで行われました。

のちにコネチカットに潜水艦基地ができたのも、
元をたどればブッシュネルがコネチカットの人間だったからに違いありません。 

なんだかとぼけた顔のおじさんですが、ブッシュネルの弟だった、
という説もあります。

ブッシュネル・タートルの断面図。


上部に爆薬の詰まった樽がついているのは、ハッチから体を出して
作業を行うからで、船底に取り付いてからは浮上することになり
潜水兵器というより時々沈んで身を隠すための潜水艇といった感じです。

ちばてつやの名作戦記漫画「紫電改のタカ」で、主人公の滝城太郎ら
飛行兵曹たちがなぜか秘密基地に送り込まれ、その島にいた
ヒゲの義足義手の爺さんに命じられて行う作戦というのがまさにこれで、
ボートで夜間米軍の艦艇に近づき、艦底に爆薬を取り付けるのです。

しかしこちらはただのモーターボート。
普通に考えて、錨泊中の艦艇に敵がボートが近づいていけば見張りに見つかります。
まだ「ブッシュネルの亀」の方が現実的に可能性があると思われます。
しかもこの作戦、爆薬を収めた金属のケースを磁石だけでは外れるので
艦腹にドリルでゴリゴリ穴を開けて設置しなければなりませんでした。

案の定艦長がそのゴリゴリに気づき、

「長年軍艦ニ乗ッテキタワタシノ勘ダ」

とか言い出すのですが、そんなもん長年乗ってなくとも皆気づきますがな。

確か、米軍艦を爆破することは漫画では成功したような覚えがありますが、
軍艦の艦腹に手で穴が開くかーい!とか、
そもそも紫電改のパイロットがなんでこんなことさせられとるんじゃー!
とか今にして思えばツッコミどころ満点な漫画でした。
面白かったけど。 

 

それはともかく、もう一度仔細に断面図を見ていただきますと、
いっちょまえに操舵、潜行用と推進用のプロペラ、
なんとバラスト(海水を取り入れて重力とする)まであって、
潜水艦の基本を一応抑えているといってもいいくらいです。

内部に空気を取り込むスノーケルもあって、基本この部分は
外に出ていましたが、いざ潜行すると30分は保ったそうです。

港に停泊している船がターゲットだったので、やはり活動するのは
滝城太郎の秘密部隊のように夜限定ということになりましたが、
問題はそうなった時に中が真っ暗で何も見えなくなることです。

ろうそくではすぐに空気を消費してしまう、ということから、
ブッシュネルは科学界の大物、あのベンジャミン・フランクリンに相談しました。
なんだか大物の名前がずらずらと出てくるので驚いてしまうのですが、
フランクリン大先生の解決策は、こういうものです。

「生物発光の燐光を使うのがいいだろう」

生物発光。

日本ならば蛍の光窓の雪ですが、この場合はフォックスファイヤーという
腐食した木に発生する真菌を用いたそうです。

ところが、フランクリンは雷には詳しかったけど、
生物学にはあまり詳しくなかったようで、 フォックスファイヤーは
温度が低いと光らなくなる、すなわち
海の中ではほとんど光らないということが実験でわかり、
そのことを知ったブッシュネルはフランクリンに聞きました。

「にいちゃんなんでフォックスファイヤーすぐ死んでしまうん?」

じゃなくて、

「にいちゃん他になんかいい方法知らへんのん?てか何とかして」

しかしながら、フランクリンはこの問いに知らんぷりんを決め込んだため、
ブッシュネルは

「冬にはこの装置は使わない」

という素晴らしい解決策を多分腹立ち紛れに見出したのです。

 

さて、それはどうでもよろしい。よくないけど。
とにかく、爆薬を敵の船に取り付ければいいんです。 

ちなみにこれが爆薬(マインとありますね)部分。
150パウンドの火薬を詰め、中心部には時限発火装置が仕込まれています。
タートルが海中に沈むとこの部分も水に浸かってしまうわけですが、
火薬が湿気たりする心配はなかったのでしょうか。

 

スーツに革靴の紳士が手で回して漕いでるし。

潮流がなければ時速4.8kmで進んだということですが、
30分しか沈んでいられないのですから、ちょっと問題ですね。

さて、この開発はワシントンの後ろ盾(というスポンサード)によって
行われたということですが、ブッシュネルはこれを秘密兵器として
秘密保護法を適用、じゃなくて秘密が漏れないようにとお願いしていました。

しかし、すぐにこの情報はニューヨーク議会の議員、イギリスの王党派スパイだった
ジェームズ・ボンドじゃなくてジェームズ・デュアンによって報告されていました。

その報告書には、イギリス本国に対してブッシュネルの亀が
ボストンに駐留していたイギリス艦隊への脅威となることが書かれていたそうです。

 

さて、ブッシュネルの亀はどのように実践に投入されたのでしょうか。

1976年、ワシントン将軍は、今や軍曹となったエズラ・リーに、
ニューヨークのガバナーズ島停泊中のHMS「イーグル」攻撃を許可しました。

(命じた、ではなく許可した、というのに腰が引けてる感じがしますね)

本人が残した文書によると、タートルは英軍艦のできるだけ近くまで
曳航されて近づき、上げ潮と川の流れが潮流を止めて艦体に取り付くことができる
2時間前から待機していました。

ここまでは完璧で、タートルは軍艦に悟られぬように接近できたのですが、
最初の爆薬取り付けは失敗に終わりました。

船殻が銅で覆われていたため、ドリルが通らなかったとする説もありますが、
それは最初から予測されていたことでもあります。

当時、イギリス海軍は、フナムシの付着を防ぐために船殻に銅を貼るという
ことをし始めたばかりでしたが、このころの銅は紙のように薄く、
ドリルで穴を開けることは不可能ではなかったはずでした。

それにもかかわらず失敗したというのは、大変残念なことに、
タートルが海面で安定しなかった(そりゃそうだ)ため、 
ドリルを回し船体に穴を穿つことができなかったせいだと言われています。
(同じ理由で”紫電改のタカ”の作戦も実行不可能だったと思うのはわたしだけ?) 

さらにエズラがどの部分にドリルを打つかの判断ができなかったのは、
彼が潜航中に二酸化炭素中毒になりかかっていて、
正確な思考ができない状態であったからではなかったか、
というのも後世の評価となっているようです。

さて、さすがにこの時代でも、エズラの行動は敵の察知するところとなり、
英軍兵士が小型艇を出して追いかけてきました。

亀、ピーンチ!

そこでエズラは、「トルピード」(魚雷)と呼んだ樽の爆薬を英軍兵士の
船に向かって「爆発するぞ!」とか言いながら放流したため、英軍側は
不審な漂流物に恐れをなして帰っていき、彼と亀が敵の手に落ちるのは回避されました。

問題は、放流した炸薬入りの樽です。

エズラの報告によると、この樽はどんぶらことイーストリバーに流れて行き、
そこでイギリスの小型船を爆破しました。

「爆発した破片を撒き散らす猛烈な威力であった」(本人談)

ということは、これを彼は見ていたということになるのですが、はてどこで?
亀の中からかな?
不安定で30分しか潜れないタートルで、エズラは爆薬を追いかけ、
イーストリバーまでこれを操縦していったということになるのですが、
誰もそれに突っ込まないのはなぜ?

ともかく、これが

「史上初めて潜水艦が艦艇を攻撃した瞬間」

ということにアメリカではなっているようですが、残念なことに、
イギリス側の記録では、

英海軍の船が爆破されたという記録も、HMS「イーグル」が
謎の潜水艇に爆破を仕掛けられたという報告もない

ということです。

昔は映像も残らないし、敵の記録と照合しようもない。
・・・・つまりエズラとブッシュネルは
ワシントンにお金を出してもらっている関係上、この亀が
役立たずではないことを何が何でも証明するために、
なかったことをあたかもあったように捏造したのでは?

と疑われますね。

わたしですらこう思うのですから、歴史家はもっと容赦なく、
イギリスの海事歴史家リチャード・コンプトン−ホールは、

「浮力の原理を考えても、この垂直プロペラが役に立ったとは考えられない。
またタートルは「イーグル」を攻撃するためには潮流を横切らなければ
ならなかったが、おそらくそれはエズラの体力的にも無理だった。

つまりこのストーリーは、アメリカ軍が士気鼓舞のために作成したもので、
もし本当だったとしても、エズラはタートルの中にいたのではなく、
覆いのあるボートに乗って見ていただけなのではないか」

という推測をしているということです。
まあ状況証拠からも限りなくクロですわね。

ちなみにアメリカ軍の潜水艦は、これから200年後の第二次世界大戦中も、
撃沈隻数とトン数を上げるため、存在しなかった日本の駆逐艦「岩波」を
撃沈したと報告するということをやらかしています。

 

さて、この攻撃から約一ヶ月後の1776年10月。
エズラ軍曹はマンハッタン島沖に錨泊した英海軍艦に
炸薬を取り付けることを試みました。

んが、見張りが彼を発見したので、断念しました。

そしてその数日後、ニュージャージーのフォート・リーで
「柔らかい船」(ソフトベッセル)がその上に乗り上げたため
沈没しました。

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ブッシュネルの記録によると、それを引き上げるとか引き上げたとか、
そういうことが書かれているそうですが、真相は謎のままです。

まあ要するに、この潜水艇の戦果は本人だけが証言している
イギリス船の爆破(しかも爆薬が流れていって爆発したという無理筋)
だけで、それも証拠なし、という結末に終わったのです。

スポンサーであり計画を後押しした(させられた?)ワシントンは

「天才の努力の成果」(an effort of genius)

としながらも、この試みが成功するためには

「あまりに多くの要素が必須だった」

と言っているそうです。
つまり

「発想は良かったけど、いろいろ無理すぎたね」

ということですな。


その試みを後世に残すために、 レプリカが作成され、ここニューロンドンの
潜水艦博物館に展示されたのは1976年、独立200年目のことでした。

そしてこの潜水艇にはもう一つ後日譚があります。

2007年8月3日、3人の男性がイギリスからやってきた豪華客船
RMS 「クイーン・メアリー2」にタートルのレプリカを一人が操縦、
二人が護衛してあと60mというところまで接近しました。

当然彼らはすぐに発見され、身柄を拘束され、タートルのレプリカは
ブルックリンのクルーズ船ターミナルに曳航されて停泊させられました。

タートルを作成したのは、ニューヨーク在住のアーティスト、
フィリップ・デューク・ライリーとロードアイランドの 2人の住人です。

沿岸警備隊は、「危険船舶保持」と「クイーンメリー2」への保安上
立ち入り禁止海域となっている区域への侵入でライリーを起訴し、
彼はニューヨーク市警察に逮捕されました。 

ライリーにどんな罪状が問われたかについてはわかりません。
ちなみに、この時作戦に加担したロードアイランドの住人の名前は

ジェシー・ブッシュネル(Jesse Bushnell)

と言いました。
お分かりと思いますが、彼はデビッド・ブッシュネルの直系の子孫です。

何やってんだ(呆)

 

 


 


呉海事歴史博物館「大和ミュージアム」再々々々々訪

2017-04-07 | 海軍

近頃何かと呉方面に用事ができるわたしですが、その間隙を縫って
「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」で
見学をしています。

特に「大和ミュージアム」は、思い出せるだけで4回は観ているので、
これで5回目ということでこのタイトルとなりました。

本日は4月7日。
戦艦「大和」が坊ノ岬沖海戦で戦没した日でもありますので、
大和ミュージアムの展示について取り上げてみたいと思います。 

このカープ優勝の垂れ幕で、いつ頃の訪問かわかってしまいましたね。
この時、大和ミュージアムは、海底に眠る「大和」を
改めて潜水調査したということで、その資料を公開していました。

初代「大和」と小野浜造船所。

6月1日から展示が始まる企画です。
そういえば「大和」の名前を持つ初代の船があったんでしたっけ。

小野浜造船所は神戸にイギリス人のチャールズ・キルビー(左上の人)
が仲間のイギリス人とともに作った造船所で、初代「大和」は
ここで建造されたスループと言われる帆走軍艦でした。

なぜ東郷平八郎の写真があるかというと、なんとこの「大和」の
初代艦長が東郷平八郎中佐(当時)だったからです。

なお、東郷は「大和」艦長就任中に大佐に昇進しています。

常設展示の他に、「呉の人々の生活」みたいな企画展示があり、
撮影は禁じられていましたが、出口に入船山の長官公舎の写真パネルの前で
ここだけは記念写真を撮れるというコーナーがありました。

最初に来た時には常設展示のほとんどが写真可能だとは知りませんでした。
基本的に、個人の遺書や写真以外は撮ってもいいことになっています。

ほぼ実物大の「罐焚き」お仕事中。
これは「金剛」に搭載されていた「ヤーロー式ボイラー」といい、
名前はヤーロー(社)ですが、実はそれを元にして作った「艦本式」です。

ボイラー全体が三角形で「A」の形をしているのがお分かりでしょうか。
この「A」の上部には「蒸気ドラム」、二つの脚元には「水ドラム」があります。

汽罐の仕事は、艦の底の方で、万が一沈没の時には助かる可能性の
全くない職場だったため、そこに勤務する機関学校卒の士官は
肝の座った一種凄みのある人物が多かった、と何処かで読んだことがあります。

今回は、目についたものだけを撮影しました。
これは東郷平八郎元帥が愛用していた懐中時計です。

「オールドスミス&シルバースミス有限会社」という
ロンドンのメーカー製であることがケースに書かれています。

BY APPOINTMENT TO H.M. THE KING 

とも書かれているので、東郷さんが留学していた頃(ビクトリア王朝時代)
ではなく、その後のエドワード7世かジョージ5世の時代に製作されたもの。

つまり東郷さんがうんと偉くなってから購入した品であろうと推察されます。
国費で留学している学生に買えるようなものでもなさそうですね。

手巻きの時計は9時12分40秒を指したまま永遠に動きを止めています。

第6潜水艇についての写真も、わたし的には当時潜水艦ブームだったので撮っておきました。
潜水艦事故で殉職した佐久間大尉と13名の乗員の写真。

事故が起こったのは明治43年(1910)ですが、左上の呉工廠の写真は
5年後の大正5年に撮られています。

皆さん、これが何を意味するとお思いですか?

実は、年鑑によると、この年の夏この事故を起こした潜水艦は
「二等潜水艦に分別された」とあり、
さらに、
名前を「第6潜水艇」とされて除籍になったのは1920年のことなのです。 

ということはつまり、

事故が起こったとき潜水艦は「第6潜水艇」ではなかった

さらに海軍は、

事故で14名が亡くなっていた潜水艇を、その後10年間使用し続けていた

ということになるのです。
今の感覚では、後に乗る乗員の気持ち的にもいかがなものかという気がしますが、
当時、佐久間艦長の事故潜に乗組むのは「名誉」という風潮だったのかもしれません。

(註:この部分についてはコメント欄をご覧ください)

退役後、第6潜水艇は潜水学校に艦体を展示されていましたが、
GHQの命令によって終戦後すぐ解体されてしまいました。

その後船体は桟橋となり、第6潜水艇の潜望鏡プリズムは、現在
海上自衛隊潜水艦教育訓練隊の潜水艦資料室で保存されています。


最初に来た頃には目にも止まらなかったこんな記事も、
あーそうそう、そんなこともありましたねーと余裕でわかってしまう。
こんな時、曲がりなりにも研鑽の結果があったようでちょっと嬉しくもあります。

それはともかく、ここでもお話ししたことのある「友鶴」転覆事件についてです。
現在連載中の漫画「アルキメデスの大戦」では、この事件が取り上げられ、
(友鶴は”峰鶴”とされている)
船の設計をした艦政本部の藤本造船少将の自殺も描かれています。
(ついでに平賀譲先生らしき人がどことなく悪役でワロタ) 

これもブログで掲載したため、図らずも詳しくなってしまった第四艦隊事件。
いずれも間接的に軍縮条約の齎した悲劇であったと言えましょう。 

その軍縮会議の結果に反対するチラシが展示されていました。
なんども来てるけど、こんなの今回初めて気がつきました。


昭和9年ごろ、軍縮会議の結果を受けて、上野の松坂屋で行われた
「海軍軍縮展」なる催しで配られた一般向けのパンフレットです。

なんとびっくり、デパートで軍縮会議に反対するための展示をしてたんですね。

パンフは「英米日」の軍艦保有割合「553」の「5」をハサミで切る水兵、
屑箱に空母や航空機を「捨てて」いる海軍軍人、日本列島を
(当時日本であった朝鮮半島にも日本の旗が立っている)手を繋いで囲み、

外敵から守ろうとする水兵さんたちが象徴的に描かれ、キャプションには

軍縮会議に対する日本の主張

軍備均等権を確立して不公平なる5・5・3を撤廃す
不脅威、不侵略の軍備を目標として兵力を縮小し国防安全感を確保す
そのためには攻撃的兵力(例えば航空母艦)を大削減し、
防御的兵力(例えば潜水艦)を充実す

などと書かれています。

このころ潜水艦は防御的兵力(つまり哨戒が主目的)だからおk、という考えだったのね。


進水式に使われるハンマーと斧はいくつか展示されていましたが、
この時「ちよだ」の進水を見たわたしとしては、空母「千代田」 の
起工式に使われたノミと進水式のハンマーに注目してみました。 

 

さて、潜水調査による海底の「大和」探索の様子は、会場のモニターで
見ることができましたが、当然のことながら撮影禁止でした。

これは喇叭手が使用していた楽器の持ち手部分。
腐食して朝顔の部分が切れてしまっています。 

伝声管と海水ホースのノズル。

バッテリー。
何に使われていたものかの説明なし。 

そして靴底。
どんな人が履いていたのだろう、などとつい見入ってしまいます。


「大和」については、つい最近海底探査の結果が出たということで、
その動画を艦内のモニターで観ることができました。 

山口多聞中将の参謀飾緒。
最高級品で作りが丁寧だったせいか、劣化がほとんどありません。 

写真の上は山口多聞が大佐時代所持していた大日本帝国外国旅券。
昭和9(1934)年6月1日付で在米大使館附武官に赴任した時のものです。

「大和ミュージアム」なので、ちょっとは写真を撮っておこうと思って冒頭のとこれ、
シンボルである「大和」模型も2枚だけ撮りました。

 

前回と違うところは、望遠レンズを持っていたことなので、
兼ねてから気になっていた、「大和」艦上の人をズームして写しておきました。

どうみても海上保安庁職員ですありがとうございます。

「大和」に搭載されていた長官用の内火艇模型。
長官用なので、屋根付きで床には赤絨毯が張られていたそうです。
これは隣の「大和」と全く同じ縮尺で作られています。

実際の「大和」の短艇格納庫は右舷側にあったということです。 

「大和」模型の飾られているところからガラス窓越しに見る「しんかい」。
1969年、日本で初めて作られた本格的な有人深海探査艇です。 

前に来た時にはなかった展示もありました。
これはあの戦艦「ミズーリ」なのですが、この度大和ミュージアムと戦艦ミズーリ博物館が
2015年に姉妹博物館提携を締結したのを受けてのコーナーです。

かたや実際の軍艦(ミズーリ)、かたや大型模型(大和)というのもなんだか
バランスが悪い気もしないでもないですが、
とにかく伝説の戦艦同士。
まずは日米友好ってことで、めでたいですね(適当)

その関係で、まずは「ミズーリ」の砲塔模型が贈られたようです。
わたしは当時「マサチューセッツ」の16インチ砲塔の内部を見て、それについて
エントリを書いている真っ最中だったので、思わず食いついてしまいました。 

砲身側から見た模型。

砲塔とその下の弾薬庫も図解で示されています。

16インチの射撃手順も書かれています。
これについては今日は省略いたしまして、またいずれ、
アメリカで見学した戦艦についてお話しする時に譲りたいと思います。

「ミズーリ」のかつての姿。

そういえば、「ミズーリ」に突入した特攻機がありましたね。
その時の特攻隊員を海軍葬で弔った艦長のウィリアム・キャラハン大佐は、
その後隊司令として第三次ソロモン海戦では旗艦「サンフランシスコ」に座乗し、
夜戦の指揮をとっていましたが、「鳥海」との戦いで艦橋に砲弾が直撃して、
艦長の
カッシン・ヤング大佐共々戦死しました。 

(註*この件についてはわたしが大きな勘違いをしていました。
詳しくはコメント欄をご参照ください) 

さて、そんな感じで駆け足で回り、出て来たところにあったポスター。
その後東京でこの映画を観ました。
呉をよく知る人にはどの場所かはっきりわかるくらいリアルに描き込まれているそうです。

ところで、この映画、韓国でも上映されたというのですが、
韓国人の映画に対する代表的な感想が

「自分たちを被害者として描いていて、日本が加害者であるという反省がない」

というものだったそうです。
北の敵国と戦争中だというのに日本のことしか見てないし、
はっきり言ってもうダメかもわからんね。あの国は。  

というわけで外に出て来ました。
ご存知のように、ここには呉で爆沈した「陸奥」の部分が展示されています。
まずこれが主錨。

右側にあるのはフェアリーダーです。 

公試運転中の「陸奥」。
軍艦旗が美しく翻っているのがわかります。 

なお、現地には「陸奥」のどの部分が現存しているかを示す図があります。

というわけでこれが艦首旗竿。
公試中の写真にもはっきりと見える旗竿がここにあるのです。 

そして主砲身。
爆発によってほとんど被害を受けなかったらしく、傷はありません。 

スクリュープロペラ。
縁が欠けていますが、これは爆発のせいか経年劣化によるものかはわかりません。

何しろ、1943年に爆沈してから1970年にサルベージ会社によって
部分を切断して引き揚げられるまでの4半世紀以上海の底にあったのです。

実際に横に立つとあまりの巨大さに改めて驚く、主舵。

砲身反対側から。

これらはミュージアム外側に展示されていて、道沿いにあるので
誰でもいつでも目にすることができます。
夜にはライトアップもされているようですね。

 

この後わたしはてつのくじら館も久しぶりに見学したのですが、
そのご報告はまた日を改めてお送りします。 

 

 


「愚直たれ」メニュー食べ歩き〜呉

2017-04-06 | お出かけ

自衛隊の観桜会というものは桜の下で宴会をするのが目的なので、
今回のように雨天で体育館でやることになると、
文字通り華がないというか、味気ないことこの上ないのですが、
その中で呉地方総監オリジナルの「愚直たれ」が紹介されたことは、
メインイベントのないこの日の「観桜会」の目玉となったのは確かです。

何十もの応募作品の中から最終的に残ったレシピだけあって
それが本当に美味しいということを確かめたわたしたちは、

会終了後送っていただいた呉駅から再びタクシーに乗り込みました。

行き先は「愚直たれ」レシピ提供店の一つである「利根」。
TOは行く前に予約の電話で

「愚直たれメニューがあると聞いたのですが」

とアピールするのを忘れません。

「こう言ってから行くと、お店の方もこれを扱ってよかったって思うでしょ」

 

「利根」は金曜夜ということで、ほぼ満席の賑わいです。 

三笠舞子さんというのは呉在住の漫画家さんのようです。

「利根」の来歴はどこを探してもわからなかったのですが、
それが軍艦「利根」から取られたことは間違いないでしょう。

重巡「利根」は昭和20年7月24日と28日の空襲の時には海軍兵学校の
練習艦となっていたため、能見島の海岸に係留されていました。

当時兵学校生徒だった知人から、「利根」がその時攻撃を受けながらも
飛来する米軍機を撃ち落し、墜落した飛行機のパイロットの遺体が
兵学校のポンツーン(先日卒業式でランチがメザシになっていたところです) 
のところに流れ着いたという話を聞いたことがあります。

28日の空襲で「利根」は最終的に着底しました。

 

今では護衛艦「とね」をイメージとして、自衛官の御用達になっており、
カレーラリーにはもちろん「とね」カレーを出品しています。 

この写真によると、「とね」の調理室に居酒屋利根のスタッフが赴き、
そこで給養長から作り方指導を受けて認定されたようです。

カレーを認定するのは艦長であることが判明。
当時の「とね」艦長である前久保和彦2佐。(男前!)

余談ですが、「とね」の艤装艦長は上田勝恵2佐とあります。
この方、「女王陛下のキス」で有名になった練習艦隊司令官ですよね。

来店した芸能人のサイン色紙を店内に飾るのが普通の店ですが、
ここにあるのは自衛官のサインばかり。

「とね」艦長始め乗組員有志、隊司令、伊藤元呉地方総監の色紙もありました。

在日米陸軍からの感謝状もあり。
そういえば、この日の観桜会にもおなじみ米陸軍のムーア中佐のお姿がありました。 

「愚直メニュー」を食べに来たのですが、やはり「とねカレー」も食べてみたい。
ということで味見のためにミニサイズを頼んでみました。

お茶碗一杯ぶんですが、ちゃんと

「海原を進撃する護衛艦をイメージした盛り付け」

に手を抜いていないのには感動しました。
ご飯が「とね」でカレーが海ってことね。
ちゃんと自衛艦旗に艦番号「234」が書いてあるのに注意。 

ミンチの入ったキーマカレーで、大変結構なお味だったのはいいのですが、
お勘定の時に

「シールください」

というと、 

「カレーラリー、今日で終わりなんですよ」

な、なんだってー。
4月1日からは「シールラリー」として別のラリーが始まるんだとか。
この日のカレーを入れて結局わたしはシール3枚という結果に終わったのですが、
2枚でもオリジナルバッジがもらえるそうなので、今度交換しようっと(−_−) 

シリアルナンバー234の鉄板!
これは自衛艦の食堂で使われている食事トレイではないですか。

普通の人には少し使いにくそうだけど、もしかしたら
元自衛官が現役時代を懐かしがるためのアイテムだったりして。

 

さて、「愚直たれ」採用レシピを呉地方総監部に認定してもらった店舗は
呉地方総監署名入りの認定証とポスターが授与されます。

「華麗なる」とついているのは、カレー味だからでしょう。

黒板のメニューには

「池総監の愚直タレ」として、

諦めない揚げ盛り

侮らないサラダ

欺かないむしどり

とあります。
早速一皿ずつ頼んでみることにしました。 

ポスターにあった「三つの”あ”」を冠したわけですね。

それではまず「諦めない揚げ盛り」を。
ごぼうとイカリングの揚げ物に愚直たれをつけて食す。

TOは「この世の食べ物でイカリング揚げが一番嫌い」
と昔言っていたような気がしますが、文句も言わず食べて

「美味しい!」

ごぼうの揚げたのにも愚直たれはよく合います。

「侮らないサラダ」。
ごまドレ、マヨネーズがレシピに使われているため、サラダに合うのは当然とはいえ、
これをかけるだけで「侮れないサラダ」 になりました。

「欺かないむしどり」もメニューとして完成度高し。
カレーの味って飽きないものだなあと三皿を食べて思いました。 

それにしても一皿560円って安いですよね。

 

呉地方総監が「愚直たれ」メニューを試食し、認定証を授与した時の写真。
やはりこれも任務の一環ということで、海将、制服でここに来られたんですね。


さて、ミニカレーと愚直三点メニューを二人で食べたところで

「ねえねえ、ラーメン食べてもいい?」

量的に物足りないと見えてTOがこんなことを言いだしました。

「いや、せっかくだから他のお店の愚直たれメニューを食べに行くべきでしょう」

きっぱりと言い切るわたし。

「どこにする?」

「池さんが広報ビデオで食べてたおうどんがいい!」

 

というわけで、「利根」を後にし、(ちなみにお勘定は1000円台でびっくり)
タクシーで向かったのはクレイトンベイホテル。

運転手さんに言わせると、呉で一番ランクの高いホテルだそうです。 
星の数は4つ。 

お店の中に生簀があって、カニと鰻がこのように対峙している、
そんなクレイトンベイホテルの和食レストランにやって来ました。

ここに来る前にもTOはマメにお店に予約を取り、

「愚直たれを使ったメニューをいただきたいんですが」

などとわざわざアピールしておりました。

「愚直たれ」認定証と一緒に補給艦「とわだ」グッズが展示してあります。

クレイトンベイホテルでは4月1日から新たに始まるシールラリーで
「とわだカレー」を提供することになっているようです。

「とわだカレー」は

隠し味に桃とりんごをすりおろしたピューレ
まろやかさを出すためにチーズも入っている

スパイシーの中にも甘味とコクの深さを味わえるカレー

だそうです。

クレイトンベイ「とわだカレー」認定に至るまで

↑なんか皆さんすごい真剣な様子です。

早速「愚直たれ」うどんを頼んでみました。

お盆に添えられた小皿に少しだけあるのが「愚直たれ」です。
うどんは細うどんで、さすがはプロと感心したことは、
うどん汁にはすでにカレーの味がつけられていること。

普通のすまし汁のうどんにカレー味の「愚直たれ」では合わない、
とおそらくですがここの料理長が判断したのでしょう。

すまし汁のカレーうどんに「愚直たれ」を少しずつ入れて、
自分なりに味を調整しながら食べる、というのがここの愚直メニュー。

運んで来たマネージャーが

「いきなり全部入れたりしないでくださいね。辛いので」

とわざわざ注意するくらいたれは辛く仕上がっていました。
細麺で喉越しの良いツルツルした、上品な感じの麺で、
カレー味とたれがよく絡んでなかなかの絶品であったことを
ここにご報告しておきます。

試食して認定証を渡した時の写真がメニューになっています。
マネージャーがサービスでデザートを出してくれたのですが、
その時こんな話を聞きました。 

「総監、試食されたときに、たれを全部入れてしまわれたんですよ」

「あらー、辛かったでしょうに」

「撮影が入っていたせいか何もおっしゃいませんでしたが、
食べ終わってしばらくしたらものすごい汗をかかれて・・」


それで、全部いっぺんに入れないようにと注意することになったわけですか。

 

今回の呉訪問、おまけ。

「とね」でもらってきたイベントのポスター。
艦隊これくしょんとありますが、艦これとは直接関係なく、
要するに同人誌即売会だそうです。

第17駆逐隊限定、ってことは 呉鎮守府籍の駆逐艦、
浦風磯風浜風谷風雪風初霜 ですね。

戦艦「大和」戦没72年の追悼式は今週金曜日、
長迫公園(海軍墓地)で行われるそうです。

同人誌イベントに名前のあった駆逐艦「磯風」に乗っていて、
「武蔵」「大和」「信濃」そして「磯風」の最後を見届けたという
歴史の証人である元海軍上等兵曹が講話を行うことになっています。


今回はお土産も買ってみました。

前々から気になっていた広島土産。
なんか広島土産グランプリで一般投票賞も獲得しているようです。 

潜れ!僕らの潜水艦ケーキ(!が潜望鏡の形)

 

ちゃんと自衛艦旗のシールで封がされています。

中を開けたらあらびっくり、箱の中には個別包装の潜水艦乗員がぎっしりと。

水兵さんが7人、艦長が一人です。
他に士官はおらんのか士官は。 副長とか。砲雷長とか。

艦首から乗務員室、作戦室、指揮室、機関室、階下は燃料タンク。
魚雷発射室も食堂もキッチンもないんですけど?

と思ったら小さく

「これは想像図です」

そうきたか。
まだ食べてないので中がどんなものかはわかりません。 

 

さて、観桜会の日に「愚直たれ」提供店をはしごして
いち早くその味を確認することに成功したわけですが、
身びいきでもなんでもなく、マジ美味しいです。愚直たれ。


呉に立ち寄った際には、カレーのラリーもいいですが、
ぜひ一度どこかでこのメニューを試してみられることを熱烈にお勧めします。

 

 

 

 


観桜会(実はお披露目”愚直たれ”)

2017-04-04 | すずめ食堂

えー、一応タイトルが本日も五七五(季語もちゃんとあるよ)
となっているのに気がついてくださるとうれしいです。

海上自衛隊呉地方総監部の観桜会に呼ばれてきたのに、
なんと空港で大雪に降られる(しかも吹雪)という
異次元的異常気象体験をしたのち、呉に到着したわたし。


現在公開に向けてプロジェクト始動中の、呉鎮守府時代の海軍の遺産である
防空壕跡を見せていただき、もうこれだけで(ネタ的にも好奇心的にも)
十分満足というところまできたのですが、ここからが今回のメインです。

 

防空壕跡の見学が終わると、大尉殿の車に乗って呉阪急ホテルにTOを迎えに行き、
ついでに防空壕見学で泥まみれになったスカートの裾を履いたまま洗い、
すっかりきれいになったのにホッとして会場に向かいました。

会場となった教育隊の体育館では、呉地方総監池太郎海将ご夫妻が来賓にご挨拶中。

わたしも含め、桜にちなんだピンクをどこかに取り入れた装いの女性客が多い中、
総監夫人はあえて「海」を意識されたのか、ブルーのスーツで登場です。

ご挨拶を済ませ赤絨毯の方向に歩いていくと、こんなパネルのコーナーがありました。
呉地方総監部ではこの度呉地方隊のイメージキャラクターを作ることにしたようです。
アイデアを隊員から募集し、この日の客に投票で選んでもらうという趣向ですね。

なになに、「クレンジャー」「くれけん」(呉の犬)、
クジラと潜水艦の混じった「くれてつ」、「カレーおいしいくん」・・・。

地方総監庁舎そのものの「ちょうしゃくん」。
瓶の形をした「愚直たれ男」。ど直球です。

「愚直たれ男(おとこ)」だと何となく呉地方総監ご本人を指すようで、
なんかすごく失礼な気がするのですが、「たれお」ならセーフ?

「瀬戸内七海&瀬戸内航平」。「クレオとパトラ」。
「海守椿」「呉葉」「マモルくん」など人名系や「呉モン」「鯉太郎」。

いやー、どれになるかが楽しみだなー(棒)

まずは呉地方総監のご挨拶。

「自他共に認める晴れ男だったつもりが、今日で記録がストップしました」

ふははは、自他共に認める呉との相性では圧倒的に雨女のわたしが勝ったってことかな。

ってすみません。多分ですが、この雨はわたしのせいです。
雪までは知らんけど。

 

今日は何と言っても親睦がメインの観桜会ですので、硬い挨拶はなく、
総監はもっぱら挨拶の席で、あの「愚直たれ」の説明と宣伝に努められました。 

 

見て驚け、会場に備えられた「愚直たれ」コーナー。

このブログでも何度かご紹介してきた「愚直たれ」ですが、
その後着々と呉地方総監部におけるプロジェクトは進行しておりました。

 

建前でも何でもなく、海上自衛隊という組織にとって「地域コミニュティとの連携」は、
実は防衛計画の大綱にもある重要な達成目標の一つでもあります。

地域の飲食店が参加する形で行われる「カレーグランプリ」がそうですし、
今回わたしがその計画を垣間見せていただいた海軍の遺産の公開と保存も、
郷土史に新たにスポットを当てるという意味でその一環でしょう。

呉地方総監の指導目標から偶然生まれた「愚直たれ」。
その後呉地方総監部が地域コミュニティへの呼びかけを行い、手を挙げた協力店舗が
このレシピを再現し、メニューに取り入れるという試みをしているというのです。

 

今回の観桜会場ではご覧のように「愚直たれ」が試食できる屋台がありました。
この屋台については実は不肖わたくし、観桜会の少し前に

「会場で『愚直たれ』の味見ができるようになさってはどうですか」

と僭越ながらご提案を申し上げておいたのです。
もちろんわたしが言わずとも最初からその予定だった可能性もありますが、
とにかく、会場に「愚直たれ」と書かれた屋台が出ているのを見たとき、
ささやかな進言が聞き入れてもらえたように思い、大変嬉しゅうございました。


ここはシンプルに、キュウリにたれをつけて食べてもらうという趣向です。 

総監の挨拶中には、このたれグランプリに応募作品を採用された方、
そしてポスターのデザインを採用されたカメラ係の海曹が皆に紹介されました。

続いて挨拶は小村呉市長。

呉は海上自衛隊とともにある、というようなことを述べた後、
あの「呉氏」のPVでは海上自衛隊に大変お世話になったという話をされました。
後でお話しした時、呉氏のビデオの話もしましたが、

「あんなもの(呉氏のこと)がキャラクターになるなんて不思議〜」

みたいに おっしゃっていました。

おぢさんにはなかなか理解しがたい感覚のようです。

おなじみ衆議院議員寺田稔先生。
やはり東京から飛行機で来て雪のため会が始まってしばらくしての登場です。
わたしの時には飛行機の遅れはなかったのですが、その後空港では
雪が積もって結構大変だったようです。

滑走路の雪かきなども必要になったということでしょうか。
ちなみにこの翌日、わたしは昼の飛行機で羽田に帰ったのですが、
広島空港は昨日の天気が嘘のように晴れて地面も乾いていて、
まるで狐につままれたような気分になりました。

「マリーンナイツ」という名前でジャズやラテンの曲を中心に演奏していた
呉音楽隊選抜メンバー(もしかしたら同好会かな?)の皆さん。
キーボードの方がお上手でした。 

と思ったら女性歌手が登場。
桜にちなんだJポップスを何曲か歌いました。 

ちょうどわたしは幹部学校長に、卒業式のことを話していたので
じっくり聴けなかったのですが、お上手だったと思います。

学校長には部内選抜幹部の卒業式にご招待くださったお礼を言い、
九十九瀬戸でのお見送りの話を聞かせてもらいました。

「宮様(彬子女王殿下)のご出席は何しろ初めてのことだったので、
皆緊張して現場は大変でした」

彬子女王がご来臨賜ったのは、呉地方総監のお招きによるものだったそうです。 

冒頭写真にも出しましたが、フルーツカーヴィング、さりげに匠の技です。

この季節、というか花見の席にスイカというのもすごいけど、それより
スイカに「桜」という字とバラの花を彫り込んでしまうアナーキーさに乾杯。 

「カメラを持っているから撮ってもらおう」

と右側の方がおっしゃったので一枚撮らせていただきました。
左側は秋岳周作(あきおかしゅうさく)江田島市長です。 

その時、会場に

「自衛艦旗降下の時間となりましたのでご静粛に願います」

というアナウンスがありました。
外は雨、体育館の中には自衛艦旗というものはどこにもないわけですが、
皆が一斉に体育館の入り口の方を向いたので、きっとその方向に
自衛艦旗が掲揚してあるのだと解釈しました。

喇叭譜「君が代」が吹鳴される間、会場の人々は静粛になります。
自衛官は一人残らず背筋を伸ばし、拳を握って立っていました。

 

わたしは自衛隊出身の民間の方が艦内で自衛艦旗降下に遭遇し、
椅子に座っていながら姿勢をただすのを目撃したことがあります。

自衛官生活を一度でも経験すると、このラッパを聴くと
自然と背筋が伸びてしまうものらしいですね。 

花より団子、と申しますが、そもそも花がまだ全く咲いておらず、
さらには雨が降っていて花を思わせるものは何もない体育館での観桜会。
せめて参加した人々との名刺交換と歓談に花を咲かせ、
団子ならぬ海自カレーを味わうのがよろしいでしょう。

というわけで、お約束、会場のカレーをいただいてみました。
スープ状の辛いカレーにはご飯が少なすぎる気もしましたが、
この辛さがあるいはここの特徴なのかもしれません。

さて、ところで我らが「愚直たれ」の評判はどうかな?

屋台の奥では何人かが一生懸命キュウリを刻み、ホイルケースに乗せて
「愚直たれ」をつけ、爪楊枝を刺す作業を黙々としておられます。


「愚直たれ」、出て来たらほとんど瞬時になくなってしまう人気ぶりです。
一人で抱え込むようにたくさん手に乗せて持っていく人もいるではないですか。

これを見たとき(このブースがわたしの提案によって生まれたとしてですが)
現場の自衛官の仕事を増やしてしまって済まない気がしたくらいです。 

わたしもなんとか一ついただくことができましたが、一緒に食べたTOと

「おいし〜い!何これ」

「冷たいキュウリとよく合うねえ」

さすがはいくつもの応募から愚直大賞を射止めた作品だけのことはあります。

会場にはこの通り、レシピもちゃんと公開されていました。
マヨネーズとごまドレッシングを使うのがちょっと反則という気もしますが、
まあ美味しければよろしい。

 生のキュウリにもこれだけ合う味でありながら、唐揚げの下味や
トーストに塗って食べるなど使い方は無限大です。 

この度呉地方総監部がホームページ上で呼びかけたところ、9つの店舗が
愚直たれを使ったレシピをそれぞれ考案し提供することに名乗りをあげました。

天ぷらに添える、丼に添える、カレーセットに添えて何にでもかける、
バーベキューのたれ、ドレッシングがわり・・・。 

どれも試してみたいですが、お店が考えたらしい特徴欄の

「愚直な仲間とワイワイ!愚直な店員さんとワイワイ!」

とか

「三つ子の魂百まで!愚直たれで愚直の食育!」

もう、愚直という言葉がゲシュタルト崩壊を起こしそうです。

「愚直たれ」メニューは、すべて総監自らが味見をし、(マジですか)
総監直々に認定して初めてお店で提供することを許されます。

さて、そんなわけで、桜を一切見ない(桜という文字は見たけど)観桜会は
盛況のうちに終わり、わたしたちは呉の駅まで大尉殿の車で送ってもらいました。
この日は広島にホテルを取っていたのですが、どちらがいうともなく

「やっぱりここは呉で『愚直たれメニュー』を試して帰るべきだろう」

ということになり、わたしたちがタクシーで向かったのは・・・

 

 

続く!

 

 


呉鎮守府の地下防空壕公開について 

2017-04-03 | 自衛隊

観桜会開始までの時間、地方総監部の中をご案内いただけることになり、
冷たい雨がしとしとと降る中、わたしたちは外に出ました。

鎮守府庁舎の正面から見ると左側に廊下を抜けた出口に時鐘があります。
掃海艇「ははじま」JDS Hahajima, MSC-660、MCL-724 の時鐘です。

「ははじま」は「はつしま」型掃海艇の12番艇で、掃海艇から掃海管制艇に
変更したため、艇番号が二つあります。

「鳴らしたりするんですか」

「ここでは鳴らしません」

当然ですね。知ってたけど聞いてみたの。
時鐘は艦艇のシンボルなので、退役した後もよすがを偲ぶために
海上自衛隊のそこここに残すのが慣例なのでしょう。

今日は本来ここでお花見が行われるはずだったわけですが、
その場所はこの時鐘のある出口から外に出た向こうだそうです。
グーグルアースで見てもよくわからなかったのですが、
招待客1000人+自衛官が集まることのできる場所があるのでしょう。 

出口付近にはもうもうと湯気が立ち込めていました。
どこから来るのかと思ったら、今から見せていただく地下からです。

はいみなさん、ここが噂の「鎮守府時代の防空壕の入り口」でございます。

解説によると、この地下壕は結構早くから作られており、大戦末期には
ここから地下につながっている地下司令室で鎮守府長官以下軍人たちは退避したとのこと。

鎮守府庁舎は一度キューポラめがけて爆弾が落とされ、半壊していますが、
その時には庁舎には誰もおらず、皆壕に入っていたものと思われます。

(基本的に連合国は占領先のことまで見据え、歴史的洋風建築物は爆撃しなかったのですが、
鎮守府のキューポラだけが狙われたのは、そこに菊の紋章があったからではないか、
とわたしは勝手に推理しています) 

壕の入り口に立つと、直接階段が地下までまっすぐつながっています。
(案内の方が懐中電灯で中を照らしてくれたので写真も撮りましたが自粛) 

さて、今回なぜ防空壕を見せて頂くことになったかなんですが、
決して史跡戦跡マニアのわたしが頼み込んだからではありません。

今までこういう史跡のあることは外から見学した一般の方にも知られており、
特に防空壕についてはその筋の人々の興味を掻き立ててきたと思われるのですが、
やはりいろんな事情があり、海上自衛隊としてはここに地方総監部が置かれて以来
こういう戦時の遺物についてはあってもないかのように扱ってきたのです。

しかし、今呉地方総監部は、この歴史的遺産を公開することを計画しています。
わたしはその準備段階をプレ公開していただいたということのようです。

 現在の進捗状況としては公開に先立ち、すでに、
今まで倉庫のように使われていた部分から荷物を退けることは終わっており、
70年以上何の手も加えずにほったらかしてあった場所なので調査して
安全性を確認した上、できれば夏に一般公開にこぎつけたいということでした。

 

 

呉というのは海軍の街として栄え、今も海軍遺産が街のそちこちに残り、近年は
通称大和ミュージアムやてつのくじら館と共に観光資源ともなっています。
今回JR呉駅の広島行きの電車発射じゃなくて発車音が、

「ソーソッソドーミッドレッソソー ラソファ ソドミソシードシドッソー

#ソーラーソファソーミー ファーミレミードー
ミラシッミラシッミラシミーラシ(繰り返し)#ドー(移動ド)

であったのには結構驚きましたが、まあそういうところなのです。

 

「呉」をイメージするものといえばまず真っ先に旧鎮守府庁舎であることは
議論を別たぬところであろうとは思いますが、だからこそ
この歴史的建造物を現在も使用し続けている自衛隊が、より(文字通り)深いところを
一般に向けて公開してくれることは、呉市と歴史研究家にとって朗報と言えましょう。

そして、戦後誰も手をつけてこなかったことにあえて取り組む呉地方総監部に、
わたしは国民の一人として心から敬意と感謝の意を表したいと思います。

 

さて。

案内してくれる副官氏(仮名)は、こんなものどこで売ってるんだと
思わず見つめてしまった質実剛健な感じの黒い🔦を二本持っています。
これってもしかしたら一本はわたしが持って歩くためのもの?

壕の入り口から下へは(繰り返しになりますが)急な石段がずっと続いています。

「降りてみられますか」

「はい!」

そう言って暗い穴底に向かって続いている長い階段をずずいと踏み出した瞬間、
わたしは突然、本日のいでたちが観桜会に出席するためにクリーム色の、しかも
裾の長い
プリーツスカートであることを思い出したのでございます。

思い出すのがもう少し早ければせめて裾を持ち上げるとか何とかしたのですが、
相変わらず好奇心が先行して後のこと考える前に足が動いてしまい、
(靴だけは編み上げの平底ブーツだったのでセーフ)
白いスカートの裾が泥で真っ黒になってしまってからそうと気づくというお間抜けぶり。

「ああああ」(絶望の声)

「・・・・・降りるのやめますか」

たかがスカートの一枚や二枚、軍事遺産を一般公開に先駆けてこの目で見るという
チャンスの前には実のところ汚れようが破れようがどうでもよかったのですが、
そんなわたしもさすがにこの後の観桜会に泥まみれで出席する勇気がなく、

「やめましょう」

と力なく呟くしかありませんでした。

ちなみにこのスカートですが、会場入りする前に呉阪急ホテルに寄ってもらい、
そこの洗面所で水洗いしたら跡形もなくキレイになりました。

「こんなにキレイになるのだったら、やっぱり中に入っていけばよかったかな」

などとと考えた全く懲りないわたしです。

壕に入るのを諦め、その階段を降りて行ったらつながっているという
地下司令室に行く前にまずこの階段の上に立ちました。

折しもつい先日、この階段について

「海に向かい、表桟橋からまっすぐ上がってくるという意味の階段」

だと思うところを述べたのですが、ここでも念のために聞いてみました。
副官氏はわたしはあまり詳しくないのですが、と断った上で、
階段を降りてまっすぐ行ったところが桟橋であることを教えてくれました。

なるほど、今は芝生のグラウンドで遮られているのですが、
階段から海に続く道の延長線上が桟橋に繋がっているのがわかりますね。
桟橋があるのは海際に見える小屋の左側です。
 

「それでは下の防空壕入り口をお見せしますのでこの階段を」

「え、この階段を降りるんですか」

思わずたじろぐわたし。
スカートがどうのではなく、この階段って実用にはしないんじゃなかったの?
それに階段、登るのはいいけど降りるの苦手・・・。

「坂を下って行ってもいいですが回り道になります」

「構いません」

歩き出すことになって、それまでずっと傘をさしかけてもらっていたので

「わたし自分の傘さしますから(それお使いになってくださいの意)」

と折りたたみを開こうとしたら

「自衛官は雨の日でも傘さしてはいけないことになっていますから」

と自分は傘の外で濡れながらおっしゃいます。(´;ω;`)

「ああ・・・そうでしたね」

そんなに雨量は多くなかったとはいえ、そうやってずっと雨の中歩いているのに
制服があまり濡れている様子がなかったのは実に不思議でした。

やっぱり自衛官の帽子も制服も、そして自衛官自身も特に雨に強い仕様のようです。

ところどころには明らかに昔から遺ると見られる構造物あり。
ここも地下道に繋がる入り口だったのでしょうか。

階段の左手の道を海に向かって下って行く道沿いにも・・。

「手前の小屋は戦後できたものだと思います」

赤煉瓦の建物は今でも被覆倉庫などに使われています。
窓から扇風機が見えているので、ここも使われているのは確か。

アーチの形をした部分はかつての入り口で、その右側に
いつかはわかりませんが穴を開けた部分は今は窓になっているようです。 

上にコンクリートのひさしが出た部分も地下道への入り口だそうです。
上空からはわかりにくいように作ってありますね。 

これが地下司令室となっていた壕の入り口です。
昨年度の殉職自衛官慰霊式のとき、ここから儀仗隊が出てきて、
儀礼終了後はここにまた入って行ったので、てっきり中は
どこかに繋がっているのかと思ったのですが、
入り口には閉鎖されている木の扉があるだけでした。

公開前ということで写真をアップすることは控えさせていただきますが、
扉の脇のガラス越しに中をのぞいて見ました。
真っ暗ですが、副官氏がスイッチを押すと中の電灯がつき明るくなりました。 

扉の中には一間くらいのスペースがあってその向こうにもう一つ扉があります。

「中の構造調査をしたのですが、その結果から、
見学の際にはヘルメット着用になる可能性もありそうです」

安全工事を根本からやるにはやはりお金がかかってしまうとのこと。
わたしが富豪ならいくらでも寄付させていただくんですが・・。


ところで、グーグルマップで呉地方総監部を見ると、地下への入り口を防護する
この写真で見るところの頑丈なコンクリート建造物は、
その下に地下道への入り口があるとはわからないような設計になっています。

さらにマップではわたしがスカートを引きずった防空壕の入り口も全くわかりませんし、
空から、つまり敵の飛行機からわかりにくいように工夫されていたんだなと
改めていろんなことを考えさせられました。

わたしがお願いをする形で桟橋まで連れて来ていただきました。
このチャンスを逃したら、自衛隊基地の中を見て回る機会はいつ来るかわかりません。

「建物そのものは変わっていると思いますが、昔からこの場所には
出港を待つための待機所がありました」

この入り口には「艦隊桟橋待機所」と木の看板がかかっています。 
かつてはここで呉鎮守府長官はじめ海軍軍人たちが出港を待ったのです。

昭和20年2月、「北号作戦」に戦艦「日向」「伊勢」を率いて向かう
第四艦隊の指令、松田千秋海軍少将。

昭和20年3月、坊ノ岬沖での特攻作戦を伊藤長官に説得するため
「大和」に乗り込んだ草鹿龍之介中将も、きっとその前には
ここでしばしの時間を過ごしたのに違いありません。

 

鈴木貫太郎、野村吉三郎、山梨勝之進。
嶋田繁太郎、豊田副武、南雲忠一。

これらの歴史に名を残す軍人たちが、呉鎮守府長官だったときにも
同じ場所からランチに乗り込んでいったはずです。

画面右側はここと端っこで繋がる呉教育隊の敷地になり、
港には重油船や水船などの支援船が繋留されています。

教育隊の訓練用のカッターが吊られたデリックはこちら側にあります。
このデリックに隠れて見えませんが、向こう側には陸橋があって、
地方総監部と教育隊は外に出ずに行き来できるのだそうです。

「今日は妙に水位が低いです」

いつもは藤壺のあたりくらいまでは潮が来ているものなのだそうです。

ご案内くださった副官氏が潜水艦徽章をつけておられたので、

「潜水艦出身ですか」

「何に乗ってらっしゃったんですか」

と防空壕そっちのけで潜水艦の話に突入し、「せきりゅう」引き渡しを見たこと、
「はくりゅう」の中を見学させていただいたことなどを話しました。

横須賀におられたこともあるというので、

「今年のカウントダウンも見に行きました。
潜水艦が電飾で年号をセイルに書いていて・・・」

すると、

「外側に当たった潜水艦はあれをやらないといけないので
〈ぴーーーーーーーー〉なんです」

「あー、大変そうでした。年が明けた途端年号を変えたりして」

そうかー、あそこに年末繋留することになった潜水艦の人は内心
〈ぴーーーーーーーーーー〉だったんだ・・・(しみじみ)

 

あと、うかがった中で一番面白かった話は、潜水艦の天敵の話でした。

「そうりゅう型某潜水艦を見学したとき、対哨戒機の訓練のことなど
聞かせてもらったのですが、そのとき確か
『Pー3Cは天敵!』っておっしゃってまして、
『この後総監にお会いになるんですよね。このことは言わないでください』
(呉地方総監はP-3C操縦)なんて・・・」

とわたしがいうと、副官氏は頷いて

「実際、同じ自衛隊の飛行機なのに、潜水艦の人間はあれを見ると
〈ピーーーーーーーーーーーーーー〉という気分になるんです」

ま、まじですかい。

「同じ自衛隊の味方なのに」

そういう彼の表情には、あながち冗談とは言い切れない何かがありました。

航空機の中でも特に対潜用に特化されたのがP-3C です。
一般的に潜水艦対航空機は、航空機の方が優位だと言われます。
潜水艦には航空機を撃ち落とす手段がほとんどなく、はるかに高速であり
広い水域から潜水艦を発見することも可能。

おまけにソノブイを投下して潜水艦を捕捉したり、 MAD(磁気変動探知機)で
磁力の乱れから潜水艦の存在を探知することができ、
さらにはその情報を水上部隊や陸上基地と共有して四方八方から追い詰めてくるのです。

しかし「そうりゅう型」の人たちは訓練でそれら全てに勝った!
と誇らしげにいっていたので(詳細は残念ながら忘れた)、
よほどこの潜水艦は優秀だったということだったのでしょう。

というわけで、

「幹部候補生学校を卒業した人は、江田島には行くのも嫌だ」

「潜水艦の人はPー3Cが嫌い」(逆もまた真なり)

というのは都市伝説ではなかったらしいことが、最近の呉訪問で
図らずも証明されることになったのでした。

 


さて、呉地方総監部では、例年7月に行われる納涼花火大会に、今までと違い
広く市民に呉地方総監部の内部を公開するという方針が決まったということで、
防空壕の公開もそのときに間に合えばという方向で調整しているそうです。

海軍時代の歴史遺産である防空壕内部公開に関心をお持ちの方には、
どのような形で公開になるかも含め、呉地方隊のホームページを随時チェックして
情報を得られることをお勧めして、今回の見学ご報告とさせていただきます。

 

続く。

 



 


観桜会 行ってびっくり 初雪見

2017-04-02 | 海軍

海上自衛隊幹部候補生の卒業式を江田島で見届け、
その帰りに大尉殿のグッドジョブで呉地方総監部庁舎内に潜入し、
さらには高田帽子店で記念にミニチュアの将官用正帽を買って帰る、
という一連のご報告がやっと終わったところで、また呉に行ってまいりました。

呉地方総監部主催による恒例観桜会。

旧鎮守府庁舎の後にできた海上自衛隊地方総監部には、昔から桜の意匠を
その印にして来た海軍のシンボルとしての桜が毎年花を咲かせます。
横須賀地方総監部の旧鎮守府長官庁舎(田戸台庁舎)などでも観桜会が
毎年行われ、桜の時期には庁舎が一般公開されるの恒例となっていますし、
海自に限らず自衛隊基地で桜にまつわる基地駐屯地公開をすることもあるようです。

この「観桜会」というイベントそのものが、わたしは海軍時代から鎮守府が
行って来た行事を引き継いでいるのではないかと想像しているのですが、
その行事に今年初めて参加をすることが叶いました。

前日、関東地方ではまだ桜は咲いていない状態だったので、

「これはさすがに西日本でもまだ開花は望めないだろう」

と思いながら、当日、羽田から乗ったANAの機内で、突如機長がアナウンスを始めました。

「皆さま、大変重要なお知らせがあります」

その時には飛行機は雲の上で、飛行にもなんの異常も感じられず、
皆が「?」となったわけですが、続けて機長、

「広島空港上空は大雪のため、着陸ができない可能性もあります。
冬期は着陸を試みますが、それが不可能であった場合引き返し、
大阪空港に着陸することも予想されます」

周りからはなんの声も上がらず、もちろんパニックにもなりません。
さすがはこういう時に冷静な日本人、と感心したのですが、
わたしを含めてほとんどすべての人たちは、これまでの経験値から

まあ最悪の場合を言っているだけでなんとかなるんじゃね?

と考えていたのかもしれません。

真っ白でまるでピカピカ光っているかのような雲の下に入ると、
雪が山々や田んぼをうっすらと雪化粧していっているのが見えます。

明日から4月というのに、雪・・・・だと?

雲を抜けると中央のモニターにすぐに広島空港独特のグライドパスが見え、
着陸は行われるらしいことがわかったと思った次の瞬間、 もう機体は
滑走路に進入し、至極あっさりと着陸を済ませておりました。

このランディングが平常時の一般的な着陸のレベルよりかなり上手かったので、
着地評論家のわたしとしてはこれはなんとかお伝えしたいと思いまして、
ハーロック三世さんのおっしゃっていた

「お褒めのお声があると大変嬉しいものです」

という言葉に励まされる形で、降りる時にCAに生まれて初めて

「ビューティフルランディングだったと機長にお伝えください」

ということに成功しました。
雪が降って着陸しないかもしれない、という事態であったからこそ
こんなことを言うこともできたのかもしれません。 

それはともかく、どうなってんのこれ。
今年は雪のあるところに全く行かなかったし、関東でも雪が積もらなかったので、
わたしとしては今シーズン初めて雪見をしたことになるのですが、
それにしても花見に来て初雪見をすることになろうとは・・・。
(しかもまだ桜咲いてないし)

エアチャイナの飛行機に雪が積もっております。
中国からの観光客は時ならぬ雪にきっと驚いたことでしょう。

階段で待機する係の地上員さん、階段に積もってしまった雪を
手でせっせと払いながら待機していますが、とにかく寒そう。

後で聞いた話によると、前日は暑いくらいの暖かさだったそうです。

ロビーから見える飛行機を皆が盛んに携帯で撮っていました。
なんの混乱もなくいつも通りに無口な乗客たちですが、
一人一人はちょっとしたアクシデントにワクワクしているのでしょう。

この写真では向こうにJALが普通に着陸しております。

この日、飛行機を早めに取ったことから、わたしは一旦
総監部からのお迎えを

「早すぎるので申し訳ないから(来ていただかなくても)結構です」

と断ったのですが、

「控え室も用意してありますし、庁舎敷地にある防空壕跡をお見せします」

というありがたいお言葉に、案の定ほいほいと前言を翻したのでした。
前回車で空港まで送ってくださった大尉殿(仮名)は、今回も

「前回降りられたところで車を停めて待っています」

とおっしゃっていたのですが、空港のロビーで待ってくださっていました。
顔を見合わせるなり、挨拶もそこそこに笑ってしまうわたしたち。

「お花見に来て雪を見ることになるとは思いませんでした」

「呉は雨ですが、雪ではないのでここに来てびっくりしました」

大尉殿も空港に来て雪に驚いたそうです。

確率としては低かったとは思いますが、もし大阪空港に引き返すことになったら、
その時には観桜会の5時半には新幹線でなんとか間に合うとしても、
大尉殿に連絡が取れなくなって彼を右往左往させることになっていたでしょう。

 

空港と呉を繋ぐ高速道路は山間部を走っているので、その間ずっと
このようなまるでスキー場に来た時のような光景を見ながら走りました。

後部シートにまでヒーティングのついた快適な車内から
眺める景色としては、なかなか乙なものではあります。

呉までの一車線道路はほとんどが凍結しかかった雪道で、
皆がのろのろと時速60キロメートルで数珠繋ぎになっている様子は壮観。
この辺りは凍結しやすく、商業トラックや住民などは冬場タイヤを履き替えたりするそうですが、
さすがに4月の声を聞こうとする頃で、皆普通タイヤに戻してしまっていたのではないでしょうか。

そして無事に呉に到着。

大尉殿のいうように雪は降っていませんでしたが、とにかく気温が低く、

スプリングコートにスカートという格好では震え上がるほどです。

とりあえず地方総監部のいつもの(なんて言ってしまう驕り高ぶったわたしである)
応接室に通され、ホッとしていると、総監夫妻が登場。
ご挨拶の後、大変でしたね、とおっしゃる総監に飛行機の着陸について話すと、

「自動操縦のままだったのなら大丈夫だったでしょう」

パイロットというのは一般の人と同じことを聞いても見方が少し違うな、
と思うと同時に、わたしは機長は確かアナウンスで自動操縦から
手動に切り替えるということを言っていたことを突如思い出しました。

「いえ、手動に切り替えるとアナウンスがあったと思います」

「広島空港と岡山空港は地形的に着陸が結構難しいんですよ。
だからあそこに乗り入れる飛行機のパイロットは上手い人が多いです」

なーるほどー。
そう言えば、アシアナ航空の飛行機が着陸失敗して(ローカイザに接触)
機体が破損したという事故があったのもここでしたっけね。
あの時の天候は霧雨だったそうですが、事故原因は機長の判断ミス、
しかし機長は事故直後から行方不明(おい)、
脱出の際、乗務員らによる避難誘導は無く 、さらには全損した機体は
しばらく放置され、日本側が解体作業をしたとかなんとか。

そういう難しい空港なので、アシアナの機長も「ベテランだった」ということですが、
まあ、あの国だし、本当のところどうだったのか・・。

総監夫妻をお待ちするちょっとの間に、前回にはなかった「くらま」の盾を発見!(左端)

呉最終寄港 護衛艦 くらま 平成28年12月5日

先日退役の式典が行われたというニュースを見ましたが、その「くらま」、
佐世保に行く前に最後の呉寄港を昨年の12月5日に行なっていたようです。

各地方隊に寄って最後のお別れをしたんですね。 

室内には呉海自カレーシリーズのレトルトと、シールを集めてもらえる
スプーンとお皿のセットが飾ってありました。

わたしも集めて見たものの、(無理とはわかっていましたが)
この日3月31日をもって第一次ラリーは終了。
4月からは新しいラリーが開始されるということを知りました。
結果としてシールは3枚ゲットに終わりました乙。

総監夫妻は雨天のため呉地方総監部敷地内から変更された観桜会会場である
教育隊の体育館に先に向かわれ、残ったわたしは敷地内ツァーに出かけることになりました。

ご案内くださるのは地方総監部副官の方です。

外はシトシトと降り続く冷たい雨の中、黒い傘と🔦を二本もった副官が
ご案内と、説明もしてくださることになりました。

いやーなんか申し訳ないです。

 

続く。

 

 

 

 


「帽子」〜呉・高田帽子店

2017-04-01 | 海軍

幹部候補生学校の卒業式が終了し、空港まで送っていただけることになりました。
江田島から2時間は見ておいたほうがいい、ということで、
旧海軍時代下士官クラブだった「海友舎」の見学は諦めたのですが、

「高田帽子店は今日営業しているそうです」

うーむ、どうしてわたしが高田帽子店に行きたがるタチの人であると知っているのだ。 

去年の呉訪問の際、ホテルから歩いてここまできて、
定休日だったので写真だけ撮って帰ったのですが、今日はやっとお店に入れます。
たまたま検索していたら、あるブロガーが

「電話したら定休日だったけどわたしが行く時間だけ開けてくれた」

と書いておられるの見つけました。
わたしも電話して聞いていたらあの時開けてくれたのかも・・。


呉という街は決して都会ではありません。
いわゆる繁華街と思われる商店街ですら、昔ながらのお店が細々とアーケードに並び
地元の人たちが日常の買い物をしているという感じです。

だからと言って全く昔のままというわけでもなく、各々が適当に改装を重ね、
中途半端に新しかったりそれが古くなったりして統一性のない建物が雑然と立ち並んでいます。

高田帽子店もそんな街並みの一角にあります。
もしここがそういう歴史のある帽子店だと知らなければ、果たしてこれで
生業として成り立っているのだろうか、と他人事ながら心配になる、

「商店街の帽子屋さんの謎」(By探偵ナイトスクープ)に出てくるお店みたいですが、
ここが呉の「観光スポット」となっているのは、呉の観光資源が「海軍」だからであり、
また、旧海軍でずっと軍人たちの帽子を作り続けて来た歴史があるからです。 


 

 

「ごめんください」

外に車を停めてもらい、わたしだけお店に入って行くと、カウンターには
店主とその奥様らしい二人がいて、ご主人は作業中でした。

ガラスケースの中の帽章や庇をつける前の帽子が目を引きます。
上の段は帝国海軍の士官用、下士官用、水兵用が並び、
略帽とともにこれらは自衛官でなくても買うことができます。

潜水艦隊基地があることから、

「もちしお」「たかしお」「ゆうしお」 

そして「てつのくじら」になった「あきしお」のものもあります。
掃海艇「ゆりしま」もそうですし、つまり退役した自衛艦ばかり?

と思ったら、「やまゆき」があります。
わたしたった今、「やまゆき」が江田島から出港するのを見届けたばかりなんですが。

と思ったのですが、よく見ると艦番号は「DD-129」となっていました。
なるほど、「やまゆき」は練習艦に変更になったので、護衛艦「やまゆき」は
もう退役した艦と同じ扱いをしているってことなんですね。 

 

わたしが前回来呉した時にはお店が閉まっていたことを告げ、

「卒業式に出席していたんですが、終わってから連れて来ていただきまして」

というと、奥さんはわたしのいでたちを改めて眺め、(コサージュ付きスーツ)

「今日は・・・どなたかがご卒業を?」

「いえ、ご招待いただきまして来賓としてお見送りさせていただきました」

奥さんは代々の呉地方総監についても名前もお顔もご存知の様子。
そこで何人か覚えているだけの呉勤務の幹部を知っているか聞いてみましたが、

「たとえお名前は覚えていなくても、お顔を見たらわかります」

ガラスケースの上にはこんな感じで帽子と庇がさりげなく置いてありました。
何をしていたのかはわかりませんでしたが、ご主人はわたしと奥さんが
会話している間一言も発せず黙々と作業を続けておられます。

「飾り付きとそうでない帽子のつばは素材が違うんですね」

考えたら庇に刺繍が施された一佐以上のものは布出て来ていて当たり前です。
だからといって飾りのない士官用帽子の庇がこんなにツルツルしていたとは
近くで見たことがなんどもあるのにほとんど気に留めませんでした。 

この通称「カレー」ですが、全て刺繍は手で一つ一つ行うということです。


ガラスケースの中には体力賞や第一空挺団のマーク、
そして袖につける錨のマークが展示してあります。 

さらにテーブルの上には海自の帽章がたくさん置いてありました。

あの、今改めて思ったのですが、これ海軍のと全く変わってませんよね?
戦後海上警備隊が発足し、制服が決められたとき、帽章の抱き茗荷が抱いていたのは
桜ではなく鳩であったと聞いたことがあります。

その後自衛隊が発足するにあたって、帽章はおそらく確信的に、
しかしひっそりと、
元の桜に戻されたのだとわたしは想像します。 

外に車を待たせているのでゆっくりケースの中を見る時間がなかったのですが、
この写真にはサイドパイプがあるのが確認できます。


ガラスケースの上の帽子を指してわたしが

「これはなんの帽子ですか」

と聞くと、船員(一般の)の帽子だと教えてくれました。
これにもカレーがついているので、船長のものだったりするのでしょうか。
ご主人はそのとき、黙って帽章を乗せて見せてくれたのですが、
これはわたしにもわかる海上自衛隊用。

「?」

と思っていると・・・・・、 

「こちらでした」

桜の代わりにコンパスがあしらわれています。

ちなみに、海保の帽章は真ん中に大きくコンパス、その上に鳩です。
つまり、海上警備隊の帽章にあしらわれていた鳩は海保に譲り、

自衛隊はかつての桜を選択したらしいことが(わたしの中で)判明しました。 

艦船同志で交換される記念贈呈用の盾も多数。

実は、この盾に使う金属の金型を倉庫にずらりと保持していて、自衛隊から
注文があったら作る、ということをしている会社を見学に行ったことがあります。
これもおそらくその会社の金型でできているものだと思われます。

その倉庫にはもう退役したという艦船のものも全部保存されていて、
尋ねるとそういうのは絶対に破棄しないということです。 

一部アップ。
「くろしお」 ってーと、日本国自衛隊が初めて所持した潜水艦では?
(ちなみにそれは米海軍のガトー級『ミンゴ』を貸与されたもの)

と思ったら、就航が昭和42年となっています。

ということは二代め「くろしお」の就役記念です。
Vサインをしている「キャプテンコッキー」のできが妙に素人っぽいですが、
やはりこういうのって多少稚拙でも初代乗員が作ることが多いんでしょうね。

お店の他の様子も撮らせていただきました。
海軍海自そして海事コーナーはお店の半分で、残り半分は普通の帽子です。
こちらも作っておられるのかどうかは聞き損ないました。

ショーウィンドウにはソンブレロもあったのですが、誰が買うんだろう・・。
高須克弥かな?(参考 // ダーリンは70歳 高須帝国の逆襲 )

「あきしお」がてつくじになる瞬間、そして「しらせ」の写真。
下の本棚には、軍艦の写真、兵学校の写真集、そして軍装図鑑などが並びます。 

NHKでここをモデルにしたドラマが制作されたこともあります。
NHK広島放送局が開局80周年を記念して制作したテレビドラマで、主演は緒形拳。


広島の呉に、かつて山本五十六連合艦隊司令長官の軍帽を作った帽子店がある。
その店と帽子職人の誇りを父から受け継いだ春平であるが、
最近は注文が減り、物忘れも多く、警報ボタンで
警備員の若者・吾朗を呼びつける毎日である。
ある日、吾朗を捨てた母親が春平の幼なじみの世津で、末期のがんと知る。
春平は強引に吾朗を連れて東京に住む世津を訪ねる。
人間の誇りとは何かを問いかけるドラマ。(NHKアーカイブスより)


緒形拳が演じた主人公の春平が、高田帽子店(ドラマでは高山)の
主人、という設定で、山本五十六が中将時時代 (1934〜1940年)
帽子を作りに来たという実際のエピソードも盛り込まれています。

写真では闊達に笑っている緒形拳は、このときすでにガンの末期で、
放送から2か月後の2008年10月5日に死去しています。

同じ末期ガンで蝕まれる命をモチーフとしたこのストーリーを、
このときどんな気持ちで演じていたのでしょうか。 

高田帽子店に連れて行ってもらえると知ったとき、わたしはせっかくだから
この日の記念に
ミニチュアの帽子を買って帰ろうという意思を固めていました。

卒業式だったから、新幹部にちなんで、やはり(一番安い)幹部用かな。
そんなことを考えつつ、

「今日は士官用のミニチュアの帽子をいただいて帰りたいのですが」

というと、奥さんは

「それでしたらやっぱり刺繍の入ったものがお勧めです」

と高額商品をさりげなくプッシュして来られます。

「何と言ってもこの手刺繍がうちの自慢なんですよ」

確かに手刺繍で縫い込まれた桜葉はそれだけでたいしたものです。
そ、それでは刺繍入りの一佐以上のを・・・。

「刺繍の細かさならこちらです。(将官用のこと)
やはり装飾用に買われる方は、皆さんこれをお求めになります」

いや、突っ込むわけではないですが、このミニチュアの帽子は
どの階級のものであっても装飾にしかならないと思うんです。

しかし、この流れにおいて

「いや、刺繍なしのを」

と言い放つ勇気を、美しい日本の気の弱いわたしは持ち合わせません。

「では・・・将官用のを」

「これだとお値段が他のより高くなりますがよろしいですか」

「もちろんです!」

なぜか力強くこう言ってしまうわたしでした。

お代金は、ちなみに2017年3月現在で8900円なり。
こんなレトロな感じの紙袋に入れていただきました。 

本物の帽子の縮尺で全く手を抜かずに作られているのがすごい。
特に将官用は本物の庇よりも細かい刺繍が必要になるので手間がかかるでしょう。 

帽子には折りたたみ式の飾りケースがついています。
見れば見るほど手がかかっているのがわかり、家に帰ってから
しみじみとこれにしてよかったと思いました。

まあ、今回はこの帽子をかぶった幹部の方のお招きだったということで。

ところで、お店で聞いた話で、奥さんがこんなことをおっしゃっていました。
わたしが

海自の集まりで帽子置きにずらっと並んだ帽子を見ると、個体差があって
刺繍の形とか色とかが少しずつ違うんですよね」

とかねてから感じていた通りにいうと、

「わたしどもは写真とか遠くから見ただけでも、うちのかどうかわかりますよ」

「やっぱりそうなんですか!何かが違う・・・?」

「どこがどう違うと口では言えないんですけど、なんかわかってしまいます」

後、山本大将の写真など、先代は白黒の古い写真を見ただけで
これはうちで作った、ということがわかった、とおっしゃっていました。

海自の帽子に個体差があったのはこういうわけだったのです。
いくつかのお店があるし、そもそも官品とは全く違うでしょうしね。


ところで帰りの車の中で大尉殿にその話をして、制服についても
官品ではなく自分で注文する方がいるそうですね、というと、 

「わたしのも私物ですが、全く官品とは素材が違います」

彼は運転しながら左腕をよく見せるようにこちらに向けました。
おお、大尉殿はこだわりの私物派でしたか。 

「官品も一応受け取るのでしょう?」

「受け取ります」

「スペアにしておいてクリーニングが間に合わないとか、
非常時(海に落ちたとか)にそちらを
着るということはないんですか」

「着ませんね。受け取ってから一度も箱から出さないままです」

他の私物派の方からも全く同じことを聞いたことがあります。 
着るものに対しては個人の考え方があるので、どちらがどうとは言いませんが、
もしわたしが自衛官ならもちろん私物派で、こだわりまくることだけは確かです。

生地はゼニア?ロロピアーナ?それともヴァレンティノ・ガラヴァーニ?

とか(笑)


帽子の中には型崩れしないように厚紙が入れられておりどこまでも丁寧です。
この日の良い記念になったと思いました。

 

というわけで、幹部候補生学校の卒業式参加シリーズ、終了です。
最後になりましたが今回の参加に際してご配慮いただきました
呉地方総監部の皆様方に、心から感謝を申し上げます。 

みなさま、どうもありがとうございました。

*おまけ*

外猫にかぶせようとしたら全く近寄って来なかったので
仕方なくうちにあった唯一のぬいぐるみ(バムとケロのカエルの方)
にかぶせてみました。

 

終わり