ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

彼女が「アイアンサイド」だったわけ〜USS「コンスティチューション」

2016-08-11 | アメリカ

さて、帆走フリゲート艦「コンスティチューション」見学1日目。
いよいよ内部を見学です。



前もって聞いていましたが、「コンスティチューション」は海軍の現役艦なので、
たとえ艦内を通り抜けるだけであっても手荷物検査とIDチェックを受けます。
金属探査機まであったのでそのものものしさにびっくりしました。

わたしはパスポートを持ち歩かないので、列の途中でIDをチェックしている
「コンスティチューション」の乗組員に、

「自分の国の免許書しかないんだけどこれでいいですか」

と聞くと、

「写真がついていればなんでもいいですよ」

皆並んでIDを見せ、カバンの中を全部見せてこの小屋の中を通りました。



こ、これはたしか帆船の横っ腹から突き出している大砲?
今補修中なので全部ここにおいているのでしょうか。
この手前の比較的短い砲は

カロネード砲

といい、1860年ごろまで軍艦に装備されていました。
「コンスティチューション」にはこれが20門搭載されています。

向こう側の砲はこちらより長いですが、こちらは長砲で、
こちらの方が多く30門ありました。
砲弾の重さはカロネード砲が15キロ、長砲が11キロです。

そして11kgの船首砲が2門。
これが「コンスティチューション」の武装です。



中に入ってまず船首側から一枚。
船首から突き出している白いマスト状のものは何なんだろう、
まさかこれが船首砲・・・・のわけないよね?
と思って画像を検索してみました。



う、うつくしい・・・・。

これは1997年、大改修後、40分の帆走を行った「コンスティチューション」ですが、
艦首の部分を見ていただくと、この白い部分の先に木造マストを指して
そのマストにも帆を張っているというのがわかりますね。



さて、ところで「コンスティチューション」が繋留してあるチャールズタウン、
ネイビーシップヤードの第1ドックですが、建設されたのは1800年。
この版画に描かれているころには、もう出来てから50年も経っていました。

ドックの前を海軍軍人らしい3人が歩く姿が見えますが、
バッスルスタイル(ドレスのスカートの後ろを膨らませる当時の流行)の
女性が日傘を持って優雅に散歩しているのでとてもここが海軍工廠に見えません。



こうして比べてみると、昔とは陸の部分の形が全く変わってしまっているのがわかります。
「コンスティチューション」は、1812年の米英戦争における英国艦との戦いで、
その堅牢なライブ・オーク製の船腹が砲弾を跳ね返したため、それ以降

「OLD IRONSIDES」(鉄の船腹)

の敬称を奉られることになりました。
(オールドは古いというより親しみを込めた呼び方のそれだと思う)

そう呼ばれるに至るまで、1933年以来、彼女はまさにこの第1ドックにおいて
幾たびかの修復を受け、それによって船体を強固にしていったのです。



彼女が「鉄」と呼ばれたのにはこんな仕掛けがありました。
リペアの際、彼女を手がけた船大工たちは、樹の特性を踏まえ、使う木材を
慎重に選定して「コンスティチューション」に使いました。

例えばデッキにはダイオウマツ、張り板にはホワイトオークといった風に。
木挽が用意した木材のチップで船大工が各部を作り上げ、さらに銅加工職人は
船底を銅板で全て覆い、「アイアンサイズ」に彼女を加工したのです。

超余談ですが、昔アメリカのテレビ番組に


「鬼警部 アイアンサイド」(原題”IRONSIDES")


という日本題のドラマがあったのをご存知でしょうか。

日本人にはピンと来ませんが、アメリカ人であればこのタイトルから
「コンスティチューション」のあだ名をすぐさま思い浮かべ、
主人公のイメージ(苗字がアイアンサイドというみたいですが)に
「打たれ強い」「パトリオット」などのイメージを重ねたのでしょう。



ところで、上の図ですが、黒い部品を”Ship's knee"といいます。
この部分は、さらに上の図に見られる樹の部分を選定してカットされました。
1800年代のライブオークは、今日のものより堅牢な樹質であったそうです。




ここがボストン海軍工廠の第1ドライドック。
1800年にチャールズタウン海軍工廠(その後ボストン海軍工廠に名前を変更)
が出来てから、最初の戦列艦「インディペンデンス」を建造して以来、
その後「コンスティチューション」を生んだドックです。

ちなみに、横須賀にフランスから招聘されたヴェルニー技師の設計による
日本初のドライドックが出来たのは、84年後の1884年のことです。



アメリカ人観光客は覗きもしないドックの細部を、
熱心に写真に撮る怪しい日本人(笑)

ドックの底には「1500」「1200」などの番号の書かれた木材がならべられています。

さらには「コンスティチューション」の船首の先に「あれ」がある!
これ、「ミスティック・シーポート」で飾ってあったのと同じですよね?
錨の形をしているんだけど、大きな横木が付いている・・。

二つを組み合わせて倒れないように置いてあります。




レンズを望遠に変えて後ろに戻って撮ってみました。
これがこの「正しい使い方」のような気がしますが、してその用途目的は。



ドックの底の木材は、縦横に組み木のように置かれています。



このドライドックの仕組みについてわかりやすく説明しています。

1、ドライドックの入り口には海水が少し入っており、
入り口は浮き扉で閉じられて海水の流入を防いでいる状態です。

このドックの「浮き扉」のことを「ケーソン」といいます。
海水はケーソンを通っているパイプを通じてドック内部に満たされます。

2、ケーソンを「浮き扉」というのは、それ自体が浮くからです。
ケーソン内部の海水を汲みだすと、ケーソンは浮き上がって入り口を離れます。

3、船が曳航されてキールブロックの上に浮かべられます。

4、水を満たされたケーソンがドライドックの入り口にもう一度置かれ、
ドライドック内部の海水はポンプで吸い出され、あとは
クレイドル(設置場)の上に船が乗った状態でドック内が「ドライ」になるのです。



ということは、これが「ケーソン」、つまり浮き扉ってことなんでしょうか。
この内部の海水が抜かれて船のように浮き、離れたところに曳航されて、
さらに船が設置されてから元の場所に戻されて「水密扉」の役目を果たすと。

どうやったらこの巨大なものをここにぴったりとはめるのか、
わたしはむしろその操作を是非見てみたい。




これは船尾からドックのハッチをみたところ。
ケーソンとその周辺の壁など、排水のための機構は最新式のものです。

「コンスティチューション」には一度解体の危機がありましたが、
大衆の支持によって保存が決まり、1931年、最就航しました。
1940年、議会で彼女の「永久就役」の身分が決まり、このときから
「コンスティチューション」は「国と海軍の象徴」となったのです。

ベトナム戦争の後、閉鎖されていたこのドックですが、再利用の案が流れ、
結局は歴史保存のためそのままここでは歴史的艦艇の修復のみが行われることになりました。

この第1ドックのハッチがいつできたのかは、海軍工廠のHPが閉鎖中で
見ることができなかったのでわかりませんが、かなり近年のことに思われます。





これは排水ポンプに違いありません。
左側に4本、右側に2本の、直径40センチくらいのポンプが、
ドック内の海水を汲み出すためにドック底につけて設置してあります。

船体を導入するときにパイプを傷つけないように、その手前の
船形のコンクリートの壁がパイプを守る形になっています。


なかなか内部に入っていくことができませんが(笑)、次回、
さんざんドックの写真を撮りまくってから見た「コンスティチューション 」の
甲板についてお話しします。


続く。 


「Don't Give Up The Ship!」〜帆走フリゲート艦「コンスティチュート」

2016-08-10 | アメリカ

それは、ニューロンドンの潜水艦基地にある原潜「ノーチラス」の艦内で見た、
野球大会の記念ボールに書かれていた文字がきっかけでした。

「ノーチラス対コンスティチューション」

どちらが勝ったのかはわかりませんが、「ノーチラス」のこのときの対戦相手が
ぱぱっと調べただけではただ帆船ということしかわからず、
例によって当ブログ上で丸投げしたところ、お節介船屋さんの情報により
これがなんと海軍の現役帆船であるということを知ったのです。

それにしても、アメリカから帰国以来13年間、毎年この地に来ていながら、
帆船「コンスティチューション」がボストンどころかアメリカ海軍の象徴であり、
観光の目玉であることを
全く知らなかったわたし・・・・。orz


ノーウォークからウェストボロに移動してすぐ、TOが日本に帰国し、
一人になった途端、わたしはバトルシップコーブを始めこのコンスティチューション、
そして戦艦「セーラム」と海軍オタクの聖地のようなボストンの港港を渡り歩き、
そしてその全てを満喫したのですが、この帆船見学だけはいつもと少し趣が違いました。


というのも、この「コンスティチューション」の繋留展示してあるチャールズタウンは
ボストンの中でも歴史の古い(1628年に設置、翌年より入植開始)街で、
あの「バンカーヒルの戦い」の舞台となった土地でもあります。

そしてなんといってもチャールズタウンにあったボストン海軍工廠は
アメリカの海軍工廠で最も早い時期に(1600年)開設されたものです。
同工廠で最初に建造されたのは戦列艦「インディペンデンス」ですが、
33年後には、アメリカ副大統領、陸海軍長官を含む多くの高官および
マサチューセッツ州の職員たちが臨席し、ニューイングランドにおける
最初の海軍乾ドックにおいて、「コンスティチューション」 が就役しました。

これは未だに「アメリカ海軍史上における素晴らしい出来事」の1つとされています。

展示されているのが最古の現役艦であること、そしてその繋留港そのものが

歴史的に重要な、しかも現在も海軍の用地であること。

見学者が少なくて週末にしか公開しておらず、艦内見学しているのは
終始わたしだけ、というような船があれば、こちらはボストンの超有名観光地。
(わたしは知らなかったけど)
趣が違ってあたりまえというものです。



なにしろボストン随一の観光地であるネイビーシップヤードなので、
駐車場がどうなのかを大変心配していたのですが、
なんのことはない、周辺の路上に2時間までメーター制で停められました。

最近はクレジットカードが使えるパーキングメーターが増えたので、
小銭をいつも持ち歩かなくてもよくなったのは喜ばしいことです。



ネイビーシップヤードの方向に向かって歩いて行くと、まずこんな

いかにもドックでした、みたいな光景が現れました。




当時のネイビーシップヤードの地図を見ると、『1』が第1ドライドック、
『2』が第2ドライドックですから、位置的にこの部分は
昔第2ドライドックとして使われていた部分であると思われます。



今はドックとしては機能しておらず、まるで運河のような景色。
ドックだった名残りとして、周囲を線路が取り囲むように走っています。


ドックとミスティックリバーを望む左奥の立派な建物は複合ビルで、
上階がアパートになっているようですが、こんなところに住んでみたい・・。



チャールズタウンは古い建物が未だに多く残る地域ですが、
海軍工廠の建築物もほとんどがこのような当時のままのものです。

レストランなども中身だけ改装して営業しています。
条例による規則もあるのかもしれませんが、アメリカ人、ことにボストンでは
人々は古い建物を決して立て替えたりせず、使い続けるのが基本です。



ところで上の青空の写真はボストンを離れる前日、空港ホテルにチェックインする前に
家族と来た時のもの、そしてこの写真が一人で来た時のです。
空の色がまったく違うでしょう?

実はこの両日、同じ場所とは思えないくらい天候が違いました。
後者は蒸し暑く強烈な日差し、この日はどんよりと曇って風が強く、
震え上がるくらいの寒さだったのです。

顔が真っ赤になって家族に大丈夫かと聞かれるくらいの暑さと
寒いのとどちらがマシかと言われれば、断然後者ですが。



「コンスティチューション」の繋留してあるのは第1ドックです。
海軍工廠の敷地には誰でも無料で入ることができます。

工廠内にくまなく走っている線路に沿って「スケールハウス」と書かれた
小さなオフィスがありました。
何を「計る」のでしょうか。



スケールハウスの道の反対側の建物は造船所内にあったもので、
復元されて、さらには右側に見える新しく作った通路で別の建物と連結させ、
『U.S.S.コンスティチューション博物館』となっています。
ここも見学しましたが、素晴らしい充実度でした。
「コンスティチューション」の誕生からその歴史までを学ぶことができます。



こちら「コンスティチューション博物館」正面。
この旗の立っている部分の右側が「コンスティチューション」のいる
第1ドックがあります。



これが最古の現役海軍艦艇である「コンスティチューション」!
今までその存在すら知らなかったくせに、現物が見えると胸が高鳴ります。
この時にはまだ警官銃撃事件の余波が収まらなかった頃で、そのため
すべてのフラッグが半旗に揚げられているのでした。

一番右にはアメリカ国旗が揚がっていますが、あと4つはなんでしょうか。



ちゃんと現地には説明のボードが出されていました。

まずアメリカ国旗に見えたのは、

●「スター・スパングルド・バナー」(Star Spangled banner)

といって、15の星、15のストライプでした。
「コンスティチューション」が1812年の戦闘で揚げていたのがこれです。

上から二番目の赤字にイギリス国旗は、

●「ブリティッシュ・レッド・ナーバル・エンスン」(英国赤海軍旗)

「コンスティチューション」が1812年に戦った英国海軍の船、
HMS「ジャバ」、HMS 「レヴァント」が揚げていた旗です。

黄色と赤のストライプの旗は、

●「トリポリタン旗」

「コンスティチューション」が参加したバーバリー戦争で
 トマス・ジェファーソン率いるアメリカ艦隊が戦った
カラマンリー朝トリポリタニアの旗です。

その手前の青い旗には白字で

● 「Don't give up the ship」(船を諦めるな)

と書かれていますが、これ、確か「ノーチラス」のダメコン10則の
一番最後に書かれてましたよね?
この言葉はUSS「チェサピーク」がボストン湾でイギリスの戦艦HMS「シャノン」に
捕捉され、砲撃を受けて瀕死の状態に陥った艦長、ジェームズ・ローレンスの
最後の言葉だったということです。

ちなみに、最後の言葉はふた通り伝えられており

「船を諦めるな。沈むまで戦え」(Fight her till she sinks.)
「早く砲撃をしろと伝えろ。船を諦めるな」(Tell them to fire faster.) 

いずれにしても「船を諦めるな」が海軍のモットーとして今日旗となっています。



ちなみにこれがその現場写真。

最後の白い旗は

●「自由貿易と船員の権利」(Free Trade And Sailors Right)

 USS「チェサピーク」が1813年に揚げていた旗です。
アメリカがイギリスに対して海上での自由貿易を求めた、というのが
そもそも1812年の米英戦争の大きな原因だったわけですが、
改めて米英戦争について書かれたものを読んでみると、アメリカ人の
ネイティブ・アメリカンに対する残虐な描写ばかりが目についてですね・・・。
この戦争ではインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐため、
イギリスと手を組んだことから、

司令官ジョージ・ワシントン(米初代大統領・米英戦争以前に病没)は
この地を領土とするイロコイ族の皆殺しを指揮し、彼らの集落を徹底破壊して、
イロコイ族から「町の破壊者」と恐れられた。
イロコイ族が英軍と同盟を組んで米植民政府側に刃向かったからである。
ワシントンは軍隊に殺したイロコイ族の皮を剥がせて、軍装の飾りにさせていた。

とか、

ジャクソンは殺したインディアンの鼻をそがせて戦利品とし、
死体から皮をはがせて軍馬の手綱にさせた。
また「女を生き残らせるとインディアンがまた増える」として、
赤ん坊でも幼女でも、かまわず女を虐殺させた。

とかね。
アメリカ人はこういうの、学校でどんな風に教わってるんでしょうね。 
まさか、教わってない・・・? 




「コンスティチューション」は2016年夏現在ドライドック入りしており、

ここ第1ドックにおいて補修中となっています。

1992〜5年に彼女は大改装によって稼働可能な船として生まれ変わり、
1997年、この年は彼女の200歳の誕生年であったわけですが、彼女は
実に116年ぶりに海に帆を張って航海に出ました。

その40分の航海の間、ミサイル駆逐艦とミサイルフリゲート艦が2隻、
彼女の護衛を行い、また空にはブルー・エンジェルスが飛来して
彼女の復活に敬意を表したということです。

1797年に就役してから219年の時を経ても未だ現役の最古艦。
海軍における象徴であり、アメリカ海軍史上最も有名な海軍艦であり、
そして現在の彼女の使命は、海軍の歴史とともに海軍そのものを
人々に広く知らしめる広報大使としてその姿を見てもらうことにあります。




「コンスティチューション」がドライドックに入っているの図。
ほぼ同じ角度からたまたま写真を撮っていました。
周りの建物の様子こそ今と変わっていますが、「コンスティチューション」と
彼女が鎮座しているドックだけはこの絵と寸分変わることはありません。


次回、この第1ドックのこともお話ししていこうと思います。


続く。


 


"The Greatest" Admiral〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-08-08 | 軍艦

戦艦「マサチューセッツ」の展示がとても優れているというのは、
大抵の博物艦が、維持するのが精一杯で手入れすら疎かなのに、
ここだけは現状維持だけでなく、解説が本物の博物館並みに丁寧であることでしょう。



たとえば、 甲板から2階上の艦橋に上がって見える景色がこれです。
ちょうどわたしが立っているところに、冒頭の当時の写真があり、

YOU ARE HERE

ここにあなたは今いるのですよ、と教えてくれるのです。
これはわたしのような、今残る”もの”から往時を偲ぶことに熱心な人間には
なんともツボを押さえた、嬉しい解説となります。

この同じ場所で60年前にこの景色が、としみじみするわけですね。



その優れた展示には、かつての乗組員の協力がありました。
ってことで、左から、

起業家となったベンジャミン・シュルマン少佐。
ナビゲーションブリッジ、提督の居室、幾つかのボフォース機関砲のマウントの
再現に協力(つまり出資)しました。
「マサチューセッツ」時代は甲板士官としてブリッジにいました。

真ん中、ブルックリン生まれのダニエル・クライン一等水兵。
かつては1番から3番までのガンマウントのポインター&トレイナーでした。
(つまり日本砲撃の時に砲の狙いを定めていた人です)
退役後カリフォルニアでパン屋を営んでいたクラインさんは、
2006年、ビッグマミーに『探索』のために帰ってきました。
孫、曾孫、そして玄孫(やしゃご)を伴って。

右、ジョン・オニール・Jr.大尉。
ビッグマミーでルソン、レイテ沖、沖縄の戦闘を体験した大尉は、
冷戦時代軍籍を置いたままタフツ大学で化学、ローウェル工科大で
エンジニアリングを学び、その後は化学薬品会社の副社長を務めていました。
オニール大尉はまた、当バトルシップコーブの設立メンバーでもありました。




さて、この1階下にもう一度もどりまして。
ここには「バトル・ドレッシング・ステーション」があります。
ドレッシングというと我々はサラダにかけるものとしか思いつきませんが、
「身につける」ことから、包帯、塗り薬などの医薬品を指すこともあります。

つまりここは、怪我の手当てをするところ、ファーストエイドステーションです。 



ただし、普段は使われることはなく、ここが機能するのは戦闘中のみ。
下のシック・ベイ(医務室など)に戦闘中怪我人を運んでいる場合ではないので、
とりあえずここで手当てをしたり、怪我人を放り込んでおいて、
戦闘後に担いで医務室に連れて行くのです。

ずいぶん酷いように見えますが、実際に海戦というのは何時間もかかりません。
特に航空機の攻撃はせいぜい分単位で終わるものなので、
戦闘中は最低限の手当てしか行われないのです。


このスペースは戦闘中以外は全く使われませんでした。




アクリル板でカバーされて中に入れなかった「チャートハウス」。
フネを安全に航行させるための機能を備えたコンパートメントです。

 DRT(Dead Reckoning Tracer)推測航法装置、と訳すのでしょうか。 
ここには艦位をリアルタイムで表示するこの機械や、 深度インジケーター、
風力風向インジケーター、 そして艦の進路を表すジャイロコンパスがありました。 



チャートを置くデスクのうえにあった『何か』。
インジケーターの目盛りであると思われます。



ここでのキーパーソンは、航法の全てに責任を持つ「ナビゲーション・オフィサー」。

ちなみに自衛隊では「オフィサー」はつかず、「ナビゲーター」で航海長を意味します。

副長は「エグゼクティブ・オフィサー」、船務長は「オペレーションズ・オフィサー」、
士官の役職には全て「オフィサー」がつくのに、なぜか航海長だけナビゲーターです。

この謎についてどなたかご存知の方おられませんでしょうか。


さて、この知的な風貌の老人は、かつてのここのキーパーソン。

展示艦「マサチューセッツ」は、見学者のために、要所に備え付けられたモニターで、
かつてそこを持ち場にしていた乗員が任務について語っているビデオを
説明のために繰り返し流していました。




ここには”QUARTER MASTERS” もいました。
この単語を辞書で引くと「需品課」などという意味が出てくるわけですが、
普通に需品課なら、何もチャートルームにいることはないわけで・・。

実は、アメリカ海軍独特の言い方で、クウォーターマスターズとは、
ウォッチ-トゥ-ウォッチ・ナビゲーション(視認?)を行ったり、
海洋地図やナビゲーション機材の準備や手入れを行う役目の下士官で、
『QM』がそのランクの略語となります。

ちなみに、潜水艦のQMは、エレクトロニクスナビの資格者でなければならず、
大気モニタリングや艦内のコミュニケーション、エンターテイメントも担当します。
ということは、映画の放映とかも行う係なんでしょうかね。



チャートルームから出て艦首側に、こんなドアのある一角がありました。
まるで日銀の金庫のような(見たことはありませんが)分厚い壁。
コンパートメントというよりほとんど「カプセル」といった感じです。



ここを”CONNING STATION" といいます。
CONNは操舵なので、普通に操舵室ですね。

ここには操舵装置のほか、艦内外の通信装置、レーダーのインジケーター、
小さな無線室、そして二つのペリスコープ(潜水艦ではないので展望鏡)があります。

戦闘状態になるとこの分厚いドアは中から完璧に閉じられ、
艦にとっての重要人物である艦長と舵手、THE LEE HELMSMAN、
つまり デッキ階下のエンジニアリング担当に速度を指令する係を守るのです。

我が帝国海軍の戦艦艦橋に、こんな金庫みたいな部分はありませんでしたよね。
戦闘の際、艦橋への一撃で艦長以下幹部全員戦死、という例が結構ありましたし。

こんなとんでもない部屋を作ることができるアメリカとは、海戦に対する
思想もですが、そもそも国力というのがまるで違ったんだと思わずにいられません。



これはその「金庫」のさらに艦首寄りの部分。
平常時は艦長はこの椅子に座って航海を見守ったのでしょう。



ここにもジャイロかナビかなにかがあったと思われますが、
取り払われてしまって跡だけが残されています。



艦長椅子の横にあったインジケーター。
右から速度、角度、速度。
 


このうしろの「金庫」からは、こんなスリットから外を見ていたようです。
「マサチューセッツ」は実際に何度も戦闘を経験しており、つまり
ここから艦長などが前方を窺ったということも何度もあったはずです。



さて、チャートハウスと操舵室のあったこの階この階が、
戦艦「マサチューセッツ」で見学者が立ち入ることのできる「最上階」となります。 



ここから上に登るラッタルがありましたが、塞がれていました。
おそらく、マストやレーダーのある部分に続いているものと思われます。 

 

全部見てしまったので降りるしかありません。
最近わたしは軍艦の見学をするときには、必ず階段の上り下りの前に
こうやって写真を撮る癖がつきました。

後から写真を見たとき、こうしておかないと、いつ階層を移動したのか
全くわからなくなってしまうことがあるからです。

このラッタルの降り口には、手でつかんで素早く降りられるように手すりが付いています。 



ここは先ほどボートがデリックに付けられていた階層です。
ボートの向こう側に通路が見えたので、写真手前から通り抜けてみました。

アメリカ人の10人に一人くらいはここを抜けられないというくらい細い通路でした。
まあそんな体型の人は、こんなところであちこちウロウロしないと思いますが。



この階の艦尾側には、ここにもボフォース機関砲のマウントが両舷にに2基。



この真下には艦尾側の主砲が3門あるところです。
この部分には

 Mark 37 Gun Director

と解説されていました。
これらは二次バッテリーとして砲や銃、サーチライトに使われるもので、
「マサチューセッツ」は4つのMk.37ガン・ディレクターを搭載していました。
一般的に戦艦ではこのように箱型のシールドで保護されていました。

ただの電池ではなく、レーダーを搭載しており、目標を追跡することもでき、
Mk.12のディレクターは”Friend or Foe" 、つまり敵味方認識も行うことができました。
そして例えばMK.22などは、

「海面ギリギリを飛んでくる飛行機をトラッキングする」

ということもできたといいます。



下から見ると、体を乗り出せば主砲が見えそうでしたが、全く無理でした。



40mm、つまりボフォース機関砲のローディングマシーンです。
どうやって使うのか全く想像もできなかったのですが、
これを見て納得しました。



つまりいま上を向いている方向から手動で弾をこめるんでしょう。
でも、説明を読んでみたら、ここにあるのはガン・クルーの練習用だったそうです。


 
あと、この階にあったのは、これも練習用のローディング・マシーン。
説明によると『5” 二次バッテリー』のローディング、とありますから、
つまりMk.37のためのものみたいですね。

練習ではダミーの弾丸と火薬のカートリッジが使われたそうです。


ところで、ボフォース機関砲は、アメリカ海軍の艦艇に搭載された対空兵器の中で

最も多くの航空機を撃墜したと言われているのだそうです。
おそらくは本土を防衛するために立ち向かっていった多くの日本軍の戦闘機も、
この甲板から放たれた砲弾によって撃墜されたのに違いありません。



ロープを巻きつけている縦置きキャプスタン?が三つ。
上からカバーをして保護しています。



主砲、45口径40.6cm砲を横から見る位置。



主砲と艦橋の間は決して広くありません。

しかし、海軍の、特に船乗りは運動量が半端ではないので
太った人などだれもいないはず・・・・・・ん?



大変苦労して艦橋から出てくる偉い人、キター。

「ザ・フラッグ」として1945年夏「マサチューセッツ」に座乗していた
(ということは、彼女が日本を攻撃した一連の作戦の指揮をしたということです)
ジョン・シャフロス中将は、ご覧の通り大変な百貫デ、いや巨漢でした。

なんでも「海軍史上最も大きな提督」と言われたシャフロス中将の身長は
6フィート(182cm)、体重260パウンド(120キロ)。
テレビでしょっちゅうやっているその手の番組に出る人なら痩せている方ですが、
何と言ってもこの人のお仕事は狭い艦橋をいったりきたりすることなのです。

中将は必ず一欠片の石鹸かチョークを持って艦内を視察し、
自分が体を折り曲げないと通り抜けられないところに印をつけて
後から工事や修繕を行う部署(自衛隊なら営繕班)に、
それを何とかして直すように申し渡したと言われています。

艦の中なので、そんな簡単に削ったり広げたりできるところは
ほとんどないのでは?と誰でも眉に唾をつけてしまいそうです。

しかし、これが単なる噂でなかったことは、少将のために作られたシャワー室の
パイプを見ればわかった、ということです。
なんたる傍迷惑な。
艦を直させる前に自分が痩せろよとか、こんなデ、じゃなくて提督を戦艦に乗せるな、
とか、いろいろと突っ込みどころはありますが、 それを押してこの人を
出世させたからには、戦艦に乗せなければならない大人の事情ってやつがあったのでしょう。
いや、単に優秀だったので仕方なく、ってことかな。 

いずれにしてもこれが本当の「The Greatest Admiral」ってやつですか。




 
続く。 

 


EAST TO WEST〜淡々と写真を貼るシリーズ

2016-08-07 | アメリカ

東海岸で見たものについての話が全く終わらないうちに
いつの間にか東海岸から西に移動していたのでした。

今回たまたま窓際を息子から取り返したので、外を見ていたら
珍しく全行程全く雲がなく、移り行く地形を写真に撮ることができました。

これがなかなか面白かったので淡々と貼っていきたいと思います。
ちなみにカメラはソニーのデジカメです。



出発便が朝8時台だったため、ローガン空港近くのホテルに一泊しました。
窓から眺める夕焼けが綺麗です。



いくら国内線とはいえ、いつ行っても混んでいるローガン空港なので、
大事をとって2時間前に空港に到着しました。
無事離陸してすぐに撮った写真。
グーグルマップでチェックしたところ、これは「サフォーク・ダウンズ」といって
競馬場なんだそうです。



去年も確かこんな、なんというか思わず背筋がざわざわしてしまうような
上空から見たヨットの群れの写真をあげたかと思います。

この正体は、ここがボストンでも有名なヨットクラブのある「コーブ」で、
半島と砂州で繋がった小さな島との間の海には、それこそ何千も係留してある
個人のヨットなのです。



まだ朝なので帆を張っているヨットは全くいません。
自分のヨットの場所まではおそらくボートで行くのだと思いますが、
よくまあこんなところをよく間違えずにたどり着けるものだと思います。
専門のタクシーのようなボートがいるんでしょうか。

ちなみに、この左側の「マーブルヘッド」を昔ドライブしたことがありますが、
ここにあるすべての家がとんでもない豪邸ばかりで、驚き呆れたものです。 



その先に、小さな島がありましたが、なんとプールが見えます。
もしかして大金持ちが私有している島?と思って調べてみたところ、
これは「チルドレンズ・アイランド」といって、ノースショアのYMCAが
子供のためのデイキャンプを運営しているそうです。

元々はキャットアイランドといい、1700年代には天然痘患者の隔離病院が
ありましたが、本土の住民の放火によって全焼しました。
その後独立戦争時には軍艦の停泊地となり、その後は業者に買収されて
リゾート島になったものの、経営が苦しくなったので売却されて、
次は子供のための療養所となりました。

療養所といっても、病気の子供はともかく肢体不自由児までが収容されていたようで、
要はていのいい「いらない子供捨て場」ではなかったのかと思われます。

いずれにしても昔の技術では水の確保に苦労したため、療養所も
1946年には廃止になっていたということだそうです。



今回は前もってHPをチェックしてリコンファームもしておいたので、
ちゃんと食事の出るクラスに乗ることができました。
リコンファームなんて大昔の慣習だと思ってたぜ。

ユナイテッドは、アメリカンやデルタよりはマシなものが出ます。



全行程不思議なくらい雲の見えないフライトでしたが、
こんな可愛らしい雲がなぜか一つだけポツンと浮いていました。
よく見たら何か乗っていそうです。



しばらく行くと・・・、そう、カンザス州あたりでしょうか。
緑が比較的少ない南部の州にかかったころ、こんなものが頻繁に見えだしました。



たくさんある地域があれば、こんな風にたった一つポツンとあるものも。

これは

センターピボット (Center pivot irrigation)

というもので、乾燥地域において行われている灌漑農法なんだそうです。

乾燥地域でも大規模に作物を栽培できるよう、地下水をくみ上げ、肥料を混入した後、
自走式の散水管がまるで時計の針のように回って円形の地域に水をまくのです。

散水器は、一日1~12回程度同じところを通ります。
飛行機からこんなに見えるくらいですから、平均は半径400m、
大きいものは半径1kmにもなるそうで、なるほど、その部分だけに
作物が育っているので「緑の円形」が砂地に出現するわけですね。



まだ設置されたばかりの円形では、まだ緑が薄かったり、全くなかったり。
中には4分の1しか作物が育っていない円形もありますね。

しかしこの灌漑農法、等高線耕作を無視して土壌流出が起こったり、
塩害が発生したりと、問題も大変多いのだそうです。
また、地下水の枯渇や、化学肥料による地下水(飲料水)の汚染が問題となっているとか。

まあ、こういう「砂漠に花を咲かせる」ことも可能にするのも、
その後の「資本家の倫理」で後に引けなくなって突っ走るのも、
さすがにアメリカではスケールがでかいというか(嫌味です)



ほんの小さな砂だまりに見えますが、ピボットが直径800mとしたら
横の長さは6〜7kmはあることになります。



いかにも水の少なそうな平地をしばらく行くと、山脈が横たわる一帯が。
ここはおそらくコロラド州に入るあたりだとおもわれます。



砂地の中にポツンと緑の部分が!



ここも人口の灌漑地で、おそらく右上に民家があります。
こんなところに住むって、どんなんだろう・・・。

自家用機の飛行場もあるみたいですが、これでは「隣」が何百キロも先。



砂漠の中にくっきりと浮かび上がる車道。
おそらく、1日走っても他の車と全く出会わないに違いありません。
昔ボストンからサンフランシスコに引っ越すとき、荷物を別送にして
車で大陸横断を計画したことがありますが、改めてこういうのを見ると、
運転する人間が一人で、しかも2歳の子供連れ、車はトヨタカムリでは
とうてい無理ゲーだったとしか思えません。

もちろんモノの本にはコロラド山脈などを避けたルートが紹介されてましたが。
そのとき読んだ本に

「ガソリンは半分まで減ったら必ずすぐに給油すること」

「夕方以降は絶対に走らないこと」

と書いてあって、軽く戦慄したのを思い出しました。



舗装してある道は上空から見るとわかります。
砂漠の真ん中の道ながら、何台かの車が走っているのが見えました。

まあでも、こんなところで夕方ガス欠になったらもう終わりですよね。
きっと日が落ちたら気温は零下になるとおもいます。



なんかすごく無理して水のないところに水を引っ張ってる感じ。
これもきっと地下水をくみ上げているのだと思われ。
そこまでしてどうしてここに農場を、と問い詰めてみたい。



家もないのに飛行場。



これは自然湖。
コロラド州に入って、だんだん緑が増えてきました。



この頃、アメリカの南部は猛烈な暑さに見舞われ、それがニュースになっていましたが、
この辺りでは雪が山脈に残っています。

スキー場で有名なアスペンもコロラド州にあり、冬季オリンピックの行われた
ソルトレークは隣のユタ州のおなじ山脈一帯に位置します。

アメリカのドラマを見ていると、「アスペンでスキー」というのを
決め台詞のようにつかっていることがよくあり、どうやらここは
リッチな冬のレジャーをする場所としてアメリカ人がイメージしていることがわかります。



とっても気持ちの悪い?沿岸線なのですが、これはグランドキャニオンの少し北、
ユタとアリゾナ州の州境にあるパウエル湖から出ている河の支線だと思われます。

グランドキャニオンのような赤いメサなどがあるこの地域に溜まった水は
このようなくにゃくにゃした湖の形を作り上げるのです。



山の麓の湖から流れてくる河が、山の裾野に緑の地帯を作ります。
ヨセミテ国立公園の上空を越え、カリフォルニア州にはいったところ。

手前にあるマクルーア湖から流れるマーセド河に沿って街ができています。
緑の地帯はマーセド、モデスト、ターロックなどの街。

サンフランシスコまであともう一息です。



大変目立つこの真ん中の貯水池ですが、周りにゴミ処理場があるとだけ・・。
地図を見ても名前がなにも付いていません。



サンフランシスコの手前に「メンデンホール・スプリングス」という名前の山脈が横たわります。
この上空を飛んでいて、まるでリボンのような直線が稜線と無関係にあるのに気付きました。

よくよく目を凝らして見ると、それは電線で、つまりこの直線にそって、
峻険な山の中に鉄塔が延々と連なって立っているということなのです。

あらためて人間ってすごいことをするなあと感心する眺めでした。



そして山脈を越えるとお馴染みのこの光景。
この地域には「スラウ(slough)」と呼ばれる場所が多く沼地を意味するのですが、
ちょうどサンフランシスコの東側というのはとことん入り込んだ
深い湾なので、このあたりは海といっても「流れ」というものが全くないのです。



この辺りを走っていると、真っ赤な苔があるのでこれなのかなと思っていたのですが、
今回調べてみると、ここには塩田があるのだそうです。
地図を見るとこういうカラフルな部分に「ソルトポンド」(塩の池)と書いてあります。

このあたりは雨が少ない(夏場は)ので、長年この古来からの方法で塩を作っていますが、
蒸発の過程で、海水の塩分の濃度がだんだんと高くなってくると、
この手前のように緑からだんだん赤くなってくるのだそうです。

藻が発生したりエビが発生するから、という説もあるようですが、
実際はどうなのかわかりません。(というかそれ以上調べませんでした)



いまいるパロアルト、レッドウッドシティの向こうは太平洋に面した海岸がありますが、
その手前に山脈が横たわっており、そこにはいつもいつもいつも(笑)
まるでクリームのような濃い雲がかかっているのです。
この雲こそが、サンフランシスコの海岸沿いを「世界一寒い夏」にしている原因です。



ふと気づくと、向こうに同じ速度で空港に向かって飛ぶ飛行機が。
超混雑空港であるサンフランシスコ空港では、滑走路が平行に三本、
しかもほんの少しの時間差で2機が着陸することはしょっちゅうなのです。



そのことを、わたしはこの空港の対岸?にある、このコヨーテポイント
「飛行機観測場所」から見ていて知りました。
このコヨーテポイントには、大戦中のごく短い間、商船アカデミーがあって
戦争に駆りだすための民間船に乗り込む船員(でも士官待遇)を養成していました。

このことについて去年の見学を元にまた書きますのでお読みください。(宣伝)



着陸5秒前、滑走路の端。



着陸後、タキシングしている時に撮った「さっき横を飛んでいた飛行機」。(たぶん)



空港のハーツで車をピックアップ。
ロットにはプリウスが停まっていましたが、GPSがなかったので
取り替えてもらったら、マツダのインフィニティでした。
ただし1日のレンタル料は少し高くなりました><



今日からここに1ヶ月滞在します。
例年キッチン付きのホテルに泊まっていましたが、近年パロアルトの物価が高く、
ホテルの宿泊費がとんでもなく高騰してしまったので、
去年、魔が差して安くあげようと変なインド人経営のホテルに泊まったところ、
2日目に火事が起こり、まさに安物買いのなんとかになってしまいました。

今年こそ安心して1ヶ月住まえるリーズナブルな場所を、と探していたところ、
商店街に近く、学校まで10分の住宅街に月貸しのアパートを見つけました。

いまこれを作成しているのは写真の右上の窓の部屋です。



家主は今度もインド人でした(笑)
でも今度のインド人はちゃんとしていると思います。
というかそうであってほしい。そうであるべきだ。そうであればいいな。
まあ、いまのところアパートのファシリティは完璧です。

この夏はここで一ヶ月を過ごすことになります。


 

 



 


原爆追悼碑文とパル博士、そしてオバマ大統領演説

2016-08-06 | 日本のこと

今日のテーマは原子爆弾投下ですので、投稿時間を
8月6日の8時15分にしました。



夏前に訪れた京都護国神社の入り口には「パル博士の碑」が
ここにあると書かれた
案内板があり、それに「社務所にお尋ねください」とあったので、
なにか特別な場所にあるのかと境内にいた権宮司らしき人に聞くと
心持ち申し訳なさそうに、

「そのまま入っていただければ見れますが・・」

じゃあ社務所にお尋ねくださいなんて書かなくてもいいのに、
と思いながら駅の改札のようなゲートに300円投入し、
わたしたちは中に入って行ったわけです。



明治時代からすでにここは全国の招魂社の中核とでもいうべき場所となり、
全国各地の、当時は「鳥取藩」「水戸藩」など藩による招魂社、招魂場が
聖山東山の麓に建立されたので、こういう石段の参道が整備されたのもそのころです。



「昭和の杜」は、澱んだ水と金輪際水を出しそうにない噴水が寂れた雰囲気満点です。 
もう少しデザインをなんとかして欲しかったと思うのはわたしだけ?

国のため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな時うつれども



二匹の龍の龍は海軍と陸軍を意味するのかもしれません。
どうやら双龍の口からは噴水稼働時水が出る仕組みだったようです。

今となってはコイン投げの的となり、びっしりと硬貨が乗っています。
おそらくこの5倍くらいの硬貨がこのプールの底には沈んでいるのでしょうが、
底を浚ってそれらが回収されることは今後もないように見えます。





さて、矢印に従って歩いて行くと、パル博士の碑が現れました。

通路に沿った場所で決して大きなスペースではないのですが、
中央にパル博士の写真を嵌め込んだ碑が立ち、それを取り囲む半円形の
壁からなる顕彰碑は、不思議と空間の広がりを感じさせるデザインで、
協賛者の名前、パル博士の来歴とその言葉が刻まれています。



協賛はそうそうたる大企業がずらりと名前を連ねています。

碑はインド独立50周年に際し、日印両国の友好発展を祈念して、
パル博士の法の正義を守った勇気と世界の平和を願った徳を顕彰するため、
博士の愛した京都の地に設立したものである、という説明もあります。

碑の建立は1997年であり、「昭和の参謀」とあだなされた伊藤忠の
瀬島龍三(元陸軍中佐)が発起人の最初に名前を連ねています。



通称東京裁判、極東国際軍事裁判で、インド代表判事として裁判に臨み、
一貫して日本人被告の全員無罪を主張したのがパル判事です。
無罪の根拠はこの裁判の正当性にありました。

裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」

という考えを固持し、判決が下ったあとも、


裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、
罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しない

という考えから、意見書なるものを提出しています。
ここに書かれた文章はその中の一文です。

時が熱狂と偏見をやわらげた暁には
また理性が虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には
その時こそ正義の女神はその秤の平衡を保ちながら
過去の賞罰の多くにそのところを変えることを
要求するであろう


これはとりもなおさず、 東京裁判がいずれ時によってその過ちを是正され、
今日の必罰は明日の無罪ともなりうると言っているに他なりません。

パル判事の全員無罪論は、敗戦に打ちひしがれ、さらには
「わたしたちは間違っていた」と連合国からの刷り込みによって信じかけていた
日本人にとって、光明ともなったと言われます。

しかし、パル博士はこれらの意見を親日家の立場から発したのではなく、
あくまでも国際法の専門家として、その信念から述べたに過ぎないのです。
(ちなみに東京裁判の判事で国際法の専門家であったのはパル判事一人だった)

たとえばいわゆるバターン死の行進は明確な残虐行為であったとし、
南京事件も「この物語のすべてを受け入れる事は困難である」としながらも
弁護側が明確に否定しなかったことから、犯罪行為は存在したという考えでした。

パル博士がことにはっきりと断罪したのは、日本の戦争犯罪ではなく原爆投下でした。
ニュールンベルグ裁判と東京裁判を同質のものとしたい連合国に対し、

 「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」

とし、

米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊として
ナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとしたのです。


さて、今年、アメリカ合衆国大統領、バラク・フセイン・オバマ2世が、
アメリカの首長として初めて広島を訪れ、言葉を述べました。
次の日には、思わず(きっとあれは筋書きにはなかったと思う)
被爆者の男性を抱き寄せるオバマ大統領の姿が各紙一面を飾りました。

その男性が40年以上を費やし、原子爆弾によって亡くなった12人の米兵捕虜の
名前を探し当てたアマチュア歴史家、森氏であったことものちに話題になり、
日本での世論のほとんどが、この訪問に肯定的であったという結果になっています。


この時のオバマ大統領のスピーチは感動的でありながら戦略的でもありました。


 Seventy-one years ago, on a bright cloudless morning,
death fell from the sky and the world was changed.
(71年前、雲一つない明るい朝、死が空から降って来て、世界が変わってしまった)

A flash of light and a wall of fire destroyed a city and demonstrated
that mankind possessed the means to destroy itself.
(閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を
手にしたことがはっきりと示されたのだった)

いや、それを落としたのはどこの国の飛行機なのよ、とこの瞬間突っ込む人も

世の中には、特に日本にはたくさんいるでしょう。
もしパル博士が生きてこのスピーチを聞いたら、やはりそう言ったに違いありません。

オバマ大統領に広島訪問については、アメリカ大統領として謝罪をするのではないか、
と、特に

「原爆は戦争を終わらすために必要だった。さもなければもっと多くの人が死んでいた」 

と未だに教えられ信じている多くのアメリカ人をやきもきさせたと思われます。
オバマはなんといっても大統領になった途端、核廃絶を訴え、そのことによって
ノーベル平和賞をもらってしまった人ですから、
あいつならやりかねん、
と心配する?意見も噴出しました。


ところが、オバマ大統領とそのブレーンは、原爆を、

「人類の災厄であった」

と位置づけ、国の枠組みなしで”我々はともに被害者である”としたことで、
すべての問題をクリアしたのではないかとわたしは思いました。
わたしがこのスピーチの内容を知って、まず思ったのは、

「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」

という原爆慰霊碑の言葉でした。
かつてパル博士はこの碑の前に立ち、言葉を訳させたのち、こう言っています。

 「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。
もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。
それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。
ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、
その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。
落した者が責任の所在を明らかにして
《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。 


この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。
その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。
さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、
石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。
アメリカこそ開戦の責任者である。」 (田中正文氏)



パル博士はアメリカが原爆投下=人類最大の罪を犯したことについて
なんら反省も謝罪もないどころか、戦争の罪を日本にのみ負わせようとしていることを
激しく糾弾する考えを終始持ち続けていました。


ところで、オバマ大統領の訪広が決まった時から、

「オバマ大統領はアメリカが原爆を落としたことを謝るべきか」

については、ほとんどの日本人が”その必要はない”といっていた気がします。
日頃自分たちがやったわけでもない歴史的問題で謝れ謝れといわれて
これに閉口しているということも(笑)大いに預かっていたかもしれませんが、
戦後押し付けられた自虐史観抜きにしても、日本人には

「正当化されると不快だが、だからといって別に謝ってもらってもねえ・・・」

と考える傾向が終戦当時からすでにあったようなのです。
パル博士は広島で行われたアジア会議で、並み居る白人代表を前に
こんなことを言っています。

「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。

広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。
当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。
それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。
同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。
しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。
彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」


この峻烈な言葉と裏腹に、会議にはケロイドの痕も痛々しい、いわゆる
「原爆乙女」が登壇し、


 「わたしたちは、過去7年の間原爆症のために苦しんできましたが、
おそらくこの十字架はなほ長く続くと思われます。
しかし、わたしたちは誰をも恨み、憎んではいません。
ただ、わたしたちの率直な願いは、
再びこんな悲劇が
世界の何処にも起こらないようにということです・・・。」 


と述べたとき、初めて会場は感激の坩堝と化した、と伝えられます。


「過ちは繰り返しませぬから」という文言を厳しく糾弾したパル博士に対し、

「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」

とし、この碑文を考案した被爆者でもある雑賀忠義広島大学教授は、

「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。
これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい立場に立つ時は、過ちを繰返さぬことは不可能になり、
霊前でものをいう資格はない。 」

という趣旨の抗議文を送っています。

今回のオバマ大統領の演説は主語を「我々人類」とすることで
誰も責めず、誰も裁かず、もちろん誰も謝罪せずに、人類の受けた悲劇と
それを繰り返さぬ意志を語り、結果的にすべての人を納得させました。

そもそも原爆を落とすことを決めたわけでもない戦後生まれの大統領に
「悪かった」と言わせることには意味がないし、
こういう場合、謝った相手に「どうぞお手をお上げください」というのが
日本人としてよくあるメンタルではないかという気がします。

何より、原爆乙女たちが「私たちに恨みはないし憎んでもいない」といったからこそ、
感極まったアメリカ代表の一人が彼女らに

「わたしはアメリカ人としてこの原爆に責任を感じています」

とおもわず謝罪するなどということも起こりえたのでしょう。
相手に謝れと拳をあげて泣き叫ぶ、というのは本来日本人のDNAにはないのです。

わたしはよく歴史に善悪はない、ゆえに何に対しても謝罪すべきでない、
といいますが、それはアメリカに対しても変わることはありません。
アメリカが自国の立場として原爆の投下をいかに正当化しようとも、
アメリカ人ならばそれは当たり前かもしれない、と思うのみです



その意味ではオバマ大統領の今回の演説は、まことに日本人の心情に添う、

かつ誠実なオバマ自身の美点を表して余りあるものだったと評価します。

オバマ大統領は原爆のキノコ雲を「人類の矛盾」の象徴としました。
暴力を正当化するのはときとして高い信念であり、先端科学は効率的な殺人を生む。
広島はそれを象徴するものである。
道徳の変革なしには科学の変革もおこなわれるべきではなく、
広島はそのためにも象徴として忘れられるべきではない、と。


パル博士が峻烈に糾弾した「人種差別ゆえの日本への原爆投下」についても
オバマ大統領はこのような形で遠回しにですが言及しています。

「アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。
それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、
はるかに多くのものを勝ち取ったのです。」

これがアメリカで人種的に虐げられてきたアフリカ系の大統領の口から
述べられたことにこそ、わたしは意味を見い出します。



さて、それではパル博士の碑文に対する非難は日本にとって
「余計なお世話」とでもいうべきものだったでしょうか。

わたしはそうは思いません。


日本人がただ恨みにとどまらず、終戦の早い段階から原子爆弾を
「人類の過ち」としてこれを永遠に絶滅すべきであるという域に達したことを、
わたしは日本人としてむしろ誇りに思うものですが、それも
やはりあの時のアメリカの行為についてこのように言ってくれる、
日本人以外の第三者の言葉があってこそという思いは避けられません。

逆に言うと、これをいうのは日本人であってはいけなかったのです。

だからわたしたち日本人は、

「日本があのとき被支配のアジアの盟主となり

立ち上がったからこそ、アジアは解放されたのだ」

といってくれる
多くの東南アジアの独立国リーダーたちに感謝すべきであり、
その中でも

「日本が戦った『大義』を決して見失うな』

と戦後GHQの支配下で、
我々日本人の心を鼓舞してくれた
ラダビノッド・パル博士への恩義を忘れてはいけないと思うのです。







 


(自称)ハンバーガー発祥の店 ルイーズ・ランチ@ニューヘイブン 後半

2016-08-05 | アメリカ

さて、ホームページを見てもその歴史と秘伝のスパイスとレシピ、
味とやり方に誇りを持ちまくっていることが痛いほどわかる、
ニューヘイブンのオリジナルサンドイッチハンバーガー屋、ルイーズ・ランチ。

30分経ってドアが開き、皆は店内に吸い込まれていきました。

しかし、それは先頭からわずか10人ほど。
それもそのはず、店に入って最初にカウンターでオーダーしなくてはいけないからです。





てっきりレストランでテーブルに着いてオーダーをするものだと思っていたら、
まさに「ファストフード方式」で、カウンターで注文したバーガーを、
中のほんのすこしのテーブルと椅子で食べるか、テイクアウトするか。

お支払いは現金のみ、お皿は紙皿。
スタッフの着ているTシャツの背中にはケチャップにバツじるしが(笑)

ケチャップがなくては生きていけないアメリカ人に、ケチャップなしのハンバーガだと?



この店が有名になったのは「ハンバーガー発祥の店」と自称しているからです。
昔々、1900年のこと。
ルイーズ・ラッセンというオーナーがその5年前にオープンし、
切り盛りしていた小さなこのレストランに一人の紳士が駆け込んできて、

「兄さん悪いけどな、わて今ごっつう急いでまんねん。
せやからすぐにささっとできてぱぱっと食べられるもんだしてんか」

みたいなことをいって急かすので、店主は、ステーキをパンに挟んで供し、それが
アメリカで最初に「ハンバーガーサンドイッチ」の生まれた瞬間となりました。



お店の歴史を表す、あちこちにガンガン刻まれた客の名前。
落書きどころか皆掘り込んでるわけですが、これも勲章。

実はこの店のあったところは元々はここではなく、1970年に、
高層ビルの建築計画が起こり、立ち退きと解体を余儀なくされました。
しかし、世界中の熱心なファンの働きかけで建物を保存することが決まり、
ルイーズ・ランチのこの小さなレンガの家は、30分離れたところに
引っ越すことになり、現在に至ります。


予想ですが、そのような形でこの建物が保存されることになったのも、
その熱心なファンの中には、かつてはイエールに学び、
今では社会的に力を持つようになったという人がいたからではないでしょうか。

現在の店主ジェフ・ラッセンはルイーズの曾孫だということです。



イートインスペースはほんのわずかですが、それと同じくらいの
従業員の控え室が隣にあります。
ルイーズがやっていたころは、ここにも客用テーブルがあったと思いますが、
今はカウンターが中心なので、ここで悠々と従業員がお昼を食べたりしています。

貼紙によると、ATMもあるそうですが、とてもそう見えません。



店の中に入れる人は並んでる中のごく一部。
しかし、メニューはシンプルなので(チーズ入りかなしかだけ)
列は案外早く進んでいきます。



客が注文したものを食べるのはこの四角いテーブルの周りか・・、



わたしたちが座った壁際の椅子。
椅子にもテーブルにもいたるところ落書き?が。



そして、カウンターが販売カウンターの横にあるのみです。
たちまち店内の椅子は全てふさがりました。



中国でこれを上下逆さまにして「倒福」でタオフー、
「多福」と同じ発音なのでそうすると聞いたことがありますが、
もちろんアメリカ人はそんなことしません。

それより掛けてある二丁の銃は果たして本物かしら。



さすがにお手洗いはあります。
なにが「261」かと思ってしまうわけですが。



なんとトイレの鏡にも客は文字を彫り込んでいるのだった。



意外と時間がかかるのでカウンターを覗いてみました。
この狭いスペースで三人が同時に作業しています。



こちらからはどんな風に焼いているのか全くわかりません><



待っている間に先に出てきたデザート。
三人で一つ頼んだブルーベリーパイは、パイ生地が粉っぽく、
ブルーベリーはひたすら甘かったです。



業を煮やして?キッチンの前に回ってみました。
うおおお、なんかみたことない不思議なコンロが3台稼働している!



これはルイーズランチオリジナルのグリル。

手前の魚焼き網みたいなのにパテが挟まれ、それをどうやら
縦に押し込んで焼き上げるようですね。
時間がかかっているのは、注文を聞いて焼くからです。



焼き上げる前のパテが並んでいます。
肉だけでも数種類、調味料も、全てのレシピは門外不出の秘伝なんだそうです。



ハンバーガーというからあの丸い「バンズ」を想像していましたが、
思いっきり大きなパテをサンドイッチパンで挟むものでした。



なんてこった。
” Annual inventory of spoons” が何の意味かわからないのですが、
とにかく109周年のイベントのために8月は休業すると。
ますます殿様商売ですが、これで十分やっていけるということなのでしょう。



やっと来た息子のチーズサンドイッチ的バーガー。
ミディアムレアというよりもうこれは「レア」という感じですが、
ここは焼き加減など一切客の好みを聞いてはくれません。


「うちが出すのはこれ、嫌なら食うな」

というきっぱりした態度で、頑なにこの焼き加減を守っています。



どれ、それではそのありがたいバーガー的サンドイッチを賞味。
パンはあくまでも「肉を挟んで食べるための道具」という感じで、
主役はやはり肉、これでもかとその存在を主張していましたが、
だからといってこれをパン無しで食べることは考えられない、みたいな。

ハンバーガー文化で育っていないわたしたちには、正直なところ
これがそれほど美味しいバーガーだと言明することはできませんでしたが、
何年かしてここを訪れた時、ふとまたあれを並んで食べてもいいかもしれない、
と懐かしさ半分で思いつくにちがいないと思わせる”何か”がありました。



ここは”バーガーキング”ではありません

ここではあなたの食べたいように食べることはできません

我々の食べてもらいたいものを食べていただきます

それが嫌なら食べなくてよろしい


うーん、なんたる王様、じゃなくて殿様商売。
ある意味自分こそが「バーガー王」だと言い切ってるわけね。 




食べ終わって外に出ると、不思議なことにあれだけ並んでいた人々が
ほとんど捌けて、あと3人だけという状態になっていました。

いつの間に・・・。

お店の前につながれていた犬は、肉の焼けるいい匂いに落ち着かない様子。
飼い主が満足して出てくるのはまだまだ先に違いありません。

 




(自称)ハンバーガー発祥の店 ルイーズ・ランチ@ニューヘイブン(前半)

2016-08-04 | アメリカ

さて、カリフォルニアに来ている現在では遥か昔のことのようですが、
順番にお話ししていくとやっとニューヘイブンでの出来事まできました。



ニューヘイブンの商店街?に、バッフェ形式で好きな野菜やおかずをとり、
テイクアウトをしたり上のスペースで食べたりすることができるデリがあります。
そこで買い物をしたとき、レジにこのチョコレートがあったので、ネタで買いました。
(ちなみに持ち歩いているうちに溶けてしまい、今どうなっているのか知りません)

トランプが「ビリオン」でヒラリーが3ドル。
先日の都知事選では、とんでもない勘違いさんが約一名、
野党連合にそそのかされて出馬するということがあったため、
他人事なら手を叩いて笑って見ていられるような面白い展開になりましたが、
ここアメリカでも大統領選挙というのはアメリカ国民の「お祭り」です。

テレビをつければ必ず毎日、両陣営の応援演説が中継されており、
便乗してこんな商品も出てきてしまうわけだ。
二人の似顔マスクなんてのもどこかで見たことありますし。


ちなみにレジのおっちゃんに、美味しいのか聞いてみたところ、

「味は知らんが、どちらが大統領になっても最低だ」

と言っていました。
いやそんなこと聞いてません。




ノーウォークからニューヨークに行こうとしたら、高速の降り口で事故発生。
一旦停止しなければならないランプの出口で、女性の車に後ろの赤い車が追突。

もー何やってんのよ、みたいな感じで出てきた女の人です。
このあと、驚いたことに二人は名前を自己紹介しあって(と思う)
お互い握手しておりました。

事故処理は淡々と感情を交えずに行われるのが普通なのかもしれません。
わたしは幸いアメリカで事故を起こしたことがないので知りませんが。



高速走行中に見た不思議な飛行機雲。
ほぼ鋭角に曲がっているのですが・・・。



息子を迎えにきて泊まったニューヘイブンのホテル、ラ・クィンタの窓からの眺め。
目の前はルート95で大変な帰宅渋滞です。



そんなに高くないホテルをさらにホテルズ.comで取ったので
全く期待していませんでしたが、少なくとも広かったです。





次の朝起きてみたら、向かいのコンビナート港に大型の船が停まっていました。



パナマ船籍のオーシャン・オネスティ(海洋正直)という船。
「バルクキャリアー」だということです。
たった今(8月1日・アメリカ西部時間)調べたら、メキシコ湾にいました。



手前の洲?では腰まで海に浸かって釣りをする人が・・・。



これは、キャンプに送りこまれる寸前の息子。
早く現地に着いたので、昼ごはんを食べることにしました。 



イエール大学近辺はこのような昔からのレンガ造りの建物の間に
人が通れるだけの細道が迷路のようになっているところがあります。



教えていただいた「ハンバーガー発祥の店」とやらに是非行ってみよう、
とわたしは家族を誘い、「ルイーズ・ランチ」の前に来てみました。
(というか横が駐車場なので)

ところがお店休業。
12時から2時まで、しかもウィークデイしか営業しないそうです。



老舗の店にありがちな殿様商売ですな。
建物の横からは駐車場に入っていくことができますが、そのゲートには
「ルイーズ」の『L』があしらわれていました。



裏から見た建物全景。
それにしても小さな店です。

「こんな小さな店で1日2時間しか営業しないって、いったい・・・」

しかし、こういう店だとちょっと期待してしまいますよね。
どんなに美味しいのかと。



仕方がないので(?)代わりに前にも行ったメキシカンに変更。
石のボウルですりつぶしたアボカドのウワカモーレを頼みました。



パイ皮で決壊をせき止めてある、スープのようなグラタンのようなもの。



パエリア。
日本人の思っているパエリアとは何やら随分雰囲気が違います。
まあパエリアの味はしていました。



イェール大卒業の誰やらを記念するプレートの下で、
気持ちがいいのかぺたりと座り込んで動かない犬と飼い主。
7月のニューヘイブンは蒸し暑く、夕立が降ることもあります。

息子がキャンプに使う校舎には冷房などというものはなく、
扇風機を持ち込むキャンパーもいたということでした。
息子は「我慢した」とのことです。

夏休みで本物の学生がいなくなるから、クーラーなど必要ないわけだ。



というわけで、ドロップオフの時間となりました。
学校警察の(アメリカの大きな大学は警察組織を持っている)
お巡りさんが交通整理をして、車を誘導してくれます。



校舎の前が半円のロータリーになっていて、そこを通り抜けながら
キャンプに参加する生徒と荷物を落としていく仕組み。



イエール大学の歴史的な建築物の中で生活できるなんて、と親は羨ましく思いますが、
実際にはクーラーなどの問題があって、決して「快適な環境」ではなさそうです。
 




そして、キャンプ期間が終わり、ピックアップの日がやってきました。
同じところで息子と待ち合わせて車に本人と荷物を載せます。



息子が乗り込むとき、今回選択したサブジェクトの講座の先生が来て、
あなたのワークは本当に良かったからそちらに進むといい、
みたいなことを言ってくれています。

「なんでわざわざあんなこと言いに来たんだろう」

本人はまんざらでもなさそうですが、「その道」に進むかどうかはわからないそうです。



さて、このピックアップの後、今度こそは、と「ルイーズ・ランチ」に挑戦しました。
日本ではラーメン屋の行列は普通にできますが、アメリカ人が食べ物のために
1時間も待つ、という例は見たことがなかった気がします。

開店30分前にわたしたちが店の前に行ってみると、すでに何人かが並んでいます。

「アメリカ人でもことこういう食べ物には並ぶんだね」

と感心していると、あっという間にわたしたちの後ろに長蛇の列が・・・。



アメリカ人的によほど美味いハンバーガーなのに違いない。
とわたしたちは勝手に期待しまくりです。


続く。


 


Mark 34 レーダー(記念)室〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-08-03 | 軍艦

原子力兵器の発明以前には、世界の国家指導者たちが武力について
協議するとき、それを決めるための基本単位は「戦艦」でした。

というわけで、世界経済が縮小傾向に向かい、さらには次の大戦も

予想されるようになった1930年、ご存知ワシントン軍縮会議が持たれ、
米国の場合、保有量を35,000トンと決められました。

日本ではこの保有率を巡って英米との割合が不公平すぎるとし、
いろいろと大変なことになりましたが(しかし今はさくっと省略)、
アメリカにとってもこの保有量は実質「縮小」であったわけです。

そんな頃建造された「マサチューセッツ」は、最新兵器を搭載され
速度もはやく、 ワシントン条約の制限を極限まで考慮されたデザインでした。



 

前回「マサチューセッツ」の主砲についてお話ししましたが、補足しておくと、
彼女がヨーロッパで初めての16インチ砲を放ち、フランス海軍の「ジャン・バール」
に損害を与えたとき、命中したのは5発であったということです。

その後、2隻の駆逐艦、2隻の商船を撃沈させたというのは、
「ビッグ・マミー」の砲手たちの腕の良さに負うところ大だったのでしょう。

主砲の付け根にすごく無理して()誇らしげに立つ砲手たち。



ついでに、主砲の下では日曜のミサも行われました。 
従軍牧師のありがたいお説教に、頭を下げて聞き入る乗員たち。

後ろから2番目の人は、これどう見ても寝てますが(笑)



さて、上甲板をぐるりと回って見学終了。
階段を1階登ると、主砲の高さになります。
前回ご紹介したこの不気味な「ジョージ」は、主砲の
砲郭?に描かれていたことがこの写真を見て初めてわかりました。



この階の甲板はご覧のありさま。
木材が経年劣化でもうぼろぼろになっています。

 

かつてはこうやって毎日磨き上げたものなんですけどね。
デッキブラシを持っている人が何人かいますが、我が帝国海軍では
デッキブラシなどというものは使わず、ソーフ(雑布)を持ち、かがんで
「回れ!回れ!」と叱咤されながら甲板掃除をしたものですよ。

とまるで見てきたかのように言ってますが、本当にそうだったんでしょうか。
海上自衛隊のフネには常に大量のデッキ掃除用モップが搭載されているので、
いかに伝統墨守の海上自衛隊とはいえ今はまずやってないと思いますが。


ちなみにフキダシですが、

「あー背中痛え!
おいマック、ここにスティック(デッキブラシ?)よこせよ。
そしたらおいら水遊びしちゃうからよ」 (超意訳)

「回れ!回れ!」とは随分緊張感が違います。



ここでふとそびえ立つ艦橋を振り仰いで見ると見えるアンテナ。

今いるパロアルトで、わたしはよく「スタンフォード・ディッシュ・トレイル」
というこの手のアンテナが2基立っているところに散歩に行きますが、
ここに来るようになって、このアンテナが「ディッシュ」であることを知りました。

ところで皆さんは、衛星放送の技術に古代の数学的理念が生かされている、
という話をお聞きになったことがあるでしょうか。
誤解を恐れず言うと、4〜5世紀のギリシャにおいて、既にこの技術は始まっていたのです。

パラボラというのはお椀の形をした反射鏡のことですが、ローマがギリシャに侵攻したとき、
ギリシャのアルキメデスの提案で、岸に半円状になるように鏡を配置し、
「パラボラ」として、太陽光線をレンズで集め、焦点を敵艦に合わせて火災を起こした、
という伝説があり、これは「アルキメデスの熱光線」と呼ばれています。

カーブが太陽光線ならぬ電磁波を反射させ、中央の「レシーバー」がこれを拾い集める、
というのがこの「ディッシュ」の概念というわけです。



この部分にはこれだけの「パラボラ反射鏡」がありますってことで。
これは実に丁寧でわかりやすい展示でしたね。

あらためて二つ上の写真にパラボラを探してみると、ディッシュの他に
二つのパラボラ状が確認できます。 



そして、アルキメデスならぬコロンブスの卵。
この探照灯、サーチライトもまた「パラボラ反射鏡」であることを知りました。
こちらは電波ではなく、光線を反射させるわけですが。

探照灯は第1次世界大戦の時からもう導入されていました。



上甲板の1階上の5インチ砲ガンマウントのハッチが開いている!



恐るべしマサチューセッツ。

これ、その気になれば中に入れました。
先を急ぐので、さすがにそこまではしませんでしたが。
砲塔の中がこんな形で公開されているのは初めて見ました。



二本の柱がすなわち弾薬が供給される部分でしょうか。
それにしても、実際に稼働していた時にはこうじゃなかった感が・・・。



この下の階を見学した時にあった5インチ砲全体構造図。
これを見る限り、この砲塔の中はだいぶ部品が外されてしまっている気が・・。



この下のデッキ(メイン・ハンドリング・ルーム)で発見した、弾薬を供給する装置。
「7」とか「5」とかは砲につけられた認識番号でしょう。



どのように弾薬が送られていくか、透明板で中身を見せてくれています。



弾薬庫。5インチというのは12.7cm。
実際にはサードデッキ(この下の階)に弾薬供給室があったはずですが、
一緒に展示されていました。




上二つはmark13、その下の左Mk.38、右 Mk.35
一番下はmark30の弾薬です。 




ボートが格納されているのも上甲板の一階上でした。
海面に下ろす時に吊るフックが写真右手に見えます。
ボートはなんの手入れもしていないらしくかなり痛んでいました。



左舷から右舷に出てみました。
(というか、ここを通らなくては右舷側に出られない)

天井に配されたすごい数のコードは、長年の間に重みで垂れ下がってきています。



こちら右舷デッキに出たところ。



「シグナル・シェルター」と呼ばれる信号員のブースです。

この室内に見えるのは、「フラッグ・バッグ」と呼ばれる信号旗収納場所で、
全く同じものが左舷にもあり、ホイスト(天井から吊るすクレーン)作業のとき、
信号を送るときに信号員が命令に従って迅速に旗を揚げます。

オーダーはインターコムを使って司令所から白いスピーカーに送られてきます。

この部屋には見当たりませんでしたが、シグナル・シェルターには、
大事な信号旗を修理するためのミシンが備えてあったそうです。



旗といえば、これはヨーロッパで交戦したときの「マサチューセッツ」甲板ですが、
国旗(戦闘旗)がたいへん低い位置に掲揚されているのがわかります。
これは、目立つ白いストライプが敵機から視認されにくいようにしているそうです。




右手手前のハッチより中に入ってみましょう。



それから、艦隊の指揮を執る艦船を「フラッグシップ」といいます。
「admiral」とそのスタッフが坐乗しているということになり、
この一団を” THE FLAG" とアメリカ海軍では呼ぶのだそうです。

The Flagが陣取って指揮をとるのが、ここ、

FLAG PLOT

と呼ばれる一隅で、 提督が指揮をとるのに必要な、レーダー、無線、
甲板の状況が把握できるすべての情報が集まるようになっています。

そういえば映画「機動部隊」でゲイリー・クーパー演じる主人公(艦長)と提督が、
こんなところでなぜか肩を寄せ合って(笑)情報を待っていたシーンがありましたっけ。 



部屋の隅にはタイプライターを打つための席が二つ。

その階級にかかわらず、提督は旗艦の操艦についてはその義務を
艦長と乗員に任せるということが常に義務付けられています。 



この機器のあった部屋は

Mark.34 radar room

といい、実際はここにあったわけではないのですが、艦橋のちょうど上両舷にあった

「マイクロウエーブ・ディッシュ」(microwave dish)

対空探査レーダー室を記念して作られました。
対空探査機が、マニュアルで敵機をポイントすると、
その機位やレンジなどがこの部屋にある機器によって捕捉されました。

これはMk.34のレーダーコントロール・ユニット、「CW-2323AFZ」



これもレーダーのユニットの一つ。
パワーのスイッチがついていますが、面白いのは
「レーダー」の逆向きに「ダミーANT」というスイッチがあることです。

ダミーアンテナ?とはなんぞや。



実際の風力と船の速力と合わせるレバーがあります。
真ん中には「インストラクション」がありますが、

「実際の風力に最大で5ノットまで近づける」

となぜか二回繰り返して書いてあります。



冒頭写真は「VHF レイディオ・ルーム」
ここにあるラジオは航空機、僚艦、地上と交信するのに使われました。
すべての機器はここから6階も下にあるCIC(戦闘指揮所。
コンバット・インフォメーションセンター)からリモート操作されます。

彼らはまた地上の陸軍や海兵隊ともこれで通信を行いました。



説明がなくて何かわからなかったスペース。



しかし、ベッドが広い個室にただ一つあるところを見ると、
「The flag」である提督が休む部屋だったのではないかと思われます。


続く。 


 


大戦最初と最後に火を噴いた主砲〜戦艦「マサチューセッツ」

2016-08-01 | 軍艦

マサチューセッツ、フォールウォーターに博物館展示されている
戦艦「マサチューセッツ」に乗艦して艦尾を右舷から回ることにしました。



後方に向けた主砲、45口径40.6cm砲のうちの3門を横から。
一番こちら側の砲身の根元には弾薬が展示されています。

わたしはこの日を入れて3日間ここに通いましたが、2日目に
とんでもなく細いラッタルを登っていったところに、ずらりとこの砲弾が
格納してある弾薬庫に侵入することができました。
今まで見たいかなる展示も、こんなところに入ることは決して許されなかったので、
改めて「マサチューセッツ」が全米一の船舶展示だと言われるわけがわかりました。



艦艇の見学で最も活躍してくれるのが広角レンズだと実感する写真。
他のレンズではどんなに頑張ってもこのように全体を収めることはできません。


この写真で右舷から6門突き出している砲は、


Mk 12 5インチ砲。(Mk.28 mod.0)

1938年に制式になった艦載砲で、戦艦ではこの「サウスダコタ級」のほか、
「ノースカロライナ級」「アイオワ級」が
搭載しています。



発射速度は、1分間に12-15発ですから、オトーメララの約3分の1。

かつては海上自衛隊の「あさかぜ型」「ありあけ型」にもこれが搭載されていました。

というのも、もともと両タイプは「エリソン」(あさかぜ)「マコーム」(はたかぜ)
などというリヴァモア型の、つまり貸与された米軍艦で、なんと彼女らは

第二次世界大戦ではUボートと戦ったりしてたんだそうです。

(さすがに海軍艦船を沈めたことがあるなんていう船を自衛隊によこすほど、
アメリカさんも無神経ではなかった模様)

戦後初めての国産艦である「はるかぜ型」にもこれが搭載されていました。
戦後は武器システムのほとんどをアメリカに頼っていたということですね。



右舷側から艦首を望むと、主砲とボフォース機関砲の競演。



ボフォース40mm機関砲の砲身内部を覗いてみると、なんと赤でした。



"paravane"

というのも初めて見る単語で、どう読むのかもわかりませんが(パラベーンかな?)
直訳すると「防雷具」「防電具」とでてきます。
じつはこれ、わたし的にもうすっかりおなじみとなった「掃海具」なんですよ。

戦艦の役目はもちろん掃海ではありませんが、現地の説明によると、
当時は
戦闘艦にも機雷を掃討する用具は必須であった、と書いてあります。

この写真で見るとロケットの上に羽のようなものがありますが、
パラベンの形はグライダーのような形をしています。
通常、艦首から両側に2つのパラベンが長い索で曳航されます。

wiki

口で説明するより、この図を見てもらったほうが早そうですね。

海に浮かび上がらせ、しかるのち銃で掃討するという方式は

自衛隊で現在使用している「オロペサ型」掃海具と全く同じです。

パラベーンを発明したのはイギリスのサー・デニストン・バーニー(中尉)
バーニーは、同じ原理で、「対潜パラベーン」、つまり爆薬を曳航し、
潜水艦を掃討するという武器も開発していたそうです。

この方式で掃討された潜水艦があったかどうかまではわかりませんでした。



艦首側甲板に3門ずつ、2座ある主砲の手前からの写真。

この日のボストンはとにかく蒸し暑くて日差しが強く、
日本にいるのとほとんど変わらない不快指数満点の天候で、
この時点でわたしは甲板の暑さにまるで蒸し焼きになりそうでした。

ここでお見せする写真を撮るという目的がなければ、
とっくにギブアップして早々に切り上げていたことでしょう。

入場料を払ったレジの若い男性が、わたしが日本から来たというと

「そうなんですか。僕日本に行きたいんですよー。
どんな気候ですか」

と聞くので、

「夏場は今日のここよりずっとひどい暑さだから来ないほうがいいです」

というと、

「でも、北の地方(北海道のこと)は夏でも涼しいですよね」

そんなによく知っているのならなぜ気候について聞く。



えっと、アンカーチェーンはわかるとして、錨って、
普通こういうところにあるものなんでしたっけ?

「マサチューセッツ」の錨は、一つの重さが2万5千パウンド、つまり11.3 トンです。



艦首には(まさかとは思いますが、間違えてませんよね?)
一般的に海軍艦船は「国籍旗」を揚げます。
自衛隊だと「日本の国旗にそっくりな国籍旗」、アメリカだと
ネイビーブルーにアメリカの州の数だけ白い星が穿たれたもの、
つまり「マサチューセッツ」の艦首に揚がっているこの旗です。


ただし先日観た現役帆船の「コンスティチューション」のように、

海軍で最も古い現役艦艇」

は、蛇に赤い横線の「ファースト・ネイビー・ジャック」
を揚げる、というルールがありました。

しかし、2001年の同時多発テロの日を境に、すべての海軍艦が
「わたしを踏みつけるな」の「ファースト・ネイビー・ジャック」
を艦首に揚げていたということです。
(”ジャック”だけで”海軍旗”の意)

今では海軍以外の船、海軍でも輸送艦艇以外の船は元の艦首旗ですが、
海軍ではいまだに艦首旗としてこの旗を揚げているということです。




艦首側の甲板というのは思っているよりずっと高い位置にあります。
艦首旗の下に立って艦橋側を見るとこのような眺め。
ある元海将もおっしゃっていましたが、軍艦とは実に美しい造形物だと思います。




戦艦「マサチューセッツ」は1942年11月8日、カサブランカ沖合で

フランスの艦船から攻撃を受けたためこれに応戦し、この瞬間をもって

「この大戦でヨーロッパの枢軸勢力に対して砲撃を行った初のアメリカ軍艦艇」

となりました。
このとき交戦したフランス軍艦「ジャン・バール」のwikiページを見ると、
「ジャン・バール」は

「マサチューセッツ」の40.6cm砲による砲撃を受けた本艦は艦首に浸水、
電気系統に障害が発生し砲塔の旋回が不可能となった

とあります。
つまり、まさにこの主砲が「ジャン・バール」を沈黙させたということです。





その後、「マサチューセッツ」は、

10月 レイテ沖海戦に参加

12月30日〜1945年1月23日 台湾を攻撃

4月 沖縄戦に参加

6月10日 南大東島に砲撃を実施

7月 東京空襲に向かう空母部隊の護衛

7月14日 釜石(製鉄所)を砲撃

7月28日 浜松を砲撃(石油コンビナートを破壊)

8月9日  再び釜石を砲撃



(釜石を砲撃している戦艦『マサチューセッツ』)


8月9日の釜石砲撃は、日本が受けた、というよりこの世界大戦で
最後に発射された16インチ砲による砲撃となりました。

これももちろん、今見ているこの主砲から放たれたものです。 
つまりこれは、第二次世界大戦においてヨーロッパ戦線で最初に、
そして日本で最後に火を噴いた主砲であるということなのです。 

ちなみに前回、「この主砲が日本を攻撃したかと思うと不思議な気持ちに云々」
と書いたところ、

「そこはのんきに不思議がってないで怒れ!」(意訳)

という裏コメントをいただきました。
まあでも民間施設とはいえ攻撃したのは製鉄所や石油コンビナートだし、
真珠湾攻撃した奴らがどの口で言うか、とか言われそうだし・・・。
 



艦首近くにも1門、エリコンFF20mm対空砲があります。
同型の対空砲は全部で35門が配備されています。

くまなく張り巡らせた守りはどこにも「死角」というものがないように思われます。



この部分だったか忘れましたが、壁面にこのような部分を見つけました。
ペイントを取り去ったところに謎の記号が浮かび上がっています。




ここには多分かつてこの「ジョージ」が描かれていたんだと思われます。
犬だかネズミだかわからない不気味なキャラクターが、
帝国海軍旗とナチスドイツの旗の描かれた砲弾にまたがって飛んでいく図。

絵の下にはなぜか、蓋の開いていないビール瓶が「おそなえ」してありました。



遠くから見て「ポンツーン」だとおもったのですが、
三箇所もチェーンをかけているところを見ると、
展示をするために海中に固定されているのではないかと思われました。

「マサチューセッツ」のアンカーは、一つは陸に、そしてもう一つは
甲板にあるわけですから、左舷を繋留するのに岸壁が必要なのです。
ちなみに右舷側は河で繋留されていません。



ここまで、艦尾から左舷側の舷側を通って、艦首を通り、
右舷側に到達しました。
一周したことになるので、艦橋に入っていきたいと思います。



鉄の部分の経年劣化は塗装を塗ればなんとかなりますが、
甲板の木材だけは傷むに任せたままの状態です。
結構あちこちに雑草が育っていたりして、

「夏草や 兵どもの 夢の跡」

という句をついつい米海軍戦艦の甲板で思い出すことになりました。

 

「マサチューセッツ」が浮かんでいるのは、「トーントン」という河です。
マウント・ホープ湾につながる河口で、入り組んだ港は波が全く起こらないため、
一帯がウォータースポーツが自由に行える場となっており、この日も
蒸し暑い甲板から見ると羨ましく思うくらい豪快なスピードで水上バイクを駆る
人々の歓声が、「マサチューセッツ」の甲板にまで聞こえてきました。




続く。