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ボストン海軍工廠今昔〜USS「コンスティチューション」

2016-08-23 | 博物館・資料館・テーマパーク

帆走船、USS「コンスティチューション」が展示されているのは、
かつてのチャールズタウン海軍工廠です。
名称はその後世界大戦に伴って規模が拡大されて「ボストン海軍工廠」
となりましたが、未だに前者の名前で呼ばれることも多いのだそうです。

ちなみにいつぞやお見せした第2ドライドックは20世紀に入り、
戦争の気配が近づいてきた頃建造されました。
ここで1934年以降建造された駆逐艦はそれだけで70隻弱。
とくに1942年建造のものが、ほとんどは対日戦に投入されています。



「コンスティチューション」見学1日目は、甲板しか公開されていなかったため、
そのものはあっさりと短時間で終了してしまいました。
これは入り口と反対側にある出口です。



「コンスティチューション」見学者のためのボディチェックをする小屋の前に
海軍迷彩服を着た二人が立っていますが、この一帯は彼女が停泊しているためか
海軍軍人が普通にウロウロしていました。
のみならず陸軍らしき軍人の姿もなぜか見かけました。



実際に大砲を船内展示していないせいか、このような大砲使用例が
ダミーの船体を作って展示されていました。



これが主砲として使われた「長砲」です。
「コンスティチューション」はこの砲を30門搭載していました。
入り口に転がっていた短い砲身の「カロネード砲」は20門搭載です。



もう一度訪れた時に晴天のもと撮った同じ場所。
ここは「USSコンスティチューション博物館」となっていますが、
この展示で、かつてのこの建物部分の地図がありました。



この地図の上辺端から撮ったのが先ほどの写真です。
つまり博物館になっているのはかつてエンジンハウスだったのです。

この工廠はアメリカ海軍にとって最初の本格的なものとなりました。
蒸気動力の時代となったころ第1ドライドックの水を汲み上げるのに使用する
スチームエンジンがここに設置されていました。

1905年に排水ポンプのエンジンが電気に変わると、電気のエンジンは
ここではなくこの近くの別の建物に設置されました。

今日、排水はポータブルポンプで行っています。



科学の発展とともに楽になっていくドライドックの排水法ですが、
最初はドックをドライにする技術すらなかったころがありました。
そんな時代、船の修理、修繕はどうやっていたか。

というと、この絵なんですよ。
船、倒してませんか?斜めに。

このやりかたを” Heaving Down"あるいは”Careening"といい、
浅瀬で斜めに船を倒して船底を露出させると言うものでした。
危険も多いしそもそも人力で船を傾けるのは重労働です。

船を維持するためには船底の付着物を定期的に取らなくてはいけませんが、
その度に昔はこんなことをやっておったわけです。
ちなみに、港などが使えない海賊も、その作業をしなければならないので、
彼らは静かで浅瀬のあるカリブ海の島などを根城にするようになりました。

「カリブの海賊」がカリブにいたのはそれなりに理由があったのです。



そこで、この大変な状況を改善すべく、一人の技術者が立ち上がりました。
ロアマイ・ボールドウィン・Jr.(Loammi Baldwin Jr.)

ハーバード大学を出て弁護士をしていましたが、技術者に転向し、
ヨーロッパ、とくにフランスでの運河など公共事業の視察経験から
帰国後、海軍に奉職してドライドックの建設に着手します。 



ボールドウィンJr.が発明した最初の木造製ケーソン(浮き扉)。
なんと本物です。
中を空洞にし、海水を出し入れすることによって浮かせたり沈めたりできます。
1833年当時木製だったケーソンは1902年にはスチール製に変わりました。

このスチール製ケーソンが最初に設置されたのも、ここチャールズタウン海軍工廠です。
その時のケーソンは、なんと去年の2015年までずっと使われてきました。



1番、2番は鋼鉄製ケーソンの「ランチング」。
船舶の進水式みたいですね。

3番の写真は現在のケーソンの始業で、2015年3月の写真です。
左の先代ケーソンは取り外されて、今敷地の裏庭に置いてあるそうです。

もしかしたら将来的に展示するつもりかもしれません。



そしてこれが初期の木造ケーソンを使った第1ドライドックの模型。
模型は木製で、19世紀中に作られた年代物だそうです。
上のケーソンも、この模型も、ボールドウィンとその兄のクリスの作だとか。

ボールドウィンの父は有名な軍人であり技術者で、彼の5人の息子は
いずれも有名な技術者となってアメリカの歴史に名を残しています。



「コンスティチューション」奥の埠頭に展示されている
USS793「カシン・ヤング」の横に立つクレーンの様をごらんください。



同じものではありませんが、おそらく写真と同じ、1940年から45年の間に
大量に海軍艦を建造していたころのクレーンだと思われます。

第二次世界大戦の最初から最後までを通じて、ネイビーシップヤードでは
320隻の艦船建造、2000隻のドック入り、増設など改造2000隻、
そして3000隻のオーバーホールと修理を行いました。

1943年のピーク時には、"DE"(Destroyer Escort) 護衛駆逐艦なら4ヶ月、
この間お話しした戦車揚陸艦、”LST”なら4週間以下で造っていました。

やっぱり戦車揚陸艦が簡単で早くできるというのは本当だったんですね。 



「カシン・ヤング」の向こう側は船着き場になっており、そこからは
対岸のボストンの街が一望できます。



右側のビルと教会以外の高層建築は戦後にできたものでしょう。
真ん中の時計台のビルはむかし、“Custom House Tower”といって
税関でしたが、今はマリオット系列のホテルになっています。

手前の赤茶色の建物はほとんどが100年越えのビンテージです。



そのとき、この川の港を結ぶ定期船が到着しました。
通勤などで利用する人もいるのかもしれません。



これは観光バス兼遊覧船。
「ボストンの街を泳ぎます!」というキャッチフレーズの
「スーパー・ダック・ツァー」のバス(兼遊覧船)です。

市街遊覧のための天井の空いたバスを「ダックツァー」といいますが、
これは「スーパー」ということで、川にもずんずん入っていってしまうのだった。 



これは実際に乗るより見ている方が面白いかもしれない。
スーパーダックツァーは陸地を45分間、水上を45分間案内してくれます。



水陸両用車というものは決して今時珍しいものではありませんが、
ここまでバスそのものの形をしていると、シュールで思わず見入ってしまいます。



アメリカではところかまわず裸足になりたがる人が時々現れます。
先日、銀行で用事をしていたらデスクで銀行員と話していた初老の男性のところに、
値札をつけたままの服を着て入ってきた5〜60の女性がいました。

銀行員の横に立ち、無言で服を見せると、男性は無言で顔をしかめて
首を横に振り、それを見て彼女は出て行ったのですが、なんと裸足でした。

どうも銀行の隣のブティックで時間つぶしに試着していたら、
欲しくなったので旦那さんに見せに来たみたいです。

試着の服で隣とはいえ銀行に入ってくるのはいいとして(良くないけど)
なぜ裸足で歩いてくる?と目が点になりました。

と、全く関係ないですが、日本ではありえない感覚で靴を脱ぐ人が多いので、
このような看板を造って特に子供に注意を促しているようです。
工廠だったところですから、怪我しそうなものが落ちているのです。






ネイビーシップヤードのあるこの地域一帯が、保護されているのかどうか、
古い煉瓦造りの建物が道沿いに連なっていて新しいものはほぼありません。

この看板の「タデスキ」というボストンにちょくちょくある食料品店や、
「マサチューセッツ水上救難協会」なんてのもこんなレンガのビルに入っています。





これは「コマンダント・ハウス」(司令の家)と呼ばれています。
昔から、海軍の偉い人がここに住んできたのでしょう。



この絵は「コンスティチューション」がバリバリ現役だった頃の
1812年のネイビーシップヤードを描いたものです。

司令官クラスの偉い人はシップヤードの近く、職場を一望できる
位置にあるこういう家に住んでいました。(司令付きの軍人もです)


平の工員や職人たちは雨漏りのするバラックで10年間我慢していましたが、
資金が出たので、自分たちで新しいバラックを作りました。
絵の右側に見える白い建物がそうです。

 


今はこうなっていますが、建て替えたのではなく、150年かけて
自分たちが住みながら改築していった結果がこれです。
つまり「司令の家」とともに、当時と同じなんですね。




今はギャラリーとレストランが入っているこの建物、
「ビルディングビルディング10」といい、かつては
船を作るための木材が周りに積まれていたそうです。



その後無線機器のステーションになったり工廠の家族のための
洗濯機が置かれたりと用途を変えてきましたが、1948年からは
大西洋艦隊の使うソナー設備をストックしておくところになっていました。




ゴシック建築による八角形のキューポラ付き建物は「MUSTER HOUSE」。
1852年にエンジニアの事務所として建てられたものです。
持ち主の女性が1927年にボストンに贈与しました。



拡大してみると窓枠など腐って外れてしまったところさえあるのですが、
「パブリック・ウォークス・ショップ」とあるので、
工廠で働く人たちのものを売っているのかもしれません。



安全靴を履きましょう。







「三本マスト」がよく分かる艦首側から見た「コンスティチューション」
これを見ているうちに、一体どうやって帆船は帆を張るのだろうと思いました。



そこでふと思い出したのが「ミスティック・シーポート」で見た
この光景です。

これは遊んだりゲームをしていたのではなく()帆を畳んでいたんですね。

今彼らは安全索をつけた上でフットロープに足を乗せ、
手前にたぐり寄せるように帆をガスケットに巻きつけるという、
最後の作業をしているわけです。



近くには行けませんでしたが、海軍工廠趾の公園広場には
朝鮮戦争の慰霊碑が建てられていました。

大戦後、ボストン海軍工廠は艦隊近代化計画 (FRAM) に基づいて
艦艇の近代化のための作業に携わっていました。

しかし、工廠の作業は世界大戦中がピークで、
朝鮮戦争およびベトナム戦争のころは工廠の仕事はほとんどしていません。
どちらにおいても大規模な海戦が無かったためです。


ベトナム戦争が終わった1975年、ボストン海軍工廠はその役目を一旦終え、
閉鎖されていましたが、海軍の造船技術と歴史を後世に伝えるための施設として
ナショナルヒストリックパークの管轄下に置かれ、現在に至ります。


続く。