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バーキン片手に靖國神社

海軍機関将兵の履歴~第二術科学校 海軍機関術資料室

2016-03-13 | 海軍

第2術科学校の海軍機関術資料室、残りを一挙に参ります。



案内の自衛官が「ここにあるのは本物です」といっていた東郷元帥の書。
「忍」のあと、戌申夏、とありますが、これは1908年の夏に書かれたということです。
1908年というと、日露戦争の4年後。
日本海大戦を勝利に導いた聖将として、日本中の崇敬をあつめた東郷元帥。
毎日所望されておそらく書を書きまくっていた?頃なので、忍の一字(多分)



こちら定番、「常在戦場」でおなじみの山本五十六の書でございます。
前回「軍人のための信仰」について調べていた時に、

「山本は合理主義者ゆえの無神論者だった。
そのため天命がマイナスに働くようになり、戦運も無かったのだと思う」

と同じ海軍軍人が言っていたという記事を目にしました。

この軍人に言わせると、東郷平八郎にも秋山真之にも信仰があった、だから
戦運に恵まれたが、山本はその信仰心のなさゆえ、ツキに見放されたということらしいです。

板谷隆一海将は海軍兵学校60期のクラスヘッドでした。
真珠湾攻撃の時の「赤城」制空隊長、板谷茂は57期の首席で、彼の兄です。

大和特攻のときには「大和」と運命を共にした「矢矧」乗組でしたが、
命永らえ、戦後海上警備隊が創設されたときに入隊し、2年後に1佐になります。
終戦のときに板谷は大尉でした。
警備隊は旧軍の階級をそのまま受け継いで官階級を充てていたということです。

米国の海軍大学留学後、幹部学校副校長、護衛艦隊司令官、横須賀地方総監と、
兵学校のクラスヘッドは順調に昇進し、1966年(昭和44年)、
第10代海上幕僚長、3年後には統合幕僚議長(今の統合幕僚長)になっています。

そんな板谷の書は「温故知新」。
海軍軍人出身の戦後自衛隊の統幕長の言葉として、ふさわしいものだと思います。



永野修身書、「庶昭忠誠」
李白の詩にある言葉で「庶しょうは忠誠を昭らかにす」



永野の書はもう一つあって、「憑高跳遠」
高きによりて遠くをながむ、つまり高いところから全体を見ること。

永野修身というと、「軍令部総長」「東京裁判」と連想します。
開戦時軍令部総長だった永野は、戦争不可避という状況下で、苦心しながら作戦指導に当たり、
終戦後に戦犯として訴追されたときにも、自らにとって有利になるような弁明はせず、
真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとし、また、記者の質問に対し

「真珠湾は軍事的見地からみれば大成功だった」

と答えるなど最後まで帝国海軍軍人の矜持をもって振る舞いました。

この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は、
永野を真の武人であると賞賛していますが、
このリチャードソンという人は、真珠湾を海軍艦隊の母港にせよという命令に対し、
防御力に不安があることと、日本を刺激することを理由に反対した人なんですね。

ルーズベルトはこの決定を「日本を挑発し襲わせるための意図を持って」
行ったわけですから、聞く耳持たず当然リチャードソンの反論は却下され、
なんとそれだけでなく、太平洋艦隊司令長官と合衆国艦隊司令長官を解任、
中将から少将に降格!されてしまうのでした。

うーん、ルーズベルトこの。

後任のハズバンド・キンメルはリチャードソンの兵学校の3期も下。
(つまりリチャードソンを貶める意味合いでなされた後任人事です)
キンメルは真珠湾攻撃で被害を甚大にした指揮官として責任を取らされ、
いまだに遺族の名誉回復の嘆願も届け入れられずに今日に至ります。

未だにアメリカ人の間では「偉大な大統領」のベストテンくらいには
ルーズベールトが入っていたりするほど評価されているのですが、
はっきりいってあのときこの民主党大統領が戦争したかったから戦争になった、
というふうにはアメリカ人は考えないってことなんでしょうかね?

まあ、そういうリチャードソン(最終階級は大将)ですから、真珠湾に関して
日本側に肩入れするようなセリフが出てもわたしはあまり驚きません。


永野は、東京裁判継続中の1月2日に肺炎にかかり、病院に搬送される途中で死亡しました。
この裁判中、永野はあるアメリカ海軍の士官に、

「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」

と述べたそうですが、こんにちその願い、特に日米両海軍における友好は、
彼の予想したよりおそらくずっと良好な形で実現することになりました。



海軍兵学校で恩賜の短剣なんて、どんなスーパー秀才なんだという気がしますが、
さらに海軍機関学校の恩賜の短剣、つまり首席って、いったい・・、
とついしみじみと考えてしまいますね。

軍需省の航空兵器局の局長にこの久保田芳雄の名前がありましたが、
同じ時期の総務局長には大西滝治郎がなっています。

「海軍反省会」にはしばしば名前が出される久保田氏、戦後はやはり
公職追放に遭われたそうですが、技術士官は少なくとも戦犯には無縁でした。
進駐軍が訪ねてきたのですわ戦犯指名か、と思ったところ、若き日に留学していた
MITの同級生が訪ねてきただけだった、という話を孫にあたる方が書いています。




この階級章は全て本物。レプリカなどではありません。
本物で作られた階級章の見本は、おそらくこれが唯一のものだということです。
(誰かが実際に使っていたものを使って作ったのかどうかまでは聞きそびれました)

だいぶ色あせていますが、機関科と技術科の階級章は紫です。
主計科白、軍医衛生は赤、法務科は緑。

法務中将なんていたんですね。
そういえば、226事件についての映画の話の時に匂坂春平という関東軍法務部長が
首謀者全員死刑という判決を戦後悔やんでいた、ということを書いたことがありますが、
この匂坂裁判長が「陸軍法務中将」でした。

海軍の法務中将には、偶然ここでお話したことのある舞鶴の偉人、
伊藤 雋吉(いとう としよし)男爵がいます。

「水路科」は最高位が大佐だったようですね。



右は海軍機関学校第15期卒、氏家長明中将の奉職履歴。

履歴 氏家長明

このようなことが墨で書かれているわけですね。
氏家中将は海機を卒業して少尉候補生として「須磨」乗組となり、
これが海軍軍人として最初のキャリアとなりますが、左はその任命書です。

幾つかの軍艦に乗り組んだ後は艦政本部一本で、最終的に
佐世保工廠長、目黒の技研所長まで務めました。
終戦時にはすでに予備役に入っていたので、戦後の記録はありません。

なお、氏家の妻は千里ニュータウン開発を手がけ、関西大学を移転した
大阪の実業家山岡淳太郎の娘でした。
そのお相手と結婚に際し、氏家大尉はこのような許可証を残しています。




海軍士官が結婚するには、各方面の許可が必要な時代でした。
外国人とも出世する気がないなら結婚できるなんてとんでもない、
家柄がちゃんとしていなければ海軍大臣の許可が下りませんでしたし、たとえば
芸者さんなどと恋に落ちてしまった士官は、結婚できてもクラス名簿から外される、
などという目にあったといいます。

それを避けるために、しかるべき家に女性を養女として迎えさせ、そののち
嫁にするという手続きをふんでなんとか意思を貫く士官もいました。

これは先ほど名前の出たクラスヘッドの氏家長明が大正2年に結婚したときの許可証。
結婚したのはほとんどの士官がそうであったように大尉のときでした。
(大佐中佐少佐は老いぼれでかといって大尉にゃ嫁があり若い少尉さんには金がない、
という戯れ歌にもありましたね)

ほとんど紙が真っ赤っかになるくらいこれでもかとハンコが押してあります。
本人と海軍大臣のもの以外は参謀長、人事、副官、参謀、艦長、副長、主計長、
人事長、そして横須賀鎮守府司令官。

こういうのもきっと本人が紙を持ってあっちこっちハンコをもらって歩いたのでしょう。
わずらわしいといえばわずらわしいですが、その度に「いやおめでとう」などと
冷やかされたりして、それなりに嬉し恥ずかしなイベントだったのではないでしょうか。




こちらはある海軍機関兵曹の履歴書。
佐世保海兵団に練習兵として入団して以来ずっと佐世保鎮守府で勤務し、
終戦間際の6月に9号輸送艦に乗り組んでいます。

ご存知のようにこの頃、輸送艦に乗り組むというのは死を覚悟する戦況でした。
しかし9号輸送艦は竣工以来、幾多の作戦に従事し生き残った武運の強い艦で、
敵潜と戦闘を行いながらも各種輸送作戦を成功させ、戦後は復員輸送に従事しています。

この機関兵曹の履歴に「復員業務」とありますが、おそらく彼は9号輸送艦に
乗り込んだまま終戦を迎え、その後仕事を行ったものと思われます。

復員任務終了後、賠償艦として米軍に引き渡されたのですが、どういうわけか
米国に回航されることなく太平洋漁業に貸し出され、捕鯨船母船として生涯を終えました。

9号輸送艦に乗り組んだこの機関兵曹も、全戦歴を通じて大変運が強かったといえます。



こちらは海軍機関中尉の教育参考表。勤務評定みたいなものですか。
昭和17年7月から18年9月まで駆逐艦「荒潮」に乗り組んでいたようです。

ということは、18年3月の第81号輸送作戦、米軍通称「ビスマルク海戦」
に参加したということでもあります。
このときの「荒潮」は、戦争中の「生と死の分水嶺」をそのまま表すような
運命の分かれ道を経て生き残っています。
ダンビールの悲劇とも言われた反跳爆撃の餌食となり、「荒潮」は艦橋に直撃弾を受け、
指揮をとる士官がいなくなっただけでなく艦橋が無くなったため操舵不能となり、

そのまま最大戦速で給炭艦「野島(未実装)」へ激突、艦首も大破してしまいました。

駆逐艦隊指揮官木村昌福は撤退命令を出しますが、「朝潮」が現場に駆けつけ、
「荒潮」と「野島」の負傷者を移乗させることに成功しましたが、
「荒潮」乗員たちは「荒潮と共に戦って死ぬ」と言い張ってそのまま船に残りました。

そのとき敵機が来襲し、助けに来た「朝潮」が沈められてしまい、
移乗した多くの負傷兵は戦死するという皮肉な結果になります。 

その後、「荒潮」の乗員と「朝潮」の漂流者は、このダンビールの海で
なんなく(なんとなくじゃないよ)生き残った「雪風」に救助され帰国しています。

それにしても、「荒潮」の乗員が船に残ると言い張って移乗でもめていなければ、
もしかしたら敵機の来襲に遭わずに済んだという可能性
はないのかしら。

この中尉の評定は

「分隊士の職に対しては日常事務全般に対し常に諸法規に照らし処理し
完全ならしむることに努め、十分信頼するに足るに至れり」

に始まり、大変高い評価を受けているということが書かれています。

この中尉は機関科の中尉ですから、ビスマルク海戦で艦橋の兵科士官が全員戦死したあと
指揮を執るべき順位にいたはずですが、前述のように指揮をした士官はいなかったようです。

機関科士官では操舵はできなかったからということでしょうか。



この資料室のすごいところは、海軍機関学校時代の書籍が本棚に保管されていて、
見ることができるものもある、ということでした。

この棚のものはほとんど機関学校で実際に使用されていた教科書です。

ただし、このときの説明によると、ガラスケースに入らないものは劣化が激しく、
見ていただくことはできない、ということです。
これ、できるだけ早くなんとかしたほうがいいのでは・・(お節介)




海軍機関中将の礼服。
ご存知の通り、機関科の最高位は中将です。
岡崎貞吾中将が着用していたもので、遺族から寄付されました。

「昭和8年の観艦式」の項で、このとき予備役だった岡崎中将が、
奉供艦「高雄」に座乗したときの資料をいろいろと見ていただきましたが、
そのときにあった岡崎中将の写真に写っていたのが、これです。



ガラスケースの上に無造作に置いてあった

「井上成美大将 懇談録音(その1)」

まさか、と思って蓋を開けてみたら・・・・、



なんと!いまどき珍しいopen reel式の録音テープでした。
テープは残っていても再生する機械がないと見た。
ああでも聞いてみたい。井上大将の肉声。

と思ったらあった。このときではなく、兵学校入学式の訓示が。

井上成美 訓示http://youtu.be/yUF9Tmp_GM4


ギターを弾いて歌も歌っていたといいますが、なかなかハリのある美声です。

このテープ、こんなところに置いておかないで、デジタル式に落として
(あ、もうダビング済みですか?ならすみません)こちらは劣化しないように
ガラスケースに入れるとかしたほうがいいんじゃあ・・(お節介)



なぜか伊号第33潜水艦の殉職者の名簿(原本)がありました。
どうしてここにあったのかは説明されていませんでした。



戦時下の最新鋭潜水艦として昭和17年6月10日就役、同年9月、
トラック島泊地で工作艦に横付け修理中、連絡不十分のため、
後部のハッチを開いたまま沈下させ、航海長阿部大尉以下33名が殉職した。

引き上げして修理後の昭和19年6月13日訓練中に沈没。
原因は、給気筒頭部弁に丸太が挟まっていることに気づかず急速潜行したため。
104名の乗組員中、2名が救助されただけで、102名が死亡した。

同艦は沈没9年後、引き揚げられ解体前に調査が行われたが、その際
技術大佐3名が艦内で一酸化中毒により死亡するという悲劇が起こった。

一方、浮揚した潜水艦内部、浸水しなかった部分の遺体は損傷が全くなかった。
9年経っているのに腐敗せず、まるでつい最近死んだかのような状態であった。
原因は、艦内の酸素が全部吸い尽くされたため、腐敗菌が繁殖しなかったのと、
水深61mの深さで温度が上がらなかったためで、いわば無菌で冷蔵庫に
真空保存されているのと似たような状態になったのである。

この写真に付けられた説明の抜粋です。



終戦の勅書のコピー。
おいそれとコピーできるものではないので、コピーといえど展示してあります。



勅書の最後には各大臣の自筆署名が。



そして、一部しか写真に撮れませんでしたが、海軍機関学校卒の戦死者。

「摩耶」パラワン方面
「山城」スリガオ水道
「阿武隈」レイテ湾
「加賀」ミッドウェイ
「霞」キスカ湾
「秋風」マニラ西方

「大鳳」マリアナ海西方

先日ここに展示されていた観艦式の航行図を挙げましたが、
そのときに横浜沖で観艦式の列に並んだ軍艦が、聞き覚えのある戦没海面とともに
戦死した機関将校の名前のあとに書かれています。

仔細に眺めると、右から4番目の花咲茂市という士官の名前の下は

「昭19、6、13 伊三三潜 伊予灘」

となっており、戦死ではなく「公死」、殉職と記されています。



「三笠」の模型ですが、何やらすごく気合が入っている模様。
賞状が見えますが、これは、当時吉田茂が会長を務めていた「東郷会」と
「三笠保存会」が主催して行われた船の模型コンクールに出品されたもの。
努力賞を受けたのは、斎藤正善一等海尉(昭和36年当時)ということです。







というわけで、資料室の見学を終わりました。
廊下に出てきたら、お茶汲み室の暖簾が可愛かったので一枚。




資料室のあった建物の前からまたバスに乗り込み、第二術科学校を後にしました。
門に書かれているのは

「潜水医学実験隊」「第二術科学校」「艦船補給処」
「自衛隊横須賀病院教育部」「横須賀造修補給所」

伊33潜の名簿があったことは「潜水医学実験隊」に関係あるでしょうか。
「艦船補給処」というのをどうしても「ほきゅうどころ」と読んでしまう(笑)
お食事どころみたいでなんかほのぼのしますね。



というわけで、書き割りのような第二術科学校にバスの車窓から別れを告げました。
この見学は、防衛団体の顧問である元海将がお話を通してくれて実現したそうです。

空母「ロナルド・レーガン」、そして第2術科学校では
自衛隊の創設の歴史、そして旧海軍機関学校の資料を見た一日。
この後に行われた懇親会で、元海将が

「今日見たことをできるだけ周りの人に話して、伝えてください」

とおっしゃったので、そのお言葉通りブログで長々とお話してきました。
空母に代表される世界一の海軍の「今」と、帝国海軍、そして自衛隊の歴史、
新しきと古きを一挙に目の当たりにした、実に濃密な「海軍三昧」の一日でした。


終わり 


海軍機関学校と「マザー」フィンチ~海軍機関術参考資料室

2016-03-12 | 海軍

旧海軍兵学校であった江田島には何度となく訪れ、それについて
書かれたものや元兵学校生徒の会合に参加するなど、
これも「門前の小僧」とでもいうのか、海軍兵学校のことについては
それなりに知識を蓄えてきたわけですが、同じ海軍の学校でも
機関学校についてはほとんど何も知らず、軍艦のことを調べる過程で
造船についての記述に機関将校が出てきたり、あるいは目黒の自衛隊を
見学した時に敷地で見た実験棟の名残(今も使われていたりする)をみて、
そのぼんやりとした輪郭を思い浮かべる程度でした。


兵学校の同期会には、いわゆるコレス、兵学校と機関学校の同学年が
一緒に参加しており、その一団が「舞鶴」と呼ばれていたことから、
海軍機関学校が舞鶴にあったのだな、と理解しておりましたが、横須賀にも
機関学校があったことは今まで考えたこともありませんでした。

1874年、兵学校がまだ「兵学寮」であった頃、その分校として、

海軍兵学校付属機関学校

という名前でここ横須賀にその学舎が置かれていました。
1925年には舞鶴に移転し、以降「舞鶴」は海軍機関学校の代名詞となります。

前回お話しした芥川龍之介が英語を教えていた1916年(大正15)には、
機関学校は今の三笠公園の近くにあったということです。

今、三笠公園に隣接して神奈川歯科大学と湘南短大がありますが、
そのキャンパスがかつては機関学校の敷地でした。
今もこの校内には桜並木があるそうですが、それは機関学校時代からのもので、
そこだけが往時の面影を残しているのだそうです。

また、赤レンガと石を積み上げた機関学校時代の門柱は、現在も
歯科大学病院の裏手に保存されています。 

舞鶴地方総監に訪問したとき、昔機関学校の講堂だったという建物の
裏の部分が海軍資料館となっているのを見学しましたが、
そこには機関学校の跡を偲ばせる資料はほとんどなかったと記憶します。

というわけで、海軍機関学校独自の資料が集められているのは、
ここ横須賀の「海軍機関術参考資料室」だけなのかもしれません。



胸の軍艦旗マークが、実に洗練されています。

あまりに新しくきれいなので、海上自衛隊のラグビーチームのユニフォーム?
と感違いするくらいですが、これは海軍機関学校47、48期チームのジャージで、
戦後(昭和58年)に作成されたレプリカです。

兵学校生徒がラグビーをしている写真を見たことがありますが、
機関学校では特に闘争心や団結心を鍛えるスポーツであるラグビーが盛んで、
全国でも強豪だった三高(京大)とも定期対抗試合を行っていたそうです。

写真上は、5月27日の海軍記念日に校内試合を行う機関学校生。

帽章の左にあるのは、やっぱりここでも普通に行われていた
短艇競技のメダルです。




昭和13年5月、その三高との対抗試合のときの記念写真。
白いユニフォームの三高生とは仲良く混じっていますが、
誰一人としてニコリともしていないのが時代を感じさせます。

「男がニヤニヤするな!(ましてや軍人ならなおさら)」

という風潮だったんですね。



昭和13年、やはり強豪チームだった明治大学のコーチを招聘して、
神妙な様子で教えを受ける47期生徒。



不思議なキャプションがつけられた写真です。

昭和20年4月19日 「機械熱力学」機関実験場
レイテ海戦の硝煙消えやらぬまま小熊隆大尉(第51期)が
56期生徒に対し、編微分方程式を駆使して講義を行う。
鳥肌が立つ思いであった・・・・

機関将校であった小熊大尉については、ここに書かれている以外のことは
何もわからなかったのですが、この前年の10月23日から25日まで行われた
レイテ沖海戦に参加し、命永らえて帰国後、母校で教えることになったようです。

 編微分方程式は自然科学の分野で流体や重力場、電磁場といった場に関する
自然現象を記述することにしばしば用いられる微分方程式です。

死線をくぐってのち生き残り、今ここで行う講義。
生死の狭間を見、ゆえに生の刹那を知った者の言葉の重みと真剣さを
生徒たちは「鳥肌が立つくらい」感じ取ったということなのでしょう。


小熊隆大尉は人間魚雷「回天」を開発した黒木博司大尉と同期です。
黒木大尉はレイテ沖海戦の1ヶ月前、昭和19年の9月7日、
自らが発案した回天訓練中の事故で22歳の命を終えています。

黒木大尉は16歳で機関学校に合格しているので、同じ歳とは限りませんが、
この小熊大尉も、23歳前後で戦線から戻り、教壇に立っていたことになります。

インターネットを検索すると、たった一つ、安中市の平成21年の市政報告に
小熊隆さんという方が瑞宝単光章(勲6等)を警察功労で受賞した、
というお知らせに行き当たりました。
瑞宝章とは“国家または公共に対し功労があり、公務等に長年従事し、
成績を挙げた者”に叙勲されます。


もしかしたらこの方が65年後の小熊大尉なのでしょうか。



向かいにあった自衛隊の創設資料館にもノートが展示されていましたが、
さすが機関学校だけのことはあって、こちらもノートが何冊も。

授業のノートかと思ったらそうではなく、民間工場を課業で見学し、
それについて見たものを細かく図入りでメモしたものでした。

日本アスベスト会社

住友伸銅工場

京都火力発電所

の三社で、発電所の項には「水源は近江琵琶湖なり」とあります。 



方眼紙にノートを取るのは図が描きやすいからですね。
これは住友で見学した伸銅のための機械の一部(のようです)。



発電機械の諸試験(不蝕試験、絶縁試験、極性試験)図。



英語の試験かと思ったら英語問題が書かれた「材料学」の試験でした。
なんてこった、ってことは答えも英語で書きなさいってことか?

「一般的な原油の精製過程について述べよ」

まあこれだけならそんな難しくはないかもしれないけど、英語でこれを・・。 



「サンブナンの原理」による弾性力学の美しい証明。



さて、この資料室に、このような女性の肖像がありました。
この方、星田光代さんとおっしゃいます。


・・・・と言うのはもちろん彼女の日本名で、本名は

「エステラ・フィンチ」Estella Finch (1869 - 1924)

さんとおっしゃいまして、アメリカはウィスコンシン州出身です。
彼女はニューヨークの神学校を卒業してから、超教派(教派関係なく)
婦人宣教師として24歳の時に日本にやってきました。
彼女は全国で伝道を行っていましたが、日本人の贖罪意識の薄さに失望して
帰国の準備を進めていたところ、横須賀日本基督教会の神父である黒田惟信と出会い、
彼の

「軍人には軍人の教会が必要である」

という説に賛同し、横須賀市の若松町に「陸海軍人伝道義会」を設立しました。
彼女は特に海軍機関学校の生徒への布教を熱心に行いましたが、決して
信仰を押し付けることはなかったそうです。

教会の庭に道場を作り、稽古着や道具を揃えて生徒にはスポーツを推奨し、
生徒を「ボーイズ」と呼んでかわいがりました。

アメリカ人である自分が日本の軍人に布教をするには、まず愛国者になるべき、
と考えた彼女は、国学者であり史家でもあった黒田から日本史を学び、
流暢に日本語を喋り、生活様式もすべて日本式にしました。

日本に帰化し、「星田光代」となったのもそのためです。
帰化したのは40歳の時。
彼女の親しい者(アメリカ人)はこれに反対したそうですが、
彼女は断固これを押し切りました。



機関学校の生徒たちは彼女を「マザー」と呼んで慕いました。

関東大震災のあとは被災地慰問を熱心に行っていた彼女ですが、
体調を崩し、教会の者に見守られながら55歳の生涯を閉じました。

「我邦軍人のために青春を捨て国籍を捨て遂に命そのものさえ捨てたる者なり
その献精の精神『死せりと雖も尚言えり』というべし」

というのが黒田がその慰霊碑に書いた追悼文です。


第2術科学校の資料室に彼女の資料が展示されることになったのは、
横須賀市在住の海野幹郎、涼子夫妻がその遺品を寄付されたからでした。

海野氏は海上幕僚監部技術部長を務めた元海将補。
そして夫人の涼子さんは、黒田惟信の孫娘であったという縁によるものです。

「陸海軍人伝道義会」は黒田が死去した翌年の1936年に解散しましたが、
彼らの布教によって、30年間でおよそ1万人が伝道義会を訪れ、
約1000人の軍人が入信したといわれています。

戦史を当たっていて、将官にクリスチャンが多いと思ったことがありますが、
彼らのうち何人かは横須賀で伝道議会に通って入信したのかもしれません。

井上成美大将もキリスト教徒で、戦後は子供たちに英語を教えながら
神の教えを説くことがよくあったといいます。

「神さまは、どこにいらっしゃるというのではないが、
どこかにいらっしゃる。
必ず見ておられるから、祈りなさい。
感謝しなさい。
財産など残してはいけません」

という言葉をのちのちまで覚えている教え子もいました。

井上大将が横須賀にいるとき、軍人伝道議会に行ったことがあったかも、
という考えは、そう突飛なことでもないような気がします。


続く。

 


芥川龍之介を探せ~第二術科学校・海軍機関術参考資料室

2016-03-11 | 海軍

第二術科学校内にある資料室は基本一般公開なので、
多分申し込んだら誰でも見学できるとは思うのですが、

施設の性質上構内に誰でも入れるわけではないので、
見学したい方は2術がオープンスクールなどで公開されるときに
横須賀から出ている「海上シャトル便」 で行ってみるのもいいですね。

このときに案内してくれた自衛官が、確か近々公開の機会があるので
ぜひ来てください、とバスの中でいい、それに対して参加者が

「ホームページで見られますか」

と聞いたら確かにはいと返事があったと思うのですが、2術のHPには
全くそれらしいお知らせはありません。

うーん・・何かの間違いだったのかな。


 
ガラスケースの中の資料を写すのに一生懸命になって、
資料館全体の写真を撮るのを忘れたので、リーフレットから転載。
このように、6,500点あまりの展示物が見やすく展示されています。


この日の団体は防衛関係だったのである意味当然かとも思いますが、
こういう一行の中には必ず一定数いる「アマチュア軍事評論家」が、
この日も特に日露戦争の資料のあるケースを中心にして、活発に、
質問というより日頃蓄積した知識の披露に興じる一幕がありました。



別にこの方々のことを言うのではありませんが、自衛隊の公開イベントで、
自衛官に一番疎まれるのが、実は「知識披露型」なのだそうです。

●護衛艦は90度以上傾斜(横倒し)しても復元するよう設計されている。
何度なのかは機密だが、一般公開でこれを自衛官に質問し、
自衛官が返答に窮していると、『150度だ!勉強しろ!』と怒鳴って立ち去る
(ちなみにこれは間違いらしい)


●護衛艦の出港時、艦の周波数に合わせ『無事航海を祈る』という信号を送ってくる。
そして『次の行先は○○と推測される。航海途中、○○沖で溺者救助訓練、
対航空戦の訓練を行うと思うが、艦長の指揮ぶりを見ている』
などと、艦内通信を傍受して、ひけらかすような内容の信号を送ってくる。

●独自に考えた尖閣・竹島奪還のオペレーションを一般見学の際、
約1時間にわたって幹部自衛官に一方的に披露する。


これらは論外としても、暇に任せて仕入れたオタ知識を披露したところで、
大抵の自衛官は感心どころか、内心迷惑がっているかもしれないってことです。
S-10のSが「掃海」のSであることを、広報の自衛官が知らなかったので
つい勝ち誇ってしまったわたしに言う資格はないと言う説もありますが。


さて、知識披露型になるかどうかは別にして、戦史、とくに海軍史、
その中でも日露戦争の知識を、司馬遼太郎の著書から得るタイプがいます。
熱心に読み込むあまり、司馬史観もそっくり受け入れてしまうような読者です。

わたしはこの団体では超若輩なので、というか写真を撮るのに忙しく、
グループの議論に参加せず、遠巻きに耳だけで聞いていたのですが、
どうもこの日の参加者に、そういう司馬ファンの方がおられたようです。
 

「司馬遼太郎が書いてたんだけど、知らない?」

「・・知りません」(自衛官)

「このときにあれではこうなってたんだけど、何々はなんとかだったんでしょ」

「・・知りません」(自衛官)

という気まずいやりとりが二回繰り返されてからのち、
話の切れ目をとらえた自衛官が柔らかい口調で、しかしキッパリと

「司馬遼太郎は自分の好き嫌いを元にかなり史実を改変して書いていますから。
『坂の上の雲』なども自分が評価しない人物のことは無茶苦茶書いてますし、 
あれは小説としてはいいですが、あまり鵜呑みにされない方がいいかと思います」

と一団に向かっていい切ったとき、わたしは思わず彼に惚れたね。(比喩的表現)

ええ、もしかしたらこの自衛官は、主人公の秋山真之を良く書くために
有馬良橘を必要以上に貶めたり、自分の思想をさりげなく盛り込むために
秋山をPTSDの腑抜けに書いた司馬遼太郎の悪行?を暴いた当ブログの記事を
読んだことがあるのではないか?と思ったくらい、激しく同意しましたよ。


いくらちゃんと勉強をされているといっても、資料館の解説を行う自衛官が、
重箱の隅をつつくような知識や司馬の創作まで知らなくて当然です。
そもそも自衛官相手に解説を始めずにはいられない知識豊富な方が相手では、
はっきりいってきりがないと、彼らもあきらめているでしょう。


先ほどの記事によると、こんな時に自衛官は内心どう思っても決して逆らわず、

「よくご存知ですねと褒め気持ちよくさせてあしらう」のだそうです。
武器装備や軍事知識について自衛官と話をしている時にこの台詞が出たら、
もしかしたら相手を辟易させているのかも、とちょっと自分を振り返ってみましょう。

まあ、この記事の自衛官が皆本物という証拠もないんですけどね。



市ヶ谷の記念館にも同じようなガラス写真を見ましたが、
ここで陛下のお立ちになっているのは土を盛った「台」です。
これは昭和10年11月13日、鹿児島県宮崎の都城飛行場で撮られたもので、
特別大演習が終了したあとの記念写真です。

これほどたくさんいても何が何でも全員で写真を撮るのが日本軍。
後ろの人は顔なんか全くわからないのに、それでも撮るか。



この写真には歴史にその名を残す多くの軍人が写っています。
一部ですが、アップしてみました。
前列右から朝香宮殿下、高松宮殿下、(その左後ろ大西滝治郎
その左前大隈峯夫大将、昭和天皇陛下、二人おいて李 垠(イウン)殿下(歩兵大佐)。

他にも阿南惟幾、南次郎、山下奉文、荒木貞夫、梅津美治郎、南次郎、
真崎甚三郎らが一堂に揃っているという貴重な写真です。



日露戦争後の「凱旋写真」のようです。

東郷元帥山本権兵衛が並んでいますね。
山本と東郷の間、後ろのヒゲが加藤友三郎、東郷の左が上村彦之丞
その隣が伊集院五郎加藤寛治美保関事件の責任を問われた人)。
海軍について詳しければ知っている名前はこんなところかもしれませんが、
この写真、他に注目すべき人物が二人います。



写真の中列右から3番目に江頭安太郎海軍中将がいます。
同じ列の左から3番目にいるのが山谷他人海軍大将。
この二人の娘息子が結婚して生まれたのが、雅子皇太子妃殿下の母親。

という「それがどーした」な豆知識がわざわざ家系図で記されていました。



ところで、この資料室に入ってすぐ右手の壁に、クエストのように

「芥川龍之介を探せ!」

とキャプションのつけられた二葉の集合写真が掲げてありました。
その一つがこれ。
大正7年11月に撮られた、海軍機関学校27期卒業生の記念写真です。
もう一つの写真は大正6年のものでした。

文豪、芥川龍之介は若き日に海軍機関学校で英語を教えていたことがあるのです。



ちゃんと写真を撮るのを忘れたのでこれもリーフレットからの転載ですが、
これが当時芥川が講義していた英語の教科書。
海軍の学校でつかう教科書らしく「A BATTLESHIP IN ACTION」というタイトルです。

芥川がここで教鞭をとっていたのは、彼が東京帝大を卒業したあとの
大正15(1916)年で、そのときは汐入駅の近くに下宿していたそうです。

機関学校で芥川は8時から15時まで、当初12時間英語を教え、月給は60円、
のち130円まであがったといいます。
大正末期の60円は35,000、130円は7,5000円くらいなので、まあ安月給です。

のころ既にいくつかの作品を発表して作家への道を歩みだした芥川にとって、
東京の文壇仲間から離れて教師をすることは

「不愉快な二重生活だった」

ということです。
彼のような人間にとっては、時間の束縛と建前の生活が一番辛かったようですね。
そもそも彼は自分でも


「教えるのが大嫌いで生徒の顔を見るとうんざりする」

などと手紙に書いているのですから。





「芥川の作品って何かご存知ですか」


と案内の自衛官が誰にともなく尋ねると、そこにいた一人が

「我輩は猫である!」

と答えたのですが、彼は間違えた人に恥を掻かせまいと気を遣ってか、

「蜘蛛の糸とか羅生門とか・・あまりこれっていう有名な作品はないかもしれませんが」

とフォローしていました。(いいやつだ。)

「杜子春」は教科書にも載っていたし、「鼻」「邪宗門」「奉教人の死」
などを子供時代なんども読んだわたしには異論ありまくりでしたが。
(特に”舞踏会”の話の終わりかたが大好きでした)

芥川の作品のうち「蜜柑」は機関学校教職時代の出来事であり、
「堀川安吉」という主人公を登場させる機関学校時代の生活を書いた一連の
「安吉もの」(”あばばばば”など)を書いていますが、芥川は
機関学校の教職はあくまでも「つなぎ」というか、生活のためと思っていたようです。

芥川自身の人事は、前任の英語教師が大本教に入信するために辞職し、

その後釜として東大の英文学者が推薦したという経緯によるものでした。



で、この「芥川を探せ!」にわたしもチャレンジしてみました。
「イケメンです」というヒントだけで正解がなかったのですが(笑)
後列右から二人目、外国人教師の右後ろがそうだと思います。



こちらの写真でも同じ外国人教師の右後ろが芥川だと思われます。
(というか、周りのメンバーは全く同じ配列ですよね)


不愉快と言っているだけあって、気のせいかどちらの写真も憮然としているような。
ちなみに、冒頭写真にはどれが芥川か説明がついていました。

でも、わざわざ答えを書かなくても皆さんもお分かりですよね。



芥川は思想的に左翼で、特に軍的なものを嫌っていたようです。
軍人の階級争いを「幼稚園児のお遊戯みたいだ」などと酷評し、検閲され、
さらに嫌うといった具合でした。

しかし、機関学校の教職を引き受けたということは海軍に対しては
好意的に見ていたということでもあります。

のみならず、陸軍幼年学校のいかにも陸軍的なやり方に不満をもらしていた

フランス語教師の豊島与志雄(のちにフランス文学の翻訳者として有名になる)
を、「海軍の方がいい」と海軍機関学校に引き抜いたということもあります。

あの内田百(けんは門構えに月)も同じく幼年学校の教師であったところ、
芥川の引きで機関学校のドイツ語教師になっています。(多分理由は同じ)

また、当ブログ甲板士官のお仕事」という項でも書いたことがありますが、
芥川は昭和2年、海軍を舞台にしたにした三編のショートストーリーを書いています。

三つの窓

「鼠」 鼠上陸をするため禁を犯して鼠を”輸入”した下士官を許してやる話
「三人」 人前で罰を与えた下士官がそれを恥として縊死してしまったという話
「一等戦闘艦××」 芥川風味で書かれた「艦これ」(ただし人称は男)


戦艦の名称「××」と「△△」は、最初実名でその後検閲されたのかもしれません。

芥川と海軍の縁はこれだけではありません。
機関学校奉職中に結婚した友人の姉の娘、文子の父は、日露戦争で戦死した
塚本善五郎(最終少佐)という海軍軍人でした。

これは海軍機関学校とは関係なく偶然だったようです。

塚本善五郎は旅順港閉塞作戦の時に「初瀬」の艦長でしたが、
ロシア海軍の機雷に触雷して名誉の戦死を遂げています。
芥川が文子と結婚したのは、この15年もあとのことになります。



芥川龍之介は海軍機関学校で教えていた頃から10年後の1927年(昭和2)、
健康状態を悪化させ、致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。

享年37歳。


機関学校の職を「不愉快」と評した芥川でしたが、少なくともこのころ、
芥川が未来を信じ、将来への希望を抱いていたことは確かです。
たとえそれが、成功してここから抜け出すというものであったとしても。


海軍機関学校生徒を前に教鞭をとる毎日は、この剃刀のような感性を持つ
天才にとってさぞ煩わしいものであったでしょうが、後年苛まれ、
それに彼が命ごと飲み込まれる「ぼんやりした不安」を思えば、
これが芥川の最後の平穏な時期だったのかもしれないという気もします。




続く。






キャッスル航空博物館~「ストラト」シリーズ「我敵B29」

2016-03-10 | 航空機

「成層圏の要塞」というタイトルで、ロッキードの「ストラトフォートレス」
という飛行機のあれこれについてお話ししたことがあります。
この「ストラト」は、「成層圏の」という意味があることをこの時に知ったのですが、
ロッキード社の手がけた飛行機にはこの「ストラト」をかぶせたシリーズが
いくつかあり、ここアトウォーターのキャッスル航空博物館にも展示されています。

 まずその一つがこの



C-97ストレトフレイター(Boeing C-97 Stratofreighter)

フレイターというのはズバリそのもので「貨物輸送機」ですから、
ストラトフレイターとは


「成層圏の貨物輸送機」
・・・・・


なんでも成層圏ってつければいいってもんじゃなかろう?とつい突っ込みたくなりますが、
ストラトフォートレスの名前の系譜を受け継いだという関係上仕方ありません。
しかし、シェイプはご覧のようにずんぐりとしてストラトフォートレスとは大違い。

・・・・・・といいたいところですが、実はこの機体、同じく
ボーイングが開発した
B-29戦略爆撃機と基本的に同じなのです。




ちなみにこちら、スーパーフォートレスWB-50D
てるといえば似てますよね。
このB-50がB-29の改良型で、爆撃機より胴体が拡大されていますが、
主翼はほぼB-29と同じとなっています。



おまけでスーパーフォートレス反対側から。



語名称ではB-50スーパーフォートレスですが、なぜか日本語記名では
B-50だけで、「スーパーフォートレス」の名称は使用されていないようです。

B-29と混同するので、こちらはそう呼ばないことに決めてるんでしょうか。

B-50スーパーフォートレスはストラトフレイターより少し後の
(ストラトフレイターは戦争末期に開発された)1947年に運用が始まりました。
なので、実戦に投入されたことは一度もありません。

そのせいなのでしょうか、ノーズペイントも半裸の女性などという
ある意味殺伐としたものでなく、「ニルスと不思議な旅」の挿絵のような(?)
メルヘンちっくな鳥さんが描かれ、そこには

「フライト・オブ・ザ・フェニックス」

という文字が・・・・・・。

・・・いやこれ、どうみてもガチョウなんですけど。


 


もういちどストラトフレイター。

この飛行機を不恰好なものにしているのは、輸送機型に改造されるにあたって、

上下方向におもいっきり拡大されたそのボディ。
恥も外聞もなく容量を大きくすることで輸送積載の拡大を図ったわけです。

これが貨物輸送機であることを示すためか、わざわざ前に
黄色いコンテナのようなものを置いています。



とってつけたような下腹部が、実際にとってつけた部分です。
機体にも記されているように、アメリカ空軍が運用していました。

これだけ思いっきり大きくしたので、2台のトラック、または軽戦車を運ぶこともできましたが、
それでなくても機体が大きくて鈍重なため(やっぱり)
前線には使用されたことがありません。

主に、後方で患者の輸送に使われていたようです。



ちなみにこれがストラトフレイターが飛んでいるところなのですが、

何かに似ているような・・・・・グッピー?



と思ったら、本当にあった(笑)プレグナント・グッピー

うーん。わたしはこの人生でこんな不細工な飛行機を見るのは初めてかもしれない。

かっこ悪い。ひたすらかっこ悪いこのシェイプ、このストラトフレイターを
さらに改造して作られた輸送機で、「おめでたのグッピー」のおなかには
アポロ計画のためのロケット部品を積み込むために、NASAが運用していました。

さらにさらに、怖いもの見せたさでもうひとつお見せしておくと、



いるよね。こんな生物。
グッピーというよりこれはイルカとかクジラの類い?

こちらもNASAの運用のために、プレグナントグッピーをさらに大型にした

スーパーグッピー

こんな短い翼で飛べるの?と思ってしまいますが、そもそもストラトフレイターの頃から
エンジンの強さには定評があるので無問題。
これがどれだけでかいかというと、こんなシェイプなのに全長が43、84m、
B-29より13m大きく全幅が47,625mでこれもB-29より4mも大きい。
飛来するB-29を見て、

「でかい・・・・薄気味悪いくらいでかい」

と言っていた紫電改のタカの久保一飛曹にぜひこの機体の感想を聞いてみたいものである。





B-47ストラトジェット

成層圏のジェット機。
Bー29の後継機として戦略航空集団が導入した戦略爆撃機。
同じストラトでもどうですか。このスマートさは。

と思ったら案の定、この機体の設計に関しては戦時中、ドイツの
後退翼機の情報を手に入れたことから、急遽予定変更して作られたものなんですね。

完成したのは1947年と戦後なのですが、戦闘中に盗んだ他国の情報を
堂々と戦争が終わってから製品化してしまうあたりが、
勝ったのをいいことにやりたい放題のアメリカさんらしいですね。

とにかくこの後退翼を搭載した最初のシェイプは、
それまでのものと比べると
革新的なものだったといえます。



どうよこの画期的なこと。
というか翼無駄に長すぎね?と思うんですけど。



こうして横から見ても、いかに翼の角度が後退しているかがわかります。

 

「成層圏の要塞」というエントリでも、B-52に核を積ませてウロウロさせていた、
という話をしたのですが、ちょうどその頃、冷戦初期のの運用であったため、
この機体も、大重量の核爆弾を搭載することを考慮して設計されました。 

のちに、米露の間で「危ないから核を使うのお互いやめような」という

「核戦争の危険を低減する方策に関する合意書」


を交わすことになるまで、配備が積極的に進められたため、
生産台数は2、032機と大変多くにのぼりました。

Bー29が朝鮮戦争でMiG-15を相手に苦戦したので、
この中途半端さにも関わらず大量投入される結果になったのですが、そのせいで、
1955年から65年にかけての4回にわたっていずれもMiGに撃墜撃破されています。


最後の一機だけが撃破されるも横田基地にかろうじて帰投することができたようです。



ノーズを真下から見たところ。
カメラ用らしい穴が見えていますね。



思いっきり地味な感じのこれは

KC-135ストラトタンカー。

またストラト。「成層圏の油槽機です。とほほ。
その名の通り空中空輸・輸送機。



飛行中。



お仕事中。餌をあげているのはF-16。
F-16に給油できるということはかなり速度も出せるってことですよね。

今ふと考えたのですが、空中給油という方法ができてから、少なくとも飛行機が
燃料切れで墜落するということがなくなったんですよね。
これはコロンブスの卵というか、誰が考えたのか知らないけど凄い。(小並感)



ストラトタンカーのスコードロンマーク。



ここキャッスル空軍基地に昔配備されていたらしく、町の名前「アトウォーター」と
町のシンボルである給水塔が(^◇^;)描かれています。
というか、給水塔がシンボルだなんて、どんだけ何もない街なんだよ。


ボーイング社は終戦時、大型爆撃機増産のために莫大な設備投資を行っていたので、
戦争が終わって喜びに沸くアメリカで今後の不安に怯えていました。

ボーイングに限らず武器会社は似たようなものだったと思うのですが、

とくにボ社は民間より軍に重きを置いてきたので終戦は切実な問題だったのです。

そこで従業員の3分の1を解雇するという業務縮小に加え、
戦争中から開発を進めていたストラトフレイターを元に、
会社を立て直すためにこれを旅客機にし立て直すことにしました。

ところが戦争中軍との商売に力を入れすぎたのが祟り、民間から発注が来ません。
頑張って営業努力を重ねた結果、発注が取れ、ストラトクルーザーと名付けられた
フレイターの改造版旅客機の開発がようやく始まります。


エンジンもB50に使われた4300馬力の強力なものを搭載し、
機体は従来の形を2段重ねして
(つまり中が二階建て)収容能力をアップ。
一階部分にはバーラウンジも設けるなど、飛行機が特別なものだった時代に、
ゴージャスな旅をお約束する旅客機になったのです。
(のちに講和条約に向かう吉田茂や白洲次郎ら全権団がお酒を飲んだところです)

ただ、途中でB-29から設計変更し、エンジンがパワーアップしているのにプロペラが
そのままだったことから、故障などが相次いで信頼性はイマイチだったそうです。



戦後開業した日本航空が、当初のリースを含めて、
ボ社の飛行機を一切使用しなかったのは
(最初のリースはダグラスDC-3)、
ボーイングが日本人の敵B-29を作った会社だったからという説があります。


しかし実際は、ボ社が戦後民間飛行機への転用をうまく行えなかったせいで、
遺恨以前に、単に同社を信頼できなかったというのが本当のところだそうです。


ボーイング社の方も、B-29を改造しただけのストラトクルーザーを

日本人が買ってくれるなんて全く期待していなかったでしょうけど。



 


昭和8年の大演習観艦式〜海軍機関術参考資料室

2016-03-09 | 海軍

本題に入る前に大事なお知らせがあります。

「バーク艦長とトモダチ作戦」で、ネットニュースから拾ってきた情報から

「トムバーク艦長はアーレイ・バーク提督の親戚」と書いたのですが、
これはなんと、米海軍の公式ツィッターで単なる「都市伝説」、
つまり両者は単なる同姓にすぎないとはっきり言明されていたそうです。

あらあら。

それではあの記事はいったいなんだったんだー、ってことになりますが、
とにかく正確を期すべきブログで、”都市伝説”を実しやかに拡散するところでした。
あらためてここで訂正し、お詫び申し上げる次第です。

情報を下さったお節介船屋さん、ありがとうございます。
 


さて。

第2術科学校には、前回お話しした自衛隊創設に関する資料室と、
旧海軍の資料室の二つが、廊下を挟んで向かい合わせに位置しています。
われわれのグループは先に海軍資料室にいたグループと交代しました。

全体の写真を撮るのを忘れてしまったのですが、この資料室には
ガラスケースがぎっしりと並べられ、写真や本、遺品の刀や書などが展示されています。


正式には「海軍機関術参考資料室」といい、海軍機関学校記念事業の一環として

第二術科学校に資料室の設置が行われました。

これらは全国の関係者から寄贈を受けたゆかりの品であり、大変貴重なものです。
展示保管数は約6,300点に上ります。

 

豊田副武書、丹心答聖明」

「たんしんせいめいにこたう」と読みます。
元末期の西域詩人である薩都刺(さつら)の詩が原作で、


“真心をもって、天子の聖徳に答える”

という意味です。

戦艦「大和」の海上特攻となった「天一号作戦」を最終決定したのは、
当時連合艦隊長官であった豊田でした。

連合艦隊参謀神重徳大佐が、参謀長を通さずに直接裁可を仰いだものです。
このときのことを豊田は

「大和を有効に使う方法として計画。
成功率は50%もない。
うまくいったら奇跡。

しかしまだ働けるものを使わねば、多少の成功の算あればと思い決定した」

と語ったそうです。


豊田は終戦時に軍令部部長であったことから、戦犯指名を受けましたが、

ここでもお話ししたことのあるベン・ブルース・ブレークニー、そして
ジョージ・ファーネス弁護人二人の尽力によって無罪判決となっています。



こちら元帥、海軍大将古賀峯一の「竭誠盡敬」
「誠を竭くして敬を盡す」(まことをつくしてけいをつくす)

「竭」も「盡」も尽くすという意味で、真心を尽くして尊敬の念を持つ、
という意味となります。

古賀大将は、1944年、パラオからダバオに飛行艇で移動中に殉職しました。
山本五十六元帥の「海軍甲事件」に対し、こちらを「海軍乙事件」といいます。

戦死ではなく殉職と認定されたことで、古賀は靖国神社には合祀されていません。



ここでわたしが食いついてしまった海軍兵学校のアルバム(笑)

新入生はだめですが、上級学年はタバコを吸っても良かったそうです。

「タバコ盆回せ」とよく聞く?あの煙草盆を囲んで、歓談のひととき。

なぜかこの写真に付けられたキャプションは「低気圧の中心」
???

写真ではよくわかりませんが、もしかしたら外は雨なのでしょうか。

第1術科学校を見学したときに下から覗いて見た階段のところだと思われます。

「明11日午後220より『何々』(読めない)考査」

「9月11日より改正せる授業時間表により教務を実地す 教務副官」

教務本人ではなく、副官の名前でお知らせをしているのがいかにも軍。



この写真のタイトルは「おめかし」(笑)

おめかしも何も、椅子に座れば有無を言わさずバリカンで刈られるだけと思うがどうか。

床屋さんは一人しかいないので、左の生徒は新聞を読んで待っています。
鏡の前で三人がどうやらヒゲを剃っている模様。

「髭剃りは当店では行っておりません。セルフサービスです」




 
説明がないので状況がわからないのですが、セーラー服にはもちろん、
カンカン帽のような帽子のリボンにも、艦名が書かれているようです。

かなり古い時代(おそらく大正時代とか?)の写真みたいですね。



冒頭写真は比叡に天皇陛下がご坐乗されたときのものです。
陛下と将官のところを拡大してみました。 
陸軍の軍人もひとりだけいます。

 

艦橋外側と主砲の上にもびっしりと鈴なりになっている水兵さんたち。
主砲に座っている後ろの人たちもちゃんと顔が映るように乗り出しています。
きっとこの人たちは随分早くからこの体勢のまま待たされていたに違いありません。

やっとシャッターが押され、皆さんホッとしたことでしょう。



進水式のスナップなどもアルバムにして展示してありました。
保存のためにガラスケースに入れられていましたが、できうることならば
手にとって1頁ずつ仔細に見てみたいと切に思いました。

これは、「航空母艦起工式」と説明があるだけで、艦名はわかりませんが、
ハンマーを持っているのが「古市少将」とされています。

これが横須賀海軍工廠の工廠長であった古市竜雄 機関少将だとすれば、
これは古市少将の在任中の1935-37年の間のことになり、
これはこの期間に起工した空母「飛龍」のときのものだとわかります。



「飛龍」進水式の様子。



こちらは特務艦「高崎」の授与式。
「高崎」は給油艦(軽質油運搬艦)として1943年に就役していますので、
「授与式」とは今でいう「引き渡し式」のことだとすれば、この写真は
そのときに撮られたものだと思われます。




 
「高崎」が引き渡し後、初の軍艦旗掲揚を行っているところ。 

就役してからの「高崎」は昭南に向かい、南方で任務に従事しましたが、
翌年の6月、同じ給油艦である「足摺」とともに行動中、米潜水艦に
共に撃沈され、わずか1年4ヶ月で没しました。 

軍艦旗に向かって立つセーラー服の白線が並んでいますが、
ここに写っているうち何人が命永らえることができたのでしょうか。 



ここにはこのような大変貴重な資料が展示されています。

旧海軍用燃料(塊炭)と書かれています。

読んで字の通りこれは炭のカタマリなのですが、これが明治末までは
軍艦の燃料として使用されていたものだそうです。 

塊炭は煤煙が多かったため、無煙炭を含む練炭など、よりよい燃料が開発されて、
これに置き換わっていくことになります。
ここに「その後も艦本式が大小艦艇に装備せられ」とありますが、
「罐」というのは「汽罐」つまりボイラーのことです。

海軍機関科問題が起きたとき、東郷元帥がうっかり「缶焚き風情が」といってしまって、
顰蹙となったということがありましたが、明治時代の戦艦で
石炭をくべていた機関の乗員を「かまたき」と呼んだのは「かま」=罐だからです。



さて、わたしがここの展示の中で特に心惹かれたのはこのコーナー。
昭和8年に行われた大演習観艦式の資料です。

昭和5年、特別大観艦式が神戸沖で行われ、このことと
「火垂るの墓」のツッコミどころを絡めて、ここでもお話ししたことがあります。
(昭和5年に『摩耶』の艦長だった清太の父が終戦時にも同じ船の艦長はありえないとか)

その3年後の昭和8年、横浜沖で行われた観艦式も、その規模は同じくらいのものでした。

昭和8年(1933年) 特別大演習観艦式


とりあえず、このときの映像をご覧ください。



もし現代、8月25日に観艦式なんぞやった日には、熱中症でおそらく
一個連隊くらいの急病人がヘリ搬送されることになるでしょう。
当時は今ほど夏が暑くなかったんですね。

もっとも当時の観艦式は関係者が観閲艦に乗るだけで、今のように一般人、
特に女性などは一切参加することはできなかったと思われますが。

写真は当日の参加者に配られた「観艦式のしおり」と軍艦「高雄」の陪観券。
「陪観」というのは一般的に「身分の高い人に付き添って見物すること」で、
この陪観券の官姓名は岡崎貞伍海軍中将、となっています。

そこで岡崎中将(右下の写真の人物)についてググってみると、
海軍機関学校2期生であり、確かに1924年(大正14)に機関学校長になっていました。
ここに岡崎少将の乗艦券があったのも、その関係でしょう。

ただ、あれっと思ったのは、この観艦式のとき岡崎はもう予備役であること。
一線を退いていても、陪観券の官は「海軍中将」となっていることです。
「予備役」はまだ一応現役の軍人なので階級もそのままってことなんですね。

岡崎中将はこの観艦式に賓客(たぶん宮様)
のエスコート役として
駆り出されたらしい、ということがわかります。


左上の旭日旗は「市電優待乗車券」。
横浜市が発行したもので、桜木町から埠頭までの市電(いまならシャトルバス)
にこれを見せれば無料で乗れたようです。

岡崎少将はこのときの観艦式の資料を一切大事に置いておいたようですが、
このチケットも見せるだけで、あとは持って帰ってよかったんですね。



いまでも自衛艦に乗ると、必ずその名前の由来やスペックを記した
パンフレットがもらえますが、それはこのころからの慣習です。

「高雄」の案内、艦名の由来については

「京都高雄山に因みしものなり」

そして、艦内神社についてもちゃんと、

「高雄山に縁故ある京都護王神社の祭神たる和気清麻呂公を祭祀す」

と書いてあります。
「高雄」は昭和7年、つまりこの観艦式の前年度に就役したばかりの
当時の「最新鋭重巡洋艦」だったため、わざわざ海軍中将が乗り込んで、
賓客に説明を行うということをしたのかと思われます。


この後、ソロモン、マリアナ沖、レイテ海戦と戦い続けて、傷つきながらも
終戦まで生き残った「高雄」でしたが、敗戦となったとき、
「妙高」型のネームシップであった「妙高」とともに自沈処分されています。


余談ですが、「妙高」と「高雄」は、

同一船台(横須賀)で建造され、

同一海戦(レイテ沖)で大破し、


終戦時同じ場所(シンガポール)に居合わせ、


ほぼ同じ地点(マラッカ海峡)で自沈処分される


という超腐れ?縁でした。
どちらもネームシップであったということも縁といえば縁ですね。





字が小さくて見にくいのですが、これが当日の観閲航行図。

お召し艦は「比叡」先導艦「鳥海」に先導されて、「比叡」以下、

「愛宕」「高雄」「摩耶」

の供奉艦が(現代でいうところの観閲部隊)続きます。
その動線が描かれていますが、これを見る限り、このときの観艦式は
現在のように受閲艦艇と観閲艦艇の双方が航行しながら観閲する方法ではなく、
観閲会場(海面)に停泊している艦艇の間を、観閲部隊が通り抜ける形だったようです。

停泊している軍艦の列は全部で7つ。
一番下に「番外列」として、「丸」のつく船、仮装巡洋艦として日露戦争に参加した
「日本丸」や、なんと!「氷川丸」(今横浜にいるあれ)などがならんでいます。
「氷川丸」は昭和5年、3年前に就航したばかりでした。

お召し艦が最初に侵入する第2列には「加賀」「鳳翔」の空母に始まり「青葉」「衣笠」
左手の第3列には戦艦「陸奥」「日向」「榛名」「金剛」が続きます。

では戦艦「長門」は?

「陸奥」と上座下座を決められなかったせいか、「長門」は
お召し艦が最後に通り抜ける第5列の左に「扶桑」「霧島」「伊勢」「足柄」
と並んで観閲されるということになっています。

ところでこれによると、潜水艦は一番端の列に11隻が並んでいたようですが、
2列離れたお召し艦から見えたのかなあ。


あと思ったのは、今の自衛隊が取っている「全艦稼動式観閲式」は
大変技量を要する方法であると言われますが、 これだけの艦船をきっちりと
海上に並べて停泊させ、観閲を受けるというのも大変なのではないでしょうか。


この当時は、「この日は観艦式だから民間船は横浜沖で航行一切まかりならぬ」
の一言ですんでしまったから、その意味では楽だったかもしれませんが。

その後、自分たちの末裔が、観艦式どころか日常の訓練も
民間船に異常に気を遣いながら行い、また自分たちの国が、ひとたび事故が起きれば
マスコミを筆頭に、推定有罪で自国の軍を責め立てるような国になろうとは、
このころの観艦式に参加していた関係者のだれに想像できたでしょうか。



続く。
 


海上自衛隊創設史料室〜海上自衛隊第二術科学校見学

2016-03-07 | 自衛隊

空母「ロナルド・レーガン」見学後、我々の乗ったバスは米軍基地を出て、
渋滞の道を田浦に向かいました。
ここには海上自衛隊第二術科学校があります。

海上自衛隊には第4までの術科学校があり、そのうち1術は江田島にある、
ということはかなり早くから知っていましたが、そもそもそれらが
どのような役割分担なのかはあまり考えずに生きてきました。
(自衛隊に関係ない人なら普通そうですよね)

第1術科学校 江田島 水上艦艇術科教育
第2術科学校 横須賀 機関や語学等の教育
第3術科学校 下総 航空機関連教育
第4術科学校 舞鶴 業務管理や補給等の教育

と、こうやって書き出してみて初めてそうだったんだと知るわけですが(笑)

海軍兵学校は、明治の頃、東京の築地にありました。
しかし、士官教育はすべからく青少年の誘惑がない人里離れた地で行うべし、
ということになり、広島県江田島が選ばれたという経緯があります。

「江田島に行かれたことがある方はご存知でしょうけど、
あそこは今でも誘惑どころか本当に何も!ありません」

我々を案内して展示の説明をしてくれた自衛官はこういって皆を笑わせました。

ここには築地から移転してきた水雷術練習所が明治12年からあり、
明治40年にはそれが海軍水雷学校となりました。
昭和20年、終戦とともに水雷学校は閉校されますが、7年後、
この地で海上保安庁海上警備隊がここ田浦で創設されます。

そう、ここ田浦は海上自衛隊創設の地なんですね。



言ってはなんですが、まるで書き割りのように愛想のない
無機質な建物ばかり、というのがバスで入って行くときに受けた印象です。
海上自衛隊創設の歴史の地というのにこれは一体・・・。 

後から知ったところによると、敷地の一隅に、「歴史保存エリア」として

海上自衛隊発祥乃地記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍水雷学校跡の碑

などがまとめて展示してあるのだそうですが、それにしても・・。
江田島はもちろんのこと、舞鶴や横須賀海軍基地のような、
歴史的建造物がないから、というのが理由だとはわかっていますが・・。



ここにまた新しく建物を作る予定のようですね。

構内は石を投げたら当たるくらい(投げませんが)、そこここに
ランニングしている自衛官がいました。
このように集団で走っていたり、一人だったり、二人で仲良くだったり。

定期的に体力測定があるので、自衛官たちは自主的に体を動かすのが
当たり前のこととなっているんですね。

比較的入り口に近いところに、冒頭写真の校舎(っていうの?)があり、
バスから降りて皆中に案内されました。



ロビーに飾ってあった「くらま」模型。
観艦式では旗艦を務めた「くらま」も、もう引退です。



こちら護衛艦「いしかり」。
三井造船玉野で建造された同型艦のない護衛艦で、2007年に退役しました。
調べたら、武井智久現海幕長が1997年から艦長を務めていたそうです。



確か資料室があったのは2階だったと思うのですが、階段を上ると
このペンギンの親子(いや、どっちも成鳥か)がお出迎えしてくれました。

「ロナルド・レーガン」でブロンズのレーガンご本尊を2体拝んできたばかりですが、
大きさだけはこのペンギンも負けていませんでした。
てかこんなもの一体どこに置いてあったんだろう。

この大小のペンギン、砕氷艦「しらせ」にマスコットとして乗り組み、
「しらせ」の除籍後は、「本校に入校」したという歴戦のつわもので、
現在はこうやってここで自衛官募集の仕事をしているというわけです。

小さなペンギンの帽子はここに来てから作ってもらったのでしょう。
南極にあって、彼らは隊員と観測員の心を和ませ
、あるときには
憂さ晴らしの対象として(かどうか知りませんが)無聊を慰めてきました。




専用の設置台まで製作された、南極の石。
昭和基地から600キロ離れたところにあるエンダービーランド。
ここには40億年前に形成された石が露出するのですが、なんと「しらせ」、
これを採取し持ってきて、ここに飾っております。

なんと地球が誕生して間もない頃を知る資料となりうるというのですが、
この岩肌、見ているだけで只者でないオーラが漂っていますね。
これが、地球最古の石か・・・。




さて、またしても一行はふたグループに分かれ、我々は先に

海上自衛隊創設資料室を見学することになりました。

海上自衛隊創設の資料を一堂に展示しているのはここだけで、
なんとなればここは「始まりの地」だからです。

自衛隊創設60周年記念事業の一環として平成24年4月オープンしました。



海軍は終戦とともに消滅しました。
海軍軍人たちは公職追放に遭い、かつての将官ですらつるはしをふるったり、
運転手をして糊口を凌ぎましたが、海軍省の代わりに残された、
旧海軍の復員業務を行う「第2復員省」には、旧海軍軍人が多く配置されました。
この写真に写っているスーツ姿の男性はほとんどが旧海軍軍人です。



もしかしたら、米内光政という海軍軍人がいなければ、海上自衛隊の創設は
また違った形を迎えていたのかもしれません。
終戦時海軍大臣だった米内は、保科善次郎軍務局長を呼び、ここですでに
海軍の再建を要望したのでした。
この時、米内が保科に言ったとされるのは次のようなことでした。

「第一に、連合国側もまさか日本の軍備を永く完全に永く完全に
撤廃させておくとは言わないだろう。陸海軍の再建を考えろ。
海軍の再建に関してはほぼ日露戦争当時の30万トンか」

「第二が、海軍の持っていた技術を日本の復興に役立てる道を講じろ」

「第三が、海軍には随分優秀な人材が集まり、その組織と伝統とは
日本でも最も優れたものの一つであった。
先輩たちがどうやってこの伝統を築き上げたか、それを後世に伝え残して欲しい」


保科軍務局長は米軍に多くの知己を持つ野村吉三郎元海軍大将に
そのことを請願し、快諾を得ています。

以後、海軍再建計画は、旧海軍残務処理機関の中で密かに進行していきました。

保科の右の山本義雄元海軍少将、そして吉田英三元大佐は、その実務を行い、
海軍再建に大きな功績を残した旧軍軍人です。

当初、海軍の再建には100年かかる、という意見もありました。
しかし100年間の間に、旧軍経験者など誰も残らなくなってしまいます。
できるだけそれを短い時間で成し遂げねば・・・・。



新憲法施行の翌年、元山本善雄海軍少将を責任者、吉田元大佐を中心とした
再軍備の研究グループが結成され、海の再建に向けて極秘のうちに研究が始められました。

折しも昭和21年、朝鮮半島でコレラが発生し、このために大量の不法入国者が
海上から日本に入り込む、という事態になりました。
(今現在日本にいる朝鮮系民族の何割かは、この時の不法入国によるものということです)

これを防ぐため、不法入国船舶監視部が設置され、2年後にそれが海上保安庁となります。




そのうち、彼ら旧海軍軍人も予想していなかった事態が起こります。
朝鮮戦争の勃発でした。
GHQは日本に進駐していたアメリカ軍を朝鮮戦争に投入することにしたため、「
その代わりとして、陸上自衛隊の前身、警察予備隊を創設する決定をしました。

写真下は1950年8月、任官して初めての朝礼を行う警察予備隊隊員たちです。




当時、「Y委員会」なるものがありました。

山本、吉田を含む旧海軍軍人、野村が話を通したアメリカ海軍、そして

コーストガードの軍人からなるこの委員会は、極秘で海軍再建のために活動をしていました。
海軍再建の際の表向きの目的は

「米軍貸与のフリゲート艦を全能発揮させること」


この写真はY委員会のメンバーを写した、たった一枚の貴重な写真だそうです。

このメンバーには、すでに創設されていた海保の職員もいましたが、
その後、海上警備隊発足に伴い
総監部が設置された時には、旧海軍と海保の間で
どちらがトップに立つかで激しい人事抗争が起こり、その後も、
課長級人事などにおいて、両者の間で争いが生まれたということです。




海上自衛隊創設に大きな働きをしたビッグネーム。
海軍大将アーレイ・バークについては、すでにお話ししましたね。

元海軍大将であり、開戦時の駐米大使であった野村吉三郎も、
海軍再建のために戦後、その晩年を捧げました。
海上自衛隊の生みの親はだれか、というなら、野村とバークの二人でしょう。
Y委員会は野村が調整し、バークの後押しで生まれたのです。

野村はまず米軍司令官と話をし、(同じ海軍のよしみで)、その後
ダレス特使に資料を提出するという戦略的な道筋をつけました。

一番右はY委員会の写真にも顔が見える(突き当たり左)山崎小五郎。
彼は海軍軍人ではなく官僚出身ですが、初代海幕長となりました。



開戦時の駐米大使であった野村が当時を回顧して残した著書。



昭和24年までにアメリカ海軍の掃海隊は全て引き上げました。
深刻な問題となっていた日本近海に敷設された機雷機雷の処分は
実質日本側が行うことになり、専門知識を有する旧海軍軍人が公職追放を解かれ、
海に復帰して処分業務を実地することになりました。

「海軍は一旦消滅しましたが、掃海隊は、実質解体されていないまま
現在に至っている唯一の部隊なのです」

案内の自衛官がこう言いました。

朝鮮戦争が勃発すると、掃海隊は極秘裏に海外派遣されます。
この時の名称は「海上保安庁特別掃海隊」とされていました。

この写真は、1950年、和泉灘で行われた掃海部隊天覧越艇式のもの。



昭和24年5月23日、下関付近で触雷し沈没する掃海艇。
死傷者を出しての国際貢献活動であったわけですが、極秘である筈のこの作戦の内容は
ソ連や中国から、これらと関係の深い社会党と共産党に提供され、
当時の国会で、このことが吉田茂首相への攻撃材料となっています。




誰がいつ作ったのか、昭和33年当時の第2術科学校。
3月22日、2術は術科学校横須賀分校から改称し、ここに開校となります。



戦後旧海軍の用地は全て米軍に接収されていましたが、米軍が使わないところは
「旧軍港市転換法」により民間が使用していました。
田浦を使用していた民間企業は旧軍と関係の深い会社であったため、
Y委員会が
調整したところ、明け渡しを快諾してくれたということです。



田浦で、内火艇から艦船に乗り込む最初の隊員たち。
晴れやかな笑顔です。



艦船が並ぶ田浦。
これが米軍から貸与されたものなのか、国産のものなのかはわかりませんでした。




「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、
もつて国民の負託にこたえることを・・・・・」

自衛官の「服務の宣誓」が史上初めて行われた瞬間です。
1954年、6月2日、ここ田浦でのことでした。



昭和28年10月15日から12月4日まで、第一船隊群本州周航記念。
「うめ」「くす」「なら」「かし」「さくら」「すぎ」「かや」「まつ」「にれ」

うーんなんたる雑木林。
これが戦後初めて日本がもった「艦隊」(当時は船隊)でした。
指揮官は警備官監補、吉田英三。



現在の海上自衛隊旗を考案したのは米内光政の親戚である米内穂豊画伯でした。
画伯に依頼されたのは旭光をモチーフにした新たな旗でしたが、
提出されたのは帝国海軍の軍艦旗そのもの。

米内画伯いわく、

「旧海軍の軍艦旗は、黄金分割による形状、日章の大きさ、位置、

光線の配合等実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがありません。 
それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚描き上げました。
これがお気に召さなければご辞退いたします。

ご迷惑をおかけして済みませんが、画家の良心が許しませんので」 

最終的な判断は吉田首相に委ねられました。
吉田首相は、

「世界中で、この旗を知らない国はない。
どこの海に在っても日本の艦であることが一目瞭然で誠に結構だ。
旧海軍の良い伝統を受け継いで、海国日本の護りをしっかりやってもらいたい」 

と述べ、この旗を自衛隊のシンボルとすることを決めたそうです。



海上自衛隊創設20周年記念に発売されたアルバム「海の歌声」。
御幸浜で演奏している自衛隊音楽隊の写真がジャケットになっています。



第2術科学校、39年頃の学生のノート。
方位測定の誤差式などが几帳面な字できっちりと書き込まれています。



第2術科学校創設当時の授業風景。
内燃実習やボイラの燃焼ガス測定実習など。



川崎重工が製作したガスタービンエンジン主機。
ずいぶんきれいですが、レプリカは本物か見当もつきません。



警備隊は当初、艦艇の殆どがアメリカから供与されたPFやLSSLで、
旧式艦(つまりお下がり)ばかりでした。
新型艦の必要性に迫られた警備隊は、甲型警備艦(DD)を2隻、
乙型警備艦(DE)を3隻、いずれも国産で調達することにしました。
こうして建造された甲型警備艦がはるかぜ型護衛艦であり、
乙型警備艦としてはいかづち型護衛艦、そしてこの「あけぼの」でした。

「いなづま」と衝突事故を起こしたことを一度ここでも書いたことがあります。

ちなみに、戦後初めて退役し、最初に「廃棄処分」になったのは「あけぼの」です。



女性自衛官等の子育ての支援を目的に、平成22年、海上自衛隊としては初めて、
第二術科学校に託児所が設置されました。全国では3件目となります。
当直や緊急出港などがあっても、24時間365日対応可能な託児所です。 



なぜか資料館内に展示してあった限定チョコクランチ。
購入できるものならしたかったのですが、そもそもここでは
売店に行く時間などは一切なく、涙を飲みました。

一般公開などの機会があればぜひ試してみたいものです。



続く。






バーク艦長と「トモダチ」作戦〜空母「ロナルド・レーガン」見学

2016-03-06 | 軍艦

空母艦内にあった「ロナルド・レーガンルーム」について語ることで、
わたし自身あらためてこの大統領について知ることになりました。

大統領としての手腕もさることながら、ウィットに富んだ言動や茶目っ気が
全米を魅了して、大統領選での勝利を手にしたレーガンですが、
二期を務めた大統領時代も、この人気は変わることがありませんでした。

我が日本でも、一時の小泉首相の人気は大変なもので、マスコミは
「小泉劇場」などという言葉で表現したりしていましたが、どこかこれも
レーガン人気に似たところがあったような気がします。


「政策の失敗やスキャンダルなどでいくらホワイトハウスが叩かれても、
レーガンの比較的高い支持率は決して急落することがなかったのも、
こうしたレーガンの「憎めない人柄」に拠るところがきわめて大きかった。」
wiki

1999年にC-SPANで行われた世論調査によると、

  1. エイブラハム・リンカーン
  2. ジョージ・ワシントン
  3. セオドア・ルーズベルト
  4. フランクリン・ルーズベルト
  5. トーマス・ジェファーソン
  6. ロナルド・レーガン

と堂々の6位に入っていますし、2000年のABCの調査では
リンカーン、ケネディ、ルーズベルトに続く4位なしの5位。
2007年のラスムッセン調査では9位に止まりましたが、
2005年のワシントン大学の調査ではリンカーンに次ぐ2位、
2007年のギャラップの調査でも全く同じ結果となっています。

我々が思う以上にアメリカ人から愛された大統領だったみたいですね。


ところで、その大統領の名前をいただいた空母、「ロナルド・レーガン」。
わたしたち日本人にとって、その名は特に忘れられないものです。

2011年3月11日。
未曾有の大地震が東北地方を襲った日、空母「ロナルド・レーガン」 は、
「ロナルド・レーガン空母打撃群」の旗艦として西太平洋を航行中でした。
災害の大きさを重く見た在日米軍が翌日の12日から展開した「トモダチ作戦」、
オペレーション「トモダチ」に参加すべく、RR空母打撃群は、予定されていた
米韓合同演習を中止して本州東海岸域に展開し、海自との連携をはかりました。




このときに「ロナルド・レーガン」の艦長だったのは、
戦後自衛隊発祥の大恩人、アーレイ・バーク提督と奇しくも同姓のトム・バーク大佐でした。 
(一部両者に親戚関係があるという噂もあるようですが、事実ではありません)

バーク艦長は災害の知らせを受けると、災害救助支援の司令を待たずに
東北方面に向かった、とのちの記者会見で説明しています。

アメリカ領事館のHPによると、空母「ロナルド・レーガン」は他の米艦船ともに

13日早朝に現地に到着してすぐに、被災地上空に航空機を飛ばして
生存者の捜索と支援物資の運搬を開始しています。

同艦の将兵すべてが救助・救援活動に携わり、空母艦載の戦闘機さえも
生存者の捜索や救援物資の輸送が必要な場所の確認作業に使用されました。
乗組員たちは私物の毛布やジャケットを被災者の防寒のために提供し、
なかには震災ですべてを失った子どもにあげたいと
クマのぬいぐるみを差し出した兵士もいたということです。

他の米空母艦長の例に漏れず、バーク艦長はヘリパイロットでもありました。
被災地では自らの操縦で視察を行い、被災地の惨状を見て心を傷め、一方で
日本人の落ち着いた行動と助け合いの姿勢に深い感銘を受けた、と語っています。


バーク艦長はまた、自衛隊の勇敢で献身的な貢献を讃え、
米軍と自衛隊が効果的な協調・協力が行えたことを強調しました。

と こ ろ が (笑)

この米軍の支援を、一貫して日本の腐れサヨク新聞(特に沖縄の)は


「米軍は災害支援を理由に現施設規模を維持する必要性を主張している」

「震災の政治利用は厳に慎むべきだ」

「ことさらに在日米軍基地の重要性を強調し、日米軍事協力の深化を求める動き」

「被災地支援のための出動を日本に米軍が駐留する根拠としてアピールしている」

などと非難していたそうです。
ときの政府であった民主党ですら、
北澤防衛大臣(当時)がRRに乗艦して
謝意を述べ、乗員から寄せ書きをもらっていたというのに・・・。

いうまでもなく、当時、どれだけ多くの日本国民が「トモダチ作戦」に勇気づけられ、
感謝の涙を流したかははかりしれません。

「ジョージ・ワシントン」の日本での任期が切れてアメリカに帰ることになったとき、
「トモダチ作戦」で日本国民から熱狂的に受け入れられたRRが後任に選ばれたのは、
必然的とも言える流れだったのではないでしょうか。

去年の観艦式のときに「くらま」からヘリでRRに座乗した安倍首相は、
その前に行われた訓示で、あたかも「ロナルド・レーガン」の乗員に語りかけるように
「トモダチ作戦」への感謝を丁重に述べ、「日本へようこそ!」と結びました。


ところでRRの乗員が「正確な放射能災害の情報が得られず被曝した」として

東電を訴えたという話、あれどうなったのかな。




いよいよ舷門から外に出るときににこやかに見送ってくれた隊員。
あなたも「トモダチ作戦」に参加してくれていたのですか。



なだらかな傾斜になったラッタルを歩いて、岸壁に着いたら階段を降ります。
女性の参加者もちらほらいましたが、中には元海上自衛隊員という方が
連れてきた(おそらく通っている)スポーツクラブのインストラクター、
というお嬢さんたちがいました。

もちろん彼女たちには、見るもの聞くもの全てが初めてのことばかりだったようで、
それだけにとても印象深い体験となった、と懇親会でスピーチしていました。



我々を待つバスの向こうにも、プレハブハウスが立ち並んでいました。
乗るときは全く気にもとめませんでした。
プレハブの階段を上ろうとしているのは海軍迷彩を着ていますね。
艦内が補修中で外に泊らなければならない乗員もいるのでしょうか。



反対側のクレーンはどこまでも高くまっすぐに屹立。



全員が退出し終わるまでに結構時間がかかりました。
確かツァー参加定員は40名だったような気がします。



RR側から岸壁を撮ってみました。
向こうに「アンソニーズ・ピザ」と書かれたトラックが見えます。

ニューヨークではオフィスワーカーがお昼休みに出てきて、車のまえのフェンスに

座って、タコスやピザ、ホットドッグを食べる光景が良く見られましたが、
ああいった屋台車?かもしれません。

基地の中だけで十分仕事になるんですね。



第1グループは白い会ボーイハット型のヘルメットをかぶった広報官が
案内していたようです。
すっかり仲良くなって談笑する参加者。(この人も元海上自衛隊)



ここで改めて岸壁側の補修工事現場をみてみましょう。
こちらで修理していたのは艦載エレベーターでした。
今停止している部分がハンガーデッキの階になります。

お、クレーンはKATOですね。



皆が揃うのを待っている間、することがないのでスマホで写真を撮ったりとか。



もはや芸術的(ただし現代美術)と言えるほど混沌とした
補修工事中の「ロナルド・レーガン」舷側。
全てのノズルというノズルから管がこちら側とつながっています。
蒸気が出ているのはなんでしょうか。



制服を着ていない隊員が外出から帰ってきたのか階段を登っていきます。
階段の下にある緑のカバーをかけたものは、下部にたくさんの電球があり、
昼間なのにそれが全部点灯しています。
小さく「危険」と書かれた注意書きも見えますが、これはなんでしょうか。



カウボーイ・ヘルメットの広報官は、皆に挨拶をして帰っていきます。
一旦別れを告げたあとは、日本人がするように振り返ったりはしませんでした。
なんというか実にドライでクールです。



バスは「ロナルド・レーガン」前から退出し、出口に移動していきます。
場内を歩いている人もたくさんいますが、広いので自転車が便利。
アメリカ本土と違って、ここでは自転車を盗まれる心配はないので
バーにチェーンをかけたりする必要はありません。 

ここでこういうのになれてしまうと、帰国した時、うっかりチェーンをかけずにいて
帰ってきたら自転車が影も形もなくなったていたりするんだろうな。



お揃いの大きなバックパックを背負って構内を歩く女性軍人。
ちなみに、RRの乗組員であれば、彼女らも1日12時間、週7日勤務のはず。



えーと、これも船?



構内だけで営業しているハイヤー発見。

この向こうに見えているのさっきの船ですが、どう見ても建物です。



ここにいるのは軍人だけではありません。
基地内で仕事をしている人、外からやってくる関係者、軍人の家族。
RRのなかだけでもそこは一つの町ですが、この広大な基地全体が、
日本の中のアメリカなのです。



いかにもアメリカだなーと思ってしまった光景。
なべてアメリカ人はどんなパーキングでも車を頭から入れます。
基本駐車場の通路が広いので、頭から入れることはそう難しくありません。
わたしも郷に入れば郷に従って、アメリカにいるときには前向きに駐車しますが、
少しでも狭いとバックの方が楽なのでそうします。
ただ、ここもそうですが、日本のように駐車スペースが進行方向に直角ではなく、

斜めに書かれていることが多く、そのときには前向きにしか駐車できません。
(一台むりやりバックで入れている車がありますが、これは多分日本人)

ちなみに、アメリカ人は車庫入れ苦手だと日本人は根拠なく思っていますが、

バック駐車をしないだけで、縦列駐車などは普通に皆うまいです。
どちらもで運転してみて思ったのは、やっぱりアメリカ人の方が
車が手足になっているだけあって、運転が大胆というか荒いですね。

特にニューヨーク近郊では時速100キロで走行していたら皆が抜いていきます。



スクールバス発見!
向こうで見るスクールバスとは車種が違うのでなんか変な感じですが。
基地の中には幼稚園から高校まで各種学校が整っています。

アメリカの法律では、スクールバスが路上で停まってハザードをつけていたら、

どちらの車線であっても、停止してその間待たなくてはいけません。
その間、バスはこの写真にも見えている赤い「ストップ」の札を垂直に立てます。

ボストンでこれに違反して捕まっている車を目撃したことがあります。



というわけで、大きな錨のあるゲートにたどり着きました。
ここで同乗していた男性と女性の添乗員はさようならです。

空母というアメリカの科学の結晶の片鱗を垣間見て、
この大国の力というのはまだまだ当分世界一の座にあるのだろうな、
と思った横須賀米海軍基地訪問でした。

さて、このあと我々を乗せたバスは、我が海上自衛隊の第2術科学校に向かいました。


続く。

 

 

 
 

ロナルド・レーガンルーム〜空母「ロナルド・レーガン」見学

2016-03-05 | 軍艦

艦内の売店で買い物をする時間を設けたら、たいへんな時間がかかってしまい、
先導の防衛団体事務局の方が、次の予定(第2術科学校資料室)に
遅れるぅ〜!と焦っておられるのを横で見ていたわたしです。

ほとんど全員が何かしら買い物したのと、日頃キャッシュを扱い慣れない
売店「フライング・ダッチマン」の従業員の手際が悪く、
なかなか列を捌ききれなかったのが敗因だったと言えましょう。

ようやく全員が揃ってハンガーデッキ階に上がり、最初に集合した
「ロナルドご本尊の間」に帰ってきました。
一行は艦内を見学するのに半分ずつに分かれ、最初の広報官が
第1グループを案内していたのですが、わたしたちがここに帰ってきたとき、
第1グループと交代して、「レーガンルーム」を見学しました。



さすが空母、ハンガーデッキ階の一室に、メモリアルルームがあります。

「わたし個人の考えですが、ここの記念館は、全米で最も良いものだと思います」

解説のために同行していたアジア系の乗組員がこう言いました。
それが「レーガン大統領のものとしては」なのか、「軍艦の展示としては」
なのか、うっかり聞きそこなってしまいましたが、いずれにしても
それだけ充実しているということが言いたかったようです。



第40代大統領、ロナルド・レーガンは1911年、イリノイ州タンピコに生まれました。
若い頃からスポーツマンであったレーガンは、大統領選のときも
常にフェアな戦いを貫いた、と書かれています。

彼はライフガードを7年間していましたが、救助した人数は77人だったそうです。

「そのうち9人はお礼を言わなかった」

と大統領になってからジョークのつもりかそれとも根に持っていたのか、
こう言っていたそうですが、身に覚えのある人はひやっとしたかもしれません。


若い日、彼はシカゴ・カブス専属のアナウンサーとして野球の実況ををしていました。
写真左はWHOラジオで実況中のレーガン。(1934-37)
この頃の実況放送というのは、試合を見ながらではなく、紙テープに印字された
自動受信機に刻々と送られてくる試合の輪郭をもとに、アナウンサーが
自らの想像としゃべくりの才能だけで実況放送を行っていたそうですが、
アドリブの利くレーガンのスピーチのうまさはここで培われたようです。



レーガンの父は普通のサラリーマンでした。
かれは後年両親についてこう言っています。


「父からは勤労の尊さと、希望を持つこと、母からは祈ることの大事さ、
夢をいかに持つかと、それが叶うと信じることを教えてもらった」



小学校3年生のとき。
クラスの中でも美少女っぽいのに囲まれて、アゴにこぶしを当てているのがレーガン。



1914年ごろ撮られた家族の写真。
この資料館の説明には、左から二番目がロナルド、とありましたが、
レーガンは次男だったので右側がロナルドの間違いです。

だいたい、この写真を見ても小さい方がロナルドの顔してますよね?



そして映画スター時代のレーガンについてのコーナー。
白黒映画が放映されていました。



やっぱり映画俳優になるだけのことはあって男前である。




レーガン主演の映画のポスター各種。
しかし、見事なくらい知っている映画がないし(笑)

映画俳優としてレーガンは19本の映画に出演しました。
「風とともに去りぬ」のオーディションを受けて落ちたこともあるそうです。
(もちろんアシュレ役・・・・ですよね?まさかレット・バトラー?)

俳優としては超一流というほどではなく、出演した映画も
彼がここで言っているように、ちゃっちゃと仕上げて週末に
放映するようなお手軽な娯楽作品が多かったようです。

むしろ彼はその弁舌をふるって俳優協会の組合活動を仕切ることに夢中になり、
この辺りから「政治家レーガン」の一歩が始まります。



俳優になる前に陸軍予備役将校になっていたレーガン、
1941年の開戦後、召集されたのですが、視力が弱かったため
航空群の映画部隊に配属(適材適所?)され、プロバガンダ映画を製作し
ナレーションを担当、終戦時にはハリウッドにいながら大尉にまでなっています。



政治家としてのレーガンは一貫して反共で保守でした。
当時映画界に吹き荒れたレッドパージ(マッカーシズム)にも手を貸しています。
自分は映画界の労組?だったというのにちょっと不思議ですが、
政治家としての信念をここで定め方向転換をしたということでしょうか(適当)

テレビでの司会の仕事が多く、顔が売れていたレーガンは
選挙運動をする必要もなくあっさりとフロリダ州知事に就任。

知事としては結構フリーダムというか、自由主義を貫き、

「バイクに乗る時には危険なのはわかっているのだから、
別にヘルメットをかぶれなどという法律は必要ない」

としてこれをやめさせたりしています。
これを自由というのならそうなんでしょうけど(笑)

写真にもありますが、レーガンはカリフォルニア州知事も務めました。



そしてその後皆様もご存知の通り、ロナルド・レーガンは
第40代合衆国大統領に就任。
現職だったジミー・カーター大統領を破っての当選でした。



みなさん、この左の人ご存知ですか?
「頭にシミのある施政者を戴くとソ連は崩壊する」とある預言者がいったという、
ミハエル・ゴルバチョフ書記長です。
これは、反ゴルビー派から出た、警告のつもりの言葉でもあったわけですが、
今考えれば
この預言者の言ったことは怖いくらいに当たっていたことになります。

この写真の二人は、米ソの冷戦終結を意味する、中距離核戦力
Intermediate-range Nuclear Forces、INF)の全廃条約に署名しています。




ソ連が崩壊する前にまずベルリンの壁が崩壊しました。
東欧諸国の革命の流れはもはやとどまるところを知らず、
チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニアが民主化を果たします。

これらの動きには「レーガン・ドクトリン」が起動力となっていたことは
歴史が証明するところです。



このときのレーガン曰く「ゴルバチョフさん、壁を壊してください」。
「壁を壊せ」というレーガンの言葉は、のちに実現します。




ベルリンの壁崩壊後、レーガンがブランデンブルグ門で行った
歴史的演説の原稿(レプリカ)。



スピーチトレーナーによる書き込みが残ったままです。



”わたしは子供達のために、我々がこの最悪な軍拡戦争を回避する
何らかの方法を見出すことを希望しています。
我々がやらなければ、アメリカがそれを放棄することはないと保証します”

ベルリンの壁が崩壊してから2年後、ソ連は崩壊し、事実上冷戦は終了しました。



レーガンの外交政策は彼の気さくな性格を表したものでした。
歴代大統領と(大統領選を戦ったカーターとも)仲よさそうなレーガン、
マーガレット・サッチャー英首相、ローマ法王、マザーテレサ。

西側諸国の首脳との関係はとても良く、実家の農場に彼らを招待し、
ファーストネームで呼び合うなど、レーガンの本領発揮でした。
そして・・・、



我が先帝陛下と並んだロナルド・レーガン夫妻。
これはレーガン最初の訪日のときの写真です。

このとき明治神宮で流鏑馬を見たレーガンは、映画俳優としての血が
騒いだのか、「自分もやりたい」と言い出して周りを困らせたそうです。



「ディア・セクレタリー・ミヒャエル・ゴルバチョフ」

で始まるゴルバチョフ大統領への手紙。



先日レーガンが自分のことを「ダッチマン」と呼ばれたい人であった、という話で
「それならロン・ヤス外交はどうなる」と書いたばかりですが、その中曽根さんと。

「ロナルド・レーガンルーム」のこの「ロン・ヤス外交」コーナーは、
日本に「ロナルド・レーガン」が着任することが

決まってから、改めて内容を充実させてくれたのだそうです。

ただしこれを見ることができた日本人が今までどれくらいいるのかは謎です。
観艦式のとき、もちろん安倍首相は見たんだろうと思います。



中曽根首相の頃、アメリカとの間に「貿易摩擦」がありました。
アメリカは日本に対して大変厳しい経済政策を取っていましたが、
(車会社のトップスリーがみんなでやってきて車買えといったりとか)
西側で安定した民主主義国家である日本が、反共の重要な拠点であることを
レーガンは重く見、安全保障を充実させていきます。



いうなれば、ソ連を崩壊させたのは他ならぬレーガンでした。
最初に「アクシス・オブ・イーブル」(悪の枢軸)呼ばわりして、その後ソ連と
「力による平和」と呼ばれる一連の外交戦略で、真っ向から戦う道を選んだレーガンは、
一貫して、アメリカが「強い国」であることを強調しました。
この国に手を出せるなら出してみるがいい、と言ったところです。

あれ?安倍さんの”積極的平和主義”って、つまりこれの穏健版?)

「スターウォーズ計画」で軍拡ならぬ宇宙計画による競争を仕掛け、
ソ連を疲弊させる、というのもレーガン政権が発案した作戦でした。


人種差別政策にも積極的で、1988年には戦後長らく懸案の課題だった
第2次世界大戦中の日系アメリカ人の強制収容に対して、謝罪と、

1人当たり20,000ドルの損害賠償を行っています。



ナンシー夫人は、女優だった最初の夫人と離婚後再婚した2度目の妻です。
女優出身ということで最初は叩かれたそうですが、あえてボロをまとって
「セカンドハンド・ローズ」(リサイクルショップに生まれた女の子の嘆き歌)
を歌ったりして、堅実さをアピールし、それは成功したようです。

レーガンが病に倒れてからは彼女が代理として儀式などに出席しています。
2016年現在、94歳でまだご存命です。


このパネル右下に、1981年に起きた大統領襲撃事件の説明があります。

このときレーガンは大統領に就任してまだ2ヶ月目でした。
心臓すれすれの肺に被弾したのに意識は確かで、手術前には医師に

「君たちが共和党員であることを祈るよ」

と冗談をかました(医者は民主党員だったが”今日は共和党員です”と返した)そうです。



そして、2001年、ニミッツ級空母の第9番艦に、「ロナルド・レーガン」という
名前が付けられました。
本人が生存中に付けられた海軍軍艦としては、合衆国で三番目の空母となります。

レーガンは引退後アルツハイマーを発症していましたが、この頃自宅で転び、
寝たきり状態だったので、命名もナンシー夫人が行い、その2年後の就役にも
本人が立ち会うことはありませんでした。

空母「ロナルド・レーガン」が就役するのと入れ替わるように、
レーガンは家族に見守られながら自宅で世を去っています。



ここには本日お話ししてきたレーガンの功績が書かれています。
レーガンがアルツハイマーを国民に告白したとき、その手紙の

I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life.

わたしは今、わたしの人生の黄昏に至る旅に出かけます。

という部分は多くの人々に感銘を与えたそうです。


続く。

 


「彷徨えるオランダ人」の謎~空母「ロナルド・レーガン」見学

2016-03-04 | 軍艦

Pilothouseとアメリカ人が言うところの艦橋を見学したあと、
我々一行はまた来た道をひたすら下・・・一気にハンガーデッキの下、
売店とか食堂のある階まで降りていくことになりました。 

しかし、この日艦橋を見学してオモタのですが、やっぱりアメリカ海軍は
同盟国とはいっても、日本は所詮他の国、と思ってるっぽい。
昨年秋にRRが公開されたとき、あまりにたくさんの人が詰めかけてしまい、
さしもの広い甲板にも到底人が乗らなくなって、米海軍からは早々に
見学オワリ\(^o^)/のご案内が出てしまったそうですね。

そのときには米海軍前から歩道沿いにヴェルニー公園まで列ができていたとか・・。

その日、朝6時くらいから並んでRRに入ることができ、
ハンガーデッキから艦載機エレベーターでごおおおお!とばかりに
甲板レベルに上がることのできたこの日の見学者、実に羨ましい限りですが、
どこにも艦橋や内部の写真が出てこないところを見ると、
見学できたのはハンガーデッキと甲板のみだったってことですよね?

RRで動画検索すると、アメリカでは普通に艦橋を公開して、
おっちゃんが司令官の椅子に座って得意になって写真を撮り、
「あんた10歳児か」などとからかわれているのが出てきたりします。

USS Ronald Reagan CVN-76 US Aircraft Carrier Tour by Tony Perri, SurfsUpStudios.com


まあアメリカでは日本のように何キロもの列ができたりしないからでしょうけど、
わたくしの所属する地球防衛協会(仮名)だって、元陸幕長や元海幕長が名を連ね、
防衛大臣も年始には
挨拶に来るちゃんとした団体なのに、艦橋は無人状態、
あとで稼働時の映像と比べてみると、
どうやら操舵システムなどもメンテ中。
言うたら仏作って魂入れずの状態?


いずれにしても、かつての敵国人に見せたげるんだからこれくらいで勘弁ね?
みたいなかすかな投げやりさを感じないでもありませんでした。

何が言いたいかというと、軍艦というモノの性質上その待遇においてU.S. Citizenと
NON U.S.の間には、万里の長城(不適切?)並みの隔たりがあるってことです。



この日もこんなドアの掲示を見つけてさすがは米軍艦、と思った次第です。
確か電気室だったと思うのですが、

「アメリカ国籍でない者と従業員の入室絶対に禁止」

と断固として書かれてあります。



階段の写真を撮るのは忘れましたが、階段の天井の写真は撮りました。
こんなところにこれだけの絵を描くのは、システィナ礼拝堂の天井画を描いた
ミケランジェロ並みに大変な労力を要したに違いありません。

 

おお、何人たりとも立ち入り禁止のフライトデッキコントロールの
ドアが開いている!
今日はここで行われる仕事はないはずだけど・・?
ドアは5文字のボタン式ロックで開閉するシステムです。

足元の「PRIDE」のRが背中合わせの「RR」になっているのがオシャレ。



こんなポスター発見。

「セクハラ被害相談員」

ってところでしょうか。
規模において一つの街くらいある空母ですが、船という閉鎖された空間では
そこも社会の縮図、人間同士のトラブルの種は尽きません。

昔、船に女性を決して乗せなかったのは、若い男性の職場であるがゆえに
問題が起きるのが必至だったからですが、特にアメリカでは女性隊員も
普通に空母乗り組みをする時代になりました。

余談ですが、先日、護衛艦「やまぎり」の艦長に大谷美穂2佐が任命されて、
ちょっとした話題になっていましたね。
練習艦ではなく、戦闘艦が女性艦長を戴くのは海自初だそうです。

去年、大谷2佐と防大同期の東良子氏が女性で初めて1佐となり、
もしかしたら女性初の海将補が誕生するか?と盛り上がったものですが、
今回の人事も、大谷2佐が「男性自衛官から文句がないくらい優秀なら」
大変良いことだと思います。

米海軍にミシェル・ハワード大将が誕生したときには、同じ海軍の男性将官から

「女性でアフリカ系だからさほど苦労せずその地位を手に入れた」

などというやっかみとも取れる批判が出ていたそうですが、男性でも
上に行くほど、全ての人が手放しで賛成する人事は理論上ないのですから(笑)

もっともこの人事に、安倍政権の「女性が輝く云々」が作用を及ぼしているのなら、
広報的にはOKでも、まあ色々と・・・厳しい道のりにもなることでありましょう。
しかし、大谷2佐には、そういう反感も跳ね返すべく、今後益々ご活躍されることを
心より祈念して、わたくしのご挨拶と代えさせていただきたいと思います。




話を戻しますが、フネという閉鎖された空間に女性が乗り込むというのは
アメリカみたいな国でも(だからかな)色々と起きてくるわけです。
もっともありがちなのが、(ってかそれしかないか)パワハラとセクハラ。

このポスターは、セクハラがあったときに被害者が相談する窓口になっている
何人かの専門相談員のリストですが、相談員もみんな乗組員です。

彼ら一人一人の写真にはオフィスの場所と寝台ナンバー(さすが軍艦)に加え、
「航空」「供給」「医務」などその所属部署も明記されています。
相談しやすいようにやはり女性の相談員が多いですが、男性でも
セクハラを受けることは普通にあるので、男性相談員も何人かいます。

RRにはセクハラだけでなく、家庭問題、金銭問題など、隊員が困ったとき、
専門のCPOが乗艦していて、常時相談に乗ってくれる態勢が整っています。



全体的に我が護衛艦よりはインテリアに気を使っている感があるRRですが、
ドアはもちろん、廊下の壁からすでに特別感漂うゴージャスな木目調。
ときたら、そう、コマンディング・オフィサーつまり司令官室。
キャプテンキャビンすなわち艦長室でございます。

今この部屋の主は、先日「いずも」訪問のエントリで少し話題にした
クリストファー・ボルト艦長。
もともと宇宙飛行士志望で海軍に入り、EC-2のパイロットであったボルト司令は、
空母のランディング・シグナル・オフィサーでもあり、さらにはその後、
原子力を扱うトレーニングも専門的に行い、いうならば
「原子力空母艦長コース
一直線!」といった前歴を経て現在があります。

こういう経歴を見ると、アメリカ海軍の人材教育・育成制度というのは
実に戦略的というか、科学的に行われているものだなと思いますね。

ん?何がストップですか?

「ここから先で携帯やスマホ禁止。もちろんiPadなんか論外な」

とは書かれていませんが、まあそういうことです。
規律とか礼儀の点でそうなっているのか、他に電波的に何か
支障があるからそうなっているのかはわかりません。



おそらく航空隊のマーク、「ホーク」がつく航空機は「ホークアイ」と
「シーホーク」があるからそのどちらかだろう、と見当をつけて調べたら、
厚木基地のシーホーク部隊、「サーベルホーク」でした。

救難部隊で、「砂漠の盾」「砂漠の嵐」といった作戦群、そして
ソマリアの人道支援やハリケーン、カトリーナのときの支援、
レイテに大きな被害をもたらした台風30号の災害支援も行い、
「Humanitarian Service Medal」(人道支援に対して与えられる功労賞)
も複数回受賞している部隊です。

さて、またしても何度となく階段を降りて(護衛艦もだけど下りが大変)
ハンガーデッキの1階下まで降りてきました。



この階に食堂や売店などがあるのは護衛艦と同じです。
床には「チームワーク」とか「勇気」とか「プライド」(適当)
などという言葉が書かれたスターマークがプリントしてありますが、
これ、明らかにハリウッドの「ウォーク・オブ・フェーム」のパロディですよね。

元映画スターの合衆国大統領の名前を戴く空母ならではの遊び心です。



ここに来るまでに、キッチン(前にトレイを持って並びお皿によそってもらう)
を通り過ぎたのですが、写真を失敗してしまいました。
日本ならおにぎりが置いてあるところに、ここではポップタートが置いてあって、
さすがアメリカ、と一人でニヤニヤしていたのですが。

ポップタートって、「Nyancat」のあれ(砂糖をアイシングしたクッキー)。
息子に一夏に1回くらいはねだられるけど、大人も食べるとは知らなんだ(笑)



ロナルド・レーガンの食堂は24時間営業です。
どんなときに食べにいってもご飯がいただけます。
広い食堂の隅にたった二人で遅い昼ご飯を食べている人影が。




アメリカ人はケチャップとマスタードがないと生きていけません。
各テーブルの「コンディメントセット」のマスタードの大きさを見よ。
キッコーマン醤油も結構人気ですか?



次なるツァーの予定は、「ロナルド・レーガン」売店でお買い物です。
売店は乗員のためにあるので、基本食料品や日用品が中心です。

アメリカではおなじみの「サン・レーズン」や「m&m」(エメネムと読んでね)
はもちろん、ルックチョコレートまである!



レーガン大統領の写真集や像が乗員に売れるとはとても思えませんが・・。



名前入りのキャップは普通に乗組員が着用するので大量に売られていました。
ここにあるのは全部スクランブルドエッグ仕様(自衛隊の”カレー”)
ですが、下士官兵のためについていないのもありましたよ。
わたしはすぐに飲むための水(普通にアメリカのアクアフィナ)と
この帽子、メダルを記念に購入しました。

というか、これくらいしかお土産らしいものがなくて・・。

マグカップもいいかな、と思ったのですが、これがどういうわけか
まるで南部鉄でできているかのごとき重さ。
さすが
軍艦の中で使うカップは安定性を重視しているのだなと思ったのですが、
(それとも日常で行えるウェイトトレーニンググッズとして?)
持って帰るには憚られるほどだったので諦めました。


しかも、日本のように手提げ袋に入れてくれるなどという気配りのない世界なので、
(最近は本土のお店でも頼まないと袋をくれないところもある)
たくさん買い物した人は、透明のビニール袋(ゴミ袋)に入れてほいっとわたされ、
その口のところを持って運ばねばなりませんでした。

「珍しいカップヌードルがあった」

と爆買いしていた人が一人いましたが、どうやって家まで持って帰ったのでしょうか。



解説と案内してくれたアフリカ系の人がレジもやっているのだと思っていたら、
なんと瓜二つの同型艦でした。
専門のレジ係ではないのか、計算やお釣りを渡すのがおそく、しかも
日本円で支払う人にはドル計算までしないといけないので、
一行のお土産を買う列が捌けるまで大変な時間がかかってしまいました。 



ドンタコスはアメリカ人にも人気、と・・・_φ( ̄ー ̄ )



すっかり忘れていましたが、こういうのを床に発見してここが「船の中」であると思い出します。



「フライング・ダッチマン」だと・・?

わたしがこれを見ながら首を傾げていると、案内の人がぶらぶらしていたので、
近くに来たついでになんなんだか聞いてみました。

「このお店の名前ですよ」

「さまよえるオランダ人」というネーミングは軍艦に取って縁起が悪いのでは。
「ダッチマン」はオランダ人の他に「幽霊船」の意味もあるし・・。



と思ったら、入り口に名前の由来が麗々しく掲げられていました。

これによると、

この名前はわたしたちのミッションと、艦名の人物へのオマージュである。
まず、 レーガン父が息子につけたあだ名が”ダッチマン”であった。
生まれたばかりのロナルドを見た父親は”これは太ったダッチマンだ”といった。

父親にとってのダッチマンって一体何だったのかと突っ込みたくなるくらい
説得力のないレジェンドです。
まあ、言いたかったのは「そのダッチマンが長じて合衆国大統領になるとは」
ってことだと思うのですが、父親が言ったとされるセリフはもう一つあって、
「あまりにも(A hell of a lot of noise)やかましい子供だったから」。
こちらもなんでダッチマンという名前の由来になるのかさっぱりわかりません。

だいたいフライングダッチマンって、幽霊船に乗って地球の審判の日まで
永遠に彷徨い続ける呪われた船長のことですよねー? 

レーガンは「わたしのことはダッチマンとよんでくださーい」と
親しくなった人に頼むほど、この呼ばれ方に愛着を持っていたらしいんですが、
こんな話今初めて知ったわー。

じゃ、中曽根さんに呼ばせていた「ロン」はなんだったのよ「ロン」は。
中曽根さんには「ダッチマンと呼んでください」というほど心を開いてなかったのか。
「ダッチマン・ヤス外交」ではバランスが悪いと報道官に言われたのか。


それと、「我々のミッション」と「ダッチマン」の関係の説明がないです。
やり直し。 

 

セールス&サービスの隊員も、軍人として国を守るために俺たちは仕事するぜ!
という気概をビンビンと醸し出しています。
セールス部門の統括をするのはアフリカ系の女性司令官です。



やっとのことで皆さんの買い物が終わり、出口に向かうことになりました。
どうしてこんなに時間がかかったかというと、RRの乗員は通常、
ここで
買い物する時も現金は絶対に使わないからです。
IDカードをピッとかざすだけで、口座引き落としされるというシステムで、
艦内では現金を持ち歩かなくてもいいため、
係は現金(日本円はなおさら)を扱うのに慣れていなかったのでしょう。


ちなみに空母は大きいですが、各自の個人スペースは兵であればベッドの上と下だけ、

女性であっても、ベッドを持ち上げたところに入るだけの私物しか持ち込めません、
洋服などは極限まで小さくたたまねばならず、おしゃれな服などとんでもありません。
しかも、時々抜き打ちに「持ち物検査」があるのだそうです。
アメリカ海軍の厳しさは、私立女子校並みです。

もう一つついでに、ここには乗員の洗濯をする専門の部門があります。
大抵の制服はノーアイロンですが、幹部、とくに艦長などの制服には
大変気を遣ってプレスを行います。

「艦のトップがピシッとした格好をしていないと下への士気にかかわる」

からだそうです。
夏は暑いし同僚の靴下は臭いし、たいへんな職場ですが、いいこともあって

ランドリーは「週一度休みがあるので他の職場より楽」だそうです。
「ロナルド・レーガン」も「月月火水木金金」だったのか・・。



写真は途中にあったポスタルサービス。

アメリカではおなじみの郵便マークです。
ロナルド・レーガンは独自の郵便番号を持っており、郵便物を送るのは
その郵便番号と宛先の所属、名前だけでOKだそうですよ。


続く。
 
 


艦橋(PILOTHOUSE)〜空母「ロナルド・レーガン」見学

2016-03-03 | 軍艦

「ロナルド・レーガン」の艦橋てっぺんから海面までの高さは、
なんとビル20階分あるそうです。
前回甲板までを「ビルの5階」と書いてしまったのですが、
それならば少なくとも8階分はあることになりそうですね。

しかし、それほど高く見えないのは、とにかく甲板が広いからです。

武器としての原子力空母が恐ろしいのは、この巨大なものを動かす動力が
原子力であるため、「給油」は要らず、一旦港を出たら
理論上は20年間、海上を航行し続けることができるということです。


我が日本で、原発をなくせやれなくせそれなくせと騒ぐ人は(例:宮崎駿、坂本龍一)
それなりに「ひとりの地球市民として」思うところがあるのでしょうが、
その団体の後ろにどうして日本人でない「もの」がくっついてくるのかについては、
明らかにその正体が日本から力を削ぎたい「敵」だからだとわたしは思っています。

原子力は国の「力」であるからです。
たとえば原子力によって給油が全く要らない戦闘艦。
これが敵にとってどれだけ恐ろしいものであるか。

「ちょっと待て、先代のジョージ・ワシントンが接岸中給油をしているのを見たぞ」

とおっしゃる方、あなたの見たのは決して間違いではありません。
原子力空母も給油をします。
ただしそれは、船のためでなく、艦載機のための油です。
あたりまえのことだけど、今回改めてそれを知り、軽くショックを受けたわたしです。

ちなみにこの1140万リットルの油、(プリウスなら地球を4200周走れる量)
空母のあちこちの貯蔵場所にパイプで送られますが、このバランスが悪いと
船が傾いてしまうことになるので、それを制御する専門の部署まであります。



階段を何回も折り返してたどり着いたのがここ。
アイランドのどこかと言いますと・・・・、



調べたところ、三重塔は下から

プリフライ(プライマリー・フライトコントロール)

航海艦橋

空母打撃群の司令官部用のフラッグブリッジ

という順番に積み上がっています。(丸いブースは何かわからず)

ということは、我々は上から2番目の航海艦橋に上がってきたようです。

ちなみに、このプリフライは、例のエアボスとミニボスが勤務する所で、
航空作業が行われている時には甲板にいる450名もの乗員を
管制し統制する役目を担っています。

この際、一人一人の作業は非常に単純なものですが、それが450名となると、
各自動きが網の目のように組み合わさって、淀みない一つの目的、
ーこれは空母という戦闘艦の存在意義でもありますが、

「航空機を離艦させ、着艦させる」

という任務が初めて果たせるのです。

今回ちゃんと甲板が見られなかった分ここで話しておくと、
新型空母が出るたびに同型艦であっても大幅に仕様を変えることがあり、
たとえばRRの着艦フックは通常3本のところ2本しかないそうです。

2本でも十分、という意味なのだと思いますが、着艦するパイロットも
甲板はほとんど見ておらず、彼らは目の前のスクリーンに出てくる図形を、
停止線に合わせることだけに集中しているからあまり関係ないのだとか。


この時の乗員の説明によれば、やはり空から見る空母はこれだけ大きくても
まるでハガキのように小さく見えるそうです。

パイロットも実際の着艦はスクリーンで行うシミュレータや陸上での練習とは
全く違う緊張を強いられるものだそうですが、着艦前にタッチアンドゴーを行うなど
訓練方法の発達やなんといっても軍事技術の革新により、

空母の着艦事故率はいまや地上におけるそれと同じにまでなりました。

この日はもちろんのこと1機も見ることはできませんでしたが、
RRの艦載機は、F/A-18スーパーホーネット各種が44機、E-2Cホークアイが4機、
C-2Aグレイハウンドが2機、あとはSH-60などのヘリコプター。
全部で計85機となります。 




艦橋は艦首側から見ると、左舷側に大きく張り出した形になっています。
着岸のときに下に障害物なく、状況を確認することができます。
部屋全体は鍵字の型をしており、この椅子はその左舷側角にあります。

「ロナルド・レーガン」がまだ就役したばかりの写真で、
初代艦長がこの椅子に座っている写真を見たことがありますが、
その背もたれには「NRGN」と書かれていました。 
この椅子にはないようですが、なんの略語かはわかりません。 



「ホーネット」や「イントレピッド」との違いはその広さです。
全てに余裕があるだけでなく、RRの艦橋には遠い将来を見越して「予備のスペース」
まであるというから驚きます。
技術が進んでどんな設備が将来必要になっても、そのための場所は確保してあるんですね。

ところで原子力空母の寿命って、みなさんご存知でした?

なんと50年なんですよ。
この船が生まれたときに同時に生まれた人が、セイラーになって、
海軍を辞める頃まで現役であるということです。

まだ一隻も退役していないので、寿命のきた空母がどのように廃棄されるのか、
そのときは見ものというか大変興味深いですね。



シグナルボックスや電話など、通信関係のパネル。アラームもここです。
電話が見えていますが、艦全体の電話は1400台あるそうです。



電源が消えているのでなんだか全くわかりません。
画面の前にはコンピュータと全く同じキーボードがあるので、
これがコンピュータであることは間違いありません(小並感)



画面の電気は消してあり、チャートは裏返してありました。
ちなみにデスクの上の飲みかけのコーヒーは「世界一のバリスタ」です(笑)



単なる通路ですが、ここも船の中とは思えないくらい広さがあります。
炎の写真が貼ってあるので何かと思ったら、「燃えるゴミ」
つまり、奥の円筒形のゴミ箱のゴミを放り込むダストシュートみたいですね。
ゴミを持って階段を降りるなんて、アメリカ人がするとは思えません。

その奥にコーヒーメーカー(ポット2つ分)と、カップ置場があります。
金庫のようなものがありますが、これ冷蔵庫かも。

RRのなかにはゴミの処理専門の部署があって、ここでは燃えるゴミをパルプ状に溶かして
海に廃棄したり(日本ではそれだめだと思うけど)、プラスチックをプレスして
ディスク状にして貯めておき、上陸した時に処理をする専門職がいます。



これが鍵の字の角の部分。



この端っこにやたら充実した施設のコーナーと椅子がありますが、
この椅子の向こうの窓から接岸を監視することができるようになっています。



もうひとつあった、偉い人用椅子。
フラッグブリッジでこの椅子に座っていた艦長は、どこかに足を上げてかけていましたが、
本当にアメリカ人ってこういうところお行儀が悪いなあと思います。
嫌いじゃないですけどね(笑)

 

窓枠にある「PELORUS」とは方位儀のことです。
2003年、すなわちRRが就役する時に設定したということのようです。



そのジャイロには、護衛艦にあるような三角の上に立ってるものがないのですが、
(なんのこと言ってるかわかりますよね?)
あの仕様はアメリカ海軍では使わないタイプなんでしょうか。

上に乗せられた黄色い札には「エラー日時」などを書き込む欄があります。




窓ふきする前に読まなければならない注意。
窓ガラスにはプラスチックのコーティングがしてあるので、強アルカリ洗剤でなく
マイルドソープで洗って柔らかい布で拭いてください、ということと、
ご丁寧にも「使っていい洗剤」「だめな洗剤」の名前が書かれています。

「トップジョブ」「ミスタークリーン」はよくて、
「コメット」や「アジャックス」の研磨剤入りはだめだそうです。

この最後に「pilothouse」と書いてありますが、これは「操舵室」を意味します。 



XJAIとかX8Jとかのダイヤルは、周波数かなんか?


メインの電源盤がここにありました。
中央下のつまみがメインスイッチで、

PORT SIDE(左舷) STBD SIDE (右舷)
AFT (艦尾) STERN(艦首)FWD(前方)

という場所ごとにスイッチがあります。
左舷のつまみがなくなっているのはなぜ?
現在は電源は完璧にオフの状態になっています。



おそらくですが、艦橋のてっぺんからニョキニョキと突き出していた
各所を照らすライトのスイッチであろうと思われます。
箱型のスイッチボックスには「左舷」「艦橋頂上と右舷」などと書かれています。



警報のためのスイッチでした。
状況によってサイレンの音が変わるので、それが
パネルの右上に図解で説明してあります。
たとえば、ノーマルな場合の警報は、

WAIL(長く甲高いサイレン音)、上部のランプ点滅、下部ランプオフ

警報解除の場合

WAIL、上部ランプオフ、下部ランプ点滅

ランプとは、画面の赤い部分で、上下別々に点灯します。

案内の乗員がここでまたクイズを出しました。

「この部屋で働く乗組員の平均年齢は何歳だと思いますか?」

20歳とか22歳、と先ほどの例もあるので何人かが低めの年齢を答えたところ、
驚くことに正解は「19歳」。
19歳ってあなた、高校卒業したばかりじゃないですか。

「彼らは操舵を言われた通りに行います。
言われた通りのことをするのは19歳であってもできます。
船をどんな速度でどう動かすのかは、艦長始め幹部が意思決定するので、
彼らは何も考えなくていいからです」

とはいえ、彼らにとってはこの巨大空母が自分の操舵によって
動かされているという事実はやりがいを感じるものなのでしょう。



3200名もの乗組員が、一人として無駄に動いていないのが空母ですが、

一人一人のしていることはごくごくシンプルで単純です。
だからこそ、軍の命令系統が滞りなく機能して全体を統括することが必要となるのですし、
なんといってもシンプルであることが結果として
安全にもつながっているといえます。


続く。


 


横須賀音楽隊第50回定期演奏会@みなとみらい雑感

2016-03-01 | 自衛隊

先週末横浜のみなとみらいホールで行われた、横須賀音楽隊の
50回目となる定期演奏会の招待券をいただき、行ってまいりました。

横須賀音楽隊は横須賀地方隊の直轄部隊で、2014年の暮、世界の優秀な
軍楽隊に与えられる、「ジョージ S. ハワード大佐顕彰優秀軍楽隊賞」をアメリカの
J.P.スーザ財団から受賞した、今注目の音楽隊です。

空自中央音楽隊はこの賞を平成4年にアジアで初めて、そして陸自中央音楽隊は
平成21年に受賞していますから、海上自衛隊の音楽隊で
初めてこの賞を受けることができたのは、快挙というべきでありましょう。

さて、そんな横須賀音楽隊のコンサートに、前回券をいただいていたのにもかかわらず
拠所ない用事で行けなかったわたし、今回は前回の残念分も
一音たりとも聞き逃すまいとコンディションも満を持して当日を迎えました。



今回いただいていた招待席はこの場所です。
訳あってまたまたお誘いした兵学校76期のSさんと席についていると、
後から入ってきて周りに座る人は皆互いに挨拶をしあっています。
そのうち、横須賀地方総監らしい方までやってきてみなさんにご挨拶を・・。

どうもわたしの頂いた頂いた席は、「自衛隊の偉い人用」だった模様。
わたしにチケットを手配くださるように横須賀音楽隊に話をしてくださった
元海将もすぐ近く(おかげでご挨拶できた)でしたし、周りをよく見渡せば、
基地創設祭や練習艦隊の出港式などでよくお見かけする顔がちらほらと。


当日のプログラムは、前半は「和楽懐音」と称する日本人作曲家の手によるもの、
後半は吹奏楽界では有名なクロード・T・スミスの作品集という構成です。

まず最初は、鈴木英史手によるファンファーレ。

ファンファーレ「S・E・A」


客席の最上段とか、舞台の裏とか、正規の演奏場所ではないところで

演奏をするトランペットなどの「別働隊」を「バンダ」(イタリア語のバンド)
といいますが、この曲もトランペットのバンダを二ヶ所に配したイントロです。
始まったと思ったら客席後方から音が聴こえたのは新鮮でした。
ユーチューブを見ていただければ分かりますが、これは楽譜の指定です。


バンダといえば、客席の近くでトランペットを構えたところ、

「こんなとこで演奏中にラッパ吹いちゃダメだよ!」

と羽交い締めされて吹けなかった奏者がいる、と、オーボエ奏者の茂木大輔さんが
(本当か嘘かわかりませんが)本で書いていましたっけ。 

タイトルの「S-E-A」は海のことではなく、作曲を依嘱した精華女子高校の
イニシャルから取られており、S(Es)=ミ♭、E=ミ、A=ラの音が
テーマに使われているからです。

でも、横須賀音楽隊がこの曲を選んだのはきっと「SEA」だったからですよね。


つづいては、

梁塵秘抄~熊野古道の幻想~ 福島弘和


いまでこそ国の史跡となり、ユネスコの世界遺産にまでなっている熊野古道ですが、
1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」により付近の神社が激減し、
熊野詣の風習も殆どなくなってしまったため、熊野古道自体は、
大正から昭和にかけて国道が整備されるまで、周囲の生活道路に過ぎなかったのです。

これが現在のような注目をされるに至った過程はwikiにもまったく触れられていませんが、
このときにわたしの近くに座っていた方(つまり自衛隊の元偉い人)の祖父、
医師でもあったある俳人が、再発見から再評価への道筋をつけた、ということを
わたしはその方から伺ったことがあり、一人激しく納得しながら聴いていました。

曲は和歌山県立田辺中・高校吹奏楽部による委託作品だそうです。
大河ドラマのテーマソング風でかっこいいです(小並感)



次の曲の作曲者名を見て、「小林秀雄って作曲も残してたの?」
と驚いてしまったわたしです。
「モオツアルト」の「悲しみは疾走する」という文章にはかつてシビれたもんだよ。

と思ったら、音楽評論家ではなく、作曲家の小林秀雄のことでした。

【(落葉松(からまつ)】小林秀雄作曲



落葉松の秋の雨に わたしの手が濡れる
落葉松の夜の雨に わたしの心が濡れる
落葉松の陽のある雨にわたしの思い出が濡れる
落葉松の小島の雨が わたしの乾いた眼が濡れる

という野上彰(詩人)の詩に曲をつけたもので、
ここで横須賀地方隊所属のソプラノ、中川麻梨子海士長登場です。

観艦式の「むらさめ」艦上で「坂の上の雲」の「スタンドアローン」を
聞いたときにも彼女の伸びのいい、ドラマチックな高音には
思わず鳥肌がたったものですが、相変わらずこういう歌曲や、
声楽的発声が映える曲には素晴らしく良く響きます。
(彼女が”Let It Go"を歌っていたのをYouTubeで見たけど、
圧倒的にこういうのよりこの日の歌の方が向いていると思う)

みなとみらいホールの大ホールで吹奏楽をバックに、マイクなしで
一語も不明瞭な言葉もなく歌詞が聴き取れたのですから、さすがです。

海自の歌手といえば、三宅三曹が「第1号歌姫」として先鞭をつけ、
今ではすっかり世間の認知度ももちろん人気も大変なものですが、
横須賀音楽隊の選んだ専属歌手が、三宅三曹とは全くタイプの違う、
愛知県芸大声楽科大学院卒というクラシック畑出身であったことは、
適材適所というか選択の妙だったと、わたしはこの日の彼女のステージを見て
かねてからの持論に確信を持ちました。

人の心の捉え方においてどちらがどう、ということではなく、
三宅三曹にはもちろん彼女らしい良さがあり、中川士長には
彼女にしかできない優れたパフォーマンスの形があります。

前半最後の曲は、宮川彬良の「生業」。
宮川彬良で検索すると「宇宙戦艦ヤマト」の演奏ばかり出てくるのですが、
もちろんあの宮川泰氏のご子息であらせられます。

1、上昇志向 2、発明の母 3、易〜生業

という構成で、タイトルからその意図を汲み取ってください。
「易」では、三人の打楽器奏者が束ねた細い筮竹をつかって演奏しましたが、
その時だけ易者の帽子をかぶっていたのがご愛嬌でした。


さて、前半のプログラムが終わり、休憩時間となりましたが、
わたしはこの日この休憩時間にすることが山ほど?あったのです。

そもそも、なぜこの演奏会に89歳のご老人であるSさんを連れ出したかですが、
その理由は、この本にありました。



偶然、当ブログ読者のお節介船屋さんが「こんな本が出版されました」
と教えてくださったところの、

「海の軍歌と禮式曲ー帝国海軍の音樂遺産と海上自衛隊」

著者の谷村政次郎氏は、1991年から1994年までの間、東京音楽隊の
隊長であった方ですが、退官後は現役時代からの楽曲研究を、音楽隊員として、
また隊長として体験したこと、知ったことと合わせてこの著書に結実させ、

昨年末、出版の運びになりました。

教えていただいて、すぐさま出版社から注文購入し、手許において、
東西奔走()とブログ制作の合間にパラパラと目を通していたのですが、
この日のコンサートで谷川氏をご紹介してくださるというお話を
元海将からいただいたときに、ふと思い出したのは、
江口夜詩作曲「艦隊勤務」について書かれた項で、谷川氏が、江口氏の息子、
やはり戦後作曲家だった江口浩司にインタビューされたという記述でした。

これは、江口浩司氏と兵学校76期の同期で、戦後も仲が良かったという
あの海軍中将の息子、Sさんを連れて行くしかない!

そこで、昨年12月に家で倒れて足元が覚束ないとおっしゃるSさんを
家の前まで車で迎えに行き、会場までお連れしたのでした。

うかがうと、Sさんは水交会の読み物に谷川氏が連載していたのを読んでいて、
その名前も知っており、それどころか江口夜詩のイベント関係で会ったこともある、
とおっしゃるではありませんか。

その偶然に驚きつつロビーで谷川氏とお会いし、ご挨拶させていただいたのですが、
その際、谷川氏がわたしにご著書を進呈してくださいました。
わたしが既に持っていた本は、Sさんに差し上げることになり、
Sさんは早速その夜から楽しんでお読みになっているようです。


ところでわたしがもう一つ驚いたのは、谷川氏がわたしにご本を渡しながら

「こちらはエリス中尉に」

とおっしゃったことでした。

・・・・・なぜその名前を知っている。

「ロナルド・レーガン」の見学の後の懇親会でスピーチしたところ、
その内容から「わたし=エリス中尉」だとわかった方がなんと同じテーブルにいて、
大変ショックを受けた直後だっただけに、それほど驚いたわけではないですが、
拙ブログの「海のさきもり」の作詞者について書いたエントリにも
谷川氏は目を通してくださっていたようなのです。

それだけではありません。

次に紹介を受けたのは、横須賀地方総監の「中の偉い人」でした。
世間話のつもりで「先日ロナルドレーガンを見学しまして」といったところ、

「ある防衛団体の見学で、参加費1万円だった、と・・・」(・∀・)ニヤニヤ

と、どこかで書いた覚えのある返答を返され、赤面しました。

・・・その日の朝6時にアップされたブログ記事の内容をどうして知っている。



ちなみにこの「偉い人」には、この日のエントリで挙げたこの写真が、
日米で「上下がカウンターパートという並べ方になっている」らしいという、
大変貴重な情報を教えていただきました。

例えば一番左から:第7艦隊司令vs.自衛艦隊司令、
在日米軍司令官vs.横須賀地方総監、
第5空母打撃群司令vs.護衛艦隊司令、一番右は潜水艦隊司令。

第7艦隊が横須賀地方総監のカウンターパートじゃないというのに驚きました。



・・という、まったくコンサートとは関係のない話になりましたが、
もう一人、この日紹介していただいたある意味超有名な自衛官がいます。

【海上自衛隊が】宇宙戦艦ヤマト【歌ってた】


別エントリで同じような体型の自衛官と見分けられず「同型艦か?」
などと弄ってしまった、東京音楽隊の歌手・・・じゃなくてホルン奏者、
川上亮司1等海曹その人でした。

実は、東京音楽隊のコンサートでプロコフィエフのピアノ協奏曲をやったとき、
この曲を吹奏楽用に編曲したのがこの「ヤマト歌い」の川上1曹だったのです。
クレジットを見て大いに驚いたわたしは、そのことをここで書いたのですが、
どうも川上1曹はそれを読んでくださっていたようです。

「ああいう編曲はどこで勉強されたのですか」

いい機会だと思って聞いてみました。
自衛隊音楽隊の隊員は、必ずしも音楽大学を卒業していません。
横須賀音楽隊の隊長である樋口好雄3佐は、一般大学から入隊して、
護衛艦「あやなみ」勤務の後、翌年打楽器奏者として東京音楽隊に配属されていますし、
前半の指揮をした副隊長の森田信行2尉も、樋口隊長とまったく同じで、
厚木航空基地隊勤務ののち、打楽器奏者として横須賀音楽隊に入隊しました。

入隊して実地で仕事をしながら、「国内留学」をして指揮法や自分の楽器を
学び、それを音楽隊に活かすというのが通例であるのですが、
編曲などは川上1曹によると、先輩に学びながら行うことが多いそうで、
わたしはまたしてもこれに驚いてしまいました。

もちろんブラスバンド奏者ならではの経験値がいくらあったとしても、
誰にでもできることではないと思いますが。

ところで、せっかくYouTubeの人気者を目の前にしているので、
こんなことも聞いてみました。

「ヤマトで有名になって街で声かけられたりしませんか」

「いや、全然(笑)」

「それは制服を着ていないから・・・?」

「いえ、この間も制服を着て立っていましたが誰も声かけてくれませんでした」

「YouTube的には全国で有名人だと思うんですけどねえ」

「まったくそんなことないですよ。明日もどこそこで歌うんですけど」

わたしなど、ホールに入る前にその姿をお見かけして、すぐに気付いたのに。


さて、というところであまりにも充実した休憩時間が終わり(笑)
後半のプログラムが始まりました。

「フライト」


クロード・トーマス・スミスの名前を知っているかどうかは、
あなたが吹奏楽経験者あるいは関係者かどうかでもあります。

吹奏楽コンクールの課題曲にも度々取り上げられるスミスの曲は、
アメリカ軍の委嘱作品が多いということもあって、このような
スマートで勇壮なマーチが多いのが特色です。

この「フライト」は、聴いていると最初にパッヘルベルの「カノン」が登場し、
盛り沢山なうえ、大変軽やかで楽しいマーチ。
アメリカ航空宇宙博物館の公式マーチに指定されています。 

スミスは自分自身が朝鮮戦争の時の軍楽隊隊員だったこともあってか、
Air Force、Marine、Navy、Army Field(野戦陸軍)の軍楽隊から
作曲を委嘱されており、これらは技術的に高度な作品が多いといわれます。

この日のプログラムは「フライト」のあと、


「モレスカ:シンフォニックパントマイム」

という1分少しの短い(けれど難しい)曲が演奏されました。
そして、「グリーンスリーブス」

良い演奏が見つからず、YouTubeを貼ることができませんでしたが、
スミスのアレンジによるこの曲は素晴らしいです。

実はこのクライマックスでわたしはマジ泣きしてしまいました。
次の日には日フィルのマーラーの5番、第2楽章で泣いてしまったので、
(4楽章でなく)わたしがただ変なテンションにあっただけという説もありますが、
それを抜きにしてもこの選曲と、横須賀音楽隊の演奏は良かったです。

Sさんはここで何度かお話ししているように、音楽に詳しい方で、
またそれだけに厳しい耳を持っていますし、東大出のせいか結構権威主義で、
わたしが演奏会開始前に、

「東京音楽隊が防衛省隷下の音楽隊で、横須賀音楽隊は呉や舞鶴のように
各地方隊が直轄する音楽隊なんです」

というと、(隣のご婦人が『佐世保と大湊も』と即座に付け加えたので
やっぱり周りの人は全員関係者であることを確認しました)、
なんとなく、なあんだ、という雰囲気だったので、わたしは内心
今に見ているがいい!(ってあんた何者だよ)と思っていたのですが、
やはり横須賀音楽隊、
やってくれました。

Dance Folatre - Claude T.Smith


超絶技巧の難曲として有名な「華麗なる舞曲」に挑戦です。
もともとこの曲はアメリカ吹奏楽界において最高の実力を誇り、
各セクションに名手を揃えていたことで有名なアメリカ空軍軍楽隊に
挑戦するような形で作曲されたため、技術的に難しいとされます。


特に「試されるホルン」というくらい、ホルン奏者にとって大変な曲で、
川上1曹もこれを御目当てに来たのかな、とふと思ったりしました。

YouTubeでこの曲を検索すると「世界最速!」とかいうのが出てきますが、
それこそ速ければいいってもんじゃなかろう、と、
その旋律が崩壊した速いだけの演奏を聴くと思ったりします。

その点、当夜の演奏のテンポは速すぎず遅すぎず、観客の耳が
ホールの響きを通して音楽の形を認識するのにちょうどいいものでした。
アスレチックな構成も余裕で御して、パーカッシブながら旋律も埋没していません。

打楽器出身である指揮者の動きにもなかなか魅せるものがあり、特に

細かいパッセージに連動する指示のフィジカルなパフォーマンスは
見ている方もついエキサイトしてしまうくらい、かっこ良かったです。

「地方隊だというからセミプロみたいなものかと思ったが・・・
いや、なかなか立派なものですね」

と、いつもは手厳しいSさんにしては最大の賛辞はいりましたー。

そして、アンコールには、中川麻梨子士長が登場。

砂山の砂に腹ばい 初恋のいたみを 遠くおもひ出づる日

初恋のいたみを 遠く遠く ああおもひ出づる日

砂山の砂に 砂に腹ばい 初恋のいたみを 遠くおもひ出づる日


石川啄木の詩に越谷達之助が曲をつけた「初恋」。
彼女の清らかな歌声が消えたあと、その代わりにホールには
満場の観客が発したほうっというため息のような空気が満たされました。

「最後のアンコール曲、良かったですね」

わたしが帰りの車でSさんに言うと、

「うん・・・でも、軍艦行進曲は余計だったな

と思わずorzになってしまうようなことを・・・・。

自分が元海軍軍人で同期会には必ず訪れ、水交会のメンバーで、

わたしにはこの日も、父上の海軍中将が「球磨」の艦長だったときに
上海にあった伊勢神宮の御廃材で作った社を「球磨」で運ばせて
庭に置いていた(昔の艦長って結構やりたい放題?)などと、
海軍の話ばかりしていたのに・・・・・・・・これですよ。

言っちゃなんですが、戦後リベラルを拗らせた、この点だけは89歳児のSさんです。

わたしは、海上自衛隊の音楽隊は、いかなるときもその演奏の最後に
「軍艦」を演奏するのを絶対的な慣例としているのです、と、
確かこの件に関しては二回目となる説明をせざるを得ませんでした。



というわけで、この日の横須賀音楽隊の演奏会。
吹奏楽の技量の限界に
取り組む、決して専守防衛ではない攻めの姿勢と、
専属歌手の歌声に
すっかり満たされて帰途に着いたわたしです。

出席を手配くださった方、この日会場でご挨拶させていただいた方、
そしてご招待くださった横須賀音楽隊の皆様に心より御礼を申し上げます。