ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

横須賀米軍基地ツァー11~横須賀海軍病院

2014-03-13 | 海軍

 

またまた間が空いてしまいましたが、
昨年の秋に参加した米軍基地歴史ツァーの続きです。

さて、ランチが終り、米軍軍人を囲んでのふれあいタイムもすんで、
我々はまたもや歩き始めました。
この頃には雨が降ったり止んだり、いずれにしても曇天に恵まれたため、
いずれの写真もどんよりと暗いものになってしまっています。

しかし、この海軍病院周辺は、なんというかこういう天気の方が、
趣と言うか、その歴史の重さみたいなものを感じさせて風情があると思い、
冒頭写真はあえてモノクロで加工してみました。 



「皇太后陛下行啓記念の碑」。

いくらなんでも暗すぎ?
この皇太后行啓記念の碑ですが、こことは別に、海軍病院の前にもあります。




あまり日頃から陽の当たらない場所らしく、辺り一面は苔むしています。
碑の向こうに見えている建物が、海軍病院。



このたびの御行啓は、昭和12年11月17日となっています。
この年号からして、この皇太后とは、昭和天皇のお后であらせられた
香淳皇后陛下であると思われます。

皇太后陛下の御行啓が行なわれたというのは、赤十字の関係でしょう。

日本赤十字社は、明治10年(1877)、西南の役の際、敵味方無く救護を行なう施設として
熊本の洋学校に設立された「博愛社」が前身です。
最初にそれを西郷従道が許可せず(内戦は政府と逆賊の戦いであるからという理由で)、
そのかわりに皇族の有栖川宮熾仁親王が中央にそれを諮ったことと、西欧では当時、
皇室がノブリスオブリージュの観点から赤十字運動に熱心であったため、
日本でも明治天皇皇太后の昭憲法皇后が積極的にこれに参加され、華族や地方の名家が
中心的な役割を務めることに鳴ったのです。

以後、皇太后陛下が名誉総裁を、そして皇族の方々が名誉総裁を務めておられます。

名誉総裁  皇后陛下
名誉副総裁 皇太子殿下・同妃殿下 秋篠宮妃殿下
      常陸宮殿下・同妃殿下
      三笠宮殿下・同妃殿下 仁親王妃信子殿下
      高円宮妃殿下

(日本赤十字社HPより)




えーと、マンホールかな?(←ボケ)

これは、方位板で、おもな都市の方角が示されています。



拡大図。
石に彫ってあるのは日本語で、金属部分は英字表記です。
占領されてからもしかしたら米軍のためにわざわざ付け足したのかな?
とも思ったのですが、いかがなものでしょうか。

これは今は将校クラブ、昔もおそらく将校用の建物であったところにあり、
全国各地から赴任して来ている海軍軍人が、この場所で故郷に向かって
頭を下げるために備えられたものです。

江田島の兵学校にも同じような方角指示板のある『八芳園』があり、生徒は故郷に向けて
頭を下げたものだそうです。




この辺りは、一応「日本庭園」と名前のついている一角。
この真ん中のしょぼい感じの木なのですが、なんとビックリ、



紀元二千六百年記念樹。

紀元二千六百年といいますと、昭和15年。
神武天皇の即位から数えて2600年目がこの年であったということで、
ご存知とは思いますが、このころに開発された兵器は悉く
この年を「零」としてこの前後から制式されているため、「零式艦上戦闘機」とか
「九九式爆撃機」「九三式酸素魚雷」と名付けられているのです。

ちなみに、現代の自衛隊の武器は西暦を制式にしているため、
93式、というと近SAM、即ち近距離地対空誘導弾に付けられていたりします。



済みませんねえ本当に画像が見にくくって。


この庭そのものが紀元二千六百年記念に作られたのですが、
そのきっかけ、というかこの植樹をしたのが、この人物でした。

The Last Emperor finale

ちょうど今日、移動の中の車でこの曲「ラストエンペラー」が流れて、
ちょっとした偶然を感じたので、貼ってみました。


愛新覚羅溥儀

映画をご覧になった方はご存知でしょうが、陸軍によって満州国に設立された
傀儡政府の執政として担がれた、中国王朝のラストエンペラーです。

溥儀はこの年、日本を訪れ海軍病院を慰問しています。
海軍省の最後の医務局長は、保利信明中将でしたが、溥儀の訪問は
この保利が少将のころで、この人物がこのような史跡を残すことを計画したようです。

戦後、溥儀は東京裁判に出廷し、その姿は映画「東京裁判」に見ることが出来ますが、
このとき溥儀は保身のために偽証をしたことを、 

「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」

と、『我が半生』という自著で告白しています。




これは海軍病院は海軍病院でも、アメリカ軍が建てたもの。




御行啓の碑のすぐ側にこのような祠が遺っています。

昔はここにご真影が飾ってありました。
任地に発っていく、つまりここから戦地に赴く前には
必ず海軍軍人たちはここで写真を遥拝していったそうです。



勿論進駐軍が接収してからその痕跡だけがこうやって残されているだけです。

勿論、墓地や慰霊碑というものではなく、写真が飾ってあったにすぎませんが、
戦後のアメリカ軍は、もはや無用のものとなっても取り壊すことをしなかったようです。
取り壊すことが出来なかった、とでも言った方がいいでしょうか。

目黒の海軍研究所も、呉の海兵団跡もそうでしたが、アメリカ軍はどこかの国とは違って
建物はできるだけ保存して使い続け、そして、このような日本人が手を合わせていたものは
その価値や意味合いのいかんを問わず

「触らぬ神に祟りなし」

とでも言うべき配慮で、ほとんどそのまま残しているようです。
腐っても文明国家である限り、いかに戦争で負け支配された民族であろうと、
精神の蹂躙は彼らの中に激しい憎悪を蓄積していくだけであり、特に
この日本人という人種に関しては表面を押さえつけても決して根本では屈しない、
得体の知れない強さを持っていると彼らは思っていたのではないでしょうか。


このご真影の祠に佇んだ軍人のことごとくが、そののち戦地に赴き、
そこで斃れていったという歴史をもし知っていれば、
たとえその中ががらんどうになったとしても、取り壊すことには
誰しも畏れを抱くのが当然であろうと思われます。






アンビュランスの字がバックミラーに映ったときに正しく見えるようになっているのは
日本と同じ。
日本がこれを導入した方が後だと思いますが。

車体はトヨタですね。



これが旧横須賀海軍病院。
海軍病院は明治13年に開庁、関東大震災で建物は失われ、
今ここに在るのはそのあと作られたものです。

すなわち、戦争中、海軍軍人たちがここで治療を受けていた、当時のまま。

そういえば、「大空のサムライ」の写真版に、ガダルカナルで目をやられて帰国した
坂井三郎氏が、片目を包帯で巻き、病人衣を着、専用の帽子まで被らされて、
この建物の前で座っている写真が掲載されていましたっけ。

あれは、このソテツの前だったのかな、などとふと考えました。



建物は所々改装がなされているそうです。
勿論前面は舗装されていませんでしたし、スロープの付けられた入り口は
昔は車寄せになっていました。

建物に沿って植木が立ち並んでいますが、ここには何も無く、
入り口の向かって右側にももう一つ通用口があったそうです。



何度も塗り替えているに違いない壁ですが、レリーフはそのまま残されています。
アメリカ軍がここを使っていなければ、おそらく疾っくにこの世から無くなっていたでしょう。 



おそらくこの石段も昔のものであると思われます。




説明は全くありませんでしたが、構内には往時のままであると思われる

建物がそこここに点在しています。
これは、長官とか、偉い人の宿舎だったのではないかしら。(予想)



アメリカ人の物持ちのよさもここまでくると感心します。

雨が降って曇っているのでよりいっそうおどろおどろしい雰囲気の建物。
しかし、窓の様子などを見ても、現在も使用されているようです。



これも・・・。

病人衣を着た海軍軍人が暗がりに立っていた、なんて話は過去に無かったのかしら。




このソテツも病院ができたときからここにありました。
坂井三郎氏が座っていたのはこの前だったかも・・・。

当時は小さな植木だったソテツが、百年のときを経てこんもりとした大木になっています。



勿論この建物は病院として現役です。
それどころか、日本の医大をでた学生がインターンシップを取ることが可能。
なんでここを志願するのかって?
そりゃあなた、日本にいながらアメリカの医療施設で働けるからじゃないですか。
これぞ本当の国内留学。

この表示板には

「精神医学」「ソーシャルワーク」「薬物乱用リハビリ」

と実にアメリカらしいですね。 
岩国で薬物についての啓蒙ポスターを見ましたが、ここでも・・。

まあ、薬物と言っても、マリファナ、吸引剤、アンフェタミン、
ついでにアルコール中毒や喫煙製疾患なんかもこの範疇みたいです。



われわれのツァーは中から歩いてここに到達するので、ここを通り過ぎて

昔は横須賀病院の正門だったところにたどり着きます。




門柱は当時のままだそうですが、門灯は戦後つけられたもので、

昔はもっと門が狭く、反対側の門柱は撤去して作り直したようです。
門塀は塗り重ねた塗装で元々のレンガは全く見えません。



こういう、むかしの銘板を壊さずいまだに保存してくれているというのは、

本当にありがたいですね。
こういうのを見ると、アメリカ人に感謝してもしたりない気持ちです。

もし戦後日本が管理していたら「海軍」とつく銘板など、
あっというまに破壊されていたに違いありません。
戦後は他ならぬGHQに媚びて。その後はノイジーマイノリティの左翼どもに配慮して。



この「フラッキーホール」と書かれた建物は、
なんだってこのようにものものしく防備がなされているのでしょうか。
物干竿かと思ったら、これは、鉄条網。

 

ここにある旗、青が司令官在中の意味だったような・・・・。

時間が経って、説明を忘れてしまいましたorz

色々と物事にこだわって、寄り道しながらお話ししていくというのも、
ここまで間延びしてダラダラ進行すると、こういうこともあるわけで考えものです。


(といいながら最終回に続く) 


映画「あゝ特別攻撃隊」~同期の桜vs歓喜の歌

2014-03-12 | 映画

昨日のイラストに加え、今日の冒頭画像を見たあなたは、
おそらくちょっとこの映画を観てもいいかもしれない、ネタ的な意味で、

と思われたかもしれません。
しかし、くれぐれもわざわざDVDをAmazonで注文したりしないで下さい。

わたしがこうやって体を張って突っ込んでいるからこそ面白そうに見えるのであって、
実際の作品は決しておすすめ映画として紹介するほどのものではない、
ということだけ、頭の片隅に留めておいて下さると幸いです。


と、映画の制作者には失礼な出だしですが、昨日の続きと参ります。

15歳だというのにどう若く見積もっても28にしか見えない、
押しの強い古本屋の娘、令子からの手紙が野沢の元に届きます。

「本当に残念でした。
だって、野沢さんのお手紙が着く前に令子は田舎に出かけてしまったんですから。
出かけるとき令子はなんとなくもう一日延ばした方がいい気がしました。
(中略)残念でたまりません」

この手紙を読んで、ぱあああ:*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*:と顔を輝かせる野沢。
あんな目に遭わされて、好きになるか、野沢・・・。
それと、老婆心ながら忠告しておくけど、自分の名前を自分で
「令子」「令子」などとしかも連発するタイプの女にろくなのはおらんぞ。
きっとその自己主張の強さで身を滅ぼすタイプだから。←伏線



その日、レスに繰り出した野沢ら三人の予備少尉たち。
道すがら機嫌良くベートーベンの「喜びの歌」を歌います。

「フロイデ シェーネル グッテル フンケン トフテル アウス エリジウム
ヴィル ベトゥレーテン フォイエルトゥルンケン ヒムリッシェ
ダイン ハイリッヒトゥム!
ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル
ヴァス ディー モーデ シュトゥレンク ゲタイルト;
アンレ メンシェン ヴィルデン ブリューデル
ヴォー ダイン ザンフテル フリューゲル ヴァイルト」

日本人の第九好きは異常で、年末になると第九のコンサートが幾度となく行なわれ、
アマチュアでも第九を歌うために合唱団に入る人もいる昨今ですが、
このころのドイツ語というのはやはり「社会のエリート」インテリゲンチャたる大学生の
ちょっとお洒落な必須アイテムだったりしたんですね。

ちなみに、音楽大学というところは履修学生以外も合唱でこれを歌わせますから、
わたしは今でも完璧に最初から最後まで歌うことができます。

ただ、この映画の時代である昭和19年暮れは、日本は非常時とされており、
実際に彼らも学徒出陣していたように、とてもバンカラ学生が放歌高吟するような
ご時世ではなかったと言えます。



まだまだ娑婆っ気つまり娑婆の学生気分が抜けない彼らの歌を聞きとがめたのは
運悪く同じレスでいかにも場末の女っぽい酌婦と飲んだくれていた小笠原中尉。
エキストラを極力節約した作りのため、小笠原中尉はレスでも一人。

兵学校出は友達がいないっていう印象操作ですかね。

レスで早速「フロイデシェーネルグッテルフンケン」を始めた3人の前に
鬼の形相で現れたと思ったら、

「貴様ら歌うなら日本語で歌え!」

と一喝し、朗々と「同期の桜」を歌い出します。
何も考えずに高いキーで歌い出してしまった俳優の三田村元さん、
高音部で血管切れそうになって苦しそうです。
小笠原中尉が歌うのを反抗的に眺めていた野沢、ワンコーラス歌っても小笠原が
一向にやめようとしないため(笑)対抗して「喜びの歌」を歌い出します。

なにを小癪な!と目を剥いて小笠原中尉、一層無理なキイで声を張り上げ、
残りの二人が助っ人に入った「喜び組」(ん?)にワンマンバンドで対抗。
あまりの異様さにレス中の従業員や客が集まってきます。

しかし、こういうときに必ず仲裁するはずの怖いレスのゴッド(女将)も、
予備学生を叱りつけるはずの他の士官も、つまり誰も止めに入りません。

ちなみにここのシーン、これを書くため二回目に映画を観直したときに、わたしは
聴いているのがあまりに苦痛だったため、音声をカットしました。
いわばこの映画のハイライトというか前半のクライマックスなんですが、
だからってこういう無茶苦茶なシーンを長時間流されても・・・。

この部分はこの映画のテーマである

兵学校出身士官と予備学徒士官の対立

という構図を制作者は象徴的に表したかったのだと思います。
そして本人はこの件を令子への手紙で

「のどがひりひりして湿布をするやらうがいをするやら」

と報告しますが、どうやって収束に至ったかは語られません。



さて、航空隊本部に大本営から伝達を持ってやってくる将校が乗った車が、
猛スピードで野沢の老いた母の側を通り抜け、あたってもいないのに彼女が転ぶ、
といった具合に、こまめな「軍は悪」の印象操作を欠かさないこの映画ですが、
その車に乗ってやって来た将校の持って来た達というのが、

「戦況が悪化したから三〇二航空隊も特攻を出せ」

特攻命令、キター!(AA略)



基地司令官の横で眉根を寄せる浅野参謀(高松英郎)
若い。
わたしには晩年の頑固爺さんみたいな顔の印象しかありませんでしたが、
若い頃は結構イケメンタイプだったのね。
参謀なのに参謀飾緒を付けていないのはご愛嬌です。

浅野参謀は、戦闘機に爆装すれば能力が半減すること、
掩護する戦闘機が付けられないと言うことを理由に特攻に反対します。

ところが、せっかく参謀がこういっているのに、なぜか京大卒の
予備士官である岡崎大尉が、

「万に一つも敵を叩く可能性があるなら行かせて下さい!」

と力強く言い切ったため、特攻は出されることになります。

岡崎大尉ェ・・・・・。

こういうときになぜ本来なら率先するべき兵学校士官ではなく、わざわざ
学徒士官である岡崎大尉にこのようなことを言わせたのか。
日頃から「娑婆っ気がどうたら」とか、「学徒には覚悟もない」とか、
さんざん兵学校卒から馬鹿にされていたので、国を守る覚悟は俺たちにもある!
と予備士官隊長としては反発心も手伝って、っていう意味なんでしょうか。

いずれにして予備少尉たちは、岡崎大尉の予備士官の意地みたいなものから
望まぬ特攻に行くことになってしまった、というようにも見えます。


さて、というわけで賭け将棋などして娑婆っ気満々の宿舎生活をしていた少尉たち、
本部に集められたと思ったら、いきなり浅野参謀から

「出撃予定時刻、明朝マルハチサンマル!」

と、何の心の準備もないままにあっさり特攻を命じられてしまいます。

特攻出撃は志願制でしたが、当時の「志願」が純粋な志願というよりは
「そういうことになっているから」志願せざるを得なかったというのが実際でしょう。
勿論、士官の中には、たとえば関大尉の特攻一番乗りを聴いて

「うちがやりたかったものですなあ」

と心から悔しがっていたという管野直大尉のような者もいましたし、
どんな状況でどういう地位で
どういう戦闘をしていたかによっても様々で
一概にはいえないとは思いますが、多数の若者は、確固たる意思をもって
特攻を志願するというより、
極めて同調圧力に弱い日本人らしく、


「皆がやるからには俺もやらなきゃ」

という状況に「国を守るため」という後付けの動機による補強で自分を納得させ、
特攻に行くことを受け入れたのではなかったでしょうか。
受け入れた後の覚悟については余人の慮るにも及ばぬ彼らなりの克服があったはずで、
これを以て彼らの意思を軽んずるつもりは微塵もありませんが。

さらに、毎日空襲が無差別爆撃を行い、大都市は悉く灰燼に帰し、子供ですら
「戦争で近々死ぬんだろうな」と考えていたような敗戦直前の日本の戦況にあって、
いつか必ず死ぬのなら、兵士として、日本の男として意義のある死に方をしたい、
という考えに至り、特攻を志願するものがいても全く不思議ではなかったと言えます。

とにかく、この映画のように、何の予告も気配もなかったのにいきなり寝耳に水みたいに、
「明日君特攻行ってもらうからよろぴくー」
というようなことだけはおそらくありませんでしたので念のため。


「こんなに急とは思わなかったよな」

といいながら荷物の整理をする先遺隊(野沢以外の三人)。
そこにたまたま林少尉の妻と野沢の母が訪ねてきます。



林の妻の泊まっている旅館で最後の夜を過ごす彼ら。
勿論明日特攻に往くことなどおくびにもだせません。



何も知らずに笑い転げる林の妻。



最後の日を、彼らなりの苦衷と煩悶のうちに過ごすのですが、



ここにも煩悶している人が。
第二次攻撃隊隊長として野沢と一緒に出撃することになった小笠原中尉です。

相変わらず友達がいないので、下品な飲み屋の女、ノブを相手に飲んだくれ。
野道で水が飲みたいと所望する小笠原に、ノブは(多分)川の水を口に含み、
戻って来てそれを口移しで飲ませようとします。

断固拒否る小笠原。
そりゃそんな水を飲むのは誰でも嫌だと思いますが、ノブは激高し、
「あんたなんか早く逝っちゃえ!」と捨て台詞を残して去ります。
そこに運悪く通りかかる野沢ら三人(笑)

よりによって野沢が愛とか青春とか演説しているのを小笠原は聞きとがめ、



「貴様の娑婆っ気を抜いてやる!」

といいつつ、実はノブに逃げられた腹いせに河原で野沢を殴る小笠原中尉。

さて、宿舎に帰って来た三人組。
そこに酒を持って訪ねて来た岡崎大尉が衝撃発言を。



「実は真っ先に特攻に志願したのは俺だ」

目を剥く三人。
岡崎大尉はおかまいなしに自分語りを始めます。

「俺は後二月大学にいれば論文もまとまり、教授のお嬢さんを貰うことになっとった。
そりゃ素晴らしいお嬢さんだったぞ。
ところが入隊命令の方が一足早かった。ふふっ・・。
だが俺は特攻を引き受けた。
俺が突っ込むことで・・いや、俺が死ぬことで少しでも日本が救われるならばだ、
俺の命は・・・・・・・、
とまあ、考えたわけだ」


「まあ考えたわけだ」じゃねーよ。
自分だけが往くならともかく、部下も一蓮托生なのに、
そんなノリで俺ら下っ端が選択の余地もなく連れて行かれるんかい!

そういう目で見られているかもしれないのに、岡崎大尉、自分に都合良く
彼らの沈黙を解釈し、

「同じ予備学出の、同じ特攻で突っ込む貴様たちに分かってもらえば、
・・・・俺は本望だ」

いや、分かってもらえば、って何も説明してない気がするんですが。

気まずい雰囲気に耐えかねた野沢が「大尉の母校の歌を歌わせて下さい」と提案し、
4人で岡崎大尉の出身校、三校寮歌「紅燃ゆる」を歌います。
なんで全員がよその大学の寮歌を全部歌えるのだろう、などと言ってはいけません。



こちらは林少尉夫婦。
最後の夜だというのに、林はそのまま寝てしまいます。
未練を残さないためにあえてそうしたのでしょうが、
これで妻良枝は何事かを察知してしまったのでした。



そしていよいよ出撃の朝がきました。



行進曲「軍艦」に乗って帽振れです。
離陸していく零戦・・・・と言いたいところですが、座席が二つで二人乗ってる・・。

百里原から出た正統隊の特攻は、九九式艦爆に二人乗りでしたが、
彼らは戦闘機乗りという設定だから、二人乗りの艦爆で往くというのはありえないのですが。




これはどうやらT−6テキサンを二機だけ借りて来たらしく、
何度もその二機に滑走離陸させてそれを撮影しております。
ちなみにこのテキサンの機体は上から雑なペイントされているため、
地色の黄がはっきり見えております。

よく見ると、映画の前半で彼らがしごかれて飛行場を走り回っていたときには
この飛行機はまだ黄色かったので、その後スタッフの手で緑に塗られたものでしょう。
急いでいたのだとは思いますが、作業はもう少し丁寧にね。



夫の態度から彼が特攻に往くことを悟ってしまった妻良枝。
彼女は夫に殉じて自害するつもりで喪服を着て佇んでいました。



夫の乗ったテキサン、じゃなくて二人乗りの零戦(の模型)が
地の果てに消えたとき、彼女は喉を突こうとします

・・・・が、やはりどうしてもできません。
なぜなら彼女のお腹には新しい命が宿っていたからでした。
逝く夫に未練を持たせぬよう、彼女はそれを告げることをしませんでした。
夫を深く愛すればこそ、あの世までついていきたいのはやまやまですが、
また、どうしても夫の忘れ形見を自分とともに葬ることはできません。
彼女は死ぬのを諦め、地面に泣き伏すのでした。

(ということだとおせっかいながら解釈してみました)

さて、そしていよいよ我らが野沢少尉の出撃が決まります。
4人のうち3人がいなくなり一人になった宿舎の部屋に、
浅野参謀がやってきて、単刀直入に

「野沢・・・貴様には恋人が居るそうだな」

なんで参謀がそんなこと知ってるんですか。
そしてこれもなぜか、

「行って逢ってこい」

いや、それをいうなら「おふくろさんに会ってこい」でしょ?
一度会っただけで手紙のやり取りしているだけの相手より、
本人は普通母親に会いたくなるものだと思うがどうか。

しかし、映画のストーリーの都合上、野沢は令子に会いにいくのでした。
令子は女子挺身隊で軍需工場に行っており、野沢もそこに向かうのですが、
折しもB-29六機の空襲に見舞われます。

特攻シーンはもちろんのこと、この空襲シーンも米軍のフィルムが使われ、
やはり大映の特撮チームは何の仕事もしていないことがよくわかるのですが、
それはともかく、空襲による群衆の混乱のさなか、二人は都合良くばったり再会。

一度会って文通をしていただけの相手に、再会するなり抱きつく令子。
やっぱりこのコ、ちょっと厚かましくな~い?


しかも令子、やっと避難場所が見つかったと思ったら、
爆音に託つけて抱きついたり、
「ほら、あなたの写真」といって野沢からゲットした写真を見せたり、
アピールに余念がありません。



「令子さん・・・!」

感激した野沢はまんまとその手に乗ってついその気になるのですが、
すんでのところで理性が働きます。

野沢「いけない!俺は馬鹿だ!
君にひと目会えたらと思って駆けつけた。
でもそれでどうなるというんだ。
俺は特攻隊だ。明日は死ぬ。
その俺がどうして、どうして人を愛せる!」

令子「いいんです!

特攻隊でも何でも、あたしはあなたが好きなんです」

何がいいのか、もう少し分かり易く説明してくれるかな。

「令子を愛して下さい!」

あ、そういうことね。
令子さんたらまだ15歳だというのに大胆~。
今なら児童福祉法第34条1項6号違反で野沢少尉は懲役二年以下の罪に問われます。

だいたいまだ空襲続いているし、終わってからにしましょうよ。





「いけない!私をを苦しめないで・・私を乱さないで下さい」

必死の野沢。
自分でも言ってるけど、じゃー来るなよ。

「明日は死ぬ。だが俺は逃げない。明日は突っ込む!

それよりこの女から逃げて飛行隊に帰ることが先決だぞ野沢。
と、エリス中尉もつい負けじと突っ込んでしまうのですが、
そんな野沢に業を煮やしてか令子、爆弾の雨が降り注ぐところにまろび出て、
案の定、



爆死してしまいます。

ほーらいわんこっちゃない。
こういうタイプは自分で自分の身を滅ぼすって最初に言ったでしょ?

驚いて駆け寄り爆心地に散らばる肉塊から令子の頭(らしきもの)
をいきなり拾い上げ(!)号泣する野沢。(´;ω;`)ブワッ


ここでこらえきれず爆笑してしまった、こんなわたしは鬼畜でしょうか。



さて、明けて次の日。
第二陣特攻隊の出撃です。


しかしそこに野沢の姿はありません。
勝手に上陸を許可した浅野参謀が気をもんでいると、
おりしも基地を急襲したグラマンの銃声を縫うようにして、
野沢はきっちり海軍5分前に間に合うように帰ってきたのでした。

しかし野沢、来るなり敵機の空襲真っ最中だというのに

「ちきしょ~!」

とかいいながら勝手に飛行機に乗り込もうとします。



それを退避孔から見ていた小笠原中尉、

「待てー!野沢ー!」



飛行機は出撃前で既に滑走路に列線を組んでいるはずなのに、
なぜか草っ原を走りまくる二人。



指揮所からどんどん遠ざかる二人。



やっと飛行機にたどり着いた野沢、乗ろうとしますが、
小笠原中尉に追いつかれ、引きずりおろされます。

「何をするんだ貴様!」
「たたき落としてやるんだあいつら!」
「やめろ!」

小笠原が止めるのもごもっともです。
こんな状況で、しかも飛行機乗りとして全くダメダメな予備少尉が、
(かどうかは特撮がダメダメだったせいで全く描かれなかったのでわかりませんが多分)
そもそも単機で敵攻撃の最中離陸するなんて、正気の沙汰ではありません。



かも恋人を目の前で殺されてテンパっている状態の野沢、
止める小笠原(上官)を、

「あんたに俺の気持ちがわかるか!」

と殴りつけ、飛行機の横で取っ組み合いの殴り合いが始まります。
ここで爆笑してしまったわたしは(略)

そこでこんどは小笠原中尉、

「俺は貴様に言いたかったんだ!
俺は貴様を殴った。
しかし、俺はきさまに愛情を

・・・・なん・・・だって?

そうだったのか。・・ってそういう話?


しかしどうでもいいけど、なぜこの登場人物はどいつもこいつも
こういう非常時に重大事を告ろうとするのか。

案の定、非常時に野沢に迫って爆死した令子の例に違わず
小笠原の体も敵機の銃弾に貫かれてしまうのでした。

そこに、参謀のくせにやたらフットワークの軽い浅野参謀が脱兎のごとく駆けつけて、
銃弾に斃れた小笠原の体をいきなり乱暴に抱え上げ、無茶苦茶に振り回します。
やめてくださいしんでしまいます。

グラマンの編隊を追って母艦に特攻をかけるため、浅野参謀は飛行隊を即時編成しますが、
怪我をした小笠原中尉の機での出撃には、なぜか一人だけ着替えの済んでいない野沢を指名します。
すぐに飛べる乗員で一刻も早くグラマンを追いかけた方がいいのでは、と思うのはわたしだけかしら。
野沢が宿舎に帰り、悠長に飛行服を着ていると、包帯をした小笠原が来て

「野沢、貴様どうして志願したんだ」

どうしてって・・・最初から出撃することに決まっていたんですけど。
それに対して野沢、

「恋人は目の前で殺されました。彼女に会いたいのかもしれない。
彼女が殺され、目の前で基地がやられて私は戦争というものがわかった。
今こそかっと目を見開いて敵艦にぶち当たります!」

その意気や良し、といってやりたいところだけど、つまりこの人に取って
「復讐心」が戦う動機と意義だったってことなんでしょうか。
一見もっともらしい理由だけど、

「今まで特攻に全く意味を感じず死ぬのも嫌だったが、
目の前で知り合いがやられたから仕返しをしたい」

とつまりこう言ってるわけでしょ?

「国を守る」ひいては「愛するものを守る」という大義に殉じた
特攻隊員たちに取って、これはなんだかものすごい侮辱ではないか、
と思ってしまうのはわたしだけでしょうか。



そんな野沢になぜか小笠原中尉は狼狽し、

「貴様には恋人があった。
おれはそれを弱いものだと思っていた。
貴様には学問があった。
だが兵学校ではそれを許さなかった。
だから俺には何一つない。
それが俺を僻ませて、貴様たちに辛くあたった!
許してくれ!」

いやいやいやいや(笑)

これも随分兵学校出身者に失礼な話じゃありませんか。
だいたい、

「学徒」=「真理を追究する学究の徒」「兵学校出」=「無学な野蛮人」

この単純なレッテル貼りは、戦後すぐに東大生協が中心となって作られた
映画「ああわだつみの声」でも顕著でしたが、これではあまりにも現実を単純化し、
ものごとを二元的に語りすぎです。

「わだつみ」では、その学徒の中にも帝大を頂点とするヒエラルキーが存在して、
「師範出」や「美大出」などの「下層」のものは蔑まれていたらしい、
という少々複雑な構造も描かれていますが、いずれにせよ兵学校や陸士出の
「職業軍人」を相対的に貶めるような描き方は共通しており、これもまた
戦後15年の間に日本に蔓延した「軍卑下」の風潮が現れていると言えましょう。

そんな小笠原に、野沢は実家の母への手紙や、令子が盗ってきた本を渡し、
小笠原は感激して

「ありがとう!読ませてもらう!」

などと言いつつ両者は手を握り合うわけです。
というか、小笠原中尉、いつの間にちゃっかり生き残るつもりになってるけど、
小笠原中尉も、怪我が治り次第特攻に往くことはほぼ確実なんだから、
野沢が形見を渡す相手としてはちょっとどうかと思うな。




そしていよいよ最後のときがやってきます。
小笠原に本、従兵に自分の財布を渡し、出撃していく野沢。
相変わらずたった2機しか映らないテキサンに二人で乗り込んで・・・。



見送る小笠原中尉の胸には、しっかりと野沢から贈られた本、
そして、彼の口から漏れ出たのは・・・

「フロイデ シェーネル グッテル フンケン
トホテル アウス エリジウム・・・・」




ちょっと待った(笑)

なぜその歌をドイツ語で知っている。
実は小笠原中尉、海兵時代は学問の世界に憧れ、ギョエテやショーペンハウエル、
そしてこのシラーを密かに読んでいたって設定だったのかしら。
しかし「兵学校はそれを許さなかった」から僻んで学徒士官苛めをしていた、と?

ここは小笠原中尉、何が何でも「同期の桜」で兵学校出の意地を見せて欲しかったのにな。
わたしが監督なら絶対そうする。
あるいは、出撃する野沢が「貴様と俺とは~」と口ずさむとかね。
このころはまだ兵学校出もたくさん世の中にいたのですから。
同じ戦争を戦った若者たちに対し、全方向に配慮をする妥協点を、
映画関係者は徹底的に探っていただきたかったと思います。(適当に言ってます)



そして、野沢を乗せたテキサンは、綺麗にアスファルトで舗装され、

白い滑中央線までテープで描かれた滑走路を飛び立っていくのでした。

 
それにしても敵機の空襲から出撃までこんなに時間が経ったら、
グラマンは勿論、母艦は
とっくにいなくなってると思うけど、野沢少尉、
この後ちゃんと特攻する目標を見つけることができたのか、それだけが心配です。


(終わり) 













映画「あゝ特別攻撃隊」~古本屋の娘

2014-03-10 | 映画

「ハワイ・マレー沖海戦」では、何日にもわたってエントリをアップしましたが、
今日のこの映画はサラリと流したいと思います。

その理由は、この冒頭の絵を見ていただければ何となく想像がつくように、
比較的この映画は「ネタ」に属するものであるからです。
「特攻 零」や、「八月壱拾伍日のラストダンス」ほどではありませんが、
わたしのような戦争映画ウォッチャーが観ると、思わず
「なわけあるか」
と声がでるか、思わず笑ってしまうシーン多数で、ブログ的には
「ハワイ・マレー」 とは語るスタンスすら別の次元。

しかし、当ブログといたしましては最近少し根を詰める話題が多かったので、
息抜きのつもりでお話ししていきたいと思います。



1960年、大映製作。

「今から十数年前、日本は戦っていた」

という冒頭のナレーションで思わずはっとするのですが(比喩的表現)、
この頃はまだまだ戦争が終わってその記憶が殆どの日本人に鮮明だったんですね。

だからこそ描けることもあろうかとは思いますが、さて。



昭和19年10月、埼玉県浦和高等学校の図書館。

主人公、野沢明(本郷功次郎)が、海軍士官のかっこいい軍服姿で訪ねてきます。
司書をしている山中令子(野添ひとみ)は、図書カードに書き込みをしている野沢をガン見。

ちょっとイイ男が憧れの士官姿で現れたのですから、
いきなり獲物を見つけたオーラ全開で目力フルスロットルの令子。
しかし野沢は気がつかないふりをします。
こんな露骨に見つめられたら気づかないはずないんですけど。

そして、この令子さんが・・・・・ケバい

昭和31年当時において、まるで70年代を先取りしたかのようなつけまつげ、
そしてラメの入ったグレー系のキラキラ光るアイシャドウ。
日本が戦局も不利な昭和19年10月にこんな化粧をした女学生がいるか!

とわたしは映画が始まったとたん嫌な予感がしたのですが、その予感は当たり、
冒頭からこの派手なヒロインの大立ち回りが始まります。

まず、探していた本が無いと諦めて帰ろうとする野沢を引き止めて
職場を放棄し、家にダッシュ。
実家の古本屋の売り物を勝手に持って来て野沢に

「あの~、この本ありましたあ!」

因みに彼女がカウンターを出て行ってから本を持って帰ってくるのに
かかった時間、わずか38秒

どんだけ学校に近い古本屋なんだよ。



閉館間際にはわざわざ野沢のまわりをうろうろして自分をアピール。
野沢は彼女の意図を察してかカーテンを閉めるのを手伝います。

てか、閉館したんだからさっさと帰れよ野沢。



「あんの~、よろしかったらその本差し上げます」

上目遣いでブリブリする令子。
実家の古本屋の売り物なのにいいのか。
ここで令子は衝撃的な発言を。

「うち古本屋なんです。坂の下の」

ということは38秒で学校を出て坂の下まで行き、
本を探して取って来て坂を上って来たのか。

ちなみにこのとき令子は自分がこの三月まで女学校にいた、
ということもきっちりアピールしますが、ということは19歳?

そりゃーはっきりいって厚かましすぎだ、
この厚化粧と妙にシナを作った物言いは、どう見ても30前後。
セーラー服との取り合わせがもはや不気味なくらいのミスマッチです。

「売り物をもらうわけには・・・じゃあ、お礼にこの羊羹を」

カバンから海軍羊羹を取り出そうとして、野沢は床に何枚も
自分のポートレートをばらまきます。

わざと・・・ではないと信じたい。



なんなんだよこのプロマイドみたいな写真は・・・。

案の定目を輝かせ一枚おねだりしてゲットする令子。
初対面の相手の写真をいきなり欲しがる方もだけど、
こんな写真を何枚も持ち歩いている野沢も野沢です。



さらに、野沢を一旦リリースしたものの、ここでだめ押しとばかりに

自慢の俊足で野沢に追いついて、相合い傘を強制する令子。



このはしゃぎっぷりをごらんください。
野沢にやった本がコメと抱き合わせでないと売らないものだったことを暴露。

しかし、時節柄男女がこんなことをしていていいのか?
しかも、

「こんど横須賀の海軍航空隊に入ることになったんです」
「じゃ、飛行機?」
「ええ、戦闘機乗りです」
「わああ!す て き ~ !」


大声で騒いでいると・・・



「貴様のような女の腐ったような奴はサイパンにはいなかったぞ!」

いきなりサイパン帰りの海軍士官に見とがめられ修正鉄拳炸裂。

まあ、普通そうなるでしょうな。
未婚の男女が並んで道を歩くことすらあり得なかった時代に
傘を決してさしてはいけない軍人が、派手な女と相合い傘。

ところで、この時期「サイパンから帰って来た」って・・・。


昭和19年6月から7月のサイパンの戦いでは、 南雲忠一司令長官を始め
高級指揮官らは自決し、一部の日本兵は降伏。
事実上サイパン島の日本軍は全滅しています。

つまりこのとき日本軍は捕虜になった者を除きサイパンで玉砕したわけですが、
この野沢を殴った士官はどうやってサイパンから帰って来たのか。

・・・・もしかしたら幽霊かな?

その疑問はさておき、彼が実際サイパンで戦った軍人だったとして、
内地に帰ってくるなりこんなフザケたバカップルを見たらそりゃ腹も立ちましょう。
たとえ幽霊であっても助走付けて殴るレベル。

「野蛮だわ!
雨が降ったら傘を差すのが当たり前なのに」

幽霊が行ってしまってからまたもや大声で憤慨する令子。

「軍人は傘を差さないことになっているんです」
「まあ!じゃわたしがいけなかったのね」
「いや君がいけなかったわけじゃないんだ」
「ごめんなさい、あたしそんなことちっとも・・」
(野沢の前に立ちふさがり腕を掴む)
「いいんですよ」
「ごめんなさいあたし」
(さらにつかむ)
「いいんだ!」

げー、うぜー女ー。

「のざわさーーん!」

立ち去る男の名を大声で叫ぶ令子。
なぜ叫ぶ (笑)

もうわたし、映画開始早々ここで大笑いしてしまったのですが、
野沢も早々に彼女が「地雷女」であることがわかって、良かったんじゃないかな。



さて、場面は変わり霞ヶ浦第六〇一海軍航空隊。
野沢ら4人の予備士官たちが着任の挨拶をしています。
分隊長は岡崎大尉。
自分が京都帝大法学部卒だからって、着任した少尉たちの出身校を聞いたりします。
それはいいんですが、分隊長が予備士官で、なぜかその下に、
江田島つまり兵学校卒の小笠原中尉がいたりします。

そして岡崎大尉が小笠原中尉を紹介。

「江田島出の甲板士官だ」

これ、少し、いや大分変ですよね。
まず「江田島出の甲板士官」ってなんなのよ。
甲板士官というのは兵学校出つまり江田島を出た兵科士官のことなんですけど。

それに、小笠原中尉、ここでも甲板士官の必携である棒切れ持ってますが、
飛行隊の分隊士が着任挨拶の席にわざわざこういうスタイルで来るかね?


そして、分隊長の学徒士官風情が()兵学校出をこんな言い方で紹介するのがまず変。
そもそも予備士官の大尉に、兵学校卒の部下を持たせるというこの指揮系統も変。
分隊長が兵学校卒、分隊士が予備士官、これならわかりますが。

しかもこの京大卒の予備士官というのが全く学徒士官らしくない。
妙に偉そうで、特務士官風でもないし、どう見てもこれは兵科士官の役どころでしょう。

この分隊長をわざわざ予備士官にした理由は後半で明らかになります。


実際日本海軍のヒエラルキーと言うのは海軍兵学校卒が絶対で、
特務士官や予備士官の兵学校卒に対する指揮権は認められませんでした。

たとえば軍艦で艦長以下佐官が全て戦死してしまった場合、
たとえ少尉であっても兵学校卒は特務大尉の上に立つことになっていたのです。

この映画では、学徒である彼ら予備士官と、この兵学校士官との
軋轢と確執、そして最終的には和解(笑)がテーマとなっているので、
このような設定にせざるを得なかったようですが、
戦後たった10数年しか経っていないのに、すでにこのディティールの曖昧さ。
70年経った今日で戦争の描写がいい加減になってしまうのも宜なるかなですね。

写真は、ちょうどそのとき流れた関行男大尉らの特別攻撃隊出撃の報を大本営発表を聞く二人。

「海軍大尉関行男以下四名は、カミカゼ特別攻撃隊として」

「神風」は当初「しんぷう」と発音していたので、これも間違いです。
「しんぷう」は、特攻の設立に携わり、関を指名した猪口力平参謀の故郷の
古武道、居合いの道場である「神風流」から取られました。

戦後十数年にして、日本人は「しんぷう」という音すらピンと来なくなった、
とこの映画は判断したのでしょうか。



そして予備少尉たちを鍛える小笠原中尉。

なぜか飛行機の列線を歩きながら4人の乗っている飛行機(の模型)を睨み、
彼らを指導叱責するために着地地点に駈けていきます。
その様子を微笑みうなずきながら眺める予備大尉の分隊長。
なんかこれも凄く変な構図だぞ。
そもそも飛行隊の訓練って、こんなグループレッスンみたいに行なわれてたっけ?

・・ということをわたしが瞬時にして分かるようになったのも、
曲がりなりにもこの三年半、「軍」「隊」という文字を見ないで過ごす日はないというくらい
血のにじむような軍研究の日々を送ったおかげなのですが、(勿論冗談です)
もし三年半前にこれを見ても何も気づかなかっただろうなあ。
まあ、それより前だったらそもそもこんな映画観ようとも思わなかっただろうけど。

とにかくこの小笠原中尉のお小言というのが

「今の編隊飛行のざまはなんだ!
そんなことで戦争に勝てるか!」

せめてもう少し具体的にどこが悪かったか言ってくれなくては
直しようがないと思うんですが中尉。



そして「性根を入れ替えろ!飛行場一周!」と走らされる4人。

この映画に駆り出された黄色い飛行機を、さり気なくいつも画面に入れ込むという構図のため、
(もったいないから?)
飛行機と飛行機の間を走り抜けたりしています。



そして「そんなことで敵が殺せるか!」と走らされる4人。



「みすみす負ける奴に貴重な飛行機が渡せるか!」と走らされる4人。

命じた本人が指揮官先頭で自分も走っているのはいいとしても、
相変わらず具体性のさっぱりない精神論的叱責だけが繰り返され、
飛行機乗りなのに飛行シーンもなく、皆でぐるぐる走っているだけの毎日。

これはつまり、この映画の特撮監督が円谷英二でなかったから、ってことでOK?

しかし、あまりに予備学生の出来が悪いので、キレた小笠原中尉が彼らに命じたのは
なぜかツートン、無線打ちのテスト。
判定のための通信員をわざわざ呼んできて、彼らに無電を30秒以内に打てとかなんとか。
戦争が負けそうで明日にも特攻に行かねばならないってのに、
そんなことのために忙しい通信員4人も引っ張り出すなんてこの中尉、何様?


30秒経ったら、小笠原中尉、結果も見ずに



「ろくに通信もできんで、戦闘機乗りがつとまるかあ!
脚を開け!歯を食いしばれ!」

ぼかっ!ごすっ!どすっ!ばきっ!

・・・いやちょっとお待ち下さい。

あなた方の海軍飛行隊の先輩の、台南空分隊長だった笹井醇一中尉という方は
ガダルカナルで戦死後、全軍布告で「武功抜群」とその功績を讃えられ、
二階級特進しましたが、この方はツートンが大の苦手だったそうです。
こんな戦闘機乗りもいることですし、一概にそうとは言えないんじゃないかな。

そもそも飛行機乗りの技量を試すのにどうして飛行機に乗らせてあげないの?
もしかしてやっぱり、そっちの技量じゃなくて大映の特撮チームの技量の問題

そんな彼らの毎日とはうらはらに、戦局はどんどんと悪化し、
ついにこの部隊にも特攻の令がくだることになるのですが、その前に
彼らは戦闘第三〇二航空隊に転勤となります。

ん?

第三〇二航空隊と言えば、厚木の?
なんだか分からないことだらけですが、こだわらずに参ります。

そのころ航空隊では、あの令子の魔の手が野沢に忍び寄っていました。
着任先を聞いていた令子が、繁く手紙をよこしていたのです。
あんな露骨ではた迷惑なアプローチを受けた上、恥をかかされ、
さぞかし疎ましく思っているだろうと思ったら、同期の林(野口啓二)が、
新婚の妻に

「あいつら一目見ただけで惚れ合っちゃったらしいんだ」

なんて説明しているじゃーありませんか。

野沢、それでいいのか?
というか、いつの間に惚れたのか
野沢。




その林少尉のKA(ケーエー)。
昭和19年の物資困窮の折り、なんと差し入れに真っ白なクリームの乗った
デコレーションケーキを皆さんに差し入れるという剛毅さ。
吉野妙子という、恐ろしく演技の下手な女優さんがやっています。
ついでに言うとこの映画、演技のうまい人がはっきりいって一人もおりません。


ご存知とは思いますが、海軍軍人は奥さんのことをKAと言っていました。
関行男大尉が最後に記者のインタビューに答えて

「最愛のKAを守るために往くんだ」

と言った話は有名です。
ちなみに、わたしが連れ合いのことをTOとここで称しているのはこの変化形です。

この林少尉を演じているのは、野口啓二という俳優で、
「あゝ戦争シリーズ」(っていうのかどうか知りませんけど)、
「あゝ江田島海軍兵学校物語」で、主人公(らしき)兵学校学生を演じていました。
そういえばそのとき、この新入生を苛め倒していたのが、本編の主人公、本郷功次郎
この黄金のコンビの稚拙な台詞回しの掛け合いといい、出てくる女優(しかも女学生)
の化粧が妙に濃いことといい、なんだかデジャブを感じたと思ったら、この映画だったのか。


ところで、この二人の会話でわたしはさらにショックなことを知ってしまったのだった。

「ときにあのメッチェン(女性)どうした?
堀川令子嬢さ。
・・・・手紙も来んのか」
「・・・・・うん」
「そうか・・・・ま、仕方が無いからあきらめるんだな。
つまりは十五の乙女の儀礼に過ぎなかったのさ」

十五の乙女・・・

な、なんだって~!(笑)

写真をねだったり相合い傘を強制したり腕を掴んだりするのが儀礼かどうかはともかく、



これが、じ、じゅうごさい~?
 


心の底から驚きつつ、続く。
・・・って、全然さらっと語ってないし。 



 





佐村河内事件を音楽関係者の立場から語ってみる。

2014-03-09 | 日本のこと

右手骨折のリハビリ期間ですが、イラストも久しぶりにやってみました。
復帰第一作が佐村河内ってのはどうよ、という声も(自分の中で)ありますが、
まあ、この程度の雑な絵なら無理もせずちゃっちゃと描き上げられるようになりました。
本当にデジタル絵画の技術とはありがたいものです。


さて、おそらく日本のクラシック音楽界空前絶後のスキャンダルといえる
この事件については皆さんもご存知のことと思いますので
ここで改めて説明することはいたしませんが、世にあふれる意見の中で
音楽が分かっていないと陥りがちな誤解があると感じたので、
少しそのことをお話しします。

医者や弁護士、自衛隊もそうでしょうが、ドラマで描かれる特殊な世界は
ほとんどがその当事者から見ると「ないわー」ということだらけで、
所詮その中の世界はその中の人にしか完璧に理解できるものではない、
ということを、おそらく「中の人」たちは日々実感しているでしょう。

今回の事件における「ゴーストライター問題」についても、世間の人と関係者では
おそらくかなり考え方も見方も違っているものと思われます。


ジャズミュージシャンの隠語で「バイショー」という言葉があります。

バイショーとは商売のことで(ジャズ屋は何でもひっくり返す傾向にある。
トーシロ、シーメ、チャンバー、ビータ、ノアピなど。実に恥ずかしい)
彼らにとってはホテルのラウンジやパーティの仕事のことをさすのです。
プライドだけは高い彼らは、ライブハウスの「自分がやりたいジャズができる」仕事なら
安くてもいいが、バイショーならこれだけ貰わないとやってられん、という
不思議な価値観を持っており、わたしの昔の知り合いの音楽事務所の人は、

「なんなんでしょうねー。
これからホテルのラウンジに「ライブハウス」って看板かけようかしら」

とぼやいていたことがあります。


話が寄り道から入りましたが、今回の事件でゴーストライターであることを告白した
作曲家の新垣氏にとって、18年前から佐村河内のオーダーする曲は所詮この
「バイショー」であったということなのです。

クラシック、というか純音楽を志す学生というのは、好むと好まざるに関わらず、
音楽大学では無調の曲を書かなくてはなりません。
クラシックというのは文字通り「古い」ということであり、入学時に
古典の手法で曲を書いて入って来る音楽学生は、入学した段階で
すでに調性音楽の基礎はできているという前提で、そこから勉強を始めます。

わたしがまだ高校生だったとき、無調の現代音楽発表会のコンサートに一緒に聴きにいった
やはり音大志望の先輩は、ため息をつきながら

「大学入ったらこんな曲書かないといけないのか・・・」

と嘆いていたものです。
そんな彼はその後優秀な成績で卒業し、某音大の先生になりました。

つまり、新垣氏のような純音楽の書き手にとって、音楽を書くというのは
研究者にとっての実験のようなもので、古典の時代から連綿と続いて来た音楽の流れを
さらにとどまることなく新しい手法そして音を開拓するための挑戦なのです。

シェーンベルグが12音技法を創始したのが戦前のことで、日本の作曲家も
「海行かば」の信時潔はそのシェーンベルグの楽譜を日本に持ち帰っていますから、
つまり現代の、というかそれから80年後の「現在の」音楽というのは、
調性音楽をもう過去のものとしている、ということをまず前提にしていただきたいのですが、
その観点で、さらにこの新垣氏の実力から考えた場合、佐村河内の依頼した楽曲とは

「現代音楽を勉強した者になら誰にでも書ける」

というイージーモードでのいわば余技であり、純音楽、つまり自分のやりたい音楽では
「市場価値が無い」(つまり稼げない)現代音楽作曲家にとって、生活の糧を得るための
「バイショー」であったということなのです。

しかし、口ではそういいながら音楽をすることが好きでミュージシャンになったジャズメンが、
たとえバイショーの仕事でもいい加減にせず、それどころか案外楽しんでやってしまうように、
新垣氏は、間違いなくこれらの作曲の仕事を「楽しんでいた」はずです。
それが証拠に、

「売れる訳が無いと思っていた」

といいながら、その反面

「自分の曲が音になるのはうれしかった」

と言っているではないですか。

音大の講師としての給料、個人レッスンの礼金、そしてこういった「バイショー」である
編曲や作曲の仕事をして、純音楽家はむしろ自分の追求する音楽のために
それらのお金をすべてつぎ込む傾向にあります。

何かの弾みでコマーシャリズムに乗り、映画音楽などを任されるようになれば、
初志を忘れてそちらが「本職」になってしまう人もいるみたいですが、(例・三枝某)
おそらく現代音楽の第一線で頑張っている作曲家はそれを「堕ちた」と見るのではないでしょうか。

新垣氏が恩師の三善晃氏が亡くなったのでゴーストライターを告白した、というのは
恩師に「堕ちた」と見られるのが何より辛かったからだとわたしは思っています。



今回、佐村河内の会見をわたしは怪我療養中で引きこもっているのをいいことに、
全編ニコニコ動画で見ることが出来ました。
怪我をして良かったことの一つです。(もちろん冗談です)

その中で、佐村河内氏が新垣氏への非難と攻撃に終始し、ついには
「絶対訴えます。名誉毀損で」と言い出したときには驚きましたが、
氏の新垣氏批判の中で、新垣氏がギャラを釣り上げるために

「最初の金額提示には首を横に振り、二度目はうーんと首を傾げ、
三度目にニッコリと笑った」

ということをした、とあたかもそれが金に汚いような印象であるかのように
吹聴したとき、わたしは何かすごく腑に落ちた気がしました。
これは、音楽家、ミュージシャンに共通の

「仕事で金の話を直接してこなかった人種」

のありがちな反応だからです。

わたしの身内に法律関係者がいますが、わたしが音楽業界で仕事をしていた頃、
その契約のいい加減さに、ほとほと呆れていたものです。

「ギャラの契約書なんてないの」「ない」
「勤務に対する取り決めとか、判子を交わしたりとか」「しない」
「よくそんないい加減なギョーカイで問題が起こらないなあ」「よく起こってるよ」
「・・・・・」


特にジャズ系の仕事ではどんな仕事でもミュージシャンはあまりギャラについて聴かないし、
下手したら仕事に入るまでいくら貰えるのか知らないこともしばしばで、
逆にはっきり金額の提示を求めたり、交渉をする人が疎まれる傾向にあるといったら、
もしかしたら皆さんは驚かれるかもしれません。

クラシック系の仕事はその点まだちゃんとした上で行われることが多いですが、
それでも事前の契約書などほとんど交わさないのが普通です。
ギャラがいくら欲しいか、はっきりと言わないし言えない、というのは
どこかに「お金のために音楽をやっているのではない」というジレンマが
どんな音楽家にもあり、新垣氏もまたその一人であったということでしょう。



わたしは今回の事件を「詐欺」と見た場合、世間の人々の少なくない数が言うように
「新垣氏に責任がある」とは全く思いません。

ゴーストライターを使って芸能人や歌手が自分をよりたくさん「売る」というのが
この世界では常態化しており、その「下請け」には「バイショー」と割り切って彼らのために
曲を書いている無数の音楽家がいるのを、よくよく知っているからです。

ここで言う訳にはいきませんが、何人かの知り合いは「え、あの人の」といわれる
ソングライターのゴーストをしていますし、出版界にはもっと多くの「幽霊」がいるでしょう。

逆に言うと、自分の本当にやりたい仕事のためには「持ち出し」も致し方ない、
そんな芸術家たちにとって、それらの仕事は大事な「飯の種」なのです。



「世間では当たり前とされているゴーストライターがいたからといって、
それを責められるのはおかしい、佐村河内のどこが悪かったんだ」

と、むしろ新垣氏を責める人がいるらしいですが、今回の問題は、
プロダクションが「商品」として売っているソングライターのために
安定した作品を提供させるためにゴーストライターを使う、という構図ではなく、
最初から「ゼロ」の男が、自分では全く何もできないのに、100パーセントの
部分である新垣氏を使って作曲家を詐称していたことにあるのです。

新垣氏の誤算は、この稀代の詐欺師が、作曲家として自分を売り込むために
よりによって障碍者を詐称し、それを「障害にも負けずにそれを克服する物語」
が大好物の大衆に向かって売り、儲けようとするメディアが、その存在を
思ってもいなかったほど肥大させてしまったということだったでしょう。

一度転がりだした雪玉のような「聾の作曲家の物語」は、新垣氏の

「売れる訳が無いと思っていた」

という当初の予想を大きく裏切り、NHKのドキュメンタリーで佐川河内氏が
今見れば「どんな気持ちでこれやってたんだろう」と唖然としてしまうような
三文芝居をそれらしくドラマに仕立ててしまったことでよりいっそう神格化し、
もしソチオリンピックで高橋大輔がメダルを取ったら、佐川河内はもちろん、
新垣氏もはや引くに引けないところに追いやられてしまう所まで来てしまった。

「なぜ今告白したのか」

と佐川河内本人も、世間もそのように新垣氏を責めていたようですが、
新垣氏にすれば今も何も「一刻でも早く」しないと、手遅れになるというところだったのでしょう。



佐川河内は楽曲の著作権を手放す気はなく、その理由として

「緻密な設計図」

を書いたのは自分、つまり、創作への自分の関与を挙げたそうですが、
あの「設計図」を見て、わたしは声を上げて笑ってしまいました。

こんなもんで交響曲ができたら誰も苦労せんわ。

そして会見途中で、ある記者が設計図の中の謎の用語の中から指を指し、
「これはなんですか?ペンデュラム
と尋ね、その答えが

「覚えてません。宗教用語だと思います」

だったのでもう一度笑いました。
ペンデュラムって・・・・振り子ですよね?


断言してもいいですが、新垣氏はあの、訳の分からない「設計図」とやらは
全く参考にしていないどころか、おそらく見てもいないと思います。

本当にあの設計図を渡していたら、ですが。

そしてこれもまず間違いなく、新垣氏は佐村河内のことを心の中で
何の素養も無いのに作曲家のふりをしたがるアホとして蔑み、
この設計図に書かれている、音楽関係者なら笑ってしまうようなあれこれの
小賢しい指示とやらも馬鹿にしていたに違いありません。

(わたしならそうすると思うけど、新垣氏は優しい方みたいなので断言しませんが)


もう一つ、わたしが佐村河内の小賢しさを笑ったのが

「調性音楽の復権を目指していたのにそれが半ばで挫折したのが残念」

みたいなことをのたまったときです。
前半で縷々述べたように、純音楽というのは、もはや人々が楽しみで聴く音楽とは
別の次元で発展し進化させる「創造者」「挑戦者」によって行われています。

調性音楽はこれら先端の音楽にとって、すでに「克服」されたものであり、
進化済みのものでもあるわけですから、もはやそこに復権などしようがないのです。

そもそも調性音楽とは現代に生きる私たちにとっての「普通の音楽」であり、
同時に「人々が聴きたいと望む音楽」であり、「売れる音楽」であり、
・・・・つまり、調性音楽のフィールドというのは、
最先端の音楽と棲み分けをしたうえで存在している訳ですから。

クラシック業界にとって「わかりやすい調性音楽」で純音楽の現場に斬り込むのは、
いわば竹槍で敵に向かうようなもので、負けるとわかっているから誰もしようとしない。
ただど素人である佐村河内だからこそ、こういうことを思いつきそれができたといえます。

その際、彼がただの素人なら単に討ち死にで終わることでも、佐村河内の場合は
「耳が聞こえない」というとんでもない(笑)障害があったとされました。

つまりこの障害あらばこそ、たとえ彼が竹槍を振り回していても許されたということです。



その音楽に純粋な学術的意味は無いとわかっていても、音楽家は皆
なんだかんだ言って、大衆と同じように調性音楽でないと駄目みたいなところがあります。
「現代音楽の仕事なんて嫌い」
とはっきり言うオケマンをわたしは一人ならず知っています。

もちろん純音楽を本当に好きで聴いている人もいるでしょうが、一般的に専門家ほど、
好き嫌いとは別に佐村河内作品のような既存の手法で書かれた作品は
「映画音楽みたい」「何何そっくり」などと馬鹿にするのが常です。
しかし本来なら「いい曲だけどまるでマーラーだね」と冷ややかに批評して終わるところ、
実はこれは聾者が頭をゴンゴン壁に打ち付けながら苦しんで作った曲だとなると、

「まあそういうことならいいんじゃないか。良い曲だし」

と、ペダンチックな態度を緩和するための言い訳を、そこに見出すことができたのでしょう。
戦前から連なる現代音楽の歴史を知りもせず、そういった「お目こぼし」を受けながらも

「調性音楽を復権することが出来ていた」

などと本気で思っていたらしい佐川河内とは、
どこまで怖いもの知らずのお目出度い奴だったんでしょうか。




さて、音楽関係者の立場から思ったことを書いてみましたが、
もう一つ、義手の少女バイオリニストについての記者とのやり取りで気づいたことを書きます。


神山記者「なぜ舞台上で義手つけろと言ったんですか?」 
佐村河内「そのほうが感動するでしょ」 
神山記者「目の前で義手つけると感動する?」 
佐村河内「・・・感動すると思いますけど・・・。感動しません?」


わたしはこのやり取りに慄然とするものを感じました。
世間の倫理的常識というもののスタンダードから言えば、
こういうことを平然と言える人間を、大抵の人は「鬼畜」と呼びます。

もし自分自身が本物の障害に苦しんだ経験があったら、おそらくは
このような非道なことは、たとえ心の底で思っていたとしても決して人前で、
ましてやこのような会見で口に出すことはできないでしょう。

にもかかわらず、佐村河内はそれを言った。しかも、あっさりと(笑)


彼の言い方はそれがどう思われることかについて全く疑問すら感じていない、
むしろ無邪気とも思える調子がありました。

会見最初に、障碍者を利用していたとされることについての弁明として

闇に沈む人たちに光を当てたい」

と言ったこともそうですが、わたしはこれを聴いたとき、
この人間こそが精神の闇を抱えていることを確信しました。


まあつまり「そういう人」だったということで話が終わってしまうのですが、
わたしの着目は、むしろ彼がそれを全く悪いことだと思わず 

「感動しませんか?」

と無邪気に言い放った相手が、その障害を持つアーティストに実力以上の評価を与え、
健常者の優れた音楽家よりも宣伝し持ち上げて、今回のいくつかの番組のように
物語を付加してまで売ろうとする、マスコミの人間だったということにあります。

記者はこの質問に答えませんでした。

「ええ、(世間は)感動します。
障害者が奏でる音楽でもないと今時クラシックなんて売れませんよ」


これが、じつは佐村河内を持ち上げた(そして今落とそうとしている)マスコミの本音です。

佐村河内のこの問い返しを、肯定しても、否定しても、
マスコミは自分たちの日頃の姿と倫理的常識の二律背反に陥ることになるのです。

つまりあれは、自分たちが公開リンチで追いつめ非難している佐川河内という存在が
本人に自覚は無いながら鏡となって、メディアの姿を写し出した瞬間だったわけです。

あの会場に居並んだ、マスコミの「当事者」たちの中で、
この痛烈な皮肉に気づいた人間は果たして何人いたでしょうか。

 

 




 


岩国基地ゼロ・ハンガー~「米英斬殲滅?」

2014-03-08 | 海軍

「岩国基地」と「零戦」で検索するとこの岩国基地のゼロハンガーが出てきます。
Wikipediaの映画「零戦燃ゆ」のページには、

「この映画のために、総工費7千万円で零戦1機を復元製作した。
映画の撮影終了後、この零戦は海上自衛隊岩国基地にて保存・公開されている。」

と書かれているのですが、これは間違いです。

このゼロハンガーはアメリカ海兵隊の管理下にあり、自衛隊は全く関わっていません。
この日基地を案内してくれた海兵隊パイロットのブラッドが管理事務所に電話し、
開けてくれたのが海兵隊の女性兵士であったことからわたしは判断したのですが。

もし自衛隊の管轄であったら、申し込みには予約が必要で、こんな簡単には
中に入れてもらえなかっただろうと思います。
自衛隊のこう言ったことに対する管理の厳正さに文句を言う気は毛頭ありませんが。



さて、冒頭の画像はここにあった零戦52型甲の操縦席詳細図です。
翼に仕込まれた機銃弾がどんな形で内蔵されていたのか、これを見て初めて理解しました。



この金色のプレートには、次のようなことが二か国語で書いてあります。


このビジターセンターは、日米両国間のたゆまざる相互理解と協力による
世界平和維持のために建設されたものである。
それはお互いの繁栄と世界平和を求める成熟した二国を築き上げるために
貢献した人々の証として存在する。

このセンターは昭和58年7月15日より昭和61年5月29日まで
米海兵隊岩国航空基地司令官を務めたドナルド・J・マッカーシー大佐の
提案および日米両国民の献身的な努力により実現したものである。


何とびっくり、なぜ米海兵隊基地に零戦があるのかというと、

基地司令の提案がきっかけでそのような事業が行われたらしいのです。

世界平和世界平和と短い文章の間に二回も世界平和がくるのがなんですが、
在日米軍としては、同盟国日本との連携をより緊密にするための友好事業の一環として
このような博物館を基地内に作ることしたようですね。

まあ、アメリカと日本の間の平和はともかく、その後のアメリカは少なくとも
世界平和に貢献しているとはお世辞にもいえない道を歩んで来たわけですが(笑)、
それはともかく、

「両国の友好と平和のために旧軍の名機零戦のレプリカを
かつてあったところに収めかつてのままに展示する」

というのはいかにもそういうことには心の広いアメリカ人ならではだと思います。
戦後のパージが酷過ぎて、「そこまでせんでもいいのに」というくらい
旧軍臭を排除することに異様に気を遣う自衛隊には逆立ちしても出来ないことを、
アメリカさんだとやってのける。そこにしびれる憧れるぅっ。


・・・・。

わたしはこういうときいつも自衛隊の姿勢を批判しますが、

自衛隊の方に誤解なきように付け加えると、その根本原因がどこにあるのかは
十分理解したうえで言っているのですよ。
そう、その原因がどこにあるのかが一番わかりやすく、かつ酷かった事件は、

「日本は決して悪い国などではなかった」

と論文に書いた航空幕僚長が解任させられた事件、あれです。
これをやってのけた(しびれないしあこがれない)時の政権与党が「保守」だなんて、
何の冗談なのかというくらいなのに、その後政権交代でメガトン級の売国政党がきましたからね。

そもそも左翼とは「国を売る」と同義の思想なのか?違うでしょ?



それもこれも手繰っていけば原因は、戦後日本にGHQが落としていった爆弾ともいえる
ウォーギルトプログラムであり、つまり戦争に負けたことそのものなんですが、
まあつまりこんな国になってしまったんです日本国というのは。

特に田母神事件以降、自衛隊関係者が保身のために口をつぐんで、
その手の連中
揚げ足を取られないように汲々としたとして、誰が彼らを責められましょうか。


そういえば2月の国会で維新の三宅議員がその当時の総理だった麻生財務大臣に

「きっとそのこと(田母神解任)を後悔しておられると思いますが・・・、
正しいことを言った人間をやめさせちゃいけませんよ」

と厳しい言葉を投げかけていましたっけ。
わたしは麻生さん好きですが、この点三宅議員と全く同意見です。



とにかく、ここのゼロハンガーは、アメリカ海兵隊のサイトによると


「世界でたった一つの、零戦を格納している掩体壕」

としてここにあります。




何やら時代を感じさせる案内看板。
ちなみに映画「零戦燃ゆ」の公開は昭和59年、1984年のことでした。
ですから当然ここにレプリカが来たのはそのあと、ということになるのですが、
海兵隊のHPや英語の資料を探しても、ここにいつこの零戦が置かれるようになったのか、
それについて書いてあるものは今回見つけることは出来ませんでした。

提案したマッカーシー司令官が在任中の昭和61年までであることは確かですが。



コクピットの横に上がれるようにつけられた足場の上から撮った写真。
後ろにアンジーがついて来ています。
ブラッドの方は何度も見ているらしく、向こうに見えるデスクで
鍵を開けてくれた女性兵士と雑談していました。

 


あまりちゃんとした展示ではないのですが、写真も多数あります。
右はちょうど付箋が見えませんが、政治家かな。
左は源田実。源田実も国会議員だったんですけどね。



航空長靴や雑誌の切り抜き、右の上段には、映画「零戦燃ゆ」のパンフと
スチール写真が並べられています。



零戦本などでこの写真を見たことがあるような気がします。



アップにしてみました。(大きすぎた)
手前の機も、その向こうを飛んでいる機のパイロットも、
カメラに向かって視線を向けています。

ソロモン海の上空で同航の九六式陸攻の機上から撮られたものだそうです。




神雷部隊「桜花隊」の写真もありました。



なぜかそこに山本長官機がブーゲンビルで撃墜されたときの写真が。


 
姓名不詳の搭乗員。



神雷部隊の生存者の手記『人間爆弾と呼ばれて』には、
この写真と同日の昭和19年12月1日撮影の写真が二枚掲載されているのですが、
この集合写真はそのいずれの写真とも違います。
場所も明らかに同じなのですが。

これは、連合艦隊司令長官豊田副武大将神ノ池基地に視察に来訪し、
その際桜花隊員に短刀と、神雷と書かれた鉢巻きを授与したときの記念撮影。

わざわざこのために撮影用のひな段を作ったようです。

本に掲載されている写真とは違い、これには肝心の豊田大将はじめ
お偉いさんたちが全く映っていないので、隊員だけで撮られた非公式写真かもしれません。



昭和25年当時の岩国基地を上空から臨む。



真横から。



謎の手書き広告。

ハリアーなりホーネットの木の模型を製作します、というものですが、
そのわりにはそれがどのようなものであるかの説明がなく、
見本も無く、写真も無く、おまけに製作者の連絡先もありませんでした。

一本の木から彫り上げるという、もし本当なら凄い手間のかかるものだと思いますが、
だとしたら2万円は安い。
しかし、どんなものかわからないので興味の持ちようも無いという・・・。



何の説明もない日の丸寄せ書きが。

近床金二郎という人の出征に際して贈られた寄せ書きです。
右の方に

「米英 ?千滅」

という文字が見えます。
「?」としたのは「斬」の左側に「殺」の右側、という見たことの無い漢字だからですが、
もしかしたら、

「米英 斬 殲滅」

と書きたかった(つまり間違い)のかなあと・・・。

まあいずれにしてもアメリカ人には到底解読できなさそうで、良かったですね。




零戦の後ろにはこのように国旗と海軍旗を掲揚してくれています。
これも自衛隊なら・・・いやもう何も言いますまい。



ゼロハンガーの見学が終わり、基地を後にしました。
国旗掲揚台はちゃんとライトアップできるようになっているようです。

ブラッド夫妻は基地の外に家を借りて住んでいるのですが、ブラッドが

「飛行機の時間までうちでお茶でも飲もうよ」

と言ってくれたので、お言葉に甘えることにしました。
そのご提案があったとき、

「え!そんな・・・。お宅にまでお邪魔していいんですか?」

と勿論英語ですがそういう風に聞いたら、

「House is just house.」

というブラッドの返事が少し面白かったです。

お宅にお邪魔して彼らの結婚写真を見せてもらい、わたしは案の定、
彼らの愛犬に猛烈に歓迎されたのですが、その話はまた後日。






岩国基地の零戦と「零戦燃ゆ」

2014-03-07 | 海軍

このエントリを作成する前に映画「零戦燃ゆ」を観直しました。
このときに見た零戦のレプリカが映画でどう使われていたか確認するためですが、
久しぶりに観て、映画としてはなかなか良く出来ている作品だと思った次第です。

零式艦上戦闘機の衝撃的なデビューから空の王者として君臨した黄金期、
それに続く斜陽と落日、そして終戦と「零戦一代記」を縦糸に、そして
戦闘機パイロット、整備員、そして製作開発、ついでに部品を作る工員、
という立場で関わる人々の戦争を緯糸にして構成された内容は、
アプローチと立体的な構成においてまず出色の出来と思われました。

映画の中から零戦が登場した部分をいくつかご紹介しますと、



台湾基地を出発する零戦。
列線にずらりと並んだ何機もの機体は壮観です。
この映画はこの映画用のレプリカを三菱重工業に依頼して作らせていますから、
ある意味レプリカといっても本家製作です。
まあ、エンジンは積んでいないので本物ってわけじゃありませんが。

そこで映画のデータを見ると、

「この映画のために、総工費7千万円で零戦1機を復元製作した」

と書いてあるのです。

はて。
この列線にたくさん並んでいる零戦はそれでは何?
今と違ってCG加工もできなかったわけですが。

主人公が飛び乗ったりするのは多分ここ岩国基地にある復元零戦だとして、
ラバウルのシーンでも結構たくさん零戦が(模型ではなく)出て来たんですが。



たとえばこのシーン。
あまりの辛さに海兵団から脱柵して逃げようとしていた浜田と水島を
通りがかりの加山雄三・下川萬兵衛大尉が連れて行ったのは、
試作機が置いてある格納庫。

映画「ハワイマレー沖海戦」について集中エントリを挙げたとき、
零戦試作機のテスト飛行映像が流用されていることを書いたのですが、
覚えておられますか?



これです。

このシルバーの試作機とされている零戦は、おそらく三菱が
塗装前に一度映画に出演させたということでしょう。
それはわかるのですが、これ。

 

「零戦燃ゆ」とは、まさにこの瞬間のことを指しているわけですが、
敗戦となったとき日本軍が、戦闘機を敵に渡す前に焼却処分するシーン。



まず、万感の思いを込めて水島がエンジンをかけます。



こんなところにしがみついて泣いている人が(笑自粛)



自分の手で引導を渡したい、と水島は自ら機銃の引き金を・・。

この後零戦はエンジンとプロペラの轟音を上げながら、
あたかも生きながら焼かれた殉教者のように業火に包まれていきます。

で、この零戦。

これって、本当に燃えているんですが、もしかしたらこの後、
「カーット!」
の声と同時に回りに待機していた消防隊が消火し、もう一度塗装しなおして
ここ岩国のゼロハンガーに持って来たのかな・・・・?


いや、物事は拘り出したら気になることばかりで全く困ったものです。



さて、ハンガー内はちょっとした博物館のようになっていて、このように
ブリッジを渡し、コクピットが見られるようになっています。
わたしも早速登ってみました。



シートは重量を少しでも軽くするために穿った穴が再現されています。



今これを見て初めて気がついたのですが、コクピットに明かりが点いてますね。
室内灯をつけると灯る仕組みなのかな。


このとき、監視がいるわけではないし、扉を開けてくれた海兵隊の女性兵士は
ここからは死角になってしまうところにあるデスクに座っていましたから、
もしその気になればコクピットに座ることも出来たと思うのですが、
なぜかまったく乗ってみることを考えつきもしませんでした。

たとえ一般公開されることはあっても、まず実際に乗り込むことは不可能なはずなので、
もしかしたら千載一遇のチャンスを逃してしまったかもしれません。
まあ・・・そうは言っても所詮レプリカだし・・・・。



カウリング部分。



この掩体壕は元からこういう零戦ぴったりサイズになっていたはずですが、
空襲の被害を極力受けにくいように非常に分厚い外壁になっているようです。
蒲鉾型のドームで、倒壊しにくいし、よく考えてあるなあと感心します。






なぜか救命落下傘も展示されております。
これは勿論旧軍のものではなく、海自の使用しているバージョンです。



なぜかここにも海自の落下傘が・・・。



ヤップ島沖から引き上げられ復元された五二型。
もしかしたらこれが小牧で見た零戦かも知れません。



写真右上、実際に飛んでますね。
これはおそらくゼロ・インタープライズというアメリカの会社が1994年に、
「里帰り零戦」として茨城県竜ヶ崎飛行場で飛ばしたときの写真。
当ブログ読者の中にはこれを実際に見られた方もおられたように記憶しています。

下真ん中の、二機が仲良く手をつないで飛んでいるように見える写真も
このときのもので、なんとゼロとP-51ムスタング。


Mitsubishi Zero Fighter & P51 Mustang 


このYouTubeの映像を見てなぜか鼻の奥がつんとしてしまったのは
わたしだけでしょうか。
 



このゼロハンガーの展示について、もう一日だけお話しさせて下さい。

 



 


岩国基地の「ゼロ・ハンガー」

2014-03-05 | 海軍

岩国基地は海上自衛隊と米海兵隊とが共同使用していますが、
敷地内はとくに両者を厳しく分けるようにはなっていません。
自衛隊の食堂にはマリーンズが「本日の定食」を食べに来ていましたし、
公共部分に関しては殆ど何の制限もないように見えます。
勿論海兵隊の区域、とくにハンガーやシミュレータ室などには鉄条網で区切られ、
そこに入るにはゲートにIDを認証させなければならないようになっているのです。

それではたとえば我々が入り込んできゃっきゃうふふと写真を撮りまくった、
パイロットの更衣室やブリーフィングルームはどうかというと、
とりあえず自衛隊員やゲートのセキュリティテェックを受け身分がはっきりしており、
関係者と一緒であれば特に誰何されることもなく、入ることができるようです。 



ところで、そのブリーフィングルーム「中国の間」(笑)で、
ブラッドがブリーフィングでは本当にこんなことやるんだよ、とばかりに
模型の飛行機を使って実演してくれたのですが、
前回その写真を貼り忘れたので、追加情報ついでに貼っておきます。

注目していただきたいのはブラッドのかっこいい航空時計でも、
ばーん!とアカラサマに広げてあるブリーフィング資料ではなく、彼の持っている模型。 



この写真をアップしたときに、いつものように単純に「ひこうき」とだけ認識していたわたしは、
適当に「ファルコンが」などと一度は書いてしもうたのですが、
アップされたのを読み直したときにさすがにこれは違うわ、と思ったので即座に消しました。
しかし、消す迄の一瞬の間に読者の、特に大変うるさい親切な方に見られてしまい

「相変わらず大変に大らか、かつ、意味不明な機体識別」という愛の無いコメントついでに、

大変な情報(ってほどじゃないと言われそうですが)をいただきました。
つまり、ここに見える「ひこうき」ですが、

右端、ロシアが「原産(?)」のSU27戦闘機「型」、
(一瞬F15にも見えますが、良く見ると機体の最後部にちょこんと尻尾(^^)
が出ているのが判りますか?これが大きな識別点)
その左続けて3機はF/A18戦闘機として、次の一番左端は、さかさに吊るしたスルメイカ、
・・もとい、
確かパンダの国の国産戦闘機と思われます。

・・・・・・

パンダの国の

パンダの国の

パンダの国の

大事そうなことだから三回言いました。

うーん、これはどういうことかな。
もしかしたらアメリカがー、パンダの国を仮想敵国としているってことかしら。(ぶりっこ)
もしかしたらも何も、このブリーフィング室が「中国の間」である時点ですっかりその気、
っていうか、全然隠してないないみたいなんですけど。

 
さらに。

SU27型機、スルメイカ戦闘機共、主翼には赤星が付いた国籍マークが描かれている様に見えますが?




写真拡大。
ボケていて
読めね~(笑)
いい加減にシャッターを押したのが悔やまれます。
きっとこの赤い文字で、海兵隊飛行隊の皆さんは何か面白いことを
やらかしてくれていたに違いないのに・・・・。
なんて書いてあるんだろうこれ。
ブラッドにメールで聞くわけにも行かないし・・・。

続き参ります。
 
もっともSU27は半島の北側も、ロシアから何機かを買って配備している様で、
何れにしろ赤星ですが。
パンダの国では、SU27をライセンス生産している筈です。
建造中の空母にも、それの艦上機型を載せるとか
言っております。
SU27はロシア「原産」なので、その模型がアメリカ海軍のこうした部署には有るのでしょうが、
スルメ戦闘機は、ちょっと、「ハッ」としました。

 なるほど。
さらに続編メールでは(行きがかり上さらしてすみません)

簡単にこの様なモノを写せて様々な意味で大丈夫なのでしょうかね?
「状況」が想定内での「話」で終れば良いのですが・・。

というこちらは正真正銘愛のあるご心配を頂いてますが、多分いいんじゃないかな。
そもそも隠すつもりなら関係者なら誰でも入れるブリーフィングルームに
でかでかと中国国旗など貼りはせんだろうて。

まあダメだったら消しますので、そのときには海兵隊憲兵隊の皆さん、連絡よろしく。

さて。

冒頭にでかでかと零戦の写真を挙げておきながらこのまま終わるわけにはいかないので、
話を続けます。

 

海兵隊のホーネットドライバーであるブラッドの妻のアンジー(仮名)
の運転で基地内を案内してもらっていたとき、彼女はこの前を通過しながら

「ここには零戦が格納してあるんだけど、夫が後で見せて上げるって言ってたわ」 

というので、全く基礎知識なくここに来て、こんなものがあるとは
夢にも知らなかったわたしは驚喜した、というところまでお話ししました。

これは、旧軍時代からあった掩体壕をそのまま零戦の格納庫として保存してあるのです。
岩国に海軍基地ができ、呉鎮守府練習隊が配置されたのは昭和14年(1939年)のこと。
練習隊は96名の訓練生と150機の零戦を有していました。

1943年9月には、海軍兵学校の分校が岩国基地内に設立され、その前年度大量に採用された
約1000名の士官候補生が常時訓練を行っていました。
一度このブログでお話しした小沢昭一氏の兵学校78期もこの「岩国分校」組です。


その後、本土空襲が激しくなりますが岩国もまた1945年、8月に米軍のB-29爆撃を受け、
その被害は製油所、鉄道運輸事務所、鉄道駅周辺に集中していました。



集中して掩体壕を狙ったものらしく、凄まじい銃痕が壁に残ります。



掩体壕の中の航空機(多分零戦)はいったいどうなったのでしょうか。



壁面には12.7 mm AN/M2機銃の銃痕と、20 mm 機関砲のそれが
はっきり分かる大きさの違いを見せています。



20ミリ弾が穿った深い孔は、当時のコンクリートが非常に粗い、
小石が混入した状態で生成されていたことがよくわかります。

岩国が最後に空襲に遇ったのは、終戦のまさに前日、8月14日のことでした。 



インターネットで岩国の零戦画像を検索すると、このガラス窓が全開され、
中に格納してある零戦が外に引き出された状態のものばかりです。
つまり、こちらの方が結構希少な画像であると言うことになりましょう。
この零戦は基本岩国基地に入ることができるなら、誰でも見ることができるそうです。

ところで、マリーンコーアの英語サイトは、この「ゼロ・ハンガー」を紹介する文を
このような出だしで始めているのです。

「1940年代初頭、多くの太平洋の空の要所は
単座式三菱零型戦闘機の
プロペラエンジンに支配されていた」

うむ、なかなかかっこいいではないか。 
で、興味深く読ませていただいたんですが、零戦の歴史の中にこんな文章も。

「1940年に日本と交戦中であった中国の国民党の為に仕事をしていたシェンノート将軍は、
ゼロファイターがが空に現れる2年前に、その航空性能についての警告を米国に報告していた」

 クレア・シェンノート大将、フライングタイガースの件でこのこともお話ししましたね?

「彼の報告は一笑に付され無視された」

はい、その通りでしたね。
ところで、今この項を書く為に「零戦燃ゆ」を観直したのですが、
この映画の主人公は加山雄三演じる下川大尉でも、堤大二郎演じる浜田正一でも、
(浜田正一は杉田庄一がモデル) ましてや語り手の整備兵、水島でもなく、
零式艦上戦闘機そのものなんですね。

この映画ではシェンノート報告が無視された下りをこんな風に説明しています。

マニラの極東陸軍総司令部。
ブレリートン極東航空司令官とサザーランド参謀長が 

「ゼロファイターは台湾からやって来た。シェンノートの報告にもそうあります」

とマッカーサー司令官に報告する。
(このときサザーランドは台湾のことを『フォルモサ』と言っている)

「Well, that is a lot of Fxxk!(翻訳自粛)
自動車も満足に作れん日本人にロングレンジファイターなんぞ作れるか!」

と言い捨てたところにちょうど零戦が掩護する爆撃機がやってきて
派手に空爆を始めるのを見て驚くマッカーサー。

「我々は甘く見すぎました。新しい敵、ゼロファイターです」

とサザーランド。 一同愕然と空を見上げる。


さて、この映画「零戦燃ゆ」のときに制作された実物大の零戦五二型。
こ岩国のゼロ・ハンガーに格納されているのは、外でもないそのレプリカなのです。
ご存知の方はもうご存知でしょうが、わたしはこのときまで知らなかったの。 


われわれが基地見学に行くことが決まったときから海兵隊のホーネットドライバーである
ブラッドは、最初からどうもこの日本人家族をせっかくだから
基地内にあるゼロ・ハンガーに連れて行ってやろう、と思っていたようです。

思っていても前もって予約など一切していないあたりがアメリカ人ですが、
逆に、当日誰かに頼んでも何とかなると思っていた節があります。
絶対そういう融通の利かなさそうな自衛隊と違って、所詮アメリカ人の組織ですし、
パイロットでしかも大尉ならすぐいうことを聞いてもらえそうだし。(たぶん)




取りあえずハンガーの前に来てみたわたしたち。
鍵がかかっているのは当然のことですが、ブラッドはこの内線番号に
ここで電話をかけ始めました。
部署を呼び出して、ちょっと開けてくれないかと頼んでいます。



(電話中のブラッドと彼を見守る妻)

いや実はですね。
このときにブラッドが電話をかけ終わり、

「今誰か開けに来てくれるって」

とニッコリ笑ったので我々はわーいと盛り上がり、待ちながら
雑談をしていたんですが、電話を弄びながら話していたせいか、
ブラッドはよりによって何もカバーをしていないiPhoneをコンクリート上に落とし、
見事にガラスを割ってしまったのでした。

あーあ。

この日一日しかつき合ってないけど、ホーネットドライバーといってもアメリカ人、
しかも若い男。
見かけは強面なのに結構お茶目で粗忽さんだったりしたのが可愛かったです。


ところでそのとき、岩国基地の周りにも「米軍基地反対」「オスプレイ反対」みたいな
いわゆる基地の外の人たちは来ないのか、みたいな話になったんですね。

「しょっちゅうくるよー。そういうの」

ブラッドは苦笑いしていたのですが、そのとき何を思ったかTOが、

「彼女(わたし)は、そうやって日本からアメリカ軍を追い出そうとしている層は、
どこかでちゅ(ぴーっ)とうと繋がっていて、本人たちがそう思っていないながら
日米離反工作をさせられているというのが持論でね」

と言い出すではありませんか。
な、何を言うかな当の米国軍人を目の前にして。(動揺)

ところがブラッドは妙に真面目な顔になって

「あ・・・・そうなの?」

とわたしに聞きます。
ええまあ、みたいなことを答えたのですが、ブラッドはもう少し後になって
わたしに改まって

「あなたは歴史に精通しているのか」

とか聞いていました。
日本に住んでいても案外日本人との付き合いがない米軍人としては、
リアルの日本国民からこのような意見を聞くこともなく、ましてやこういった考えは
彼に取って新鮮だったというか、もしかしたら少し驚いたのかもしれません。



ブリーフィングルームにあった戦闘機の模型や「中国の間」から、
日本に配置されている米軍人が、というかアメリカがパンダの国のことをどう見ているか、
うっすらと(実はそれどころじゃなかったけど)わかったような気がするわたしでしたが 、
米軍軍人であるブラッドも、一般日本人の中にもこういう考え方をする人間もいるのだと
もしかしたら初めて知ったということです。

これが本当の国際交流(笑)
 



そんな話をしたりブラッドがiPhoneを壊したりしていたら、車が来て
女性の兵が鍵を開けてくれました。
来たときちゃんと敬礼をしていたんですが、間近だったので写真に撮るのは控えました。

開けたらすぐ行ってしまうのかと思ったのですが、中に入って隅のデスクに座りました。
さすが大ざっぱなアメリカ人とはいえ、内部を見せている間放置できないらしく、
我々が見学し終わるまでここでじっと待つ構えです。

奥さんのアンジーはここに入るのが初めてだと言っていましたが、
ブラッドは基地祭などのときに零戦が出されているのを何度か見たことがあるそうです。


というわけで中に入ったので、次回は、展示してあった零戦と写真などの資料についてお話しします。 

 





 


映画「銃殺 2・26の反乱」~処刑

2014-03-03 | 陸軍

2・26事件の映画は数多くあれど、彼らを裁いた法廷シーンを描いているものは皆無です。
なぜかというと、当時の軍法会議はマスコミには公開されず、
しかもその公判記録は戦後逸失して長らく詳細が不明になっていたからです。

しかし、当時からはっきりしていたことは、軍人15名に北一輝と西田税の二人を加えた
この17名が反乱罪における「首魁、あるいは群衆煽動の罪」を問われ死刑に処されたこと、
そしてその裁判が弁護人をつけず、審理は全て非公開、一審即決、上告を通さずの
暗黒裁判であったということです。

それにしてもこの異常な人数の処刑は一体何なのでしょうか。


安藤、そして栗原は死刑になる人数があまりに多いことに衝撃を受け、
磯部は最後までこの判決を恨んでいたといいますが、これは彼らに限ったことではありません。
事件が歴史の一ページとして語られるようになった今日の目で見ても、
その量刑の厳しさには、尋常でない、何か大きな力が働いていたらしいと窺い知れます。

この裁判には、まず民間人である北と西田は事件への直接の関与がないとして、
不起訴または執行猶予付きの刑が妥当だとされていたのを、陸軍大臣の寺内寿一

「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」

と主張したため死刑に決まっています。
この公判で無期禁固となった元歩兵少尉の池田俊彦は、調査起訴した乞坂(さきさか)春平

「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、
人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、

全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、
我々一同はもとより、
どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも
不当に極刑に追い込んだ張本人であり、

二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した
(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」(wiki)

と戦後厳しく糾弾しています。
池田は首魁とされた中でただ一人死刑を逃れた人物であり、
処刑された蹶起将校たちの遺志を伝えるべく戦後数々の著書を残し、
2002年に88歳で亡くなりました。

確かに彼らが革命成立後、総理大臣、陸軍大臣として真崎や荒木を立擁立して
新政府を立てることまで計画していたのだとしたら、この二人が全く法的に責任を問われず、
思想指導をしたという西田や北が処刑されたというのは、バランスからいっても全く不明瞭で
かつ不公平であったと言うしかありません。




映画に戻ります。

山王ホテルで拳銃自殺を図った安藤大尉が回復し、
他の将校たちが収監されている獄房に帰ってきました。



房への通路を歩く安藤に栗原、磯部が声をかけます。

このときに彼らは襲撃の際傷を負って入院していた病院で
兄に差し入れさせた果物ナイフで割腹し、頸動脈を突いて自殺した
所沢の航空兵大尉であった天野(河野)のことを讃え合い、

「さあ、これで皆そろった。公判で頑張ろうぜ!」

と檄を飛ばし合うのですが、その結果は前述の通りです。



磯野大尉は監獄で「行動記」という手記を記しました。
面会のたびに夫人に持ち出させて、それが後世に残されることになります。

「何にヲッー、殺されてたまるか、死ぬものか、
千万発射つとも死せじ、
断じて死せじ、死ぬことは負けることだ、
成仏することは譲歩することだ、
死ぬものか、成仏するものか、

余は祈りが日日に激しくなりつつある、余の祈りは成仏しない祈りだ」

「余は極楽にゆかぬ。断然地ゴクにゆく、
・・・ザン忍猛烈な鬼になるのだ、涙も血も一滴ない悪鬼になるぞ」

(『妻たちの二・二六事件』澤地久枝著)

佐藤慶の演技には、最後までこのような勁烈たる執念と怨念を吐き続けた
磯部浅一がまるで乗り移ったかのような鬼気迫るものが感じられます。

映画では公判の様子をまったくすっ飛ばして、厳しい量刑がでたことを字幕ですませ、
安藤大尉が判決に憤る彼らの声を聞きます。

「暗黒裁判だ!」
「俺たちの声を国民に知らせろ!」
「畜生、俺は地獄から舞い戻って軍首脳を皆殺しにしてやるぞ!」
「俺は銃殺された血みどろの姿で陛下のおそばに行って
 洗いざらい申し上げるんだ!」


最後の言葉は、一年後に処刑となった磯部が、7月12日にまず15名が処刑になるとき
その銃声をかき消す為に朝から隣の代々木練兵場で行なわれていた空砲による訓練と、
同じく音を消す為に朝から低空飛行を続けていた飛行機二機の爆音、そして
ときおり聴こえる「万歳」の声の合間に混じる実弾の音を鋭く聞き分けて(澤地)

「やられていますよ」

と悲痛な声をあげたあとに絞り出した怨嗟の言です。
自分たちの至誠を受けいれることを拒まれた天皇陛下に対し、彼がどのような思いでいたのか、
何よりもこの言葉が多くを語っています。



精一杯の心づくしの弁当を持って面会に訪れる安藤の妻房子。

蹶起将校は殆どが結婚してまもない若い妻たちを後に残して行きました。
許された僅かな面会時間にせめて自分の美しい姿を夫に見てもらおうと、
彼女たちは「毎日お祭りのように綺麗に着飾って」夫との逢瀬にやってきたそうです。

そして、雨の降るある日、おそらく6月という設定だと思いますが、
今日の面会が最後になる、と看守に言い渡され愕然とする房子でした。



実際に行なわれた7月12日の処刑第一組は、
安藤、栗原、香田清貞、竹嶌(しま)継夫、対馬勝雄でした。
処刑用の刑架は5つで、この日の受刑者は5人ずつ、朝7時から8時半までの間に
三回に分けて銃殺されました。



処刑執行のあいだ、刑務所の一室では家族が来て遺体の引き取り待っている、
という設定で映画では喪服姿の集団が映し出されますが、
実際では家族はこの日、

「御遺骸引取ノ為 本十二時×時
 東京衛戌刑務所に出頭相成度」

という通達を前日夕方に受けて駆けつけています。
報せを聴いてから徹夜で喪服を縫い上げた妻も、間に合わなかった家族もいました。

前にも言ったようにこの日刑場から聴こえる銃声を隠す為に、
陸軍は隣の練兵場で空砲による訓練を行ない、飛行機を上空に飛ばせていた程で、
ましてや遺族に銃声を聴かせるようなことはしなかったはずですが、
この映画では夫の命が奪われた瞬間を妻が銃声によって知る、
というシーンがラストとなっているため、あえてこのようにしたのでしょう。

 

あらゆる226の映画で何度もお目にかかった処刑場の刑架。
意識せずとも記憶に残ってしまうほど特殊な形状をしています。
刑架からわずか10メートルの位置に銃架があり、そこには
二挺の三八式歩兵銃が固定され、照準は前頂部に合わせられていました。



最初に眉間を狙って撃ち、その一発で絶命しなければ心臓部を狙います。
頭に巻かれた白い布の真ん中の赤い(白黒映画ですが多分)丸は 、
日の丸ではなく、刑執行者の為の照準なのです。

このとき、彼らがこのように陸軍の軍服で刑に服したというのは
おそらくこのときには既に全員が軍籍を返上した身であったことから
実際にはありえないと思うのですが、これは映画的な演出であろうと思われます。

家族に引き渡された遺体はいずれも白装束を着ていたといいます。
確か映画「大日本帝国」ではすでに死に装束のような着物を着て刑架にかけられていましたが、
家族が見た遺骸は時間を経て既に死後の処置を施され、せめてもの配慮か
血痕や銃痕を遺族が目にすることはなかったといいますから、
刑執行後処置とともに着替えを行なったというのが本当のところでしょう。
銃痕を隠す為には、遺体の額に白い布が巻かれていたそうです。 



最も急進的な首魁とされた栗原中尉。

香田が音頭をとり、天皇陛下万歳、大日本帝国万歳を
のども裂けんばかりに叫びました。
香田は

「撃たれたら直ぐ陛下の身許に集まろう。
事後の行動はそれから決めよう」

と言い、叫びの間には誰かの笑い声すら風に混じって聴こえたと言われます。





実際には磯部浅一の処刑は一年後に行なわれているのですが、
そこは映画ですので、安藤と一緒に処刑されたことになっています。
磯部は事件発生の時点ですでに一般人となり軍服を脱いでいましたから、
このように軍服のまま処刑をうけることはさらにありえません。

天皇陛下への恨みを最後まで隠さなかった磯部は、
やはり民間人である西田、北、自分と同じく軍を追われた村中と、
4人で死刑になっています。

この4人は刑に際して誰も天皇陛下万歳を叫びませんでした。

15名が処刑されてからの約一年の間に磯部が書いた手記には

今の私は怒髪天を衝くの怒にもえています。
私は今は陛下を御叱り申し上げるところに迄精神が高まりました。
だから毎日朝から晩迄、陛下をお叱り申しております」

「天皇陛下 何と言う失敗でありますか 何と言うザマです、

皇祖皇宗におやまりなされませ」

「こんなことをたびたびなさりますと、
日本住民は陛下を御恨み申す様になりますぞ」


などという凄烈ともいえる天皇への怨嗟が書き綴られています。

このとき、真偽のほどは確かではなく、誰だったかも曖昧なことながら、
最後の瞬間、

「秩父宮陛下万歳」

と叫んだ将校がいたとされます。

秩父宮の存在とが226事件の関わりについてはかいつまんでお話しましたが、
最後の瞬間天皇陛下の御名ではなく、秩父宮を讃えて逝った将校には、
非常に消極的ながらも、自分たちと自分たちの行為を徹頭徹尾拒否なさったその方への
恨と怨嗟の気持ちがあったと考えられはしないでしょうか。


そして、もともと天皇親政は御自らのご意向ではなかったとはいえ、どうして天皇陛下は、
最終的には若者たちが見放された絶望感で「御恨み申し上げる」ほどに彼らを処され、
異例とも云える激しい御怒りをこの事件の関係者に向けられたのか。

このような考え方があります。

事件発生後、弟の秩父宮はすぐさま宮中に参内されましたが、そのときのことを

「(天皇に)叱られたよ」

と後日仰っておられたというのです。

元々この兄弟の間には親政の是否を巡って激しい議論があったこともあるといい、
実際にも蹶起将校たちが頼みにしていたのがまず秩父宮だったと言われます。

 「維新のあかつきにはいざとなれば秩父宮を立てるつもりだった」

という風評は
火の無いところに煙は立たないの譬えどおりであり、
さらに資質的に豪放で外交的、リーダーに向いているという性質の弟と、
内向的で学者タイプの兄との間には齟齬のようなものが根本にあったとも云われます。


つまり、他ならぬ身内である弟宮の存在が事件の影にあったことが、
天皇陛下の異例とも云える激怒の根本の理由であったとは考えられないでしょうか。

 



蝉の声の中、刑の執行を待ち続ける家族の部屋から
その重苦しい空気にたまりかねたのかついと廊下に出る安藤の妻。
折しも刑場で菊の御紋のついた銃から夫の体に銃弾が放たれ、
その銃声があたかも自分の体を貫いたように、彼女はよろめきます。




ところで、この苛烈な死刑執行の判決を出した裁判においては、
全てが

「血気に逸った青年将校たちが不逞思想家に騙されて暴走した事件」

であるという前提の下に審理が進められましたから、
たとえば決起将校が革命成立後の新政府の首班に立てようとしていた
真崎仁三郎も、荒木貞夫も、誰一人としてその責任を問われることはありませんでした。

ただ、陸軍の皇道派はこれをもって一掃され、対立していた統制派の
東条英機らがこれ以降一層発言力を持つようになっていきます。
武藤章もその一人で、2月28日の段階で陸軍に東京陸軍軍法会議を設立し、
事件にはすべからく厳罰主義で臨むべしということを表明しました。

2・26裁判における異常なほどの死刑執行の多さはここから来ています。

青年将校たちの蹶起は、統制派の立場から見ると皇道派を一掃する
「カウンター・クーデター」(wiki)のありがたい奇貨であったともいえます。
真崎ら皇道派は彼らを利用する為に煽ったと言う面はあるものの、実際のところ
その制御に苦しみ、最終的にに暴走した彼らの行動は自分たちの首を絞めることになりました。

つまり蹶起によって最終的に利したのは、統制派の軍部であったということになります。
青年の純粋な熱と侠気だけでは、老獪な陸軍首脳部の黒さには
到底太刀打ちできなかったともいえましょうか。


この裁判で判決を下した匂坂春平はのちに

「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。
その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、
それは二・二六事件の将校たちである。

検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。
死なせた当人はもとよりその家族の人たちに合わせる顔がない」

と語り、ひたすら謹慎と懺悔の余生を送ったとされます。




安藤大尉が処刑を言い渡されたのは執行前日の夕方のことでした。
最後の夜、安藤大尉は家族への遺書、所感を書き綴り、それから
このような最後の句を残しています。


国体を護ろうとして逆賊の名

万斛(こく)の恨 涙も涸れぬあゝ天は  鬼神輝三


 

 


 

 


映画「銃殺 2・26の反乱」~鎮圧

2014-03-01 | 陸軍

関東地方一帯に珍らしい大雪が降った。
その日に、二・二六事件というものが起った。
私は、ムッとした。どうしようと言うんだ。何をしようと言うんだ。

実に不愉快であった。馬鹿野郎だと思った。
激怒に似た気持であった。

プランがあるのか。組織があるのか。何も無かった。
狂人の発作に近かった。
組織の無いテロリズムは、最も悪質の犯罪である。
馬鹿とも何とも言いようがない。


「苦悩の年鑑」太宰治


わたしは太宰治という作家を今日に至るまで好きと思ったことはないのですが、
「苦悩の年鑑」で太宰が糾弾するところの2・26事件についての論評は
この、一人で死ぬことも出来ずその度にキャフェーの女給だの愛人を道連れにするような、つまり

「自分の人生は自分のためにのみ浪費する、ましてや他人の人生をや」

とばかり清々しいほど利己的で人生ロックで、ナルシズムの塊である小説家であれば、
おそらくこのようにいうのが当然かもしれないと妙に感心してしまったものです。

特に「プランがあるのか。組織があるのか」という彼の誹りは
ある意味この事件の本質を突いており、それこそがこの事件について
大方の感じる初歩的な疑問でもあるかもしれません。

しかし太宰はあくまでも結果だけを見てこう言っているわけで、
実際のところ、青年将校たちは無策と言い捨てるほどでもなく、
彼らとて決して何の公算もなく始めたわけではなかったのです。
少なくともそこには一定の期待値が当初はあった事は確かです。


それが何だったのか、少しこのことについて思ったことをお話ししてみます。



映画の出だしが実はこの菊の御紋であったことは、
この事件の大きなキーワードが「皇室」であることを象徴している、
と前々回書いたのを覚えておられますでしょうか。

天皇陛下の周りに巣食う奸臣軍閥を排除し、天皇親政を実現する。
彼らの目指したのはここであり、それがために事を起こしたわけですが、
肝心の天皇はこれに激怒され彼らを逆賊と御呼びになった・・・。
このことは決定的な彼らの誤算でした。

事さえ起こせば維新は成功し、それが必ず天皇陛下の御意に適うと信じ込んで
この挙に及んだオプティミズムというべき信念は何に支えられていたのか。

太宰が言うところの「何も無かった」はあくまでも結果であり、
「結果として何も無かった」と書き換えられるべきで、
それでは彼らの目算とはどこに根拠を置いたものであったのか。

ここに、秩父宮、つまり天皇陛下の弟宮の存在が大きく関わってくるのです。

検索していただければお分かりですが、

『秩父宮と二・二六』『秩父宮と青年将校』

このようなタイトルの本を始め、世には秩父宮と事件の関わりを記した文が
あまりにも多いのにお気づきでしょう。

 陸軍において宮の存在が政府や海軍への牽制となっていたことなどから2・26
の際、
反乱軍将校が秩父宮
擁立を画策していたとする風評が生まれた(wiki)

このような噂の元となったのは、秩父宮が

●陸軍歩三におられたころ、国家改造に理解を示され、決起将校のひとり坂井中尉に
「蹶起の際は一中隊を引率して迎えにこい」と仰せになった (中橋中尉の遺書)

●陸士の同期生であった首魁の一人西田税が改造の断行を力説したところ、
それに対して理解を示された(西田の自伝)

といったことだとされます。
2・26への宮の関与は勿論ありませんでしたが、つまり青年将校たちは行動に際し、
秩父宮を通じて天皇に自分たちの真意至誠
が必ず伝わる、と信じていた節があるのです。




彼らが世を憂い、いざ立つべきとそのときを窺っていたとき、相沢事件が起こりました。

士官学校事件を契機に行なわれた「統帥権干犯の波及」として起こったこの事件。
青年将校たちは公判を熱心に公聴し、「中佐一人にそれをさせておくわけにはいかない」
といった義憤から彼らの中に蹶起への気運が高まります。

そのとき、第一師団(安藤中尉始め多くが所属する)は満州への派遣を
三月に控えているという状態でした。
これも、若手将校たちの動きを察知した軍首脳部が画策した
「島流し」的措置であったことは明らかです。
つまり彼らのなかに

「今しかない」

という焦燥が瞬間風速的に高まり、行動を現実にしてしまったのでしょう。


「巨悪を排除し新しい世界秩序を打ち立てる昭和維新」


という題目は、彼らの中では何人たりとも非難する余地のない理想であり、
若く一途でいわば世の汚れを知らない彼らは、これが正義であるならば
必ず全ての人々にに受け入れられると信じていた節があります。。

事実、世間では彼らの無謀さを非難する声と同じく、
その意図に一定の理解を示す擁護論が当時の社会にも起こりました。
彼らの挙が私利私欲に基づくものではなく、世を憂えてのことであり、
人々はそこに信念と殉教を見い出したからでしょう。

しかし、その行為を

「それは只だ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」

と一言に断罪した人物がいます。
他ならぬ、昭和天皇その方でした。



困った困ったと鳩首会談する陸軍首脳部。

困るのは当然、青年将校たちは自分たちの挙が「天聴に達した」と聞いただけで
自分たちが義軍だと認められたと勘違いしている(させたのはこの人たちですが)
のにも関わらず、陛下は彼らを「逆賊」と御呼びになっておられたからです。

この御怒りの凄まじさは、本庄武官長が陛下に

彼ら将校としてはそのようにすることが国家のためであると考えたのだと思う」

と彼らをかばうようなことを奏上すると、

 「それはただ私利私欲の為にせんとするものにあらずと云い得るのみ」

という、まるでピシャリと鞭で打つような非情の一言が返って来たというくらいでした。
因みに事後、この本庄武官長は反乱軍を弁護したという理由で職を解かれています。



「矢崎(真崎)さん、あんたは彼らの尊敬を集めているのだからその責任を」
「責任?わたしは今は一参議官にすぎん!」

はい、お偉いさんたち、全員で責任の押し付け合いモード入りましたー。



しぶしぶ蹶起部隊の前に現れた真崎は(もう本名でいいよね)、
彼らに取りあえず原隊復帰を勧めます。

史実によればこれは27日の2時のことで、

真崎は誠心誠意、真情を吐露して青年将校らの間違いを説いて聞かせ原隊復帰をすすめた。
相談後、野中大尉が「よくわかりました。早速それぞれ原隊へ復帰いたします」と言った。
(wiki)


となっています。
それにしても、この映画では荒木や真崎を必要以上に矮小化して描くことで

「実はそそのかした本人のくせに、全く責任を取らなかった」

という説を強調しているように見えます。

彼らを利用したのは真崎であり荒木である、ということをこのような演出で補強するやり方は
やはり所詮は映画であるという気がします。
そういうことにしておけば、非常に分かり易い「構図」に事実を収めることが出来る、
このような意図をも感じないでもありません。



日本人は「忠臣蔵」が好きです。
赤穂浪士が大石内蔵助を討ったのは法律的には犯罪であるが、
身を呈して主君の仇討ちをするというその行動の義はあっぱれであるという理由からです。
実際はそう悪人でもなかった大石内蔵助を必要以上に「悪」とすることによって、
さらにこの物語は典型的な日本人の判官贔屓のメンタルにフィットしたといえます。

それと同じく、2・26事件において、

「蹶起部隊が行なったことは犯罪には違いないが、
この若い純粋な青年たちを四十七士に対するように理解してやりたい」

という心情からそこに分かり易い悪の存在を求めたとき、それが真崎であり荒木であったといえます。

わたしが幼い頃読んだ「まんが日本の歴史」で、通りすがりのおじさんが言った

「彼らは利用されたのではなかったか」

の一言にも、こういった日本人の性向が表れているような気がするのですが、
これはわたしだけの考えでしょうか。

ちなみに、わたし個人は、彼らを太宰のように馬鹿と切り捨てることはもちろん、
私利私欲や名誉欲の為に事をしでかした犯罪人であると罵倒することは到底できません。

そして彼らを「利用した」のは皇道派だけではなかったとも思うのですが、
それについては最後の項でお話ししようと思います。




この日から安藤隊は山王ホテルに宿舎を移すことになります。

「西洋料理食ったことあるか。
ハンバーグステーキ、ビーフステーキ、今にこんなもの毎日食えるようになる」

下士官と兵が食い物の話題で盛り上がっていると、妙にハイテンションのウェイトレスが
支配人の差し入れとしてキャラメルとおせんべいを差し入れてきます。

実際の山王ホテルの従業員の証言によると、彼らの雰囲気は暗いもので、
広間に置かれていた酒を飲み、歌を歌い続けていましたが、なかには
「こんなことになって」と泣き出す兵もいたそうです。



このころから戒厳令の御勅を受けて、戒厳司令部が組織され、
首都東京に蹶起部隊を鎮圧する為の兵力が集結を始めました。



海軍は東京湾に第二艦隊を集め、「長門」始め各艦はその砲を
全て反乱部隊の駐留地に定め、築地には陸戦隊が上陸しました。

しかし、これ本当に戦闘になっていたらどうなっていたんでしょう。
都内に戦艦の主砲がドンパチ撃ち込まれ、その破片が降り注ぎ・・・。
いかに「脅し」のためであったとはいえ、どこまで海軍は「やる気」だったのか・・・。



山王ホテルも囲まれております。

反乱部隊を鎮圧すべし、との奉勅命令が出されたのでした。
そのことが青年将校たちに伝わるシーンですが、

「今朝我々に対して奉勅命令が出されたそうです」
「奉勅命令?なんだそれあ」
(姿勢を正す)「陛下から」
(全員姿勢を正す)「我々を鎮圧せよとのご命令が下ったんです」

この、「陛下」「畏れ多くも」のあと、全員がバネ仕掛けの人形のように
姿勢を正して言葉を継ぐ、ということをこの映画は逐一几帳面にやっています。
戦後の映画では天皇の御名を口にしながらふんぞり返ったままのものがありますが、
ここではテーマがテーマなので、神経質なくらいその表現にはこだわっているようです。

その直後山下奉文が詰め所を訪れ、奉勅命令をあらためて彼らに伝えます。
そして隣のドアをいきなり開けたら、そこには・・・・



じゃ~ん。(BGMもこんなかんじ)

なんとびっくり、人数分取り揃えられた自決セット一式が。
おいおい、いつのまにこんなものホテル側が用意したって云うのよ。

この自決セットのようなものが手回しよく揃えられていたというのは本当で、
それは事件が集結を見て彼らが武装を解かれ、捕縄がかけられたとき、
白木の棺、白木綿などの用意がされているのを彼らも見たと言うことです。

「死んでもらうのが一番好都合だったのである」(澤地)

ということでしょうか。

この映画は28日の正午と29日の山下訪問での出来事ををあえて混同しています。
28日、栗原中尉は

「反乱部隊将校は自決するから、その代わり自決の場に
天皇陛下から勅使を派遣してもらいたい」

と提案しています。
しかしこれを伝えた武官長は、またしても陛下の峻烈な怒りの御言葉に息を飲むことになります。

「(彼らに)勅使を賜り死出の栄光を賜りたく」

こう伝えた武官長に、陛下は

「自殺するなら勝手に為すべく、この如き者に勅使など以ての外なり」

と切り捨てられたというのです。。
それにしてもなぜ天皇陛下は「余人の誰も見たことが無いほど感情を露にして」
この事件の首謀者を憎まなくてはならなかったのでしょうか。

理由の一つとされているのが、鈴木侍従長が襲われたということで、実は
鈴木の安否を確かめる為に陛下は受話器を取られ、事情を知る所轄交番の
一警官に御自ら容態をお尋ねになっておられるのです。
その警官は最初に電話をかけて来た人物に
「これから日本で一番偉い方がお話しになる」とだけ云われ、その後、自分のことを
『朕』と呼ぶ人物が侍従長の容態を尋ねたので体が震え気が動転したということです。
鈴木の妻が皇室の養育係であったことも、鈴木を特別に気をかけられた要因でしょう。

しかし、このときの御怒りはそれだけの理由にしては畏れながらいささか異常ともいえます。
ここに、秩父宮の存在、つまり「天皇家の兄弟同士の相剋」を見る説があるのです。

このことについて、次回少しお話ししてみたいと思います。

 


さて、映画に戻りましょう。
まず原隊復帰を受け入れた野中四郎大尉が訪れ、

「引き上げようと思う。兵隊がかわいそうだ」

と決心を告げますが、安藤大尉は断固それを拒否します。
安藤大尉は最後まで蹶起には消極的でしたが、一旦事を起こした後は
誰よりも強行に事を完遂することを主張しました。



こんな写真、確か教科書に載っていましたよね?
アドバルーンと言うのが今にして思うと当時の最も分かり易い
メッセージの伝達法であった、ということです。

このとき、戒厳司令部発表の「兵に告ぐ」という放送が流され、
さらに「下士官兵に告ぐ」というビラがまかれました。

下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遲クナイカラ原隊ニ歸レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ國賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
    二月二十九日   戒嚴司令部



蹶起部隊の将校たちにも動揺と憔悴が見えてきました。



そんな折り、野中四郎大尉が自決したとの報が入ります。
磯部がそれを受けて「兵を帰そう」と言い出しますが、

「俺は最後まで兵と行動を共にする!
維新革命はどうなったんですか!」

と安藤大尉はあくまでも反発します。
実際安藤はこのとき磯部に向かって

「僕は僕自身の意志を貫徹する」

と答えたそうです。
そんな中も戒厳本部からは矢の催促のように

「自決するか、投降するか二つに一つしかない」

などと言ってきます。



ここにいきなり新キャラ登場。

新キャラ「皇軍相打つことだけは避けねばならん」
安藤「陛下は我々に死ねと仰るのですか」
新キャラ「そうだ。今帰れば下士官兵は咎められん」

このとき安藤大尉は「そんなの信用ならん」と言うのですが、
実際その言葉は正しかったのです。

2・26に参加した下士官兵たちはその後もれなく前線に送られ、上からは

「軍機を汚したのだから白骨となって帰国せよ」

などと云われ、満州での戦役そのものが懲罰となっていたという事実があります。
特に安藤隊にいた下士官兵はその殆どが最前線で戦死させられているのです。


この「君一人は死なせはせん。俺も死ぬ」と言っている人物は
おそらく第3連隊付の天野武輔少佐であるという設定かと思われます。
天野少佐もまた、説得失敗の責任をとり、29日未明に拳銃自殺しています。




そしてついに安藤大尉が第六中隊の下士官兵を集めます。



「皆はこの中隊長を信じてよく付いて来てくれた。
満州に行っても体を大切にしてしっかりご奉公してくれ」

安藤は大勢が決したと知ったとき、一度自決を図っていますが、
そのときは磯部に羽交い締めにされて止められています。
磯部は安藤を「部下にこんなに慕われている人間が死んではならない」と説得し、
その間にも上層部は何とか安藤と兵たちを引き離そうとしますが、第6中隊の結束は固く、
全員が安藤大尉と一緒に死ぬつもりであったということです。

しかしその安藤大尉がついに決断したのです。



安藤大尉は最後の訓示を与えた後、皆で「吾等の六中隊」の歌を合唱するよう命じました。
この映画では、彼らのテーマソングでもあった「昭和維新の歌」が歌われます。





映画では歌が続く中、一人ホテルの部屋に入り、ピストルを発射、
おかしいと思い付いてきた久米兵曹に抱きかかえられ瀕死の状態で遺書を遺す、
となっていますが、実際の安藤大尉は歌の終了と同時に発砲しています。




続く