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佐村河内事件を音楽関係者の立場から語ってみる。

2014-03-09 | 日本のこと

右手骨折のリハビリ期間ですが、イラストも久しぶりにやってみました。
復帰第一作が佐村河内ってのはどうよ、という声も(自分の中で)ありますが、
まあ、この程度の雑な絵なら無理もせずちゃっちゃと描き上げられるようになりました。
本当にデジタル絵画の技術とはありがたいものです。


さて、おそらく日本のクラシック音楽界空前絶後のスキャンダルといえる
この事件については皆さんもご存知のことと思いますので
ここで改めて説明することはいたしませんが、世にあふれる意見の中で
音楽が分かっていないと陥りがちな誤解があると感じたので、
少しそのことをお話しします。

医者や弁護士、自衛隊もそうでしょうが、ドラマで描かれる特殊な世界は
ほとんどがその当事者から見ると「ないわー」ということだらけで、
所詮その中の世界はその中の人にしか完璧に理解できるものではない、
ということを、おそらく「中の人」たちは日々実感しているでしょう。

今回の事件における「ゴーストライター問題」についても、世間の人と関係者では
おそらくかなり考え方も見方も違っているものと思われます。


ジャズミュージシャンの隠語で「バイショー」という言葉があります。

バイショーとは商売のことで(ジャズ屋は何でもひっくり返す傾向にある。
トーシロ、シーメ、チャンバー、ビータ、ノアピなど。実に恥ずかしい)
彼らにとってはホテルのラウンジやパーティの仕事のことをさすのです。
プライドだけは高い彼らは、ライブハウスの「自分がやりたいジャズができる」仕事なら
安くてもいいが、バイショーならこれだけ貰わないとやってられん、という
不思議な価値観を持っており、わたしの昔の知り合いの音楽事務所の人は、

「なんなんでしょうねー。
これからホテルのラウンジに「ライブハウス」って看板かけようかしら」

とぼやいていたことがあります。


話が寄り道から入りましたが、今回の事件でゴーストライターであることを告白した
作曲家の新垣氏にとって、18年前から佐村河内のオーダーする曲は所詮この
「バイショー」であったということなのです。

クラシック、というか純音楽を志す学生というのは、好むと好まざるに関わらず、
音楽大学では無調の曲を書かなくてはなりません。
クラシックというのは文字通り「古い」ということであり、入学時に
古典の手法で曲を書いて入って来る音楽学生は、入学した段階で
すでに調性音楽の基礎はできているという前提で、そこから勉強を始めます。

わたしがまだ高校生だったとき、無調の現代音楽発表会のコンサートに一緒に聴きにいった
やはり音大志望の先輩は、ため息をつきながら

「大学入ったらこんな曲書かないといけないのか・・・」

と嘆いていたものです。
そんな彼はその後優秀な成績で卒業し、某音大の先生になりました。

つまり、新垣氏のような純音楽の書き手にとって、音楽を書くというのは
研究者にとっての実験のようなもので、古典の時代から連綿と続いて来た音楽の流れを
さらにとどまることなく新しい手法そして音を開拓するための挑戦なのです。

シェーンベルグが12音技法を創始したのが戦前のことで、日本の作曲家も
「海行かば」の信時潔はそのシェーンベルグの楽譜を日本に持ち帰っていますから、
つまり現代の、というかそれから80年後の「現在の」音楽というのは、
調性音楽をもう過去のものとしている、ということをまず前提にしていただきたいのですが、
その観点で、さらにこの新垣氏の実力から考えた場合、佐村河内の依頼した楽曲とは

「現代音楽を勉強した者になら誰にでも書ける」

というイージーモードでのいわば余技であり、純音楽、つまり自分のやりたい音楽では
「市場価値が無い」(つまり稼げない)現代音楽作曲家にとって、生活の糧を得るための
「バイショー」であったということなのです。

しかし、口ではそういいながら音楽をすることが好きでミュージシャンになったジャズメンが、
たとえバイショーの仕事でもいい加減にせず、それどころか案外楽しんでやってしまうように、
新垣氏は、間違いなくこれらの作曲の仕事を「楽しんでいた」はずです。
それが証拠に、

「売れる訳が無いと思っていた」

といいながら、その反面

「自分の曲が音になるのはうれしかった」

と言っているではないですか。

音大の講師としての給料、個人レッスンの礼金、そしてこういった「バイショー」である
編曲や作曲の仕事をして、純音楽家はむしろ自分の追求する音楽のために
それらのお金をすべてつぎ込む傾向にあります。

何かの弾みでコマーシャリズムに乗り、映画音楽などを任されるようになれば、
初志を忘れてそちらが「本職」になってしまう人もいるみたいですが、(例・三枝某)
おそらく現代音楽の第一線で頑張っている作曲家はそれを「堕ちた」と見るのではないでしょうか。

新垣氏が恩師の三善晃氏が亡くなったのでゴーストライターを告白した、というのは
恩師に「堕ちた」と見られるのが何より辛かったからだとわたしは思っています。



今回、佐村河内の会見をわたしは怪我療養中で引きこもっているのをいいことに、
全編ニコニコ動画で見ることが出来ました。
怪我をして良かったことの一つです。(もちろん冗談です)

その中で、佐村河内氏が新垣氏への非難と攻撃に終始し、ついには
「絶対訴えます。名誉毀損で」と言い出したときには驚きましたが、
氏の新垣氏批判の中で、新垣氏がギャラを釣り上げるために

「最初の金額提示には首を横に振り、二度目はうーんと首を傾げ、
三度目にニッコリと笑った」

ということをした、とあたかもそれが金に汚いような印象であるかのように
吹聴したとき、わたしは何かすごく腑に落ちた気がしました。
これは、音楽家、ミュージシャンに共通の

「仕事で金の話を直接してこなかった人種」

のありがちな反応だからです。

わたしの身内に法律関係者がいますが、わたしが音楽業界で仕事をしていた頃、
その契約のいい加減さに、ほとほと呆れていたものです。

「ギャラの契約書なんてないの」「ない」
「勤務に対する取り決めとか、判子を交わしたりとか」「しない」
「よくそんないい加減なギョーカイで問題が起こらないなあ」「よく起こってるよ」
「・・・・・」


特にジャズ系の仕事ではどんな仕事でもミュージシャンはあまりギャラについて聴かないし、
下手したら仕事に入るまでいくら貰えるのか知らないこともしばしばで、
逆にはっきり金額の提示を求めたり、交渉をする人が疎まれる傾向にあるといったら、
もしかしたら皆さんは驚かれるかもしれません。

クラシック系の仕事はその点まだちゃんとした上で行われることが多いですが、
それでも事前の契約書などほとんど交わさないのが普通です。
ギャラがいくら欲しいか、はっきりと言わないし言えない、というのは
どこかに「お金のために音楽をやっているのではない」というジレンマが
どんな音楽家にもあり、新垣氏もまたその一人であったということでしょう。



わたしは今回の事件を「詐欺」と見た場合、世間の人々の少なくない数が言うように
「新垣氏に責任がある」とは全く思いません。

ゴーストライターを使って芸能人や歌手が自分をよりたくさん「売る」というのが
この世界では常態化しており、その「下請け」には「バイショー」と割り切って彼らのために
曲を書いている無数の音楽家がいるのを、よくよく知っているからです。

ここで言う訳にはいきませんが、何人かの知り合いは「え、あの人の」といわれる
ソングライターのゴーストをしていますし、出版界にはもっと多くの「幽霊」がいるでしょう。

逆に言うと、自分の本当にやりたい仕事のためには「持ち出し」も致し方ない、
そんな芸術家たちにとって、それらの仕事は大事な「飯の種」なのです。



「世間では当たり前とされているゴーストライターがいたからといって、
それを責められるのはおかしい、佐村河内のどこが悪かったんだ」

と、むしろ新垣氏を責める人がいるらしいですが、今回の問題は、
プロダクションが「商品」として売っているソングライターのために
安定した作品を提供させるためにゴーストライターを使う、という構図ではなく、
最初から「ゼロ」の男が、自分では全く何もできないのに、100パーセントの
部分である新垣氏を使って作曲家を詐称していたことにあるのです。

新垣氏の誤算は、この稀代の詐欺師が、作曲家として自分を売り込むために
よりによって障碍者を詐称し、それを「障害にも負けずにそれを克服する物語」
が大好物の大衆に向かって売り、儲けようとするメディアが、その存在を
思ってもいなかったほど肥大させてしまったということだったでしょう。

一度転がりだした雪玉のような「聾の作曲家の物語」は、新垣氏の

「売れる訳が無いと思っていた」

という当初の予想を大きく裏切り、NHKのドキュメンタリーで佐川河内氏が
今見れば「どんな気持ちでこれやってたんだろう」と唖然としてしまうような
三文芝居をそれらしくドラマに仕立ててしまったことでよりいっそう神格化し、
もしソチオリンピックで高橋大輔がメダルを取ったら、佐川河内はもちろん、
新垣氏もはや引くに引けないところに追いやられてしまう所まで来てしまった。

「なぜ今告白したのか」

と佐川河内本人も、世間もそのように新垣氏を責めていたようですが、
新垣氏にすれば今も何も「一刻でも早く」しないと、手遅れになるというところだったのでしょう。



佐川河内は楽曲の著作権を手放す気はなく、その理由として

「緻密な設計図」

を書いたのは自分、つまり、創作への自分の関与を挙げたそうですが、
あの「設計図」を見て、わたしは声を上げて笑ってしまいました。

こんなもんで交響曲ができたら誰も苦労せんわ。

そして会見途中で、ある記者が設計図の中の謎の用語の中から指を指し、
「これはなんですか?ペンデュラム
と尋ね、その答えが

「覚えてません。宗教用語だと思います」

だったのでもう一度笑いました。
ペンデュラムって・・・・振り子ですよね?


断言してもいいですが、新垣氏はあの、訳の分からない「設計図」とやらは
全く参考にしていないどころか、おそらく見てもいないと思います。

本当にあの設計図を渡していたら、ですが。

そしてこれもまず間違いなく、新垣氏は佐村河内のことを心の中で
何の素養も無いのに作曲家のふりをしたがるアホとして蔑み、
この設計図に書かれている、音楽関係者なら笑ってしまうようなあれこれの
小賢しい指示とやらも馬鹿にしていたに違いありません。

(わたしならそうすると思うけど、新垣氏は優しい方みたいなので断言しませんが)


もう一つ、わたしが佐村河内の小賢しさを笑ったのが

「調性音楽の復権を目指していたのにそれが半ばで挫折したのが残念」

みたいなことをのたまったときです。
前半で縷々述べたように、純音楽というのは、もはや人々が楽しみで聴く音楽とは
別の次元で発展し進化させる「創造者」「挑戦者」によって行われています。

調性音楽はこれら先端の音楽にとって、すでに「克服」されたものであり、
進化済みのものでもあるわけですから、もはやそこに復権などしようがないのです。

そもそも調性音楽とは現代に生きる私たちにとっての「普通の音楽」であり、
同時に「人々が聴きたいと望む音楽」であり、「売れる音楽」であり、
・・・・つまり、調性音楽のフィールドというのは、
最先端の音楽と棲み分けをしたうえで存在している訳ですから。

クラシック業界にとって「わかりやすい調性音楽」で純音楽の現場に斬り込むのは、
いわば竹槍で敵に向かうようなもので、負けるとわかっているから誰もしようとしない。
ただど素人である佐村河内だからこそ、こういうことを思いつきそれができたといえます。

その際、彼がただの素人なら単に討ち死にで終わることでも、佐村河内の場合は
「耳が聞こえない」というとんでもない(笑)障害があったとされました。

つまりこの障害あらばこそ、たとえ彼が竹槍を振り回していても許されたということです。



その音楽に純粋な学術的意味は無いとわかっていても、音楽家は皆
なんだかんだ言って、大衆と同じように調性音楽でないと駄目みたいなところがあります。
「現代音楽の仕事なんて嫌い」
とはっきり言うオケマンをわたしは一人ならず知っています。

もちろん純音楽を本当に好きで聴いている人もいるでしょうが、一般的に専門家ほど、
好き嫌いとは別に佐村河内作品のような既存の手法で書かれた作品は
「映画音楽みたい」「何何そっくり」などと馬鹿にするのが常です。
しかし本来なら「いい曲だけどまるでマーラーだね」と冷ややかに批評して終わるところ、
実はこれは聾者が頭をゴンゴン壁に打ち付けながら苦しんで作った曲だとなると、

「まあそういうことならいいんじゃないか。良い曲だし」

と、ペダンチックな態度を緩和するための言い訳を、そこに見出すことができたのでしょう。
戦前から連なる現代音楽の歴史を知りもせず、そういった「お目こぼし」を受けながらも

「調性音楽を復権することが出来ていた」

などと本気で思っていたらしい佐川河内とは、
どこまで怖いもの知らずのお目出度い奴だったんでしょうか。




さて、音楽関係者の立場から思ったことを書いてみましたが、
もう一つ、義手の少女バイオリニストについての記者とのやり取りで気づいたことを書きます。


神山記者「なぜ舞台上で義手つけろと言ったんですか?」 
佐村河内「そのほうが感動するでしょ」 
神山記者「目の前で義手つけると感動する?」 
佐村河内「・・・感動すると思いますけど・・・。感動しません?」


わたしはこのやり取りに慄然とするものを感じました。
世間の倫理的常識というもののスタンダードから言えば、
こういうことを平然と言える人間を、大抵の人は「鬼畜」と呼びます。

もし自分自身が本物の障害に苦しんだ経験があったら、おそらくは
このような非道なことは、たとえ心の底で思っていたとしても決して人前で、
ましてやこのような会見で口に出すことはできないでしょう。

にもかかわらず、佐村河内はそれを言った。しかも、あっさりと(笑)


彼の言い方はそれがどう思われることかについて全く疑問すら感じていない、
むしろ無邪気とも思える調子がありました。

会見最初に、障碍者を利用していたとされることについての弁明として

闇に沈む人たちに光を当てたい」

と言ったこともそうですが、わたしはこれを聴いたとき、
この人間こそが精神の闇を抱えていることを確信しました。


まあつまり「そういう人」だったということで話が終わってしまうのですが、
わたしの着目は、むしろ彼がそれを全く悪いことだと思わず 

「感動しませんか?」

と無邪気に言い放った相手が、その障害を持つアーティストに実力以上の評価を与え、
健常者の優れた音楽家よりも宣伝し持ち上げて、今回のいくつかの番組のように
物語を付加してまで売ろうとする、マスコミの人間だったということにあります。

記者はこの質問に答えませんでした。

「ええ、(世間は)感動します。
障害者が奏でる音楽でもないと今時クラシックなんて売れませんよ」


これが、じつは佐村河内を持ち上げた(そして今落とそうとしている)マスコミの本音です。

佐村河内のこの問い返しを、肯定しても、否定しても、
マスコミは自分たちの日頃の姿と倫理的常識の二律背反に陥ることになるのです。

つまりあれは、自分たちが公開リンチで追いつめ非難している佐川河内という存在が
本人に自覚は無いながら鏡となって、メディアの姿を写し出した瞬間だったわけです。

あの会場に居並んだ、マスコミの「当事者」たちの中で、
この痛烈な皮肉に気づいた人間は果たして何人いたでしょうか。