またまた間が空いてしまいましたが、
昨年の秋に参加した米軍基地歴史ツァーの続きです。
さて、ランチが終り、米軍軍人を囲んでのふれあいタイムもすんで、
我々はまたもや歩き始めました。
この頃には雨が降ったり止んだり、いずれにしても曇天に恵まれたため、
いずれの写真もどんよりと暗いものになってしまっています。
しかし、この海軍病院周辺は、なんというかこういう天気の方が、
趣と言うか、その歴史の重さみたいなものを感じさせて風情があると思い、
冒頭写真はあえてモノクロで加工してみました。
「皇太后陛下行啓記念の碑」。
いくらなんでも暗すぎ?
この皇太后行啓記念の碑ですが、こことは別に、海軍病院の前にもあります。
あまり日頃から陽の当たらない場所らしく、辺り一面は苔むしています。
碑の向こうに見えている建物が、海軍病院。
このたびの御行啓は、昭和12年11月17日となっています。
この年号からして、この皇太后とは、昭和天皇のお后であらせられた
香淳皇后陛下であると思われます。
皇太后陛下の御行啓が行なわれたというのは、赤十字の関係でしょう。
日本赤十字社は、明治10年(1877)、西南の役の際、敵味方無く救護を行なう施設として
熊本の洋学校に設立された「博愛社」が前身です。
最初にそれを西郷従道が許可せず(内戦は政府と逆賊の戦いであるからという理由で)、
そのかわりに皇族の有栖川宮熾仁親王が中央にそれを諮ったことと、西欧では当時、
皇室がノブリスオブリージュの観点から赤十字運動に熱心であったため、
日本でも明治天皇皇太后の昭憲法皇后が積極的にこれに参加され、華族や地方の名家が
中心的な役割を務めることに鳴ったのです。
以後、皇太后陛下が名誉総裁を、そして皇族の方々が名誉総裁を務めておられます。
名誉総裁 皇后陛下
名誉副総裁 皇太子殿下・同妃殿下 秋篠宮妃殿下
常陸宮殿下・同妃殿下
三笠宮殿下・同妃殿下 仁親王妃信子殿下
高円宮妃殿下
(日本赤十字社HPより)
えーと、マンホールかな?(←ボケ)
これは、方位板で、おもな都市の方角が示されています。
拡大図。
石に彫ってあるのは日本語で、金属部分は英字表記です。
占領されてからもしかしたら米軍のためにわざわざ付け足したのかな?
とも思ったのですが、いかがなものでしょうか。
これは今は将校クラブ、昔もおそらく将校用の建物であったところにあり、
全国各地から赴任して来ている海軍軍人が、この場所で故郷に向かって
頭を下げるために備えられたものです。
江田島の兵学校にも同じような方角指示板のある『八芳園』があり、生徒は故郷に向けて
頭を下げたものだそうです。
この辺りは、一応「日本庭園」と名前のついている一角。
この真ん中のしょぼい感じの木なのですが、なんとビックリ、
紀元二千六百年記念樹。
紀元二千六百年といいますと、昭和15年。
神武天皇の即位から数えて2600年目がこの年であったということで、
ご存知とは思いますが、このころに開発された兵器は悉く
この年を「零」としてこの前後から制式されているため、「零式艦上戦闘機」とか
「九九式爆撃機」「九三式酸素魚雷」と名付けられているのです。
ちなみに、現代の自衛隊の武器は西暦を制式にしているため、
93式、というと近SAM、即ち近距離地対空誘導弾に付けられていたりします。
済みませんねえ本当に画像が見にくくって。
この庭そのものが紀元二千六百年記念に作られたのですが、
そのきっかけ、というかこの植樹をしたのが、この人物でした。
The Last Emperor finale
ちょうど今日、移動の中の車でこの曲「ラストエンペラー」が流れて、
ちょっとした偶然を感じたので、貼ってみました。
愛新覚羅溥儀。
映画をご覧になった方はご存知でしょうが、陸軍によって満州国に設立された
傀儡政府の執政として担がれた、中国王朝のラストエンペラーです。
溥儀はこの年、日本を訪れ海軍病院を慰問しています。
海軍省の最後の医務局長は、保利信明中将でしたが、溥儀の訪問は
この保利が少将のころで、この人物がこのような史跡を残すことを計画したようです。
戦後、溥儀は東京裁判に出廷し、その姿は映画「東京裁判」に見ることが出来ますが、
このとき溥儀は保身のために偽証をしたことを、
「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」
と、『我が半生』という自著で告白しています。
これは海軍病院は海軍病院でも、アメリカ軍が建てたもの。
御行啓の碑のすぐ側にこのような祠が遺っています。
昔はここにご真影が飾ってありました。
任地に発っていく、つまりここから戦地に赴く前には
必ず海軍軍人たちはここで写真を遥拝していったそうです。
勿論進駐軍が接収してからその痕跡だけがこうやって残されているだけです。
勿論、墓地や慰霊碑というものではなく、写真が飾ってあったにすぎませんが、
戦後のアメリカ軍は、もはや無用のものとなっても取り壊すことをしなかったようです。
取り壊すことが出来なかった、とでも言った方がいいでしょうか。
目黒の海軍研究所も、呉の海兵団跡もそうでしたが、アメリカ軍はどこかの国とは違って
建物はできるだけ保存して使い続け、そして、このような日本人が手を合わせていたものは
その価値や意味合いのいかんを問わず
「触らぬ神に祟りなし」
とでも言うべき配慮で、ほとんどそのまま残しているようです。
腐っても文明国家である限り、いかに戦争で負け支配された民族であろうと、
精神の蹂躙は彼らの中に激しい憎悪を蓄積していくだけであり、特に
この日本人という人種に関しては表面を押さえつけても決して根本では屈しない、
得体の知れない強さを持っていると彼らは思っていたのではないでしょうか。
このご真影の祠に佇んだ軍人のことごとくが、そののち戦地に赴き、
そこで斃れていったという歴史をもし知っていれば、
たとえその中ががらんどうになったとしても、取り壊すことには
誰しも畏れを抱くのが当然であろうと思われます。
アンビュランスの字がバックミラーに映ったときに正しく見えるようになっているのは
日本と同じ。
日本がこれを導入した方が後だと思いますが。
車体はトヨタですね。
これが旧横須賀海軍病院。
海軍病院は明治13年に開庁、関東大震災で建物は失われ、
今ここに在るのはそのあと作られたものです。
すなわち、戦争中、海軍軍人たちがここで治療を受けていた、当時のまま。
そういえば、「大空のサムライ」の写真版に、ガダルカナルで目をやられて帰国した
坂井三郎氏が、片目を包帯で巻き、病人衣を着、専用の帽子まで被らされて、
この建物の前で座っている写真が掲載されていましたっけ。
あれは、このソテツの前だったのかな、などとふと考えました。
建物は所々改装がなされているそうです。
勿論前面は舗装されていませんでしたし、スロープの付けられた入り口は
昔は車寄せになっていました。
建物に沿って植木が立ち並んでいますが、ここには何も無く、
入り口の向かって右側にももう一つ通用口があったそうです。
何度も塗り替えているに違いない壁ですが、レリーフはそのまま残されています。
アメリカ軍がここを使っていなければ、おそらく疾っくにこの世から無くなっていたでしょう。
おそらくこの石段も昔のものであると思われます。
説明は全くありませんでしたが、構内には往時のままであると思われる
建物がそこここに点在しています。
これは、長官とか、偉い人の宿舎だったのではないかしら。(予想)
アメリカ人の物持ちのよさもここまでくると感心します。
雨が降って曇っているのでよりいっそうおどろおどろしい雰囲気の建物。
しかし、窓の様子などを見ても、現在も使用されているようです。
これも・・・。
病人衣を着た海軍軍人が暗がりに立っていた、なんて話は過去に無かったのかしら。
このソテツも病院ができたときからここにありました。
坂井三郎氏が座っていたのはこの前だったかも・・・。
当時は小さな植木だったソテツが、百年のときを経てこんもりとした大木になっています。
勿論この建物は病院として現役です。
それどころか、日本の医大をでた学生がインターンシップを取ることが可能。
なんでここを志願するのかって?
そりゃあなた、日本にいながらアメリカの医療施設で働けるからじゃないですか。
これぞ本当の国内留学。
この表示板には
「精神医学」「ソーシャルワーク」「薬物乱用リハビリ」
と実にアメリカらしいですね。
岩国で薬物についての啓蒙ポスターを見ましたが、ここでも・・。
まあ、薬物と言っても、マリファナ、吸引剤、アンフェタミン、
ついでにアルコール中毒や喫煙製疾患なんかもこの範疇みたいです。
われわれのツァーは中から歩いてここに到達するので、ここを通り過ぎて
昔は横須賀病院の正門だったところにたどり着きます。
門柱は当時のままだそうですが、門灯は戦後つけられたもので、
昔はもっと門が狭く、反対側の門柱は撤去して作り直したようです。
門塀は塗り重ねた塗装で元々のレンガは全く見えません。
こういう、むかしの銘板を壊さずいまだに保存してくれているというのは、
本当にありがたいですね。
こういうのを見ると、アメリカ人に感謝してもしたりない気持ちです。
もし戦後日本が管理していたら「海軍」とつく銘板など、
あっというまに破壊されていたに違いありません。
戦後は他ならぬGHQに媚びて。その後はノイジーマイノリティの左翼どもに配慮して。
この「フラッキーホール」と書かれた建物は、
なんだってこのようにものものしく防備がなされているのでしょうか。
物干竿かと思ったら、これは、鉄条網。
ここにある旗、青が司令官在中の意味だったような・・・・。
時間が経って、説明を忘れてしまいましたorz
色々と物事にこだわって、寄り道しながらお話ししていくというのも、
ここまで間延びしてダラダラ進行すると、こういうこともあるわけで考えものです。
(といいながら最終回に続く)