ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

映画「燃ゆる大空」~日本戦争映画の「ドラマツルギー」

2013-12-14 | 映画

先日、加藤隼戦闘隊の映画「あゝ陸軍隼戦闘隊」について書いたとき、
劇中使用された「燃ゆる大空」という曲が、戦中陸軍省の公認で作られた、
同タイトルの映画の挿入歌であり、なんとあの作曲界の大物、
山田耕作大先生によって作曲されたということを知ったわけですが、
それを知ったついでにアマゾンでこの映画のDVDを購入いたしました。

そのとき「あゝ陸軍」の音楽担当者はこの映画の存在を知らなかったのではないか、
と書いてみたわけですが、(多分そんなことはないと思いますが)もしそうだったとしても、
情報が今ほど簡単に手に入れることのできるわけでもなければ致し方なかったかもしれません。
現代のように汗一つ書かず一歩も外に出ることもなく、このような映画を手に入れることができる、
これを当たり前としてつい過去に対して傲慢になってはいけませんね。


そして例によって最初はもう一台のパソコンで(最近MacをTOからもらった)
流れているのをちらちら見ながら作業をする、という観かたをしていたのですが、
この映画、いつもと違って、劇中、音声が全く聞こえない部分が異常に多い。
しばらく何も聞こえてこないのでふと画面を見ると、役者は静の演技の真っ最中。
セリフがない部分をBGMで埋め尽くすということをしない、省エネ映画です。

戦時中の映画とはおおむねこのような「す」を多用することが多く、
こういった時代による表現法の違いを知るのもまた一興です。


さて、この「燃ゆる大空」、陸軍省・陸軍航空本部の全面協力のもと、
皇紀2600年記念作品として制作されました。
もちろん国策映画というわけですが、国策映画にしては、内容が暗い。
同じ国策映画の「雷撃隊出動」もそうですが、日本の国策映画というのは、
華々しく敵をやっつけてその成果を誇るというより、むしろ戦闘で死んでいく仲間を惜しみ、
後に続くことを誓う、という悲劇調が基本となっている気がします。


この映画でも、主人公となる飛行学校の少年飛行兵仲良し4人組が一人減り二人減り、
三人目がいまわの際に「軍人勅諭」を唱えて死ぬ、というシーンがクライマックスとなっており、
これを観てはたして国民の戦意が高揚するのか?と思わず心配してしまうほどです。

戦後の戦争映画というのは、ことごとく「人命が失われる悲劇」というドラマにフォーカスを当てて、
戦争そのものを描くことから逃げている、とわたしはかねがね思ってきたのですが、
何のことはない、戦中の国策映画さえこの照準の当て方に大した違いはなかったということです。

ただ、大きな違いは登場人物たちが仲間の死に痛烈な悲しみを受けても、
それを押し隠し、

「立派に死ねて羨ましい」

と口を揃えて言うことと「天皇陛下万歳」という言葉がタブーになっていないあたりでしょうか。
(当然ですが)

映画は、陸軍航空飛行学校の訓示シーンから始まります。
これがまた、ご丁寧にも、大隊整列の号令と番号点呼を全部やるのよ。
それがなぜか実に本当っぽい。
番号の言い方がとても俳優がやっているとは思えないくらい「何を言っているかわからない」、
つまり日常的にこれをやっている人たちのそれなわけ。

「これは絶対本物の陸軍航空兵たちに違いない」

とこのシーンから思ったのですが、やはりこの映画、陸軍の全面協力で撮影され、
現役空中勤務者が撮影に参加していることがわかりました。
この映画は、少年航空兵たちの日常をリアルに描くことによって、少飛の宣伝もかねています。

つまり、「空の航空兵」と同じく、陸軍の「リクルート映画」でもあるわけです。
ところが、繰り返しになりますが、劇中、少飛の仲間が次々と戦いに死んでいく。
その死を嘆く。「しっかりやるぞ」と出撃してまた一人やられる。

それでも「宣伝になる」と陸軍省が判断したのが当時の国情というか世相でしょうか。


こういう映画によってあらためて考えさせられるのですが、もしかしたら、
戦前と戦後、全く戦争に対する立ち位置は変わっているのに、
日本映画というのはドラマツルギーの基本において変わっていないのではありますまいか。
つまりどういうことかというと、戦争によって失われる命への哀悼であるとか、
戦争そのものが悲劇であるということは、戦前においてもドラマの大前提として成立しているということです。


両者の大きな違いはその悲劇たる戦争に対して「しかし誰かがそれをやらねばならぬ」とするか、
「絶対こんなことをやってはいけません」とするか、というベクトルの向きだけなのです。

もっとも、戦前の映画が明確に国民の「行くべき道」を示しているのに対し、
戦後戦争映画の主張する「絶対にこんなことがあってはいけない」は、じゃあそのためにはどうするんですか、
ということになると、そこは皆さんでお考えください、というものばかりなんですけどね。

「連合艦隊司令長官山本五十六」「男たちの大和」
まだ公開されていませんが「永遠の0」などもどうやらその典型の模様。
いや、別にそれが悪いとは言いませんが。


ただわたしがここで言いたいのは、仲間の死に奮い立って我もいざ戦わん、というメンタリティが
「正しいかかどうか別にして」、
こういう戦中の映画を見る限り、これが当時の日本軍人の戦争に対する普遍的な在り方であり、
これを理想として日本軍というのは成立していたことは紛れもない事実であるということです。

問題は、どうしてその「事実」を「事実」として描くことができなくなったかということなのです。

死ぬのはいやだと泣く軍人(ex.男たちの大和)や戦争に反対する軍人(ex.山本五十六)
ばかりを描いて、
太字で大書きするように「戦争は悲惨だ」と言わないと、
それでは戦争の悲惨は観ている者に伝わらないのか。


決してそうではないとわたしは思うのですよ。



「天皇陛下万歳」「靖国で逢おう」と多くの軍人がそういって死んでいった、
これは事実なのですし、昨今の映画のようにそういった部分を避けて描くより、
そのままを描き、
観る者に戦争が悲惨かどうか、
戦争はするべきかどうかの判断くらい観るものに任せるべきだと思うんですがね。


まあ、そういう描き方をしたが最後「戦争讃美だ」と怒鳴り込んでくる厄介な人たちがいる以上、
現代の映像制作者は、現実としてディフェンシブな表現に逃げざるを得ないわけで、
これは同情します。


いや、同情はしませんが、理解は出来ます。




話がそれましたが、ようやく映画の説明に入ります。



タイトルの後、陸軍省検閲済み、さらに陸軍航空部協力、という字幕が出て、
次ぎにくるのがこれ。
皆さん、ちゃんと最後まで音読できますね?

内容といい、この字幕といい、戦意高揚というよりは、
我が国のために戦って死んだ者への鎮魂がテーマであることが確認できます。



この、前に立っているのは主役の大日向伝であろうと思われますが、
もしかしたら後ろの将校は本物かもしれません。
そして、先ほども言いましたが、整列している生徒たちはきっと本物。

こういう昔の、しかも若い軍人の写真ではなく映像を見ると、
この若々しい肉体の持ち主が、今はおそらくほぼ全員がこの世に無いことや、
この映像が撮られてから後、どんな場所でどんな死に方をしたのだろう、
などということをつい考えてしまいます。

出演した俳優ですら全員鬼籍に入っているのですからね。

全員が番号による号令をかけた後、英霊に対する黙祷が行われています。
こういうところで、先日お話しした「ああ陸軍隼戦闘隊」だと、
既成のクラシックなんぞを引っ張ってくる訳ですが、
この場面では実に荘重な式典風のBGMが流れます。

むむ、できる!

音楽担当の名前を見たわたしはただちに膝を打ちました。(比喩表現)

早坂文雄

クラシック関係者なら誰でも知っている純音楽の大御所であり、また、
黒沢、溝口という大物監督に気に入られて、「生きる」「七人の侍」、
「野良犬」「細雪」「羅生門」「酔いどれ天使」・・・・、
日本映画の名作の数々の音楽を手がけてきた、映画音楽界の巨匠ではないですか。

挿入歌の「燃ゆる大空」はこれも巨匠の山田耕筰の手のよるもの。
さすがは皇紀2600年記念作品、陸軍お金かけてます。




さて、その後は、少年飛行兵たちの描写が始まります。
洗面に始まって食事、



銃の手入れ、洗濯など。
もちろん昼間は航空訓練もあるはずですが、それより先に
日常生活をリアルに描いています。

自習したり、休暇の外出を誘い合ったり。



手紙が来たら、教官の前で開封して

「異常ありません!」

と報告しなかればなりません。しかも女名前だと、

「その女の人は誰だ」

と聞かれてしまいます。

「おばあさんです」
「そうか、おばあさんか」

兵学校でも検閲があったといいますから、ここでも当然中身を読まれている訳で、
おばあさんか若い女性かくらいは内容でわかるような気がしますが。

この少飛の生活描写の部分は、出来るだけ後半と対比を持たせ、
できるだけユーモアを交えて語ろうとしている様子が見えます。

 

仲間同士で髪をバリカンで刈り合うのですが、消灯ラッパが鳴ってしまい、
トラ刈りのまま終わってしまって慌てるシーン。

このトラ刈りされている方が、あの、歌手灰田克彦
もしかしたら、「野球小僧」「恋は銀座の柳から」「鈴懸の道」
こんな歌をご存知の方もおられるでしょうか。

軍歌は「ラバウル海軍航空隊」「加藤隼戦闘隊」などをレコーディングしています。

灰田は26歳のとき、招集されて中国戦線に従軍しています。
しかし、重傷の黄疸を患い、陸軍病院に入院しただけで軍生活が終わりました。
この映画は、応召が解除になった彼が歌手に戻ってからすぐ撮られた映画で、
このとき灰田はすでに 29歳になっています。

バリカンを持っているのが、彼と同期の飛行兵という設定、月田一郎。
この役者さんは食中毒のため36歳で若死にしてしまったのですが、このとき31歳。

灰田は若作りなのでそれなりですが、こちらはどう見ても「少年」には見えないのが辛いところ。



左から、35歳、29歳、31歳、不明。
この老けた4人の少年兵たちが、映画の主人公です。

左端が、ヘンリー大川こと大川平八郎
この人のことだけで一つエントリが出来そうなくらいの俳優です。
本題ではないのでざっと駆け足で紹介すると、草加の名家に生まれ、
実業家になるために渡米して、皿洗いをしながら好奇心で俳優学校に入り、
俳優学校が閉鎖したので、元の目的だったコロンビア大学で経済学を勉強したという人物。

その後ハリウッドに行き、曲芸スタントパイロットとして何本かの映画に出ました。
先日お話しした、女性スタントパイロットのパンチョ・バーンズがハリウッドで組合を作ったのが
1930年のことで、大川は33年までここで映画に出演していますから、
お互いを知っていたことはほぼ確実だと思われます。

ですから、この「飛行兵役」は、飛行つながりで思い入れもあったはず。
クレジットされた大川の出演映画の数は膨大で、中でも「戦場に架ける橋」が有名です。

彼も戦中にフィリピンに応召されていましたが、その間、「あの旗を撃て」という、
フィリピンを舞台にした国策映画が作られたためこれに出演しています。
しかし、日本映画が当時、戦地に行ってまで創られていたは知りませんでした。

彼がフィリピン駐留中に終戦となったため、バイリンガルの彼は、
山下奉文司令官が投降するとき、
通訳として抜擢されたということです。

そして、一番右。
Wikipediaの映画クレジットにすら名前が残っていない俳優で、伊東薫という俳優です。

この人は、なぜかデビューしたばかりの池辺良に喧嘩をふっかけてきて、
そのことを池辺が本に書いてしまったので名前がかろうじて残っているという程度の無名俳優なのですが、
この映画ではその無名度を反映して、4人の中で真っ先に殺されてしまいます。

しかも、少飛の場面が変わって、彼らが中国戦線に移った二年後にはもう死んでいたという設定。
どんな死に方をしたのかさえ語られないまま、お墓だけが写されます。(合掌)

伊東薫自身もこの二年後応召され、この四人の中で唯一実際に戦死したそうです。(合掌)


さて、この4人がどうして雁首そろえているのかというと・・・。



この、特務少尉が彼らの金銭チェックで、
アンパンを一人20個食べたことをがみがみ起こっているの図。

「せめて10個で我慢しておけ!」

この特務少尉のおじさんが、最後までいい味出してます。
今なら、片岡鶴太郎の役どころでしょうか。

さて、というわけで、少年飛行兵の生活編、終わり。
ここからは訓練のシーンになります。



うおおお~!

出ました。大日向伝

「上海陸戦隊」では、ひげ面の指揮官を演じていましたが、

ここではこざっぱりした中隊長役。
しかし、この映画の隊長役、非常によろしいんですよ。
確かに何というか、昔の俳優さんなので、体全体のバランスが、という気もしますが、
そういうことをふまえてなお、この二枚目ぶりはイケる。

単にエリス中尉の好みなんじゃないか、と思われた方、あなたは鋭い。
この映画には、大して重要な役でない飛行隊附きの軍医に、
長谷川一夫が出演していて、これは女性客へのサービスだと言われているのですが、
この「眼千両」といわれた稀代の二枚目スタアよりも、
個人的にはこちらの方が好感持てるなあ、と思ってしまいました。

単にさっぱりした顔が好き、ってだけなんですけどね。

余談ついでに、長谷川一夫の旧芸名は「林一夫」というのですが、

つまめとやしかずおが好き」

ここから転じて「ミーハー」という言葉が出来たのだそうですよ。



後ろにずらりとならぶ陸軍の実機の数々。
この映画のすごいところは、特撮が殆どなく、
(一応円谷英二の名前も見えるんですが)
訓練射撃など、実際にコクピットからのカメラで撮られていることで、
しかも、敵の中国機に扮するためにペイントを塗り替えた日本機が登場している、
という今ではありえない贅沢な撮影であることです。

海軍の「雷撃隊出動」が、戦況も不利を隠せない1944年に撮られたのと違い、
この頃は日本も切羽詰まっていませんから、何かとゴージャスです。
フィルムや音声すら、こちらの方がかなり「上等」な感じを受けます。

同じ国策映画でも、撮られた時期によってずいぶん趣が違うのが感慨深いですが、
先ほども言ったように、どちらも「戦争の悲惨」を核にしているという点は同じなのです。


さて、次回は、この映画に出演した陸軍機に触れながら、話を進めて参りましょう。



 

 


 


これでも特定秘密保護法案に反対しますか

2013-12-13 | 日本のこと

先日、特定秘密保護法案についての考え方のポイントを挙げて、
「反対派」とはいったいなんなのかを分かりやすくしてみました。

当ブログ、決して政治系ブログではありませんが、旧軍に始まり
現代の自衛隊、そしてそれを取り巻く歴史と現代の世相を語る以上、
このような問題について無関心でいるわけにはいきません。

というわけで、本日も少しお話しておこうと思うのですが、
皆さん、どうおもいます~?(笑)

一言で言って、「悪あがき」ですよ。
マスコミの覚めやらぬこの法案に対するバッシングは。
そもそも「強行採決」「数の論理」と錦の御旗でも上げているつもりで言うけど、
朝日新聞のいう「強行採決」って、これ実は多数与党による「賛成多数」ですよね?

「強行採決」の朝日的定義は、
民主党のもとであるか自民かで、ずいぶん変わるんですね。

ちなみに、民主政権下行われた文字通りの「強行採決」は9回。
何度かは「自民欠席」で行われていますが、マスコミは一切非難せず、
それどころか報道すらしませんでした。



そして、この憤懣を(笑)なんとか焚き付けて阿部内閣不支持に持って行こうと、
もう今や誰もその結果を信用しない「世論調査」で煽っているわけですが、
そのアンケートが酷い。
まるで誘導尋問ですよこれは。


◆国会は今、自民党だけが大きな議席を占めています。
国会で自民党だけが強い、いわゆる自民一強体制をよいことだと思いますか。
よくないことだと思いますか。 


よいことだ 19 よくないことだ 68 

◆最近の国会の状況をみて、安倍内閣や自民党に
国民の声を聞こうとする姿勢を感じますか。感じませんか。 


感じる 16 感じない 69 

◆特定秘密保護法は、国の外交や安全保障に関する秘密を漏らした人や
不正に取得した人への罰則を強化し、秘密の情報が漏れるのを防ぐことを目的としています。
一方、この法律で、政府に都合の悪い情報が隠され、
国民の知る権利が侵害される恐れがあるとの指摘もあります。
特定秘密保護法に賛成ですか。反対ですか。 


賛成 24 反対 51 

◆この法律は、衆議院に続いて参議院の委員会でも与党が採決を強行しました。
特定秘密保護法について与党が採決の強行を繰り返したことは問題だと思いますか。
問題ではないと思いますか。 


問題だ 65 問題ではない 21 

◆特定秘密保護法の国会での議論は十分だと思いますか。
十分ではないと思いますか。 


十分だ 11 十分ではない 76 

◆特定秘密保護法ができることで、政府にとって都合の悪い情報が隠されるなどの
恣意(しい)的な運用が される不安を感じますか。感じませんか。 


感じる 73感じない 18
 

しかし、おかしいと思いませんか?
これらの朝日の設問はつまり「国民の知る権利」ばかりに向けられ、
その内容、とくに国際情勢から見た視点がすっぽりと抜けてしまっています。

誰だって「秘密があっていいとおもいますか」と聞かれたら、
「何かわからんが、秘密はないのがいいに決まっている」
「権利が侵害されることはいいことだと思いますか」と聞かれたら
「もちろん権利は侵害されない方がいいに決まっている」
となるに決まっています。

朝日新聞は、本来こういう質問を入れるべきなのです。


国際間の外交軍事では、情報戦の遅れが危機につながるというのはもはや常識です。
重要な情報を他国から得ようと思えば当然、その機密は守られなければいけません。
日本に機密情報を伝えたら、すぐに他国に漏れて流れてしまうということになったら
防衛のために必要な情報を得ることもできなくなるのです。

情報を提供してくれる同盟国の信頼を得るためには、そのような法律があることが
前提だと思いますか、思いませんか。



まあ、そんなこんなで朝日は電話アンケートでは満足のいく結果を得たわけですが、
それに気を良くして、可決前、今度はネットによるアンケートを行いました。

結果はご覧の通り。

http://www.asahi.com/topics/word/特定秘密法.html

ずっと下の方に升目がありますのでそこまでスクロールして下さい。
圧倒的に「日本の安全が脅かされているので、賛成」が多く、
その意見を見るとかなりの人がマスコミ、朝日の報道姿勢を非難しています。

報道でさんざんその「危険性」を訴え、麗々しい言葉で理念を訴え、
国民の知る権利だの戦争が起きるだの煽り、さらには
「こんな(立派な)人たちが反対しているのですよ」
とばかりに各界の反対派の錚々たる名前を発表し、すっかり洗脳完了、
と満を持しておこなったネットアンケートですが、

残念なことに、少なくともネットで情報を得ようとする層は、
いくら朝日が笛を吹いても踊ってくれなかったみたいですね。

いや、「朝日が反対するのだから、それは日本のためになるのだろう」
と単純に逆をいった人が多かったのではないでしょうか。

今までこの手でうまくいっていたのに、御愁傷様なことでございます。^^

さらに、朝日はもう自分で何を言っているのかわからなくなったとみえ、
今日はこんな記事を見つけました。


「秘密保護法はいらない。
国会が成立させた以上、責任をもって法の廃止をめざすべきだ」


なりふりかまわず狂乱状態、とはこのことでございましょうか。
それにしても皆さん、二行目の意味、わかります?
この「責任を持って法の廃止をめざすべき」の主語は何?

「国会が成立させた以上、朝日新聞社が責任を持って法の廃止を目指すべきだ」

かしら。
なんで「成立させた」と「廃止をめざすべき」が「以上」でつながってるんですか?

昔、受験国語に天声人語の内容が出題されていたころもあったらしいんですが、
この文章を設題されたら、わたしは絶対に点を取れない自信があります。

「これを書いた筆者の意図を一言で述べよ」

と言う問題だったら

「悔しい~~~!」

で間違いないと思いますがね。

さて、法案の反対派には日本国旗がない、ということを前回言いましたが、
どうやら法案反対派は、

九条信者であり、
米軍基地反対派であり、
原発廃止派である、

とくれば、

最近はやりの「(在日韓国人に対する)レイシズムだけは許さない」
という「あの」方々と同じ孔の狢であろうことが容易に想像されます。

冒頭画像は委員長席に詰め寄り恫喝する民主党の皆さんですが、
ここに見えている少なくとも二人は



こういう出自だったり、
また日本に帰化した後も通名を使わず当選したことは
まあいいとしても、



こういう立場を隠さなかったりする人であるわけです。

反対派がなぜ決して日の丸を持たないか、よくわかりますね。

さて、わたしは今日、ご存じなかった方々のために、
平成12年以降起こった自衛官の情報漏洩事件とそれに対する罪名、
処分を一覧にしてみることにしました。

(1=誰が、2=どの国の、3=誰に、4=何をして、5=どんな罪で、6=どんな処分になったか)

【平成12年 ボガチョンコフ事件】

1 海自三等海佐
2 ロシア
3 在日ロシア大使館の海軍武官に
4 海上自衛隊の秘密資料を提供
5 自衛隊法違反
6 懲戒免職

【平成14年 シェルコノゴフ事件】

1 元航空自衛官
2 ロシア
3 在日ロシア通商代表部員
4 アメリカ製戦闘機用ミサイル等の資料の入手・提供を要求
5 MDA秘密保護法違反(起訴猶予処分)

【国防協会事件】

1 元自衛官(国防協会役員)
2 中国
3 在日中国大使館駐在武官
4 防衛関連資料を提供
5 電磁的公正証書原本不実記録および供用罪(起訴猶予処分)

【イージスシステムに係る情報漏洩事件】

1 海上自衛隊二等海佐
2 中国
3 →別の三等海佐→別の海上自衛官三名、二佐の中国籍の妻のPCから押収
4 イージスシステムに係るデータをCDに記録して流用
5 MDA秘密保護法違反、収賄(起訴猶予処分)
6 懲戒免職

尚、中国籍の妻は国外追放されたが、再入国して横浜中華街に潜伏していた

【内閣情報調査室職員による情報漏洩事件】

1 内閣情報調査室職員
2 ロシア
3 在日ロシア大使館書記官
4 職務として知った情報を提供

5 国家公務員法違反 収賄
6 懲戒免職

【中国潜水艦の動向に係る情報漏洩事案】

1 情報本部所属一等空佐
2 日本
3 部外者に口頭で伝達
4 職務上知り得た「中国潜水艦の動向」に関する情報
5 自衛隊法違反 収賄(起訴猶予処分
6 懲戒免職


いずれも、懲戒免職にはなっているものの、刑事罰としては非常に軽い罪です。
つまり、これまで、機密を保護する法が日本にはなかったということなんですね。


国家機密もろくに管理できない法律を戦後ずっと押し頂いて来た結果、
日本は主権国家でありながら笊で水を汲むような「情報だだ漏れ国」になりました。

こんな日本にも昭和60年、「スパイ防止法」一度上程されたことがありますが、
廃案になっています。
そのとき、その法案を反対した「反対派」が、一体どんな連中だったのか、
次の事実から皆さんも推理してみて下さい。



冷戦崩壊後、ロシアのKGB職員であったミトロフィンという人物の文書が、
イギリスで出版されたということがありました。

その本には、戦慄すべきこう言う事実が書かれていました。

昭和30年から、日本政府の与野党の人物の何人かが
「KGBのエージェントとして働いていた」ということ。

各メディアの中にはコードネームで呼ばれる人物が存在していたということ。

そして、それは現在も続いているということ。




あるいは、上海総領事館員自殺事件を思い出して下さい。

自殺した上海領事は総領事館と外務省の間の通信事務を担当していた通信担当官で、
彼が交際していた中国人女性を連絡役として、情報当局が接触し、
それをスパイ容疑として逮捕したのち、釈放。

すべて仕組まれていたことで、つまり「逮捕」は館員に恩を売るための芝居でした。

これを機にして中国当局の館員に対する強迫が始まります。
この館員は、中国側がさらに重要な情報である領事館の情報システムを要求すれば、
日本領事館の動きや外務省の意思は、全て中国側に筒抜けになり、
外交の上で決定的に不利な状況に置かれると考え、自殺したのです。

総領事あての遺書には、

「一生あの中国人達に国を売って苦しまされることを考えると、
こういう形しかありませんでした」

「日本を売らない限り私は出国できそうにありませんので、
この道を選びました」

と記されていました。

外務省は中国政府に複数回抗議を行っていますが、 中国当局は事件に何ら責任が無いこと、
館員は職務の重圧のために自殺したこと、日本メディアが事件を報道するのは
日本政府が故意に中国のイメージを落とそうとする意図があるからだと主張しています。

 
これも対日工作の一環と言うことなのですが、しかし、これは氷山の一角に過ぎません。
死んだこの一人の領事館員の陰に、死ななかった、つまり


「日本を売ることに何の痛痒も覚えなかった、そして覚えない多くの日本人」

がいた(いる)わけです。

皆さん、考えていただきたいのですが、もしあなたがその一人だったら、
今回の法案をどうお感じになりますか?

・・・怖いのではないですか?


さて、朝日を筆頭とする「反対派」は一様に
「国民の知る権利が侵害される」
ということをその理由に掲げているのですが、わたしに言わせれば
その当のメディアこそが知る権利を侵害しているのです。

あの尖閣沖中国漁船衝突事件のとき、海保職員の一色氏は、
職を賭して、海上保安庁が機密としたわけでもない尖閣ビデオを流出させました。
その理由はもうわかっています。
政府が国民にこれを秘匿したからです。

それでは一色氏はどうしてそのビデオをマスコミに持ち込み、

マスコミを通じて公表しようとせず、YouTubeにあげたのか。

それは一色氏本人がその著書でも書いています。

「メディアの信頼性が疑われたからだ」

と。
さらに、今回、朝日新聞の記者が東国原元知事に、

「特別秘密保護法案に反対であれば記事にする」

とネゴしようとした話も本人から公表されてしまいました。

ほかにもこのような例は後を絶ちません。

靖国神社に放火しようとした韓国人テロリストのニュースを、

NHKでは全国ネットで放映しませんでしたし、この、
在日朝鮮人の犯罪に関しては、各メディアことにNHKは「配慮」して
通名のみの報道をするというのも、わたしは何度も目撃しています。 

つまり、マスコミというのは恣意的に情報を操作し、それによって
国民の知る権利を著しく侵害している先鋒だということなのです。

こんなマスコミに「国民の知る権利」などと訴える資格はありません。

朝日新聞と毎日、中日新聞の記者は、おそらく「会社の方針」に逆らえず、
自分の出世や地位収入の安定だけを考え、それが日本の本当に国益になるかなどとは
夢にも考えずに「結論ありきの反対論」で国民を誤った方向に導いているのです。


最近、日本を取り巻く状況、とくに北東アジアの状況は
ほとんどの国民には「危機」として捉えられるようになって来ています。


ネットの無い時代ならいかようにも操作できた世論は、
「国民が自分で情報を選択する」ことが可能になって、マスコミの思うようにならなくなり、
しかも、最後のごり押しでマスコミが主導して成立させた民主党政権下で、
その危機感はいまや最大値まで押し上げられてしまっています。

だれももう、マスコミにだまされることはありません。

このような情報の漏洩を罰する法律すらなかった今までの日本で、
どれだけの国益が「確信犯」(自分では気づかずに情報提供者となっている)
や「上に逆らえずに記事を書く記者」など多くの「売国奴」によって失われてきたことか。

「今そこにある危機」は、つまりこのような日本、
機密を保護する法律すらなかった
そのあまりに甘い危機管理に、
「反日勢力」が巣食うことによってつくりだされたものにほかなりません。



皆さんは、「自衛官」罰則が科され、懲戒免職などの
懲罰を受けている上記の表をみて「恐ろしい」と思われたかもしれませんが、
もっと恐ろしいことがあることをわかっていただきたいのです。


それは、罪に問われたりましてや罰されることなく、

のうのうと、今日も、日本人として、日本を「切り売りし続けている」人間が、
あなたの隣にいるかもしれないということです。


 

 



 


キャッスル航空博物館~カワサキ・ドローンとドローン・パイロットの憂鬱

2013-12-12 | アメリカ

KAWASAKI KAQ-1 DORONE

このカワサキKAQ-1ドローンを検索すると、英語のウィキでも
この、キャッスル航空博物館の映像しか出てきません。

もしかしたら、これが世界でただ一つ残ったカワサキ・ドローンでしょうか。

だとしたら、非常に貴重なものを実際に見たことになります。

ドローン、という言葉を今まで聞いたことがない、という方も、
「無人機」という言葉は、防空識別圏の一件以前にニュースで頻繁にお聞きになったでしょう。

何ヶ月も前のことになりますが、国籍不明の機体が尖閣諸島上空での領空接近を行いました。
空自の戦闘機がスクランブルをかけたところ、確認されたのは無人機。
後日、中国国防部の無人機であることが判明したものです。


それを受けて、防衛省は無人機が日本の領空侵犯をした際には撃墜すると発表。
とたんに、黙っていればいいものを中国国防部、防衛省に対し

「憶測が前提であり、意図的に挑発することが目的でアル」

と反発してしまいました。

憶測ってことは、中国は「領空侵犯してない」って言いたいわけですか?
だったら何もそこまで怖がらなくてもいいはずなんですけどね。


さらに語るに落ちて中国さんたら、

「日本が中国軍の無人機を撃墜すれば、戦闘行動とみなす」

あくまでも訓練活動というなら、領空侵犯しなきゃいいんじゃないかな。
安倍政権はそれに対し、

「脅しには屈しない」

と、毅然とした対応をすることを表明しましたが、当時はさすがの左巻きメディアも
「国籍不明の領空侵犯機撃墜」を批難することは、語るに落ちた中国の矛盾を
さらに肯定するに過ぎないと珍しく悟ったのか、これに関しては沈黙していましたね。

その後、国内で何が起こったのか、防空識別圏のいきなりの設定で
中国はアメリカ始め世界を敵に回して自爆してしまいましたが、
今にして思えばこの無人機問題あたりから、すでに中国内部では意見が分裂しており、
伝統の内輪もめもあって、今回最悪の選択へところがり落ちていったのではなかったでしょうか。


永世中立国のスイスは、第二次世界大戦中、領空侵犯する航空機を全て撃墜しました。
ときには連合軍戦闘機との空戦も行ったわけですが、
つまり何人たりとも我が国の領空に入ることは許さん、という原則を貫いたわけです。

海保の巡視船に体当たりした中国船の船長を、司法介入して釈放させたり、
「中国船に15カイリ以内には近づくな」と自衛隊に指令を出したり、
さらに尖閣領海に入ることを禁じたり、(自衛隊にですよ)スクランブルを自粛するように
要請したりするようなどこぞの人治政権とは違い、これが本当の国防です。

日本から民主党という人治政権が去り、
ようやく法原則に則って防衛権を行使する当たり前の状態に戻った途端、
中国がこのたびのように攻撃を始めた、というのは、いかに前政権の「配慮」があったか、
ということの証明となっているような気がいたします。

もちろんこういう前政権が秘匿して来たことについてマスコミはだんまりを決め込み、
今回成立した「スパイ締め出し法案」たる特別秘密保護法案では、

「今世の中では『ひみつのアッコちゃん』をもじって、
『ひみつのあべちゃん」という歌が口ずさまれている」

などという、反吐が出そうなでっち上げまでして、
何とか『独裁安倍』を印象づけようと必死です。

昔「わたしアベしちゃおかな」というでっち上げを流行らせるのに失敗し、
良識あるネット閲覧者の白眼視を浴びたと言うのに全く懲りておりません。
安定のアサヒは

「法案に反対なら記事にするからインタビューさせろ」

と東国原議員に申し入れたところ、それをツィッターで暴露されていましたしね。
全くマスゴミは、

恥を知りなさい。(三原じゅん子議員の声で)


さて、今日は無人機についてのお話です。

このカワサキKAQ-1ドローンは1950年代に生産開始ししました。
無線でコントロールする微塵機で、打ち上げられた後はパラシュートで降下してきます。

おもに対空砲や、空対空ミサイル(air-to-air-missle、AAM)の標的、
または偵察機などとしても使用されました。

ミサイルの標的なのですから、いくらパラシュートで降りてくるといっても、
使用後は必ず修理しなければリサイクルできません。
それに、クリーンヒットしてしまったら、回収しようがないですよね。

この現物が今現在、たった一機ここにあるだけなのも、ほとんどは
標的として消耗されてしまったからではないかと思われます。


ところで、このドローンは、アメリカ軍と自衛隊で使用されていました。
カワサキ製ですが、研究開発は防衛省です。

防衛省の公報に、「防衛省航空装備研究所」のHPがあります。

このHPの26ページを見ていただければ、1950年代から始まった
無人機の開発の歴史がまとめられています。

一番左端が、このターゲットドローン。

後は年代を追って、

VTOL(垂直離陸)の無人機、

遠隔操縦観測機、

高高度対空型無人機など。

今のところ最新式のドローンは、携帯型のものみたいですね。


確かに、無人機というのはパイロットがいないため、特に

領空を侵犯してでも適地を偵察したい

というような目的にはもってこいです。
人間が乗っていないのですから、たとえ捕獲されても、
どこの国のものか証拠は無し。
また、昔のように「標的機を間違って撃墜してしまう」
という、うっかりさんが起こす人的被害も避けられます。

もちろん、わが防衛省でも無人機をそういう位置づけて開発しているわけですが、
武器兵器では常に世界の先端を行くアメリカでは、
とっくの昔にドローンによる戦闘、つまり殺傷が行われているわけです。

この記事をご覧ください。

The Woes of an American Drone Operator


アメリカ軍ドローン・オペレーターの不幸、とでも訳しておきましょうか。

クラスでも最優秀で卒業した成功者は、ニューメキシコにある空軍基地の
「ドローンパイロット」とよばれる特殊部隊の任務に就く。
そして、何ダースもの人間を殺すのだ。
しかし、彼はある日突然、それを行うことができなくなる。


もう5年以上、ブランドン・ブライアントは、摂氏17度に空調された
トレーラーくらいの大きさの楕円形の窓のない部屋で働いている。
彼と同僚は、14のモニターとキーボードの並ぶ前に座る。
ニューメキシコの彼がボタンを押した瞬間、地球の裏側で誰かが死ぬ。


コンテナにぎっしりと満載したコンピュータは空軍用語でいうと
「ドローンの脳」だ。
ドローンのパイロットは空を飛ばない。座っているだけだ。

アフガニスタンの空を、8の字を描いて1000キロの高度で飛ぶ
「プレデター・ドローン」のことを覚えているのはブライアンだけではない。
彼の記憶によると、そこには土でできた平たい屋根の家、
山羊のための囲いが斜線のなかに見えた。
「撃て」の命令があり、彼は左手でその屋根を目標にレーザーを放つ。
彼の隣に座っているパイロットはヘルファイアー・ミサイル搭載のドローンを起動し、
その操作レバーに付いたトリガーを押した。

インパクトまで16秒だった。

スローモーションのようだったよ」

彼は言う。
ドローンに取り付けたカメラが人工衛星を通じて2~5秒遅れで
彼のモニターに映像を送ってきた。
7秒が過ぎたとき、地面には誰もいなかった。
そのときにはブライアンはすでに次のミサイルを発射していた。
それは三秒後に落ち、ブライアンは、あたかもモニターの画素が
一つ一つ数えられるかに感じられた。

そのとき急に、子供が角を曲がってきたんだ、と彼は言う。

彼の行った二回目の照準は、バグランとマザリシャリフ村の間で、彼の
「電脳世界」と現実が衝突した瞬間だった。
ブライアンは画面に閃光を見た。爆発だ。建物の一部が崩壊した。

子供は消えていた。

ブライアンは胃に悪寒のようなものを感じた。

「今殺したのは・・・・・・子供だよな」

隣に座っている男に尋ねた。

ああ、子供だったと思う」

パイロットは答えた。

それは子供だったか」

彼らはこうモニターのチャットウインドウに書き込んでいる。
そのとき、彼らが全く知らない誰かが、この世界のどこかの軍司令部で、
彼らの攻撃を座って監視していた。
そしてその人物はこう書いてよこした。

「違う。それは犬である」

彼らはビデオでそのシーンを見直した。

「二本脚なのに?」


このストーリーでインタビューを受けたブランドンは、ある日、
仕事の後に大量の血を吐き、ドクターストップを命じられます。
しかし療養生活から彼が仕事に復活することはありませんでした。
医師の判断は post-traumatic stress disorder
PTSDつまり心的障害です。

彼が空軍をやめることになった理由は、ある一日の出来事にありました。
いつものようにコクピットに入っていった彼に、同僚がこういったのです、

「おい、今日はどの間抜け野郎(Mother fucker)が死ぬんだろうな」

ドレスデンや東京爆撃のパイロットも、広島と長崎に原子爆弾を落としたパイロットも、
その被害を、つまり自分の手で殺した人間をその時は見ずに済みました。

しかし、動かぬ証拠としての被害を目にする頃には、その行為は

「自国を護るために行った英雄的な行為である」

という理由によって正当化され、それを以て彼らは心的外傷から自分を護ろうとしました。

ポール・ティベッツは「軍人だから同じことを命じられればもう一度やる」
と公言しましたが、それはそんなことには決してならないからこそ言ったにすぎません。

この言葉は彼が

「何十万人もの無辜の人間を殺戮した」

という事実から目をそむけ、彼自身の精神を防御しようとするシールドのようなもので、
それは、彼が生涯広島に訪れることは無かった、ということが証明していると思います。

いかに公言しようとも、ポール・ティベッツは、きっと、
一晩ならず苦悶に眠れない夜を過ごしたはずなのです。

まともな、善良な一人の人間である限り。


あるいは、自分が殺している人間を「ろくでもないマザーファッカー」や「人間以下のジャップ」
「殲滅するべき下等なユダヤ人」、そのように思うことによって
良心の呵責と「自分がろくでもない殺人者だ思うこと」から身を守ろうとする。


ブランドンのように精神をやられなかった者は、おおよそこのように思うことで
自我の崩壊から身を守ろうとするするもので、程度とやり方の違いこそあれ
これはすべての人間に備わっている自己防衛の本能というものではないでしょうか。


無人機による殺戮は、「殺人者が誰であるか」をあいまいにするどころか、
逆に自分の行っている殺戮を、全く安全なところでコーヒーを飲みながら仔細に眺めることになり、
そのため、昔の爆撃などとは桁違いの精神的打撃をパイロットに与えることになりました。

パイロットたちの精神的「敗退」がもっと大掛かりになってくると、
アメリカという国はそのうち「攻撃の意思決定」さえ、コンピュータにやらせようとするかもしれません。


そして、いつの間にかそのコンピュータたちは意志を持ち、
ある日人工知能を持つ存在が人間に造反し、
「ターミネート」(終結)させんと・・・・。




・・・・・あれ?

どこかで聞いたなこの話。








 




 


越山澄尭大尉~「モレスビー沖に死す」

2013-12-11 | 海軍人物伝



■ 卒業

兵学校の卒業写真は、このように分隊ごとに撮られます。
21分隊の卒業生は7名、ここに越山澄尭がいました。
写真には間に合わなかったらしい分隊を除き、各自の自筆による
サインが添えられています。

前回、全体写真から越山生徒を特定しましたが、全く根拠がないわけでもなく、
 



この前列の紋付袴の生徒が、この分隊写真の越山と似ているというのもその根拠です。
皆さんはどう思われますか。

前回も書いたように、この21分隊には「真珠湾の軍神」である古野繁實がいて、
冒頭写真では後列左端に立っています。

古野は福岡出身、卒業時のハンモックナンバー(成績)は120番。
240名ほどのちょうど真ん中あたりにいたようですが、身体壮健で、
兵学校に当時の横綱網玉錦一行が訪問し、序の口力士と
手合わせ稽古をした際、
ほとんどが全く歯が立たなかった中で、
たった一人、
相手を上手投げで破る快挙を成し遂げたほどでした。


この分隊の伍長は地頭三義で、ハンモックナンバーは19番。
2号生徒のときのハンモックナンバーの上位36人が伍長として、
全部で36ある分隊を率いると言う仕組みです。

因みに第1分隊の伍長は中村悌次
「海の友情」をお読みになった方は、この名前を覚えておられるでしょうか。
戦後、名海上幕僚長として、米海軍と海自の友情の大きな立役者となった人物です。

その中村が、ヘンデルの「勝利を讃える歌」の流れる中、恩賜の短剣を授与せられ、
卒業生たちは「ロングサイン」に送られて練習艦隊に出航して行くのです。


“淡い生活4年も過ぎて ロングサインで別れてみれば

ゆるせなぐった下級生 さらば海軍兵学校 俺も今日から候補生”


■ 練習艦隊

7月25日、卒業式を終えた67期生は、練習艦隊に配乗しました。

そのころの情勢を少し説明しておくと、支那事変は三年目に入ったものの解決のめどはつかず、
国内では国家総動員法が成立、
逐次統制は強化され、物資は不足となりつつありました。

ちょうどこの頃、アメリカは突如日米通商航海条約を破棄
さらにはヒトラー率いるナチス・ドイツが同盟国締結を日本に迫ってきていました。
そしてそれを受け入れようとする陸軍と、
反対の海軍との間にも齟齬が生じ、
少尉候補生たちにもその不穏な世界の空気はひしひしと感じられました。



練習艦隊は「八雲」「磐手」の二隻をもって編成され、それに給炭艦「知床」が追随しました。
このとき「知床」の艦長だったが、のちにあの「キスカ救出作戦」の指揮を執った

木村昌福大佐(兵41期)

です。
このとき越山候補生は「八雲」に乗り込んでいます。

兵科候補生は、練習艦隊実習において、主に天測と当直(副直士官勤務)で鍛えられます。
この二つは初級士官として必須の資格条件であり、この練習航海を通じて絶え間なく、
かつ繰り返し演練指導されているうちに、シーマンシップと共に身に付いてくるものです。

天測にはやはり得手不得手があるので、

「当艦位置、現在奈良県猿沢池!」

ということになってしまう候補生もいたようです。(嘘でしょうけど)
そしてこのあと、前回お話ししたハワイへの遠洋航海があるわけですが、
この部分の記述にこんなのを見つけました。

「南洋諸島(ボナペ、トラック、パラオ)の寄港行事は、
ハワイと全く逆の地味なもので、土人踊りを見た程度であった」


ハワイでは現地在住の県人会などの日本人団体始め、行く先々で彼らは
熱烈な歓迎を受けましたから、余計にその差を感じたのでしょうが。
まあ、この頃(昭和58年)放送禁止用語とかありませんからね。

彼らはサイパンにも寄港し、現地の日本人学校の校庭で運動会をしました。
候補生たちと一日走ったりした子供や女学生を含むこれらの人々が、
その5年後にどんな運命をたどることになったのか・・・。
このときの候補生たちもそのうち182名が戦死し、戦争が終わったときに
残っていたのはわずか88名でした。


遠洋航海が終わり12月の年の瀬に横須賀に帰港したかれらは、艦隊配乗となります。

越山は「五十鈴」「五月雨」乗組後、潜水艦講習員として一ヶ月の講習を受けています。

昭和16年11月。
東条内閣は成立後情勢の再検討を実地した結果、
11月5日の御前会議で

「対英米蘭戦争を決意し、武力発動の時期を12月初頭と定め、
陸海軍は作戦準備を完成す。
対米交渉が12月1日午前0時まで成功せば、武力発動を中止する」

との方針を決定していました。
これを受けて大本営から作戦計画示達が出されました。

連合艦隊は11月7日、「第1開戦準備」(戦略展開)を発令、
11月13日岩国に主要指揮官、幕僚を集めて作戦計画を示達、
図演および作戦打ち合わせを実地しました。


この「図演」と言う言葉をわたしが知ったのは比較的最近のことで、
ある海上自衛官との文章でのやりとりの中で目に留まった言葉です。
英語では「ウォー・ゲーム」とか「ミリタリー・シミュレーション」といい、
「兵棋演習」自衛隊では「指揮所演習」と言うこともあります。

こんにち、大東亜戦争において大本営が行った図演の読みがことごとく甘かったのが
敗因であったということになっているわけですが、同じシミュレーションでも、
当ブログでかつてお話ししたこともある、「総力戦研究所」で行われた
「開戦シミュレーション」
は、昭和16年の開戦前において、日本の将来の敗戦をほとんど現実のままに予想していました。
この総力研に集められたのは、政治、軍ともにその中枢ではない
「オブザーバー」的視点を持った
若い人たちでした。

つまり、「認知バイアス」(軍人精神とかいう形の)がかかってしまった場合、
いかなる図演も、その的中率は格段に下がるということでもあります。

このときに驚いたのが、海上自衛隊ではこの図演をリアルタイムで行っているということ。

またその自衛官によると

「現代では図演も冷徹に行っていますので、ご安心下さい」

ということで、国民の一人としてはこの頼もしい言葉に胸を撫で下ろした次第です。


■ 開戦

ハワイ作戦を実地する潜水艦は、真っ先に展開を開始しました。
先遺隊の展開部隊は潜水艦乗組が15名。
そして、特潜2名
言わずと知れた古野繁實、そして横山正治両少尉です。

古野の乗った特殊潜航艇は、(広尾艇説もあり)7日23:30頃、
湾外でアメリカ軍の掃海艇に発見され、駆逐艦に撃沈されました。

これは、真珠湾空襲の4時間前で、日米海軍最初の会敵とされます。


一方、南方への侵攻も同時に開始され、海軍は主力空母を除いた
連合艦隊の大部分を展開しました。
この南方部隊に、越山は伊59で参加しています。
南遣隊の司令長官は、小沢治三郎
この隊の陣容は以下の通りです。


第24戦隊(24S) 特設巡洋艦「報国丸」「愛国丸」「清澄丸」
第11航空戦隊(11Sf)  水上機母艦「瑞穂」「千歳」
第4潜水戦隊(4Ss)   軽巡「鬼怒」
   第18潜水隊(18sg) 潜水艦「イ-53」「イ-54」「イ-55」
   第19潜水隊(19sg) 潜水艦「イ-56」「イ-57」「イ-58」
   第21潜水隊(21sg) 潜水艦「ロ-33」「ロ-34」
第5潜水戦隊(5Ss) 軽巡「由良」
        第28潜水隊(28sg) 潜水艦「イ-59」「イ-60」
        第29潜水隊(29sg) 潜水艦「イ-62」「イ-64」
        第30潜水隊(30sg) 潜水艦「イ-65」「イ-66」



開戦前、

「インド洋方面からイギリス海軍の有力部隊が
マレーに増強された」

という情報を得たためそれに呼応して、

当初フィリピン方面であった越山少尉所属の5Ss は、マレー半島沖に転用になりました。
12月9日、ここに配備されていた伊65が、イギリス戦艦部隊を発見し、
12月10日の「マレー沖海戦」の端緒を作りました。

その後第5潜水戦隊は南方部隊直属となり、
蘭印侵攻作戦に対する協力として、インド洋方面に進出しています。

越山の伊59は、17年の1月上旬、ダバオ(フィリピンミンダナオ島)
に進出、その後ポートダーウィン(オーストラリア)沖の監視に任じました。

第5潜水戦隊はその後2月下旬から一ヶ月、インド東岸、そしてセイロン島の
交通破壊戦を実施。この作戦で、商船数隻を撃沈しています。


17年4月頃の南太平洋の基地航空戦は激化しようとしていました。
中旬以降、台南空、4空(陸攻)、横浜空(飛行艇)が南太平洋方面に進出。

67期の笹井醇一中尉は、この25Sfで、山口馨、木塚重命の同期生と共に
4月17日以降、ラバウルからモレスビーに対する航空撃滅戦に参加し、
そのときの台南空の下士官で笹井の部下であった坂井三郎が、戦後この部隊の想い出を
「大空のサムライ」
と題して出版したため、図らずも笹井醇一の名は有名になりました。


越山中尉も、まさにこの笹井中尉と同じ方面、
主にモレスビー沖での哨戒、監視を呂33で行っています。

笹井中尉が8月26日、ガナルカナル攻撃で戦死しているのに対し、
越山中尉の戦死はモレスビー沖でその3日後の29日です。



■ガ島増援輸送作戦

この12月8日、すなわち真珠湾攻撃により日米が開戦した日に、
わたしは奇しくも海軍兵学校67期卒の市来俊男氏の講演を聞きました。

市来氏は航海士として「陽炎」で真珠湾に参加し、やはり「陽炎」で、
ガダルカナルへの一木支隊(一木清直大佐以下2300名)
川口支隊(川口清健以下1200名、総勢3000名)の輸送任務を経験しています。

この駆逐艦による高速輸送、夜間急速揚陸を、当方は

「ネズミ輸送」

と呼び、アメリカ軍は

「TOKYO EXPRESS」

と呼びました。
敵の方がよほどかっこいい名前で呼んでくれていますね。

この後軌道に乗った増援輸送は、9月に入って本格化しますが、
ガ島奪回を期した川口支隊を主力とする部隊は、集結が遅れたため
その作戦は失敗してしまいます。

この総攻撃支援作戦として、潜水部隊は8月下旬からソロモン南東、
そしてガ島周辺に展開していました。

越山中尉乗組の呂33は、8月上旬以降、
モレスビー沖の監視、哨戒に任じていましたが、
8月29日以降消息を絶っています。

潜水艦は極秘で任務遂行し、危急のときにも無線を発しないので、
殆どの戦没潜水艦は、いつ、どこで撃沈されたのか、それとも
事故によるものなのかわからないまま消息を絶ち、消息を絶った日を以て
その損失が初めて確認されます。

呂33潜もやはり同じように、その最後が誰にも知られること無く、
そのまま帰ることはありませんでした。

開戦一年にもならぬ内の戦死は、やはり同級生には無念であったと見え、

戦死の時期が早すぎたことは戦況の推移上やむを得なかったとはいえ、
かえすがえすも残念でなりません。

とある級友は、越山の早い戦死を惜しんでこう書き遺しています。
そして、

「情熱をうちに秘めた男、越山であるから、
その最後の瞬間もきっとそうであったにちがいない


と想像しています。

これは我々には頗る理解し難い評論で、

従容とその死を受け入れ泰然と微笑みつつ死んだのか、
それとも、天皇陛下万歳と怒号ののち果てたのか、

「情熱的なものを内に秘めたタイプ」

であれば果たしてどちらの死を選ぶのか、はっきり言って想像もつきかねます。

きっとこの同級生の脳裏には、彼と親しく兵学校で交わり、

彼の人間を良く知っているものであるからこそ想像しうる
「最後の越山澄尭の姿」というのがあったのに違いありません。


■ 「下駄を下さい」


越山が最初に兵学校に現れたとき、

「凄いのが来た」

と目を見張ったクラスの西村茂義は、鹿児島弁で語らい、
越山を「越山サー」と呼んで親しんだ親友となったようです。
「凄い」と思われたその越山は、西村にとっては、一度言葉を交われば実に人なつこい、
優しい心根に、誰もが彼に打ち解けてしまうような大きな心の持ち主でした。


最後に、越山の大人物ぶりを物語るこんな逸話をご紹介してかれの物語を終わりにしましょう。


先日も書きましたが、兵学校の教練に当たる下士官は、年齢は遥かに上のベテランでも、

軍隊の階級は兵学校学生より下になります。
ですから、教練で教員が命令を下すとき、

「誰々生徒はそのまま姿勢を正す!」

などという「不思議な三人称」を使うことになっていました。
勿論その他の状況ではまるで自分の息子のような青年に向かって、
教官は敬礼をし、敬語で上官に対するようにしゃべるのです。

そんな逆転した状況ですから、学生の態度によっては、
内心面白からぬ反感を持つ年かさの下士官もいたかもしれません。

そんな年配の教官であった某兵曹がある日、越山に
「あの」下駄をもらえないだろうか、とねだりました。


下駄とは「維新の遺物」と彼の第一印象をして評させた、あの、高下駄です。

彼が、件の高下駄を大事に新聞紙にくるんでチェスト(物入れ)の
一番底にしまい込んでいたのを、級友は覚えていました。
それもまた越山の几帳面な性格の一端をあらわす想い出として。


越山生徒が大将になるまで大事にしまっておきますから、ぜひ下さい」

越山が果たしてその下駄を、そのように所望した兵曹に本当に与えたのかどうか、
それはその同級生にも最後までわからなかったようです。



越山澄尭 大正7・7・3生

本籍 鹿児島市上竜尾町

位階勲等 海軍大尉正七位勲六等功5級

戦死年月日 昭和17年9月1日

戦死状況 昭和17年8月22日ラボール発モレスビー方面監視偵察に
     つきたるまま消息無く、敵艦隊を攻撃、反撃を受け戦没と推定
     昭和17年9月1日附戦死認定


 


越山澄尭大尉~海兵67期の兵学校生活

2013-12-10 | 海軍人物伝

昭和11年4月1日、江田島海軍兵学校に入学して来た
全国から選りすぐりの秀才たち245名の記念写真です。
その年の2月11日紀元節の佳日、彼らは待ちに待った

「カイヘイゴウカク、イインテウ」

という電報を受け取り、ここに集ってきたのです。
入校式までの一週間、身体検査、体力試験、服の試着、校内見学が行われますが、
恐ろしいことに、ここまで来たのに最後の身体検査で刎ねられ、
10名もが不合格となり無念の帰郷となりました。

いやこれ、あんまりじゃないですか。
いくら身体検査とはいえ、電報をもらってから天にも昇る気持ちだったのに、
ここで奈落の底に真っ逆さま。
何と言っても、家族や故郷の人々に合わす顔が無いとはこのことです。
唯の不合格などよりよっぽど罪深いですよこれは。




ここでいきなりですが、この67期が冒頭写真の三年半後、卒業の際に撮った写真です。

写真を撮る日に欠席したばっかりに上に丸囲みで「死んだ人」になってしまう、
という不幸な人が、昔からクラス写真には何人か必ず居たものですが、
この写真の二人は、なんというか・・・・ラッキーでしたね。


67期は248名の大所帯ゆえ、卒業写真も皆豆粒になってしまい、

誰がどこに居るのか、全くわからないわけですから。


しかし(笑)。



しかし、江田島の教育参考館に飾られている卒業生の写真には、
一人一人の名前がちゃんとわかるように表示されています。
わたしは兵学校見学をしたときにちゃんとこの67期だけ名前をチェックし、


後ろから三列目の左から5番目が、笹井醇一生徒

であることを突き止めたのである。(照れ)
関係なかったですねすみません。

それはともかく、この「入学前・卒業前」のビフォーアフター写真、
しつこいですがもう一度並べてみます。

使用前

使用後

いやもう、なんと言いますか、全体の空気からして違ってますね。
同じ制服や全員がぴしっと頭をまっすぐにしている所為もありますが、
3年4ヶ月の兵学校生活は若者をこれだけ変えたってことですよ。

あと一点留意していただきたいことがあります。
彼らの後ろに見える建物。
いかにもできたばかりらしく、白壁には一点の曇りもなく窓ガラスもピカピカです。
入校前の団体写真は、江田島の見学に行くと最初に立ち寄る、

大講堂の前の石段で撮られていますが、卒業時は彼らが居住していた生徒館前です。

67期生が2号生徒(3年生)になったとき、彼らが入校して来た昭和11年に
着工した新生徒館が完成し、彼らはその7月から、寝室と自習室を新校舎に移しました。

今も江田島にそのままの姿で(窓枠だけが取り替えられている)あるこの校舎に

初めて入居しそこで寝起きしたのが、彼らを含む65から68期までの学生でした。

わざわざ恒例の大講堂前ではなく新校舎前で撮影をしたのは、
この新築がこの学年に取って大きな想い出であったからでしょう。

 

越山のクラス、67期というのは彼ら自身の評価によるものですが、

「地味ではあるが全員の粒が揃っていて、お互いによく助け合う」

という美点を持っていたようです。

戦後俗に言われるところの「お嬢さんクラス」「ネーモー」(獰猛のこと)ではなく、
下級生を殴ることは比較的なかったようです。

実際にも、彼らは最高学年の1号生徒になり、新入生を迎えようとする頃、
わざわざクラス会を開いて「鉄拳制裁禁止」を決議しています。 

しかしそこは兵学校ですから(笑)
「新入生の娑婆気を抜く」教育はそれなりにみっちり愛をこめて行いました。
なんといっても彼ら自身試練を受けてきているのですから。


入校式まではやさしく見えた上級生は、その夜の
「姓名申告」「起床動作練習」で鬼と化します。
67期生徒が辛い4号生活をもう少しで終えるときに


「あと少しで何も知らない下級生が来ると思うと心が弾む」

なんて書いてるんですね。
この、初日のいかにも親切な上級生を装っている間、彼らの心境はまさに
赤ずきんちゃんをだまくらかすオオカミになった気分?
舌なめずりするというか手ぐすね引くというか、いずれにせよ、
あまり高尚とはいえぬインビなカイカンに打ち震えていたに違いありません。


上級生が下級生を「鍛える」ときの口癖とは次のようなものです。


「もりもり鍛える」
「言い訳するな」
「娑婆気を抜く」
「へばったような顔するな」
「待て!!やり直せ」(主に階段、廊下で呼び止めて)

「言い訳するな」はわたし、よく言いますね。息子に。
それはともかく、「お達示」の文句の典型は次のようなもの。

「言語道断」「もってのほか」
「多くは言わん。脚を開け」(殴るとき)

兵学校における、上級生と下級生、指導するものとされるもの、
そしてそういった関係には実に面白いものがあり、このことについては
またあらためてお話するつもりです。


当事の流行言葉も、生徒同士でよく使われました。

「じーっさい」(実際)

これは、前にも書いたことがありましたが、当時の流行語で、
兵学校に限らず、感嘆詞として使われたのだそうです。
何か可笑しいとき、パンパン手を叩く人いるじゃないですか。
(正直言ってあれ、わたしはあんまり好きじゃないんですけど)
ああいうときに

「じっさい!じっさい!」

というのが流行っていたんですね。


さて、入校式に続く入校教育では、初日に度肝を抜かれた新入生は
それまでの甘い夢は吹っ飛んでしまい、その厳しい訓練に悲鳴をあげることになります。

この入校特別教育とは、すなわち「陸戦」と「短艇」。
教官は下士官で、面と向かっているのになぜか三人称で命令してきます。

「越山生徒はそのまま匍匐前進する!」

こんな感じです。
兵学校の生徒は、入校した時点でこれら教官である下士官より
軍隊的には高い位を与えられているからです。

陸戦は、当時の中学生と言うのは教練という形で既に履修しているのですが、
短艇、つまりカッターはほとんどの生徒が生まれて初めての体験。
たちまち手に豆を作り、それが尻の皮とともに破けて血まみれです。

しかし、これは現在の防衛大学校においてもかわることなく行われており、
以前お話ししたことのある防大卒の方は、

「破れた皮が張ってくる頃またその皮がずるりと・・・」
「きゃああああ」

というホラー話でもしているような調子でその想い出を語ってくれました。

生徒館に戻れば室内、廊下、階段、至る所で1号の怒号の下に走り回り、
また「インサイドマッチ」(ぞうきんですね)の取り込みなど、
分隊内務に終われ全く息つく暇もないのです。

もしかして、これを読んだ防大関係者の方等は、

「現在の防大と変わりないじゃないか」

と思われるかもしれませんね。

ともかくこのカルチャーショックと肉体的な辛さのあまり、大抵の生徒にとっては

「4月3日に軍楽隊演奏会と夜桜鑑会があった、と記録が残っているが、
このころの生活があまりにも衝撃的で、この記憶を呼び戻せるものは殆どない」

というくらい茫然自失のひとときであったようです。
(ちゃんと覚えていて回想録に書いている生徒さんもいますから、
もちろん全員が全員そうだったというわけではありません)

兵学校のしつけ教育について目についたところを書くと、

「上級生は何とか生徒、クラス間は貴様、俺と呼ぶ」
「教官は何とか教官、と呼び、殿はつけない」
「です、ではなくであります、という」

「窓、カーテンの開け閉めは所定時間に定められた通り実施」

「帽子をアミダに被るな」
「軍服には常にブラシを当てる」
「靴の泥はすぐ取って磨く」
「事業服の紐は端が垂れないように結べ」

「食事のときは左手を膝におき、右で食べる。
ただしパンをちぎるときには両手」
「食器を手で持たない」
「ものを落としたときには自分で取らず賄いを呼んで取らせる」


一般社会のマナーとは少し違っていますが、片手で食事をするというのは、
全て後に艦隊生活をするということからきています。 

あとおかしいのは、

「デザートの羊羹は箸で切って食べる」

兵学校ではデザートに羊羹なんか出してたんですね。
羊羹用の小さなフォークなど無いので、こういう規則が出来たようです。

「酒保へ行くときは駆け足をするな」

生徒たちは次の課業に行くときには駆け足をせねばならず、
階段も駆け足で昇りは二段ずつと決められていました。
生徒たちは


「猛烈に腹が減り三度の食事では燃の足りず、
週末の酒保が楽しみで仕方がない」

というのに、その酒保に行くときだけは走ってはいけないというのです。
なんと無慈悲なお達しなのでしょうか。
というより、みんなが楽しみのあまり走るのでこんな規則が出来たんですね。 

 

指導監事の中山が入校時に

「遠洋航海を夢見て入校して来たと思うが、そんな夢は捨ててしまえ」

と檄を飛ばした話を前回しましたが、67期は
ともかくも海外への遠洋航海に行くことは実現しました。
その下の68期の遠洋航海は国内、69期からは開戦で中止になりましたから、
実質、海軍の歴史でこれが最後の海外への遠洋航海となったのです


昭和14年10月4日 横須賀を出発
   同 10月18日 ホノルル
     10月24日 ヒロ
     11月8日  ヤルート
     12月20日 横須賀帰港 


本来、兵学校の遠洋航海の行き先は、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアを、
学年ごとに割り当てられていて、67期はアメリカの予定だったのですが、
ヨーロッパではすでに第二次大戦が緒に就いていたので、西海岸の予定を
半分切り上げた距離のハワイまで行くことになったのです。

67期卒、駆逐艦乗り組みで、「陽炎」の航海長で真珠湾に参加した、 
市来俊男(戦後掃海作戦に携わり、海上自衛隊)は、この遠洋航海の想い出を
こう語っています。

「真珠湾を通過したとき、まだ薄暗かったが、総員が甲板に上げられた。
そして、『入り口を良く見ておくように』と指導官が言う。
皆目を凝らしたが、その『入り口』は 暗くてよく見えなかった」

また真珠湾攻撃のとき酒巻和男少尉の特殊潜航艇を真珠湾まで運んだ
伊69潜に乗っていた山本康比久も、この遠洋航海のとき、

「お前たちのうちの数名は数年ならずしてまたこの灯を見るだろうから
よくスケッチしておけ」

と言われ、午前三時の薄明かりの中、沖3マイルから湾口をスケッチしています。

昨日の「軍神の床屋さん」でお話しした古野繁實、そして横山正治という
「真珠湾の軍神」は、二人ともこの67期です。
指導教官の言葉通り、そのわずか2年後、古野・横山を始め、
この山本も、再び真珠湾口を見ることになりました。

前述の市来の言によると、実際にそれが始まってから、
「ああ、あのとき」
と遠洋航海でのこの教官の言葉を思い出したということですが、それまでは、
そこに起こることのわずかな予感も芽生えなかったということです。

この67期の生存者たちの想い出を読むといつも不思議なのですが、
この、開戦二年前の海軍というのは、内部で一体どのようなことが想定され、
あるいは取りざたされていたのでしょうか。

真珠湾が成功したことの要因には、企図の秘匿と、機密保持
という二つのエレメンツがあると思います。

(アメリカ上層部が日本の作戦を事前に知っていたというのは定説ですが、
やはり現場はそんなことを夢にも知らず、結果的に奇襲成功したわけですから)

しかし、彼らによると、少なくとも67期生は2年前にそれを予感させるようなことを
指導教官から聞いているわけで・・・・・、それではその指導教官は、
一体どういう情報と確信に基づいて生徒たちにそれを告げたのでしょうか。



少し学校生活に慣れてくると、新入生の次なる試練は疲労と睡魔との戦いです。
そして若い彼らはいつも猛烈にお腹をすかせ、週末の酒保を首を長くして待ちわびました、
この頃には日曜も外出を許され、上級生と同じ生活になります。

兵学校の座学課業には「軍事学」というのもあるのですが、生徒の期待に反して、
これは「運用」として艦の模型で各部の名称を教わる程度でした。
兵学校ではあくまでも心身育成と教養の基礎習得が柱となっているからです。


67期生の回想禄は、当時を懐かしく回顧するものばかりで、歌ではありませんが
時は全てを美しく想い出に変えるとはいえ、やはり若さというのは従容として
どんな現実でも柔軟に受け入れるものだとこれらを読むと感じます。

彼らの想い出でとくに楽しいものとして残っているのが、
土曜日の夕方から上級生に連れられていく「短艇巡航」。
夜中海を帆走しながら上級生の体験談を聞いたり、
星空を眺めてロマンチックな気分になったり、かと思えば
鬼の1号が流行歌を歌いだすのを目を丸くして驚いたり。

夏の水泳特訓、そして待ちに待った夏休み。

休暇が始まる8月1日の朝、彼らは朝3時に起床します。
生徒は出身地も様々なので、全ての生徒が朝一番の汽車に乗るからです。

3時に起きると直ちに朝食。

このときにの朝食を全てたいらげたものは将来大物になる」

と言われているほど、皆食事もそこそこ、上の空。

東日本に帰るものは小用まで徒歩、ここから機動艇に乗り

呉桟橋に上がって呉駅にいき、一番列車に乗り込みます。
西日本組は、学校の出す船に乗って宮島の向こう岸から、山陽線の下りに乗り込みます。

この日列車は臨時増結され、期待と開放感で胸をはち切れんばかりにした
白い第二種軍装の群れを詰め込んで、彼らを故郷へと運んで行くのでした。


そして一ヶ月後、生徒たちは故郷での休暇を終えて帰ってきます。
皆またあの生活が始まるかと半ばどんより、しかし級友の顔を見て嬉しさ半分。


このとき、なぜか1号の機嫌が「すこぶる」悪いのだそうです。


 さて、昨日は67期の越山澄尭生徒の写真を挙げて、級友の語る彼の印象等を
語ってみたわけですが、この冒頭写真の中には、鹿児島一中から来て
「凄いのが来た」
と同郷の者たちの目を丸くさせた、その越山がどこかにいるわけです。

どこだと思われますか?

だいたいが詰め襟黒ボタンの学生服、学習院出身らしきボタン無しの上着あり、
学生帽に背広という制服もあります。(これは、東京の靖国神社横にあった九段中学です)

しかし、よく見ると、何人か、和服の者がいます。
このうちの一人が越山生徒であるはず、と思い、探してみました。



同級生の証言によると、かれは「黒い紋付を着ていた」。
そして、背が低かったということは、前列にいる可能性が高い。

このことから、この、真ん中の着物の生徒を特定しました。
羽織の紐が紋付の仕様になっている生徒は彼だけだったからです。
それだけが根拠です。
もしかしたら前列左から7番目の生徒かも知れません。(←いいかげん)

「維新の遺物」と見まごうばかりのオールドファッションなスタイルで
江田島に現れた越山生徒ですが、そのことを同郷のある生徒はこのように見ています。

小生の記憶によれば、彼の御尊父は確か、
ある神社の神主であるとか云うことであったが、
往時の薩摩兵児(鹿児島地方で,一五歳以上二五歳以下の男子のこと)
を思わせるような彼の服装の中に御尊父や御家族の
大きな慈愛がこもっていたのではないだろうか。
彼は(ママ)その服装で悠々慌てず臆せず遥遥文明の汽車に乗って

江田島まで来たときの気持ちが小生にはよく頷けた。


別のある生徒は、

どちらかと言うと無口で、とんがり気味の口から発する話し方も、
朴訥そのもののように思われたが、また、性温厚で非常に親切な人柄であった。

と彼をして評価しています。
同級生の越山を見る眼差しはあくまでも暖かく、深い尊敬に満ちています。


次回は特別にもう一項設けて、
越山澄尭が海軍軍人としてどのように戦い、どのように死んだかを
その戦歴から追ってみたいと思います。 

 
 


 

越山澄尭大尉~海兵67期の入校

2013-12-09 | 海軍人物伝

先日武道館で行われた自衛隊音楽まつり。
わたしはこの人気のイベントに1日二公演参加する僥倖を得、
一回目の公演が終わったときに息子をタクシーに乗せるため、
武道館に隣接する北の丸公園に沿った道を歩いていました。

一回目公演の音楽の余韻がまだ体内に興奮として残っているのに、
すでに次回公演への期待が高まっているらしいことに自分でも苦笑しながら
弾む足取りで歩き難い舗道を息子と進んでいると、
ふと目の端に、に引っかかったものがあります。

「兵」という文字。

普段このようなブログをやって、軍や戦争という事象に対して日常的に
アンテナを張り巡らせている目は、この文字を目ざとく識別していたのです。

それは、かつてここにあったという

「近衛歩兵第一聯隊跡」

の碑でした。

近衛歩兵第一聯隊は、日本最初の歩兵連隊として創設され、明治7年(1874)、 
明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年、大東亜戦争の週末に至るまで、
71年あまりの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、
大正天皇、昭和天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り
御在隊遊ばされた名誉ある聯隊です。

西南、日清、日露の各戦役および日華事変には、軍に従って出生して
輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争においては、帝都防衛の一翼を担いました。

これら近衛兵には、毎年の徴兵検査で
全国から厳選された優秀な荘丁を以て充てられたということです。


海軍兵学校67期、越山澄尭の祖父、越山休蔵は戊辰戦争以降、
「西郷隆盛の近衛兵」として、遡っては西南戦争をともに戦い、
子々孫々の誇りとなっている人物です。


わたしが越山澄尭の親族であるY氏から連絡をうけたのは、
この音楽まつりのことを集中的にエントリに挙げている最中のことです。
まるでその近衛兵の碑が引き寄せたようなその偶然の符号に、
わたしがそうであったように、Y氏も因縁めいたものを感じたそうです。

越山の甥であるというその人にとって曾祖父にあたる越山休蔵は、
西南戦争では第七隊長として官軍と戦い、その後少数精鋭の近衛に選ばれました。
西南の役を通じてそれだけ西郷に近かったためであろうと思われます。



「坂の上の雲」と並んで評価の高い司馬遼太郎の長編小説、

「翔ぶが如く」は、西郷と大久保利通が主人公であり、征韓論、明治6年政変、
やがて西南戦争へと向かう歴史の流れが俯瞰で描かれていますが、
この小説によると、 征韓論に敗れて西郷が下野した時、
直属の部下たちは揃って、近衛帽をお堀に投げ捨てて鹿児島に戻りました。

越山の家系には、休蔵がやはりそのようにして帰鹿したことが言い伝えられています。





全国数千人の受験者のなかから厳しい入学試験を経て選ばれた海軍兵学校67期生が

その燃ゆる若い希望に胸を躍らせながら江田島に集まって来たのは、
昭和11年三月末のことでした。
桜もまさに綻びんとすることで、かれらは入校式の二日後の4月3日、
海軍軍楽隊の演奏をその桜散る生徒館の中庭で鑑賞しています。
そしてその夜は「夜観桜会」が催されました。

ある67期生徒がその演奏会のことを後に書き残しています。

「軽やかなワルツや胸躍る行進曲を演奏する軍楽隊員の肩に、
ひっきりなしに桜の花びらが降り掛かっていた・・」

しかし、江田島の潮風はまだまだ春と呼ぶには冷たく、
中でも南国から来た生徒たちは

「どうも、寒いなあ」

と頷き合っていました。
もう気の早い人は袷(あわせ)を脱ごうかという気候であった鹿児島から来た
「兵学校の薩摩隼人」たちです。


この67期にも、248名の入学者のうち30人が同郷がいました。
最も出身者が多い東京の39名に次ぐ人数です。
なかでも、鹿児島一中、二中は出身者が多く、

東京府立4中・11名
鹿児島二中・8名
鹿児島一中・7名

と、両校出身者を足すとそれだけで同県出身者の半数になりました。

鹿児島というのは偉人西郷を生み、また軍人を多く排出しています。
そして実際にも西郷に仕えた軍人である越山休蔵の孫がこの67期に入学していました。
それが、越山澄尭です。

最初に越山生徒を見た同郷の生徒たちは目を見張りました。
それほどにこの生徒の第一印象は一種異彩を放っていたのです。

人一倍小さな身体、そして鋭い目をした精悍な面。
兵学校にやってきたときのかれのいでたちは、木綿の黒紋付に、
棕櫚の鼻緒の下駄を素足につっかけるというもので、

「ものすごいのが来た」

ある同郷の級友は最初の越山の印象をこのように記憶しています。
内地の南端とはいえ、昭和の文明の空気を吸った彼ら同郷の者にさえ
その風体は異様なものに思えたといいますから、
ましてや都の水に産湯をつかった「都会っ子」たちには、越山の姿は
もしかしたら「維新の遺物」と思われたかもしれません。


「男尊女卑」とも言われることもあり、平成の世である今でも
全国的にはバンカラのイメージがあるのが
薩摩隼人ですが、
一中時代の越山は、絵に描いたような「バンカラスタイル」
を押し通していました。

バンカラのバンは蛮、と書きます。
西欧風の「ハイカラ」をもじって出来たもので、ハイカラがこぎれいなお洒落なら、
バンカラは悪ぶったお洒落(と言えるのなら)で、一高生が流行の発信源でした。

定番のバンカラスタイルとは、弊衣破帽で、腰に手ぬぐい、高下駄、という、
そう、昔あった歌、かまやつひろしの「我が好き友よ」そのままです。

ワイシャツに似た木綿の白シャツに着物、そして袴に高下駄。
彼が、高下駄で「大いに短身をカバーしつつ」肩をいからせて歩く姿には
一種独特の風情があった、と級友は語り、
なかでも同郷でやはり鹿児島一中出身のある同級生は、

「その姿が印象的で今でも目の前にちらつく」

と戦後書き遺しています。 

入校式も終わり、入校直後の訓練が始まるにあたって、
67期指導官付きであり運用を任ぜられた指導監事の中山定義は、
彼ら67期生を海岸の松並木に集め手に訓示をしました。

「君たちはスマートな制服と短剣に憧れて、また遠洋航海で外国へ行ける楽しみ、
中には未来あの大臣、大将を夢見るなど、いろいろな動機で入校して来たことと思う。
しかし只今限り、そんなことは全部忘れてしまえ。
諸君は『太平洋の藻屑』とはっきりと覚悟せよ

以前このことを書いたとき、わたしは生徒たちが軍組織の非常さに
まるで背に水を浴びせられたような気がしたのではないか、と述べました。
しかし、あれから、当時戦いに身を投じた青年たちの様を、
残された文献や資料から見て来た今、一概にそうとも言えない気がしています。

この檄を飛ばした中山自身、戦後になって、その67期生に向け、

「当時私は30歳そこそこ、それは私自身の覚悟であり、国策の向かうところ、
米国海軍を目標としてその必然的宿命を予感しつつ猛訓練に精魂を尽くしていた
青年士官全員の心意気であった」

とかつての自分の心情を、弁解というわけでもないでしょうが、こう吐露しています。
おそらく越山ら、数千人の中から選ばれし者の自覚と誇りを持ってここに在った
67期生の生徒たちもまた、当時の風雲急を告げる世界の状況を
我が身のものとして、
祖国の急に身を投じる覚悟は、ある程度できていたことでしょう。


勿論、若さ特有のオプティミズムゆえに、自分の死を観念としか捉えておらず、
この訓示によって初めて現実に触れ、文字通り水を浴びせられる思いをした生徒も
少なからずいたかもしれませんが。



67期の入校式にあたり、出光万兵衛校長はこのように訓示しました。

「諸子を花に譬えれば、すみれあり、タンポポあり、れんげ草あり千差万別、
夫々に特徴はあるものの、本校において育成培養するところのものは、
かの朝日に匂う山桜花である」


「桜花」とは我が身散らすという意味において「海の藻屑」と即ち同義です。
ある生徒は「それでは自分を今譬えれば何の花であろうか」
と自問せずにはいられなかったそうです。

しかし、いかに戦雲急な時代とはいえ、教育機関の長が、
その面立ちに子供っぽさすら残した青年たちに、

潔く死ぬことを目標とせよと訓示するとは・・・。

江田島教育と言うのは長期的にはその後に続く海軍生活に必要な心身、
学術の基盤造りを目指し、短期的には少尉から大尉までの少壮士官を想定し、
一旦急あれば身命を顧みず勇猛果敢に戦う敢闘精神を養成し、
同時にこれを支える強健な身体を造ることを目指したものでした。

一度、作家の丹羽文雄が従軍し、「鳥海」に乗り込んで
ソロモンの夜戦を経験し書いた小説「海戦」を扱ったことがあります。
そこでわたしが心に残ったのが、丹羽が驚嘆した、
兵学校出身士官たちの徹底的とも言える「生の放棄」でした。

死に対する覚悟は、一応付いているつもりだ。(中略)
私はすでに自己放棄をやっている。
然し、死に関しては現実的に軍人にかなわないのだ。
軍人の示す完全な、おそろしいほどな自己放棄には、時間がかかっていた。
偉大な訓練の結果であった。


丹羽の言う「おそろしいほどな自己放棄」とは、遡れば海軍兵学校の入校の日、
自らを桜花に喩え、海の藻屑になることを覚悟せられた、この67期生のように、
海軍兵学校の教育を通して培われていったものと思われます。


 さて、越山澄尭は、入校教育の一環として、
4月12日に、呉の潜水艦学校を見学しています。
このときに彼が潜水艦勤務になることを何か予感したか、
あるいはこのときにその志望となる萌芽が心中発したか、

それはわかりません。

越山は1号(最上級生)のとき、21分隊で、
同じ分隊に、昨日エントリに挙げた古野繁實生徒がいました。

このときには自分の進路を内心決めていたでしょうから、
古野とそして越山は、同じく「どんがめ乗り候補」として、
お互い将来のことを話し合ったものと思われます。

そして、古野は昭和16年12月8日、開戦の当日、真珠湾に特殊潜航艇で突入し、
「真珠湾の軍神」となりました。

それから8ヶ月後の昭和17年、越山の乗り組んだ呂33潜は、
モレスビー沖で消息を絶ちました。
越山の戦死したのは呂33が消息を絶った8月29日とされています。



桜は桜でも、人知れず山に咲き、美しい盛りで誰にも賞賛されること無く散る山桜。
入校当時の彼が何の花であったかはもうすでに知るべくもありませんが、いずれにしても、
兵学校卒業後、越山は見事な山桜となり、そして散ったのでした。
 

 


越山生徒が入校して卒業するまでの67期の海兵生活について、
もうすこしだけ続けてみたいと思います。

 

 

 

 

 


軍神の床屋さん~真珠湾特殊潜航艇・古野繁實少佐

2013-12-08 | 海軍人物伝

古野繁實海軍少佐。
海軍兵学校67期、昭和16年12月8日、
特殊潜航艇乗組としてハワイ真珠湾の攻撃に参加、戦死。
死後二階級特進。


今日は12月8日。
真珠湾攻撃から今年で72年が経ちました。
このときに行われた航空機動部隊による攻撃は様々な媒体で語られますが、
そのときに真珠湾に突入した特殊潜航艇5隻の戦果は、
はっきりしたことが未だにわかっておらず、学者の研究対象になっているほどです。
それらは真珠湾を語るとき海面での戦闘に比べて語られることはありません。

しかし当時、このときに潜航艇で突入した潜水艦部隊の9人は、
生きて捕虜第一号となってしまった酒巻和男少尉を除き、
「真珠湾の九軍神」
として何よりも大々的にその功績を喧伝されました。

わたしは、時折情報チェックのために聴く、我が家の「ゆうせん」の
「軍歌・戦時歌謡」チャンネルで、「大東亜戦争海軍の歌」の二番、

あの日旅順の 閉塞に
命捧げた 父祖の血を
継いで潜つた 真珠湾
ああ 一億は みな泣けり
還らぬ五隻 九柱の
玉と砕けし 軍神(いくさがみ)

というのを聴くたびに、

「これがもし酒巻少尉も戦死して軍神が10人だったら、この歌詞は
どうなっていたのだろう。
九柱は語呂がいいけど、十柱は「とばしら」とでも読ませたかな」

など、とてつもなくどうでもいいことをつい心配してしまうのです。


結果に過ぎませんが、「9人」というのは据わりがいいというか、
「軍神の数」としては10人より「様になる数字」ではないかというか。

さて、今日お話しするその九軍神のうちの一人、古野繁實少佐は、兵学校67期です。
特殊潜航艇のこのときのメンバーは、隊長岩佐直治中佐が、65期。
66期がなく(松尾敬宇中佐は66期)古野少佐と横山正治少佐が67期、
広尾彰大尉と捕虜になった
酒巻少尉が68期です。


特殊潜航艇のチームは、開戦時、大尉、中尉、少尉、という、
軍隊的には「実働隊」と言うべき若い士官が指揮官となりました。


その67期に、わたくしエリス中尉の敬愛する笹井醇一少佐がいることもあり、
このクラスについては当ブログで何度か記事にしてきました。
あるとき、兵学校67期であった親族をお持ちだという方、Y氏が、
インターネット検索によってそんな記事から当ブログを探し当て、

「海兵67期がどんな環境で学んでいたか教えていただけないか」

というご依頼をしてこられました。

その親族に当たる海軍軍人とは、潜水艦勤務で、ラバウルで戦死した

越山澄尭海軍大尉と仰る方なのですが、まず、越山大尉とクラスメートである、
この古野少佐の物語を、真珠湾攻撃の日に再掲させていただくことにします。


越山大尉の親族であるY氏は、67期の潜水艦乗りが、開戦までの間どうすごしたか、
そして同期の「軍神」になった同じ「どんがめ仲間」の古野中尉の戦死を
どのように見たのかの片鱗を、拙文より読み取っていただけますと幸いです。

なお、越山大尉について、一項を設けてその戦歴と級友の回想から、
在りし日の大尉の面影らしきものに迫ってみました。

近々アップしますので、これもご笑覧ください。




1941年12月8日。


真珠湾攻撃が航空機を主力とする機動部隊によって行われたとき、
同時に五艇の特殊潜航艇が湾内に突入しました。

生きて捕虜になってしまった酒巻和男中尉を除いた九人の戦死者をだれが言い出したか
(海軍当局の発表には軍神の文字はない)
「九軍神」
とマスメディアは高らかに謳い、国民は熱を帯びたように彼らを讃え、憧れ、世に言う
「軍神ブーム」が起こりました。

人々は競って、学校の生徒は教師に引率されて軍神の家に詣で、礼拝しました。
新聞記者は遺族に頷けばいいだけの問いを投げかけ、その答えが麗々しく紙面を飾り、
その家族は涙を見せることもできなかったといいます。




まだまだ実戦には不備が多く、時期尚早というほかないこの潜水艦での攻撃を
よく言われるように

「最初から戦果が期待されず、かつ生還を期さない特攻作戦で、
戦争突入の象徴として死んで軍神となる」


ことが目的だったということを、
当の彼らがどのくらいその覚悟の裏に感づいていたかは今となっては謎です。


なぜならこの計画を生みだしたのは彼ら自身とも言えるからです。





古野繁實中尉は福岡県遠賀に生まれました。
実家は里山を抱え込んだ広大な屋敷を持ち、代々庄屋をつとめた旧家。
六人兄弟の三番目で親の期待を一身に受けていました。

兵学校を卒業し潜水艦に配せられた古野少佐は、
同じ「どん亀乗り」の仲間と呉で下宿を始めました。

67期のほとんどがそうであったように、このとき少尉だった彼らは人生でおそらく
「最も楽しい時期」を過ごしたのでしょう。
航空ほどではなかったかもしれませんが、開戦前の六五期前後の若い海軍士官は
どこにいってもММ(モテモテ)だったといいますから。

呉で下宿を探し始め「その辺のたばこ屋のおばさん」に聞いて
紹介してもらった家に住み始めた彼らは、
そのたばこ屋の隣にあった
「ナイスな女床屋さん」のいる床屋のお得意客となりました。

このきれいな床屋さんを、古野少尉はいたく気にいっていたようです。

同期の松下寛氏の戦後の回想―

「開戦前のある日、呉の床屋で古野君と会った。
彼は床屋の彼女に思し召しがあったらしく、
彼女の理髪する順番が廻ってくるまで、いつまでも待っていた」



古野中尉が特潜に行ったのは昭和16年の春のことでした。

潜航艇のメンバーの一人、酒巻少尉は、
受け取った転勤命令が暗号電報だったことに驚きます。


「たかが一海軍少尉の転勤に・・・」


そして、士官10人、下士官12人の

「その存在そのものが秘密兵器である甲標的搭乗員」


は、帽振れで送られることなく、元の配置から密かに姿を消したのです。
軍艦千代田に集められた
その中には「平和への誓約」の主人公、
シドニー湾に特殊潜航艇で突入し戦死した松尾敬宇大尉の姿もありました。


真珠湾への甲標的突入は、当初訓練にいわば「無聊をかこつ」日々の中で、
搭乗員岩佐大尉を中心に自然に発生し、それを彼らが若さの情熱で具申し、
司令部詣でを繰り返した末受け入れられたということです。



生還の望みがないことを理由に、山本五十六司令長官は、
最初甲標的の参加を許可しませんでした。

さらには主力を自負する機動部隊方面からは

「甲標的にうろうろされては相手に気づかれるおそれがあるし、
もしそうなれば急襲が難しくなる」


という理由で、作戦そのものに否定的な意見が出されます。


しかし死を覚悟で作戦への認可を訴える若者の情に、
山本長官は最後にはついに

「ほだされた」
ということになっています。

この特殊潜航艇について全ての人が持つのは
「なぜ」
「何のために」
十人もの人間の生命と引き換えにするにはあまりに杜撰で無謀な、
かつ戦果の見込めない突入が行われ、
かつ機動部隊の華々しい成功者ではなく彼らが軍神となったのか、
という単純な疑問ではないでしょうか。


ここで思い出すのが「天一号作戦」、大和特攻を伊藤中将に説得した草鹿中将の言葉です。

「一億特攻の魁となっていただきたい」


成功の見込みの無い無謀な作戦に首を縦に振らなかった伊藤中将が
この一言で作戦を受諾したのです。

冷徹な作戦遂行の結果敗して死するのと、象徴としての死を最初から目的に戦うのと―

同じ死するのでも後者の死により意義があるという選択でしょうか。

死ぬことで後に続くものの精神的支柱、殉国の象徴となる、というのは
殉教者の真理であり、あるいはこれが当時の軍人の理想であったのかもしれません。



古野中尉は自分の任務についての一切を同居のクラスメートに語りませんでした。
新配置について一カ月後、かれは下宿を引き払います。

「当時はまだ真珠湾の計画はできていなかったと思われるので
彼自身に運命の切迫感を感じさせるものはなかったであろうが・・」

同居していたクラスメートの今西三郎氏はこう懐古します。

しかし、甲標的の何たるかと、その性能や目的などを目にしただけで、
おそらく古野中尉の中にはある覚悟と確信―
―自分は近々確実に死ぬであろうという確信が
芽生えていたことは想像に難くありません。

「貴様らのように命は永くないよ」

古野中尉がこうつぶやくのを今西氏は耳にしています。


そして、その言の通り古野少佐が軍神となってからのことです。

松下氏は前線帰りの髪を刈りにいつもの床屋に出かけました。
古野中尉がお気に入りだった美人がいる床屋です。

古野中尉が

「いつまでも自分の髪を刈ってもらう順番を待っていた」

のは、任務に就く直前のことだったのでしょうか。
それとも下宿を引き払う時だったのでしょうか。

いずれにしても、そのとき、古野中尉は気に入っていた女床屋さんに、

心の中でひそかに別れを告げたに違いありません。


その女性が、松下氏を見るとこう話しかけてきました。

「十二月八日真珠湾に攻撃をかけた特別攻撃隊の九軍神の中に
古野という名がありましたが、
わたしがいつも頭を刈っていたあの古野さんと同一人物なのですか」


そうだ、と松下氏が答えると、彼女は今更のように自分の手をじっと見つめ、
思いだそうとするかのようにしばし瞑想し、その後こう呟きました。

「あの人がねえ」










特定秘密保護法案成立~日の丸のない反対デモ

2013-12-07 | 日本のこと

2013年12月7日未明、特別秘密保護法案が成立しました。

この法案にはメディアと民主党、そして「市民」が大反対を唱え、
絶対阻止を合い言葉に深夜というのに国会の周りを取り囲むなどの、

「かつて来た道」

が見られました。
かつて来たというのは、つまり古くは自衛隊の設立、日米安保に始まって、
成田空港や自衛隊の海外派遣などで反対を唱えたのと全く同じ、
「サヨクと野党、そして左派メディアによる狂乱の反対ぶり」
が再び見られたということです。

このとき国会を取り囲んだ「市民」には、団塊世代が多かったということですが、
冒頭写真の籏に見られる今回の反対デモの

「革マル」「民青同盟」(この若い人たちはバイトであるという噂もある)

の一員としてかつて安保闘争に参加し、

「就職が決まって髪を切って来たときもう若くないよと君に言い訳」

した人たちが、ノスタルジーにかられて

「いちご白書をもう一度」

とばかりに最後の力を振り絞っている、の図、かも知れません。


しかし、今回は報道の偏向ぶりが一段と酷かったですね。
ほとんど「情報操作」のレベルで、各メディアは一斉にこの法案に反対していました。

産經新聞、読売新聞以外の、大手では朝日毎日、そして
それと主旨を同じくする地方新聞、そしてエネーチケーを筆頭とする
在京テレビ局の報道からこの法案についてを知ったとしたら、
おそらく、彼らの印象誘導によって、まるでこの法案によって国民の知る権利が失われ、
目と耳を塞がれる暗黒の社会へと突入するかのように思ってしまい、
それゆえ気分的反対派になっている人がいるかもしれません。

今日はそんな方にこそお読みいただきたい。


以下、中日新聞の記事からの抜粋をお読み下さい。

正しい情報を与えられない国民は、正しい判断ができないことをよく示している。
この状態は日露戦争にとどまらず、太平洋戦争に至るまで引きずる。(略)

個人個人が政治や社会を動かしていくために、「表現の自由」が定められている。
国民が正しい判断をするには、正しい情報を得る「知る権利」が欠かせない。
報道もその一翼を担う。

「報道は民主主義社会において、国民が国政に関与するにつき、
重要な判断の資料を提供し、いわゆる知る権利に奉仕するものである」
と、最高裁判例にある。

特定秘密保護法は、この原理の基本である「知る権利」に絶対的にマイナスに作用する。
いわゆる「沖縄密約」など、政府の違法秘密も隠蔽(いんぺい)できる。
秘密にしておきたい「核密約」などの情報も意図して「特定秘密」に指定し、秘匿化できる。

「安全保障上の支障」というだけで、国会への情報提供もブロックされる。
司法権の監視も受けない。
判断権はすべて行政府が握る仕組みは、三権分立からの逸脱に等しい。
まさに行政権に白紙委任する“装置”である。
重要情報を独占する官僚制はやがて独善に陥り、暴走する。

中国や北朝鮮などを眺めても、正しい情報が伝えられない国民が悲劇的であるのは明らかだ。
言論統制が敷かれた戦前の日本も同じ状態だった。

罰せずとも検挙するだけで効力は抜群だった。
今回の法律も特定秘密に接近しようとしただけで処罰の規定がある。
「話し合い」が共謀に当たるのだ。
容疑がかかるだけで、家宅捜索を受け、パソコンなどが広く押収されうる。

しかも、「主義主張を国家や他人に強要する」活動が、テロリズムと解せられる条文だ。
どのように法律が運用されていくのか、暗然とするばかりだ。

国連の人権高等弁務官が
「表現の自由への適切な保護規定を設けずに法整備を急ぐべきでない」
と懸念を表明したのに、政府は無視した。
国内の研究者や文化人らの反対にも聞く耳を持たない。

安倍首相は
「民衆の強硬な意見を背景にして有利に交渉をすすめようとするのは、
外交ではよくつかわれる手法だ」とも書いた。

国家は民衆の声すら自在に操る力を持つわけだ。
国民主権が空洞化する懸念を持つ。

 
これだけ読むと、まことにごもっともな「暗黒法案」への懸念に見え、
ことに権威たる新聞が冷静に判断することを呼びかけているように
思う読者はおそらくたくさんいるのでしょう。

しかし、ちょっと待って欲しい(笑)。

これ、戦後の民主主義の「権利」についてを述べ、その権利が脅かされることだけを
センセーショナルな脅し文句で煽っていますが、たとえば

「国家は民衆の声すら自在に操る力を持つわけだ」

民衆の声を自在に繰ることができるのは・・・・・それ、まさに国家というより

メディアのことなんじゃないんですか?

この記者は「国家」と「民衆」を相対するものとしてしか認めていないわけですが、
そもそも日本は民主主義国家で、選挙制度によって政府を選ぶことができ、
施政を担う政府というものが、民衆によって選ばれている、という大前提を
全く無視して物事を語っています。

そして、決定的に説得力が無いのは、この麗々しい文章の中に、

一つもこの法案に対する具体的な敷衍がなく、「特殊な例」を「誰にも起こりうること」
と勘違いさせるギミックに満ち満ちていること。

「話し合いが共謀になるのだ」

って、なんなんですかこれは・・・。
昔、オランダ統治下のインドネシアでは、300年というもの、道ばたで
三人以上のインドネシア人が話をするのも禁じていましたが、
それと同じことをこの法案はしようとしているとでも言うのでしょうか。

だいたい、今回のこの法案についている「特定」という言葉について、
メディアは意図的に触れず、それが誰にでも適応されると意図的にミスリードしています。


さて、それでは、エリス中尉はこの法案についてどう考えるのか、
とお尋ねがあったような気がしますので明言しておくと、
わたしはこの法案は、戦後になってほとんど初めて生まれた、
日本をまともな国にするための画期的なものだと思っています。

先進国では当たり前になっている、国家機密に関する情報の漏洩に対する罰則が
日本には今まで存在していなかったのですよ?
それができた、ということなのですから。

国の中枢に入り込んで、情報を流出させる可能性のある役職に、
思想信条、バックグラウンド、国籍、帰化か否か、そして経歴、
このようなことが全く問われぬまま就くことができていた、
今までの日本が異常だっただけのことです。

今回、この法案がいかに「人権を脅かすものであるか」を、各新聞は、
知恵を絞って、愚民にもわかるように()具体的な記事にしてくれています。

その例をご紹介しましょう。
前もって言っておきますが、飲食しながら読まないで下さいね、
あまりのあまりさに吹き出してしまうかもしれませんから。


 ★【静岡】特定秘密とは隣り合わせ 自衛官の胸騒ぎ 

(中略) 

◆法律施行なら 日常会話にも影響 

特定秘密保護法案が成立すると、秘密に携わる公務員の一家は、
日常会話にもこれまで以上に神経をすり減らすことになる。


例えばこうだ。
四歳の息子と妻、そして自衛官の夫の三人家族はつつましやかに暮らしていた。 

 夫  「パパは明日から出張に行ってくるからね。いい子にしているんだよ」 
 息子 「えっ。パパ、明日からいないの? どこ行くの?」 
 夫  「ごめんな。言えないんだ。お土産もこれからはないから」 
 息子 「なんで?」 
 夫  「だって、お土産で行った先が分かってしまうだろ」 
 妻  「あなた、出張先も言えないの? 前は教えてくれたじゃない。
     本当に出張なの? まさか…」 


隠されたショックと両親の険悪な雰囲気に息子が泣きだした。 
仕方なく自衛官の夫は言う。

「パパはね、明日からハワイ沖でアメリカ人のお友達とおしゃべりをしてくるんだ」- 

ハワイ沖での任務が特定秘密に指定されていた場合、
家族が誰かに話したら処罰対象になる可能性がある。 


国会審議の中で、森雅子担当相は

「特別管理秘密を取り扱うことができる職員数は
警察庁、外務省、防衛省でおよそ六万四千五百人」

と答弁。

「都道府県警察職員のほか、契約業者も対象になる」と述べている。 

多くの公務員とその家族の間では、これまで普通だった会話さえ、
躊躇(ちゅうちょ)することになりかねない。 


http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20131204/CK2013120402000091.html 


これをお読みの自衛官、特に海上自衛隊の皆様、ご感想はいかがなものでしょうか。
おへそがお茶を沸かした方、思わず

「ふざけるな、こんな自衛官の妻がいるか」
「何がアメリカのお友達とハワイでおしゃべりしてくるだそんなこと子供が知りたがるかアホ」

と毒づいた方、呆れて開いた口が塞がらず地面についてしまった方・・・。
一般の企業にお務めの方、公務員、そして医師弁護士のかたがたは

「この中日新聞の記者は『守秘義務』という言葉を聞いたことがないのだろうか」

と、記者の学歴や出自国籍までもを疑ってしまうかもしれませんね。

この暗黒法案が施行されたら、自衛官は家庭不和を避けるために
あえて守秘義務を漏らし、それがばれて犯罪者となる、
一家の主は職を失い家庭は崩壊。

妻は夜の仕事、子供はグレて犯罪グループへと・・・、

ってか?
中日新聞さんたら、いつもは自衛隊に冷淡なのにこんなときだけ妙に優しいのね。涙が出ちゃう。


さあ、次参ります。
今回の法案可決を最も「恐れていた」と見え、その発狂ぶりは度を超していた、
朝日新聞。 

朝日の記事をイラスト付きで今日の昼は見られたのですが、見られなくなっているので、
それを揶揄した(って言ってもいいよね)産經新聞の記事を。


大まじめに書かれた新聞記事を読んで笑う、
というのは天に唾するようなものだが、久々に大いに笑わせていただいた。 

朝日新聞(6日付)に載った「規制の鎖 あなたにも」と題する
特定秘密保護法の危険性を、イラスト入りで解説した記事にである。

▼防衛産業で働く男が、「あまり知られていない」発射に失敗して
海に落ちた北朝鮮ミサイルの軌道について 同窓会で話し、
その内容を同窓生のA子がブログにアップしたら、
捜査機関から取り調べを受け「有罪」になった、 というお話。

怖い話だが、実際にはこんなケースはあり得ない。 

(略)

▼第一、抄子の同級生や知人に「防衛産業で働く男」が何人かいるが、
飲み会で機密をペラペラとしゃべる者は誰もいない。
危険性を熱く語るのも結構だが、大げさなつくり話は、読者を鼻白ませるだけである。 


▼むろんこの法律は、小欄も書いてきたように、もろ手を挙げて賛成できる代物ではない。
重要法だという割に 担当大臣は危なっかしく、
毎日のように急ごしらえの「新機関」が登場する始末だ。 


▼それでも賛成せざるを得ないのは、あの国やこの国のおかげで
東アジア情勢が急激に緊迫
しているからである。
情報の「官僚独占」を許さない仕組みや不十分な点は、次の国会以降、どんどん改めればよい。
付け 
加えると、この法律が施行されて畏縮するような記者は小紙にはいない。

ちょっと格好良すぎるが。 


産經新聞抄子氏、最後で「なんちゃって」と照れてます。

後半の賛成理由にはわたしも同感で、法案の不備は国会で改めればよろしい。
そのための国会であり、そのために選挙があるのですから。

朝日も中日も「いかに酷い法案であるか」を説明する段になって、
それまでの抽象的で高邁な理想論からはがくっとレベルを下げて、
この法案が恐ろしいものだという説得力が無くなってしまっています。

逆に国民のほとんどが、

「いやこれ、罰則必要だろ?
むしろ今までどうしてこれに対する法整備がなかったの?」


と不思議に思ってしまうでしょう。

ここで、当ブログのサービスとして、分かりやすく(新聞社が分かりやすくないので)
法案のポイントをまとめてみます。

「特定秘密とは、なんですか?」

【防衛】

●防衛、警備等に関する計画
●防衛に関し、自衛隊が収集した画像情報
●自衛隊が通信内容を秘匿するために用いる暗号
●潜水艦のプロペラの材質や形状、戦車などの装甲厚
●誘導弾の対処目標性能、潜水艦の潜水可能震度

【外交】

●領域の保全に関する外国との交渉のための対処指針
●北朝鮮による核・ミサイル・拉致問題に関するやりとり
●外国が弾道ミサイルを発射した場合に取る措置の方針
●特定の国の外交方針について友好国政府から提供を受けた情報
●公電に用いる暗号
 
【スパイ防止】

●外国からの不正アクセスによる政府機関の情報窃取防止のための防護装置
●大量破壊兵器関連物質の不正取引を防止するための計画
●外国の情報機関から提供を受けた大量破壊兵器関連物質の不正取引に関する情報
●情報収集活動の情報源

【テロ対策】

●重要施設警備の実地計画
●重大テロが発生した場合の治安機関の対処方策
●外国の情報機関から提供を受けた国際テロ組織関係者の動向
●情報収集活動の情報源


もうお分かりですね?

これらを「知る権利」が、どうして一般国民に必要だっていうんです?
そして、どうしてそれを知りたいんです?

わたしはたまたま渡部昇一さんのお話を聞く機会があったのですが、
渡部氏ははっきりとおっしゃっていましたよ。

「よほどこの法案が都合が悪い人たちがいるんですね」

都合の悪い人たち。
つまりこういう情報を切り売りして利益供与を受けている、あるいは
日本ではない別の国家に忠誠を誓っている・・・・?

反対派というのは要約すると

国民の知る権利を奪うことは、戦前の情報統制の再来であり、
日本が再び『戦争する国』になることである

という理由から反対しているのですが、わたしは彼らに聞きたい。
「都合の悪い人たち」ではなく、その尻馬に乗って「いちご白書をもう一度」をしている人に。
この「特定秘密」の「特定」の意味を本当にわかって反対していますか?


今回、この法案に対する「立ち位置」を、自分たちの意見でバイアスをかけた
曖昧な報道しかしようとしないメディアからは、その公平な視点がわからず、
どうしていいか決めかねている国民も多いと思います。

しかし、わたしはシンプルに考えて下さい、と言いたい。
今回の反対デモの写真を見ればよろしい。

「人間の鎖」「ダイイン」「官邸の壁に落書き」「国会に靴を投げ込む」・・・

どれもこれも、普通の日本人なら違和感を覚える行動ばかりです。
そして、決定的なのは、彼らのデモには

「日本の国旗が全く見当たらない」

ということです。
もう、反対しているのがどんな連中であるか、これだけでお察し、です。
ね?シンプルでしょ?


わたしは産經新聞の抄子さんの記事、
「今のところ不備不足ゆえ万全とは言えないが、

しかし、今の日本の置かれた危機的状況を考えると」という部分に同感で、
この法案が傍目には拙速と言われる(わたしはそう思いませんが)状況でも
とにかく可決になったことで、ひとまず現下の危機は逃れられそうだと安堵しています。

「不備不足」についても同じで、それらが正しく運用されるようにしていくのが国会であり、
その国会に代表者を送り込むのが我々国民なのですから。

しかし今回の可決はある意味諸刃の剣とも言えます。
つまり今後二度と、民主党のようなのに政権を取らせてはいけないということです。

刃物は持たせる相手を間違ったら、その刃は敵ではなく確実に自分に向くからです。


可決から1日、メディアの発狂ぶりは、もう大変なことになっています。
曰く、

「独裁」「国民の声を無視」「国民のほとんどが反対」・・・

しかし、メディアにはまだわかっていない。
いや、わかりたくないのかな。
民主党が前回の選挙で「引き摺り下ろされた」のはなぜなのか。

今回は大々的にこの法案の反対意見ばかりを報じているメディアが、
民主党がこっそり通したかった悲願の「人権擁護法案」「外国人参政権」
については「報道しない権利」を振りかざして全く情報を遮断したにもかかわらず、
国民はこれらの法案とそれを通そうとする政権に対し、ノーを突きつけたからですよ。


もし、朝日やNHKが言うように「国民のほとんどが反対」
しているのならば、次期選挙で自民は与党の座を失うはずです。

しかし、国民は「民主というババ」を掴ませたメディアの口車にはもう乗せられないでしょう。
マスコミが今回のことを奇貨としていくら国民を煽っても、
「日本国旗の嫌いな人」以外、誰も踊ることはないとわたしは思いますが。







 

岩国海兵隊基地~F/A-18レガシーホーネット

2013-12-06 | アメリカ

岩国の海兵隊基地にご招待いただいたのは、
F/A−18ドライバーのブラッド(仮名)を夫にもつ、TOと同じ大学を卒業した妻、
アンジー(仮名)のお誘いによるものです。

見学者を案内して戦闘機を見せる、というのは、 自衛隊ではおそらく禁止でしょう。
しかし、それは自衛官から一般人に対する「個人的な利益供与」
を禁じるという観点からの規則になっていると思われます。

しかし全ての機体は国民の税金により賄われているわけですから、
日本国民である限り、わたしたちにはその実物を見る「権利」があるわけで、
自衛隊は大変な警備体制を敷き、全基地隊員を動員してでも、
定期的に航空祭などを開催し、広報活動として装備を公開します。

しかし、日本に展開しているアメリカ軍の軍人が、
日本人にこのような個人的便宜をはかることは果たして許されているのか?


今回の写真をアップするにあたって、まず考えたのがそれです。

インターネットを当たると、このホーネットの写真、山ほど出てきますし、
過去行われた岩国基地のフレンドシップデーなどのものもあり、
取りあえず機体の写真をアップすること自体はまずいことではなさそうです。

何事にも慎重なTOは
「ブラッドがもしこっそり見せてくれていたのだったら、立場が悪くなる」
と言うのですが、建前のないアメリカで、もし本当にダメなら、
最初から一般の日本人に基地を案内することからして禁止になるはずです。

そして今回、ブラッドは最初にわたしにこう言いました。

「撮ってはダメなところはそういうから、撮らないでね」

因みに彼が「ここはダメ」と言ったところは、

●整備のために機体から外されたエンジン。
周りをメカニックが囲んでいた

●ハンガーに入る経路

●シュミレータ棟の出入り口、その外観

●シュミレータ棟内部全部、勿論シュミレータは厳禁

●滑走路に駐機したオスプレイ(これはアンジーが言った)

以上。
「撮っていいよ」と言ったところは、つまり「機密ではない」と。
このように解釈しました。



そもそも、「絶対に秘密」という部分は、
このように立ち入り禁止になっているわけで。

これ、今更ながらに見れば見るほど怖いですね。
ここには一体何があるのか。
そして、もし入っていったら、どうなるのか。
スパイ疑惑で尋問はまず間違いないでしょう。



という殺伐とした?話題は置いておいて、
前回一項を割いてお送りした「部隊記念ボード」シリーズで、
ご紹介しそびれたハートウォーミングなこのボードをご覧下さい。

「俺たちイケてるぜ」感を出そうとするあまり、ついつい
中二っぽい方向へと突き進んでいる感のある最近の部隊章ですが、
そういう傾向に背を向けて、この部隊は・・・。

まるで黒板のような・・・って、これまさに黒板なんですね。
なんてシャレが効いてるのこのスコードロンは。

しかしずらりと並ぶ「生徒たち」の名前には・・・・
ん?

TACネームがない。

さらによくチェックすると、書かれた名前が、まず教頭先生が
「シャノン」。
女性ですね。

生徒たちは

ワンダ、クレア、ナンシー、キム、ローリ、ゲイル、ダイアン・・・。
お、「ヒデコ ナガイ」。

男性もいますが、ほとんどが女性です。
そこで真ん中の「部隊章」を見ると、

DODEA

Department Of Diffence つまり、国防総省がやっている
Education Activity、教育プログラム。すなわち
在外米軍の家族の教育のために基地にある学校。

シャレじゃなくて本当に学校の先生だったんですね。
失礼しました。



バーの片隅にあった不思議なゲームボード。
「これはなに?」と聞くと、実際にやってみせてくれました。
これはすなわち「ミニカーリングボード」。

向こうからカーリングを投げ、白い砂を敷いたボードの上を滑らせ、
横にあるブラシで滑走面を擦ってその行き先を調整します。
日本なら卓球テーブルを置くところですか。

そしてゲーム機と壁に挟まれて、やはり何枚もの部隊章が・・・。 



建物を出るときに通り抜けたボールルームには、
ハロウィーンパーティの準備らしき飾りつけが。



わたしたちはずっと全員がアンジーの車にのり、
ブラッドは自分の車で、二台連なってこのあと移動しました。

どちらも国産車で、アンジーの説明によると、こういう車は、
赴任が終わりどこかに移動が決まると、新任の誰か、知り合いなどに売っていくので、
いずれも何万円単位で手に入れたのだと言うことです。

そう言えば我々がアメリカにいたときも、その年に卒業して日本に帰る人から
安く譲り受けた車に乗っていました。
そのトヨタカムリには、どでかいへこみ傷があって、前の持ち主は、

「これはわたしたちがつけた傷ではない。前年度の誰それだ」

と言い訳していましたっけ。

このときも岩国は雨が降ったり止んだりで、わたしたちは傘をさしましたが、
ブラッドはご覧のように軍人ですから傘無しです。

「制服じゃないときくらいさせばいいのに、ささないの」

とアンジーは呆れていました。
でも、軍人に限らずアメリカ人は、
よっぽど土砂降りでないとささない人が多いんですよ。

雨傘でもそうなのですから、日本女性なら夏の必需品である日傘など、
きっとものすごく奇異な目で見られるでしょう。



決定的瞬間。

と言うほどのものでもありませんが、

ハンガーに続く回転ドアの向こうから出て来た女性下士官が、
士官である(大尉です)ブラッドに敬礼した瞬間。
アンジーの陰に隠れて見えませんが、ブラッドも敬礼しています。

このドアは、ご覧のようにIDカードを指したあと、
一回転しか動かないようになっています。
つまり、カードを持っている本人しか入れない仕組み。

こう言うときどうするかというと、ブラッドが一回カード挿入、
一人突入、またカード挿入、もう一人突入、という具合に
人数の分だけその作業を繰り返して全員を中に入れてくれました。



全員が中に入ったので、最後に自分のためにカードを入れるブラッド。

一旦入った人間がなんども繰り返しカードを使う、
ということに関しては、問題はないようです。

そして、このゲートをくぐり終わってから、まず最初にブラッドの

「しばらく写真禁止ね」

という注意がありました。
そして、ハンガーの中の確か4機のホーネットを見せてもらい、
説明を受け、むき出しのエンジンを撮らないようにもう一度言われてから、

「こっちから向こうのは撮ってもいいよ」

言われて撮ったのが冒頭の写真。
因みに、うちの(軍)モノを知らないTOは、わたしに

「スーパーホーネットなんだって」

と前もって言っていたのですが、これはスーパーホーネット、
つまりライノといわれるF/A-18E/Fはなく、F/A-18の、
いわゆる「レガシーホーネット」です。

余談ですが、この人は、一応米国の、ちっとは人に知られた大学を出ているくせに

ときおりとんでもない単語を間違えたり知らなかったりします。

ましてや軍事関係の、すなわちわたしの詳しい分野においては、日本語であっても
時々とんでもないことを言い出して驚かせてくれるのですが、 
アンジーがこの岩国行きについて彼とやりとりをしていて、

「彼のスコードロンは11月には別の基地に行ってしまうので」

という一文を書いて来たところ、それをわたしに伝えるときに

「アンジーの旦那さんの飛行機って、ホーネット以外にも別の愛称があるみたいよ」

(しかも覚えていないし)と言ったくらいです。


「あのー・・・スコードロンって、飛行中隊のことなんですけど」
「初めて見たもんこんな単語」

うーん、確かに 

squadron

という単語は、航空機の愛称と言われればそんな感じがしなくもないが・・・。
メガロドンの烏賊バージョンのことだと言われても信じるかもしれないなこの人は。


さて、そんな「一部」モノを知らないわたしの連れ合いの話は置いておいて、
スーパーホーネットと、レガシーホーネット、どこで見分けるのか。



「一緒に撮ろうよ」

と、見かけによらず愛想のいいブラッドが言ったので一緒に撮ってもらった写真。
携帯の待ち受け画面にしたい写真ですね。しませんけど。
急に言われたのでマフラーがほどけてだらんとしているままです。

ブラッド大尉とエリス中尉はともかく、そのうしろ、
ホーネットのエアインテークの形を見れば、これが「スーパー」ではなく
レガシーの方である証拠に、楕円をしているのがわかります。

この変更は、ステルス性を高めるためなのだそうです。

あと、ライノとレガシーの違いは機体の大きさ。
全長が17.07mから18.38mへと1メートルも延長されたほか、
レドームや翼も一回り大きくなっています。


ここにある機体は2000年に海兵隊のものとなり、以降は生産されていず、
「最後のレガシー」ということになるのでしょうか。



複座なので、このタイプはF/A-18Dといいます。
この、全体のバランスの割に翼が横に張っていず、
この角度から見ると凄く翼が短く見えるのは艦載機だからだと思われます。

複座というのはパイロットと後席にもう一人が乗務します。
現代の戦闘機は仕事が多いので、二人1チームで役割を分担するのです。

映画「エネミーライン」で、スーパーホーネットが地対空ミサイルを避ける際、
後ろの航法士が操縦士に指示を与えるシーンがありましたね。


ここで相変わらずどうでもいいことが気になるエリス中尉、ブラッドに、

「ペアを組むのはいつも同じ人?」
「いや、いつも違うよ」
「こいつだけは合わない、とか嫌な奴、とかいる?」
「いないよ~(笑)」



機体にはこのようにパイロットの名前とTACネームが書かれます。
ベイルアウトのための装置ですが、ブラッドによると、

「ベイルアウトするときには、同時に熱線でコクピットが爆破されるから、
脱出そのもので失敗することは絶対にないけど、
そもそもベイルアウトするということはもう終わり(That's it)のとき」

終わり、つまり脊椎損傷とか・・・どちらにしても、一生に一度あるくらい。
なぜならそのあとは死ぬか動けなくなるかってくらいのことだから、とのこと。


そう言えば昔、隣国空軍の少将だかなんだかが、自分で脱出レバーを引いて、

自分自身をラストチャンスのときに打ち上げた事件がありましたが、
今にして思えばよくこの人無事だったですねえ。

こんなことをしでかしておいてその後現役で元気に仕事をするなんて、
(しかも学校の校長だったらしいので、士官に訓示をしたりとか)

そんな恥をさらすくらいなら、軍人としてこのときに再起不能になっていた方が
ずっとましだったのではないか?

と人ごとだと思って簡単に言ってみる。



エアインテークの専用カバーには、
部隊の印コウモリ君と稲妻のワンポイント入り。

カバーをつけたまま飛んだりしたら、どうなるかはわかりませんが、
少なくともエアーがインテークしないわけだから(当たり前だ)、
たぶん飛行機は落ちると思います。

というわけで、飛ぶ前に、というかエンジン始動前に絶対これ外せよ、
という警告を、目立つ赤いリボンに書いてつけてあります。

こんなもの忘れる人はいないだろう、と思うでしょうけど、
案外人はとんでもないミスをしてしまうものですからね。

ピトー管のマスキングを外すのを忘れたまま離陸した民間機が
それが原因で自分の機位を見失い、墜落した、という事故もありましたし。
(アエロペルー機墜落事故)



で、またまたいらんことが気になるエリス中尉、
このペイントを見て

「どうしてこんなに薄い色なの?
やっぱり相手から識別し難いように?」

と聞いたところ、意外な返事が。

「灰色のペンキは安いんだよ」

「灰色のペンキは安いんだよ」


「灰色のペンキは安いんだよ」



・・・・本当か。


米軍よりもっとお金の使えない(はずの)自衛隊機が、

赤いペンキで日の丸を描いているのに?

この話を音楽まつりの日に同行していただいた元自衛官にお聞きすると

「それは、嘘ですね」(きっぱり)

そうなの?
全く真面目な顔で言っていたけどなあブラッド。
からかわれたの?わたし。


やっぱりこれはわたしの予想通り、ステルス性のためなんでしょうね。


あと、機体に乗り降りするはしご。
写真は撮れなかったのですが、
コクピットの外にはしごを出してぐいっと引っ張ってのばすだけ。

科学の粋を集めた戦闘機(レガシーだけど)でも、
どうでもいいところは思いっきり原始的でした。




エンジンの周りにいたメカニックの一番偉い人(士官)に、
ブラッドが頼んでシャッターを押してもらいました。

ホーネットの鼻先が写ってないけど、まあいいか。



続く。




 

 


岩国米海兵隊基地3~「白人航空隊」とトガリネズミの謎(NHK問題少々)

2013-12-05 | アメリカ

海兵隊の戦闘機ドライバーであるTACネーム”ハップ”ことブラッドに、
岩国海兵隊基地を案内してもらっております。

士官用のバーの壁を埋め尽くすほど掲げられた部隊章。
というか、このアメリカ軍特有の彫刻されたこの看板ですが、
正式名称は何なのでしょう。
ご存知の方おられますか?
相当する単語がどう検索しても出てこないので、先日から困っています。

今日もこの彫刻されたボードの話に終始しそうなので。

ところで、冒頭画像、凄いでしょう。



一富士戦鷹三なすび。
禁止マークが空母らしきシルエットに被せられてるのはなぜ。

戦鷹ってボード下部の「ウォーホークス」の直訳なんですね。

ところで昔、戦闘機操縦者のことを、日本軍というのは「鷲」と称したじゃないですか。
「荒鷲」とか「海鷲」とか、「陸鷲」とか。

そのなかでも学徒飛行士官のことを「学鷲」(がくわし)なんて言いましたけど、
なんとも言えず無理矢理な感じの言葉ですよね。

この「戦鷹」も「せんたか」?
と読めば読めないこともありませんが、見た目はともかく妙な語感です。
アメリカ人だから別に語感はどうでもいいのだと思いますが。



 

前にも書いたように、海兵隊のシンボルアニマルはブルドッグ。
そのブルドッグが甲冑の兜を被っています。
ブルドッグの上下には「サムライ」「ブシドー」。
犬の足元の白い部分には、分かりにくいですが「侍」と漢字が書かれています。

そして、下の標語ですが・・・なんて訳しましょう。

「チクショー!俺らイケてるぜ」・・・とか。

イケてるのはわかったけど、たぶんこれ、飾りの飛行機が取れちゃったんですね。

 

右から二番目のが、有名な「レッドデビル」。 
レッドデビルズのトレードマークですね。


"アメリカ海兵隊岩国基地は2012年3月17日に、
第232海兵戦闘攻撃飛行隊(VMFA-232)レッド・デビルズが、
カリフォルニア州ミラマー海兵航空基地から岩国に到着したと発表しました。
VMFA-232はF/A-18Cホーネットを約10機装備する約200人の部隊です。"


というニュース記事が見つかりましたが、赴任する航空隊って何年かで交代するんですね。 
このボードによると、その10年前にもレッドデビルズはここ岩国基地に赴任していたようです。


 


これはほかでもないブラッドの部隊であるVMFA(AW)-242。
もう14年前の部隊なので、もちろんブラッドの名前はありません。
その頃、現在28歳のブラッドはまだアメリカ南部に住む中学生で、
「将来はエンジニアになりたい」と夢見る優等生だったそうです。

このボードの仕様は、「海中に投下された瞬間の爆弾」かな。





CH-46シーナイトの部隊、HMH263。
ヘリ部隊のボードで、こんな凝ったのはこれだけでした。

この部隊なんですが、
「SHITPANTS」なんてとんでもないTACネームをつけられてしまった人がいます。
 これは酷い。
隊長は「ハリウッド」がTACネームで、ファミリーネームが「シズル」(SHIZURU)。 
もしかしたら日系アメリカ人かもしれません。

そこでふと気になったのですが、今回ここで海兵隊ドライバーの皆さんや、
あるいは過去のチームの写真などを見ると、メンバーは見事に全員コケイジャン、
つまり白人男性(海兵隊のパイロットには女性もいますが彼女も)なんですね。
名前を見るとアングロサクソンとイタリア系、ドイツ系でほとんどを占めています。

たとえば



この十字軍をモチーフにした力作の中隊ですが、

パワーズ、ベル、ゲイトリー、グリフィス、ジョンソン、キング、ワッツ、マッカーシー。

このような典型的なアングロサクソンネームの中に、

カウファー、ショーンベック、ハウツ、のドイツ系、
オルセンの北欧系、
アンドラスのスペイン系(メキシコではないと思われる)

と、見事なまでに白人系国らしい名前が並びます。
おかしいなあ。
「アイアンマン」とか、アフリカ系が白人部隊の隊長になっている、
という映画はいくつも観たような気がするんだけど・・・・(棒) 

差別とかなんとかいうより、はっきりと「住み分け」って感じですね。
「アメリカに制度上人種差別はない」
という建前でも、有色人種がルーツのアメリカ人があえてここに入ってくることがない、
という厳密なラインが引かれている、といった感じ。

閉め出している、のではなく、最初から皆「入ってこない」と言った方がいいかな。


ここで、少し恒例の時事問題を語ってしまうわけですが(笑)

少数民族にごね得の特権を与え、それを「逆差別だ」と糾弾すると、
メディアがこぞってそれをレイシズムだと非難する昨今の我が国ですが、
白人国家というのは最初から可能と不可能がはっきりして、
ここから先は絶対にダメ、というオフリミットの「聖域」があるんですよね。

どんなに運動神経が良い黒人でも水泳選手にはならない、とか。

ヨーロッパだと乗馬競技にアフリカ系はいはい、とか。

これらをいちいち「差別」だと騒いでいたら、世の中の伝統的なものは
すべてその形を変えざるを得なくなってくる訳ですが(相撲のように)、
「差別」以前に、この分野は絶対に「外国人」を入れるべきではない、
ということって、国家という枠組みが存在する限りどの国にもあるはずなんですよ。

すなわち政治であり、教育であり、報道です。



先日の国会でNHKの経営体質や偏向報道が俎上に上がり、維新の会の議員が、
外国籍を持つ職員がNHKには何人いるのか、と訪ねたところ、NHKは

「把握していません」

と答えたのですが、たちまち三宅議員に

「そんなわけあるか!」

と一喝されていましたよね。
帰化した職員であっても違う国民の立場からはその報道姿勢に影響が出るのは当然で、
どこの国の放送局も、通常職員には国籍条項が設けられているはずです。

が、日本ではそうではない。

外国籍を持ったままの人間が日本の政治や歴史番組に関わることができるなんて、
そんな異常なことが許されているばかりか、その実態を糊塗しようとする公共放送局。
これははっきりと異常事態であり、国会でこれが取り上げられたことは、
画期的な第一歩ではなかったかとわたしは思っています。

先日「JAPANデビュー問題」について一項を設けましたが、
あの裁判が敗訴したのと同時にNHKは、

「テレビの有る無しに関わらず全国民から視聴料を徴収する」

という盗人猛々しいとでも言うべき傲岸な方針を提出した、
というニュースを耳にしました。

三宅議員の

「不払いしているのは払えないとか勿体ないからではなく、
NHKのその体質や偏向報道に対し『払う価値がない』『払いたくない』
と考えている人がほとんどだと思いますよ」

という言葉に、深く頷いたわたしです。
国民全員から課金?
よくぞヌケヌケとそんなことを言えたものだ。

三宅議員が言うように、NHKは一度解体して職員を全員日本人にしてから出直すべきです。

 

相変わらず、ちょっとしたネタから時事問題に流れ込んでしまう当ブログですが、
次に参ります。

凝っているような手抜きのような。
槍に太平洋地域の同盟国と部隊旗をつけただけ。




戦闘機のノーズアートのノリですね。
この夏、あちこちの航空博物館でこのノーズアートをもつ航空機を観ました。
いちど、ノーズアート展をやる予定です。

で、セクシーポーズの女性が描かれたノーズアートが多いのですが、
どれもこれも、酷いんだなこれが。

もう少し絵心のある人がせめて一人くらい部隊にいなかったのだろうか、
と絶望的になるようなブサイクな女の人ばかりで、
こんなので搭乗員たちは「やる気」が無くなったりしなかったんだろうか、
と心配になるくらいです。



アップにするとさらに酷い(笑)
「セクシーさ」だけはなんとか伝わってくる気がしないでもありませんが。




テーブルにこの部隊記念を彫り込んだ例を前回お見せしましたが、これを見て驚け。
なんとドアに直接彫ってしまいました。

超大作なんですが、この時には一体何を表すのか全く分かりませんでした。
この写真をまじまじみてもわかりません。

「これ、どこの地図だと思う?」

頭が柔らかく発想のフレキシブルなはずの息子に聞いてみると、



「こうじゃない?」

おおおお、さすがはダテに若くはない。
やっぱり若いって素晴らしいですね。
彼は、これが環太平洋の地図であることを南アメリカの形からわかったそうです。

で、これ、例の「ブラックシープ」の部隊記念ボードなのですが、
地図にいろんなことが書かれてあって、



SOMEDAY WE HOPE TO SEE HERE
「いつの日かここを見たい」

いやだからここあんたらの基地ですから。

VMA-214航空隊、通称ブラックシープの本拠基地はアリゾナ。
矢印はここを指しています。
何のことはない彼らの故郷なのですが、「帰りたい」を
こういう風に言うのがマリーンコーア流。
 
ONE OR TWO DAYS HERE
「一日か二日ここで」

はい、ここはハワイですね。
ハワイでの休暇。一日二日じゃすまない気もしますが、
彼らの言う「一日二日」は、ここに海軍基地があることを指しています。 
 

HOPEFULLY WAKE HERE 
「ここで起きられたらいいな」

これ、意味が分からなかったんですよ。
で、その辺りをグーグルマップで探してみたところ。

WAKE ISLANDが・・・・。

ここを旧日本軍は「ウェーキ島」と言っていたようですね。
大東亜戦争中、ここは日本軍が占領していたのはご存知ですか?
そのときの名前は「大鳥島」となっていました。

あまり知らされていませんが、実はこの「ウェーク島の戦い」で、
日本軍は勝利し、この島を終戦まで統治していました。

ここで海兵隊の彼らがわざわざここをポイントしたのは、
ここで海兵隊が日本軍と戦ったからだろうと思いますが、
ここに駐留していた日本軍が補給を絶たれどんな悲惨な目にあったか、
それを考えると、日本人に取っては実に暗い気持ちにさせられる場所です。

ウェーク島の戦い




WE SAW IWO JIMA HERE
「ここで硫黄島を見た」

はいそうですね。
我々日本人はよく知ってます。
「父親たちの星条旗」にも描かれた、「海兵隊の6人」は、
あの戦闘のみならず第二次世界大戦の最も有名な写真となりました。 
 

TOO MUCH SOREX HERE(沖縄)

A LITTLE HERE(変だけどたぶん九州)

これは悩みましたよ。

なんでこんなものを解明するのにこんなに悩むのかって話ですが。
そもそも、写真が鮮明でないため、これがSODEXなのかSOREXなのかわからないのですが、
もしSOREXで合っているとすれば、これは「トガリネズミ」。



かわいいじゃないかおい。
ドアのところに置いておいて、靴の泥を落とすブラシみたい。

たしかに沖縄にトガリネズミ、いるらしいですけど、
なぜここにわざわざ書くことかわかりません。
考えられるのは、沖縄には海兵隊の基地があるので、これが何らかの隠語で、
それを指しているということ。

そして、なぜか、九州を指して

「ここに少しいる」

 これはもしかしたら佐世保の海軍基地のこと?
 トガリネズミが何の隠語か、ご存知の方おられたら教えて下さい。

あ、ちなみにこのトガリネズミが、お母さんを先頭にして、
小ネズミが連なって歩く「キャラバン 」は萌え死に必至っす。

JAPANESE WILD ANIMALS←ご参考までに

そして、

NOT ENOUGH OF HERE
「ここには十分でない=
居足りない?」


どこに居足りないかというと・・・グアム
グアムにもあるんですよね。マリーンコーアベース。

ブラッドはこの直前までグアムに行っていたらしいですが、
家族同伴が出来ないので、奥さんは岩国でお留守番。

「ちょっとしたリゾート地だから一緒に行けたら良かったのにね」

そんなことを言っていましたが、
他のマリーンコーアたちもここでは「長居したい」と思うようです。




その他、ドアに彫り込んでしまった大作にはこんなのもありました。







昔のボードは、実に地味です。
だんだん仕様がエスカレートして来てるんですね。



ボードでは飽き足りなくて?鳥居のレプリカを利用した中隊も。
だからそこは看板を掛けるところではないと何度言ったら(略)

貯金箱のようにお金を入れるスリットがないかと探してしまいそうです。




じゃーん。

これを見ていただきたかった。
これは、海上自衛隊製作の、第8航空隊の寄贈。

ドイタカシ、コウシンスミオ、ヒラタアキフミ、
クラモトケンイチ、フジタミチカズ、

これらの歴代司令(コマンディング・オフィサー)の名が書かれています。
(鷲さん、もしかしたらどなたかご存知ですか?)

飾るところが無くなって、床の近くにかけられているのが残念な感じではありましたが、



まあ、こんなことになってしまっていますし、年々増えていくわけなので、
飾る場所に文句は言えないかもしれませんが。

そもそもこの岩国基地の海兵隊には、
第1海兵航空団の第12海兵航空群が駐留していますが、
ブラッドの部隊であるVMFA (AW)-242以外の部隊は、
基本的に6ヶ月のローテーション配備が行われているため、
時期によって岩国基地に所属する飛行隊が変わっていくわけです。

で、その駐留ごとに一枚ずつこの看板が増えて行く・・・・と。 



さて、ここを出て、わたしたちはいよいよハンガーに。
ブラッドの愛機であるF/A−18戦闘機を実際に見るときがやって来たのです。

続く。

 


横須賀米軍基地ツァー5~慶応三年のドライドック

2013-12-04 | 日本のこと

このツァーの前半のクライマックスとでもいうべき見学は、この
ドライドックでした。
ドライドックとは、船舶の建造、修繕、船底清掃等のため、
フネを引き入れて排水し、フナ底を露出させることの出来る施設です。

驚くべきはこの施設が慶応3年(1867)に着工し、4年後に竣工していたことです。
プロジェクトは慶応元年から始まりました。
慶応年間というのはたった3年で明治に変わったとはいえ、
日本人がまだちょんまげ結って着物を着ていた江戸時代ですからね。

大政奉還により江戸幕府は倒れ、明治新政府へと変わったわけですが、
慶応元年に横須賀製鉄所として立ち上がった施設の建造を新政府は受け継ぎ、
日本の近代化に向けてこの計画を一層強く推し進めました。


さらに驚くのは、ここには全部でドライドックが6基あるのですが、
この江戸末期から作られ始めたドライドックは、
現在も米海軍と海上自衛隊の艦艇修理に現役で使用されているということです。


このドライドックの建設は、即ち日本が近代化への一歩を踏み出した
最初の一大国家プロジェクトであったわけで、当時の世界的規模から見ても
列強に勝るとも劣らない規模のものでした。

日本は世界にデビューするなり海国としてトップを目指したのです。
そして、そういう道筋を作った人物の一人が、ここに製鉄所を作ることを
計画した小栗上野介忠順(オグリン)でした。



当時幕府は、外国から購入した故障の多い船に要する修理に
頭を悩ませていました。

小栗は国内で修理をするため、早急なドライドック建設の必要性を説きましたが、
幕府は当初財政難を理由に決定を渋りました。


小栗はそれを押し切る形で了承を取り付けます。


江戸幕府の命を受けてこの事業に取りかかった小栗ですが、
その後、彼は統幕後の江戸城開城のときに徹底抗戦を唱えたため、
維新政府によって斬首されてしまいました。

つまり彼は「明治」の夜明けを見ぬまま、というかそれに反逆して死んだことになりますが、
彼が中心となった製鉄業の勃興は、他でもないその明治新政府が遺志を受け継ぎ、
日本をその後、重工業国と成していったというわけです。

なんともこれは、歴史の皮肉という他ありませんね。



ドライドックが現役であるので、当然こういった建物も、
毎日ではないでしょうが現役で使用されているのでしょう。
うーん、中が見たい。

建物のA-7、というのはAドックの7番の建物、という意味でしょうか。





まさにドライドックが現在進行形で使われていることを証明する、
この甲板。

「横須賀造修補給所ドックハウス」。

造船・修理のことを造修と称しているのですね。

自転車立てがあり得ない角度で屹立していますが、
この不便そうな自転車立てにちゃんと駐輪してあります。

場所が場所なので、放置してはいけないことに決まっているのでしょうか。 



見よこれが日本で最初にできたドライドックだ。

設計は小栗が招聘したフランス人技師ヴェルニーによって行われました。
このときなぜフランス人にこの依頼がいったかというと、なんと、
小栗が江戸幕府の勘定奉行に就任したときの目付というのが、
フランス帰りでフランス語ペラペラの栗本 鋤雲だったから、ということです。

勿論、江戸時代にフランス語がしゃべれる人がいても不思議ではないのですが、

この修行僧みたいなおじさんが「コマンタレブー?」「トレビア~ン」
なんて言っていたことを想像するのは少し難しい気がします。





ん?
なにやら英語と日本語を使った標語が、妙な取り付け方をされた看板に。



STOP/立ち止まる

LOOK/見直す

ACT/行動する

LISTEN/聞く

REPORT/報告する

これらを「スター計画」(STAR PLAN)と称するようです。
なんと言うかごもっともすぎて何の突っ込みようもないのですが、
当たり前のことをあらたまって標語にするのが、日本の職場というものです。

ここは米軍接収後も、進駐して来た米軍にそれに相応する組織がなかったため、
戦中に従事していた従業員がそのまま米軍のために仕事を続けました。
つまり、一度も米軍に取って代わられたことがない職場なのです。

このような「標語体質」が見えるのも、一度もその本体が
「アメリカ型」にならなかったからではないでしょうか。





この全く同じ大きさに切り出された石は、
新小松石といって、真鶴から熱海にかけて産出されたものだと推定されます。

当時の工事ですから、これらの石を運んだのはおそらく牛車であったでしょう。



140年まえに造られたドックの向こうに見える現代のショッピングセンター。

この一号ドックは昭和10年~11年に渠頭部分を延長しています。



この写真の右側手前の部分をご覧下さい。
他の部分が石積みなのに対し、コンクリート部分が見えますね?



その境目アップ。

このコンクリートで造られているのが、後に延長された部分です。
手すりのある階段の部分も、そのときに作られたように見えますね。
手すりがぐにゃりと曲がっていますが、ドック入りしていた船に潰されたのでしょうか。

つまり、




この石は、建造当時のままのものなのです。(感動)

関東大震災でもこのドックはびくともせず、液状化現象も起きませんでした。

この理由はヴェルニーのドック候補地選定や石などの素材を見る目の確かさ、そして
技術の高さに加え、利権を求めて群がる有象無象には見向きもせず、
自分の目で確かめて機械や技術者を選定する真摯な態度などにあったといわれます。




知れば知るほど、このヴェルニーという人は、すごいんですよ。


横須賀市観光局は、もっとヴェルニーの功績を讃え、
ゆる(くなくてもいいけど)キャラ化でも何でもして、郷土の、のみならず
日本の近代化の恩人として、その名前を国民に知らしめるべきだとわたしは思います。



向こう岸の様子は様変わりしていると思いますが、
おそらくこちら側は何も変わっていないはず。
ちょっと雰囲気を出してモノクロームで加工してみました。



冒頭の写真と同じものですが、これは第2ドック。
三つの中で最も大きなドライドックです。
1884年に竣工しました。

第一号が出来てから9年後、ヴェルニーは退任し帰国していたので、
やはりフランス人技師のジュウエットが、途中まで指導し、
あとの施行はここで研鑽を積んだ日本人が手がけました。
つまり初めての「日本人製」のドライドックということになります。




第2号ドックを海側から見たところ。
船が入るときはこのBと書かれた部分が上がり、海水が湛えられたのち、
修理をする船舶が入ってきます。
その後、ポンプで海水を排出し「ドライドック」にするのです。




ふと向こう岸に目をやると、今朝朝ご飯を食べたスターバックスと、
以前参加したことのある「軍港巡り」の船が見えます。
ちょうど今から客が乗り込むところですね。
ガイドさんによると、この軍港巡りができるのは日本でここだけだそうで、
非常に人気があり、週末はなかなか乗ることができないそうです。

でも、このクルーズ、とても楽しかったですよ。
前もって予約してでも、是非一度経験されることをお勧めします。
参加したこのわたしが、価値があったと太鼓判を押します。
 



これ、なんて言うのでしょう。
ウィンドラス?
船の係留をするものには間違いないと思うんですが。




ツァー参加者と、特別参加の米海軍軍人さん二人。
友好ムードを盛り上げるために米軍からお借りして来たボランティアです。

男性よりこの女性の方が階級が上なんだろうなあ、と思っていたのですが、

ツァーの道すがら二人が世間話をしているのに耳をそばだてると、
女性の方は本国で弁護士事務所で働いていたことのあるロイヤー。
水兵さんの方は、サンフランシスコ生まれで、カリフォルニアの
海軍基地から赴任して来たと言っていました。

軍人がたくさんいる上、彼らは階級が全く違うので、
どうもこの日が初対面であったらしく、

「どこの生まれ?」とか
「ここに来る前なにしてたの?」
「アメリカでわたしこんな仕事してたんだけど」

みたいな初対面同士の会話をしていました。


左の青いジャージは通訳ですが、ツァーの皆さんはシャイで、
軍人さんたちに写真を一緒に撮ることは要求しても、
話しかけたりすることがなかったので、二人は思いっきり
「時間つぶし」という感じで同行していました。



おそらく昔から変わらない石畳。
小さく書かれた数字は何を意味するのでしょうか。




確か2番ドックのブリッジを通過するときに、下に降りるためのはしごを見つけました。
どうしてこんな囲いをはしごにつけなくてはいけなかったんでしょう。
万が一ドックに船がいるときに上り下りしていて地震が起こったとき、
船体に身体を挟まれないため・・・・?かなあ。




ところで、このドック見学の間、ここにトイレ小屋?があり、
トイレ休憩となったのですが、この仕様がアメリカ式。
つまり、個室のドアが下部30センチくらい開いている、あれだったんですよ。

このときに利用していた女性陣が、
「ドアの下が開いている!」
と結構盛り上がっておられました。
アメリカでは公衆のトイレは全てこれなので、わたしは何とも思わず、
皆がそう言っているのを聞いて「ああそうだっけ」と思いだしたくらいでしたが。




お?
海自専用の建物あり。
すわ、とばかりに一応写真を撮ってみましたが、
"BY Y-RSF"の意味が分かりません。

もしかして・・By yourself? 




三つ並ぶここのドライドックで一番小さな第3号ドック。

実は、こちらの方が第2号より10年も先、1874年に出来ています。
第1号から左に並んでいる順番に番号をつけたため、これが第3号と名付けられたんですね。

まだこのときはヴェルニーがおり、彼が設計を手がけました。

この一番小さなドックでも、当時海水を排水するのに4時間を要したそうです。

現在のポンプは、この第3号ドックで1時間半で排水を完了してしまうそうですが、
現在の技術でどんなに急いでもそれだけかかるのなら、
130年前の4時間って
案外凄くありませんか?






Wikipediaから拝借した航空写真。
一番下に見える第1号ドックはドライのまま。
第2号ドックには船舶が入れられ、ドライ、つまり現在修理中です。
一番左にあるのが小さな第3号ドックでここにも小さな船が入っていますが、
今からドライにするのか、それとも出て行くのか、海水が満たされた状態です。

これを見て初めて気づいたことがあります。

この見学ツァーはこのドックを見るのが
大きなイベントなのですが、
少なくともここにフネがドック入りしている時には、

船舶の国籍日米問わず、一般人が至近距離でそれを見ることは出来ないはず。

ツァーが定期的に行われないのも、この第1~3号ドック入りのスケジュールを
考慮して日程を設定しないといけないからだったんですね。

現にこの日も、一つのドックには艦艇が修理中だったため、
そこだけは見学できないということになりました。





というわけで、ひょんなことからこのツァーの企画における
関係者各位の御苦労のようなものが垣間見えた気がします。

これだけの価値あるツァーを、ボランティアだけで無料で運営してくれるなんて、
横須賀市観光協会と米海軍にあらためて、多謝。







 


横須賀米軍基地ツァー4~百年前の景色

2013-12-03 | アメリカ

さて、昨日はついつい米軍つながりで時事問題を語り始めたのはいいとしても、
それだけに留まらず、民主党政権下、日本の議員に手引きさせて米軍基地に入り込み、
基地司令からネガティブな言葉を引き出したうえ、それを一方的な記事にして、
侮辱したいだけ日本を侮辱しただけでなく、おそらく共産党の意を受けて日米離反工作、
ついでにジョージワシントンの機密を何とか盗もうとしたに違いない中国人の書いた記事に
つい我を忘れてしまいました。
(説明っぽいな)

基地主催のフレンドシップデーには、一般人であっても日本人以外立ち入り不可だというのに、
反日中国人をわざわざ米軍基地に送り込んだ売国議員。
この議員は、おそらく民主党が政権を取ったとき、
小沢一郎にくっついて
「朝貢外交団」として中国で「接待されて来た」
にわたしは100人民元賭ける。

しかし、我々がが思う以上に民主政権下では日本は「危ないところだった」ようですよ。

民主党福山議員「機密文書が34000件も無断で破棄されてるんですよ」 
自民党小野寺防衛大臣「34000件のうち30000件は民主党政権で無断で破棄されてました」 
民主党福山「・・・・」

なんて、ブーメラン戦隊ジミンガーシリーズのネタも最近ありましたし、
何と言っても内閣府の「中の人」からつい先日伺った証言によると

「民主時代には見るからに人品卑しからぬい悪相がいるはずのないところにいた」

そうですからね。
人は見かけではない、といいますが、一目でわかるものもあるってことですよ。


こんな話をし始めると、またもやエントリのスケジュールが進みません。

今日は出来ればその話題にならないようにいきたいと思います・・・が、
昨日ワンポイント解説した韓国の防空識別圏拡大の件で、
こんな続編が飛び込んできました。


韓国「・・・防空識別圏拡大したニダ
日本「どさくさにまぎれて中国側じゃなくて日本側に拡大してんじゃねーかコラ♯」
アメリカ「何してんだ韓国! 皆が何で中国非難してるのかわからんのか」
世界「何しれっと中国と同じことしてるんだよ」
  「空気読めや」 
中国「 中立を守るとか言ってたアルな。どちらにつくつもりアルか」
アメリカ「そもそも防空識別圏の線引きしたのって誰だと思う?それは、わ・た・し!」

韓国「ガクガクブルブル」 

なーんかキャラがはっきりしすぎ。
中国=ジャイアン、日本=のび太、韓国=スネ夫、アメリカ=きれいなジャイアンで。




911同時多発テロのモニュメント。


「ビルディング倒れるとも、自由はいまだそびえ立つ」

どこかで聞いたなあと思えば
「板垣死すとも自由は死せず」ですね。

アメリカから遠くはなれたここ日本の米軍基地で、彼らが事件をどのように見、
どのように心を痛め、どのように悼んだのか・・・。
中には親族や知人が犠牲になったというアメリカ人もいたかもしれません。

右の黒曜石の二本の柱は、倒壊した貿易センタービルです。
モニュメントが五角形をしているのは「ペンタゴン」でしょうか。 





古めかしい建物の前に金色の錨が。





ここは昔、横須賀工廠の庁舎として使われていました。

横須賀工廠は幕末にここに建設された「横須賀製鉄所」が源流です。
このツァー参加記でもお話しした、フランス人技師ヴェルニーの総指揮によって
日本はここに近代化の足がかりとするための製鉄所を設け、
その後1871年(明治元年)に「横須賀造船所」と改称されました。
日本の軍備拡張が本格的になったため海軍省の管轄下におかれ、
この地で軍艦の建造・修理を中心に稼働しました。

ここにある「1号ドック」はこのときに完成。
当ブログでも以前お話しした初の国産軍艦「清輝」は、
この5年後、1876年にここで竣工されました。


黒船を作ってしまった日本




現在は米海軍の「CPOクラブ」となっています。

CPOとは「チーフ・ペティ・オフィサー」、つまり下士官のこと。

軍組織というのは階級によって立ち入る施設がはっきり分かれています。

将校と下士官、そして下士官と兵というのも厳密にその間に線が引かれ、
例えば旧海軍では、士官がその妻に、

「下士官の妻と親しくしないように」

とわざわざ言い渡すほど、個人的な交わりは禁じられていました。
軍隊という組織の指揮系統が「情」で乱れるようなことがあってはならないからです。

これは世界的なスタンダードです。
我が日本国自衛隊においても士官と曹、そして士の施設はきっちり分かれています。






こう言っていいのかどうか分かりませんが、わたしは「建築物」
という観点だけで考えた場合、ここが米軍のものになって良かったと思うのです。

アメリカに住んでいるとよくわかりますが、アメリカ人というのは一般に
一旦建った建物はよほどのことがない限り、そのまま手入れをして長年使い続ける、
という文化を持っているので、このように100年前の建物でも、
外壁はしょっちゅう塗り替え(ペンキ塗りを趣味にする人も多い)、
中は
定期的な改装を繰り返します。

新しく家を買って、そのまま何も改装せずに住むということは

彼らにはまずあり得ないことで、自分好みに全て(しかも業者を頼まず)作り替え、
自分らしいインテリアを作り上げることにこだわる人が多いのですが、
だからこそその「入れ物」である家については、築何年であろうが気にしません。


ここも、現存する往時の建物のおかげで鎮守府時代そのままに時間が止まったようで、
だからこそ我々日本人は、歴史ツァーなどと称してわざわざそれを見に行くわけですが、
彼らにしてみれば、「相手に敬意を払って」などという特別の意識ではなく、
「アメリカでも普通はそういうものだから」
建物を使い続けているに過ぎないのだとわたしは思います。




もしここが日本の、私企業などの所有地になっていたら、
たちどころに古い建物は新しく建て替えられ、

しかもそれが耐久性がないので建て替えのサイクルも早かったでしょう。

「アメリカ軍で良かった」と言うのは、つまり、

100年経った今、戦前と同じ景色を見ることができるのも、
アメリカ人のこの住居に対する慣習のおかげであると思うからです。






こういう壁の飾りも、おそらく建ったときのままなのでしょう。

年月がその彫刻をぼやけさせ、線を不明瞭にしても、決して手を加えず、
ペンキでトリミングまでして保存しています。

江田島の海軍兵学校の建物は、アメリカは占領後使うことを予定していたため、
決して建築物を破壊させなかったそうですが、この横須賀鎮守府も、
どうやら米軍は占領後の軍施設にしようと計画していたらしいですね。



昔は国旗掲揚台だったのではないでしょうか。




倒壊する可能性があるから近寄れないようにしているのでしょうか。

この不安定な碑は、横須賀工廠の建物が関東大震災で倒壊した後、
新たに作った新庁舎が完成した記念に建てられました。

柵越しに見えるレンガの部分は、建物に使われたのと同じ素材。
このレンガはフランス人が作ったとのことで、黒い黒曜石の部分には
フランス語で

année 1871


と書かれ、上には「明治明治辛未年建」と彫られています。



今にも倒れそうで、危険なのはこれを見ても分かりますが、
補修などの手をつけるわけにも行かず、仕方がないので
日本人なら絶対に作らないような無粋な柵を設けたように見えますね。

件の中国人記者ならこういうのを見ても

「アメリカ人が日本を軽蔑している証拠」

と嘲るのでしょうが、これはどちらかというと、

「こういう領域にはできるだけノータッチでいる方が無難」

というアメリカ海軍の配慮であるような気がします。




手前の建物はアメリカの駅などで良く見るタイプ。
向こうの立体駐車場とこの売店らしきのに挟まれて、
海軍工廠時代の庁舎は未だ健在です。



建物は100年前と同じですが、こんな人たちが闊歩することになろうとは。
海軍工廠や横須賀鎮守府の人たちがタイムスリップしてこれを見たら、
さぞかし驚くでしょうね。

それを言うなら、

「中国が日本を侵略しようとするのをアメリカの恫喝で食い止めている」

という今の世界情勢を見たら、彼らはもう一度憤死してしまうかも。


横須賀米軍基地ツァー、まだまだ続きます。


 


横須賀米軍基地~防空識別圏問題と民主党政権

2013-12-02 | 日本のこと

この基地見学ツァーに参加したのはもう一ヶ月近く前のことになるのですが、
ご報告すべきイベントが目白押しで、こんな時期にエントリをアップすることになってしまいました 。

いやこれね。

もしツァーが先週だったら、中止になってたんではないかしら。
というのも、こんな出来事がありましたからね。

中国「防空識別圏決めたからこっから入って来たらお前ら撃墜アル」
日本「何それこわい」
米軍「B52二機飛ばしたが何か」
中国「え・・・・・」
空自「黙ってたけどその前にF15飛ばしてたよ」
中国「・・・・な・・・・」
海自・米海軍「♪合同演習♪合同演習」
人民軍「こ・・・こっちは皆把握していたアルよ!スクランブルかけたアル!」
防衛省「中国機が接近する等の動きは全くありませんでしたー」
日米「『エアー』・フォースかw」「ぷークスクス」
世界「調子こいてるんじゃねーぞ中国」
中国「・・・・ぐぬぬぬ」
韓国「・・・・・防空識別圏拡大したニダ
日本「どさくさにまぎれてうちの識別圏に来てんじゃねーかコラ♯
オーストラリア「次はうちも行っちゃおうかな。中国の抗議うざいし」
中国「 ・・・・」

ええ、すっかり度胸試しの場と化している東シナ海でございますが、
中国が防空識別圏設定を言い出した日はさすがに緊張が走りましたからね。
その後の沖縄での日米合同演習をどうするかなど、
米海軍としてはやはり「基地見学ツァーどころではない」
となっていた可能性もあったのではないか、と今にして思います。




さて、見学ツァーにからめて時事ワンポイント解説ができたので、

一石二鳥の有効な出だしとなりましたが、前回、
横須賀駅を10人単位の小グループに分かれて、観光しながら
ヴェルニー公演からドブ板通りを抜け、海軍基地の前までやってきたところ、
正面の陸橋から「写真禁止」を言い渡されたところまでお話ししました。

なぜ陸橋までが写真撮影禁止なのかというと、そもそもこの陸橋は
同時多発テロのあとできた「バリケード代わり」だから。
ここに陸橋があることでどういう想定に対し防御となるのか、
軍事の素人であるエリス中尉にはさっぱり分かりませんでしたが。


陸橋を渡ったところには団体が溜まれるほどのスペースがあり、

グループはここに集合して、全員でまず挨拶をかわします。
ここで、まず行程1の「セレモニー」が行われるのです。
セレモニーといっても、海軍儀仗隊の栄誉礼とか国旗掲揚とか、
そう言ったものではなく、基地司令の挨拶がメインです。
お忙しい中基地司令が時間を割いてやってきて、
歓迎の挨拶の辞を述べる、というものなのですが、その前に

「司令は日本語を勉強しておられる段階なので、
たとえ変に聞こえたりしてもくれぐれも笑ったりしないでください」

という、まるで小中学生に向かってするような注意を受けます。
だれもそんなことで笑ったりしませんよ~。

というか、今までそんな失礼な日本人がいたのかしら。

待つことしばし、やっと出て来たのは、在日米海軍司令。
紙を出して、おそらく英語で読みを振り、日本語がわかるスタッフ相手に
何度か練習したらしい日本語で、このツァーで米海軍を理解していただき、
日米の友好を深めたい、というようなことを挨拶しました。

そしてその後は全員が点呼を受け、名簿順に列を作り、
パスポート等の身分証明書を確認してから、出発。
ゲートは、団体見学用に開けてもらったところをできるだけ列をつめ通過。
ここで米兵によるチェックはしません。



かなりの樹齢を経ていると思われるイチョウの大木が目を引きます。
ゲートを入ってすぐに見える景色です。



意外なくらい手つかずで残されている自然の部分に少し驚きます。
しかし、この中の歴史的建造物はほとんどが旧海軍の横須賀鎮守府時代のものなのです。
ただ「米軍基地を見学」するのではなく、日本人が昔建造し、
実際に海軍が使っていた建築物を見る
歴史ツァーも兼ねているからこそ、
人気なのですね。


「日本人の歴史的遺産が日本人に公開されないのは
いくら米軍基地内とはいえ昔と違って占領しているわけでもないのだしおかしい」

というような意見が出た結果生まれたツァーかもしれません。



基地内の行動は全て規制され、例えば道を渡るのも皆一緒。
見学行程の2番であるこの「関東大震災の碑」ですが、
このときには近くに行くことすら許されませんでした。

遠くて分かりませんが、この球体の部分は正面に時計が刻まれ、
地震発生の11時58分を針が指しています。



アメリカ国内と全く同じ仕様の通りを書いた表示板。
アメリカというところは住所をブロックではなくストリートで表示します。
それはいたってわかりやすく、道路の一方に偶数、反対側に奇数のナンバーの家があるので、
全く初めての場所でも簡単に住所から場所が確定できるのです。

どんな小さな私道にも名前がついていて、一つのシティに同じ名前の通りは二つありません。

向こうに見えているのは、第七艦隊のレーダーとアンテナ塔で、
アンテナ塔の立っている建物は窓がないそうです。



そうかと思えば、こんなバス停も。
なぜ日本語なのかもなぞですが、それよりこの
「定期バス停」とは何なのか。






ここにもあったよ。鳥居代わりの道路標示が。

アメリカ軍がこれをやるのは単に

「ここは日本だから、日本文化の雰囲気をちょっぴり拝借してみました」

といったリスペクトアピールを兼ねて便宜上使っているだけで、

実質深い意味があってのことではないのは明らかなのですが、
日本人としても、そんなことに目くじらを立てるような大人げないことはしません。

しかし今回、横須賀海軍基地のことを調べていて、こんな不愉快な記事を見つけてしまいました。

”横須賀基地見学記 米軍の意外な日本への軽蔑的態度”

これは、中国環球時報の記者が、

日本の国会議員の協力のもと←注意

ジョージワシントンに乗り、基地を見学し書いたある記事のタイトルです。
ちょっと面白いので、それを全文掲載します。
(URLを貼るのはなんか怖いからやめます)



日本の議員の協力の下、環球時報の記者は8月28日に横須賀基地訪問を申請、

同月31日に許可が下り、中国に最も近い米軍空母「ジョージ・ワシントン」に乗船した。

◇日本を象徴する神社は米軍にとって飾り

在日米海軍が直轄する6つの基地のひとつである横須賀海軍司令部の建物は
かつての旧日本海軍の「横須賀鎮守府」の所在地だ。
建物のロビーには両国の重要な海軍将校の肖像画が掛けられている。

ネイランド事務官は19世紀の日本海軍の肖像画を指差し、
「彼らは友だちだ」とし、その横の太平洋戦争時代の日本海軍の将校は「悪人」扱いした。


基地の食堂の前には1941年の皇太后の基地訪問を記念する記念碑と、
日本海軍が東京の方角を確認し、皇居に向かって敬礼するのに使った羅針盤があった。

これらの歴史がつまった遺物はすでに米軍施設の飾りとなっていた。

日本人にとって非常に神聖な神社でさえそれは同じだった。
佐世保基地の入り口や横須賀基地の一部の門は神社の鳥居の形になっている。

記者がネイランド事務官に何か特殊な意義があるのか聞くと、
いや、何も。ただの装飾品だ」との答えが返ってきた。


記者は横須賀基地入りする前、沖縄のバーにいる在日米軍と接触、
彼は意外にも日本に対して軽蔑的な態度を示した。

スティーブンというこの若い軍官は、

「日本の自衛隊の実力なんてたかが知れている。沖縄の8%の経済は米軍基地に関係している」

と指摘、

「数年前に米兵が沖縄の少女を暴行してから、彼らは我々を追い出そうとしているが、
本当にいなくなったら誰も物を買わなくなる。

そのときになって我々の前に跪いて、早く戻ってきてくださいと懇願するだろう」と語った。


「中国網日本語版(チャイナネット)」 2011年9月5日


いやいやいやいや(笑)。

日本のメディアというのも大概だと思いますが、
中国の記者って言うのは、
さらにどうしようもないですね。
明確な日米離反工作を行うという目的があるわけですからね、


そもそもこの記者、横須賀にわざわざ取材に行って、
ジョージワシントンにも乗ったのに、
そのことには一言も触れず、
鵜の目鷹の目でただひたすら

「在日米軍の日本に対する悪感情の発露」を探してるんですから。

しかも、横須賀基地を取材したと言いながら、最後の
「日本に対して軽蔑的な米兵」
というのは沖縄基地所属で、しかも「バーでの取材」(笑)
まあ、こんな風にクダを巻くアホなアメリカ兵もバーならいるでしょうけどね。


鳥居がアメリカ人にとって「ただの飾りだ」というのは日本人が良く知っているわけで、
そう言ったネイランド事務官の意図も、それ以上でもそれ以下でもなく、
別に「軽蔑している」ということではないと思いますよ?

それと、沖縄の酔っぱらった若い兵隊スティーブンの意見がなんで米軍の総意になってるの?

確かに、沖縄の米軍基地では、過激派の左翼が(ポスターはハングルらしいです)
米軍軍人に酷い嫌がらせをしている、というのが最近ニュースになったけど、
その糸を後ろで引いているのは、沖縄から米軍を追い出したい中国共産党だと
かねてからわたしは思ってるんですけどね?

まあ要は、この記事も、日米安保を破棄させ米軍を日本から追い出す、
という共産党から指示された工作の一環だとわたしは思います。

それよりも、冒頭の一文ですが、

「日本の議員の協力のもと」

って、何なのこれ?
日本の議員って誰なの?

記事の書かれた日付をみると、

2011年9月5日

ああ、民主党政権下ですね。納得。
民主党の議員が中国の新聞記者を米軍基地に手引きしたってことですね。

もちろん自民の議員である可能性だってないではありませんが、
民主党には当時帰化人政治家が半数くらいいたという噂もありますし、

今から考えると信じられないことですが、もっと見えないところでは
いろいろ手引きや情報の垂れ流し、売り渡しなんかがあったんでしょうね。



ここで冒頭の話に戻るのですが、皆さん、今回の防空識別圏問題、

もし民主党政権下で起こっていたらどうなっていたと思います?

そう、まず間違いなく身内が中国に権益を持つイオン岡田が、
中国の防空識別圏には絶対に入らないことを自衛隊、海保に求め、
民間航空会社には航行計画を提出させ・・・・。

要するに中国のやりたい放題にさせていたことは火を見るより明らかです。


本人は否定していましたが、この男には尖閣での中国船衝突事件の後、
中国側に異常な「配慮」をした前科がありますからね。

当時、民主党は米軍と自衛隊とで行われるはずの離島奪還訓練を中止させましたが、
その提言をしたのは当時の副総理であった岡田克也であり、
それは中国でのAEONの収益を見据えてのことであったと言われています。
さらに、
『民主党政権下で海上自衛隊の艦船と中国軍艦の間に十五海里、
28キロの距離を置くことを決めていた』

と、産經新聞に記事を書かれたわけですが、当時の国会答弁によると

(当ブログでは『ブーメラン戦隊ジミンガー』というタイトルで記事にしました)
安倍首相に、

「政権交代後、事務方から聞いた『ファクト・事実』である」

と言われて岡田は沈黙してしまいましたっけ。(捨て台詞付きで)

その後、岡田が産經新聞を訴えた様子もないし、これやっぱり本当だったんですね。
あのとき、民主党政権は、日本は殴られても蹴られても「中国様」に叩頭します、
というサインを中国に対して出してしまったのです。

中国は次はより強硬な策に出て来るだろうと思わせるに十分な売国行為でしたが、

案の定今回のような事態になりました。

(まあ、結果として中国は今回盛大に自爆してしまったという気はしますが)


中国をここまでの「モンスター国家」にしてしまったのは、
丹羽元中国大使や岡田克也のような
親中侮日の商売人や政治家であり、
さらに現下の危機を招いたのは、
この国が戦後七十年間、
自らで国家の独立や安全を維持すると言う事を考えず、

軍事的にはアメリカの完全な属国として生き続けてきてきたことのツケが、
一挙に回ったためであると言わざるを得ません。


そして、日米同盟を破棄させたい中国さんの策略というのは、
逆に日本を覚醒させ自衛を強化させることにしかならないとわたしは思います。

今回のことでもわかるように、同盟の有る無しに関わらず、
アメリカは日本のためではなく自国の利益のために列島線を死守するわけですから。

あの地域で日本を叩けば、アメリカがもれなく出てくるってことを、
近平ちゃんは想定していなかったんでしょうか。



というわけで、案の定時事問題になだれ込んでしまい、どこが基地ツァーだ、
という内容になってしまいましたが、長くなったので今日はここまで。