昭和11年4月1日、江田島海軍兵学校に入学して来た
全国から選りすぐりの秀才たち245名の記念写真です。
その年の2月11日紀元節の佳日、彼らは待ちに待った
「カイヘイゴウカク、イインテウ」
という電報を受け取り、ここに集ってきたのです。
入校式までの一週間、身体検査、体力試験、服の試着、校内見学が行われますが、
恐ろしいことに、ここまで来たのに最後の身体検査で刎ねられ、
10名もが不合格となり無念の帰郷となりました。
いやこれ、あんまりじゃないですか。
いくら身体検査とはいえ、電報をもらってから天にも昇る気持ちだったのに、
ここで奈落の底に真っ逆さま。
何と言っても、家族や故郷の人々に合わす顔が無いとはこのことです。
唯の不合格などよりよっぽど罪深いですよこれは。
ここでいきなりですが、この67期が冒頭写真の三年半後、卒業の際に撮った写真です。
写真を撮る日に欠席したばっかりに上に丸囲みで「死んだ人」になってしまう、
という不幸な人が、昔からクラス写真には何人か必ず居たものですが、
この写真の二人は、なんというか・・・・ラッキーでしたね。
67期は248名の大所帯ゆえ、卒業写真も皆豆粒になってしまい、
誰がどこに居るのか、全くわからないわけですから。
しかし(笑)。
しかし、江田島の教育参考館に飾られている卒業生の写真には、
一人一人の名前がちゃんとわかるように表示されています。
わたしは兵学校見学をしたときにちゃんとこの67期だけ名前をチェックし、
後ろから三列目の左から5番目が、笹井醇一生徒
であることを突き止めたのである。(照れ)
関係なかったですねすみません。
それはともかく、この「入学前・卒業前」のビフォーアフター写真、
しつこいですがもう一度並べてみます。
使用前
使用後
いやもう、なんと言いますか、全体の空気からして違ってますね。
同じ制服や全員がぴしっと頭をまっすぐにしている所為もありますが、
3年4ヶ月の兵学校生活は若者をこれだけ変えたってことですよ。
あと一点留意していただきたいことがあります。
彼らの後ろに見える建物。
いかにもできたばかりらしく、白壁には一点の曇りもなく窓ガラスもピカピカです。
入校前の団体写真は、江田島の見学に行くと最初に立ち寄る、
大講堂の前の石段で撮られていますが、卒業時は彼らが居住していた生徒館前です。
67期生が2号生徒(3年生)になったとき、彼らが入校して来た昭和11年に
着工した新生徒館が完成し、彼らはその7月から、寝室と自習室を新校舎に移しました。
今も江田島にそのままの姿で(窓枠だけが取り替えられている)あるこの校舎に
初めて入居しそこで寝起きしたのが、彼らを含む65から68期までの学生でした。
わざわざ恒例の大講堂前ではなく新校舎前で撮影をしたのは、
この新築がこの学年に取って大きな想い出であったからでしょう。
越山のクラス、67期というのは彼ら自身の評価によるものですが、
「地味ではあるが全員の粒が揃っていて、お互いによく助け合う」
という美点を持っていたようです。
戦後俗に言われるところの「お嬢さんクラス」で「ネーモー」(獰猛のこと)ではなく、
下級生を殴ることは比較的なかったようです。
実際にも、彼らは最高学年の1号生徒になり、新入生を迎えようとする頃、
わざわざクラス会を開いて「鉄拳制裁禁止」を決議しています。
しかしそこは兵学校ですから(笑)
「新入生の娑婆気を抜く」教育はそれなりにみっちり愛をこめて行いました。
なんといっても彼ら自身試練を受けてきているのですから。
入校式まではやさしく見えた上級生は、その夜の
「姓名申告」「起床動作練習」で鬼と化します。
67期生徒が辛い4号生活をもう少しで終えるときに
「あと少しで何も知らない下級生が来ると思うと心が弾む」
なんて書いてるんですね。
この、初日のいかにも親切な上級生を装っている間、彼らの心境はまさに
赤ずきんちゃんをだまくらかすオオカミになった気分?
舌なめずりするというか手ぐすね引くというか、いずれにせよ、
あまり高尚とはいえぬインビなカイカンに打ち震えていたに違いありません。
上級生が下級生を「鍛える」ときの口癖とは次のようなものです。
「もりもり鍛える」
「言い訳するな」
「娑婆気を抜く」
「へばったような顔するな」
「待て!!やり直せ」(主に階段、廊下で呼び止めて)
「言い訳するな」はわたし、よく言いますね。息子に。
それはともかく、「お達示」の文句の典型は次のようなもの。
「言語道断」「もってのほか」
「多くは言わん。脚を開け」(殴るとき)
兵学校における、上級生と下級生、指導するものとされるもの、
そしてそういった関係には実に面白いものがあり、このことについては
またあらためてお話するつもりです。
当事の流行言葉も、生徒同士でよく使われました。
「じーっさい」(実際)
これは、前にも書いたことがありましたが、当時の流行語で、
兵学校に限らず、感嘆詞として使われたのだそうです。
何か可笑しいとき、パンパン手を叩く人いるじゃないですか。
(正直言ってあれ、わたしはあんまり好きじゃないんですけど)
ああいうときに
「じっさい!じっさい!」
というのが流行っていたんですね。
さて、入校式に続く入校教育では、初日に度肝を抜かれた新入生は
それまでの甘い夢は吹っ飛んでしまい、その厳しい訓練に悲鳴をあげることになります。
この入校特別教育とは、すなわち「陸戦」と「短艇」。
教官は下士官で、面と向かっているのになぜか三人称で命令してきます。
「越山生徒はそのまま匍匐前進する!」
こんな感じです。
兵学校の生徒は、入校した時点でこれら教官である下士官より
軍隊的には高い位を与えられているからです。
陸戦は、当時の中学生と言うのは教練という形で既に履修しているのですが、
短艇、つまりカッターはほとんどの生徒が生まれて初めての体験。
たちまち手に豆を作り、それが尻の皮とともに破けて血まみれです。
しかし、これは現在の防衛大学校においてもかわることなく行われており、
以前お話ししたことのある防大卒の方は、
「破れた皮が張ってくる頃またその皮がずるりと・・・」
「きゃああああ」
というホラー話でもしているような調子でその想い出を語ってくれました。
生徒館に戻れば室内、廊下、階段、至る所で1号の怒号の下に走り回り、
また「インサイドマッチ」(ぞうきんですね)の取り込みなど、
分隊内務に終われ全く息つく暇もないのです。
もしかして、これを読んだ防大関係者の方等は、
「現在の防大と変わりないじゃないか」
と思われるかもしれませんね。
ともかくこのカルチャーショックと肉体的な辛さのあまり、大抵の生徒にとっては
「4月3日に軍楽隊演奏会と夜桜鑑会があった、と記録が残っているが、
このころの生活があまりにも衝撃的で、この記憶を呼び戻せるものは殆どない」
というくらい茫然自失のひとときであったようです。
(ちゃんと覚えていて回想録に書いている生徒さんもいますから、
もちろん全員が全員そうだったというわけではありません)
兵学校のしつけ教育について目についたところを書くと、
「上級生は何とか生徒、クラス間は貴様、俺と呼ぶ」
「教官は何とか教官、と呼び、殿はつけない」
「です、ではなくであります、という」
「窓、カーテンの開け閉めは所定時間に定められた通り実施」
「帽子をアミダに被るな」
「軍服には常にブラシを当てる」
「靴の泥はすぐ取って磨く」
「事業服の紐は端が垂れないように結べ」
「食事のときは左手を膝におき、右で食べる。
ただしパンをちぎるときには両手」
「食器を手で持たない」
「ものを落としたときには自分で取らず賄いを呼んで取らせる」
一般社会のマナーとは少し違っていますが、片手で食事をするというのは、
全て後に艦隊生活をするということからきています。
あとおかしいのは、
「デザートの羊羹は箸で切って食べる」
兵学校ではデザートに羊羹なんか出してたんですね。
羊羹用の小さなフォークなど無いので、こういう規則が出来たようです。
「酒保へ行くときは駆け足をするな」
生徒たちは次の課業に行くときには駆け足をせねばならず、
階段も駆け足で昇りは二段ずつと決められていました。
生徒たちは
「猛烈に腹が減り三度の食事では燃の足りず、
週末の酒保が楽しみで仕方がない」
というのに、その酒保に行くときだけは走ってはいけないというのです。
なんと無慈悲なお達しなのでしょうか。
というより、みんなが楽しみのあまり走るのでこんな規則が出来たんですね。
指導監事の中山が入校時に
「遠洋航海を夢見て入校して来たと思うが、そんな夢は捨ててしまえ」
と檄を飛ばした話を前回しましたが、67期は
ともかくも海外への遠洋航海に行くことは実現しました。
その下の68期の遠洋航海は国内、69期からは開戦で中止になりましたから、
実質、海軍の歴史でこれが最後の海外への遠洋航海となったのです
昭和14年10月4日 横須賀を出発
同 10月18日 ホノルル
10月24日 ヒロ
11月8日 ヤルート
12月20日 横須賀帰港
本来、兵学校の遠洋航海の行き先は、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアを、
学年ごとに割り当てられていて、67期はアメリカの予定だったのですが、
ヨーロッパではすでに第二次大戦が緒に就いていたので、西海岸の予定を
半分切り上げた距離のハワイまで行くことになったのです。
67期卒、駆逐艦乗り組みで、「陽炎」の航海長で真珠湾に参加した、
市来俊男(戦後掃海作戦に携わり、海上自衛隊)は、この遠洋航海の想い出を
こう語っています。
「真珠湾を通過したとき、まだ薄暗かったが、総員が甲板に上げられた。
そして、『入り口を良く見ておくように』と指導官が言う。
皆目を凝らしたが、その『入り口』は 暗くてよく見えなかった」
また真珠湾攻撃のとき酒巻和男少尉の特殊潜航艇を真珠湾まで運んだ
伊69潜に乗っていた山本康比久も、この遠洋航海のとき、
「お前たちのうちの数名は数年ならずしてまたこの灯を見るだろうから
よくスケッチしておけ」
と言われ、午前三時の薄明かりの中、沖3マイルから湾口をスケッチしています。
昨日の「軍神の床屋さん」でお話しした古野繁實、そして横山正治という
「真珠湾の軍神」は、二人ともこの67期です。
指導教官の言葉通り、そのわずか2年後、古野・横山を始め、
この山本も、再び真珠湾口を見ることになりました。
前述の市来の言によると、実際にそれが始まってから、
「ああ、あのとき」
と遠洋航海でのこの教官の言葉を思い出したということですが、それまでは、
そこに起こることのわずかな予感も芽生えなかったということです。
この67期の生存者たちの想い出を読むといつも不思議なのですが、
この、開戦二年前の海軍というのは、内部で一体どのようなことが想定され、
あるいは取りざたされていたのでしょうか。
真珠湾が成功したことの要因には、企図の秘匿と、機密保持
という二つのエレメンツがあると思います。
(アメリカ上層部が日本の作戦を事前に知っていたというのは定説ですが、
やはり現場はそんなことを夢にも知らず、結果的に奇襲成功したわけですから)
しかし、彼らによると、少なくとも67期生は2年前にそれを予感させるようなことを
指導教官から聞いているわけで・・・・・、それではその指導教官は、
一体どういう情報と確信に基づいて生徒たちにそれを告げたのでしょうか。
少し学校生活に慣れてくると、新入生の次なる試練は疲労と睡魔との戦いです。
そして若い彼らはいつも猛烈にお腹をすかせ、週末の酒保を首を長くして待ちわびました、
この頃には日曜も外出を許され、上級生と同じ生活になります。
兵学校の座学課業には「軍事学」というのもあるのですが、生徒の期待に反して、
これは「運用」として艦の模型で各部の名称を教わる程度でした。
兵学校ではあくまでも心身育成と教養の基礎習得が柱となっているからです。
67期生の回想禄は、当時を懐かしく回顧するものばかりで、歌ではありませんが
時は全てを美しく想い出に変えるとはいえ、やはり若さというのは従容として
どんな現実でも柔軟に受け入れるものだとこれらを読むと感じます。
彼らの想い出でとくに楽しいものとして残っているのが、
土曜日の夕方から上級生に連れられていく「短艇巡航」。
夜中海を帆走しながら上級生の体験談を聞いたり、
星空を眺めてロマンチックな気分になったり、かと思えば
鬼の1号が流行歌を歌いだすのを目を丸くして驚いたり。
夏の水泳特訓、そして待ちに待った夏休み。
休暇が始まる8月1日の朝、彼らは朝3時に起床します。
生徒は出身地も様々なので、全ての生徒が朝一番の汽車に乗るからです。
3時に起きると直ちに朝食。
「このときにの朝食を全てたいらげたものは将来大物になる」
と言われているほど、皆食事もそこそこ、上の空。
東日本に帰るものは小用まで徒歩、ここから機動艇に乗り
呉桟橋に上がって呉駅にいき、一番列車に乗り込みます。
西日本組は、学校の出す船に乗って宮島の向こう岸から、山陽線の下りに乗り込みます。
この日列車は臨時増結され、期待と開放感で胸をはち切れんばかりにした
白い第二種軍装の群れを詰め込んで、彼らを故郷へと運んで行くのでした。
そして一ヶ月後、生徒たちは故郷での休暇を終えて帰ってきます。
皆またあの生活が始まるかと半ばどんより、しかし級友の顔を見て嬉しさ半分。
このとき、なぜか1号の機嫌が「すこぶる」悪いのだそうです。
語ってみたわけですが、この冒頭写真の中には、鹿児島一中から来て
「凄いのが来た」
と同郷の者たちの目を丸くさせた、その越山がどこかにいるわけです。
どこだと思われますか?
だいたいが詰め襟黒ボタンの学生服、学習院出身らしきボタン無しの上着あり、
学生帽に背広という制服もあります。(これは、東京の靖国神社横にあった九段中学です)
しかし、よく見ると、何人か、和服の者がいます。
このうちの一人が越山生徒であるはず、と思い、探してみました。
同級生の証言によると、かれは「黒い紋付を着ていた」。
そして、背が低かったということは、前列にいる可能性が高い。
このことから、この、真ん中の着物の生徒を特定しました。
羽織の紐が紋付の仕様になっている生徒は彼だけだったからです。
それだけが根拠です。
もしかしたら前列左から7番目の生徒かも知れません。(←いいかげん)
「維新の遺物」と見まごうばかりのオールドファッションなスタイルで
江田島に現れた越山生徒ですが、そのことを同郷のある生徒はこのように見ています。
小生の記憶によれば、彼の御尊父は確か、
ある神社の神主であるとか云うことであったが、
往時の薩摩兵児(鹿児島地方で,一五歳以上二五歳以下の男子のこと)
を思わせるような彼の服装の中に御尊父や御家族の
大きな慈愛がこもっていたのではないだろうか。
彼は(ママ)その服装で悠々慌てず臆せず遥遥文明の汽車に乗って
江田島まで来たときの気持ちが小生にはよく頷けた。
別のある生徒は、
どちらかと言うと無口で、とんがり気味の口から発する話し方も、
朴訥そのもののように思われたが、また、性温厚で非常に親切な人柄であった。
と彼をして評価しています。
同級生の越山を見る眼差しはあくまでも暖かく、深い尊敬に満ちています。
次回は特別にもう一項設けて、
越山澄尭が海軍軍人としてどのように戦い、どのように死んだかを
その戦歴から追ってみたいと思います。
兵学校生活を活写してさすがの筆力です。
かつて熱心に見た青春歌謡で人気を博した梶光夫、今も活躍している近藤正臣共演の海兵生徒を描いたテレビドラマ「若いいのち 菊田一夫原案、藤本義脚本」を思い出します。
私は質実剛健の校風で、海兵伝統の棒倒しが名物であった中高一貫の私立男子校卒業です。
運動会は中一から高三まで同じクラス番号(6学年分)がチームをつくり七つのチーム対抗戦でした。運営は最上級の高三が中心で、応援歌をつくり、放課後下級生の教室に行き指導します。
これが中学時代はこわかったです。まわりを高三の生徒が囲みうっかり表情をゆるめると強烈なお達示がきます。ゆるめなくてもとにかくたるんでいるとか気合が足らないとか嵐の洗礼でしたね。
なぐったりすることは絶対にないのですが。
自分達が最上級の高三になると下級生に気合を入れにゆくことになります。自分の組の応援歌に私は「出征兵士を送る歌」の歌詞を替えたのを提案したのですが、クラス一の音楽に詳しい生徒(多少作曲ができた)に悲壮感があると却下されました。
そのときか、もっと前の学年のときか忘れましたが、ラ・マルセイエーズを歌ったときがあり、あとになってフランス国歌ということを知りました。
何十年も前のことですが、今はどうなのでしょうか。運動会そのものは、見たとこまったく同じようにやっていますが。
重ねて、貴重な資料と分析、ありがとうございます。