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米軍基地ツァー参加記8~6号ドックと空母「信濃」

2013-12-29 | 海軍

前回、たかが「ニミッツ」の名前が付けられた道路標示一つで、
延々とニミッツ元帥について語ってしまいました。

マッカーサーとニミッツは歌で一緒くたにされていたのにも係らず
天敵というくらい仲が悪かった、という話もさることながら、
東郷元帥との話、ペリリュー島の日本将兵に捧げた言葉、
どれも一度は書いておきたかったので、ここぞとこじつけてしまったのです。


相変わらず、自分でもイベント関係のエントリについては進捗状況が読めない
ブログですが、そこのところはご了承下さい。


さて、もうずいぶん前になりますが、明治元年に完成した1号ドライドック、
その後程なく完成した3号、ついで2号のドライドックについてお話ししました。
本来、このツァーは1、2、3号の後は、6号ドックを見る予定です。

この6号ドックは、日本に軍艦の建造の制限を(アメリカの保有数の6割)押し付けられた
ワシントンの軍縮会議を脱退し、ようやく「海軍休日」から抜け出した海軍が、
排水量65000トンクラスの大和型戦艦の建造を決定したものの、
それだけの大きさのフネを修理する施設が当時呉工廠だけだったため建設されました。


しかも今までの修理専用とは違って、こんどは「大型艦建造」もできるドックです。

完成は昭和15年。
ドックの完成と同時に戦艦「信濃」の起工式が行われました。
「信濃」といえば最近当ブログでこの戦艦に少し触れたのを覚えておられますでしょうか。

航空戦艦としてカタパルトだけをつけられ、「発艦専門」の空母として改造された
「伊勢」「日向」
空母を要していた海軍は、ここで建造された「信濃」を同じく空母に作り替えました。

その理由も思い出していただきたいのですが、それはミッドウェー海戦で、
聯合艦隊が一度に4隻もの空母を失ってしまったことにあります。

「信濃」は、もともと大和型の戦艦として起工しました。
しかし海軍が空母を可及的速やかに必要としていたこと、そして何と言っても、

呉から大和型の46サンチ砲を運んでくる予定の専用輸送船である
「樫野」が、
潜水艦によって撃沈されてしまった


ため、信濃を「大和型」にすることが物理的にもできなくなってしまったのです。


というわけで7割完成していた「信濃」は、急遽空母に設計を変更されます。

その頃には多くの熟練工が徴兵で駆り出されていたため「信濃」の建造には

民間造船所の工員や海軍工機学校の生徒は勿論、学徒勤労報国隊で集められた
文系など他の学部の生徒、朝鮮人工員や台湾人工員、女子挺身隊

までがかかわりました。

「武蔵」に19ヶ月かかった艤装を、わずか三ヶ月でしてしまうという突貫工事ぶりで、
動員された者たちの「愛国・憂国の敢闘精神」がこの急造を可能にした、
と当時は美談で語られたものだそうです。


さて、話が佳境に入ってきましたが(笑)、
どうして、その6号ドックの写真がないのか、って?
それは、この日は6号ドックが

工事中だったからですよ。




自転車置き場に物々しく「自転車の放置厳禁」とあったように、
この付近では「自転車」を非常に敵視しているらしいことが分かりました。
人が乗っていて万が一ドックに転落する事故とか、何かの弾みで自転車が落ちるとか、
まあ、そう言う事故に対する予防ではないかと思われます。



たしかにドックの淵にあるクレーン?はあるものの、
ドックらしいくぼみがない・・・。



平面からなのでどこがドックなのか全く分かりません。
黄色いチェーンの向こう側でしょうか。



もしかして、建設以来初めての大改修工事で、
「信濃」を作ったときのドックの内装はもう失われてしまったのでしょうか。
だとしたら、工事前に一度観ておきたかったな。



解説員の話をぼーっと聞きながら、現場に鳥がいるのを見つけたので激写。




さらにクレーンの上のカラスの夫婦を激写。



アップにするとわかりますが、残されたカラスが「カアー」と
鳴いております。

「一人にせんといてくれ~!」(なぜ大阪弁)

かな。




そして一人ぼっち・・・・って何撮ってんだ。

ちなみにこの6号ドック、ここには戦前から使用され続けていたクレーンが存在したのですが、
平成15年(2003年)までには全て撤去され、これはあたらしいものです。


というわけでわれわれツァー参加者は「信濃のドック」を撮ることができませんでした。
「写真を撮らないで下さい」といわれたのは、遠くに見えている海自の潜水艦だけで、
これも言ったように対岸からは撮り放題なのですから、
この6号ドックを「撮ろうにも撮れない」という状況であったわけです。


ところで、このツァー参加者に対する「撮影禁止」の件ですがね。


昔のこのツァーに参加された方のブログなんかを見ると、
たとえ艦船がドック入りしていたとしても、

「写真を撮らないように言われた」

なんて書いてあって、取りあえずそれでもツァーの過程として、
ちゃんと見学することだけはできるようなんですよ。

ところが、あるブログによると、

このあたりから同じグループの中で数名、
「撮影してはいけない」と言われた場所に納得できず
「なんでダメなんだよ!!!」と大騒ぎしたり、注意されているにもかかわらず、
(盗撮ってこうやってやるのね…)と思わず見入ってしまうような手段で
強引に写真を撮ろうとしている方が目立ち始めた。
正直見てて気分の良いものではない。

というようなこともあったようなんですね。

このブログの書かれた日付を見ると、わたしの参加したツァーのわずか一ヶ月前です。

「撮らないで下さい」と言われれば撮らない。
そういう信頼のもとに、米軍も自衛隊もこういう施設を公開してくれているのに、
盗撮したりガイドに食ってかかったり、そんな奴らのせいで、
基本的に見学者のモラルが信用されなくなってもし

「ドック入りしているときには一般人には見学させない」

などということになったら、こういう振る舞いは万死に値する、
とさえ思います。

たかが写真くらいいいじゃないか、アップしなきゃいいんだろ?
スパイにみせるわけでもないしけち臭い。

そんな風に思うような人はきっと「特定秘密保護法案」にも反対するんだろうな。

と何の根拠もなく言ってみる。




ドックの向こう側に見えていた何かの焼却場。



おそらく昔のままの木の電柱。



ケーブル等のパイプでしょうか。
一般の土地ならば地中に埋めてしまうところですが、
おそらくここでは関係者しか通行しないという特殊な場所であるため、
地中ではなくこのように「空中」に渡しているようです。
たしかにこの方がメンテも簡単で費用もかからないのでしょうね。





このケーブは立ち入り禁止になっていました。
使われていないから立ち入り禁止になったわけではなく、
現役で使われているときにすでに「危険」と大書きされたドア。
木の枝で覆われて見難いですが、ドアの上部には

「禁煙 敷地内指定場所のみにて喫煙すること」

とわざわざ書かれていますので、おそらくここは爆薬やオイル、
弾薬、その他「火気厳禁」なものの倉庫であったか、その調整室だったようです。



「岸壁」と書かれた碑。

ここには、昔岸壁がありました、ではなく「岸壁を作った記念」です。
このあたりの海のことを「小海海岸」と言ったそうですが、明治14年(1881年)から
埋め立て工事が始まり、横須賀海軍工廠の拡充に伴ってここ小海海岸の港湾施設は
急速に整備されていきました。

この大正4年に完成した岸壁というのは、小海東岸壁のこと。
この碑は、2005年に小海東岸壁を改修工事したときに発見されたものです。



今この碑は、12号バースの、アメリカ艦船を望む埠頭にひっそりと建っています。

さて、それではやはり最後に、ここで建造された「信濃」のその後について
お話ししておかなければなりません。

「日向」「伊勢」の姉妹は、艦橋が中央にあったため、「空母」といっても

「離艦は出来ても着艦の出来ない」

航空戦艦になるしかありませんでしたが、この「信濃」は、
もともと「大和型」の三番艦ですから、甲板の広さは十分です。
何しろ、大和型の戦艦は内部を「地下街」と称し、伝令は自転車で移動していたくらいです。

その大きさは、戦後16年後の1961年に、米海軍の原子力空母「エンタープライズ」が
表れるまで、史上最大の排水量を持つ空母でした。

それだけの巨大艦を、極限まで工期短縮して竣工を急いだ結果、進水式のときに
海水の注入の段階で事故が起こり、技術士官が海に投げ出され、ドック壁面に
艦体が激突して破損、という惨憺たる出だしとなりました。

この誰が見ても不穏を感じさせる進水式は、その後の「信濃」の運命そのものでした。

そもそも、それだけ急いで空母を建造しても、「伊勢」「日向」もそうでしたが、
海軍はすでに乗せるべき航空機をもう失っていたのです。

「伊勢」「日向」は、航空戦艦として一度も使われず、前にもお話ししたように
「北号作戦」という輸送作戦に投入されますが、もしこの「信濃」が
実戦に赴くことがあれば、海軍はこの巨大艦をどうやって使うつもりだったのでしょうか。

やはり載せる航空機がなかった空母「雲竜」は、表向きには「緊急重要物資」の輸送、
実は特攻兵器「桜花」「震洋」を積んでマニラに向かう途中、米潜水艦に撃沈されました。

「信濃」もまた、最後の航海となった呉への回航の際、「桜花」を積んでいました。
竣工と言っても、まだいたるところにケーブルが放置されたままで、
「未完成の」のままの回航です。

「雪風は死なず」

という当ブログの漫画付きエントリで、幸運艦の雪風に対し、不運艦の一つとして
この「信濃」の話をあげたのですが、ここにも書いた通り、
「桜花」を積んでいたことから、

「信濃の回航が特攻にならなければいいが」

という冗談をいうものがいました。
横須賀を発ってわずか17時間後、パラオ級潜水艦「アーチャーフィッシュ」の
執拗な追跡に続く攻撃によって沈没。
建造が急がれすぎた結果、「信濃」には防御区画に不備があり、しかも、
一度も訓練をすることなく外洋に出たため、沈没を免れなかったと言えます。


艦長の阿部俊男大佐は、総員退艦を命じた後、艦と運命を共にしました。

海上には、「信濃」から流出した特攻兵器「桜花」が浮かび、
「信濃」の多くの将兵たちはそれに掴まって命を長らえたということです。



「ここで建造された『信濃』は呉に回航される途中で、沈没してしまいました」


ボランティアの解説員がこのように「信濃」の運命を説明すると、
横にいた男性が

「なんともったいない・・・」

とため息とともにつぶやきました。