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越山澄尭大尉~「モレスビー沖に死す」

2013-12-11 | 海軍人物伝



■ 卒業

兵学校の卒業写真は、このように分隊ごとに撮られます。
21分隊の卒業生は7名、ここに越山澄尭がいました。
写真には間に合わなかったらしい分隊を除き、各自の自筆による
サインが添えられています。

前回、全体写真から越山生徒を特定しましたが、全く根拠がないわけでもなく、
 



この前列の紋付袴の生徒が、この分隊写真の越山と似ているというのもその根拠です。
皆さんはどう思われますか。

前回も書いたように、この21分隊には「真珠湾の軍神」である古野繁實がいて、
冒頭写真では後列左端に立っています。

古野は福岡出身、卒業時のハンモックナンバー(成績)は120番。
240名ほどのちょうど真ん中あたりにいたようですが、身体壮健で、
兵学校に当時の横綱網玉錦一行が訪問し、序の口力士と
手合わせ稽古をした際、
ほとんどが全く歯が立たなかった中で、
たった一人、
相手を上手投げで破る快挙を成し遂げたほどでした。


この分隊の伍長は地頭三義で、ハンモックナンバーは19番。
2号生徒のときのハンモックナンバーの上位36人が伍長として、
全部で36ある分隊を率いると言う仕組みです。

因みに第1分隊の伍長は中村悌次
「海の友情」をお読みになった方は、この名前を覚えておられるでしょうか。
戦後、名海上幕僚長として、米海軍と海自の友情の大きな立役者となった人物です。

その中村が、ヘンデルの「勝利を讃える歌」の流れる中、恩賜の短剣を授与せられ、
卒業生たちは「ロングサイン」に送られて練習艦隊に出航して行くのです。


“淡い生活4年も過ぎて ロングサインで別れてみれば

ゆるせなぐった下級生 さらば海軍兵学校 俺も今日から候補生”


■ 練習艦隊

7月25日、卒業式を終えた67期生は、練習艦隊に配乗しました。

そのころの情勢を少し説明しておくと、支那事変は三年目に入ったものの解決のめどはつかず、
国内では国家総動員法が成立、
逐次統制は強化され、物資は不足となりつつありました。

ちょうどこの頃、アメリカは突如日米通商航海条約を破棄
さらにはヒトラー率いるナチス・ドイツが同盟国締結を日本に迫ってきていました。
そしてそれを受け入れようとする陸軍と、
反対の海軍との間にも齟齬が生じ、
少尉候補生たちにもその不穏な世界の空気はひしひしと感じられました。



練習艦隊は「八雲」「磐手」の二隻をもって編成され、それに給炭艦「知床」が追随しました。
このとき「知床」の艦長だったが、のちにあの「キスカ救出作戦」の指揮を執った

木村昌福大佐(兵41期)

です。
このとき越山候補生は「八雲」に乗り込んでいます。

兵科候補生は、練習艦隊実習において、主に天測と当直(副直士官勤務)で鍛えられます。
この二つは初級士官として必須の資格条件であり、この練習航海を通じて絶え間なく、
かつ繰り返し演練指導されているうちに、シーマンシップと共に身に付いてくるものです。

天測にはやはり得手不得手があるので、

「当艦位置、現在奈良県猿沢池!」

ということになってしまう候補生もいたようです。(嘘でしょうけど)
そしてこのあと、前回お話ししたハワイへの遠洋航海があるわけですが、
この部分の記述にこんなのを見つけました。

「南洋諸島(ボナペ、トラック、パラオ)の寄港行事は、
ハワイと全く逆の地味なもので、土人踊りを見た程度であった」


ハワイでは現地在住の県人会などの日本人団体始め、行く先々で彼らは
熱烈な歓迎を受けましたから、余計にその差を感じたのでしょうが。
まあ、この頃(昭和58年)放送禁止用語とかありませんからね。

彼らはサイパンにも寄港し、現地の日本人学校の校庭で運動会をしました。
候補生たちと一日走ったりした子供や女学生を含むこれらの人々が、
その5年後にどんな運命をたどることになったのか・・・。
このときの候補生たちもそのうち182名が戦死し、戦争が終わったときに
残っていたのはわずか88名でした。


遠洋航海が終わり12月の年の瀬に横須賀に帰港したかれらは、艦隊配乗となります。

越山は「五十鈴」「五月雨」乗組後、潜水艦講習員として一ヶ月の講習を受けています。

昭和16年11月。
東条内閣は成立後情勢の再検討を実地した結果、
11月5日の御前会議で

「対英米蘭戦争を決意し、武力発動の時期を12月初頭と定め、
陸海軍は作戦準備を完成す。
対米交渉が12月1日午前0時まで成功せば、武力発動を中止する」

との方針を決定していました。
これを受けて大本営から作戦計画示達が出されました。

連合艦隊は11月7日、「第1開戦準備」(戦略展開)を発令、
11月13日岩国に主要指揮官、幕僚を集めて作戦計画を示達、
図演および作戦打ち合わせを実地しました。


この「図演」と言う言葉をわたしが知ったのは比較的最近のことで、
ある海上自衛官との文章でのやりとりの中で目に留まった言葉です。
英語では「ウォー・ゲーム」とか「ミリタリー・シミュレーション」といい、
「兵棋演習」自衛隊では「指揮所演習」と言うこともあります。

こんにち、大東亜戦争において大本営が行った図演の読みがことごとく甘かったのが
敗因であったということになっているわけですが、同じシミュレーションでも、
当ブログでかつてお話ししたこともある、「総力戦研究所」で行われた
「開戦シミュレーション」
は、昭和16年の開戦前において、日本の将来の敗戦をほとんど現実のままに予想していました。
この総力研に集められたのは、政治、軍ともにその中枢ではない
「オブザーバー」的視点を持った
若い人たちでした。

つまり、「認知バイアス」(軍人精神とかいう形の)がかかってしまった場合、
いかなる図演も、その的中率は格段に下がるということでもあります。

このときに驚いたのが、海上自衛隊ではこの図演をリアルタイムで行っているということ。

またその自衛官によると

「現代では図演も冷徹に行っていますので、ご安心下さい」

ということで、国民の一人としてはこの頼もしい言葉に胸を撫で下ろした次第です。


■ 開戦

ハワイ作戦を実地する潜水艦は、真っ先に展開を開始しました。
先遺隊の展開部隊は潜水艦乗組が15名。
そして、特潜2名
言わずと知れた古野繁實、そして横山正治両少尉です。

古野の乗った特殊潜航艇は、(広尾艇説もあり)7日23:30頃、
湾外でアメリカ軍の掃海艇に発見され、駆逐艦に撃沈されました。

これは、真珠湾空襲の4時間前で、日米海軍最初の会敵とされます。


一方、南方への侵攻も同時に開始され、海軍は主力空母を除いた
連合艦隊の大部分を展開しました。
この南方部隊に、越山は伊59で参加しています。
南遣隊の司令長官は、小沢治三郎
この隊の陣容は以下の通りです。


第24戦隊(24S) 特設巡洋艦「報国丸」「愛国丸」「清澄丸」
第11航空戦隊(11Sf)  水上機母艦「瑞穂」「千歳」
第4潜水戦隊(4Ss)   軽巡「鬼怒」
   第18潜水隊(18sg) 潜水艦「イ-53」「イ-54」「イ-55」
   第19潜水隊(19sg) 潜水艦「イ-56」「イ-57」「イ-58」
   第21潜水隊(21sg) 潜水艦「ロ-33」「ロ-34」
第5潜水戦隊(5Ss) 軽巡「由良」
        第28潜水隊(28sg) 潜水艦「イ-59」「イ-60」
        第29潜水隊(29sg) 潜水艦「イ-62」「イ-64」
        第30潜水隊(30sg) 潜水艦「イ-65」「イ-66」



開戦前、

「インド洋方面からイギリス海軍の有力部隊が
マレーに増強された」

という情報を得たためそれに呼応して、

当初フィリピン方面であった越山少尉所属の5Ss は、マレー半島沖に転用になりました。
12月9日、ここに配備されていた伊65が、イギリス戦艦部隊を発見し、
12月10日の「マレー沖海戦」の端緒を作りました。

その後第5潜水戦隊は南方部隊直属となり、
蘭印侵攻作戦に対する協力として、インド洋方面に進出しています。

越山の伊59は、17年の1月上旬、ダバオ(フィリピンミンダナオ島)
に進出、その後ポートダーウィン(オーストラリア)沖の監視に任じました。

第5潜水戦隊はその後2月下旬から一ヶ月、インド東岸、そしてセイロン島の
交通破壊戦を実施。この作戦で、商船数隻を撃沈しています。


17年4月頃の南太平洋の基地航空戦は激化しようとしていました。
中旬以降、台南空、4空(陸攻)、横浜空(飛行艇)が南太平洋方面に進出。

67期の笹井醇一中尉は、この25Sfで、山口馨、木塚重命の同期生と共に
4月17日以降、ラバウルからモレスビーに対する航空撃滅戦に参加し、
そのときの台南空の下士官で笹井の部下であった坂井三郎が、戦後この部隊の想い出を
「大空のサムライ」
と題して出版したため、図らずも笹井醇一の名は有名になりました。


越山中尉も、まさにこの笹井中尉と同じ方面、
主にモレスビー沖での哨戒、監視を呂33で行っています。

笹井中尉が8月26日、ガナルカナル攻撃で戦死しているのに対し、
越山中尉の戦死はモレスビー沖でその3日後の29日です。



■ガ島増援輸送作戦

この12月8日、すなわち真珠湾攻撃により日米が開戦した日に、
わたしは奇しくも海軍兵学校67期卒の市来俊男氏の講演を聞きました。

市来氏は航海士として「陽炎」で真珠湾に参加し、やはり「陽炎」で、
ガダルカナルへの一木支隊(一木清直大佐以下2300名)
川口支隊(川口清健以下1200名、総勢3000名)の輸送任務を経験しています。

この駆逐艦による高速輸送、夜間急速揚陸を、当方は

「ネズミ輸送」

と呼び、アメリカ軍は

「TOKYO EXPRESS」

と呼びました。
敵の方がよほどかっこいい名前で呼んでくれていますね。

この後軌道に乗った増援輸送は、9月に入って本格化しますが、
ガ島奪回を期した川口支隊を主力とする部隊は、集結が遅れたため
その作戦は失敗してしまいます。

この総攻撃支援作戦として、潜水部隊は8月下旬からソロモン南東、
そしてガ島周辺に展開していました。

越山中尉乗組の呂33は、8月上旬以降、
モレスビー沖の監視、哨戒に任じていましたが、
8月29日以降消息を絶っています。

潜水艦は極秘で任務遂行し、危急のときにも無線を発しないので、
殆どの戦没潜水艦は、いつ、どこで撃沈されたのか、それとも
事故によるものなのかわからないまま消息を絶ち、消息を絶った日を以て
その損失が初めて確認されます。

呂33潜もやはり同じように、その最後が誰にも知られること無く、
そのまま帰ることはありませんでした。

開戦一年にもならぬ内の戦死は、やはり同級生には無念であったと見え、

戦死の時期が早すぎたことは戦況の推移上やむを得なかったとはいえ、
かえすがえすも残念でなりません。

とある級友は、越山の早い戦死を惜しんでこう書き遺しています。
そして、

「情熱をうちに秘めた男、越山であるから、
その最後の瞬間もきっとそうであったにちがいない


と想像しています。

これは我々には頗る理解し難い評論で、

従容とその死を受け入れ泰然と微笑みつつ死んだのか、
それとも、天皇陛下万歳と怒号ののち果てたのか、

「情熱的なものを内に秘めたタイプ」

であれば果たしてどちらの死を選ぶのか、はっきり言って想像もつきかねます。

きっとこの同級生の脳裏には、彼と親しく兵学校で交わり、

彼の人間を良く知っているものであるからこそ想像しうる
「最後の越山澄尭の姿」というのがあったのに違いありません。


■ 「下駄を下さい」


越山が最初に兵学校に現れたとき、

「凄いのが来た」

と目を見張ったクラスの西村茂義は、鹿児島弁で語らい、
越山を「越山サー」と呼んで親しんだ親友となったようです。
「凄い」と思われたその越山は、西村にとっては、一度言葉を交われば実に人なつこい、
優しい心根に、誰もが彼に打ち解けてしまうような大きな心の持ち主でした。


最後に、越山の大人物ぶりを物語るこんな逸話をご紹介してかれの物語を終わりにしましょう。


先日も書きましたが、兵学校の教練に当たる下士官は、年齢は遥かに上のベテランでも、

軍隊の階級は兵学校学生より下になります。
ですから、教練で教員が命令を下すとき、

「誰々生徒はそのまま姿勢を正す!」

などという「不思議な三人称」を使うことになっていました。
勿論その他の状況ではまるで自分の息子のような青年に向かって、
教官は敬礼をし、敬語で上官に対するようにしゃべるのです。

そんな逆転した状況ですから、学生の態度によっては、
内心面白からぬ反感を持つ年かさの下士官もいたかもしれません。

そんな年配の教官であった某兵曹がある日、越山に
「あの」下駄をもらえないだろうか、とねだりました。


下駄とは「維新の遺物」と彼の第一印象をして評させた、あの、高下駄です。

彼が、件の高下駄を大事に新聞紙にくるんでチェスト(物入れ)の
一番底にしまい込んでいたのを、級友は覚えていました。
それもまた越山の几帳面な性格の一端をあらわす想い出として。


越山生徒が大将になるまで大事にしまっておきますから、ぜひ下さい」

越山が果たしてその下駄を、そのように所望した兵曹に本当に与えたのかどうか、
それはその同級生にも最後までわからなかったようです。



越山澄尭 大正7・7・3生

本籍 鹿児島市上竜尾町

位階勲等 海軍大尉正七位勲六等功5級

戦死年月日 昭和17年9月1日

戦死状況 昭和17年8月22日ラボール発モレスビー方面監視偵察に
     つきたるまま消息無く、敵艦隊を攻撃、反撃を受け戦没と推定
     昭和17年9月1日附戦死認定


 



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1 Comments

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天測 (フリーマン大佐)
2021-05-03 11:35:49
夜間の天測は3つの星の高度を図り、三本の線の交わるところが自分のいる位置という作業です。ご指摘のとおり得手不得手もあり、最初は三本の線が交わらず三角形の中に九州が入ってしまったという話も良く聞きます。
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