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横須賀米軍基地ツァー5~慶応三年のドライドック

2013-12-04 | 日本のこと

このツァーの前半のクライマックスとでもいうべき見学は、この
ドライドックでした。
ドライドックとは、船舶の建造、修繕、船底清掃等のため、
フネを引き入れて排水し、フナ底を露出させることの出来る施設です。

驚くべきはこの施設が慶応3年(1867)に着工し、4年後に竣工していたことです。
プロジェクトは慶応元年から始まりました。
慶応年間というのはたった3年で明治に変わったとはいえ、
日本人がまだちょんまげ結って着物を着ていた江戸時代ですからね。

大政奉還により江戸幕府は倒れ、明治新政府へと変わったわけですが、
慶応元年に横須賀製鉄所として立ち上がった施設の建造を新政府は受け継ぎ、
日本の近代化に向けてこの計画を一層強く推し進めました。


さらに驚くのは、ここには全部でドライドックが6基あるのですが、
この江戸末期から作られ始めたドライドックは、
現在も米海軍と海上自衛隊の艦艇修理に現役で使用されているということです。


このドライドックの建設は、即ち日本が近代化への一歩を踏み出した
最初の一大国家プロジェクトであったわけで、当時の世界的規模から見ても
列強に勝るとも劣らない規模のものでした。

日本は世界にデビューするなり海国としてトップを目指したのです。
そして、そういう道筋を作った人物の一人が、ここに製鉄所を作ることを
計画した小栗上野介忠順(オグリン)でした。



当時幕府は、外国から購入した故障の多い船に要する修理に
頭を悩ませていました。

小栗は国内で修理をするため、早急なドライドック建設の必要性を説きましたが、
幕府は当初財政難を理由に決定を渋りました。


小栗はそれを押し切る形で了承を取り付けます。


江戸幕府の命を受けてこの事業に取りかかった小栗ですが、
その後、彼は統幕後の江戸城開城のときに徹底抗戦を唱えたため、
維新政府によって斬首されてしまいました。

つまり彼は「明治」の夜明けを見ぬまま、というかそれに反逆して死んだことになりますが、
彼が中心となった製鉄業の勃興は、他でもないその明治新政府が遺志を受け継ぎ、
日本をその後、重工業国と成していったというわけです。

なんともこれは、歴史の皮肉という他ありませんね。



ドライドックが現役であるので、当然こういった建物も、
毎日ではないでしょうが現役で使用されているのでしょう。
うーん、中が見たい。

建物のA-7、というのはAドックの7番の建物、という意味でしょうか。





まさにドライドックが現在進行形で使われていることを証明する、
この甲板。

「横須賀造修補給所ドックハウス」。

造船・修理のことを造修と称しているのですね。

自転車立てがあり得ない角度で屹立していますが、
この不便そうな自転車立てにちゃんと駐輪してあります。

場所が場所なので、放置してはいけないことに決まっているのでしょうか。 



見よこれが日本で最初にできたドライドックだ。

設計は小栗が招聘したフランス人技師ヴェルニーによって行われました。
このときなぜフランス人にこの依頼がいったかというと、なんと、
小栗が江戸幕府の勘定奉行に就任したときの目付というのが、
フランス帰りでフランス語ペラペラの栗本 鋤雲だったから、ということです。

勿論、江戸時代にフランス語がしゃべれる人がいても不思議ではないのですが、

この修行僧みたいなおじさんが「コマンタレブー?」「トレビア~ン」
なんて言っていたことを想像するのは少し難しい気がします。





ん?
なにやら英語と日本語を使った標語が、妙な取り付け方をされた看板に。



STOP/立ち止まる

LOOK/見直す

ACT/行動する

LISTEN/聞く

REPORT/報告する

これらを「スター計画」(STAR PLAN)と称するようです。
なんと言うかごもっともすぎて何の突っ込みようもないのですが、
当たり前のことをあらたまって標語にするのが、日本の職場というものです。

ここは米軍接収後も、進駐して来た米軍にそれに相応する組織がなかったため、
戦中に従事していた従業員がそのまま米軍のために仕事を続けました。
つまり、一度も米軍に取って代わられたことがない職場なのです。

このような「標語体質」が見えるのも、一度もその本体が
「アメリカ型」にならなかったからではないでしょうか。





この全く同じ大きさに切り出された石は、
新小松石といって、真鶴から熱海にかけて産出されたものだと推定されます。

当時の工事ですから、これらの石を運んだのはおそらく牛車であったでしょう。



140年まえに造られたドックの向こうに見える現代のショッピングセンター。

この一号ドックは昭和10年~11年に渠頭部分を延長しています。



この写真の右側手前の部分をご覧下さい。
他の部分が石積みなのに対し、コンクリート部分が見えますね?



その境目アップ。

このコンクリートで造られているのが、後に延長された部分です。
手すりのある階段の部分も、そのときに作られたように見えますね。
手すりがぐにゃりと曲がっていますが、ドック入りしていた船に潰されたのでしょうか。

つまり、




この石は、建造当時のままのものなのです。(感動)

関東大震災でもこのドックはびくともせず、液状化現象も起きませんでした。

この理由はヴェルニーのドック候補地選定や石などの素材を見る目の確かさ、そして
技術の高さに加え、利権を求めて群がる有象無象には見向きもせず、
自分の目で確かめて機械や技術者を選定する真摯な態度などにあったといわれます。




知れば知るほど、このヴェルニーという人は、すごいんですよ。


横須賀市観光局は、もっとヴェルニーの功績を讃え、
ゆる(くなくてもいいけど)キャラ化でも何でもして、郷土の、のみならず
日本の近代化の恩人として、その名前を国民に知らしめるべきだとわたしは思います。



向こう岸の様子は様変わりしていると思いますが、
おそらくこちら側は何も変わっていないはず。
ちょっと雰囲気を出してモノクロームで加工してみました。



冒頭の写真と同じものですが、これは第2ドック。
三つの中で最も大きなドライドックです。
1884年に竣工しました。

第一号が出来てから9年後、ヴェルニーは退任し帰国していたので、
やはりフランス人技師のジュウエットが、途中まで指導し、
あとの施行はここで研鑽を積んだ日本人が手がけました。
つまり初めての「日本人製」のドライドックということになります。




第2号ドックを海側から見たところ。
船が入るときはこのBと書かれた部分が上がり、海水が湛えられたのち、
修理をする船舶が入ってきます。
その後、ポンプで海水を排出し「ドライドック」にするのです。




ふと向こう岸に目をやると、今朝朝ご飯を食べたスターバックスと、
以前参加したことのある「軍港巡り」の船が見えます。
ちょうど今から客が乗り込むところですね。
ガイドさんによると、この軍港巡りができるのは日本でここだけだそうで、
非常に人気があり、週末はなかなか乗ることができないそうです。

でも、このクルーズ、とても楽しかったですよ。
前もって予約してでも、是非一度経験されることをお勧めします。
参加したこのわたしが、価値があったと太鼓判を押します。
 



これ、なんて言うのでしょう。
ウィンドラス?
船の係留をするものには間違いないと思うんですが。




ツァー参加者と、特別参加の米海軍軍人さん二人。
友好ムードを盛り上げるために米軍からお借りして来たボランティアです。

男性よりこの女性の方が階級が上なんだろうなあ、と思っていたのですが、

ツァーの道すがら二人が世間話をしているのに耳をそばだてると、
女性の方は本国で弁護士事務所で働いていたことのあるロイヤー。
水兵さんの方は、サンフランシスコ生まれで、カリフォルニアの
海軍基地から赴任して来たと言っていました。

軍人がたくさんいる上、彼らは階級が全く違うので、
どうもこの日が初対面であったらしく、

「どこの生まれ?」とか
「ここに来る前なにしてたの?」
「アメリカでわたしこんな仕事してたんだけど」

みたいな初対面同士の会話をしていました。


左の青いジャージは通訳ですが、ツァーの皆さんはシャイで、
軍人さんたちに写真を一緒に撮ることは要求しても、
話しかけたりすることがなかったので、二人は思いっきり
「時間つぶし」という感じで同行していました。



おそらく昔から変わらない石畳。
小さく書かれた数字は何を意味するのでしょうか。




確か2番ドックのブリッジを通過するときに、下に降りるためのはしごを見つけました。
どうしてこんな囲いをはしごにつけなくてはいけなかったんでしょう。
万が一ドックに船がいるときに上り下りしていて地震が起こったとき、
船体に身体を挟まれないため・・・・?かなあ。




ところで、このドック見学の間、ここにトイレ小屋?があり、
トイレ休憩となったのですが、この仕様がアメリカ式。
つまり、個室のドアが下部30センチくらい開いている、あれだったんですよ。

このときに利用していた女性陣が、
「ドアの下が開いている!」
と結構盛り上がっておられました。
アメリカでは公衆のトイレは全てこれなので、わたしは何とも思わず、
皆がそう言っているのを聞いて「ああそうだっけ」と思いだしたくらいでしたが。




お?
海自専用の建物あり。
すわ、とばかりに一応写真を撮ってみましたが、
"BY Y-RSF"の意味が分かりません。

もしかして・・By yourself? 




三つ並ぶここのドライドックで一番小さな第3号ドック。

実は、こちらの方が第2号より10年も先、1874年に出来ています。
第1号から左に並んでいる順番に番号をつけたため、これが第3号と名付けられたんですね。

まだこのときはヴェルニーがおり、彼が設計を手がけました。

この一番小さなドックでも、当時海水を排水するのに4時間を要したそうです。

現在のポンプは、この第3号ドックで1時間半で排水を完了してしまうそうですが、
現在の技術でどんなに急いでもそれだけかかるのなら、
130年前の4時間って
案外凄くありませんか?






Wikipediaから拝借した航空写真。
一番下に見える第1号ドックはドライのまま。
第2号ドックには船舶が入れられ、ドライ、つまり現在修理中です。
一番左にあるのが小さな第3号ドックでここにも小さな船が入っていますが、
今からドライにするのか、それとも出て行くのか、海水が満たされた状態です。

これを見て初めて気づいたことがあります。

この見学ツァーはこのドックを見るのが
大きなイベントなのですが、
少なくともここにフネがドック入りしている時には、

船舶の国籍日米問わず、一般人が至近距離でそれを見ることは出来ないはず。

ツァーが定期的に行われないのも、この第1~3号ドック入りのスケジュールを
考慮して日程を設定しないといけないからだったんですね。

現にこの日も、一つのドックには艦艇が修理中だったため、
そこだけは見学できないということになりました。





というわけで、ひょんなことからこのツァーの企画における
関係者各位の御苦労のようなものが垣間見えた気がします。

これだけの価値あるツァーを、ボランティアだけで無料で運営してくれるなんて、
横須賀市観光協会と米海軍にあらためて、多謝。







 



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16 Comments

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近代化遺産 (21世紀中年三たび)
2013-12-04 11:32:51
エリス中尉殿(← 一般民なのであえて、母や伯母は~さんですが^^;。)
貴重な画像をアップ頂きありがとうございます。
ドライドックの近接画像は、地方都市在住で、米軍になんのコネクションも持たぬ小生、
生涯観ることのできないものと諦めておりました。

長くなります・・・。m(__)m
氏の云われるところの”反日三兄弟”と
我が国が決定的に違う点の一つがこの造船所にあると小生は思うのです。
投資資金の回収に次世代以降の期間を要し、償却期間などという合理性(これは米帝か?)も退けて、延々とその補修メンテを繰り返し工業インフラを構築する、

いきなり事業開始の当事者にその事業収益が還元されることを優先しては成り立たない事業、まして賄賂などと云う”下衆コスト”が常発する隣国環境では、いわんやの典型が造船業、鉄鋼業です。
(もっとも、プラントごと輸入しちゃってますが・・・(*_*; )

見方によっては、世界に比類無い農業土木を構築した我が国ならではの忍耐力と公への貢献力が、和算と和紙と筆、せいぜいソロバンの国でこれだけのものを140年ほどの先まで申し送る・・・。

ヴェルニーが極東のこんな島国の招請を受けたのも、
若い技術者としての野心や、破格のお雇い外国人報酬、様々の理由があったのかもしれませんが、
私としては、パリ万博で鋤雲さん(安芸守)と面識し、オグリン(上野介)と出逢うことで、「日本の侍なら出来るかもしれない」と感じたのではないか・・・とロマンしてみます。
まあ、現場の町民たちはそんな高邁な理想無くその日暮らしの卑屈者だったようですが・・・^^;
士族の意識の高さ、が近代日本へのトリガーになり、江戸期の職人たちの熟練技能がその底辺を支えた。
結果、今でも現役のドックとして具現化しているのだと思うのです。
ここが、将来の横須賀海軍工廠となり、”近代海軍のゆりかご”となったかと思うと、その後を思わずとも・・今回の記事、読んでいて目頭熱くなります・・・(そういう年です)
つまりここが、全ての出発点なんですね・・・・。

いやあ、幕臣、旗本ボンクラばっかじゃなかったんですね~~。

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ドライドック、旧海軍の痕跡 (平賀工廠長)
2013-12-04 17:27:50
エリス中尉

繋留用ドラム状のものは、艦船模型でいう「キャプスタン」重巡などの後甲板にあり、曳航用の曳索を巻き取る艤装品の巻き胴部分と思います。(艦では動力など機械部分
は甲板下にありました。

以前コメントしましたが、私がこのツァーに参加したのは、2005年で、当時のデジカメ記録媒体は32MBという時代でした。したがって撮った写真も少ないので、中尉の記事に期待しています。

ドライドックはやはり目玉で明治初年建造したものが今でも現役で使われていることに感動しました。また小松石の整然と積まれた石垣にも惹かれました。日本の城の石垣の魅力に通じます。

2005年のときはデジカメの時間によると、10時正門、1,2,3号ドックを巡り、停泊中のアメリカの巡洋艦に乗っています。キティホークが停泊していたので、そこの撮影で媒体をつかってしまいました。ついで大型ドックを見ています。

かの砲術学校正門たるトンネルをくぐったりしてかなり歩いたのを覚えています。昼食はフードコート、その後撮影禁止だったのか定かではありませんが。旧海軍時代のも建物というか構造物をいくつか見ました。

最後が司令部庁舎の玄関でした。

中の地形は高低差があり、小さな丘の上に個々の士官の宿舎があり、下の入口に夫婦連名のプレートがあるのをほほえましく見ました。

15時ごろ終了でした。

好奇心旺盛の中尉の見つけたものを楽しみにしています。





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平賀工廠長さま~ドライドック見学 (エリス中尉)
2013-12-05 17:18:22
「キャプスタン」ですか。初めて聴く言葉です。
さすが工廠長だけあってお詳しいですね。
Capstanで調べてみると、昔のオープンリール式テープレコーダーの巻き取り機のことを
キャプスタンと言ったらしいということが分かりました。
工廠長が参加されたのはもう8年前とのことですが、
伺う限り今回のコースと全く一緒だったような気がします。
エントリ製作に当あたって、いくつか他の方のブログでこのツァーを扱ったログを読んでみましたが、
いずれも全体が一つにまとめられており、
これほどしつこく何枚も写真をアップしているようなものはなかったと存じます。
小さな写真一つだけでは興味はあっても見たことのない方には今ひとつアピールしないと思い、
できるだけいろんな角度から撮って載せてみました。
しかし、最後になるにつれ写真が少なくなり、
最後の第三ドックは二枚しかないという・・。
今度いつ来られるかもわからないのに、そこにいるときは「まいいか」
みたいに思って写真を撮らず後で後悔するんですよ。
前にも書きましたが、ぼーっと見ているときより後でいろいろ調べだしてから
俄然その価値に気づき感動する傾向にありまして・・。
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21世紀中年さま~ヴェルニーの「期待」 (エリス中尉)
2013-12-05 18:17:38
日本という国は昔から唯一独自な道を進み、歴史的にも特異な存在だと思います。
全てを自賛する訳ではありませんが、かつて列強がその潜在的な力を恐れ封じ込めようとし、
戦争で叩き潰せると思ったら、負けてずたずたになったはずのこの国は復興を通り越して世界第二位の経済大国になり、
戦後の枠組みの中では先進国の一員となって堂々と歩んで来ました。

しかもそれは決して一朝一夕の「成り上がり」ではなく、
開国とほとんど同時に、先頭集団を走り続けようとした努力の歴史があるわけです。

ヴェルニーは日本に来る前、上海で造船、製鉄、艦船修理等の任務を果たし、
この功績によりレジオンドヌール勲章を得ています。
それほどの人物が日本に来ることになったのは、鋤雲とフランスの担当であるジョレス提督の
最初の折衝が非常にうまくいったことがまずあると思います。

さらに日本に取って幸いであったことは、このヴェルニーが優秀だっただけでなく、
義務の範囲を超えて仕事に責任を持つ、しかも清廉な人物であったことでしょう。

任期中、戊辰戦争が起こり、新政府軍が箱根まで進駐して来たため、
横浜居留地への避難勧告がなされますが、彼は
「事業中断をすることはできない」
といって横須賀沖に通報艇を待機させながらそのまま指揮を執り続けています。

「蒼龍(そうりょう)」「清輝」の建造にも助言を与え、長崎の製鉄所を造り・・・
と八面六臂の活躍をしたヴェルニーですが、
日本を去る原因になったのは、彼の国家予算をも圧迫するほど莫大な給料で、
幕府はそれを支払えなくなったため、お帰り願うしかなかった、と言われています。

21世紀中年さまのおっしゃる、ヴェルニーの日本人に対する期待がどれほどのものであったかは
既に知るべくもありませんが、
とにかく本国のフランス人が驚愕するほどその工事は急ピッチで進んだそうで・・・・
つまり、指揮系統や、末端の工夫に至るまでの全ての日本人たちの協力やその資質が、
この若いフランス人技術者の期待以上であったに違いない、とわたしも「ロマンして」みます。

帰国後、彼がフランスで決してその日本での功績ほどにはいい地位を得られなかったということは、
物語の結末を哀しいものにしてしまうのですが、少なくとも我々日本人は
これからも日本の開国の「恩人」として彼に感謝を捧げ続けようではありませんか。
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ドライドックについて (お節介船屋)
2014-12-19 21:54:07
またまた懐かしい写真を見てどうしてもコメントします。
やはり1~3号ドックは海上自衛隊と共同使用が続いていたようですね。
JMSDF Y-RSFは海上自衛隊横須賀造修補給所の略語です。(英語が苦手で書けませんがリペアー・サプライ・ファシリティでは)
ドックに船を入渠させるには普通は両サイドにレールがあり、船首からホーサを渡し引っ張って進み、後ろはタグボートでお尻を振らないよ保持します。船尾から両サイドにホーサが渡せるようになればドックサイドに擦ることはないのですが、風が強い場合は吹き寄せられて写真のように手すりを曲げることもあります。
このドックは小さいし古いのでホーサを人力で引っ張り、ボラード(手が出てる下にT型の赤さびた突起物)に引っかけ、順次前と移動します。
所定の位置(船の大きさで船首の位置は事前にドックサイドにマークしてます。渠底の盤木は事前にその船に合わせて長さ、盤木の数、間隔も計算をして設置します。
真ん中の盤木(キール盤木)は余り移動しませんがサイドの盤木(腹盤木)は船の曲線に合わせてその都度移動させます。その船の重量によってはキール盤木も狭めたり、離したりします。
ドック扉もドック船と呼ぶように、弁の開け閉めのみで、浮いたり沈んだりするようになってます。
上部と下部独立したタンクがあります。
渠口で沈めるときは弁を空ければ海水が入り、沈んでいきますが事前に渠口の調査をダイバーが実施し、ごみがないか、あれば清掃し、扉のあたり面を確認しておかねば海水が漏れます。
出渠のときは下部タンクから海水をドックに落とし空とします。扉船には海側からドックに海水注入の管があり、弁を開けるとドックに注水します。
ドック内の海水が増加し徐々に海水面の近づくと下部タンクの浮力で浮き上がりだしますが上部タンクに海水があるためゆっくりとせり上がりだします。上がるに連れて上部タンクの海水も徐々に出て、浮きます。
ドライと言いますが結構ウエットですので、大きな排水ポンプとほぼ常時動いているドレンポンプが備わっています。
写真でも分かるように盤木はコンクリートのブロックの上に船体を傷めないように木が上に載っています。
異動にも楽であり、浮き上がらせないためでもあります。
面白くない話ですが昔からの知恵を紹介させて頂きました。記憶を手繰りだす自分の頭の体操にもさせて頂きました。
返信する
やっちまった (お節介船屋)
2014-12-20 09:16:00
エリス中尉に褒められて、その気になって記述したらまたまた間違い。やはり老人ボケかも。
ドックサイドにあるT字型の金物、写真を良く見ると結構の数があり、どうも今は余り実施しない船の転倒防止用のサイドショアーと呼ばれる横からの突っ張り棒を保持するロープを取り付ける金具のようです。
ボラードはホーサを巻き付ける円柱で写真にも所々に写ってます。
梯子の回りの囲いは転落防止用です。手が離れても体がこの囲いに当たり落下させるのを防ぐ役目です。足が外れたらだめかも。
不謹慎ですが工員、船員が入渠中渠底に落下、死亡となる事が時々あります。十分な安全策が必要です。
ついでに入渠でも軍艦と商船は違い、軍艦は手間がかかります。
船底に付加物があったり(ソーナーは盤木が当たらないようにするだけで足りないので渠底を掘っておく事もある)、高速力のため細長く、船底の後部末端にスケグと呼ばれる部材で入渠時の重量を保持するのですが軍艦はスケグから船尾が後方に長く垂れるのを防ぐためダイバーが渠底から突っ張り棒を立てたりする必要があります。
入渠中のドックを見せないのは4号、5号ドックにUSNの駆逐艦か、フリゲートが入渠していたのではないですか。
ソーナードームとかスクリューとか水線下を専門家が見ると性能が分かってしまうからですが、時々「世界の艦船」等雑誌に入渠中の写真が出ていますが?
脱線しますが船は細長くすると同じ馬力でも早くなります。戦艦「金剛」クラスも改造の時艦尾を相当長くしていますね。
戦艦「大和」はたらいに艦首と艦尾を付けたと表現されますがそれほど幅広な船型です。速力より装甲板の
量、重量、被害極限等を勘案してあの設計になったのですが。
排水量型と呼ばれる船は速力を上げようとすると2次曲線で馬力は高馬力が必要です。
モーターボートのような滑走型船、水中翼船とかSESと呼ばれる海面効果型船が高速船として考えれましたが波及はしませんでした。
特にSESと呼ばれた船は小型の実験船の実証試験後、小笠原航路用に三井造船玉野で政府の援助を得て、「ニューおがさわら」が建造されましたが、小笠原海運が引き取りを拒否し、裁判になりました。
ガスタービン機関で燃費が高く採算に合わないとの理由でした。その船も1回も小笠原航路を走ることなく現在江田島の古沢鋼材でスクラップ解体中と思います。
脱線が酷くなりました。済みません。
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ドック入り作業 (エリス中尉)
2014-12-20 12:20:43
あんな小さなところに操舵だけで船を入れるのはさぞかし困難な作業だとは思っていましたが、
やはりタグボートなども出動するのですね。
そして曲がった手すりはやはり艦体が当たった跡だったとは、予想していながら吃驚です。

このやり方はおそらく慶応三年の昔から同じだったと思うのですが、
たとえば呉のジャパン・マリンユナイテッドの「最新式ドック」などでも同じやり方なのでしょうか。
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入渠中に見せないのは (エリス中尉)
2014-12-20 14:29:19
単に入渠中というからではなく、入渠している船の種類によるのですね。
このときに別エントリで書きましたが、海自の潜水艦は「絶対に写真を撮らないように」
という注意をされました。
潜水艦、しかも浮いている潜水艦の写真を撮ったところで、そうりゅう型かしお型かくらい誰にもわかるものなのに、
何が問題なんだろうと不思議に思ったのですが、こちらも専門家なら見てわかる何かがあるのかも。
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ああ 嬉しい (お節介船屋)
2014-12-20 15:17:49
質問頂きありがとうございます。
JMU呉については余り詳しくないですが、ドックは4号ドックただ1基です。1~3号ドックは埋立られました。
ここで、新造船の底洗いと化粧塗装します。護衛艦等の修繕、検査も実施されます。
ドライドックの項目で書きましたが大きな船は機力で両サイドからワイヤーで引き込みます。当然タグボートは使用します。
護衛艦等はこのドックでは小さいし、ソーナードームのビット(穴)の位置があるところまでタグボートが引っ張ってきて盤木のある位置に固定した後タグボートは出て排水するのではと想像します。
潜水艦は船型自体が摩擦抵抗を減らし、水中航行で渦が出ないよう涙滴型、マッコウクジラ型、葉巻型のようになっており、全体が分かると性能自体が分かりますが水上に出ている部分は隠しようがないので写真は撮られます。
また艦首部分に魚雷発射管、ソーナーがあり、近年はラバードームとなっており見られたくないと思います。
特にスクリューはハイスキュードペラ(刀のように細く曲がっています)又はダクトペラ等となっており、入渠中はカバーをかけています。どこの海軍も見られたくないと思います。
「てつのくじら館」の「あきしお」はその意味から良く観察されたら面白いと思います。近代の潜水艦で水線下が見れる世界唯一ではと思います。
潜水艦は秘匿性に生命をかけておりますので、音を出さない事が命ですが、新聞報道等によればオーストラリアのコリンズクラスはスエーデンのコックムス社の設計、支援を得てオーストラリアで建造したのですが船型がまずく、流体流れで音がする等問題があるとの事です。
そこで「そうりゅう」クラスの技術を要望しているとの報道です。「そうりゅう」クラスに搭載しているスターリングエンジン(AIP)はコッカムス社の開発、川重ライサンス製造ですので、なにか皮肉を感じます。
返信する
呉のドック (エリス中尉)
2014-12-22 18:23:40
今回の呉では、ドックの至近、まさに資材が積み上げられている場所を歩く機会があったんですよ。
またいずれアップしたいと思いますが、ここからどうやって船になるの?状態でした(笑)
ブロック工法とやらで積み木のように部分が置いてあるという感じ。

潜水艦といえば、実は結構な至近距離で「そうりゅう型」の航行を目撃し、
写真に撮りまくりました。
ハイスキュードペラだと思うのですが、スクリューも水上部分はバッチリ見えました。
艦上には乗員が一列に並んでいるという、大変貴重なシーンだったわけですが、
さすがのわたしもこれをインターネットにアップするのはまずいということはわかります。
何も言われていませんがそうですよね?

音といえば、つい最近、海自潜水艦の静謐性についての話で、
「中国海軍の潜水艦はまるで鐘や太鼓を叩きながら潜行しているようなもの」
と中の人が言っていたというのを読みました。
こういうのってポリシーの問題なんでしょうか。
それとも技術の限界?

別のエントリにも書きましたが、てつのくじら館の展示に関してはわたしが先日訪問した
呉地方総監が尽力したということですが、やはりああいう展示方法は海自にとっても冒険で、
かなり各方面とのすり合わせが必要だったようですね。
あんなに堂々と艦体を晒すというのは「自信の表れ」のような気がしますがどうでしょう。
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