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機種決定~日高盛康少佐

2011-10-21 | 海軍人物伝

         

日高盛康少佐海軍大将日高荘之丞の孫にあたります。
日高荘之丞大将は戦功により男爵の爵位を授けられ、兵学校校長を務めたこともありました。
山本権兵衛とは兵学寮の同期。
「坂の上の雲」で中尾彬氏が演じた、といえばお分かりでしょうか。

爵位が生きていた頃の知人である兵学校の後輩などが日高少佐について語ると、
必ず「男爵」と爵位を付けています。
しかし日高家は昭和17年に爵位を返上しています。


この日高少佐の兵学校66期、飛行学生33期は、士官パイロット揺籃の地であった霞ヶ浦航空隊ではなく、
筑波航空隊で教育を受けました。32期が教育中であったためです。
このとき筑波はできたばかりでした。

士官搭乗員が皆口を揃えて言うように、この半年間は日高少佐らにとっても
「大いに青春を謳歌しあった生涯最良のとき」であったそうです。

66期の教官には真珠湾で自爆を遂げた飯田房太大尉がいて、日高少尉らを鍛えました。
「お嬢さん」というあだ名の、温顔の好青年でしたが、内に烈々たる気魄を秘めたリーダーぶりだったということです。
ただし、硬派一本でもなく、日高少佐と同期の藤田怡与蔵少佐などはレス通いを指南された、
と想い出で語っているそうですから、もしかしたら日高少尉もこの飯田大尉の言うところの
「夜間訓練」参加組だったかもしれません。

 

さて、いよいよ卒業の日が間近に迫ってくると、寄ると触ると彼らの話題は「機種決定」
皆、希望や期待を膨らませ、勝手な憶測が乱れ飛びます。

この練習機過程では、全員が一通りの操縦技術を習得するようになっていますが、
ここから先は適性に応じて専門の機種に回されるというわけです。

「血気盛んな若者に偵察は人気がなかった」
と、半ば予測でこのように考えを述べたことがありましたが、
実は日高少尉らにとってはそれどころではなく、
卒業時3分の一が偵察に行かなければいけないというのは
「大問題だった」。
人気がないどころか誰も行きたくなかったということです。

当時シナ事変で、渡洋爆撃など中攻隊の活躍が目覚ましく、
攻撃隊の指揮官にはパイロットよりは偵察が望ましい、という考えが生まれ始めていました。
つまりそれまでは「操縦適性の劣るものが偵察に行く」という傾向にあったのですが、
この辺りから「操縦適性のある者は、偵察適性も優れているはず」という風になってきて、
むしろ優秀なものを偵察に回す、という動きになってきていたのです。


皆戦闘機に行きたがるので
「偵察は操縦が優秀だから行くということにすれば少しは志望が増えるのではないか」
という兵学校がひねり出した苦肉の策のようにも思えます。

だがしかし。

いくら「偵察は優秀」と言われても、花形の戦闘機乗りに憧れるなというのが無理。
当時戦闘機は日進月歩。
その最新鋭のマシンを駆って空で戦う戦闘機乗りに、
ただでさえ積極先取の飛行学生が魅力を感じたとしても、何の不思議もありません。

日高少尉もまた戦闘機を「大熱望」していました。

しかし、狭き門でもあり、そもそも日高少尉の操縦の成績はご本人いわく
「どうひいき目に見ても抜群とは言えなかった」。
因みにこのとき「抜群であった」のが、真珠湾作戦にも参加した先ほどの藤田怡与蔵少尉でした。

そして、日高少尉にとってさらに不吉な予感のすることに、トンツーの成績はトップクラス。
衆目の見るところ「日高は偵察決定」というのが当日までの下馬評でした。
ところが蓋を開けてみればびっくり、日高少尉は戦闘機。
このとき戦闘機に選ばれたのは、原正、山下丈二、藤田怡与蔵、坂井知行の5人です。

戦闘機に決まったものはみな躍りあがって喜んだそうです。

山下丈二少尉は、このあと七五二空の分隊長としてニューギニアで戦死。
坂井知行少尉は先日書いたように66期のクラスヘッドでしたが、
五八二空の分隊長になってわずか一五日後、ラバウルに着いたばかりの空戦で戦死しました。

このクラス30名の内訳は10名偵察、20名が操縦。
20名の操縦の内訳は5名戦闘機、艦爆3名、艦攻6名、中攻5名・・・・
・・・・あれ?

一人足りませんよ。日高少佐。
手記には人数を数えながら一人ずつ名前を書きだしておられるのですが、
どうも一人、どうしても名前の出てこなかったクラスメートがいたようです。

このときの日高少佐の感慨。
操縦と発表されたものは戦闘機でなくて希望と違ったとしても、まあ一様にほっと胸をなでおろしたが、
偵察と発表された中の一部の人たちは一大ショックであったに違いない。

うーん、そんなにイヤなものなんですか、偵察。
まあ、後ろに座っているだけだからねえ。
責任感の重さのわりにつまらないといえばつまらないかもしれません。

というか、飛行機に乗るのならやはり自分で操縦したいですよね。
わたしだって、いまだに人の運転で助手席に乗るのは苦手で、ってそういう話ではないか。



さて、めでたく専攻も決まり、大分に向かうわけですが、
この戦闘機の5人は揃って卒業を迎えることはできませんでした。

原正少尉は射撃訓練に複葉の95戦で飛び立ったのですが、
機首をあげた刹那両翼が吹き飛んで、海に一直線に突っ込んでしまったのです。
この殉職については藤田怡与蔵氏もその手記に書き残しています。

原少尉は一週間見つからず、やっと見つかった無残な遺体は、
ばらばらになった手足胴体を包帯で固定して納棺しなければなりませんでした。
他の航空隊でも訓練中の事故、殉職は日常茶飯事と言っていいほど多かったそうです。

兵学校の飛行訓練の時にプロペラの前で屈んで身体を起こしたとたん頭を切られた、
という生徒さんの話を読んだことがありますが、これなどは本人の注意力欠如でとしか言いようがなく、
こんな事故で息子を失った家族はいたたまれない思いをしたのではないでしょうか。

菅野大尉が少尉時代に飛行機の脚を回されてひっくり返ったとき、皆真っ先に
「ああ、海軍葬だ、午後の上陸は中止になった」
と思った、というのも、菅野大尉が特に嫌われていたわけでも、皆が特に冷たかったわけでもなく、
おそらく「みんなそういった事故に慣れていた」ということだったのかもしれません。


しかし、日高少尉や藤田少尉にとっては修羅場の経験の全くないころの出来事であったわけで、
そのショックはひとかたならぬものだった、ということです。

「原が生きていたら基地部隊を希望していただろう・・・・・」
配属先が決まった喜びも、このような悲しさのまつわるものとなってしまった日高少尉ら33期飛行学生でした。

この原少尉は神戸出身の都会的なモダンボーイで、やはり東京出身の日高少佐とは
同じ都会派シティボーイズを自認する、気心の知れた者同士だったのでしょう。
兵学校の休暇時、神戸を案内してもらったのが戦後も少佐にとって楽しい想い出になったそうです。

実は、原少尉が事故を起こした飛行機は直前まで日高少尉が操縦していました。
日高少尉が事故で死ななかったのは全くの奇跡的な偶然の産物ともいえるでしょう。

事故の回避や出撃の中止など、いくつもの小さな奇跡が起こり、それゆえ終戦までを生き抜き、
さらに戦後の昭和平成の世を生きて天寿を全うしたと言っても差し支えない日高少佐と、
同じ機に時間差で乗っていたがゆえに若い命を事故で散らした原少尉。

いったいどんな運命の女神の気まぐれな采配が起こったのか。
その人生の最後の瞬間まで、仲の良かった原少尉と自分の彼我を分け隔てたものが何であったのか、
その問いが日高少佐の頭から離れることはなかったのではないでしょうか。




ところで、藤田怡与蔵少佐ですが、機種決定についてはあまり感慨もなかったもののようで、
一言もそれについては触れておられません。
日高少佐のように、熱望していたけれど行けるかどうか全く自信が無かった飛行学生ほど、
戦後もその感慨がありありと思い出せるくらいに喜びもひとしおだったのかもしれません。