ある日、うちにきた企画旅行のダイレクトメールのなかに
こんな商品を見つけました。
横須賀「防衛大学校」校内見学!
自衛隊としてはもっとも古い駐屯地「久里浜駐屯地」
見れば、豪華バスで現地まで行って、軽食と車中お茶付き、
案内は専門スタッフ(つまり自衛官ってことなんですが)、
ちゃんとしたレストランでの食事もコースに含まれるという内容。
防衛大学校の校内見学ツァーというのは、先日のガイドツァーなど、
積極的に横須賀を軍港の町として観光を誘致しようとしている
横須賀市などの後押しもあって結構な頻度で組まれていますし、
久里浜駐屯地も基地公開が定期的にあるのはは知っていましたが、
あえてこれに申し込んだのは、企画が老舗デパートの旅行だったからです。
ということは参加するメンバーというのは日頃このデパートの
外商やお◯場クラブを利用している人たちということになります。
こういう人たちで防大や基地見学にわざわざやってくるのってどういう人たち?
ツァーの内容よりそちらに激しく興味を惹かれたわたしは、
生まれて初めてこの手の「上げ膳下げ膳旅行」に申し込んでみました。
もちろんここで皆さんにその体験をお話しするために。
そもそも、そんな顧客層からツァーが成立するほど申し込みがあるのか?
という気もしましたが、事前に予定通り行われるとの返事が電話であり、
当日待ち合わせ場所のデパート前に行ってみると、参加者は全部で14名。
そして、たった14名のために、こんな豪華なバスが用意されておりますた。
その名もグランドクルーザーという深いグリーンのオーセンティックなバス、
とにかく中はシートピッチが広く、加えて参加人数が少ないこともあって
座席は一人が二席ゆったりと荷物を置いて座ることができます。
窓ガラスは遮光のため外からは全く乗っている人の顔が見えませんが、
中から外はよく見えて、街中では信号待ちの人などが
この只者でないバスの外装に興味津々でバスを見送る様子が確認できました。
同行者の話によると、もっと豪華で、この同じ大きさで10人しか乗れないバス、
なんていうのもこの会社には存在するそうでございます。
中にお座敷でもあるのかしら。
さすがはゴージャス系ツァー、要所要所で飲み物や軽食は出てくる、
添乗員もバスガイドも運転手も三つ指付かんばかりの丁寧な物腰、
バスは走行も滑らかでシートはピッチが広く足台付きのグリーン車仕様。
日頃「今日は三越明日は帝劇」な方々を相手にしてるだけのことはあります。
そして参加者の年齢層ですが、前回の横須賀歴史ウォークが平均年齢
65くらいとすれば、今回は間違いなく70歳。
男性陣はまるで同窓会のように皆が70歳台で、
「海軍兵学校の従兄弟の制服姿に憧れました」とか、
「父は終戦時陸軍で少佐でした」という方もおられました。
やはり軍事に興味があり、年齢が年齢であれば自衛隊のイベントにも参加するけど、
それが最近しんどくなってきたので、こういう手取り足取りやってくれる旅行に
参加している人が多いのかな、と言った印象です。
しかし、14人のうち夫婦参加はたった二人。
あとの12人はわたしも含め全員が単独参加でした。
東京のデパート前から一回の休憩を挟んで、久里浜駐屯地に着いたのは
10時少し前といったところだったでしょうか。
久里浜駐屯地は昭和14年創立の海軍通信学校のあったあとにあります。
戦後、昭和25年に警察予備隊が発足した時、同じ場所に駐屯地が創設されました。
昭和28年、ここに防衛大学校の前身である保安大学校が開校され、
第1期生はここに入学しています。
なお、その後昭和30年、防衛大学校は小原台に移転しました。
なおこのときにここにあった衛生学校も三宿に移駐させ、
ここは海軍時代と同じ通信学校と、中央野外通信群、通信教育直接支援中隊など
通信関係の部隊がまとまって配置されています。
バスは門の中まで入っていき、そこには案内してくれる広報の曹長が待っていました。
平日の昼間なのでこれも業務なのだと思いますが、隊員が二人、
ウェットスーツを着てカヤック?を担いで歩いて行きます。
久里浜はすぐ近くですが、そこで訓練があったのでしょうか。
海軍通信学校跡の碑。
海軍通信学校は最初横須賀の水雷学校内にあったのですが、
昭和14年にここ久里浜に移転させました。
なぜ最初水雷学校の中にあったかというと、当時は無線技術そのものが
最新兵器とされていたので、同じ最新兵器であった水雷と同じ扱いだったのです。
ちなみにその跡は先日見学した第二術科学校となっています。
移転したのは将来を見据えたリスク分散のためでしょうか。
ちなみに、ここにある建物は昭和14年に建てたもので、今でも使用されています。
久里浜基地は空襲にはほとんど遭っていません。
案内してくれたのはご覧の広報担当の女性陸曹長でした。
参加者のおじいちゃまが
「曹長っていったら旧軍の上等兵でしょ?いやたいしたもんだ」
そこで彼女、
「もうわたし51ですからあと3年で退官なんですよ」
というと皆が、退官したらあとはどうするのか、就職はあるのか、
口々に心配していたのがなんかおかしかったです。
なぜここに碑があるのかというと、昔碑の後ろのこの部分に
「通信神社」の祠があったからなんだそうです。
これが当時の通信神社。
後ろの通信学校校舎には中央に国旗、両翼に海軍旗が掲げられていたのがわかります。
例によってここに進駐軍の駐留があったので、その間に破壊されてはと
同じ久里浜の浄土宗長安寺に遷座して現在もそこにあるということでした。
碑の前にある二つの錨は、通信学校の卒業生の寄贈によるものです。
これはどこかの部隊が駐屯した記念だそうですが、よくわかりません。
昭和52年と非常に新しいものです。
昭和14年の建築とは思えない庁舎。
できた当時、久里浜の通信学校はその広さとともに
これらの白亜の校舎を備えた東洋一の近代的な軍学校と言われていたそうです。
校舎の前にはこのような跡があり、防空壕かと思ったら地下道の入り口でした。
戦後一度掘り起こして危険物が埋まっていないか調べたそうです。
正面の時計の下、二階の部屋の窓枠の色だけが違いますが、
昔はこの全てがこれと同じ木の桟でありました。
ここにはこれから見学する貴賓室があり、ここは内装を変えられない関係で
窓枠の色がここだけ違うのです。
入ったすぐのエントランス右側に、昔ここで来訪者の
受付などを行ったのであろう木の小さな窓がありました。
今は全く使われていないようです。
海軍時代、この向こう側の部屋は副直将校室、反対側が当直将校室でした。
こういう階段の造りで思い出すのは呉の地方総監庁舎、
習志野駐屯地にある今は空挺館という資料展示室になっている建物、
そして台湾で見た228事件の惨劇の舞台となった市庁舎などでしょうか。
当時の日本の官公庁などはほとんどこの形式の階段です。
専門的なことはわかりませんが、エントランスの左右対称性を尊重すると
踊り場で二手に分かれるこの方式になるのでしょう。
階段の上に上がって踊り場を見たところ。
こういうデザイン重視の配置は戦後の公共の建物にはほとんど見ることはありません。
海軍時代から毎朝規則正しく行われてきたのであろう掃除のモップ跡は、
それ自体が模様となってもう床に定着しています。
エントランスから見た左側。
「情報通信班」という部屋が見えます。
こちらの床は大理石ではないようで、経年の使用によって
床がところどころ剥げてきてしまっています。
昭和14年の海軍通信学校から米軍の進駐、警備隊発足以降自衛隊と
78年間絶えることなく使用された今日の姿です。
今右側にあるのは昔事務室で、廊下の左には主計長室、士官学生食堂、
士官学生室などがありました。
この建物内には、昔皇族の方々が来訪されたとき専用の応接室があります。
ごく一部を除いて、昔のまま保存されているのだそうです。
中が透けて見えないような模様ガラス、ドアの上の通風窓などに時代を感じます。
入って部屋の右手に両開き式の扉がありました。
扉の前にはカーテンと大変凝った作りです。
ここにはかつて緑のフェルト部分に御真影が飾られていました。
飾り彫りの真ん中には菊の御紋が施されていましたが、
進駐軍の接収時代にそこだけが削り取られています。
実は天井の桟にも菊があしらわれているのですが、
さすがのGHQもこれらを全部削らせるのは大人気ないと考えたのか、
目につかないから構わないと考えたのか、削除を免れました。
徹底的にそれを排除するのであれば、そもそもこの手織りの壁布は
どうも菊をかたどっているようなのでこれもはがさねばなりません。
アメリカ人が、当時の日本の織物技術の粋でもある高価な布まで引っぺがすような
執念深い性質を持っている民族でなくてよかったとおもいました。
室内で目を引く大きな写真は、ペリー艦隊の旗艦となった「サスケハナ号」が
日本来航を終え、日本の鎖国を破るという「戦功」を立てて帰ってきた直後、
アメリカの軍港に停泊しているところを撮ったものです。
もちろんこの写真は戦後寄贈されたものであり、御真影のあるこの貴賓室には
海軍基地時代には人が入ることもできませんでした。(掃除する人除く)
今では普通に応接室として使われているようです。
内装は全て当時のままでしたが、近附いて確認すると、窓枠だけは取り替えられていました。
内装の色に合わせてあるものの、素材的にあまり上質なものではありませんでした。
戦後になって応接室に来訪した人々の写真が飾ってあります。
一番上の左、桂小金治と関千恵子が自衛隊員のような格好をしていますが
映画のロケに使われたのでしょうか。
米軍の将校が訪れた時も、御真影の部分は扉を閉めてあります。
倍賞美津子さんは基地訪問の企画か何かのようです。
そして右写真の「小泉防衛庁長官」とはあの、小泉元首相のパパであり
小泉兄弟のグランパである小泉純也ですね。
重厚なシャンデリアも当時のままのもの。
特に文化財とかの指定もされていないので、自衛隊の施設として
普通に使われ普通に補修しながら今日までこの姿を保ってきたのはすごい。
「映画のロケなどに使われたりしないんですか」
と広報の方に伺うと、それは聞いたことがないということでした。
こういう感じ、戦争映画に使えそうだけどな。
これは二階の廊下で、赤絨毯が敷かれているのは、昔、この階には
貴賓室を挟んで校長室、教頭室があり、教官控え室や副官の待機室があったからです。
この反対側の廊下には士官の寝室もあり、ここで寝起きしていたようです。
昔「士官学生室」であったところの廊下に切り出された小窓が。
なんとこれ、電報の受付窓口なんですね。
今時メールという一瞬にして通信可能な手段があるのに電報?
と訝しく思ってしまうのですが・・・。
「お願い」のあとは、
秘密区分『秘』以上の電報受領に際しては身分証明書の提示
及び配布簿に所属氏名等を署名押印のうえ受領されたい
通信所長
とあります。
電子メールはハッキングの恐れがあるのでいまだに重要文書は
電報でやりとりすることもあるってことなんでしょうか。
このあと一同は外に出てまたしても構内の碑を見学。
昭和26年の「第6連隊第3大隊」駐屯記念。
大隊が駐屯したくらいでなぜ石碑などを建てるんでしょうか。
甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
予科練はご存知のように霞ヶ浦で訓練を行っていましたが、
電信術を取得するためにはここに出張してきていたということらしいです。
ちなみに後で見学した資料館にあった、記念碑建立記念の玉。
100と書かれているのは現在女子隊員の隊舎となっている棟。
この建物だけ7階建と高層なので、エレベーターが設置されています。
基本自衛隊の建物(宿舎)は5階以上でないとエレベーターはありません。
基本4階までは歩いて登るのが自衛隊。
ちなみに女子寮として作ったこの建物ですが、女子隊員がそれほどいないため、
2階までは男性隊員の居住区があり、男性がエレベーターに乗ることは絶対禁止です。
こちら男性隊員の居住棟。
基地に隣接した官舎もあります。
参加者がこのポスターを見て久里浜駐屯地が敷地を
地元の町内会と合同で行う体育祭に開放しているのに驚いていました。
この基地にかかわらず、自衛隊の駐屯地や基地というのは広報を兼ねた
地元民との交流を大変大事にしています。
横須賀基地を開放して大々的に行われたあの伝説のカレーグランプリもその一つ。
余談ですが、あのカレーグランプリの混乱は、さすがの海上自衛隊も
予想をはるかに上回るものであったらしく、もうカレーはとっくに無くなっているのに
そのとき基地から並ぶ列は横須賀中央駅まで伸びていたという事態にまでなり、
それに懲りたのか、それとも地元警察から自衛隊に指導が入ったのか、
横須賀地方総監部では今後一切カレーグランプリは行わないこととなりました。(噂です)
その後行われるカレーグランプリは、自衛隊が出品するものではなく、地元の
海軍カレーなどを出している会社の出品というものばかりです。
もしあれが最初で最後の艦艇カレーを食べ比べできる機会であったのなら、
それに参加できた人は大変ラッキーであったということになります。
わたしは並ぶのが面倒というだけの理由で結局カレーを食べないという、
後から考えるととんでもなく勿体無いことをしてしまいました。
久里浜基地の横には、すぐ近くの久里浜に続く平作川が流れています。
砂利や土石を積む船などが係留されていました。
老舗デパート旅行ツァーで行く自衛隊基地見学、続きます。
>昭和28年、ここに防衛大学校の前身である保安大学校が開校され、第1期生はここで卒業しています。
昭和30年に走水に移転しているので卒業ではなく入校ですね。
>「曹長っていったら旧軍の上等兵でしょ?いやたいしたもんだ」
上等兵曹と言ったんだと思いますが、上等兵(士長相当)と言ったならその人の間違いでしょう。
>これはどこかの部隊が駐屯した記念だそうですが、よくわかりません。
昭和52年と非常に新しいものです。
北鎮移駐記念 通信標定隊 とあります。
通信標定隊(後の第1電子隊)が東千歳駐屯地に移駐した記念ですね。
>昭和26年の「第6連隊第3大隊」駐屯記念。
大隊が駐屯したくらいでなぜ石碑などを建てるんでしょうか。
石碑を何故建てたか正確には知る由もありませんが、この頃部隊の改編や移駐が頻繁に
行われていたようですから(もともと第6連隊は大隊ごとに分散しており第3大隊は昭和28年に旭川へ移駐)
足跡を残したかったのではないかと思いますが如何でしょう?
防大1期は入校でしたね。記憶だけで書いてしまいました。訂正します。
たしかに「上等兵」とおっしゃってましたね。
年齢は70過ぎの方でしたが、旧軍の階級は正確に知らなかったのかもしれません。
それを横でぼーっと何も気づかず聞いていた人もここに約一人いますが。
>この頃部隊の改編や移駐が頻繁に行われていたようですから
そういう時期だったんですね。
何年もいたわけでもないのにわざわざ石碑を残すというのがよくわからなかったのですが、
彼らにとってはおっしゃるように「足跡を残したかった」ということなんでしょうね。
わたしたちには与り知らぬ思い入れがあったに違いありません。