
自衛隊の観閲式について
「管総理が意外と神妙な顔をしていたので少しは防人の気概に感銘してくれたのか」
などと書いたことを、舌を咬みちぎりたいくらい(キーボードをたたき壊したいくらい?)後悔しているエリス中尉です。
民主議員の秋篠宮ご夫妻へ不敬事件、ご存知ですか?
もう次から次へとゴミのような人間が議員を名乗っていることが明らかに。
あいつら、やっぱりダメだ・・・・。
時局を憂うのはまた別の機会にして、今日はそのときに気になった
「陸軍分列行進曲」
について調べたことをお伝えします。
冒頭画像は昭和19年10月の雨の神宮球場、学徒動員出陣式における東京帝国大学の学生。
聡明そうな切れ長の眼が印象的なこの学生は、あの戦争を生き抜けたのでしょうか。
このニュースフィルムのバックで常に鳴っている
「陸軍分列行進曲」。
その学徒動員の悲壮さとあいまって、非情に印象深い曲でした。
しかし、最近になってようやく自衛隊の映像などをインターネットで見る機会を得たとき、この曲が陸自の行進にはいまだに使われているということにむしろ驚きを感じました。
「行進曲 軍艦」が海自のために演奏され続けていることと並んで、音楽までは戦後の軍的なものに対する糾弾の対象にならなかったのですね。
日本人の良識に感謝します。
全くこの曲について知識のない段階で聴くと、この哀愁を帯びた短調のメロディは純国産のように思えます。
ところが、調べてびっくり、この曲は、明治新体制になって軍が喇叭を始めとする儀礼音楽演奏の必要性から招聘した「お雇い外国人」のうちの一人、フランス人のシャルル・ルルーが作曲したものなのです。

陸軍分列行進曲は「抜刀隊」「扶桑歌」などと呼ぶ人がいます。
このどちらもが取り入れられているためです。
ルルーはこの行進曲を作ったとき、すでに作曲してあった
「扶桑歌」をイントロのように使い、コーラス部分にあたるところで
「抜刀隊」と呼ばれる、どちらも日本に来てからルルーが日本で採取した民間の歌謡旋律をもとに作ったものをトリオのように使用しています。
フランスで出版された「扶桑歌」の表紙を上にあげましたが、これにはフランス語で
「日本国天皇陛下に捧ぐ 扶桑歌 日本の行進曲 ピアノ用
フランス軍軍楽長シャルル・ルルー作、
1885年11月9日、東京の宮城において陸軍教導団軍楽隊により初演」
と書かれています。
シャルル・エドアール・ガブリエル・ルルーは前述のように陸軍のお雇い音楽家でしたが、来日した一三名の中では最も本国(フランス)で音楽家として名声を得ていた人でした。
コンセルバトアール出で基礎は完璧なルルー。
着任早々軍の音楽関係者に試験をし、144名全員に「不合格」を言い渡します。
さらに、半分を「不適格」としてクビにし、残りにソルフェージュ(楽譜視唱)楽典の基礎からやり直しをさせるなど、当時日本の西洋音楽の底上げともいえる貢献をしたわけで、我が国における西洋音楽演奏の母とでも言うべき人物です。
さて、扶桑、とは「中国から見た日本」という意味で、瑞穂、大和と同じく日本の別名です。
その扶桑歌の譜面です。
画像が小さいので分かりにくいですが、譜面が読める方は上三段までの部分が
「陸軍分列行進曲」と同じで、下半分は別の曲であることにお気づきでしょう。
この扶桑歌部分に続く「コーラス(トリオ)部分」が
「抜刀隊」と言われる歌です。
時の東京帝国大学教授であった作詞者が、「抜刀隊の歌」として『新体詩抄』に発表した詩にルルーが作曲をしました。
扶桑歌のイントロ部分はB♭m
一、
A (Cm) 吾は官軍我が敵は
天地容れざる朝敵ぞ
A´ 敵の大将たる者は
古今無双の英雄で
B これに従うつわものは
共に慄悍(ひょうかん)決死の士
B´ 鬼神に恥じぬ勇あるも
天の許さぬ反逆を
C(E♭М) 起こせし者は昔より
栄えしためし有らざるぞ
※
D (FМ) 敵の亡ぶるそれ迄は
進めや進め諸共に
D´ 玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
死する覚悟で進むべし
二番以降は長いので稿の最後に掲げました。
同じ音型の繰り返しはダッシュで示しています。
mはマイナー、Mはメジャーです。
ご存知の方は歌ってみてください。
歌詞の内容は、何とも日本的というか、読んでいただけばわかりますが、「天地容れざる朝敵」と言いながらも相手を褒め称えているのです。
しかし、四番にはラ・マルセイエーズそっくりの歌詞
(相手の流す血で我が畔を潤す、というもの)が見られます。
ルルーも「愛国的な曲」を目的にしたとき「ラ・マルセイエーズのような曲」をイメージしたようです。
東洋的な短調から始まる抜刀隊は歌詞による5行目から短三度上の長調に転調し、(「起こせし者は」から)もう一度元のハ短調に戻ってから後半のヘ長調(「敵の亡ぶるそれまでは」の部分)に進みます。
この辺りの転調が当時の日本人にはないセンスでしょう。
抜刀隊の歌は鹿鳴館で初演され、有名になり、愛唱されましたが、西洋的な音階に慣れていない当時の庶民にはこの転調の変化が難しすぎて唄えなかったということです。
歌詞は、西南戦争の時の巡査隊の活躍を描いたもので、いくつか別に作曲もされたようですが、このルルーの曲が、歌いにくさにもかかわらず独り歩きするかのように膾炙しました。
そのヒットの下地には、英雄西郷隆盛の国民的な人気がもちろんあったのですが、ルルー自身が教育し、ソルフェージュで鍛えた教導団軍楽隊員の歌唱力、さらにパワフルな軍楽隊の伴奏がその人気を盛り上げたことは言うまでもありません。
さて、そこで、不思議なことが一つあります。
エリス中尉がこの曲の作曲者が日本人だと思い込んでいたのは、学徒動員壮行式のような国家の大事に使用されていたこの曲がまさかフランス人の手によるものだと想像がつかなかったせいもあります。
大東亜戦争勃発後、全ての欧米的なもの、敵性言語を廃止するというヒステリックな措置を取った陸軍が、この曲を廃止しませんでした。
ルルー自身はその曲調を「トルコ軍楽曲」のイメージに求めたと言われており、フランス人にとっては「エキゾチックな東洋のメロディ」であったこの曲は、日本人から見るとその感性にピタリとはまる名曲であったがゆえに、陸軍はこの曲を使い続けました。
戦時中、その作曲者名は伏せられていたそうです。
二、
皇国(みくに)の風(ふう)ともののふは
その身を護る魂の
維新このかた廃れたる
日本刀(やまとがたな)の今更に
また世に出ずる身のほまれ
敵も味方も諸共に
刃(やいば)の下に死ぬべきぞ
大和魂あるものの
死すべき時は今なるぞ
人に後(おく)れて恥かくな
※再唱
三、
前を望めば剣なり
右も左もみな剣
剣の山に登らんは
未来のことと聞きつるに
この世において目(ま)のあたり
剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業(ざいごう)を
滅ぼすために非(あら)ずして
賊を征伐するがため
剣の山もなんのその
※再唱
四、剣の光ひらめくは
雲間に見ゆる稲妻か
四方(よも)に打ち出す砲声は
天にとどろく雷(いかずち)か
敵の刃に伏す者や
弾に砕けて玉の緒の
絶えて果敢(はか)なく失(う)する身の
屍(かばね)は積みて山をなし
その血は流れて川をなす
死地に入るのも君のため
※再唱
五、
弾丸雨飛(うひ)の間にも
二つなき身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に
吹かれて消ゆる白露の
果敢(はか)なき最期を遂ぐるとも
忠義のために死する身の
死して甲斐あるものなれば
死ぬるも更にうらみなし
われと思わん人たちは
一歩もあとへ引くなかれ
※再唱
六、
吾今ここに死なん身は
国のためなり君のため
捨つべきものは命なり
たとえ屍は朽ちるとも
忠義のために死する身の
名は芳しく後の世に
永く伝えて残るらん
武士と生まれし甲斐もなく
義のなき犬と言わるるな
卑怯者とな謗(そし)られそ
※再唱
参考:戦争歌が映し出す近代 堀雅昭 葦書房
洋楽導入者の奇跡 日本近代洋楽史序説 中村理平 刀水書房
堀内敬三 音楽五十年史 講談社・講談社学術文庫
画像 ウィキペディア フリー辞書
「管総理が意外と神妙な顔をしていたので少しは防人の気概に感銘してくれたのか」
などと書いたことを、舌を咬みちぎりたいくらい(キーボードをたたき壊したいくらい?)後悔しているエリス中尉です。
民主議員の秋篠宮ご夫妻へ不敬事件、ご存知ですか?
もう次から次へとゴミのような人間が議員を名乗っていることが明らかに。
あいつら、やっぱりダメだ・・・・。
時局を憂うのはまた別の機会にして、今日はそのときに気になった
「陸軍分列行進曲」
について調べたことをお伝えします。
冒頭画像は昭和19年10月の雨の神宮球場、学徒動員出陣式における東京帝国大学の学生。
聡明そうな切れ長の眼が印象的なこの学生は、あの戦争を生き抜けたのでしょうか。
このニュースフィルムのバックで常に鳴っている
「陸軍分列行進曲」。
その学徒動員の悲壮さとあいまって、非情に印象深い曲でした。
しかし、最近になってようやく自衛隊の映像などをインターネットで見る機会を得たとき、この曲が陸自の行進にはいまだに使われているということにむしろ驚きを感じました。
「行進曲 軍艦」が海自のために演奏され続けていることと並んで、音楽までは戦後の軍的なものに対する糾弾の対象にならなかったのですね。
日本人の良識に感謝します。
全くこの曲について知識のない段階で聴くと、この哀愁を帯びた短調のメロディは純国産のように思えます。
ところが、調べてびっくり、この曲は、明治新体制になって軍が喇叭を始めとする儀礼音楽演奏の必要性から招聘した「お雇い外国人」のうちの一人、フランス人のシャルル・ルルーが作曲したものなのです。

陸軍分列行進曲は「抜刀隊」「扶桑歌」などと呼ぶ人がいます。
このどちらもが取り入れられているためです。
ルルーはこの行進曲を作ったとき、すでに作曲してあった
「扶桑歌」をイントロのように使い、コーラス部分にあたるところで
「抜刀隊」と呼ばれる、どちらも日本に来てからルルーが日本で採取した民間の歌謡旋律をもとに作ったものをトリオのように使用しています。
フランスで出版された「扶桑歌」の表紙を上にあげましたが、これにはフランス語で
「日本国天皇陛下に捧ぐ 扶桑歌 日本の行進曲 ピアノ用
フランス軍軍楽長シャルル・ルルー作、
1885年11月9日、東京の宮城において陸軍教導団軍楽隊により初演」
と書かれています。
シャルル・エドアール・ガブリエル・ルルーは前述のように陸軍のお雇い音楽家でしたが、来日した一三名の中では最も本国(フランス)で音楽家として名声を得ていた人でした。
コンセルバトアール出で基礎は完璧なルルー。
着任早々軍の音楽関係者に試験をし、144名全員に「不合格」を言い渡します。
さらに、半分を「不適格」としてクビにし、残りにソルフェージュ(楽譜視唱)楽典の基礎からやり直しをさせるなど、当時日本の西洋音楽の底上げともいえる貢献をしたわけで、我が国における西洋音楽演奏の母とでも言うべき人物です。
さて、扶桑、とは「中国から見た日本」という意味で、瑞穂、大和と同じく日本の別名です。

その扶桑歌の譜面です。
画像が小さいので分かりにくいですが、譜面が読める方は上三段までの部分が
「陸軍分列行進曲」と同じで、下半分は別の曲であることにお気づきでしょう。
この扶桑歌部分に続く「コーラス(トリオ)部分」が
「抜刀隊」と言われる歌です。
時の東京帝国大学教授であった作詞者が、「抜刀隊の歌」として『新体詩抄』に発表した詩にルルーが作曲をしました。
扶桑歌のイントロ部分はB♭m
一、
A (Cm) 吾は官軍我が敵は
天地容れざる朝敵ぞ
A´ 敵の大将たる者は
古今無双の英雄で
B これに従うつわものは
共に慄悍(ひょうかん)決死の士
B´ 鬼神に恥じぬ勇あるも
天の許さぬ反逆を
C(E♭М) 起こせし者は昔より
栄えしためし有らざるぞ
※
D (FМ) 敵の亡ぶるそれ迄は
進めや進め諸共に
D´ 玉散る剣(つるぎ)抜きつれて
死する覚悟で進むべし
二番以降は長いので稿の最後に掲げました。
同じ音型の繰り返しはダッシュで示しています。
mはマイナー、Mはメジャーです。
ご存知の方は歌ってみてください。
歌詞の内容は、何とも日本的というか、読んでいただけばわかりますが、「天地容れざる朝敵」と言いながらも相手を褒め称えているのです。
しかし、四番にはラ・マルセイエーズそっくりの歌詞
(相手の流す血で我が畔を潤す、というもの)が見られます。
ルルーも「愛国的な曲」を目的にしたとき「ラ・マルセイエーズのような曲」をイメージしたようです。
東洋的な短調から始まる抜刀隊は歌詞による5行目から短三度上の長調に転調し、(「起こせし者は」から)もう一度元のハ短調に戻ってから後半のヘ長調(「敵の亡ぶるそれまでは」の部分)に進みます。
この辺りの転調が当時の日本人にはないセンスでしょう。
抜刀隊の歌は鹿鳴館で初演され、有名になり、愛唱されましたが、西洋的な音階に慣れていない当時の庶民にはこの転調の変化が難しすぎて唄えなかったということです。
歌詞は、西南戦争の時の巡査隊の活躍を描いたもので、いくつか別に作曲もされたようですが、このルルーの曲が、歌いにくさにもかかわらず独り歩きするかのように膾炙しました。
そのヒットの下地には、英雄西郷隆盛の国民的な人気がもちろんあったのですが、ルルー自身が教育し、ソルフェージュで鍛えた教導団軍楽隊員の歌唱力、さらにパワフルな軍楽隊の伴奏がその人気を盛り上げたことは言うまでもありません。
さて、そこで、不思議なことが一つあります。
エリス中尉がこの曲の作曲者が日本人だと思い込んでいたのは、学徒動員壮行式のような国家の大事に使用されていたこの曲がまさかフランス人の手によるものだと想像がつかなかったせいもあります。
大東亜戦争勃発後、全ての欧米的なもの、敵性言語を廃止するというヒステリックな措置を取った陸軍が、この曲を廃止しませんでした。
ルルー自身はその曲調を「トルコ軍楽曲」のイメージに求めたと言われており、フランス人にとっては「エキゾチックな東洋のメロディ」であったこの曲は、日本人から見るとその感性にピタリとはまる名曲であったがゆえに、陸軍はこの曲を使い続けました。
戦時中、その作曲者名は伏せられていたそうです。
二、
皇国(みくに)の風(ふう)ともののふは
その身を護る魂の
維新このかた廃れたる
日本刀(やまとがたな)の今更に
また世に出ずる身のほまれ
敵も味方も諸共に
刃(やいば)の下に死ぬべきぞ
大和魂あるものの
死すべき時は今なるぞ
人に後(おく)れて恥かくな
※再唱
三、
前を望めば剣なり
右も左もみな剣
剣の山に登らんは
未来のことと聞きつるに
この世において目(ま)のあたり
剣の山に登らんは
我が身のなせる罪業(ざいごう)を
滅ぼすために非(あら)ずして
賊を征伐するがため
剣の山もなんのその
※再唱
四、剣の光ひらめくは
雲間に見ゆる稲妻か
四方(よも)に打ち出す砲声は
天にとどろく雷(いかずち)か
敵の刃に伏す者や
弾に砕けて玉の緒の
絶えて果敢(はか)なく失(う)する身の
屍(かばね)は積みて山をなし
その血は流れて川をなす
死地に入るのも君のため
※再唱
五、
弾丸雨飛(うひ)の間にも
二つなき身を惜しまずに
進む我が身は野嵐に
吹かれて消ゆる白露の
果敢(はか)なき最期を遂ぐるとも
忠義のために死する身の
死して甲斐あるものなれば
死ぬるも更にうらみなし
われと思わん人たちは
一歩もあとへ引くなかれ
※再唱
六、
吾今ここに死なん身は
国のためなり君のため
捨つべきものは命なり
たとえ屍は朽ちるとも
忠義のために死する身の
名は芳しく後の世に
永く伝えて残るらん
武士と生まれし甲斐もなく
義のなき犬と言わるるな
卑怯者とな謗(そし)られそ
※再唱
参考:戦争歌が映し出す近代 堀雅昭 葦書房
洋楽導入者の奇跡 日本近代洋楽史序説 中村理平 刀水書房
堀内敬三 音楽五十年史 講談社・講談社学術文庫
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それでもやっぱり気がひけたらしく、作曲者を明らかにしていないあたりが陸軍・・・。