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バーキン片手に靖國神社

アメリカ海軍サブマリナーの肖像 その2

2017-06-21 | 海軍人物伝

コネチカット州グロトンにあるサブマリンミュージアム。
かつて叙勲されたサブマリナーの顕彰コーナーで見た
サブマリナーをご紹介しています。


冒頭にあげる絵を描くのに、各個人の写真を検索するのですが、
最もご本人がかっこよく見える写真を選ぶと、
海軍兵学校時代の写真や若い時の写真になってしまいます。

というわけで、イケメンだった若い頃の画像になってしまった

 

ユージーン・B・フラッキー
Eugene Bennett Fluckey

「ラッキー・フラッキー」

フラッキーというのは「ラッキー」を含む縁起のいい名前ですが、
実際にも彼は「ラッキー・フラッキー」と呼ばれていました。

上の「メダルオブオナーギャラリー」の中央に掲げられたのは
彼が艦長だった潜水艦「バーブ」の対日戦「戦果」です。 

93歳まで長生きしたことだけでもかなりラッキーな人生だったようですが、
それよりアメリカ海軍的には、フラッキーが潜水艦長として
その撃沈した敵船舶(つまり日本の船ということになりますが)
の総トン数が歴代一位ということがそのあだ名の由来のようです。

日本軍では撃沈の統計を取りその順番をつける、
という習慣がないのですが、 アメリカでは潜水艦でもこのように
トン数、隻数でランクをつけため、戦果を水増しするために
ありえない名前の日本駆逐艦をでっち上げる事例も起こりました。

ただでさえ確認が不正確になるので、戦時中の成績と戦後の
双方の資料で検証した実数が違ってくるのは当然のこととなります。 

フラッキーの撃沈した総トン数は

16 ⅓ 隻(4位) 95,360トン(1位)

なのですが、戦時中は

25 隻 179,700トン

となっていました。
ちょっとこれ・・・あまりに違いすぎません?
どちらも二倍とは言わんが、それくらい水増しされているではないの。

ちなみに総撃沈隻数で1位とされているのは前回紹介したリチャード・オケインで、

24隻  93,824トン

こちらも1980年に再調査されるまでは31隻、227,000トンとされていました。


ところで、フラッキーが総トン数で1位になった理由というのは
ちょっと考えてもわかりますが、撃沈した船が大きかったからです。

フラッキーが艦長を務めた潜水艦「バーブ」は5回の哨戒で
数多くの輸送船を撃沈しましたが、大型タンカーを含み、
空母「雲鷹」がその中に含まれていました。

1944年9月17日、船団を護衛してシンガポールを出発、
台湾に向かう「雲鷹」に「バーブ」は艦尾発射管より魚雷を発射、
艦中央部と艦後部に命中しました。

雲鷹の生存者約760名は護衛艦に救助されましたが、乗組員約750名、
便乗者約1000名のうち推定900名が戦死。
艦橋にいた艦長や副長は脱出したものの艦長は行方不明となりました。

 

フラッキーは「バーブ」を指揮して樺太で上陸作戦も行なっています。
1945年7月22日、乗組員で上陸部隊を編成し樺太東線に爆薬を仕掛けて
16両編成の列車を吹き飛ばしたというものです。

Silent Service S01 E26: The Final War Patrol

例の潜水艦ドキュメンタリーシリーズ「サイレントサービス」では、
18:30あたりからこの作戦について語られています。
爆薬を持ったまま転んだ隊員を皆がそろそろと引き起こす様子がリアル。 

この作戦は、第二次世界大戦中唯一の、潜水部隊による上陸作戦でした。

上陸作戦のためにフラッキー艦長は艦のあらゆる配置から志願者を募りましたが、
ボーイスカウト出身者を特に選んで編成したという話です。

なお、この番組の最後にはフラッキー(この時は大佐)本人が出演しています。

フラッキーは、名誉勲章を叙勲されていますが、上陸作戦に対してではなく、
以下のような作戦の成功に対するものでした。

 

彼の指揮するバーブは落命の可能性とアメリカ軍軍人としての
義務の限度を乗り越えて大胆かつ勇敢な攻撃を行った。

1月8日、フラッキー中佐は2時間の夜間戦闘で敵の弾薬搭載船などを撃沈したあと、
1月25日には大胆にもナンカン・チャンの港沖に集まる30隻の敵船の
真っ只中に乗り入れるという偉業を成し遂げた。
この海域を抜けるには1時間は見積もる必要があり、
また暗礁や機雷の存在も考えられたが、彼は

「戦闘配置!魚雷発射用意!」

の号令を出して(略)弾薬船は周囲をも巻き込むほどの大爆発を起こした。
バーブは高速で危険水域を抜け出し、4日後には安全水域に艦を移動させた。
英雄的な戦闘行為の締めくくりを、日本の大型貨物船撃沈で締めくくった。
アメリカ海軍はフラッキー中佐と彼の勇敢な部下に対し、
ここに最高の栄誉を与えるものである。 

 

ローソン・パターソン・ラメージ
Lawson Patterson Ramege

「隻眼のサブマリナー”レッド”」


ラメージはアナポリス1931年組、同期にはマケインがいます。
赤毛の人がほとんどそう呼ばれるように、彼のあだ名も
「レッド」であったと言います。

赤毛が喧嘩っ早いというイメージは確かにあるような気がしますが、
ラメージはイメージ通りだったようで、アナポリス時代、
喧嘩が原因で(どんだけ派手にやったのか・・)右目を傷つけ、
そのため極端に視力が落ちてしまいました。

片目だけの視力でまず失われるのは距離感だといわれます。
飛行機はもちろん、潜望鏡で外界を確認する潜水艦でも
視力が悪いのは大きなハンディとなるのですが、運の悪いことに
ラメージの志望は潜水艦乗りでした。 

適性検査では視力が原因ではねられてしまいますがどうしても諦められません。
強く願えば神に通じるというべきなのかどうか、視力試験前に、

彼は視力検査表を間近で見ることに成功しました。(偶然だぞ)

そこで検査表を暗記し、右目のための検査カードを、
あたかも右目で見るふりをして実際には両目で見て

念願の潜水艦配置に合格しました。
このことはとご本人が後から白状したんだそうですが、
これ実のところ、偶然なんかじゃなく、わざわざ見に行った、
つまり故意犯だったんじゃないかと激しく疑われますね。

結果良ければで、のちに名潜水艦長になったから
こうして後から笑い話半分の英雄譚みたいに本人も吹聴してますが、
もし潜水艦艦長になった後、視力が原因による大きなミスが起っていたら、
おそらく本人はこのことを墓場まで持っていったに違いありません。

潜水艦長として潜望鏡を覗くとき、彼は自分なりのコツを編み出し、

「焦点は常に近接に合わせた。
そうすれば、弱い方の目で観測しても目標を完全に観測することができた」

というイマイチよくわからない方法で任務をこなしていたようです。 

「グレナディアー」「トラウト」に続き「パーチー」艦長になった彼は、
 1943年、「途方もない潜水艦の波状攻撃」を日本のミ11船団に対して行いました。


この時ラメージは艦橋に陣取り、大胆にも艦を浮上させたまま船列の間に割って入り、
至近距離から19本の魚雷を発射するという前例のない攻撃を行いました。
日本船はこれに対して備砲で反撃し、ついには体当たりを試みています。

「炎上する日本船の合間を縫って、冷静にシーマンシップを発揮し、
魚雷と砲撃で礼を返した」

彼はのちにこの時の交戦についてこう語りました。

 

ポール・フレデリック・フォスター
Paul Frederick Foster 1889−1972

「史上最初に敵艦を撃沈した潜水艦長」


わたしは戦史というものを、あくまでも客観的に見ることをモットーとして
どんな事例も扱っているつもりなのですが、このサブマリナーシリーズなどで
日本の船を沈めて、その成績がトン数で1位だの隻数で1位だの、
その数で勲章をもらったりしている事例を調べていると、
正直決して穏やかな気持ちでいられず、なんとなく胸のざわめきを感じるのは、
これはもう日本人として致し方ないことだとだと思います。

そして、たとえば前回お話しした、

「軍機を守るために艦と運命を共にしたクロムウェル艦長」

の乗っていた「スカルピン」の生存者42名が、「冲鷹」と「雲鷹」に分乗して
日本本土へ護送される途中、冲鷹は「セイルフィッシュ」 (USS Sailfish, SS-192)
の雷撃により撃沈されてほぼ全員が死んでしまったわけですが、
この事実に対して、ザマアミロとかいうタチの悪い感情まで行かないまでも、
少なくとも「因果応報」という言葉を思い浮かべずにはいられないわけです。


ちなみに「山雲」に撃沈された「スカルピン」の生存者は当初42名。
護衛していた大型輸送船「龍田丸」を撃沈したカタキであったことから
(龍田丸は乗組員便乗者約1500名全員戦死)海上の彼らに対して
「冲鷹」乗組員は報復しようとしたのですが、艦長がそれを制止しています。

その「冲鷹」が米潜に撃沈されたのは、艦長の命令によって救助した潜水艦乗員に対し、
艦上でコーヒーとトーストを与えた直後のことであったといわれます。


さて、長々と何が言いたいかというと、このフォスター中将は
そのメダル授与の功績が対日戦ではないので、少なくとも
この微妙な感慨を持たずに済む、ということです(笑)

フォスターが名誉勲章を与えられたのはなんと

ベラクルスのアメリカ占領(1914年)

での功績に対してでした。

トランプが大統領になって「アメリカファースト」のスローガンのもと、
メキシコ移民を防ぐための壁を作るの作らないのという話もありましたが、
アメリカとメキシコというのは、昔から隣同士で色々ありましてね。

仲が悪い隣国同士で、経済力の低い方が高い方に移民としてなだれ込み、
それが問題になる、というのも世界各地で共通の事例です。

メキシコ革命の時には、アメリカの水兵がタンピコでメキシコ兵に拘束された、
というタンピコ事件がきっかけとなり、アメリカ軍が出動、
戦闘ののち、ベラクルスを半年間占領するという事態になったことがあります。
ちなみに、タンピコ事件でメキシコは、アメリカに一応謝罪したにも関わらず、

「誠意を表すために星条旗を掲揚して21発の祝砲発射を行え」

とさらに威圧され、頭にきてその要求に従いませんでした。
これをアメリカは攻め込むきっかけにして占領までしてしまったのです。

いやこれね、アメリカさん、もしかしてメキシコが従わないのをわかっていて、
こんな無茶な条件を突きつけたりしてません?

左から4番目のすらっとしたのがヴェラクルスの時の少尉だったフォスターです。 
メンバーは USS 「UTAH」 (BB31)の乗員で、この戦いの時フォスターは
「ユタ」の砲撃を指揮しました。 

フォスター左


海軍兵学校卒業後、フォスターが乗務した潜水艦はUSS G-4(SS26)。
第一次世界大戦ではUSS AL-2(SS41)でドイツのUボートを撃沈し、
これが初めて敵艦を撃沈したアメリカの潜水艦となりました。

つまりフォスターは「初めて敵艦を沈めた潜水艦艦長」だったわけです。 

 

その後は軍関係のブレーンとしてルーズベルト政権のために働き、
終戦後中将として海軍を引退しました。

 

サミュエル・デイビッド・ディーレイ
Samel David Dealey 1906-1944

「サブマリナーズ・サブマリナー」サブマリナーズサブマリナー」


彼にはたくさんのあだ名がありました。

「トルピード・トタン・テキサン」(魚雷を持ったテキサス人)

「デストロイ・キラー」(駆逐艦ゴロシ)

そして、

「サブマリナーズ・サブマリナー」、潜水艦乗りの中の潜水艦乗り。

それほどまでに潜水艦に乗っているのが似合っていた男。
ということは、日本の艦船をいやっというほど沈めたということでもあります。

彼が指揮した潜水艦「ハーダー」の通商破壊作戦における武勲は目覚しく、
最も輝かしい5度目の哨戒では、駆逐艦2隻(「水無月」と「早波」)を撃沈、
ほか2隻を大破させた功績によって、名誉勲章を授けられました。

「潜水艦乗りの中の潜水艦乗り」らしく、ディーレイ艦長は
潜水艦に乗ったまま、壮烈な最後を遂げています。

 

1944年8月、「ヘイク」とともに哨戒していた「ハーダー」は、
民間船の護衛で付きそう第22号海防艦と第102号哨戒艇を発見しました。

 

第22号海防艦に潜望鏡を発見されたので「ハーダー」は魚雷を3本発射。
しかしいずれも脇ををかすめ、逆に海防艦から攻撃を受けます。
海防艦は爆雷を投射器から12個、
軌条から3個「ハーダー」に向けて投下しました。

やがて攻撃地点から多量の噴煙や重油、コルク片が浮かび上がりました。
潜水艦「ハーダー」が15発の爆雷全てを浴び、撃沈された瞬間でした。


ディーレイが1943年に授与されたネイビークロス。

1945年8月22日、彼の功績に対して名誉勲章が与えられましたが、
授与式で勲章を受け取ったのは未亡人と三人の小さな子供達でした。

 

このとき「ハーダー」を撃沈した第22号海防艦と第102号哨戒艇は、
いずれもその後、大東亜戦争を無事に生き残ったということです。

 

 

 

 



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4 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
第102号哨戒艇 (足軽零戦記者)
2017-06-21 19:05:23
お久しぶりです。
 第102号哨戒艇といえば、元はスラバヤ軍港で鹵獲したアメリカの駆逐艦スチュワート (DD-224)ですね。無事終戦を迎えたものの、最期は少し気の毒でした。
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ブローチング (佐久間)
2017-06-21 19:56:42
ご紹介いただいた映像では、魚雷(Mark 14?)が思いっきり水面上に浮上(ブローチング)していましたね。帝国海軍の酸素魚雷も、実戦では水面から飛び出したり迷走したりしたそうですが、米国の潜水艦用の魚雷も、磁気信管や着発信管の問題に加えて、幾つかの原因が重なった深度調節に関する大きな問題を抱えていました。いつも設定深度よりも3mほど深く走行するため、米海軍の伝説の潜水艦長達は、深度0mで魚雷を発射していたそうです。そのため、500ヤードぐらいの間隔でピョンピョン水面から飛び出し、スクリューで派手に水柱を上げていました。

まあ、雷跡が見つかっても、もはや既にどうしようもない至近距離から攻撃していたのでしょう。なめられたものだと思いますが、当時は仕方が無かったのだと思います。大西洋の対Uボート戦とは、全く正反対の状況に陥っていたのが、悲しいです。

フラッキー提督とオケィン(オカーン)提督と、どちらがより多くの戦果を挙げたかとの論争は、戦後のJoint Army–Navy Assessment Committee (JANAC)から、今でも続いているようです。撃沈トン数以外にも、フラッキー提督の軍用列車爆破の功績や、オケィン提督の潜水艦ワフーの副長時代の功績なども、考慮すべきだと言われています。特にオケィン提督の2回目のパトロールにおいて、撃沈成果はゼロでしたが、トラック環礁空襲で撃墜された、タスクフォース58のパイロット22名を敵砲火の中に救出しました。その中の航空団司令官(CAG:潜水艦艦長より階級は上)の空母に移送しろとの指示を無視して、他のパイロットの希望どおりに、全員パールハーバーに無事届けました。もちろん、もし撃墜されても潜水艦部隊が救助してくれるとの実績は、たちまちのうちに海軍航空隊のパイロットの士気を大きく向上させたそうです。

また撃沈トン数では、空母信濃を撃沈したアーチャーフィッシュ艦長のジョセフ・F・エンライト少佐が、1隻で図抜けてしまいました。戦功では、マストに戦闘旗を掲げた正規空母の翔鶴を沈めたカヴァラ艦長のハーマン・J・コスラー少佐や、大鳳を沈めたアルバコアのジェームス・W・ブランチャード少佐も、間違いなく伝説のサブマリナーに入ると思います。
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対日戦 (Unknown)
2017-06-22 05:47:11
エリス中尉が心を痛める程の対日戦に関する展示ですが、ワシントンのスミソニアン博物館でもそうですが、第一次、第二次世界大戦等個別の戦争の展示はありますが、対日戦だけは別コーナーになっています。

戦争博物館にこれだけ対日戦における自国の功績を掲げさせたのは、アメリカ人に取って我々との戦いはそれだけ大変で心が折れそうだったことの裏返しだと思います。

建国以来、自らの生存のために何度も戦って来たイスラエルには戦争博物館はありません。それだけ戦争が身近で、わざわざ顕彰しなくてもいいからだと思います。

我々はアメリカをそこまで追い詰めた。結果は負けてしまいましたが、そこまで頑張ったことは誇りにしていいと思います。先輩方に敬礼!
返信する
みなさま (エリス中尉)
2017-06-22 12:57:45
足軽零戦記者さん
お久しぶりです。先日も京都で鮎を食べたとき(滋賀だっちゅうに)
車で足軽零戦記者さんの母校の前を通り、お名前を思い出していました。
自分で運転して京都市内を走るのは本当に久しぶりなので楽しかったですね。

さて、102号哨戒艇が元は「スチュアート」だったこと、
これを製作している時には気づきませんでした。波乱万丈の生涯ですね。
日本に鹵獲されてアメリカの「サブマリナーズ・サブマリナー」が率いていた
潜水艦を葬ったということだったんですか。
自国の艦艇を見つけて取り戻し、再就役させたのは良かったですが、最後は標的艦。

まあ、最近私は、スクラップになるよりは軍艦の標的艦となって散ることこそ
軍艦にとって最後の花道ではないかと考えるようになりました。
以て瞑すべしといいますか。

佐久間さん
ほー、いまだに撃沈成績で論争があるんですか。
まあ、本人の証言だけでは確かめようがないし、敵国の史実と擦り合わせて
初めて判ってくることもありますからね。
しかし、陸上攻撃まで通算成績に加えるというのはどうなのか。

今回取り上げたサブマリナーたちの人選は、グロトンのサブマリンミュージアムの
顕彰コーナーで取り上げていたという基準です。
潜水艦というのはそれだけでドラマチックな兵器なので、サブマリナーたちについて
語る試みはまたぜひいつかやってみたいと思っています。
その時のために教えていただいた艦長たちの名前を_φ(・_・

それにしても、本当は帝国海軍の潜水艦乗りでやりたいんですよ。
資料がない上に個人を持ち上げることを極端に嫌う民族性なので無理っぽいですが。

unknownさん
おっしゃることに全面的に賛同します。
現在の日米特に海軍同士の親密さを見ると、「ブルーマフィア」の仲間意識というだけでなくかつてガチンコで戦い、
どちらもが相手の強さに苦しんだからこその尊敬がベースにあると思うのですよ。

訓練が終わって自衛隊の艦艇が外国の海軍と一緒に航行していると、
アメリカ海軍が割り込んできて自衛隊をいつのまにか連れて行くという話が好き(笑)
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