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イースター攻勢とラインバッカー作戦のその後〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-06-26 | 歴史

ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」から、
今日は撤退への直接のきっかけとなった出来事をご紹介しましょう。

■ 「行動を起こす時が来たのだ」ニクソン大統領1970年4月30日

ベトナム戦争時に流行った「ピースマーク」を掲げるラオスの砲兵部隊。
正規の軍の旗ではありませんが、まるでそのように扱われています。

ピースマークは、円の中に鳥の足跡を逆さまにしたようなデザインなので、
平和の象徴であるハトの足跡とされることがありますが、それは間違いで、
ベトナム戦争より前の1958年、イギリスのアーティスト、ジェラード・ホルトム
平和団体の核軍縮キャンペーンのためにデザインしたものです。

この隠された意味には、手旗信号をご存知の方ならお気づきになるかもしれません。

Nuclear Disarmament(核軍縮)の頭文字、

「N」(両腕を斜め45°で下ろした形)

「D」(右手を真上に左手を真下にした形)

を表したものを合体させ、これを円で囲んだものなのです。
ってまじか。今知ったよ。

さて、このピースマークがなぜラオスで挙げられているかです。

ニクソン大統領がベトナム近隣諸国に軍隊を派遣するという決定を下したのは、
敵軍を追跡するためでした。

1970年、米軍と連合軍はカンボジアに進駐し、
翌年1971年には米軍と米国の支援を受けたARVNがラオスに侵攻、
両作戦において敵を攻撃し敵の「サンクチュアリ」と補給線を破壊しました。

しかしながら、どちらの作戦も戦争の流れを変えることはできず、
その結果軍と民間人の死者は増えるだけでした。

 

 

■ニクソンの思惑とフリーダムトレイン&ポケットマネー作戦

ところで、ニクソン大統領はそれまでに例の「ベトナム化政策」として、
北ベトナムとの戦いを次第にベトナム共和国軍(ARVIN )に移譲しつつあったのですが、
1971年、ARVINが失敗し、このイースター攻勢でも劣勢となりました。

北の当初の優勢を見ると、ニクソン大統領は空爆の大幅な拡大を命じました。

これは、当時ソビエトのブレジネフ首相との首脳会談を控えていたニクソンが
アメリカの威信を保つ必要があったためと考えられています。

この作戦を支援するために、アメリカ第7空軍は大量の

F-4ファントムII

F-105サンダーチーフ

などの航空機を継続的に導入し、海軍のタスクフォース77は空母4隻態勢に増強。
そして米軍は4月5日、

フリーダム・トレイン作戦(Operation Freedom Train)

として、20度線の北側の航空機による目標攻撃を開始しました。

それまでも、米軍とARVINの航空機は、天候が良好である時に限り、
USS「コーラルシー」「ハンコック」の2隻の空母から飛び立った
艦載機による防戦の支援をおこなっていました。

ただし、天候に左右されがちなので、アメリカ軍は航空戦力の増強を速やかに開始し、
146機のF-4戦闘機、2機のF-105戦闘爆撃機を追加配備しました。

海軍は空母「キティホーク」「コンステレーション」に加え、
USS「ミッドウェイ」「サラトガ 」を艦隊に追加、最終的に
第7巻隊の投入する艦艇は54隻増えて138隻になりました。

「フリーダムトレイン」作戦ではB-52による大規模爆撃が行われ、ニクソン大統領は
ハノイやハイフォンへの直接爆撃を含む大規模な包括的空爆作戦を許可します。

その頃、アメリカとの関係を悪くすることを嫌ったソ連のブレジネフは
北ベトナムにアメリカとの交渉を迫り、キッシンジャーと北ベトナム首相の
パリでの会談が実現しますが、勝利を確信していた北ベトナムの特使は、
交渉に応じようとせず、キッシンジャーを侮辱するような態度をとったりしました(´・ω・`)

怒ったニクソンは、さらに北ベトナムの海岸に地雷を敷くよう指示し、
5月8日、「ポケットマネー作戦」として、米海軍機がハイフォン港に侵入し、
地雷を敷設しました。

(地雷は安価で簡単で、ポケットマネーで敷設できる、という意味でしょうか)

 

1972年3月30日。
北ベトナムはベトナム全土で大規模な軍事作戦を開始しました。
これをイースター攻勢(The Easter Offensive)といいます。

10月まで続いたこの攻撃は、朝鮮戦争の鴨緑江の戦い以後最大の規模であり、
明らかにそれまでの北ベトナムの攻勢とは基本的に異なるもので、
南ベトナム軍の崩壊までには至らぬまでも、パリ講和会議のとき、
北ベトナム側の交渉力を大幅に拡大すること=決定的な勝利を見据えていました。

 

1968年のテト攻勢以来、北ベトナム側の初めての南方侵攻となったこの攻撃は、
双方とも最新の技術を駆使した兵器システムを駆使し、
重砲を背景にした通常の歩兵・装甲の攻撃が行われることになりました。

最初のフェーズで北ベトナム軍は南ベトナム軍を制圧し、南下していきますが、
いずれの戦線においても、初期の北ベトナム軍は、多数の死傷者、無能な戦術、
そして米軍と南ベトナム軍の航空戦力の増大によって遮られることになります。

イースター攻勢を受けて発動したのがあの、

■ラインバッカー作戦(Operation Linebacker)

でした。

 

「ラインバッカー作戦発動中」

1972年、A-37戦闘爆撃機でアン・ロクの敵地に空爆を行う
ゴードン・ウェード中佐(Lt. Col. Gordon Weed)。

多分この人

「イースター攻勢」に1ヶ月少し遅れて発動したこの作戦は、
北ベトナムの防空網の制圧に加えて、貨物貯蔵所、貯蔵施設、積み替え地点、
橋、鉄道車両などの航空機による破壊を目的としていました。

ジョン・ヴォクトJr.将軍指揮する第7空軍のタスクフォース77が414回の出撃を行い、
最も激しい空中戦で、4機のMiG-21と7機のMiG-17を撃墜、2機のF-4が撃墜されました。

この作戦の初期に、アメリカ海軍のランディ・"デューク"・カニンガム中尉と、
彼のレーダー・インターセプト・オフィサーであるウィリアム・Pドリスコル中尉は、
MiG-17を撃墜してアメリカ人初のエースとなっています。

カニンガム中尉(左)とドリスコル中尉。
この人たちについては以前空母「ミッドウェイ」シリーズで取り上げたことがあります。

 

「ラインバッカー作戦」では、精密誘導弾が史上初めて広く使用され、
これがある意味空中戦の新時代の幕開けとなりました。

その結果、北ベトナムへの物資の到達量は30〜50%減少し、
北ベトナム政府は話し合いを再開して譲歩の姿勢を見せ始めました。

ニクソン大統領は10月23日に爆撃を中止するように指示し、
「ラインバッカー作戦」は事実上この日終了しました。

しかし、

北ベトナム軍を追放するために残されたアメリカ軍戦闘部隊はあまりに少なく、
終戦に向けた交渉が再開された時でさえ、10万人もの敵に囲まれている状態でした。

その間にも、ニクソン大統領の戦争政策への挑戦は続いていました。

幹部は彼に戦争を終わらせるように圧力をかけていました。

ラオスにおけるARVIN (南ベトナム軍)の敗走は、(ラインバッカー作戦の成功に関わらず)
「ベトナム化政策」に対する疑問を国民に投げかけ、軍隊の士気は地に落ち、
悪いことに軍の中での人種問題は紛争が激化していきました。

G.I.平和運動は急激に拡大し、国内の退役軍人たちは
メダルを捨てるというパフォーマンスを行いました。

The Throwing of the Medals - Operation Dewey Canyon III

捨ててます

1971年4月、

「Vietnam Veterans Against the War(戦争に反対するベトナム退役軍人)」

という新たに結成された組織のベトナム退役軍人数千人が、
ベトナム戦争の終結を求めてワシントンD.C.に集結しました。

このイベントは、退役軍人たちによって

「デューイ・キャニオンIII作戦」

と作戦名で呼ばれていました。
そして、

"議会の国への限定的な侵攻 "

として、アーリントン墓地を皮切りに、首都圏の象徴的な場所でデモを行いました。

歌、ゲリラ・シアター、モニュメントやオフィスの占拠、
当局への積極的なロビー活動、連邦政府の敷地内でのキャンプなど。

これらの戦略の中で最も象徴的だったのは、最終日に退役軍人たちが
連邦議会に賞状とメダルを「手渡す」ために連邦議会議事堂に向かったときでした。

その日の朝、約1,000人の退役軍人が国会議事堂に到着すると、
建設されたばかりのフェンスが建物に近づけないようになっていました。
しかし、フェンスくらいでは退役軍人たちを止めることはできませんでした。

「ベトナム戦争に反対する退役軍人は裏切り者だ」

「戦死した仲間や連隊に敬意を払っていない」

「共産主義者のシンパだ」

彼らにこんな声を向ける人々もいました。

しかし退役軍人たちは、共産主義の立場に立ったのではありません。
むしろ、政府を批判するという行為は民主主義の原則であり、
民主主義だからこそできることだったということもできます。

国会議事堂前の銅像に「TRASH」と書かれた看板をかけた後、
退役軍人は一人ずつ、デモ隊や野次馬の前に立ち、自分の名前、
それから階級、連隊、そしてベトナムからもらった賞の種類を言いました。

その後、彼らは振り向きざまに、賞状、メダル、リボン、表彰状など、
戦争で得たものを銅像の足元にあるフェンスの上に投げ捨てていきました。

彼らに言わせると、この行動は愛国者だからこそとった行動であり、
「国を愛すること」は必ずしも「政府に従うこと」と同義ではなかったのです。

 

また、軍の指導者たちは、軍隊そのもののにとで不足と士気の低下が、
彼らの任務達成能力をすでに脅かしていると報告しました。

「塩とかココアとか、あるいはコーヒーが残っている人は皆で分けたよ。
地獄の穴にいると、皆が一つになれた」

「ジェームズ・ブラウンが

♫Say it Loud-I'm Black and I'm proud
『大声で叫べ-俺は黒人 それが誇りだ

を出してから、俺たちは空に握り拳を振り上げないとどこにも行けなくなったよ。
それが『やあ』という挨拶だった」

(`・ω・´)○ yo !! yo!○(・∀・○(・∀・)yo!

"Say It Loud It Loud ~ I'm Black & I'm Proud"

「故郷に帰って戦争を支持する者のビッグスローガンは、
だいたいが『軍隊を支援する』だ。
でも、ここにきて戦争に賛成する兵士なんて、
せいぜい手と足の指で数えられるくらいしかいないのさ」

「ベトナムにいる時、目に見えるもの全てを憎んでいた。
でも、酔っ払っている時だけ、この国の美しさを堪能することができた。
全てがとても平和に見えたんだ」

「戦闘中は頭の中が真っ白になる」

いずれもベテランたちの回顧録から抜粋した一節です。

 

続く。

 

 


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3 Comments

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イースター攻勢 (お節介船屋)
2021-06-26 14:44:07
エリス中尉の記述のとおり、1972年3月末パリの和平交渉を有利にするため共産勢力が南ベトナムの3地点で大規模な軍事攻勢を掛けました。

北軍と南ベトナム解放戦線が共同で、メコンデルタ、中部高原、DMZの3か所でしたが特に南ベトナム最北端の省クワンチの攻防戦が熾烈を極めました。
軍事境界線から北ベトナム軍2個師団約3万人がT54/55、PT76を主力とした250両の戦車、多数の装甲車、重砲を伴った機甲部隊でした。
軍事境界線に添って配置された130㎜砲で6日間30㎞圏内にある南ベトナム軍陣地を砲撃、大きな損害を与えました。
3月30日戦車を先頭に侵攻を開始、国境から10数㎞のクワバト河の国道1号線の軍事上の要衝ドンハのドンハ橋をめぐって戦車戦が行われました。アメリカ軍の空爆の支援を得て南ベトナム軍が戦いますが北ベトナム軍はSA-2対空ミサイルや個人携行SA-7を装備しており、米軍航空部隊が大きな被害を受けました。ただ北軍は戦車戦に不慣れで南ベトナム軍は善戦しますが対戦車ミサイルを北軍が装備しており南軍戦車、装甲車が撃破されて行きました。そこでアメリカ軍顧問がドンハ橋を爆破しました。
北軍は進路を変え西10㎞のカムロ橋に殺到、ここを守っていた南軍第56連隊は猛攻に耐えられなくて降伏、カムロ橋が無傷で北軍に取られ、防御ラインに穴が開いてしまいました。

アメリカ軍の空爆と艦砲射撃に守られ、新防御ラインを形成し、南軍は意外な粘りをみせました。クワンチ攻防で北戦車17台を破壊し、北軍はクアンチ正面突破を一時中止し、迂回、南のフエ、ダナン攻撃に向かいました。クワンチ攻防は3週間でしたが北軍の対戦車ミサイル使用の猛攻に耐えられず退却となり、クアンチ省全土が北軍に占領となることから北爆の「ラインバッカー作戦」が発動されました。

最初は軍事境界線周辺でしたが侵攻軍の勢力が落ちない事から北ベトナム全土を対象とし、B-52まで投入、ハイフォン等主要港の機雷投下による封鎖が実施されました。

南軍は態勢を立てなおして反撃に出て、5,6,7月1か月ごとに反復攻撃し、北軍の戦力を削いでいきました。連日の空爆、1日1万発の艦砲射撃でクワンチに立てこもっていた北軍が9月17日撤退、軍事境界線の北へ退却しました。ただ省都クアンチ周辺を含め瓦礫の山でした。

この戦闘による死傷者は不明ですが双方に数千名となっているようで北軍が多いようですが、米軍は爆撃と艦砲射撃以外は少数の軍事顧問しか参加してなくて、地上戦に投入の考えは撤退計画の最終段階で最早ありませんでした。
南軍は意外に粘り強い戦いをしましたが、共産側の大量の対戦車ミサイル投入で戦車戦でも劣勢となってしまうその後を暗示していました。
アメリカ軍の空爆や艦砲射撃等の強力な支援でどうにか共産軍の南下を防いだのであり、米地上軍支援のないその後は徐々に北正規軍の侵略に蝕まれて行くこととなりました。
参照光人社三野正洋等共著「ベトナム戦争」
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いつになったら終わるのか (Unknown)
2021-06-27 08:02:14
参戦していながら、戦争を否定する人は、まさに「戦死した仲間や連隊に敬意を払っていない」と思います。軍を辞めているのなら、政策に対する批判は構わないと思いますが、軍を貶めることは、そこでまだ頑張っている仲間を貶めることになると思います。

ベトナム戦争が、ここまで国を分断してしまったことは悲しいことです。とは言え、実際に関わっていない人に取っては、どこか遠くの戦争だったので、戦争が終わってしまえば、この分断もいつしかなくなってしまいました。日本の場合、太平洋戦争では、直接的な被害をかなり受けたので、今になっても、この分断は解消されていない気がします。いつになったら、終わるのか。
返信する
ラインバッカー作戦 (お節介船屋)
2021-06-28 09:45:46
ラインバッカー作戦にはⅠとⅡがありました。
Ⅰは1972年4月6日から開始したイースター攻勢に伴うものであり、9月24日共産側がアメリカの和平案を容認したとして北緯20度以北の爆撃を停止したものです。

Ⅱは交渉は続けられていましたが和戦両面の対応から12月18日から年末までのハノイ、ハイフォン地区に最大規模の爆撃をしたことでした。

海軍はトンキン湾上にコンステレーション、コーラルシー、キティーホークを展開し、北爆を開始しました。
エリス中尉記述のカニンガム大尉は5月10日1日のみでミグ17を3機撃墜してベトナム戦争初のエース(5機以上撃墜者)となりました。なおこの日は海軍F-4と北ベトナム軍のミグ22機の大空中戦でミグ7機を撃墜しました。
なお海軍は北爆の航空機の空軍機の4割程度でしたが飛行距離が短く、延べ出撃数は同程度でした。

空軍は4月16日B-52でハイフォン地区の爆撃、5月8日ハイフォン港に機雷投下等、B-52の5月出撃延べ200機にも上りました。空中戦は空軍がミグ撃墜数は136機で海軍54機に対し多いですが、海軍がトップガン教育の効果でキルレシオは高かったのでした(損失空軍60機、海軍16機)。

ラインバカーⅡでB-52がSA-2ガイドラインで15機撃墜される空軍大被害も出ていました。

1973年1月12日ミッドウエーのF-4がミグ17を撃墜したのが空海軍最後の戦果となりました。

このラインバッカー作戦の大規模爆撃と機雷封鎖が和平交渉を進展させた要因となりました。

参照光人社三野正洋等共著「ベトナム戦争」
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