goo blog サービス終了のお知らせ 

ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

「鉄のトライアングル」と「トンネル・ラット」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

2021-05-07 | 歴史

ハインツ歴史センター特別展「ベトナム戦争」について
その展示をご紹介しつつお話ししています。

まず、このバナーの示すコーナーは

「さまざまな前線での戦争」1966−1967

として、

ベトナムではどのような戦争が繰り広げられたか?

戦争は銃後にどのような影響を与えたか?

とサブタイトルで語っています。

右の地図は南ベトナムに展開したアメリカ軍の四つの大隊の区分となっています。

1966年から1967年までの戦争の真実

米軍の規模 485,600

米軍戦死者 17,700

ARVIN(南ベトナム軍)戦死者24,700

かかった費用 320億ドル

散布された枯葉剤 700万ガロン

45パーセントの米国国民がベトナムへの軍隊の派遣は間違いだったと考えている


■ ウォー・フロント

ベトナム戦争最初の大きな戦いの一つは、1965年、ラ・ドラン渓谷でのものです。
1966年、1967年と、追加の軍事作戦がことごとく南ベトナムの地名を有名にしました。

この壁画は、四つのことなる戦術ゾーンを表しています。
I corps、II corps、III corps、IV corpsと分けてある)

また、この地図は、アメリカの取組みをサポートするために構築された
大規模なインフラ整備などが書き込まれています。

「ランディングゾーン」の上にはタンデムヘリが物資を下ろす様子が描かれ、
そこはまた報道関係者が到着する場所ともなっています。

左上に「MEDEVAC」と書かれたヘリが飛んでいます。
MEDEVACは負傷者を後送する機体のことで、ベトナムではその多くがヘリでした。

上部のラオスとの国境近くにあるのが、以前説明した「ホーチミンロード」です。

画面右上が北ベトナム軍とベンハイ川を挟んでドンパチやっているところ。
海岸線では「サーチアンドデストロイ」も行われていますね。

海上からは海軍艦船が援護攻撃を行い、ダナン湾に停泊した空母から
海軍航空機が北ベトナムへの爆撃に出撃します。

後送された負傷者はダナン湾の病院船に搬送されます。

フエ地方ではシービーズが設営を行っています。

これらはI corpsの地域で、北ベトナムとの境にあり、
これが「前線」ということだと思われます。

続いてII  CORPSですが、やや後方なので通信大隊などが展開しています。

特別部隊が駐屯して訓練したりしていますね。
B-52が爆撃しているのはベトコンの地域でしょうか。

■ 鉄のトライアングルとベトコン・トンネル

サイゴンの北方40キロ地点に「アイアン・トライアングル」があるのにご注目ください。
共産軍が支配する地域、すなわちアメリカと南ベトナムが殲滅すべき地帯でした。

地形は平坦で、ほとんど特徴がなく、密な背の高い植物と下草で覆われており、
北部は図に描かれているように、人間の頭よりも高い「象の草」が厚く繁っていました。

狭くて荒れた未舗装の道路での車両の移動はほとんど不可能であったといいます。

さらに画面の「VC トンネル」をご覧ください。

これは仏印戦争の時にベトミンがフランス軍からの防衛のために
トンネルを掘って作り上げていた地下要塞です。

ベトナム戦争が始まると、このトンネルネットワークを破壊するため、
アメリカ軍は

「アトルボロ作戦」

「シーダーフォールズ作戦」

「ジャンクションシティ作戦」

の三つの作戦を発動しました。
たとえばシダーフォールズ作戦だけでも19日間を費やし、参加人数は
アメリカ軍1万6千人、ベトナム軍1万4千人という大勢力で、
この結果72名のアメリカ人が戦死しています。(ベトコンの戦死は720名)

B-52爆撃機、「ローマンプロウ(ローマの鋤)」という装甲ブルドーザ、
「トンネル・ラット」なる特殊部隊(懐中電灯と拳銃だけで武装し、
トンネルに潜入する訓練を受けた兵士)など、あらゆる武力を投入したにもかかわらず、
世界最強のアメリカ軍は20年以上にわたって構築されたベトコン支援システム、
この鉄のトライアングルを完全に破壊することはできなかったのです。

■ トンネル・ラット

ついでにこの「トンネル・ラット」について説明しておきます。

トンネル・ラットはベトナム戦争でアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、
そして南ベトナム軍にあった地下捜索と破壊をミッションとする部隊です。

写真は20歳のオーストラリア軍兵士で、ベトコントンネルを発見し、
これを操作しているところです。

トンネルと一口で言いますが、20年かかって築き上げたベトコントンネルには、
病院、訓練エリア、倉庫、本部、兵舎などがある複合基地が築かれていたのです。

東京にもワシントンにも地下の施設が広がっていて・・・、
という話を陰謀論レベルでよく耳にしますが、ベトコンがやっていたことを
先進国の技術力でやれないわけはなく、わたしはワシントンや東京はもちろん、
ニューヨークにもそのほかの地域にもトンネル都市があるといわれても驚きません。

驚くべきは、地下都市の換気システムが大変高度なもので、あの時代に
ベトコンゲリラは数ヶ月地下に潜伏することができたという事実です。

ベトナム戦争中、アメリカ軍はそこに続くトンネルを発見しました。

そこで、トンネルラットが組織され、潜入して内部に潜む勢力を捕える、
あるいは殺すミッションを課せられたのです。

M1911銃と懐中電灯だけでトンネルに突入しようとする
ロナルド・ペイン軍曹。
しかし、若いですね。20歳そこそこで軍曹か・・・。

ペイン軍曹トンネル移動中。
っていうかこれ誰が撮ったんだ。

トンネルラットに選抜されたのは体の小さな男性(165センチ以下)だったので、
結果的にヨーロッパ系かヒスパニック系(プエルトリコかメキシコ)となったそうです。

なんというか、選ばれてもいろんな意味で羨ましがられない任務ナンバーワンという感じです。

土で掘られ、いつ崩れるかわからないような狭くて暗い穴に忍び込んでいくなんて、
誰にとっても楽しい仕事ではないでしょう。

それに、トンネルの住人もおめおめと客人を通すほど寛容ではありません。
トンネルにはしばしば手榴弾や対人地雷、そしてあのパンジ・スティークが仕込まれ、
ベトコンならではの武器、生きた毒蛇が仕掛けられました。

武器ではありませんが、ネズミ、クモ、サソリ、アリもアメリカ兵には脅威です。
脅威というほどではなくても、コウモリなどもあまり遭遇したくない動物でしょう。

それにときどきこうやって待ち構えてるんだな。ベトコン兵士が。

向こうも敵が入ってくるのは百も承知の上で、U字形の通路を通っていたら
浸水して来て溺死する仕掛けなどを作っており、毒ガスを放つこともありました。

ガスマスクを着用しないと危険だとされていたにもかかわらず、
トンネルラットのベテランによると、彼らはほとんどがガスマスクなし
穴に潜入していました。

狭い通路でのガスマスクの着用は、視界を遮り、音声が聞き取れなくなるだけでなく、
呼吸すら困難になるという理由からです。


アメリカ陸軍第一工兵隊「ダイハード」は、1969年、
ベトナムのクチ区を巡回した時に「トンネルラットのための特別な場所」
を発見したことをのちに主張しました。

この「ダイハード」という名前におおっと思われるかもしれませんが、
陸軍の部隊はだいたいにして「スパルタン」「ウォリアー」「バトルレディ」
「マッドキャッツ」みたいな名前が基準ですので、驚くことでもありません。

さて、ベトナムのトンネルラッツたちには過酷な戦後が待ち受けていました。
戦後数年で彼らの多くが健康を害することになったのです。

坑内でひどく飽和した空気を吸っていただけでなく、アメリカ軍が武器として撒いた
レインボー除草剤など化学物質にさらされたことが原因でした。

■ ジッポー・モニターボート

この地域は IV CORPS です。
右上、空母から発艦した戦闘機が描かれている横には
「シビリアン・エバキュレーション」(市民脱出)とあります。

エアベースがあり、司令部で高官がメディアの取材を受けているところがあります。

アメリカ軍がバパーム弾を派手にやっている横の河には、
移動河川軍隊であるボートなどが展開しています。

その一番上で火をつけまくっている船が「ジッポーモニター」です。

「ジッポー」はあのライターのことで、図にも明らかな通り、
簡単に火をつけることができることからついた名称なんだろうな、
と何も調べない段階でわかってしまったわけですが、

„Zippo monitor“ in Südvietnam

こりゃジッポーだわ。

正式名はLCM(6)モニター機動揚陸艇「リバーモニター」級であり、
ベトナム戦争中は機動河川部隊としてベトナム南部の河川で使用されました。

船首には40ミリボフォース砲、そしてM2.50機関銃、81ミリ迫撃砲が後甲板に装備。
軽機関銃とグレネードランチャーも搭載しています。
船体は鋼で重装甲されていました。
 
「ジッポー」と呼ばれた第二世代型は、主に川の近くの植生を焼き払うために作られましたが、
その数はわずか6隻だったということです。
 
ニクソンのベトナム化政策の一環として、ボートは徐々に南ベトナム軍に引き渡され、
それらはすべて、戦争のさらなる過程で破壊されたか、戦争後に廃棄されたため、
現存しているのは訓練船として使われていたものだけだということです。
 

続く。
 
 
 
 

 



最新の画像もっと見る

4 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
LCM(6) (お節介船屋)
2021-05-07 13:59:36
上陸用舟艇のLCMですが長さを17.1mに延長した艇で装甲兵員輸送用のATC,本文のZippos、105㎜砲搭載のMonitors、指揮用のCharlieと多くの派生型を作り、投入しました。
メコンデルタではヘリの手頃な発着場がないためこの艇に取り外し式のポータブル・プラットフォームを仮設した装甲揚陸艇もありました。

南ベトナムでは河川、沼沢が多く、水路が主要な交通路となっており、その他、既存の舟艇の改造だけでなく、河川用哨戒艇としてPBR,スウィフト艇と呼ばれるPCF等多くの舟艇を建造し、投入しました。

南ベトナム海軍にも600隻以上の舟艇を譲渡し、運用させましたが南ベトナム崩壊で廃棄もされましたが北ベトナムに捕らえられ使用された艇もありました。

米海軍の本格的な介入は1964年8月2日駆逐艦「マドックス」がトンキン湾で北ベトナム魚雷艇に攻撃され、8月5日空母「タイコンデロガ」が魚雷艇基地を爆撃した事により始まりました。
1965年2月8日第7艦隊北爆開始となりました。
1968年9月には戦艦「ニュージャージー」が北ベトナム砲撃を開始していました。

河川での運用はブラウン・ウォーター・ネービーとも呼称されていました。
参照海人社「世界の艦船」No269
返信する
地下施設 (Unknown)
2021-05-07 17:26:55
>東京にもワシントンにも地下の施設が広がっていて・・・

東京にはかなりの地下施設があります。地下鉄の溜池山王駅は、銀座線と南北線のホームが独立してあり、かなり大きいですが、首相官邸にも近く、戦時中に掘った防空壕を使っています。

市ヶ谷の防衛省も、コロナ禍で一般公開は中止になっていますが、防空壕やトンネル網があります。A棟(旧一号館)前の国旗掲揚台の裏に竪坑(防空壕への入口)がありますが、今は入れなくなっています。地下の部分は駐車場や、建屋間の地下道(かなりある建屋の間すべてを行き来出来ます)に転用されていますが、戦時中に掘ったものです。

>M1911銃と懐中電灯だけでトンネルに突入しようとするロナルド・ペイン軍曹。しかし、若いですね。20歳そこそこで軍曹か・・・。

新兵は一番死傷率が高いので、緒戦を生き残れれば、ドンドン昇任させて、欠員を穴埋めしたんだと思います。

>ベトナム化政策

米軍は南ベトナム軍を育てて、北ベトナムとの戦いを任せて、自分達は軍事顧問か、出来れば、手を引こうと考えていて、そのプロセスを戦争の「ベトナム化」と呼んでいました。その通りに進んでいれば。
返信する
ジッポーモニター (ウェップス)
2021-05-07 17:56:29
>ジッポーモニター

 おっとワンショットライターの悪口はそこまでだ('ω')ノ
 アメリカ人ライター好きですね。艦など部隊のグッズもジッポライターが定番でしたが、嫌煙嫌煙の今はどうなんでしょう?
返信する
PBRとPCF (お節介船屋)
2021-06-09 10:42:13
河川哨戒艇Patrol Boat River
排水量6.5t、全長9.5m、幅3.2m、吃水0.6m、デイーゼル機関ウォータージェット
2基、速力24kt、12.7㎜MG連装1基、単装1基、40㎜擲弾発射機1基、81㎜迫撃砲1基、乗員4名
ベトナム戦争の水上主力でプラスチック製、水深50㎝でも走行可能、大型ヘリコプタで空輸も可能で1967年から損害が多く装甲を取り付けました。トラックのエンジンを装備し、安価でした。
500隻以上建造され90%がベトナムに送られ、戦闘や事故で100隻近くが失われました。

高速哨戒艇Patrol Craft Fast スウィフト艇
排水量19.1t、全長15.3m、幅4m、吃水1.1m、デイーゼル機関2基、速力28kt、12.7㎜GM単装2基、40㎜擲弾発射機または81㎜迫撃砲1基
200隻以上建造されPBRとともに活躍。故障が少なく、信頼性が高く南ベトナム軍に100隻以上譲渡されました。
装甲は現地で取り付けられました。
参照光人社三野正洋等共著「ベトナム戦争」
返信する

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。