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シュトゥーカvsスピットファイア〜シカゴ科学産業博物館

2023-06-29 | 航空機

さて、前回同博物館展示のスピットファイアについて紹介しましたが、
本文中触れたスピットファイアの設計者、R.J.ミッチェルの伝記でもある、
映画「スピットファイア」のDVDを取り寄せましたので、
いよいよ当ブログ映画部でご紹介しようと思っています。



相変わらずものすごい角度で展示されていることに感心しますが、
スピットファイアと空戦真っ最中のシュトゥーカ、
後で見たらこちらの写真は何枚も撮っていたのに、
スピットファイアの単体の写真が一枚もないのに気づきました。

こういうところでドイツ軍機を見ると、必要以上にテンションが上がり、
色めきたって、夢中で何枚も写真を撮ってしまうわたしって一体・・・。

■ シュトゥーカ Junkers Ju 87 Stuka



右上の筆記体は、当時イギリス王立陸軍の医療隊にいて、
ドイツ侵攻中のクレタ島で連合軍と行動を共にしていた
ギリシア系軍医のセオドア・ステファニデス(Theodore Stephanides)
医師・博識家・自然主義者・生物/天文学者・詩人・作家・翻訳者の言葉です。

「私たちはシュトゥーカを恐れました。
それは叫び声を上げながら降下してきて、
恐るべき正確さで爆弾を放っていきました」


シュトゥーカは、各翼の下に 100 ポンドの爆弾を、
胴体の下に 1,100 ポンドの爆弾を運ぶことができた




第二次世界大戦中、非常に正確なドイツのストゥーカ急降下爆撃機は、
他のどの航空機よりも連合軍の地上部隊に多くの破壊をもたらしました。


テンション上がったわりに、この一文を読むまで、シュトゥーカが
戦闘機なのか爆撃機なのかも知らなかったというわたしである。

シュトゥーカ、という響きは個人的にロシア語っぽく聞こえるのですが、
急降下爆撃機を意味するドイツ語の

Sturzkampfflugzeug
シュトルツカンプフルクツァイク


の最初部分を取って愛称にした感じでしょうか。
つまり、急降下爆撃機をキューバクと呼ぶみたいな。

同攻撃法の専門機みたいな位置付けで開発されたのかと思いますが、
対地攻撃の任務も請け負っていました。

1936年から始まったスペイン内戦で、あのコンドル軍団と共にデビューし、
第二次世界大戦終わりまで現役でした。

冒頭の写真を見ていただくと、逆ガル翼、そして
次の写真で空戦中なのに出しっぱなしの脚(固定スパット式)が
シュトゥーカを特徴づけていることがお分かりでしょう。


1)ダイブブレーキ

(赤いに囲まれた部分がブレーキ)

スツーカの設計にはいくつかの革新的な技術が含まれていました。

両翼の下にある自動引き上げ式急降下ブレーキは、
降下のスピードを遅らせ、爆弾を正確に投下し、
衝突する前に引き上げる時間を確保する役目を持ちました。

これは、たとえパイロットが高いGフォースで失神しても、
航空機が攻撃急降下から回復することを保証するものでした。

急降下攻撃における性能は、これによって向上し、
一定の速度を維持しながら、狙いを定めることができるようになりました。



2)後部機銃



後方からの敵機用。
後方砲手の射界を確保するため、二重垂直安定板が導入されていました。

3)逆ガル翼



急降下のスピードを上げ、同時に空力に耐えるためのデザインです。

3)ダイブ アングル サイト(降下角度指示器)


右舷のフロントガラスに赤く塗られたダイブアングルサイトにより、
パイロットは飛行機をターゲットに直接向けることができます。

しかし、その角度はどうやって決定したんでしょうか。
おそらく、赤い線は地平線と合わせて降下角度を知ったのだと思いますが、
角度は30°から90°までありますね。

90°急降下することが「理論的に」可能だったってことか?
と思って調べてみたところ、

Junkers Ju 87 - Stuka in Action | German Dive Siren (Real Footage in Color - WW2)
↑ 本当にやってました

5)自動操縦

こんな無茶な急降下をして大丈夫なのか、と思ったら、
案の定、シュトゥーカのパイロットは時々重力のため
気を失っていた
ので、急降下から飛行機を引き上げる仕組みの
自動操縦システムが装備されていました。

急降下の際にかかる乗組員への身体的ストレスは深刻で、
座った状態で5G以上の負荷がかかると、パイロットには
「シーイングスター」⭐と呼ばれる灰色のベールのような視力障害が発生します。

こうなると意識を保ったまま視界を失い、5秒後にはブラックアウト。
Ju87のパイロットは、急降下からの「引き上げ」時に
最も視覚障害を経験していました。

自動操縦がなければ、ほとんどがそのまま墜落コースです。


開発中、Ju 87 V1が墜落し、ユンカースのチーフテストパイロット、
ウィリー・ノイエンホーフェンとハインリッヒ・クレフトが死亡しました。

急降下による週末動圧試験中に逆スピンになったせいでしたが、
この事故により垂直安定尾翼デザインの変更とともに、
急降下時の風圧に耐えるため、フレームとロンジョンにブラケットをつけ、
胴体と前縁の下に重いメッキが取り付けられ、
油圧式ダイブブレーキが設置されることになりました。

この結果、Ju 87は急降下爆撃機として構造強度要件に達し、
降下速度600km/h、地上付近の最大水平速度340km/h、
飛行重量4,300kgに耐えることができたのです。

■ ”ジェリコのラッパ”の真実

Ju 87の主席設計者、ヘルマン・ポールマンは、
急降下爆撃機の設計はシンプルで堅牢でなければならないと考え、
格納式ではなく、「スパット」と呼ばれる固定式の脚周りを採用しました。

また、冒頭の軍医、ステファニデス少佐の書いたところの「叫び声」とは、
「ジェリコのラッパ」と呼ばれ、まるでシュトゥーカが
サイレンを付けていたかのように喧伝されましたが、
急降下の際に発生した風を切る音に過ぎませんでした。

この威嚇音はドイツのブリッツ(電撃戦)の際、
プロパガンダとして喧伝されましたが、実際のところは
隠密性の点からそれが威嚇として効果があったのは
スペイン内戦のころだけだったという話です。

■ 欠点

シュトゥーカは、第二次世界大戦の勃発時に、
近接航空支援と対船舶の役割で大きな成功を収めました。

1939年9月のポーランド侵攻では、航空攻撃の中心となり、
1940年のノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスへの侵攻においても
不可欠な存在であることを証明しました。

確かに頑丈で精度が高く、地上目標に対して非常に有効ではありましたが、
当時の他の多くの急降下爆撃機と同様に、戦闘機に対して脆弱でした。



ここMSIの機体展示、後方から追い詰めてくるスピットファイア、
その攻撃から得意のダイブで逃げようとする瞬間のシュトゥーカは
どうみても前者有利の雰囲気を醸し出しています。

スピットファイアのコクピットには、マークから察するに
すでにドイツ機を5機撃墜した「エース」が乗っていて、
6個目のハーケンクロイツを仕留めるチャンスを虎視眈々と狙います。

急降下爆撃機は、爆撃のための急降下は得意でも、
戦闘機のような駆動性は持ちませんから、それこそ狙われたら
ここのシュトゥーカのように、ダイブして逃げるしかなかったでしょう。

事実、1940年から1941年にかけてのバトル・オブ・ブリテンでは、
操縦性、速度、防御力に欠けるシュトゥーカを運用するために、
重戦闘機の護衛を付けていたという話があります。

しかし、それはシュトゥーカに限ったことではなく、
急降下爆撃機としての性能と信頼度はずば抜けていました。



王立海軍のテストパイロットで、敵機鹵獲飛行隊の指揮をとった
エリック『ウィンクル』ブラウン大尉は、

「私は多くの急降下爆撃機を操縦してきたが、
本当に垂直にダイブできるのはシュトゥーカだけでした。

急降下爆撃機では、最大潜航角が60度程度になることもありますが、
シュトゥーカを飛ばすときは、すべて自動で本当に垂直に落ちていくのです。

シュトゥーカは他にはない独自の飛行機でした」


とその性能を絶賛しています。

■ シュトゥーカとヴォルフラム・フォン・リヒトホーヘン



撃墜王として有名だったマンフレート・フォン・リヒトホーフェンの弟、
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、自身もパイロットとして
有名でしたが、彼は自身の経験を惜しみなく発揮して
この時期、陸軍支援航空の主要な推進者でした。

彼は自身の空戦体験から、近代空軍が克服するべき
いくつもの問題を提起し、戦術と作戦レベルを引き上げようとしました。

彼の一つの戦術的な提案は、作戦を革新させました。
それがシャトルエア戦術(前線に近い位置から航空機を往復させる)であり、
兵站にモータリゼーションを活用する作戦でした。

ドイツ空軍は彼の意見を全面的に取り入れてきましたが、
(彼がゲーリンクに絶大な信頼を置かれていたためかと)
ことシュトゥーカの開発に関しては、
当時技術局で新型機の開発・試験を担当していた彼は、
ユンカースの主任技師に、

「パワー不足でドイツ空軍の主力急降下爆撃機になる見込みはほとんどない」

とにべもなく切り捨てています。

そのため、一度は、ライバル機であるハインケルHe118が優先されて
シュトゥーカは開発中止を言い渡されましたが、



プレイボーイで有名だったリヒトホーフェンと同じくらい女出入りが多く、
(いらん情報)有名な戦闘機パイロットで設計技師の
エルンスト・ユーデットが競合のハインケルの試作機を墜落させたため、
消去法でシュトゥーカの開発が継続されることになりました。

選ばれたとはいえ、シュトゥーカの設計はまだ不十分で、
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは首を縦に振りませんでした。

彼はより強力なエンジン、最高速度が350km/hを下回らないもの、
という高い要求を突きつけ、これを解消するために
ユモ210 D倒立V型12気筒エンジンを搭載することになりましたが、
この試験飛行の結果にもリヒトホーフェンは満足しなかったようです。

地上では280km/h、1,250m(4,100フィート)では290km/hと
数字では全く要求に達しませんでしたが、
良好な操縦性を維持していたため、そのまま採用となりました。

■シュトゥーカの戦術


バトル・オブ・ブリテンの後、ドイツ空軍はバルカン半島、
アフリカ、地中海、東部戦線の初期にシュトゥーカを配備しました。

ほぼ垂直に飛び込み、ピンポイントの精度で爆弾を投下することができたので
地上支援、対戦車、対船舶に使用されました。

シュトゥーカは、50 機以上の編隊が
Vまたは「フィンガー」フォーメーションで飛行する戦法を取りました。
この技術は、最終的に世界中の空軍によってコピーされることになります。

急降下の方法とは次の通り。
自動的に行われる動きは赤字、パイロットの操作は青字。



高度4,600mで飛行

コックピットフロアにある爆撃窓から目標を確認
ダイブレバーを後方に動かし、操縦桿の「スロー」を制限


[ダイブブレーキが自動的に作動]

トリムタブをセット、スロットルを下げ、冷却フラップを閉める

[機体は180°ロールし、自動的に急降下する]

[Gフォースによるブラックアウトが発生した場合、
自動潜行回復システムが作動]

[60~90°の角度でダイブすると、ダイブブレーキの展開により
500~600km/hの一定速度を保つ]

航空機が目標にある程度近づくと、接触式高度計
(あらかじめ設定された高度で作動する電気接点を備えた高度計)
のランプが点灯して爆弾の放出地点を示す(最低高度 450 m )


爆弾を発射
操縦桿のノブを押して自動引き抜きを開始

[引き上げが始まる]

[機首が地平線の上に出ると、急降下ブレーキは後退、
スロットルが開き、プロペラは上昇モードに設定される]


パイロットはコントロールを取り戻し、通常の飛行を再開する


■ その後のシュトゥーカ

ドイツ空軍が制空権を失うと、シュトゥーカは敵戦闘機から
格好の標的となりました(この博物館の展示のように)。

しかし、より良い代替機がなかったため、1944年まで生産されていました。
1945年までに、地上攻撃型のフォッケウルフFw190が登場しましたが、
物不足の折、Ju87は1945年の終戦まで現役で活躍していました。



シュトゥーカのパイロットとして最も成功したことで
「シュトゥーカ大佐」という異名すら持っていた

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐
Hans-Ulrich Rudel 1916– 1982

は、終戦までずっと、
東部線線でシュトゥーカに乗って戦い続けました。

戦車 519輌、装甲車・トラック 800台以上、
火砲(100 mm口径以上) 150門以上、装甲列車 4両、戦艦 1隻(マラート)
嚮導駆逐艦 1隻、駆逐艦 1隻、上陸用舟艇 70隻以上、
航空機 9機(戦闘機 2、爆撃機 5、その他 2)

というとんでもない戦績を上げたルーデル曹長(活躍時)ですが、戦後に

「何故あのような遅い機体(Ju87)で、あれだけ出撃(2500回)し、
かつ生き残ることが出来たと思いますか?」

と尋問をする英米軍将校に対して、こう答えたそうです。

「わたしには、これという秘訣はなかったのですが・・」
(大真面目)

ルーデル大佐が凄過ぎ、というか、
それだけ遅い機体の代名詞だったのねシュトゥーカって・・。

■ 科学産業博物館所蔵のシュトゥーカ



連合国は 1941 年に北アフリカの飛行場でこの飛行機を鹵獲しました。

鹵獲当時は特別なカモフラージュがされていて、
サンド フィルター、砂漠のサバイバル用品、その他の改造により、
熱帯での戦闘に備えることができました。

世界に現存する2機の同型シュトゥーカのうちの1機となります。


続く。