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義烈空挺隊~彼らの迎えたその日

2012-05-26 | 陸軍

       


この写真に映る「義烈空挺隊」の幟は、前回義烈について書いた日の画像、
「最後の握手をする奥山大尉と曽我部大尉」の写真で、奥山大尉の向こうにも見えていました。

そこでふと考えたのですが、この幟は、何のために作られたのでしょうか。
彼らの目的は、敵飛行場内に強行着陸して、基地の破壊をすることです。
回りが米軍ばかりのそこで、この幟が味方の認識に使われるというわけではないでしょう。
考えようによっては動きの妨げとなり、目立ちやすい幟を、
まるで戦国時代の合戦でもあるように背負っていくことの意味は・・・。


昭和19年7月、サイパンが敵に占領され、B-29による本土空襲が必至と見た大本営は、
まず、それを阻止する為に飛行場の爆撃を計画しました。
11月には本格的な本土空襲が始まり、それに対して陸海軍は飛行場の爆撃を数次に亘り
行いますが、効果はなく、敵空軍の活動を封じ込めることはできませんでした。

そこでまず計画されたのが、空挺部隊をサイパンの飛行場に強行着陸させる特攻作戦です。
そして第一挺進団第一聯隊より、奥山道郎大尉指揮の126名の部隊が差し出され、
その作戦に従事することになりました。

この部隊に諜報活動のための中野学校出身の士官8名、下士官2名の計10人が加わり、
ここに義烈空挺隊と後に命名されることになる特攻隊が編成されることとなったのです。

さらに、この部隊を乗せてサイパンに運び強行着陸する飛行部隊として、
諏訪部忠一大尉を隊長とする第三独立飛行隊が指定されました。
この飛行隊はもともとサイパン攻撃のために編成された部隊で、百式司偵を改造した
爆撃機を装備していました。
これを九七式重爆撃機に機種改編し、訓練に入りました。

奥山隊が豊岡に到着すると、すでにそこにはB-29の実物大模型ができていました。
それは丸太で骨組みを作り、胴体や主翼の部分にはトタン板を貼って作ってありました。
これを使って飛行機爆破の訓練が行われます。

前述の「日本ニュース」では、この奥山隊の爆破練習が映されています。
不鮮明な白黒のフィルムではそれが模型とはわからなかったため、当初
「飛行機を爆破するなんて、そんな余裕が日本にあったのだろうか」
と驚いてしまいました。

この訓練は、敵飛行場に着陸後、誘導路を疾走し、B-29に目標を決め爆破する為のものです。
爆破には次の方法が使われました。

まず一つは、帯状の爆薬をB-29の胴体の上に投げ上げて爆破するやり方。
巨体のB-29は、地上から胴体まで4m50もあります。
ここに投げ縄のように爆薬を投げ上げるのですが、特に背の低い者には難しいことでした。
しかし、連日の猛訓練を行ううちに、帯状の爆薬の先についているおもり(砂袋状)が、
まるで自分の身体の一部でもあるかのように自由自在に扱うことができるようになったそうです。

もう一つの方法は、長さ1m50の棒の先に爆薬がついているものを、
翼の付け根に装着して爆破するやり方でした。
爆薬の上面にはゴムの吸盤が取り付けてあって、それを翼に吸着させるのです。
これは、簡単なようで、接面の形状によっては吸盤が上手く吸いつくかどうかが不安定です。

このやり方だと、失敗の可能性もあるので、
爆薬に点火した後これを持ったまま自爆するという案が出されましたが、
奥山隊長は「一人当たり最低でも5機を屠れ」と言って、自爆を許しませんでした。

誘導路上を500m全速力で走る。
目標はまずB-29。
射撃を受けても立ち止まらずとにかくそこまで走り込んだら、
爆薬を装着し、点火管の紐を引く。

点火を確認後、30m避退して伏せる。

ただ、これだけの動作を、連日激しく訓練しました。
単純な動作であっても、入魂の繰り返しを行ううちに、彼らの技術は磨かれ、
全員がその技を神技の領域までに極めていたと言われています。

このように、全員が訓練を通して士気を高めていた奥山隊ですが、それに対し、
彼らを運搬し、彼らと共に飛行場に降りたって爆破行動を下命された三独飛の隊員は、
その使命に釈然とせぬものを抱いていたようです。


飛行機乗りは生還が難しい戦場に赴くのであっても、
それが使命であれば淡々と出撃していきますが、最初から全員戦死を決定された任務、
しかも、操縦ではなく、降り立ってからの破壊行動は、操縦者である彼等にとっては
納得のいかない想いがあったからでした。

そういう意味では、連日火を吐くような猛訓練で結束も固い奥山隊と諏訪部隊では、
どうしても温度差というようなものがあったということです。

しかし、豊岡に来て、飛行隊にも新たな任務が与えられました。
それが前回も言いましたが、
「B-29を奪取して操縦して帰還すべし」
だったのです。

これなら、生還の可能性と共に、飛行隊が切り込む意義として申し分ありません。
彼らには撃墜した飛行機から入手したマニュアルを翻訳したものが与えられ、
全員の士気もこれによってあがってきました。
たとえその作戦を成功させる可能性は極めて低いと思われても。

しかし、三独飛の当初の錬度では、当時の航法機材を使ってサイパンまで飛ぶのも危ぶまれ、
19年12月の出撃中止以降、様子を見ているうちに、敵は硫黄島に攻撃を始めました。

この作戦はサイパンまで飛ぶにあたり、硫黄島で給油しなければならなかったので、
ここが使えなくなるということは、作戦自体が実行不可能になってしまいます。
奥山隊を浜松に召集し、連日待機させましたが、硫黄島には着陸することも不可能になったため
ついに1月30日、サイパン強行着陸作戦は中止になりました。


奥山隊の隊員たちは、依然特攻隊という組織のままで、宮崎県の飛行場に戻ります。
いわば全員が目標を失って傷心の原隊復帰でした。


2月になってアメリカ軍は硫黄島に上陸しましたが、激しい抵抗を続ける日本軍のため、
3月に入っても主陣地を攻略することができませんでした。
しかし、その中にあってすでに島内の飛行場は抑えられてしまっていたので、
大本営はここに義烈空挺隊を投入することを計画します。

呼び寄せられた奥山隊は、喜び勇んで馳せ参じ、またもや猛訓練に励むようになります。
サイパンと違って、今回は敵中に突入することから、前回とは戦法も変更しました。

ところが、またもや作戦は中止となってしまいます。
3月25日、栗林中将以下、最後の突撃を敢行し日本軍が玉砕してしまったからでした。

日本軍が物量の前にじわじわと侵食され、前線を後退していくのを目の当たりにしながら、
特攻隊として編成された義烈空挺隊、ことに奥山隊が、
いつになっても死に場所を与えられないもどかしい思いに、いかに身を苛まれていたことか。

奥山隊は、最終的に4機が不時着したため、戦後も隊員が生存しており、
この期間、隊員たちがどのような精神状態でいたかの証言が残されることになりました。
いわく、

「豊岡や西筑波にいて身近に空襲を体験し、激しい闘志を燃やしているときは迷いはないが、
目標を失い、その頃まだ平穏な日向の片田舎に在って、
しかも特攻隊という名を負い続けていることは、耐えがたいことだった」




昭和20年4月、敵は沖縄に四個師団をもって上陸してきました。
この頃、知覧を中心として航空特攻の数は熾烈を極めていましたが、
4月15日、選抜した戦闘機二一機で飛行場を制圧しつつ特攻攻撃をかけたところ、
それが多大な戦果をもたらしたことから、義烈空挺隊の起用が三度検討されることになります。

奥山隊は宮崎を発って熊本の健軍飛行場の三角兵舎に入りました。
宮崎を後にするのはこれで三度目です。
―三度も身辺整理のために私物をまとめ、送り先を書いて司令部に託してきたが、
はたしてこれが最後となるのだろうか―
彼らの心境はまさに「三度目の正直たれ」というものであったことでしょう。

驚くべきは、日本の戦況に自らの運命を心身ともに翻弄されていた半年の間、
奥山隊からは一人の脱落者も出なかったということです。
彼らがその間、どんな日々を送り、どんな気持ちで当日を迎えたのか、記す書物は少なく、
それはすでに想像するしかありません。

 

空挺部隊は夜襲を目的としているので、訓練は夜行い、昼睡眠をとりました。
同行した日本ニュースの社員大峯氏は、その最後の日々、
昼間皆が寝ている横で、奥山大尉と諏訪部大尉がパチリ、パチリという音をさせながら
無言で碁を打っている様子を記憶しています。

出撃予定日は5月23日。
義烈空挺隊が飛行場を制圧している間に、陸軍第6航空軍と海軍第5航空艦隊は、
総力を挙げて特攻攻撃を行うことになっていました。
ところが、激励の辞、訓示、乾杯とすんで愈々搭乗となってから、海軍から報告が入ります。
「沖縄方面天候不良につき作戦延期」

明けて5月24日。
この日が、義烈空挺隊の最初の、そして最後の特攻出撃の日となります。


前回、彼ら全員の顔を輝かせているような歓喜の表情はどこから来るのか、と書きました。
今から死にに行く人間が、一人残らず微笑みを浮かべ、嬉々と死地に赴くのは何故かと。


彼らが特攻隊として編成され、共に死ぬためと個々の想いを押し殺して訓練に励み、
あるいは覚悟と恐怖のはざまで苦悩してきたであろうこの半年、
各自に去来するさまざまな想いをまるで弄ぶかのように、運命は彼らを地上に留め続けました。

それが彼らを、胃の腑をかきむしるような悔しさと、もどかしさと、或いは、
「やるならひと思いにやってくれ」とでも言いたくなるような精神状態に陥れたことは
想像に難くありません。

「全員が喜び勇んで往きます」

奥山大尉が挨拶で述べたこの一言には、嘘偽りの無い彼ら全員の本意があったと考えます。

実際平和しか知らない我々には、その本意自体理解しがたいものであるのも確かです。
それでも、それが虚勢でも誇張でもない真実であろうことは、彼らの表情が物語っています。

冒頭の隊員のように、「義烈空挺隊」の幟を誇らしげに掲げ、
マスコットの人形と共に、まるで弾むような足取りで搭乗機に向かう彼らは、
もしかしたら、本当に晴れ晴れとした、子供のような気持でその日を迎えたのかもしれません。








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