ネイビーブルーに恋をして

バーキン片手に靖國神社

地球水没〜映画「妖星ゴラス」

2021-08-15 | 映画

映画「妖星ゴラス」、最終日です。

今日は、豪華巻頭ページ色刷り(いつの時代の雑誌だよ)で、
この映画のツッコミどころのいくつかを可視化してみました。

映画を観ていない方(そしてこれからも観る気がない方)のために、
右上の宇宙省大臣秘書の台詞を解説しておきますと、
宇宙探査が中止になると思い込んだ間抜けな鳳号パイロットたちが
宇宙港にVIPを運んできたヘリを強奪して勝手に宇宙省に談判に押しかけ、
ノーチェックで大臣のドアをノックしたときのことです。(すごいな)

話があるなら艇長を通せ、という大臣に、アホの金井が

「艇長は中止になったって言うんで、ピストルで頭を打ち抜いて」

「死んだのか?」

「我々が飛びついて危うく右の耳を吹っ飛ばしただけで助かりました」

これは、ギャグなのか?笑わせようとしているのか?

すると必要以上に色っぽい秘書が奥から飛んできて、

「またあんたたち!」

とまるで下宿屋のおかみが学生を叱るような口調で言い放つのが、この

「遠藤艇長の右の耳は5年前からないんですよ」

という謎の情報なのです。
もしかして遠藤演じる平田昭彦には右の耳がなかったとか?と
思わず画像検索をしてしまったわたしでした。

とまあ、真面目に観た人には突っ込みどころ満載すぎて、
ネタとしか認識されないのがこの頃の東宝SFものなのですが、
特にこの映画は伏線回収なし、何かと問題の多い登場人物の行動、
面白くも何ともないチンピラパイロットたちのはしゃぎぶりが、
地球移動という荒唐無稽な発想より問題かもしれないと思うのです。


さて、とか何とかやっている間に、ゴラスは太陽系に達し、
地球到達まで後45日となってしまいました。

あれだけ大騒ぎして宇宙に飛び立った鳳号ですが、成果らしい成果はなく、
結局カプセルでゴラスに近づいた金井が記憶喪失になっただけ。
何の成果もないまま帰ってきてしまうのよ。
国民の血税を注ぐ鳳号の出発をあれだけ国会が出し渋ったのに、
やっぱり税金を無駄にしただけだったじゃないか。

国連はこれでも南極のジェットパイプ予算を出そうとしないのか?
っていうか、これだけの事業、国連拠出金だけで賄えるはずないだろ。
ちゃんと特別予算組んで対処しろよ!

と怒っていると、ここで唐突に怪獣が出てきてしまいました。

東宝だからね。油断も隙もありゃしませんよ。
ゴジラが放射能から生まれたように、この南極怪獣「マグマ」(誰が名付けた)も、
地軸を動かすために建設された原子力ジェットパイプの熱で目覚めたのです。

つまり南極の地底で気持ちよく眠っていたら起こされてしまったと。

さっそく河野博士は園田博士に電話で連絡を行います。

昔架線電話は玄関に置かれていることが多かったようですが、
従ってこのテレビ電話も玄関ぽいところに設置されています。

「すぐ南極に飛んでくれんか。話は向こうで!」

「もしもし、君、もし」

ブツっ(電話の切れる音)

ちょっと待って、南極ですよ?
集会所の碁に誘う程度でもちゃんと要件は言うぞ。

しかもこの爺さんをわざわざ地球の端っこまで呼びつけて、
血液組成を顕微鏡で見て解析させるだけ。

「どう見ても爬虫類の血液だ」

血液検査できる人間が一人もいないとか、どんだけ人材不足なのよゴラス対策日本支部。

ところでどうしてここで怪獣が出てきたかと言うと、クランクアップ前になって
東宝上層部が、

「せっかくの円谷特撮だから怪獣を出してほしい」

とねじ込んできたらしいですね。
監督は必死で抵抗し、この部分の監督を円谷に任せ、さらには後年本作について

南極であの動物さえ出なかったら、自分でも一番好きな作品」

と言っていたり、海外公開バージョンではマグマの部分がカットされていたり、
まあようするにこの怪獣のシーン、蛇足もいいところ(爬虫類だけに)。

たとえこれで多少の集客効果はあったとしても、作品として
無茶苦茶というか支離滅裂になってしまったという事実は否めません。

しかもこの怪獣っちゅうのが実に粗雑な出来で、爬虫類なのに見かけセイウチ。
地底で眠っていたのに目がサーチライト。

やっつけで登場させたこともあって、怪獣はあっという間にやっつけられることに。
巨大な新型生物の発見ですが、田沢博士にかかったら

「72時間も作業を空費させられた憎っくき邪魔者」

であり、とっとと殲滅すべき「害獣」でしかないのです。
田沢博士が生物学者とかならちょっと考えも違うんでしょうけどね。

マグマのいる周りの崖を破壊し埋めてしまいました。
ここで不思議なのですが、博士ら3人は(というか、全ての作業を
日本チームだけが押し付けられているのは一体何の罰ゲーム?)
マグマの生存を確かめるためにわざわざ近くに降りて歩いて見に行きます。

瓦礫に埋まっていただけのマグマはまた動き出しました。

「うわっ」「危ない!」

園田博士がなぜか怪獣に駆け寄ろうとして二人に止められます。
ボケてるのか爺さん。

慌ててVTOLに飛び乗り、もう一度攻撃して怪獣殲滅。
登場時間はだいたいシーンにして7分でした。

この怪獣がどう言う生態系なのか、1匹見つけたらその周りに
もしかしたら30匹はいるのではないかとか、親や子はないのかとか、
なぜ南極の地下で寝ていたのか、地表で活動したことはあるのか、
そういう情報は全くないまま終わります。

これではマグマに親近感を持てと言うのが無理な話です。
しかも、劇中ではマグマ、名前がないので名称で呼んでももらえません(涙)

名前がないまま酔ってカメに落ち、水死した漱石の猫みたいなものです。


ゴラスはすべてのものを吸い込みながら不気味に近づいてきます。
たとえば土星の輪っかとか(笑)

ゴラス接近により、沿岸部の水没が予測される、ということで
智子と滝子の二人は避難の用意をしています。

しかしリアリストの瀧子は

「こうなったらどこに逃げたっておんなじよ。死ぬときは死ぬんだわ」

「いっそのことゴラスがぶつかって皆死んじまった方が幸せかもしれないわ」

などと結構正論をついてきます。

そこに連行、と言うか仲間に連れてこられたのが記憶喪失の金井。

何も覚えていない上、手間ばかりかけさせやがって何の役にも立たないので
任務から外された金井ですが、なぜか彼が写真を持っていたというだけの理由で
彼らは彼を滝子のところに連れてきたってんだから驚くじゃありませんか。

いや連れて行くなら宇宙省管轄の病院か百歩譲っても実家だろう。
付き合っているわけでもない女性の家に送り届けて何をさせるつもりだ。
迷惑とかちょっとは考えろと。

「滝子さんよ。おわかりにならない?」

すると連れてきた同僚は、

「やめてください。そう言う質問が一番辛いんです」

じゃあ連れてくるなよ!(怒)
同僚二人、疎開すると言う滝子たちに金井を押し付けて帰っていきました。

警戒警報が発令されました。
これは・・・勝鬨橋ですよね。

山手線。

新橋か銀座の端っこ?
よく観ると、白い犬が1匹横切ります。
芸が細かい。

ゴラスが地平線から消えたとき、それが最接近のときです。
地球最後の時になるかもしれません。

そして皆が見守る中、月は物凄い速さで(三日月のまま)
ゴラスに吸い込まれ、爆発してしまいました。

月が吸い込まれているのだから、地球に何も起こらないわけがないのですが、
地球上ではちょっと風が強くなってるかなー程度の気象変化しかありません。

南極の科学者はもはや手を拱いて見ていることしかできません。
海水の変化による高潮があちらこちらで始まりました。

この非常時に海岸線を走っている電車は海水に飲み込まれ、
街にも波が押し寄せ、橋には流されてきた艦船が激突。
もうこの時点で都心部は壊滅状態です。

今回は怪獣特撮の全体に対するボリュームが少なく、円谷プロの特撮は
ほぼ全精力を都市破壊に振り切った感があります。

そのころ園田家と滝子、金井は、どこの田舎かわかりませんが、
風が吹けば飛ばされそうな旧式の日本家屋に非難しております。

周りの家が次々崩れて行くのに、この人たちはなぜか
この家にいるのが安全だと信じて疑っていないようです。

しかもそんな中金井がなぜか頭痛の発作を起こして大騒ぎ。
皆で手当てにかかりきりになるなどどこまでも迷惑な奴です。

カウントダウンは2分を切りました。
意識を取り戻しテレビの最前列に陣取っていた金井が今度はゴラスの映像ににじり寄ります。

記憶を失ったときのことを思い出すと同時にまた気を失いました。
後2分で死ぬかもしれないのに、こいつの介抱に全員おおわらわ。

「気がついた!」

「・・・君か」

皆で喜んでる場合じゃないだろ。
わたしだったらこんな最後嫌だ。

というか、金井ってなにか宇宙飛行士として任務を果たしたの?

そしてあと10秒。

南極にも海水はおしよせているのですが、
ジェットパイプ装置はそんなことで動きを止めません。
最後の瞬間まで地球を動かし続けます。

ゴラスは地球をギリギリで通過しました。

予定時間はすぎ、

「We did it?」

と聞くギブソンに、田沢は

「We did it!」

途端に喜びに沸く南極基地。
まず田沢はフーバーマン博士と抱き合います。

日本人の作業員が田沢にまとわりついていますが、田沢、
日本人には見向きもせず外国人技術者ばかりとハグしております。

「あーもうたまらん!」みたいな。

どれだかわかりませんが、この外人俳優の中に、オスマン・ユセフという、
「青島要塞爆撃命令」でマッカーサーの役をしていた人がいるはずです。

最後にもう一度フーバーマン、ギブソンと抱き合ってフィニッシュ。

そして・・・やっぱり日本人なんですねえ。

「バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」

ワールドワイドな万歳三唱の後の拍手。
この瞬間、アメリカとソ連の科学者は何をしていたのか知りたい。

国会でも皆でテレビを見ていたようです。

ギブソンは、

「これから地球を元の軌道に戻さないと」

と田沢に英語で言います。

ところでなぜこの役がフーバーマンでなかったかなんですが、
ジョージ・ファーネスは元来俳優ではないため、滑舌が悪く、(弁護士ですが)
声もかなりの濁声なのでこちらに回されたのではと思います。

田沢はそれに対し、今度は北極にジェットパイプを据え付けなくてはならないので、

「水力装置は南極より北極の方が設置が大変なんだ。足元が海だからな」

と日本語で言います。
彼らは互いに母国語で話し合っていますが、下手な英語や日本語を喋らせるより
こちらの方が良かったのではないかと思われました。

この映画で唯一わたしが高く評価する演出です。

そしてそれに対し、

「We must do it!」

とギブソンは力強く答えます。

とりあえず地球は破壊を免れたと言うだけのこと、この被害は大変なものです。
そのための地球のあらゆるリソースは根こそぎ奪われているし、文字通り足元は水だし、
いつになったらその設計にとりかかれるかも皆目見当がつきません。

しかしまあ、ここまでの回避を少ない予算と人員(ほぼ日本だけで)
やり遂げたんですから、この人たちが死なない限り地球は大丈夫ってことでしょう。

この映画の残念なところは数え切れないほどありますが、
その最たるものはこのとんでもないエンディングにあります。

爽やかな音楽とともに、アナウンサーが明るい声で

「やっとこの東京にも平和の光が戻りつつあります」

ってこの光景のどこをどう解釈したら平和の光が戻りつつあるってことになるんだよ。
多分この状況ならまだ必死の救命作業とか遺体の捜索中だぞ。

「悪夢の高潮が引くに連れ、海底に没していた関東平野も次第にその姿を現し始めました」

これでも高潮が「引いた後」なのだとしたら、おそらく関東の人口の9割は
水に飲み込まれてお亡くなりになっていると思うな。

そして場面は唐突に東京タワーのエレベーターホール。
疎開していた園田家と滝子と金井の一団がぞろぞろ出てきます。

エレベーターの電源がちゃんと作動し、営業を行っていることも不思議ですが、
(エレベーターガールまでいる)展望台ではテレビクルーがカメラを押していたり、
見物客がいっぱいいたりで全くわけわかりません。

そして彼らは展望台から外を眺めて呑気に嘆息します。

台風の後お庭の花がだめになった、みたいな調子で、

「わあ、我が東京は全滅ね」

すると金井がまたお気楽な調子で、

「また新しい東京を作ればいいさ」

それさ、今回の水害でお亡くなりになった方の遺族の前で言えるのか?

だいたい、国家予算をつぎ込んだミッションでヘマこいて何の役にも立たず、

ゴラスを見たらなぜ記憶を失うのか、なぜテレビでもう一度ゴラスを見たら記憶が戻るのか、
その理由についてなんの説明もなく、
何水害見物してんだよ金井。

公務員なんだからサボってないで水没した宇宙港の復興作業手伝いに富士山麓に行け。

すると滝子が、(結局この二人が付き合いだすというオチもなし)これも気楽に、

「簡単に言うわね」

「そうだよ。さっき南極で田沢さんも言っていただろ。
人類が残っている限り無限の可能性があるんだ。
今度作る東京は、きちんと都市計画を立てて」

それはそうかもしれないが今のお前が言うな。

それから、この人たちは疎開先の田舎からどうやってここにやってきたの?
地下鉄は全滅、飛行機はすべて沈没、線路も壊滅状態だと思うけど、

東京タワーのある芝までボートでも漕いできたのか?

地方の都市も当然水没してえらいことに。
しかし天守閣以上に高い建物がないとか、江戸時代かいって話ですが。

しかし、そんな状況にもかかわらず、放送が勝利宣言を行います。

「ただいまから国連科学委員会からのメッセージをお送りします。

みなさん、我々は勝ちました。
妖星ゴラスはすでに太陽系から離れようとしております。
我々は全人類の平和への願いと協力によって勝ち得たこの勝利を
無限のものにしようではありませんか」

そのとき、南極の部分にあかあかと点っていたジェットが消えます。
人類の挑戦は、この青い地球が存続する限り止むことはないでしょう。

たとえイーロン・マスクのおかげで人類が火星に移住できる日が来たとしても。

 

終わり。


「地球最後の日」〜映画「妖星ゴラス」

2021-08-11 | 映画

またしても東宝のSFシリーズを取り上げるときがやってまいりました。

池部良、田崎潤、上原謙、平田昭彦、志村喬。
そっくりそのままそれは「地球防衛軍」や「海底軍艦」の配役だったりするわけで、
わたしはこの人たちを今まで何回描いたことか、と遠い目になってしまいました。

「妖星ゴラス」

宇宙開発が世界の注目を集め、話題に追随する創作物が世界中に溢れつつあった
1962年というこの時代、妖星ゴラスの地球への衝突を回避して地球を破滅から救うべく、
日本の科学者(と申し訳程度のアメリカ人科学者)が必死の奮闘を続けるというストーリー。
監督はあの多猪四郎監督です。

これはもう「地球防衛軍」「海底軍艦」と並ぶ、突っ込みどころ満載三部作の一角として
今日まで当ブログの好餌になる運命を帯びる日を待っていたとしか思えません。

わたしがやらねば誰がやる。

という意気込みで、さっそく始めたいと思います。

タイトルロールに流れる音楽は、もろ伊福部明先生の「ゴジラ」のパクり、もといオマージュ風。
これは盗作と言われてもしかたないのでは、とマジで心配になるくらいです。

さて、ここは地球。(そらそうだ)
地球時間の1979年という設定です。

・・といえば、スリーマイルで放射能事故が起き、サッチャーが英首相になって、
ソニーが「ウォークマン」を発売し、「エイリアン」「地獄の黙示録」が上映された年ですね。

この映画では、この頃には宇宙開発が日本でも本格的に進み、
宇宙省が創設されて、宇宙探査船のパイロットが職業として成立している、
という前提のもとにストーリーを進めております。

 

その近未来にのある夜、イカした真っ赤なオープンカーを飛ばして
月明かりしかない海辺にやってきたのは、見目麗しい二人のうら若き女性。

一人は宇宙局のベテランパイロット、園田を父に持つ娘の智子(白川由美
もう一人はその親友の野村滝子(職業不詳)です。

ちなみに智子は祖父もまた航空宇宙の専門家(志村喬)というお嬢様ですが、
そのお堅い肩書きのわりにこの登場シーンは派手すぎる気がします。

しかも友人の水野久美演じる滝子が「夜の海で泳ぎたい」と水着もないのに言い出し、

「見てるのはお月様だけ♡」

というや二人で服を脱ぎ出します。
BGMがなぜかハワイアン調になり、「海底軍艦」の冒頭シーンのような
顕な下着姿の女性を期待してワクワクしていた(にちがいない)
男どもの期待は、次の瞬間、あっさりと裏切られるのでした。

閃光と轟音、そして上昇するロケットが。
富士山麓にある宇宙港から土星探検の宇宙船「JX-1隼号」が発射されたのでした。

カーラジオの臨時ニュースで、艇長と副艇長の名前とともにその離陸が報じられます。

この二人、宇宙船艇長の娘と副艇長の恋人ですが、なんと驚いたことに、
この瞬間まで打ち上げの時間も、父と恋人が乗っていることも知らなかったようなのです。

これはあれかな、宇宙時代の到来で、ロケットの打ち上げなど、
新幹線の出発みたいに珍しくもなんともなっているという設定なのかしら、
と思ったのですが、隼号が出発したのは「第一次土星探検」という
史上初のミッションだというではありませんか。

それなら、本来家族は出発日時を知っているだろうし、それどころか、
NASAのように発射見送りを許されているものではないでしょうか。
当然ニュースで告知されているはずだしね。

 

という具合に、しょっぱなから口を酸っぱくして突っ込まざるを得なくなり、
大変心苦しいのですが、善意で?解釈すると、次からのシーンが
シリアスで地味なため、
せめて最初だけでも
お色気らしきものを盛り込んでみましょうということのようです。

余計なお世話だ(笑)

さて、こちらは世紀の偉業を成し遂げようとする隼号。
日本国宇宙省管轄の宇宙船で、JX型ロケットの1番機です。

ウィキペディアによると、建造には1979年当時で11兆6千億円が費やされた
単段式のロケットであり、撮影のための模型は1m弱の大きさとなっております。

キャビンはこのとおり、広々として居住性抜群。
メンバーに一つずつパネル付きデスク完備です。

無事に発射打ち上げが成功したばかりのキャビンなのですが、
シートベルトは今時普通車にも見られないような胴体だけを締めるタイプ。
しかもヘルメットはバイク隊のお巡りさんのようなデザインです。

船内は勿論与圧完備、おそらくGも軽減することができる、すごい仕組みがあるようです。

と、相変わらずちょっとバカにしていたわたしは、ここであることに気がつきました。
「土星の探査が17年後に可能となっている」
というこの映画の「予言」は実は当たっていたことです。


実際に探査機「パイオニア11号」が土星に接近したのはまさに映画の舞台1979年のことであり、
翌年の1980年にはボイジャーが同じく土星の探査を行っているのです。

1979年9月1日、パイオニア11号が撮影した土星(実物)

もちろん、探査機ですから無人で「隼号」のように3〜40人も乗せてはいませんが。

アナログ計器

Angular velocity、角速度は、ある点をまわる回転運動の速度を、
単位時間に進む角度によって表したものです。

早い話ロケットがどれくらい移動したかということだと思います(適当)

こちら、隼号艇長、園田雷蔵(田崎潤

田崎潤が演じる軍人的な役柄には、必ずと言っていいほど美しい娘がいますが、
その娘というのが先ほどの白川由美であるわけです。

そしてこれが副艇長の真鍋秀夫

真鍋は滝子の恋人で、二人は彼がミッションから帰ったら結婚する予定・・・
としっかりわかりやすいフラグ要員です。

彼らにはおそらく自衛隊や海保のような階級があるはずなのですが、
ここではそこまで細かくディティールを設定しておりません。

想像するに、彼らのほとんどは、宇宙局創立に伴う宇宙飛行士部隊組織の際、
自衛隊から志願してきたパイロットではないかと思われます。

 

そのとき、隼号に緊急の連絡がありました。
地球に接近する、質量にして地球の六千倍の大きさの惑星、
「ゴラス」(発見された途端命名されている)が発見されたと。

園田艇長はすぐさまミッションをゴラスの観測に切り替える決意をします。

しかしすぐに異変が起こりました。
隼号がその星に強い引力で引き寄せられているのです。

写真はこの時代のロケットに搭載されている観測用のスコープで、
旧型潜水艦の潜望鏡のように片目で覗くと、宇宙船の外殻から
バブルウィンドウに守られた観測用カメラが出てくる仕組みです。

必死で船体をゴラスから反航させ、エンジン全開で踏ん張ろうとしますが、
引力に抗うことができず、吸い込まれていく状況にパニくる乗員たちを、
神宮寺大佐は、じゃなくて園田艇長は叱咤します。

「部署につけ!脱出不可能ならどうしようというのだ!
酒飲んで歌でも歌いながら死のうというのか」

自分たちは命に代えてもこの星のデータを取って後の世に遺すべきだ。
言い終わった艇長の頬には涙が流れていました。

そうこうしている間も、隼号は3.57Gで引き寄せられています。
しかし、キャビンでは皆普通に立ったり座ったり歩き回っています。

神宮寺、じゃなくて園田大佐は、じゃなくて艇長は宣言しました。

「隼号の任務はこれをもって終了する。
皆よく頑張ってくれた。ありがとう」

すると一人の乗員が、

「バンザーイ」\(^o^)/

「バンザーイ」\(^-^)/

そして泣きながら全員が・・

\(^-^)/\(^-^)/\(^-^)/\(^-^)/

この頃のスタッフはまだ戦中派が多かったこともあり、
旧軍の最後の突入を思わせるシーンでの万歳ということになったのでしょう。
それは一向に構わないのですが、この構図ったらあまりにも間抜けです。

カメラワークって、大事。

そして、隼号はゴラスに飲み込まれました(-人-)ナムー

折しもその時日本は12月25日。
あの打ち上げの日から季節は夏から冬に変わっていました。


クリスマスで賑わう街を遊び歩く園田智子と滝子の行手に、
家事ロボットのサンドイッチマン(死語)が立ち塞がりました。

この時代、家の雑用はロボットがやってくれるようになっているようです。

この時から42年後となる2021年現在、我が家ではおそうじロボット、
ルンバ三代目と初代拭き掃除ロボット、ブラーバが掃除だけはやってくれています。
しかし、もちろん家具の下などは自分でやることが前提ですし、
そもそもこいつら、
何回作動しても玄関の5センチの段差を見分けられず、
落ちて動けなくなったり、
オフィス用椅子の脚の間に入り込んで
出られなくなったりと、正直結構なバカです。

1962年当時近未来の科学として想像されていた人間型ロボットという存在は、
AIという人工知能の発達によって、存在する必要が無くなったかに思えます。

人間型のロボットがもし未来に存在するならば、それは他ならぬ人間が
進化した「アンドロイド」というものなのかもしれないなあ、と思ってみたり。

「おまわりさん呼ぶわよ」

中の人は宇宙省のパイロット、滝子の幼なじみ金井(久保明)でした。
どうして国家公務員であるパイロットがバイトなぞしているのかというと、本人曰く

「欲しい上にも欲しいのがゼニってやつでね」

うーん、こんなバイトまでしなきゃいけないほど薄給なのか?
しかもこのセリフ、パイロットのくせにあまりに下賤すぎやしませんかね。

これが宇宙省パイロットの制服。
明治時代のおまわりさんかな。

この時代、公務員パイロットは狭き門で合格率は800人に一人。
しかし滝子に言わせると、

「たかが運ちゃんじゃない。徳川時代の雲助よ」

おいおい、何ちゅう差別発言や。
っていうか、なんで徳川時代限定?

クリスマスムードに浮かれて自宅に帰ってきた智子は驚愕しました。
なんと実家で通夜がすでに始まっていたのです。

誰のって、そりゃ隼号艇長の園田雷蔵、智子パパのですよ。

 

よりによってこんなときに限って、娘は真っ白な毛皮の下に真っ赤なドレス。

っていうか、ここまで通夜の用意が進み、関係者に連絡し、
弔問客一同が集まっているというこの瞬間まで、
どうして娘に一言の訃報どころか事故の連絡もなかったわけ?

智子、もしかしたら昨夜は外泊か?お泊まりだったのか?

気まずそうに彼女から目を逸らすのは(考えすぎかしら)
宇宙省の科学者、河野(上原謙)、田沢(池部良)両博士

隼号の遭難はあっという間に政治案件になりました。

法務大臣(小沢栄太郎)は、ゴラスを早期に発見できなかった責任を
死んだ園田艇長に押し付けようという考えです。

それどころか、土星探査の目的を急遽変更したことさえ、
宇宙省の命令ではないのか、と与党内野党的粗探しを始めました。

「これは内閣の命取りになりますよ」

左、総理大臣

そこで呼ばれたのが宇宙省の科学者二人です。
カバンからペラッペラの便箋5枚くらいの報告書を出して配り、さらっと

「ゴラスは今のままだと地球に衝突します」

そして、なぜか各国の学会から寄せられた隼号への感謝の電報の束を取り出します。
とにかくこれはもはや内閣はもちろん日本だけの問題ではありません。

Xデーは、2年2ヶ月後と決まりました。

さて、場面は変わってここは宇宙省管轄の富士山麓宇宙港(そう看板に書いてある)。

手前に見えているのは1950年代から70年にかけて自衛隊で使われていたヘリ、
チョクトー(日本での名称はHSS-1)だと思います。

宇宙港の検問所には、60年代式のビンテージ車に乗った報道陣が駆けつけました。
記者たちは博士の行方を追い回しています。

後ろの景色は微妙にパースが狂っているのですが、書き割りかな?

宇宙港では飛行士の無重力訓練が粛々と行われています。

しかし、飛行士たちは無重力室でふざけて殴り合いしたりして態度悪すぎ。
案の定ひとりはサンドイッチマンの金井です。

二人の上部には体を吊っている黒いワイヤが一瞬はっきりと見えます。

体の組成データ採取中の鳳号乗員(二瓶正典)

そこに、両博士らを乗せたヘリコプターが到着しました。
機体に書いてある「HIBARI」で調べたところ、これは

ベル川崎H-13H「ひばり」

という機体で陸自にが採用していたものであることがわかりました。

すると二瓶らはなぜか検査をブッチして部屋を飛びだします。
ヘリには、彼らの鳳号隊長が乗っていたからです。

「どうでした?」

と問いかけると、鳳号艇長(平田昭彦)は無言で首を横に振りました。
つまり鳳号の出発は見合わせということです。

「ちくしょー!」

そこで彼らは何やら相談すると、駐機中のヘリに飛び乗って離陸しました。

ヘリの操縦ってそんなに簡単にできるものなの?
それともやっぱり金井さんって陸自のヘリパイ出身だったりする?

手前に日劇のミュージックホールがありますから、有楽町上空です。
その後この建物は有楽町マリオンになりました。

ここで男どもがご機嫌で歌う歌というのが、あの「ジェットパイロット」もかくやの
御座敷小唄的マイナーソング(マイナーは短調という意味ね)です。

 

「俺ら(おいら)宇宙のパイロット」

狭い地球にゃ 未練はないさ 未知の世界に 夢がある夢がある

広い宇宙は 俺のもの俺のもの はばたきゆこう 空の果て

でっかい希望だ憧れだ

オイラ宇宙の オイラ宇宙の オイラ宇宙のパイロット!

(2番以降省略)

 

めまいするくらいの昭和臭です。

宇宙パイロットって、宇宙飛行士ですよね。アストロノーですよね。
そのイメージと対極の「おいら」「でっかい希望」「地球にゃ」という言葉のセンス。

まあ、時代と言ってしまえばおしまいですが、やっぱりまだこの頃は
「加藤隼戦闘機隊」の世代が社会の中心だったってことなのね。

彼らがヘリで目指したのは宇宙省の屋上でした。

宇宙省長官(西村晃)に中止の撤回を直談判しようっていうのです。
しかし西村、中止などにはなっていない、と断言します。

ただ国会で特別予算が下りるまで飛ばせないのだと。

「わしも辛い立場なんだ」

博士コンビはあちこちを飛び回って苦労しています。
移動のタクシーの中で河野博士がふと運転手にゴラスについて尋ねると、

「昔から星が衝突するなんて話いくらでもあったけど、
今まで一度だってぶつかった試しなんぞありませんや」

と楽天的。
野博士は嘆息しながらこう呟くのでした。

「徒然草だったかな、『蟻の如く集い、東西に急ぎ南北に走る』。
人間はいつの時代でもただ目先のことに追われて生きていくようにできているらしいね」

まあ、衝突が確定事項だったとしても、逃げるところもないしね。

彼らが足を向けたのは園田艇長の自宅でした。

しかし園田家、主を亡くして間もないというのに喪中の沈鬱な気配は全くなく、
娘息子も、息子を亡くした艇長の父もニッコニコで彼らを迎えます。

智子さんなどウキウキしながら、田沢博士にお酒を勧め、

「ゴラスが今すぐにでもぶつかるってわけじゃないんでしょ?」

うーん、それは確かにそうですが、そういう問題じゃないかと。

田沢博士もニヤニヤしながら

「それもそうですが」

もしかして園田艇長の死って、すっかり設定から消えてないか?

そこで、園田家の息子が重大なヒントとなる発言をします。

「地球のどこかにでっかいロケット据え付けて、宇宙船みたいにして飛ばせば? 」

ゴラスを破壊できなければ地球が逃げるしかないじゃん、というわけです。
んなあほな、と映画を見ている誰もが思った瞬間、田沢博士の表情が変わりました。

地球の軌道そのものを変えてしまうこと。
この惑星衝突の回避方法が生まれた瞬間でした。

・・おいおい。

 

 

続く。


彼は何故撃たれたか〜映画「シン・レッド・ライン」

2021-07-25 | 映画

映画「シン・レッド・ライン」、最終回です。

日本軍の高地にあるキャンプの攻略に成功したC中隊。
狂乱の後の虚無ともいうべき時間が訪れていました。

頭に掛けていた水を葉っぱにかけて水滴が転がり落ちるのを見ているのは
ウィット二等兵でしょうか。(ベルと俳優が似ていて見分けがつかないときがある)
彼は水をすくいながら、脱走して滞在していた原住民の村の海を思います。

 

何度もこだわってみますが、タイトルの「シン・レッド・ライン」と同じ状態だった
日本軍の防御は、むしろ飢餓状態に陥って戦力を欠いていたことで壊滅しました。
歴史的故事とは程遠い結末となったわけです。

ますますこのタイトルの真意がわかりかねるのですが、次に進みます。

一方、トール中佐は、スタイロス大尉にいきなり引導を渡しました。
指揮権を取り上げる、という強い言い方で、解任を申し渡したのです。

部下の命を優先して中佐の命令に従わなかったことが原因でした。
表向きはマラリアにかかったということで勲章付きの実質クビです。

作戦を成功させたC中隊には、ウェルシュ軍曹から1週間の休暇が申し渡されます。

「腕の中で部下が死んで行ったことがありますか」

このスタイロス大尉の問いに、トール中佐は何も答えませんでした。

しかし彼が出世に貪欲で冷酷無比なだけの男でないことはこのカットに表されます。
彼の視線の先には、足の指に認識票の付けられた米兵の遺体がありました。

(ニック・ノルティ出番終わり)

スタイロス大尉の解任は、部下たちにショックを与えました。
自分たちを守ろうとして正面攻撃の命令を拒否をしてくれたことを知っていたからです。

しかし大尉は、彼らを慰めるためにむしろ帰れるのは嬉しい、といいます。
そしてギリシャ語でこういいます。

「”君らは息子みたいなものだ”」

それを聞く部下の目には光るものが・・・。

日本軍の駐屯地が焼き払われていきます。
竹を吊った鳴子、南洋の植物でこしらえた生花のような鉢、そして
まさかの仏像が炎に包まれていくのでした。

「パールハーバー」でも、確か日本軍の軍艦内に仏像があって、
狭い艦内でローソクをボーボー燃やしていた記憶がありますが、
この、格段に日本という国に対する理解度のアップしている映画においても、
ついうっかりこんなことになってしまうのは残念です。

日本人は偶像崇拝をしません。
まあ、この頃の限定で御真影に礼をするということはあったかもしれませんが、
こと宗教に関する限り、八百万の神があっちこっちにいる関係で、
手を合わせる対象は太陽だったり祖先だったりで、少なくとも
こんな大きな仏像を野戦地に持ち込んで拝んだりはしないものだと思います。

考えてみてください。
家に仏壇(祖先を祀っている)はあっても、仏像を持ち込んで拝む人っていませんよね。
仏像はお寺にあって、その寺の歴史や言われとともに信仰を集めるものです。

この映画の面白さは、何回も見るうちに気づく細部にもあります。
たとえば休暇が決まって湧き立つ兵隊たちのシーンですが、

トラックの上にも、この飲み物が配られている集団にも、
何人かの兵が日本軍の基地でゲットした寄せ書きの日の丸を振ったり、
あるいは肩に引っ掛けたり、手拭いのように頭からかぶったりしているのが見えます。

そうやって戦利品としてアメリカ兵が持って帰り、戦後
本人が死んだり、持て余したりして、地方の博物館に流れてきた
数え切れないくらいの寄せ書きの日の丸をわたしはこちらで見てきました。

いい土産とばかりに持って帰ったものの、戦争も終わり、
そんなものを持っていても自慢にならないどころか、ふと我に帰ると、
敵とは言え日本人の遺品を手元に置き続けるのにも何やら後ろめたさというか、
(アメリカ人にそういう感覚があるのかどうかはわかりませんが)
一種の「ゲンの悪さ」を感じた結果なのだろうとわたしは思います。

それは「悔恨」あるいは人間的な「良心の目覚め」からきたものだとしましょう、
ここにもすでに己が戦場で犯した「通常なら犯罪、しかし戦場では無罪」の行為を
後悔している人物がいました。

日の丸の寄せ書きや血のついた時計を持って帰った米兵のように。

死にかけの日本兵を挑発しながら、遺体の口から金歯を抜いて集めていたデールです。

いまさら彼の中で何が起こったのでしょうか。
金歯を入れた袋を手にして、彼は荒く肩で息をつき、あの日のことを反芻していました。
死にかけている日本兵の言葉を。

「貴様も・・死ぬんだよ・・貴様も・・・」

言葉は理解せずとも、それが自分に、自分の生に投げかけられた
永遠の呪詛であることだけはわかるのです。


彼は瘧(おこり)にでもかかったように激しく震え、なぜか後方に向かって
(そこには日本兵のヘルメットが積まれている)投げ棄てます。

そして天を仰いだその耳には、日本兵の笑い声が響いているのでした。

彼は自分で自分を抱くようにして嗚咽し続けます。

ストーム軍曹(ジョン・C・ライリー)はウェルシュ軍曹に、
戦場での命は全て運にしか過ぎないから何を見ても何も感じない、といい、
ウェルシュはそれに対しこう言います。

「自分はそこまで無感覚になれない。君らと違って。
先が見えるからかもしれないし、下から麻痺していたのかもしれないが」

兵隊がワニを捕まえました。
ワニはこの映画の一番最初に出てきた生き物です。
これから喰われるワニを取り囲んだ兵隊たちは、一様に厳粛な顔をしています。

ベル二等兵がことあるごとにその姿を思い浮かべ、心の支えにし、
自分の存在を「解き放ってくれた」とまで手紙に書いた彼の妻が別れを告げてきました。

「空軍大尉と愛し合うようになったから別れてください」

これは酷い。
戦地にいる夫に、しかも戦前は将校だった夫、今は事情あって二等兵の夫に向かって、
代わりに好きな将校ができたから離婚しろとは。

「あなたはきっとノーと言うでしょうね。
でも、とにかくわたしたちが一緒だったことを忘れて欲しいの」

(字幕は誤訳で『私達の思い出のためにも同意して欲しい』となっている)

 

何度か見ていて気づいたのですが、彼女の後方にこちらに向かって歩いてくる男性がいます。
どうも陸軍の軍人のようなので、おそらくこれが「空軍大尉」でしょう。

ちなみに、アメリカでこの時代空軍は存在しませんから、彼女の相手は当然
陸軍パイロットということになるわけですが、1941年には
"Air Corps"から "US Army Air Forces" に改称されているとはいえ、
日常的にたとえば空軍大尉は"Air Force Captain"とは言いませんでした。

正解は"Air Corps Captain"となります。

ベルは読み終えるまで落ち着きなく髪の毛をかきあげ、
鼻の下を擦りながらなぜか薄ら笑いを浮かべ、
資材や燃料の置かれた飛行場をふらふら歩き回るのでした。

ところでこれ何?

ウィットは1週間の休暇に以前滞在した原住民の村を訪れました。

しかし、以前と違い村人は彼を冷たい目で見るばかり。
よからぬものを持ち込む災厄とばかりに不信感をあらわにするのでした。

ウィットは疎外感に打ちひしがれて村を後にします。

基地に帰る途中、彼は膝を壊して置いてけぼりにされた兵士、アッシュと会いました。
帰隊するのを助けると言うと、かれは明るく言います。

「おれはこの戦争を降りるよ、ウィット」

「ここは静かで平和だ。足手まといになるし、そのうち誰かくるだろう」

「そう言っとくよ」

うーん、それって「脱走」というやつなんでわ?

隊に帰ってきて兵隊たちが日常生活を送っている姿を見る彼の目が、
潤んできて涙が一滴溢れるのですが、この涙がなんなのか説明はありません。

自分がかつてより良い場所を求めて逃避した原住民の村でなく、
逃げ出したはずの隊にしか自分の居場所はないことを知ったからでしょうか。

青い鳥は自分の家にいた的な?

そして、鑑賞者をさらに煙に巻くように、ウィットとウェルシュの間に
「分裂症じみた」会話が交わされるのでした。

要約すると、ウェルシュがウィットの存在を気にかけていることを
隠していてもウィットは見抜いているということです。(たぶんね)

「曹長殿は寂しくなったことはありませんか?」

「人が周りにいるときはなる」

「人がいると?」

「お前は今でも美しい光を信じているのか?どうだ?
お前は俺にとって魔術師なんだ」

「おれにはあなたにまだ火花が見えてますよ」

うーん。わけわからん。
そもそも軍隊で上官と部下がする話じゃないだろこれ。

1週間の休暇を終えた中隊はまたしても次の戦闘任務を行います。
胸まで浸かる沢を渡りながら、彼らは砲撃の音を耳にしました。
しかも近づいてきています。

ベル(二等兵なのに)にここは危険だから脱出すべき、と言われるのですが、
スタイロスの後任の隊長バンド大尉は、すぐに決断を下さず、斥候を出すなどと言い出します。

ウィットは適当に斥候に指名された(近くにいただけ)ファイフとクームスを
庇うように、自分も一緒に行くと名乗りをあげ、そしてどちらにしても
ここにい続けるのは拙い作戦だと進言します。(二等兵なのに)

沢を警戒しながら進む3人の斥候を見ているミミズク。

敵の増強部隊(そんな余裕が日本にあったとは思えないんですが)に発見され、
銃撃を受けたクームスが倒れます。

遠くにその銃声を聞いて沢に身を伏せる中隊のメンバーを凝視するコウモリ。
まるで愚かな人間たちの行いを監視しているようです。

ウィットは、ファイフに自分が残って食い止めるから隊に戻れと指示します。
ウィットに生存の意思がないのに気づくファイフでした。

クームスを置いて(見捨てて)移動するウィットの足音を、この日本兵は聞きつけます。

隊に戻ったフィフが真っ先に発した言葉はただ、

「敵が来るぞ。隠れろ!」

ベルがウィットのことを尋ねても
呆然としていてしばらく何も聞こえない状態。
というか、ここにどうやって隠れるんだって話ですが。

そのウィットは一人で日本軍を引き付けていました。
鳥の声を真似ながらジャングルを沢と違う方向に走ります。

ジャングルを抜け、広場のような草地に躍り出た瞬間、彼は自分が
四方を囲まれていることに気がつきました。

ところで、周りを囲んでいる日本兵たちは、どう見ても「餓島」と言われた地で
補給が途絶え、食糧の不足で絶望的な状態にあるようには見えません。
みんな頭に草の葉っぱを載せて元気いっぱい走り回っております。

「降伏しろ!」

先ほどアップになった日本兵が(将校かもしれません)ウィットに呼びかけました。
周りには、彼に銃を向ける何人かと、その外側に銃を向けて警戒している兵がいます。
(この辺りがなかなか細やかな演出だと思った次第)

日本兵は怒鳴ることなく、

「お前か?俺の戦友殺したの」

と語りかけてきますが、今回も英語で字幕はありません。

「わかるか。俺は。お前を殺したくない」

その言葉に対してウィットが浮かべるのが冒頭画像の表情です。

「わかるか。俺は、お前を殺したくない」

二度目の同じ言葉は、泣く寸前のようです。

「もう囲まれてるぞ。すぐに降伏しろ」

軍人であればもう少し声を張り上げそうですが、極度の緊張のせいでしょうか。
そして、次に

「お前かあ・・・俺の戦友殺したのは」

今回のは質問ではなく、探していた相手を見つけた、という調子で。
そして、

「俺は」

と言いかけて、

「動くな」

いきなり声を張り上げ(同一人物とは思えない声で)

「とまれええ!降伏しろお!」

それまでただ呆然と立ち尽くしていたように見えたウィットは、
むしろその声に促されたかのように、ゆっくりと銃を持ち上げ・・

撃たれました。

なぜ彼が投降しなかったかについては、可能性の高そうな仮定として、
自分が犠牲になることで中隊の全員を守ろうとした、としておきます。

捕虜になって仲間の居場所を尋問されることまで考えたかどうかはわかりませんが。

彼が助かるつもりがなかったことは、最後の瞬間の動きが
妙にゆっくりしていることに表現されていると思いました。

彼は撃たれるために銃を構えたのです。

南洋の海で現地の子供達と海に潜った残像が彼の網膜をよぎった(という設定)。

後日、中隊はウィットの亡骸を発見し、その場に葬ります。
一人残ったウェルシュ軍曹は彼に声をかけるのでした。

「お前の輝きはどこにある?」

そしてウェルシュいうところの「反吐が出る」陳腐な演説を
張り切って行う新しい隊長、ボッシュ大尉。

言わずと知れたジョージ・クルーニーですが、本当に一瞬だけの出演で、
しかもウェルシュに言われるまでもなく滑稽な役回りです。

「我々は家族だ。お前らは息子、俺は父親でウェルシュ軍曹は母だ」

皮肉なことに、この訓示の「君らは息子」はスタイロス大尉の言い残した言葉と同じです。

(あほくさ・・・)

帰国する兵士たちが岸に向かっています。

彼らの視線の先には夥しい数の十字架が・・・・って、
なんで墓地のあちこちでスプリンクラー(水撒き機)が回ってるんですかね。

この輸送船は、ロイヤル・オーストラリアン・ネイビーの
HMAS「タラカン」にしか見えないんですが、もちろん当時は存在しません。

この船に乗る有名どころはショーン・ペンのみ。

皆、帰国してからのことを言葉少なに話し合っています。
誰もがこの戦場で何か大切なものを無くしてきたと感じているのかもしれません。

ところで、えーと、こんな人いたっけ?

この最後のシーンにはペンをのぞいて「普通の人」ばかりしか登場しません。

から誰?

「おお、私の魂よ 私をその中に導きたまえ」

これが最後のモノローグです。

ところで、もう一度最後に「シン・レッド・ライン」とはなんだったのか、
恐る恐る仮説を立ててみたいと思います。

戦況的には最後の防御線を張ったのは高地における日本軍であり、
日本を表す「赤」はこの言葉とリンクしますが、もちろんそれは違うでしょう。

踏み込んだ解釈をするなら、それは人の精神のどこかにある一線であり、
戦場にあって、人が何かを守るための最後の戦いをする防御線ではないでしょうか。

人によってはそれを宗教と呼び、また別の人は良心と呼ぶかもしれません。

もっと物理的に、生と死を分ける境界線(つまり偶然)を指しているかもしれません。

この映画は史実によるガダルカナル戦とは大きく異なっています。

そもそも主体となるのが海兵隊ではなく、(映画では海兵隊が壊滅したからと言っている)
陸軍であることからしてアウトですし、その他映画的な荒さも目立ちますが、
戦争を素材にして哲学と真理を探究しようとしたと解釈するべき作品でありましょう。

従来ステロタイプで描かれがちな日本軍兵士をもその一部に参加させるなど、
まるで戦争小説を読んでいる誰かの心をそのまま再現しようとしているようです。

とても一筋縄では理解し難い?作品だと感じました。

 

終わり。

 


捕われた日本軍〜映画「シン・レッド・ライン」

2021-07-23 | 映画

映画「シン・レッド・ライン」2日目です。

この戦いが今後の地位を決定するため後がないトール中佐命令によって、
弁護士出身のスタロス中佐指揮するチャーリー中隊は、日本軍が陣地を構築する
丘の上を攻略しようとしています。

高所からの砲撃と狙撃によって多くの命を失いながらも、そんな中
日本軍が撤退しているらしい様子に感づいた中隊ですが、
激しい戦闘ストレスはすでに何人かの兵隊の精神を蝕んでいます。

「俺はもう嫌だ!」

錯乱して叫ぶマクロン軍曹(ジョン・サヴェージ)を、周りは呆然と眺めるだけ。

狙撃されたテッラ二等兵(カーク・アベセド、『バンドオブブラザーズ』にも出演)
に駆け寄るウェルシュ軍曹(ショーン・ペン)。

もう動かすこともできない彼には、周りの死体から集めた
モルヒネの缶を最後に渡してやることしかできません。

「さよなら、曹長どの」

彼を残してまたもや弾丸を潜って帰ってきたウェルシュに、

「明日叙勲の申請を」

とスタイロス大尉がいうと、

「もしそんなことをしたらすぐにやめてやる。
そしたらこの無茶苦茶な隊をあんた一人で仕切ることになりますぜ!」

うーん、ウェルシュ軍曹、怒ってます。

「勲章?くだらねえ」

まあ、こういう状況で何が勲章だ、と誰でも思うでしょう。

「何してるんだ?窪みに寝てるじゃないか!
今すぐ敵の機銃をクリアしろ!オーバー!」

膠着中のスタイロス大尉のもとにトール中佐からはガンガン電話がかかってきます。

「斜面でたくさんやられて・・・2分隊なら出せますが」

するとトール中佐、ヘルメットを地面に叩きつけ、

「ガッデム!全員を今すぐ動かして戦わせろ!」

側面のジャングルから偵察を出して攻撃するべき、
というスタイロスにトールは激怒し、あくまで正面突撃を行わせるように言います。

するとスタイロスは命令を拒否し、言うに事欠いて

「こちらには二人、そちらにも証人がいます」

「営倉の弁護士みたいな言い方はやめろスタイロス!
君がろくでもない弁護士だったことは知ってるぞ!

ここは法廷じゃない!これは戦争だ!いまやってるのは戦闘だ!」

それでもスイタロス、一歩も引かず、その攻撃は自殺に等しい、
2年半一緒の部下をしに追いやる命令はできない、と動きません。

するとトール中佐、自分がそこに乗り込む!と荒々しく電話を切ってしまいます。
そのあと、スタイロスはギリシア語で何か言うのですが、それは

「Ta echi chasi aftos」(彼はそれを失った)
「xery tee moo lay」(彼は自分が何を言っているかわかってない)

という批判的な言葉でした。



その間にも負傷で死んでいく兵。(一コマ出演)
ビード二等兵役のニック・スタールは「ターミネイター3」のジョン・コナー役です。

怒りに任せて山中を駆け上ってきたように見えるトール中佐。
この映画の不思議な(分裂症的な?)ところで、トールの内心の声は以下の通り。

「墓場に閉じ込められた。蓋を開けられない。
俺は思いもよらない役割を果たしてる」

部下の命を案じて突撃できない中隊長の尻を叩いて多くの兵を殺す役割。
それがトール中佐の望んだものではなかったことは確かです。
今彼は自分で自分をどこかから第三者として見ているような感覚に陥っています。


しかし、その役割を果たすべく、今度こそ反対できなくなった中佐に
「俺のやり方で」日没までに高地を攻略する、と強い口調で言い切るのでした。

斥候を命じられたベル二等兵。
ベルは昔将校だったらしいのに、この戦争では二等兵です。

軍隊を辞めたあと戦争になり、兵卒で参加したということでしょうか。

そして彼は、またもや草むらを匍匐前進しながら妻のことを思うのでした。
揺れるレースのカーテン、海に腰まで浸かってこちらを誘う妻。

そんな妄想をしながらも、敵のバンカーには機銃が5門あることを突き止めます。

トール中佐はさっそくトーチカを攻略する志願者を募りました。
間髪入れず名乗り出たのがベル二等兵です。

 

その晩、ウェルシュ軍曹は脱走して懲罰部隊に入れられたウィット二等兵に、
またもやちょっとした語り掛けをするのでした。

「お前ができることなんてこの世の中でどんな意味がある?
この狂気の中で一人の男ができることなんて。

死んだとしてもそれっきりだ。
全てがうまくいく別の世界なんてありゃしないのさ。

世界はここだけだ。この島(ロック)だけ」

どこからともなく現れた野犬が、遺体の肉を喰らう闇の中、

精神が壊れたマクロンが一人叫んでいました。

「俺を撃つやつは誰もいない!」

攻撃の朝が明けました。
もしかして人生最後となるかもしれない朝、皆の表情は沈鬱です。

攻撃開始。

トーチカまで接近し、砲撃を指示後、敵基地まで突進した偵察隊は、
(一人やられて)6名の拳銃と手榴弾だけでトーチカと守備隊を殲滅。

「クリア!」

ちょっとこのシーケンスが都合よすぎというか、敵の弾は当たらず
こちらの攻撃だけがうまくいきすぎて安易な展開という気がしますがまあいいや。

手を挙げて出てきた日本兵を罵り蹴飛ばし殴り撃ち殺すクィーン伍長。
輸送船の中でキレまくって叫んでいた男です。
まあそういう人はこういうことをするってことです。

ドン引きする、極めて常識人のベル二等兵。

「一人殺した」

と呟き、誰かと抱き合います。

ここからちらほら?日本の俳優が顔を出すのですが、
アメリカと日本のサイトでの情報が不確かすぎて、誰が誰かわかりません。
米サイトによると、将校役は光石研信太昌之、となっていますが、
日ウィキだと光石さんも信太さんも兵隊とされています。

捕虜となった日本軍兵士たちも、彼らを見る米軍兵士たちの表情も様々です。

何やら拝んでいる兵、何やらぶつぶつ呟く兵。
すすり泣く者、細かく壁を叩く者・・・。
同じ日本人から言わせてもらうと、どうも日本人らしくないという気もします。

じゃどういうのが日本人なのかと言われると、やっぱりじっとして、
アメリカ人からは無表情に見える諦めの沈黙に徹するのではないかなあ。

遺体と日本兵たちの体臭が臭い、と文句を言い、
そんならタバコを鼻に詰めろといわれてその通りにしているデール1等兵。

日本兵たちに向かってなんとなく手を振ってみたりしております。

一方、アメリカ人の視線を剛然と見返していた将校は、
ウィットが差し出した食べ物から目を背けました。

偵察攻撃を成功させたガフ大尉(ジョン・キューザック)に、
トール中佐はもうごっきげんで、兵たちへの勲章の授与を請け合います。

実は肝心の水の補給が足りていなかったりするのですが、
この勢いでもう一押しやって、勝利を確実にしたくてたまらないのです。

「水など!喉が乾いて倒れたらそのまま放っておけ」

ガフ大尉、一瞬押し黙って、

「もしそのまま死んだら?」

「敵の弾でも死ぬぞ!」


この作戦成功=出世のためにはなりふり構わないトール中佐の役を、

ハリソン・フォードが断ったわけがなんとなくわかる気がします。

演じられるられない以前に、あまり彼のトール役が想像できないというか。
フォードってほぼ主役の正義の味方しか演じたことないですよね?
「What lies beneath」は思いっきり悪役だけど、これピカレスクものに近いし。

トール中佐は、言い訳のように

「君は出世し損なう気持ちを知らんだろう。
君は士官学校出たてですぐ戦争にありついた。
しかし俺にとってはこの15年で初めての戦争だ」

言い、なおも哀れみを称えたようなガフ大尉の視線に、

「君もいつかわかる」

あまりわかりたくねえなあ、とガフ大尉は思っていたことでしょう。

 

結果的にニック・ノルティが適役だったんじゃないかな。
とにかくトールの足掻きっぷりを描き切った演技は見ものです。

囚われの日本兵とそれを見遣るC中隊のメンバーの姿が執拗に描かれます。

フィフ伍長は、

「君はたくさんの死人を見たか?」

と心の中で語り出します。
「君」とは、手榴弾のピンを抜いてしまい死んだストーム軍曹。
もちろん死んだ人に語りかけているわけです。

「たくさん。死んだ犬と変わりないさ。慣れさえすれば」

ストームの答えがこれですが、一体彼はどこでそれを見たのでしょうか。

「俺たちはしょせん肉の塊なんだよ、若いの(キッド)」

戦友の遺体に手を合わせる者もいます。

そして、ウィットのには、顔面だけを残して土に埋まってしまった
(あるいは顔だけ残されて後は無くなった)日本兵の顔が、こう語りかけてくるのでした。

「君は正しい人?親切な人?このことに自信を持ってる?」

このこと、とは、日本兵が顔の皮だけになるにいたった行為のことです。

「人に愛されているかい?僕が愛されていたように。
善や真実を愛したからと言って、自分の苦しみが減るとでも想像しているの?」

 

そしてトールのいうところの「この勢いで制圧」を目指す攻撃が始まりました。
それを迎え撃つ日本兵は、むしろ覚悟を決めているように見えます。

どこかで日本人の描き方が人種差別的、侮蔑的であるという感想を見ましたが、
このシーンと、ベルに語りかける「日本兵の顔」のシーンだけからも、
わたしは決してそんな意図は監督にはなかったと断言できます。

ところで、ふとこの段階でタイトルの「The thin red line」を思い出して、
わたしはあることに気がつき、愕然としました。

クリミア戦争における「赤いライン」は、アメリカ軍ではなく、
どう考えても状況的に今のこの日本軍であることに。

しかし勿論この後、日本軍の基地はあっけなく制圧されます。
なぜなら、彼らは補給の途絶えたガダルカナルで飢餓状態に陥った末、
戦う以前にほとんど食糧不足で壊滅しかかっていたからです。

むしろそんな状態の日本兵士のなかにあって、万歳突撃で散ることを覚悟した
先ほどの一団を描く、そこには製作者の畏敬をすら感じさせます。

聞き取れる日本語は、

「カミキ行くぞお!」「手も足もいうことをきかん!」

そして雄叫びをあげながら突入し、やられてしまう・・。

武器を持たず、最初から手を挙げて降参しようとするのは軍属でしょうか。
この一連の一方的な「殺戮」のシーンで流れる音楽は荘重で悲壮です。

中には壕に逃げ込んで自爆する兵もいます。

彼らを見ながら今度はトレインが呟きます。

「この巨大な悪 どこからきたのか?
どうやって世界に忍び込んだのか?」

「どんな種、どんな根から育ったのか?
誰がこれを行っているのか?
誰が我々を殺した?
人生と光を奪ったのは?
わたしたちが知っていたかもしれない光景を見て嘲笑っているのは誰?」

銃を傍に置いて日本兵の手を取り肩を抱き寄せる米兵。
しかし、次の瞬間彼は味方の銃で撃たれて死にます。

こういうシーンがあまりにも切れ目なく続くため、普通に観ているだけでは
因果関係を結ばぬうちに次に行ってしまい、気づかない人もいるでしょう。

もう一つの問題は、繰り返しますが、モノローグです。

英語字幕では誰が言っているかが表されるのですが、字幕がないと
それを誰が言ったかまったくわからないままです。

トールなのかダールなのかフィフなのか、ベルなのかウィットなのかトレインなのか。
(あれ?名前が全員一音節だ・・・・これ偶然じゃないですよね)

 

しかも最初に指摘したように、この人たちの呟きはほとんど同じ内容であるため、
声の違いを聴き分けることもほとんど不可能なのです。

しかし、誰がいつ呟いているのか分からない状態で観ている身には
理解が追いつかなくても無理からぬことと思われます。

しかも、これらのモノローグのほとんどはオリジナルではなく、
映画にもなった「此処より永遠に」から引用されていて、
キャラクターへの認識を混乱させる原因になっています。

トレイン;

「我々の破滅が地球の糧か?草を育て太陽を輝かせるのか?
あなたの中にもこの闇があるのか?
この夜をやり過ごしたことがあるか?」

(『あなた』って誰〜!)

デールは日本軍の上等兵の傍らにわざわざ寝そべり、銃を腹に当てて

「その歯を肝臓にめり込ませてやろうか」

とからかい出します。

「お前は死ぬんだ」

そして空を見上げて

「あそこの鳥が見えるか?お前の生肉を食べるんだ」

うーん・・・悪趣味なやつ。

「お前が行くのはそこからもう帰って来られないところだ」

そして指をダメダメ、というように振ると、日本兵はそれに対し、

「貴様・・・」

「ん?」

「貴様・・・」

「ん?」

「いつか・・・いつか死・・死・・死ぬんだ・・貴様・・死ぬんだよ」

この上等兵の日本語は翻訳されることはありません。

おそらくデールが相手が何を言っているのかわからなかったように、監督は
アメリカ人の観客にもデールと同じ立場を与えたかったのではないでしょうか。

もっとも、アメリカの映画サイトでは日本語が理解できる人がこれを翻訳し、

Kisama とはフレンドリーでない「あなた」の意味で「汚いやつ」、
Moは「too」(もまた)、Itsuka は "someday or sometime, one day etc."
Shinu は "to die".という意味の動詞、"Da yo" は強調と感嘆符の語尾

とわかっているようで少しわかっていない解説をしていました。
日本語ムツカシネー。

日本人だけを貶めて描いているように観た人は、おそらくこういう場面を
見落として、視点の公平さを見誤っているのではないでしょうか。

一瞬なので、DVDで何度も観た人しか気づかないのではないかと思うのですが、
鼻にタバコをつっこんでいる男(多分デール)は、いくつもの金歯を手に持っています。

もちろん日本兵の死体から盗んだものです。
彼は数えていた金歯をしまいこむと、別の日本兵の死体に座ったままにじり寄り、
その頭を抱え込んでナイフを構えるのでした。

しかし、デールがこれを以て悪人だと断じるべきではないでしょう。

それ(たとえば死体の歯を抜くこと)をできるかどうかは
その人間の資質によって変わってくるでしょうが、
たとえどんな資質を持った人でも、平時であれば
決して行わないことをしてしまうのが戦争だからです。

米兵たちが座り込む中、瀕死の戦友を抱き抱え、嗚咽する日本兵。

一連のシーケンスで流れる音楽は、ジマーのオリジナルではなく、
チャールズ・アイブズThe Unanswered Question」(答えられざる疑問)です。

Ives: The Unanswered Question / Premil Petrovic / No Borders Orchestra

さて、先ほど「シン・レッド・ライン」の状態であったのは日本軍だった、と書きました。
しかし、語源となった故事とは違い、日本軍は何もかもが勝る米軍に屈したわけです。

 

それではこの言葉をタイトルにした真意とはどこにあったのでしょうか。

 

続く。

 


「海ゆかば」〜映画「海軍特別少年兵」

2021-07-13 | 映画

映画「海軍特別年少兵」2日目です。

本作はタイトル画でもお分かりのように、主役の少年たちがほぼ無名
(その後俳優として名前が残っているのは二人だけ、一人が梅雀で、
もうひとりがバイプレーヤー福崎和弘)であるため、その分予算を
全フリしたのではないかというくらい、脇役が豪華キャストです。

主役と言っていい工藤役の地井武男といい、このベテランたちの存在は、
熱いけれど、時として生硬な少年たちの演技を補って余りあります。



さて、入団から2ヶ月経った8月13日(お盆ということでしょうか)
初めて家族との面会が許されました。

林の母はさすがに来ていませんが、同級生の江波の母(山岡久乃)が
林に母親からことづかった差し入れを持って面会にきています。

 

しかし嬉しそうに外に出ていく教班の者を尻目に、教室に残って、
手持ち無沙汰に艦隊勤務などをハーモニカで吹いている者もいます。

入隊を決めたときに殴られた医者のせがれ宮本と、身内らしい身内が
横須賀で賤業婦に身を落としている姉しかいない橋本です。

二人とも家族が来るはずがないと決めてかかっていました。

が、来ていたのです。

橋本の姉ちゃん、
ぎん(小川真由美)は門を出る吉永中尉を捕まえ、
ついつい溢れ出る職業的なしなを含んだ声音で、

「大尉さん!頼まれてくんないかしら」

「わたしは中尉です」(´・ω・`)

「あっ、あははは・・あたし陸軍ならよくわかるんだけど」

そうして弟への差し入れのこと付けを頼みました。
自分のことを弟が恥ずかしがるので、会わずに帰るつもりです。

しかも持ってきたのがお客にもらった恩賜の煙草とお酒。
どちらも訓練生には年齢的にも禁止されています。

 

吉永中尉はなんとか渡せるお菓子だけを橋本に届けてやりました。
橋本の隣の宮本の父は、息子から

「あんな非国民ずっと監獄にぶちこんどけばいいんだ」

とアカ呼ばわりされて毛嫌いされているわけですが、

なんと、来ていたのです。この父ちゃんも。

そして、なんたる偶然、海兵団の近くの飲食店でそうとは知らず出会い、
時節柄売り物もない外食券飲食店に居座って飲食物を交換しているうちに、
お互いが身内に面会に来たものの、歓迎されない立場ゆえ気後れして
会わずに帰ろうとしている同類同士であることに気づきました。

ちなみに撮影時、本当に季節は夏の盛りだったらしく、
この小川真由美始め、ほとんどの出演者は首筋にびっしょり汗をかいています。
今ならメイクさんが拭うんでしょうけど、そのままになっています。

「床屋なら立派なもんじゃないの。どうして会ってやらないの?」

なぜか宮本父、自分が医師であることを隠しています。
そして、

「国のためっていうけど、俺たち貧乏人は国から恩を受けちゃいねえ」

だから会っても激励なんてできない、とついつい日頃の思想を語ってしまうのでした。
ぎんは無邪気に、

「おじさん、そんなこと言ったらアカと間違えられるよ?」

そこで宮本父は、警察で拷問を受け、脚を潰されたことを最後に告白します。
息子が、「父は”びっこ”」と言ったのは、嘘ではなかったのです。

 

そんな宮本父に、ぎんはかまわず恩賜のタバコを(それもつい頭を下げて)
取り出し、渡そうとしますが、まあ受け取るわけないですよね。

ぎんは宮本父が出ていくと、またしてもタバコを拝むように頭をひょいと下げてから
火をつけますが、一口吸ってすぐ消し、

「ん、やっぱり吸い付けたタバコの方が口に合うね」

彼らの生徒生活が軽快な音楽とともに活写されます。
総員起こしのあとの吊り床納めも、手早くできるようになった頃、

9月、辻堂海岸で陸戦訓練の総決算ともいえる野外演習が行われることになりました。

「気持ちいい〜!」

彼らにとって嬉しいのは、民宿の食事と、それから「布団で寝られること」。
わたしが心配した通り、ハンモック就寝はやっぱり結構辛いことなんですね。

大声で歌いながら(またしても『艦隊勤務』)お風呂に入ったり、
枕投げをしたり、まるで修学旅行気分です。

林はいつになくはしゃいで、今までこんな美味しいご飯や
フカフカの布団で寝たことはない、といい、

「俺、海軍にきて本当に良かったと思ってる」

ああああ、それはフラグ(以下略)

ちょっとじーんとなってしまったみんなは、気をとりなおすように
栗本のリードで今度は

「四面海なる帝国を 守海軍軍人は 戦時平時の別ちなく 勇み励みて勉むべし」

「艦船勤務」を歌い出します。

しかし次の日の紅白戦で事件が起こりました。

林が帯剣(ベルトにつけている短剣)を失くしたのです。

「なにっ!」

「教班長・・・」

この頃の梅雀さん、健気でキュート。声とか可愛すぎ。

とかいってる場合ではありませんね。
日没まで皆でで捜索を行い、さらにその後は工藤と林二人で探しますが、
広い海岸のあちらこちらを走り回っているので、見つかりません。

ついに、工藤は林に宿に一人で帰るように言付けるのです。
それが取り返しのつかない悲劇を生むことになると想像せず・・。

 

陸海軍を問わず、武器の扱いは常に「陛下から頂いたもの」として、
細心の注意が払われるのが常でした。
もちろん自衛隊だって何か部品をなくしたら、全員で出てくるまで探すそうですが、
(『あおざくら』『ライジングサン』参照)そうなった時のプレッシャー、
恐怖感はおそらく今日の比ではなかったと想像されます。

果たして、一人で暗い顔をして夜道を歩いてきた林は、
宿の前でくるりと踵を返してしまうのでした。

一方、切り株に腰掛けてタバコ休憩していた工藤は、
その近くに帯剣を見つけたのです。

宿舎に林が帰っていないことに不安を覚え、総出で必死の捜索を行いました。

「林〜!帯剣は見つかったぞ!」「林〜!」

ああしかし、林は廃屋の梁に首を吊って自殺していたのです。

嗚咽する班員たち。

武器を失くしたことを苦にして自殺する兵隊、というのは
よく創作物で目にしますが、実際にそういうことがあったかどうかは
(あったんでしょうけど)具体的に資料になっているわけではありません。

しかし、気の弱い者や、失くしたことより罰直が死ぬより怖かったりすると、
こういうことも起こったのだろうとは思います。

ちなみに、自衛隊では備品をなくして自殺したという事件はないようですが、
ただ、一人の隊員がなくした銃の捜索のため残業した時間が長く、
(のべ56日間)それが原因で鬱になり自殺、と言う例はあったようです。

そこで工藤は、

「貴様そんな弱虫だったのか!」

と言うや、変わり果てた姿の林を軽々と抱き起こし、頬を往復ビンタ。
いや、遺体の胸ぐら掴んで引き起こすのってそんな簡単じゃないと思う。

それに、普通の神経をしていたら仏様に対しそんなことできませんて。

案の定吉永中尉が色をなし、

「工藤上曹、死者への無礼は許さんぞ!」

その悲しい知らせは岩手の父と母に伝えられました。
へたへたとその場に座り込む母(林八重)。

そして父(加藤武)。

彼は林が給料を全て仕送りしだすと、心を入れ替え、
酒をやめて真面目に働くようになっていたのです。

一つだけ空席になった食事テーブルを囲み、皆表情を硬らせています。

「お前たち、何か俺に言いたいことはあるか」

全員を食後グラウンドに集合させ、木銃を持たせて、

「言いたいことを言えないような女の腐ったようなのに教育した覚えはないぞ」

余談ですが、「女の腐ったの」という言葉は、この頃の映画にしょっちゅう出てきます。
自粛か放送コードか知りませんが、いつの間にか死語になりました。

この言葉は性差別的であると言って終えばそれまでですが、
女性という性そのものを貶めているわけではないと思うのです。

ちゃんとした女性ならそうではない、という意味で「腐ったの」という
「但書」がついているわけで、本来なら女性らしい(とされる)傾向である
「控えめ」「感情を抑える」が腐って悪化すると、
「陰険」「はっきりしない」「明朗でない」等々になるといいたいわけですよ。

まあそもそも「女性らしい」という言葉そのものが差別とされる今日、
「誰かを不快にさせる」この言葉は遅かれ早かれ淘汰されていく運命だったと思いますが。

生徒たちを外に追い立てて、棒術の棒を持たせ、

「俺の胸を突いてこい」

教班長はいうのですが、生徒たちにそんなことできるわけないよね。
皆「やあー!」といいながら代わりに藁人形に突進し、
工藤もまた生徒を押し除けて突撃するのでした。

「弱虫は死ね!」

と繰り返しながら。

そして工藤上曹は志願して転属していきました。

「わたしはフネの方が性に合っているようです」

最後に予備士官である教官たちに向かって、チクリと一言。

「あなた方とは違い、彼らの家庭は世間の庇護が受けられず、
貧乏ゆえに自分たちしか頼るものがない者が多いのです」

そして敬礼をして去っていきました。

いつも虚無的なリアリスト、山中中尉は、

「工藤上曹は生徒たちに負けたんだ。彼らは純真そのものだ」

そしてこんなことを言います。

自分はここに転任命令を受けた時、もう少し生きられるとほっとした。
そんな卑怯な自分に比べ、幼い彼らがその純真さで死を尊いと思い、
生を放棄しているの見て、負けたと思った。

「だから俺もフネに転任願いを出した」

橋本の姉、ぎんが突然弟との面会を求めてやってきました。

艦艇実習で生徒には会えないことを知ると、彼女は、
自分が結婚して満州にいくことを伝えてくれ、と吉永中尉に頼みます。

ところで、彼女が出て行った途端、教官の国枝少尉がいうんですよ。

「あの女、素人じゃないでしょう」

素人じゃなければいきなり「あの女」呼ばわりですかそうですか。
映画スタッフの感覚なのかもしれませんけど、これも失礼よね。

 

しかしその夜、橋本はハンモックで涙に咽びました。
姉が結婚するということが嬉しかったのです。

次の日の手旗信号訓練で、姉の結婚のことを知った江波が橋本に送ります。

「オメデトウ」

喜び勇んで返答する橋本。

「アリガトウ」(´;ω;`)

5月27日の海軍記念日には演芸大会が行われました。
もうすぐ彼らが入隊して1年が経とうとしています。

「貫一お宮」の舞台で江波とともにお宮に扮した橋本が笑いを誘っているその時、

吉永中尉が憲兵隊に呼ばれてみると、そこにはなぜかぎんがいるのです。
彼女は逃亡兵と一緒に満州に行こうとしてつかまってしまったのでした。
結婚するというのは彼女の願望にすぎなかったようです。

ここでよくわからないのは、吉永中尉とぎんを憲兵隊の剣道場で面会させ、
その生い立ちから二人の馴れ初めまでを語らせる憲兵隊の意図です。

帰ってきた吉永中尉は本当のことを橋本に話しそびれます。
いや、ちょっとこれはいくら言い難くても告げるべきでは?

さて、秀才の江波が砲術学校入校を命じられた日、
校長であったかれの父が急死したと知らせがありました。


学校を辞めて軍需工場で働いていたところ、鉄材の下敷きになったのです。

父が学校を辞めた理由は、自分の生徒を海兵団に送り込み、結果的に
彼らを死に追いやることに加担している罪の意識に耐えられなかったからでした。

一人残され、息子だけは戦地に行って欲しくないと必死にすがる母に、江波は

「僕は生まれなかったものと思ってください」

と冷たく言い捨てて故郷を後にします。

 

そして、次の瞬間、彼らは砲術学校を卒業し、同日のうちに
硫黄島海軍守備隊への配属を命ぜられていました。

 

硫黄島で戦闘を行なった海軍部隊は総勢7500名ほどでしたが、
航空戦隊と設営隊、そして警備隊からなるもので、
ここにどのくらい特年兵がいたかはわかりません。

ただ、実際にありえないこととして、海兵団の同班だった江波らが
ここでも同じ部隊におり、中隊長は教官だった吉永中尉、おまけに
工藤教班長までおなじ部隊にいたりします。

昭和20年2月16日、米海軍機動部隊の500隻が硫黄島を包囲しました。

島の形が変わるほどの艦砲射撃と砲撃で戦力は消耗していき、
わずか数日で陸海軍の守備隊は壊滅状態に陥りました。

洞窟に身を隠す彼らの耳に、米軍の投稿を呼びかける声が聞こえてきます。
手榴弾を投げ込んだだけで行ってしまいますが、実際ならもっと執拗だったはず。

そして、ついに最後の時がやってきました。
栗林中将発信の電文は、最後の総突撃、玉砕を慣行する旨伝えてきていたのです。

中隊長である吉永中尉は、同時間に万歳突撃を決心しました。

しかし、吉永中尉は、4名の少年たちには突入でなく「待機」を命じます。

年少兵を玉砕に巻き込むのは忍びず、たとえ見つかったとしても
アメリカ軍も子供である彼らを殺すことはないだろうと考えたのでした。

一緒に突入させて欲しい、と必死で頼む彼らでしたが、
吉永ははねのけ、待機場所への出発を命じました。

「江波上水以下4名、出発します」

そこで彼らの後を追って立ち上がったのが工藤でした。
制止する吉永中尉に、工藤はこう言い遺します。


おそらく「そういう教育」を受けてきた彼らは捕虜になることを望まず、
軍人としての行動を取って殺されるであろうから、私は一緒に死んでやると。

「もう遅いのです。そう彼らにさせたのはわたしであり、あなたです」

工藤の考えた通りでした。

自分たちだけで突入し、玉砕することを決めた少年たちは、死を前に
生まれて初めての恩賜の煙草を咽せながら吸い、各々の思いを語り合います。

自分が死んだら姉も少しは肩身が広くなるだろう、と橋本。

喧嘩別れしたが、自分を育ててくれたやさしい父親だった、と宮本。


そして、父が死んだときのように会津武士の妻である母は、

皆の前では涙ひとつ見せず、また納戸に隠れて泣くだろう、と栗本。

そして全員で「海行かば」を歌いました。

そのとき、彼らは見たのです。
自分たちを追ってやってきた工藤教班長が銃弾に倒れる姿を。

敬愛する工藤教班長の後を追うかのように、彼らは次の瞬間
一斉に突入し、わずか14年の若い命を散らせていきました。

映画は最後に、海軍特年兵戦死者の名簿と碑を映し出します。

東郷神社境内にある特年兵の碑文にはこのような文が捧げられています。

戦争のこわさも その意味も
知らないまゝで 童顔に
お国のための 合言葉
一ずに抱きしめ 散った花
十四才の あゝ 夢哀し

 


「艦船勤務」〜映画「海軍特別年少兵」

2021-07-11 | 映画

東宝映画が毎年終戦に合わせて公開していた
「東宝8・15シリーズ」最後の作となった、

「海軍特別年少兵」

を取り上げます。

昭和20年、硫黄島の戦い。
米軍11万人と艦船多数の兵力に対し、その5分の1(艦艇ゼロ)で
これを迎え撃った日本は
次第に追い詰められていました。

突入してきた日本兵を射殺したアメリカ海兵隊員は驚くのでした。

「子供じゃないか」

そして日本人のむごさとやらを非難するわけですが、
その子供兵士こそが、本作のタイトルにもなっている

「海軍特別幼年兵」

通称特年兵です。

しかし、日本海軍とて最初から少年を戦争に投入しようとしたのではありません。
元々の目的は、将来の中堅幹部の養成を目的にした制度であり、基礎教育終了後は
海軍兵学校に学ばせ、幹部に育成するための教育機関だったのです。

海軍特別幼年兵という言葉を検索すると、ほぼこの映画の情報しかないのですが、
なぜかというと、もともとその名の制度による戦闘団があったわけではないからです。

日本が敗戦の最終段階に追い詰められるに至って、海兵団という
各鎮守府にあった海軍教育課程の生徒を戦場に駆り出すしかなくなりました。

追い詰められたドイツでも最後の方はヒトラーユーゲントが駆り出されたように、
日本の切羽詰った事情が生んだのが特年兵であった、というわけで・・・、
つまり日本も負けていなければここまでする必要もなかったのです。

だから、子供が戦争に参加していたからということで

「なんと酷い奴らだ!」

と日本人を非難するならば、その前に自分たちが、
沖縄で女子供を含む一般人を
海上の軍艦から艦砲を壕にぶち込んで
殺したりしていないことを証明してからにしていただきたい。

とやたら冒頭から喧嘩腰ですが、こういう、どこかの高みに立って
人道上の非難をしてみせる全ての言論に、わたしは猛烈にムカつくもので。

とはいえ、実際にアメリカ人が言ったわけでもないセリフに、今更
怒ってみるというのもちょっと大人気ないので、とっとと始めましょう。

 

オープニングタイトルは、彼らが神奈川県の三浦郡竹山村に、昭和16年
「横須賀第二海兵団」として開団後、改称された武山海兵団の入団試験で
健康診断を受けている映像に重ねられます。

武山海兵団は、戦後陸自の竹山駐屯地、海自横須賀教育隊として転用されています。
今調べてみたら、横須賀音楽隊もここが本拠地らしいですね。

そういえば何年か前、某デパート旅行会主催の観光ツァーで駐屯地見学したことがあります。

監督は今井正。

この人の作品には、あの「ひめゆりの塔」なんて作品もありましたね。
戦争中には戦意高揚映画を撮っていながら、戦後は反動で?左に振り切れて
共産党員にまでなってしまったあたり「戦争と人間」の山本薩夫とそっくりです。

振り切れといえば、山本作品の「皇帝のいない八月」なんてすごいですよ?
自衛隊反乱分子が武力クーデターで右翼政権樹立を企む!てな話ですから。

さて、入団が決まった少年たちが、各々の私服をセーラー服に着替えると、
地井武男演じる「教班長」、工藤上等兵曹が、なぜか竹刀を持って、
これまで身につけていたものを一切故郷に送り返すように、怒鳴ります。
兵学校でも行われていた慣習で、これは「娑婆っ気」を捨てて、
今日から海軍軍人なるための一つのイニシエーションのひとつです。

ナレーション役である登場人物の一人、江波洋一が

「海軍二等水兵となる」

と言っています。
1942年までは四等水兵からのスタートでしたが、改正されました。

班ごとに分かれるや、工藤教班長から1番に自己紹介を命じられた林宅二

「お前からだ」

うーん、これは違うかな。
教班長なら、生徒のことは貴様というんじゃないかな。

ところで、このいかにも東北の貧農で酒浸りの父を持つ息子という役柄がぴったりな、
素朴な風貌の俳優ですが、これが映画デビュー作となった中村まなぶ
のちの中村梅雀だというので、クレジットを見て驚きました。

『もみ消して冬〜我が家の問題なかったことに〜』のお父さん役で、
軽くファンになってしまったわたしですが、調べてみると
実はプロのベーシストとしても活躍していると知り、二度びっくり。

彼は母親に少しでも楽な生活をさせてやりたい一心で
教師の勧めもあり、海兵団を志願したのでした。

「郷土会津の誇りにかけ、昭和の白虎隊員として華々しく討死する覚悟です!」

会津若松出身、栗本武
白虎隊といえば、東郷神社境内にある「海軍特年兵之碑」には、

「戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された」

と記されています。

栃木県出身の宮本平太は貧乏な開業医の息子です。



彼の父吾市(三國連太郎)は当時のインテリにありがちな左翼主義で、
かつ無政府主義者思想でもあり、海兵団に入るという息子に
「社会主義者」「非国民」と言われて思わず殴りつけたりします。

そんな父を思い出しながら、かれは

「父の分までお国に尽くします!」

「親父がどうしたというのだ」

「私の父は・・・びっこなんです!」

放送禁止用語などというものはなかったころの作品です。

長野県出身、橋本治

「私は早く死にたくあります!」

流石の教班長もこの答えの意味を追求しません。
彼もまた、貧困家庭の出身でした。

林宅二と同郷の江波洋一は、教師の息子です。

林拓二を海兵団に入れるように説得したのは何を隠そう彼の父。

「水飲み百姓より帝国海軍軍人がいいに決まってる」

ところが、林の母親を説き伏せた教師の父(内藤武敏)(山岡久乃)は、
なぜか自分の息子の入団となると渋い顔をするのでした。

父親は海軍兵学校や陸軍士官学校を受けるならともかく、
秀才で中学に通っている息子がなぜ2等水兵なんぞに、と不満なのです。

起床ラッパが鳴り響き、少年たちの海兵団1日目が明けました。

海軍なので当たり前ですが、釣り床で寝ています。

これいつも思うんですが、寝返り打てなくて辛くないんですかね。
横向き寝とかうつ伏せ寝とかしたい人は特に。

総員起こしで全員が「釣り床納め」、ハンモックを畳みますが、
初めての朝なので皆まだもたもたしています。



階段は全力で駆け下り。昇る時は一段抜かしです。
服装など身嗜みチェックのために踊り場には全身が映る鏡があります。

総員校庭に集合し、ここで海軍体操をするはずですが、
本作ではいきなり甲板掃除(床拭き)となっています。

整列が「どん尻」になった者は練兵場一周。
案の定、林が最初の罰直を受けてしまいました。

やっと食事の時間になったと思ったら、教班長は林を狙い撃ち。
階段の横にあった「今日の標語」は何か聞いてきました。

答えられない林に代わって指名された江波が、
嫌味なくらいスラスラと標語を暗唱します。

「聖戦完遂は我らの双肩にあり!堅忍不抜の海軍精神を磨け」

林は決して標語を見ていなかったわけではありません。
しかし、国民小学校をほとんど家のせいで欠席していたため、
「完遂」という字は覚えていても、これをどう読むのかわからなかったのです。

しかし、言わせて貰えばその設定そのものに矛盾があります。

特年兵はその中から将来海軍兵学校予科に進むシステムも設けており、
初年兵教育として中学3、4年の学力を付けさせるのが目的だったので、
国民学校もろくに通っていない生徒はそもそも海兵団に入れなかったでしょう。

林はまたしても昼飯抜きという罰をうけることになりました。

ちなみに中村梅雀氏は自身のブログで、本作DVD発売を機にこう語っています。

「撮影するにあたり、実際の年少兵だった方々に当時の事を教わり、
訓練や生活は本当にリアルに再現した。

今井正監督は決して手を抜かない。
殴るのも全て本気で殴らせた。
殴る側も役に徹しなければ殴れない。
その厳しさ苦しさ痛さは、今も忘れられない。

それは、どこまでも厳しく優しい、監督の愛情なのだ。
映画に対する情熱なのだ。
どんなシーンも、納得がいくまで決して諦めず、何度でもやり直しをした。
だから少年兵たちの目が生きている。

鬼教官の工藤教班長役の地井武男さんは、少年たちを殴り続けた。
本当に大変だったと思う。」

続いて教練の様子が描かれます。
座学、行進、敬礼、手旗信号。

そしてカッター訓練でもやっぱりヘマをする林。
オールを落とし、自分も落ちてしまいます。

林が泳げないことを教班長に報告した同郷の江波、
ついでに橋本も水に突き落とされ、しかも助けてもらえません。

泳ぎ着いたところをオールで突き放され、

「帝国海軍軍人がカナヅチで義務を果たせると思うか!」

いや、いくらなんでも泳げないのにこれは無茶というものでしょう。
下手したら死ぬよ?
水泳訓練してやれよ。

初めての日曜日、まだ外出は許されず、生徒たちが命ぜられて
故郷に海兵団生活について「感じたままを」手紙に書いていると・・、

予備士官の東京帝大卒英語・国語担当、吉永中尉がやってきて、
手紙を書こうとしない橋本に声をかけました。

何故書かないのか、彼は理由を答えようとしません。

その理由は、養父母への反発でした。

彼の叔父夫婦、大滝秀治と佐々木すみ絵
ちょい役、しかもこんな憎まれ役を大物が演じる贅沢な映画です。

養ってやっていることを恩に着せてこき使い、水商売で働いている
姉からの仕送りが途絶えると、ご飯のお代わりにも小言を言う夫婦。

 

教班長が手紙を書かせたのは、何も知らない彼らが油断して、
甘えた泣き言を故郷に書き送ることを見越してのことでした。

「そんな甘ったれたことで帝国海軍軍人と言えるか!」

父親への反発から手紙を書かなかった宮本と橋本、高みの見物。

しかし手紙を書かせた理由はそれだけではありませんでした。
教班長は林だけを呼び、手紙を朗読させます。

それはなぜか江波の母に当てた手紙でした。
そこには俸給が出たらお金を送るので、それを父にわからぬように
母にだけ渡して欲しいと切実なことが書かれていました。

父というのが穀潰しの酒浸りで、入隊前夜も田んぼで息子に絡み、
殴り合いをしてきたのです。

理数科担当の教官、予備士官の山中中尉が着任してきました。
山中中尉役の森下哲夫はバイプレーヤーとして(Dr.ヒネラーとか)
いろんなドラマに出演、2019年に逝去しています。

同じ東京帝大出身の吉永中尉は同僚の国枝少尉(辻萬長)に紹介しますが、
なんでか物凄く態度が悪く、国枝少尉、ムッとしてます。

これはあれかな?国枝少尉が国学院大学卒だからとかそういう理由?

だとしたら鼻持ちならない奴決定ですが・・・。

吉永は生徒たちについてこんな逸話を紹介をします。

彼の担当である英語の時間、江波訓練生が、海軍なのに
どうして敵国語である英語を勉強するのかと聞いてきたのです。

「英語など時間の無駄に思えてなりません」

海軍ではバケツ=オスタップ(ウォッシュタブの変化形)、
ゴーヘイ=前進、そのまま(Go ahead)、ラッタル=階段(Ladder)など、
英語からきた名称が多く、海軍という軍隊の任務上艦船の臨検や尋問、連絡にも
英語が必要となってくるため、最後まで英語教育を中止しませんでした。

本物の特年兵が監修していたというからには実話なのでしょうけど、
この「考査で成績最下位だった班は食事抜きでテーブルを持って立っている」
というのはあまりにも不条理です。

だって、必ずどこかの班が最下位になるわけですよね。
おまけに工藤さんたら、テーブルを持ち上げている彼らの腰を、
「海軍精神注入棒」とやらでバンバン叩くんですもの。

これも梅雀さんによると「本当にやっていた」ということになります。

 

しかもこれが「一人足を引っ張る奴」=林のせいだと思っていて、
聞こえよがしに嫌味を言う栗本と林を庇う橋本の間で乱闘騒ぎになる始末。

まあ、すぐに仲直りするんですけどね。

しかし、この件でさすがに見かねた吉永中尉と工藤の間で口論が起こります。

罰直主義は利己心を増長するので是正すべきという吉永。
罰直は海軍精神を鍛えるための伝統であるという工藤。

吉永は教育は愛であると主張し、工藤は力であるとし、平行線に終わるのでした。

吉永の意見はもっともですが、そもそもこの戦争中という非常時において、
彼らの置かれた立場を平時の理論で測るのはいかがなものかとも思われます。

彼らの意見の対立は、実に最後の沖縄の戦場にまで持ち越されることになります。

会議の間ずっと落書きをしていたらしい山中中尉ですが(笑)、
若手教官だけになると、早速吉永に向かって

「教育は愛なんてそらぞらしい、工藤のいうのが本当だ」

さらに、

「教育が愛などと言うなら、どうして特年兵制度などに反対しないんだ」

と大正論をぶつけてきます。

そりゃそうだ。
軍人直喩を唱え、人間に見立てた藁人形に銃剣を持って突撃する訓練。

こんな教育を14歳の子供に行うことそのものが愛とは程遠いじゃないか、
というのが山中中尉の本音であり、実は誰もが口には出さないけれど、
心のどこかで誰もが疑問を持たずにいられない矛盾が大前提なのですから。

訓練生は出した手紙だけでなく返事もしっかり検閲されます。
教班長に母からの手紙を音読させられる会津藩士の家系の息子、栗本。

まるであの「フォレスト・ガンプ」のダン中尉の家系のように、栗本の家は
戊辰戦争、日清戦役、日露戦争、シベリア出兵で代々男たちが戦死しています。
彼は兄も支那事変で亡くしているのです。

檀那寺の和尚(加藤嘉)は無責任に(笑)戦死者を出すことを
日本でも数少ない名誉な家だと称えるのですが・・

彼の母(奈良岡朋子)は決してそれを嬉しいとも思っていないようです。
人前では繕っていても世のほとんど全ての母親の気持ちは皆同じでしょう。

次に呼ばれたのは橋本。
今三島にいてお客には兵隊が多い、と言う手紙に、工藤は
(そんなことくらい察しろと言う気もしますが)

「お姉さんは何をしているんだ」

「姉は酌婦・・いいえ、娼妓です」

「・・(´・ω・`)」

最後は林でした。

母親は、給料3円50銭なのにどうして5円も送ってこられるのか、
と手紙に書いており、それを読みながら林は驚愕します。

「教班長・・・わたしは3円(しか送っていません)」

「きっと手紙を書いた江波のお母さんが聞き間違えたんだろう」

しかし、教員の間でもこの金額の相違は話題になってしまい、
工藤はその理由を尋ねられ、苦し紛れに、

「きっと同じ教班の者が同情して・・そうだと思います!」


・・・工藤教班長・・・
これはいわゆる一つの・・・・

 

続く。


東に沈む夕日〜映画「グリーンベレー」3日目

2021-06-24 | 映画

ジョン・ウェインのある意味国策映画、「グリーンベレー」最終回です。

さて、カービーは上官のモーガン大佐(ブルース・キャボット)
ARVNのカウンターパートであるカイ大佐(ジャック・スー)と会い、
彼らが計画する極秘の任務について説明を受けました。

その計画というのは、現在北ベトナムにいるPha Son Ti 将軍という、
ベトコンと北ベトナムの総司令官を​​誘拐するというものでした。

ベトコンのリーダーである将軍を確保することによって、
南ベトナムに有利な条件で終戦交渉を行うことが目的だというんですが、
計画もお粗末なら、そんなことで終戦交渉に持っていけると思うなら考えが甘すぎ。

しかも、ティ将軍は過去一度逮捕したものの、政府に圧力をかけられて
逃げられてしまっているっていうんですが、じゃ今度は政府の圧力はどうするつもり?

だいたい、一度そんな目に遭ったら向こうも厳重に警戒しているでしょう。

そこで女ですよ(笑)
トップモデルであるこの美女を使ってハニトラを仕掛けようというわけです。

ハニーの名前はリン(アイリーン・ツー)

父親があまりにおめでたすぎて弟共々殺されてしまったので(本人談)
復讐を果たすため計画に協力する、といいます。

彼女と街角のカフェで目を合わせずに会話したあと、カービーがカイ大佐に

「信用できるのか?」

「もちろん。彼女は俺の弟の妻だ」

つまり親族ってことですが、それをハニトラ要員に差し出すか。
だいいち弟の了解は得たのか?

 

彼女とティ将軍とは幼なじみで、お互いまんざら知らない仲ではなく、
さらに将軍は彼女にご執心なので、北ベトナムの奥深くにある
フレンチコロニアル様式のティ将軍邸宅に入り込み、
油断して無防備になった瞬間を精鋭部隊が急襲する作戦だというのですが。

 

精鋭部隊は、このティ将軍一人を捕まえるために、空挺降下による敵地侵入を試みます。
わたしはこういう作戦についてどうこう言えるほどの軍事知識はありませんが、
それでもここで空挺降下を行うというのは、ちょっと違うような気がします。

費用対効果の面で言うとちょっと大げさすぎやしませんかね。
しかもハニトラ現場ですぜ。

ここで「ジャンプマスター」(陸自でどう言うのかは知りません)である
カービー大佐は、降下を指示するわけですが、まず、

「ポートサイド(左列)立て!スターボードサイド(右)立て!」

といい、

「フックアップ!」(フック掛け)

「ドアの前へ!」

「ゴー!」

で降下が始まっています。

おっと、カービー大佐、各々の装具を点検する指令を行なっておりません。
久しぶりなので忘れてしまったのかもしれません。

「ジャンプマスターに突き落とされるまで降下できない」

と噂のあったピーターソンですが、大佐が案ずるまでもなく、
意を決した様子で自発的に降下を行いました。

降下してしまえば邪魔なだけの落下傘などは埋めてしまいます。
ただし、流石の金持ちアメリカ軍もあとで回収するつもりらしく、
捻挫した兵を荷物番に一人残して行きました。

ポイントマン(先遣兵)という言葉も、「ベトナム戦争シリーズ」で知ったばかりです。
そのポイントマンとして本隊より少し先に出発した(一人で)コワルスキですが、
地元敵民兵と格闘になりました。

一人目を倒し、二人目を枯れ枝に百舌の速贄のように突き刺したとき、
3人目に後ろから襲われて・・・・。

ところでどうでもいいんですが、この時の上海雑技団みたいなBGMはいかがなものか。

「ブルドッグ!・・・ブルドッグ!」

とカービー大佐のコードネームを呼びながら息絶えました(´;ω;`)

カービー様ご一行はその後橋を渡ってコロニアル風邸宅の近くに到着。
警備が厳重なはずなのに、易々と近くに忍びこめてしまう不思議。

ティ将軍はリン嬢をエスコートし、捧げ銃衛兵の間を邸宅に入って行きます。
こういうとき(女性を連れ込むとき)に軍隊は捧げ銃はしないんじゃないかな。
しらんけど。

一行はあまりにも簡単に邸宅の歩哨をやっつけてしまいました。
ARVINの兵士が弓矢で木の上の見張りを静かに抹殺し、
誰にも気づかれることなく将軍の寝室に近づいていきます。

さて、こちらハニトラ要員のリン、今まさにお仕事に取り掛かるところ。

意中の女性を前に、ティ将軍、すっかり舞い上がっております。
しかし、ベトコンのリーダーで将軍にしては若すぎない?

ワインを女性に勧めるムード派の将軍ですが、リンは「後で」と断り、
手っ取り早くターゲットを無防備な状態にしてしまうために
とっとと電気を消し、サクサクと服を脱いでいくのでした。

そしてこんな時に限って家の中には見張りがおらず、
兵隊たちは控え室で全員トランプして遊んでおります。

半開きのそのドアの前を一行は通り過ぎ、階段を登って寝室まで難なく侵入。
音ひとつさせずに鍵をベテランの泥棒のように解除し、
ベッドまで匍匐前進で近づいていってターゲットをあっさり確保します。

そこではっ!と見つめ合うリンとカイ大佐。

そうそう、この二人そういえば義理の兄妹の関係なんでしたっけ。
どちらにとってもカナーリ気まずい瞬間かもしれません。

カイ大佐はなぜか左手に持っている黒い服を投げつけるのですが、
仮にもハニトラ要員としてご協力いただいた相手に、なんなんだその態度は。
もう少し労るべきじゃないのか?え?

とにかくこれでターゲットは確保しました。
半裸の間抜けな男を眠らせて、コロニアル風の二階からリペリングで運び出し、
(さすがは空挺隊ですね)車のトランクに詰め込んで脱出。

こちらはマルドゥーン率いる別働隊。
前夜から橋を爆破するために爆薬を仕掛けて待っていました。

検問所を簡単に突破し、爆発させた後、橋の爆破にも成功。

やったぜはっはっは、とふりむいてみたら、一緒にバイクに乗っていた
医療担当のマギー曹長が銃弾を受けていました。

さて、こちらは将軍誘拐グループ。
トランクから引き摺り出したティ将軍に赤いフライトスーツ?を着せて、
何をするのでしょうか。

日の丸?
じゃないよね。

目立つように赤をあしらった曳航用のバルーンを用意し、
まず、こちらをヘリウムガスで空に飛ばします。

あらかじめロープの先にティ将軍を結んでおきます。

バルーンを飛ばしますと、ティー将軍も一緒に空に飛んでいきます。

そこに飛行機がやってきて、ロープを引っ掛けて運んでいけば完成です。

なーるほど!うまいこと考えたね。

と言いたいところですが、これ、ひっかけると同時に風船は切れてしまっており、
どうやってティ将軍を中に収容するつもりなのか謎。

目的地まで人間一人翼に引っ掛けたまま運んでいけるとも思えないし、
よしんば奇跡的に目的地まで行けたとしても、着陸すると同時に地面に激突:(;゙゚'ω゚'):

まあそんなことはどうでもよろしい。よろしくないけど。

ハニトラ成功の功労者なのに、誰も労るどころか声もかけないので、
まるで罪人のように黒い服を着てションボリしているリンさん。

見かねてカービー大佐がカイ大佐に声をかけます。

「彼女は君の義妹なんだろう」

「そうだ」

「彼女の将来も、自尊心も・・君の手の中にあるようなものなんだ」

「そんなことは・・・」

言いかけたカイですが、思い直して

「ありがとうマイク」

そして、

「リン・・・君は勇気のある女性だ」

するとリンは気怠げに

「いいえ、ただ、一族が許してくれるように祈っている女がいるだけよ」

つまりカイ大佐の一族ということでしょうか。
いったい彼女が夫の親族に何を謝るというのでしょうか。

ハニトラ要員になったことかな?

それなら謝るべきはそれを命じたカイ大佐で、謝る相手はむしろリンと弟なのでは?

しかし、そういった反省は一切ないまま、カイ大佐は上から目線で

「許すことなど何もないよ」

許されたと思ったリンは義兄の腕に飛び込み、嗚咽するのでした。

 

そしてこの映画、最後に衝撃シーンが待ち受けております。(ネタバレ注意)
作戦を成功させ、いざ帰還のヘリとの合流地点に近づいてきたというとき、

たまたま、ほんのたまたま一番先頭をあるいていたピーターソンが
パンジスティックの罠に足を取られてしまったのでした。

「わあああああ!」

((((;゚Д゚)))))))

流石にそれを見て叫び声をあげたのは女性のリンだけです。

直後にカービーは「動け!」と命令を下し、ピーターソンの荷物を拾い上げて
最後に罠にかかった(多分だけどまだ生きてる)ピーターソンを一瞥します。

次の瞬間、場面はダナンの飛行場です。

帰還するヘリを迎えるために、新聞記者のベックワースと、
ベトナム人の孤児ハムチャックが駆けつけてきていました。

少年のお目当てはもちろん彼の友だち、ピーターソンです。

兵士が行進して行きます。
彼らはこれから前線に向かうのです。
ベックワースは少年を見送っていましたが、くるりと向きを変え、
兵士たちと一緒に歩いて行きました。

ODカラーの陸軍の制服を着て。

「成功したな」

「ああ、しかし高くついた」(犠牲は大きかった)

そう司令官と話すカービーの後ろでは、少年が

「ピーターソン!」「ピーターソンいる?」

とヘリを覗き込んでは聞いています。

後ろのヘリからは負傷したマギーが運び出されました。

ヘリパイに「もう誰も乗っていないよ」と言われ、
半泣きで全部のヘリの中を覗き込む少年。

「ピーターソン!」

「ノー!ノー!」

 

周りから子供のケアを頼まれてしまったカービー大佐、
水平線を眺めている彼に近づいていって声をかけました。

「ハムチャック、戦争だから仕方ない」

「でも、そうなって欲しくなかった」

「誰もそうなってほしい人なんていない」

子供は涙でびしょびしょになった顔をふり仰ぎ、

「僕のピーターソンは勇敢だった?」

子供と話すときは同じ目線でね。

「とっても勇敢だった・・・君もそうなれるか?」

「なれるかな」

「なれるさ」

そう言ってカービーはピーターソンのグリーンベレー を子供にかぶせてやり、

「”君の”ピーターソンは、君に持っていてほしいと思うだろう」

うーんそうかな?
ピーターソンの遺族はそう思わないと思うけど。

映画で戦死者の遺品を遺族に返さず勝手に人にあげてしまう人多すぎ。
(例;『怒りの海』の海軍少佐)

そして、君もグリーンベレーだ、と決め台詞を吐いて、
実際はダナンからは地理上決して見ることのできないはず
水平線に沈む夕日を見ながら、手を繋いで歩いていくのでした。

これはあれか?東に沈んでるのか?

それから、おーいカービー大佐、子供をどこに拉致するつもりだー!

 

というわけで、映画は終結するわけですが、この映画は一言で言って、
ジョン・ウェインの単純な正義対悪の戦いをベトナム戦争に当て嵌め、
まるで西部劇のような構図で表している・・「ベトナムウェスタン」だと思います。

南ベトナムはアメリカが共産主義から守るために庇護すべき存在で、
共産主義とはつまり絶対悪であるから当然こちらは「悪玉」という位置づけ。

「庇護すべき存在」を象徴するのが、このハムチャックという子供であり、
間接的にではありますが、リンという女性だったりするわけです。

もちろん現実のベトナム戦争はそんな善悪説でカバーできるほど、
単純なものではなかったことは歴史が証明しています。

 

往年の名スターがメガホンをとって何がなんでも作りたかった映画。
本作は興行的には大成功で、ウェイン自身の作品では最大となる、
2千177万と27ドル(端数がリアル)の興行収入を記録しました。

これは、ウェインが政治家ではなく映画人であったことを考えれば、
彼の圧倒的な「勝ち」であり、かつ「成功」であったということでもあります。

彼自身は、否定的な「左翼の」非難がおそらくこの興行成績に役立った、
と豪語し、さらに批評家は作品そのものではなく戦争自体を攻撃していると述べました。

この映画が国民のベトナム戦争への理解を深めたかというと、おそらく、
全く意味がなかったと思われますが、純粋にエンターテイメントとして見た場合、
例の西部劇、活劇としての要素を持つ本作品が面白かったのは事実です。

 

ウェインはベトナム兵役を逃れるために国外脱出をしたティーンエイジャーを、
「臆病者」「裏切り者」「共産主義者」と非難しましたが、ところがどっこい、
そのウェイン自身は第二次世界大戦には参加していません。

そのこともあってか、ベトナムに出征している多くの兵士は、
この映画に対し、非常な不快感を示したと言われてます。

 

この映画が制作され始めた1967年当時、ジョン・ウェインは
ベトナム戦争に勝つことができると本気で信じていました。

グリーンベレーに勝手に認定した子供の手を引いて、
南ベトナムには存在していない海岸線を、

彼はどこまで歩いていくつもりだったのでしょうか。

終わり

 

 


ダナンの「ラ・セーヌ」〜映画「グリーン・ベレー」2日目

2021-06-22 | 映画

映画「グリーンベレー」2日目です。

キャンプに偵察隊が帰還してきました。
担架で運ばれてきた隊員もいます。

彼らの隊長は、政府軍のニム大尉(ジョージ・タケイ)

ウェインが直々にオファーした日系人俳優タケイは、当時
「スタートレック」に出演しており大変人気がありました。


撮影開始直前、彼はウェインに向かって

「自分はベトナム戦争には強く反対している」

と表明しています。

これはウェインも承知の上で、というか、ウェインはこの映画クルーの半分が、
(ピーターソン軍曹役のジム・ハットンを含め)反対派であることを知っていましたが、
スタッフがプロとして演技と演出に力を注いでくれれば十分だ、と考えていたようです。

幸か不幸かこの映画は良くも悪くも当時大変な話題を集め、
賛否が真っ二つに分かれるような事態となったため、
(つまりそれは当時のアメリカのベトナム戦争に対する世論そのままでした)
出演を引き受けた、イコール、ウェインに同調しベトナム派兵を支持するものと、
世間の多くが彼らを見なしたとしても全く不思議ではありません。

前述のジム・ハットンなども、映画に出演したというだけで、
賛成派だとみなされて、詳しくは知りませんが色々あったようです。

それにしても、ジョージ・タケイのベトナム人役、なんと違和感のないことよ。

タケイはさすがプロらしく、一旦撮影が始まるとこの役に集中するため、
「スタートレック」の出演エピソード9回分を辞退しています。

この件でハッピーだったのは、「スタートレック」のチェコフ少尉役、
タケイの友人でもあったウォルター・ケーニッヒでした。
なぜなら、ヒカル・スールーが出ない分、出番が増えたからです。

 

て、カービー大佐は早速ニム大尉をねぎらいますが、大尉は

「敵地に11日間いる間に部隊はかなり消耗して人員が足りないのに、
山岳部族は自分たちのこともベトコンのように見ていて、協力してくれない」

と答えます。

さらにニム大尉は、問われるままに

「自分の故郷はハノイなので、いつか帰りたいが、
その前にベトコン(Stinking Cong)を皆殺しにする」

と語り、周りのアメリカ人は彼の気迫に思わずたじろぐのでした。

「部屋に星のマークをつけてるんですよ。
今年はもう52個になったとか・・。
来年はこれを倍にするとか言ってます」

ニム大尉に何があったのかは尺が足りなかったのか、語られないまま終わります。
気を取り直すように、だれともなく話題を変えて、

「ところで一夜にして奇跡のように現れたトタン板のことなんだが」

海軍からピーターソンが盗んできたあれですね。

「便利なやつがいるもんだ」

「ピーターソン軍曹はどこから持ってきたと言ってた?」

「”いい妖精さんが置いていってくれた”と」

「”いい妖精さんが置いていってくれました、サー!”と言わなきゃだな」

字幕ではここは簡単に

「敬語を使うように言っとけ」

となっていて、good fairyは妖精さんではなく「天」となっています。

その夜、皆がまったりしていると、1発だけ砲撃がありました。
この攻撃は一晩おきに行われ、要するに安眠妨害をして心理戦を行なっているのです。

しかも、確実に狙う場所が決まっていると・・・。
内通者がいるということなのでしょうか。

この夜は一人の米軍大尉が運悪くその砲撃の犠牲になりました。
大尉は任務を交代して明日帰国する予定でした。

 

北ベトナムに設営したキャンプが砲撃を受けた次の日です。
ベックワース記者が、ニム大尉に現在進行形で行われている作戦について聞いています。


「ヘリで森の上を低空ギリギリで飛んで、ベトコンの銃撃を誘うんです」

「ベトコンがこんなに近くにいるということですか」

ニム大尉は白い歯を見せつつ快活に笑って、

「ベックワースさん、ベトコンは私の隊の中にもいるんですよ」

昨夜の爆撃が内通者の情報に基づいていたことを確信しているようでした。

ところで、マルドゥーン軍曹は「横流し屋」ピーターソンの「お道具」に目を見張りました。

仕事柄?やたら物持ちです。
ティーセット、ギター、お酒にコーク。

「任務中だというのにまだ娑婆っ気がぬけないのか」

「軍曹、わたしゃ海兵隊じゃないんでね。好きにさせてください」

トタンを調達してきたという功績があるので、マルドゥーンは下手に出て、

「今度は50口径を調達してくれないかな」

ピーターソン、軽ーく、

「いいっすよ。次にね」

「・・・どうやって?」

どこそこの誰々がバーボンを欲しがっているのでそれと交換する、
と得々と語るピーターソンに、マルドゥーン、驚いて、

「バーボンなんかどこにあるんだ」

「それは・・・」

蛇の道は蛇を地で行く抜け目ないこの男に、教会に通い、
ボーイスカウト出身という真面目な軍曹は呆れ返ります。

「俺はイーグルスカウト(ボーイスカウトの最高レベル)までいったんだ!」

でっていう。

ちなみに、マルドゥーン軍曹を演じたアルド・レイは特にジョン・ウェインと険悪で、
のちにインタビューでウェインを軽蔑的に語ったということです。

その理由はともあれ、なんで出演引き受けたのって気がしますが。

ある日、マルドゥーン軍曹が、ベースキャンプ周辺のジャングルの一部を片付ける
海軍シービーズの作業をを監督していると、一人の兵士が怪しい動きで
どうやらキャンプの中を歩測しているらしいのに気がつきました。

ニム大尉が捕らえて尋問すると、この不審な男は、最近ベトコンによって殺害された
アメリカ軍救護隊員の私物であるジッポーライターを持っていました。 

裏には妻から贈られたものであることを示す文字が。

彼はカービーの友人で、山岳部族の出産を手伝った帰りに行方不明になり、
確認が難しいほど無残な遺体で発見されたのでした。

ベックワースは、ニム大尉が容疑者を殴打したのを見ていて、

「あれは拷問じゃないか!どうして裁判しないんだ」

と平時の理論を持ち出して大佐に食ってかかるのですが、
大佐は今回の容疑者はいかなる種類の保護にも値しないと切り捨てます。

「それとこれとは」

「大声でそれをコールマン大尉に言ってやれ。
ここからアーリントン墓地まで聞こえるようにな」

(´・ω・`)

キャンプでは付近住民の医療ケアなども行われます。
山岳部族の酋長がパンジスティックを踏んで怪我をした孫を連れてきました。

ベックワースは愛らしい孫娘に自分のペンダントをプレゼントします。

米軍は、敵攻撃に備えて民間人キャンプ内にを避難させようとしていたので、
ここぞと村長に交渉しますが、どうもピンときていない様子。
大佐が明日の朝迎えに村に来てくれたら従う、といって帰っていきました。

ご指名とあっては致し方なし。

カービー大佐は深夜から老骨に鞭打って部下と山中を村に向かいます。
道中にはパンジスティックの仕掛けなんかがてんこ盛り。

この道をじっちゃんや担架の女の子はどうやって帰っていったのか(´・ω・`)

「あの村長、敵の回し者とかじゃないんですかね」

ついそんな疑問が湧いてくるほどです。

しかし、村に到着した一行が見たのは累々たる死体でした。

村長の遺体の上には「グリーンベレー どもへ」と札がかかっていました。
(というのも何だか違う気がするんですが。普通『アメリカ人へ』とかよね)
村長がベトコンの募兵命令を断ったため、男たちは全員虐殺されてしまったのです。

 

村長の娘は山中に連れ込まれて無残にも殺されていました。

なぜか危険なミッションに付いてきていたベックワースは、
女の子の遺体がつけていたペンダントを渡され、愕然とするのでした。

そんなベックワースにカービー大佐、ダメ押し。

「だから言っただろう。現地を見ないとわからないと。
別の村では村長を殺さず木に縛り付けてな。
十代の娘二人を彼の目の前で切り刻んで、40人で彼の妻を(以下略)・・・」

ベックワースを説得するくらいならこれで十分かもしれませんが、
間の悪いことに、映画公開直前にはアメリカ軍の戦争犯罪と言われた
「ソンミ村虐殺」が起こり、米軍自身の残虐行為が問題になっていました。

残虐な敵からこちらの味方を守ってやるべきだ、という立派なお題目を唱えても、
その守るべき相手に対し身内がそれ以上のことをやっちまったわけですから、
お前がいうなというツッコミも当然起こってくるわけですよね。

 

ちなみにベックワース役のデビッド・ジャンセンもまたベトナム戦争反対派でした。

登場人物のベックワースはこのシーケンスを通じて、米国の戦争関与に納得していくわけですが、
それを演じたジャンセンは、全く自分の考えを変えることはなかったようです。

ちなみに、ジャンセンもまたウェインとうまくいっていませんでした。
彼は、撮影中にウェインがアジア人の子供(ハムチャックのことと思われる)に腹を立て、
叱りつけたのが原因で、撮影中のセットでウェインに食ってかかり、口論になりました。

結果、彼はそのキャリアで後にも先にもこのときだけ撮影現場を放棄することになりました。

しかしこうして列挙してみると、出演俳優のほとんどが映画の意図に反対しており、
あまりにもたくさんの俳優がウェインを嫌っていた、という構図が見えてくるのですが、
もうこの頃のウェインは「映画界の天皇」状態で、何があっても意に介さずだったのでしょうか。

 

この辺で、殺伐とした画面に飽き飽きしてきた人のために、
ダナンのクラブシーンが挿入されます。



ステージでは歌手が英語とフランス語で、シャンソンの

「La Seine」(セーヌ川)

を歌っています。
ベトナムはフランス領だったこともあり、フランス語が通じます。

そこにベトナム人の美女登場。

思わず目を見張るスーツ姿のカービー。

同行のカイ大佐によると、このトップモデル、リンという女性は郡長の娘で、
その郡長はベトコンの協力を拒んで弟とともに虐殺されたとか。

実は彼女、カイ大佐の義理の妹なのですが、なぜかこのとき
彼はそのことをカービーに告げません。



その夜、特殊部隊のキャンプは、数千人のベトコンと北ベトナム軍による
大規模な夜間攻撃を受けることになります。

パンジスティックと鉄条網の上に梯子をかけて侵入してきます。

こちらも迫撃砲で応戦。
ベックワースも怒鳴られて砲弾運びを手伝い始めました。

カービーとマルドゥーンは状況を評価するためにヘリで出撃するのですが、
彼らのヘリコプターは敵の砲火によって撃墜されてしまいます。

地面に激突する直前に飛び出したので全員無事、犠牲者はパイロットのみでした。
(そんな簡単にいくかなという気もしますが)

すぐにパトロールによって救助され、包囲されたキャンプを支援するための
「マイク・フォース」として(その心はカービーのファーストネーム)
フィールドを確保しました。

ここで問題発生。
チムチャックの犬、チマンクが壕から出てしまったのです。
そして・・・。

(-人-)ナムー

戦争映画の犬はフラグ、と言い続けてきましたが、犬そのものが死んだのは初めて見ました。

この非常時に、しかもこんなところ(土嚢の上)に墓を作り出す子供。

ピーターソンがやってきて、

「かわいそうに、友達がいなくなったな」

「君がいる」(Except you.)

「そうだな」

そのとき空軍機の支援がきました。
この「ブルー編隊長」が爆撃位置を確認してきます。
空爆で敵を叩いてからマイクフォースが突入することに。

この戦闘で多くのアメリカ人と南ベトナム軍と民間人が死亡しました。
プロボは南ベトナムの兵士を装ったスパイに銃撃されて重傷です。
ニム大尉はクレイモア対人地雷を仕掛けている途中、砲撃を受け戦死しました。

いたるところに地雷を仕掛けたのち、民間人を誘導し、退去を行います。

ピーターソンは、子供ハムチャックを抱き抱えてヘリに乗せ、
パイロットによろしく頼む、と後を託しました。

おそらくこのヘリパイは本物だと思われます。(演技が下手すぎ)

キャンプ内ではベトコンと北ベトナム軍の兵士による略奪が始まっていました。
倒れている遺体からめぼしいものを盗んでいくという浅ましさ。

靴や時計を剥ぎ取られているこの遺体は・・・なんとニム大尉ではないですか。

そして占領の証に意気揚々と旗をあげるのですが・・

あげ終わるか終わらないうちに「マジックドラゴン」(C-47)
が機上から掃射を満遍なく行い、瞬く間に敵を殲滅してしまいました。

全てを見たベックワース記者に、カービー大佐が尋ねます。

「見たことをどのように書くんですか」

すると記者は、

「もしどう感じたかをそのまま書いたら仕事はクビでしょうね」

そのときカービーは戦闘で重傷を負ったプロボ軍曹の臨終に呼ばれました。

いくら死ぬこと確定でも、顔の血ぐらい拭いてやれよ。
と思ったのはわたしだけでしょうか。

プロボ軍曹、何やらカービーに重大なことを頼みたい模様。

 "Would you take a touch with me?"

この場合の「タッチ」は、ちょっと飲んだり食べたりする何か、と解釈します。

「ちょっと一緒にやってくれませんか?」

というところでしょうか。

「いいとも」

カービーはウィスキー瓶をいきなり瀕死の人の口に押し込んで、
そのあと同じ飲み口から自分もぐいっと一口飲み干すのですが・・・。

だからその前に口の血をふいてやれよって!

他人の血痕のついたボトルから直飲みなんかして、戦争で死ぬ前に病気で死ぬぞ。

「もう一つお願いが・・・」

「なんだ」

彼の変わった名前を残すのに適切な施設。
それは、PRIVY(屋外簡易トイレ)でした。

PROVO PRIVY

うーん、確かに語呂「だけ」はいいかもしれん。

これで彼も後顧の憂いなく旅立ったわけです。
めでたし・・・いや、めでたくはないか。

 

続く。


「グリーンベレーのバラード」〜映画「グリーン・ベレー」

2021-06-20 | 映画

ハインツ歴史センターのベトナム戦争シリーズが続いているので、
何か映画もベトナム戦争ものを取り上げてみたいと思い、検索していたら
あのジョン・ウェインがいい歳をして現役の大佐を演じた

「グリーンベレー」

なる映画を見つけました。
ジョン・ウェインといえば、当ブログでは第二次世界大戦における
米海軍の太平洋対日戦を描いた

「危険な道」(In Harm's Way)

を扱ったことがあります。

そのときも彼は全く現役軍人らしくない体型を駆使して海軍大佐を演じていましたが、
本作はそれよりさらに3年後の1968年、61歳でなんと空挺隊の司令官という、
・・・まあはっきり言って、前回にも増して無謀ですぜ旦那、という役どころです。

61歳の軍人はもちろん現実に存在しますが、グリーンベレーは特殊作戦群なので、
彼の年ではありえず、しかも、ベトナム戦争当時、大佐は30代というのが相場でした。

いかに往年の大スターでも、こんな無謀なキャスティングまでして、
どれだけジョン・ウェインという大物を担ぎたかったんだろう、などとわたしは、
年齢以前に、弛緩しきった顔の贅肉やら、横から見たら
特に著しい、
肥大した腹部やらを悲しい気持ちでうち眺め思ったものですが、

後から調べてみると、なんとこの映画、彼が人生で監督した
たった二本の映画のうちの一本だったということが判明しました。

ジョン・ウェインを担ぐための映画ではなく、ジョン・ウェインが作りたかった映画。
つまりそういうことになるわけです。

それでは彼は、そんなにしてまで何を映画で訴えようとしたのでしょうか。

データによると、まず、原作は1965年にロビン・ムーアが発表した小説です。
ウェインは、この着想を1966年にベトナムに行って思いついたとされ、
彼はベトナム戦争当時のアメリカを席巻していた反戦感情に危機感を抱き、
この映画を作って当時のアメリカの世の論を動かそうとしたのだと考えられます。

まず、ウェインは民主党のリンドン・ジョンソン大統領に手紙を書き、
戦前の映画に対するような「軍事援助」を要請しました。

日本もそうでしたが、アメリカも「硫黄島の砂」「東京上空30秒前」
「史上最大の作戦」のように、国防総省協力による映画を制作しており、
つまりウェインはベトナム戦争においてもそのような映画が必要だ、と説いたのです。

ジョンソン大統領の特別補佐官でありロビイストだったジャック・ヴァレンティは、


(ちなみにこの写真の最左壁際の人)

大統領にこう進言したそうです。

「ウェインの政治的立場(タカ派と言われていたこと)は間違っているが、
ベトナムに関する限り、彼の見解は正しいと思います。
もし彼が映画を作ったら、我々が言って欲しいことを代わりに言ってくれるでしょう

かくして、ウェインは、第36代大統領リンドン・B・ジョンソンとアメリカ国防総省に
全面的な軍事協力と資材の提供を要請し、それを得ることに成功しました。

ただし、この話にはちょっとした裏があって、当時ペンタゴンは
原作者のロビン・ムーアを、情報漏洩の疑いで告訴しようとしていたところ、
ウェインは情報ごと原作をの版権を大枚で買い叩いて、(3万5千ドルと利益の5%)
その結果、原作の内容とは全く関係のない内容となる脚本を別人に頼んでいます。

これによって、ウェインはペンタゴンを自分の味方につけようとしたと言われています。

そしてその後、彼はこの、

「史上最も評価の分かれる、物議を醸したジョン・ウェイン作品」

の制作にのりだすことになったのです。

こんなに小さくともわかってしまう、ジョン・ウェインが老骨に鞭打って走る姿。
タイトルに流れるのは「グリーンベレーのバラード」です。

The Ballad of the Green Berets

グリーンベレーという精鋭部隊をご理解いただくためにぜひご覧ください。
この映画のタイトルソングにはあまりに古臭くないか、という意見もあったそうですが、
ジョン・ウェインはここにこの曲を使うことに強くこだわりました。

グラウンドを上半身裸で「ミリタリーケイデンス」を唱えながら走るグリーンベレー。

「フーアーユー?」(貴様たちは誰だ?)

と尋ねると、皆で声を揃えて

「エアボーン!」

「ハウ・ファー?」(どこまで行く?)

「オール・ザ・ウェイ!」(どこまでも!)

ここはノースカロライナ州のアメリカ陸軍フォート・ブラッグ。

特殊部隊グリーンベレーの訓練キャンプにある、
ガブリエル・デモンストレーションエリア(ベトナムで最初に戦死したグリーンベレー、
ジミー・ガブリエル軍曹にちなんで名付けられた)におけるブリーフィングで、
ベトナム戦争に参加した理由説明とデモンストレーションが行われています。

壇上で士官たちがいきなり外国語で話し始めるのは、語学能力をアピールするためです。
ちなみに向こうの人は独語とノルウェー語、こちらの人は独語とスペイン語が話せます。

この説明会は、つまりプレスの質問を受け付ける機会ですが、
記者たちは、なべてベトナム戦争参加に懐疑的です。

「何故合衆国がこの無慈悲な戦争を行うのです?(直訳)」

そんな質問に対し、説明係のマルドゥーン曹長

「それは政府が決めることで、我々は命じられるところへ行くだけです」

そりゃごもっともです。
そんなこと、ここで聞いて納得のいく答えが得られるはずがないですよね。

すると皮肉な新聞記者のジョージ・ベックワース(デビッド・ジャンセン)が、

「それに賛同するってことは、グリーンベレーというのは、
ただの
個人的感情のないロボットってことですかい?」

とかいやみったらしく聞くわけです。

それに対しマルドゥーン軍曹は、

「我々にも感情も意見もあるが、現地では指導者層や女子供まで虐殺されている。
もし我が国で同じ事態になれば、
残された人々が立ち上がることは
当然支援されるべきでしょう」

と説明します。

ベックワースは意地悪くまた絡み、軍曹が歴史を紐解きつつ
見事に論破し、それに
満座が拍手すると、またしても

「でもベトナム戦争は内戦、所詮内輪揉めじゃないか」

負けじと言い募ります。



すると軍曹は、「そう思いますか?」と聞き返して、
北ベトナムの兵士とベトコンのゲリラから捕獲された武器と装備を
一つ一つ手に持って説明します。

それらはソビエト連邦、チェコスロバキア共産党、中国共産党で製造されており、
(S.K.S カービン銃、
チャイコムK 15)ベトナム戦争が単なる「内輪揉め」ではなく、
敵が共産主義そのものであることを如実に証明していました。

しかし負けず嫌いなベックワースったら、今度は勝てると思ったのか、
マイク・カービー(ジョン・ウェイン)大佐を見つけて食い下がります。
しかし今回も、

「あなたはベトナムに行ったことがありますか」
(現地を見たことがないのに何がわかるんですか)

と言われて返す言葉をなくしてしまいました。

さて、カービー大佐の部隊がベトナム行きを控えたある日、自分もぜひ
ベトナム行きに参加させて欲しい、と思い詰めた様子で頼んでくる男がやってきました。

兵器の専門家であるプロボ軍曹です。

かと思えばこの男。
別の隊から毎日この部隊の宿舎にやってきてはうろうろしています。

「また同じ時間に来てますな」

「変なやつです。
朝鮮とベトナムにも1年ずつ行ってるんですがね。
三か国語喋れるんですが・・・空挺隊員としてはどうかと」

「どういう意味だ」

降下のたびに先任が突き落とすまで飛ばないんです」

「いいじゃないか。気に入った」

「は?」

「多分そんな奴なら簡単にやめないだろう」

そこで周りを取り囲んで何をしているか調べてみたら、こいつは
この部隊の補給処からの「物品調達」を独自にやっておったのです。
つまりは横流しの現行犯ってやつですな。

「今回は見つかったけど、それは100回に1回です」

と豪語するこのピーターソン伍長を、カービー大佐は
軍曹に昇格させて連れて行くことにしました。

こんな図太い奴なら何かの役に立つだろうということか?

ところがピーターソン、軍曹になっても自覚が全くできておらず、
出発の朝にギターで(物持ちです)殴られて起きる始末。

次の瞬間、部隊は空自のC-130H的な輸送機でダナンに到着しており、
5音音階によるアジア風旋律をとりいれた勇ましいBGMが流れます。

全体的にこの映画の付随音楽はなかなか良くできていると思います。
担当は「ベン・ハー」などを手掛けたロージャ・ミクローシュです。

当初、ウェインはスコアを友人エルマー・バーンスタインに頼んだのですが、
彼は自分の政治信条とこの内容が合わないとして断ってきたということです。

バーンスタインの代表作は「十戒」「荒野の7人」「ゴーストバスターズ」など。

翩翻と翻る星条旗と南ベトナム国旗。

駐屯地名はアメリカ軍の慣習として戦死者の名前が付されます。
マギー軍曹はこのアーサー・フラーという男に会ったことがあるといいます。

しかし調べても第一次世界大戦のベテランの名前しかでてこなかったので、
おそらく架空の兵士名ではないかと思われます。

この看板を物思わしげに眺めていたのは、プロボ軍曹でした。

カービー大佐に打ち明けたところによると、彼は万が一自分が戦死したら、
自分の名前、「
プロボ」が通りや基地の名前になることを心配していました。

「プロボストリート」「プロボカンティーン」「プロボバラック」

どれも語呂が悪くてピンとこない、というのが彼の目下の心配事なのです。
(”語呂が悪い”は英語では”doesn't sing"と言っている)

カービー大佐は前任の司令に現地の南ベトナム軍の「できる男」( outsutanding)、
カイ大佐を紹介され、さっそく打ち合わせを始めました。

カービー大佐は、今回、精鋭の特殊部隊2チームを連れてきたわけですが、
1つのチームはモンタニヤール(山岳部族)と特殊部隊からなるキャンプを
南ベトナム軍に置き換える任務にあたることにしました。

そんなとき、例の新聞記者、ベックワースが到着しました。
彼はカービー大佐の対応にカチンときて(笑)、そんなにいうなら
現地を見てやろうじゃないの、と勇んで乗り込んできたのです。

まあ、粗探しするつもり満々ってところですな。

早速任務に同行してほしいと頼むのですが、これから行くところは
危険だから、と大佐が断ると、このおっさん、

「我が社はベトナムにアメリカがいるべきではないという考えですが、
わたしがそれを裏付けるものを見てしまうのが怖いんですか」

とか挑発するのでした。

そう言われちゃ乗せないわけにはいきませんよね。

カービー大佐はベックワースをヘリに押し込んでから、
よっこいしょういち、とヒューイに最後に乗り込みました。

さすがに足を高く持ち上げるのがかなり大変そうです(涙)

彼らが到着したのは北ベトナムのど真ん中に設置したキャンプです。
当然ですが毎日のように北ベトナム軍の攻撃を受けています。

到着するなりベックワースはパンジ・スティックに目を止めます。
(一連のシリーズで何度か扱っておいてよかったと思った瞬間)

「これは罠か?」

「そうです。チャーリー(ベトコン)から教わったのです。
まあ、彼がやってるのと同じブツに浸したりはしてませんがね」

これも、何度か扱ったため、そのブツが糞尿であるとわかってしまうのだった。

ベックワース、さらにいきなりおしかけたせいで
自分のベッドが現地隊長の二段ベッドの上だと知ってさらに憮然とします。

だからあんたが無理やり来たがったんだからね?

 

横流し軍曹のピーターソンは、キャンプで孤児のベトナム人少年、
ハムチャックに妙になつかれてしまいました。
お約束ですが、彼は迷い犬をペットにしています。

ここでいきなり「錨を揚げて」が鳴り響きました。
ご存知我らが海軍シービーズ(工兵隊)のお仕事現場です。

隊長(妙に年寄り)が、卒塔婆のように転々と直立した水兵の間を、

「この地域の司令官は全てを規則どおりに行うことになっている!
私は司令官のやる通りにするつもりである!
これらの機材には全てひとつずつ塗装をほどこし、ひとつづつ番号を振って、
その上で全て・・・」

と力一杯演説していると、

物資の調達を命じられたscrounger(ごまかして手に入れる人、という意味合い)
のピーターソンが、白昼堂々海軍の物資を運んでいくではありませんか。

帽子をとって挨拶をしながら去って行くヘリに、拳を振り上げて悔しがる海軍さんたち。
こんなやつがいるから、いつまでたっても陸海軍は仲良くなれないんですよ。
しらんけど。

続く。

 


映画「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」 

2021-06-03 | 映画

 

当作品は2015年リリースなので立派な新作の範疇に入るのですが、
わたしにはこれが公開された時どころかDVDリリースの記憶が全くありません。

これは、この映画がハリウッド制作ではなくイタリア映画で、しかも
ハリウッドが蛇蝎のように悪魔視するナチス 、しかもSS隊員の視点から語られた、
「ある方面からは非常に不愉快な映画」
だからではないかと思います。

美しい音楽、愛する妻に送る手紙の淡々とした朗読、最強の部隊と言われながらも
殺す殺されることに苦悩する一人の人間として彼らを語ること。

これら全てをタブーとしてきた戦後の全ての媒体を思うとき、
この映画の意義はたいへん大きなものであると断じざるを得ません。

■ ロシア戦線

さて、師団はイタリアでパルチザンとの戦いに参加したのち、
情勢がさらに悪化したロシア戦線に送られることになりました。

またしても彼らのいうところの「イワン」とのおわりなき戦いが始まるのです。

背嚢には飯盒炊爨のセットとともに髭剃りセットも入っています。

本作で重要な要素として語られるのが捕虜の扱いです。
戦闘中はともかく、基本的に捕虜は取らないとなっている状況下で
不幸にして敵が生き残っていた場合・・・。

相手を一人も許さないと決めたシュタイナーは捕虜を殺すのに逡巡しません。
しかしヘルケルは、手袋を取り上げられ、必死で命乞いするロシア兵を
新兵に射殺させようとする彼を見ながら心でつぶやきます。

「何かを止める力があるのに 許されないのは辛い」

ライプシュタンダルテの創始者であるディートリッヒが肉屋の息子だったように、
彼らはほとんどが貧困の出であり、食べるために軍隊に入隊しています。

新兵のショルはナポラ(ナチス政権獲得後に民族共同体教育施設として設けられた、
中等教育レベルの寄宿学校《ギムナジウム》)出身ですが、
ナポラは必ずしも入隊を強制しておらず、彼自身

「学業を続ける級友が多いけれど、僕はSSに志願しました」

と説明しています。

つまり彼はナチス的教義に共鳴し入隊を決めたのですが、
どんな思想にもたやすく心酔する十代前半の少年にはありがちなことでした。

ヘルケルも貧困ゆえ入隊しましたが、出征し帰ってこなかった父を
誇りに思うように、自分のことも妻に誇りにしてほしいといいます。

そして、ハリウッド映画はもちろん、現代のドイツ人が決して語ろうとしない
ある事実にさらりと言及するのです。

「そこはドイツではなくなっていた。
母はする仕事が全くなくなった。
それはユダヤ人が経済を握っていたからだ。
当然俺たち(ドイツ人)よりユダヤ人が優遇される。
干し草に寝なければならないこともあった。
そんなときナチスが母に仕事をくれた」

そして出征して死んだ父を初めて国家にねぎらってもらったことが、
「ここにいる理由だ」というのでした。

ヘルケルが率いる小隊は、シュタイナー、ショル、総員4人です。

この映画は戦闘シーンと同じ比重を持って自然の描写がなされます。
兵士と自然が共存する、心がしんとするような構図。

この手法はもちろん本作が初めてではありません。
「シン・レッド・ライン」などに取り入れられたのと同様の試みですが、
あちらが南洋であるのに対し、こちらはロシアの大地という大きな違いがあります。

1943年の12月、師団は東部戦線を西部から攻撃していましたが、
16日まで続いた戦闘でソ連第16軍の大半を壊滅させています。

12月24日、この日は装甲軍団の戦線が突破されたため、
前面で防御線を張っていたときでした。

雪上迷彩を制服の上につけた彼らは、ヘルメットに立てた蝋燭を囲み、
互いに「メリークリスマス」とだけ言い合います。

BGMには各自の脳裏に流れているであろう「きよしこの夜」の歌が・・・。

「兵士に何ができる?
指導者たちを信じ、忠誠を誓ったのだから
今は塹壕を掘って掘って掘るしかない」

■ ノルマンディ

ノルマンディ上陸作戦当時、ヒトラーはこれを陽動作戦とみなしていたため、
ライプシュタンダルテはベルギーに駐留していましたが、その後6月下旬、
陽動作戦でないことが分かった時点で現地に派遣されました。

「イワン」と戦っていた彼らは、英米軍と干戈を交えることになります。

雪の中で凍えていたかと思ったら、こんどはフランスです。
この頃になるとドイツは徴集兵で人員を補填するようになったため、
『SSが徴集兵』というちょっとおかしなことになっていました。

つまり最強も何もあったものではありませんが、
国民総動員体制だったので仕方ありません。

コルベ少尉は、総党本部への異動を断って前線に残ることを志願しました。
ヘルケルはそんな彼を心から尊敬しています。

ノルマンディではイギリス軍が発動した「グッドウッド作戦」に対応するのが使命です。
といいつつ、始まった戦闘シーンにはなぜかアメリカ陸軍の戦車が登場。

そしてこの映画は相変わらずエモーショナルなコーラスによるせつない音楽をそれにかぶせ、
ヘルケルが囁くような声で不安で押しつぶされそうな心情を語り続けるのでした。

痛みで喚く瀕死の兵、逃げようとして後ろから打たれる者、
手を上げて捕虜になる者・・。

超人的で勇敢な兵士も、カリスマ指揮官も登場しません。

戦闘が終わってヘルケルの意識が戻ると、彼は一人になっていました。
森を彷徨していると一人の国防軍兵士、ディートヴォルフと出会います。

彼は偶然ヘルケルと同じ故郷出身で、スペイン人とのハーフでした。

彼はいきなり、ヘルケルをゲルマン民族の代表のように、

「何故ユダヤ人を憎む?」

と聞いてきます。
そして、ナチスが行っているという虐殺のことを語り始めました。

彼はポーランドで収容所に送られるユダヤ人を見て彼らの運命を知ったといい、
妻の父がユダヤ人なので心配だ、といいながらヘルケルに青いリボンを見せます。

彼は脱走してアメリカ軍に投降し助けてもらうつもりでした。

ヘルケルに、コルベ少尉は強制的に休暇を与えました。
前線では誰もが遠慮して自分からは休みを申し出なかったのです。

与えられたわずかな時間を存分に味わおうとする二人です。

「人は責務を免れない」

「しかし愛がなくては人は生きてはいられない」

ヘルケルは、ふと町内にあるというディートヴォルフの妻、エレノアの家を訪れました。
彼が無事だったということだけ伝えたかったのです。

帰ろうとした彼はゲシュタポの二人とすれ違いました。
彼らは夫が脱走したことをうけ彼女を捕らえにきたのです。

彼女は逃げ出したため、撃たれてしまいます。

「ユダヤ人に決まっている」

ヘルケルの中に、自分が属する組織、信奉する大義、
そして命をかけて戦う意味に対する疑問が湧いてきた瞬間でした。

■ アルデンヌの戦い

復帰とともに軍曹に昇進した彼は、部下を率いる手前
そのような気持ちをみせるわけにいかない、と苦悩するのですが、

コルベ少尉にはしっかり見ぬかれていました。
ついヘルケルは言い返してしまいます。

「無駄な戦いです」

特務曹長にもその態度は軍法会議ものだ、と怒られてしまいました。
ここを出発するという特務曹長に、ヘルケルは思わず

「脱出ですか」

と嫌味を言ってしまい、

「何様のつもりだ」

と激怒されます。

その晩、コルベ少尉は昼間叱責したことを謝ってきました。
そして、少尉自身が体験した民間人の虐殺について語ります。

大佐の査察に同行していて、武器を摘発した家の家族(おそらく無実)を
射殺することを命じられたのでした。

そこでヘルケルはこういいます。

「戦争が終わったら世界は我々をどう思うでしょう」

コルベ少尉はそれに対し、

「戦争に負ければ我々は永遠に呪われる」

これはある意味この映画の核心たる言葉です。
負ければそれは犯罪となる、しかし負けなければ。

戦争である限り、どちらかだけが残虐だったなどということはあり得ません。
ユダヤ人虐殺のような計画された戦争犯罪こそなかったとはいえ、
このころのアメリカ軍はノルマンディで投降した捕虜を全員射殺していました。

しかし、米軍の「戦争犯罪」は告発されることはありませんでした。
なぜなら、アメリカは戦争に勝ったからです。

そんなとき、ヘルケルの部隊にアメリカ軍の捕虜が連れてこられました。
チラッと見える彼の腕のマークから、彼はレンジャー部隊であり、
偵察隊の唯一の生き残りだという説明がされます。

アメリカ捕虜の検分を命じられたヘルケルは、彼がおそらく殺したのであろう
ドイツ兵の認識票とともに、青いリボンを見つけました。

米軍に投降すると言っていたディートヴォルフを、彼らは殺したのでしょうか。
それとも戦闘後、死体から略取したものなのでしょうか。

逆上した彼はアメリカ兵に詰め寄り、皆が驚く中
振り向きざまに何発も銃弾を浴びせて殺してしまいます。

「エレノア、ディートヴォルフ。
ひとりは敵に、ひとりは我々に殺された」

 

斥候中、ヘルケルはばったり遭遇したアメリカ兵(この顔を覚えておいてください)を、
至近距離であったにもかかわらず撃つのを躊躇い、見逃してしまいました。

  

そしてこのアメリカ兵の反撃によって、部下であり戦友でもあるシュタイナーを失うことに。

その晩彼とショルは幻想を見ました。
何事もなかったかのように帰ってきたシュタイナーと3人で酒を組み交わす幻想を。

コルベ少尉も次の行軍であまりにも呆気なく戦死してしまいます。
ついさっきまで「妻と祖国のために戦う」と言っていたのに。

少尉のお悔やみに言いにきた上官に、ヘルケルは突っかかってしまいます。

「何故戦うんですか」

するとこの高官はその態度に怒ることなく、

「わたしは祖国を愛しているからだ。
もう政治などはどうでもいい。愛するもののために戦う」

そして彼の肩を叩いて去ります。
彼はすぐに捕虜になって処刑される運命です。

そして、そんな彼の最後がやってきました。
あまりにも唐突に。あまりにもあっけなく、まるで日常の続きのように。

彼とその小隊を取り囲んだのは、ヘルケルが射殺したアメリカ兵の部隊でした。

「愛するマルガリーテ

何が真の務めか見出せないなか、僕は最善を尽くした」

「兵士の模範になろうと努め 苦境でも諦めなかった」

「君に会って抱きしめたい
僕は全力を尽くしたと伝えたい」



「僕は君のため 家と故郷のために戦った
心から愛してる」

彼が自分を殺す男の顔を凝視すると、相手も自分を凝視していました。

見覚えのある顔。
かつて自分が撃った敵が最後に見たであろう兵士の顔でもあります。

ところで、最後にナレーションが女性の声で流れるのですが、
この女性は誰なのでしょうか。

「わたしたちは自由のため独裁と戦った
だが彼らは自分の命と祖国のために戦った
多くは2度目の敗戦を恐れた
敵が自分の街や家に踏み入るのを恐れたのだ
だから戦うしかなかったのだ」

「朝起きて小銃を手にし 指導者が始めた戦いに臨む」

「ドイツ指導部は非人道犯罪に問われた
だが罪人はドイツ軍人だけだろうか
彼らは手を尽くさずにはいられなかった
悲しみと 絶望と 必死の思いで」

「彼らの名誉は忠誠
将軍たちは総統のために命をかけ兵士たちは家族や戦友のために命をかけた」

「政治はときとして道を誤る 
だが兵士たちは祖国に忠誠を誓った」

「わたしの夫と同じように」

この映画には二人の「妻」が出てきますが、これが
ヘルケル軍曹の妻ではないことは確かです。

「わたしたちは常に安全な位置に立とうとする
原子爆弾投下の是非も問おうとはしない
多くの命が失われ続けていても何もしない」

「歴史は勝者が作る
何が起き 何が悪いのか勝者は世界に語ることができる
敵軍の犯罪を暴き 自軍の罪を隠せる

わたしたちは知らないことも批判する
常に悪者探しをして安易な道へ逃げる

だがそんな”邪悪な”独軍兵士のおかげで 夫は命拾いしたのだ」

1946年、ミネソタで一人の女性がこれを書いています。
彼女を迎えに現れた男性の顔は映画を見て確認していただくとして、
女性が・・・どうもあのエレノアと同一人物に見えます。

この正誤は観る人の解釈に委ねられているのでしょう。

アルデンヌの森を最後に生き残っていたショルが匍匐しています。

彼を迎えにきたのはヘルケル軍曹とシュタイナーでした。

「伍長、精一杯やりました もうダメです」

ヘルケルは優しく微笑んで彼を引き起こし、3人で歩いていきます。

どこまでも。

美しい自然を共に描くことによって、戦争という人間が行う行為の無意味さ、
虚しさと対比させ、さらにこれまで省みられなかったナチス親衛隊の兵士の視点から
彼らがどう戦ったかを後世に残そうと試みた作品。

そこにはやや平凡ではありますが、細やかな人物描写とともに
決してこれまでの定型にはめずに戦争を描こうとする努力があります。

ほとんどがイタリア人のキャストによるドイツ軍ものなので、
ドイツ語の吹き替えはこの映画に多少の雑さを与えていますが、
低予算ながらクォリティの高い映像は観るべき価値があります。

そうまでしてペペ監督が描きたかったものはなんだろうかと考えると、
それはやはり最後のナレーションに集約されていると思うのです。

「歴史は勝者が作る」

第二次世界大戦を扱った他の映画に欠けている決定的な視点を表すこの一言ゆえ、
この作品はこれまでほぼ話題にならなかったのでしょうし、残念ながら、
アメリカの配給業界ではすぐに消えていく運命だと思われますが、
この作品に哀しい共鳴を覚えた鑑賞者は、決してわたしだけではなかったと信じます。


終わり


映画「第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」

2021-06-01 | 映画

日本の映画配給会社のタイトル詐欺ともいえるネーミングセンスのひどさを
常日頃熱く訴えている当ブログ映画部ですが、今回はちょっと虚を突かれました。

今回も結論から言うとそれはいつもの「タイトル詐欺」と言えないことはないのですが、
・・・なんと言うか、難しいケースです(笑)


最近日米に加えて意識的にドイツの戦争ものを紹介している関係で、
今回、「ドイツ戦争映画」という検索に引っかかってきた映画の中からチョイスしたのが、

「アイアンクロス ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」

でした。

大抵の場合わたしはろくに内容を確かめず直感で購入を決めます。

タイトルだけを手がかりにこんなDVDを選択する人間はあまりいないかもしれません。
いわんや女性においてをや。
言い切るつもりはありませんが、少なくない購買層はいわゆる
ゴリゴリの「パンツァーオタ」に属する男性ではないかと思う次第です。

 

さて、届いたDVDを手にしてみると、パッケージには大きな鉄十字をバックに疾走する戦車、
その前で7人の兵士達が迷彩服で武装してヒーロー戦隊もののようなポーズを決めています。

さらにパッケージには、

「ナチス最強の部隊 最後の戦い」

という文句。
さらにパッケージをひっくり返してみると、

「”悪魔”と恐れられたナチス親衛隊の視点から
戦場の恐怖と真実を暴く衝撃の戦争大作!!」

と❗️二つサービスで煽っているではないですか。

さあ、以上から皆さんはどんな映画だと想像されるでしょうか。

「プライベート・ライアン」や先日紹介した「戦争のはらわた」のように、
緊張した戦闘シーンから始まってもよさそうなものですが、ところがどっこい、
まずこのような言葉で映画の「立場表明」が無音の中行われます。

「この映画は政治的なものではなく 一人の兵士の記録である」

これがオープニングです。

とはいえ、このような始まりを持つ戦争ものは過去の記憶からも決してないわけではありません。


映画制作の意図が反戦であると強調するために、あえてこのように始まり、
その後は戦闘シーンでなければ脱走兵が逃げてきたりするものです。

しかし、タイトルが始まると、戦闘シーンか、あるいはナチス司令部で
制服の高官たちが作戦会議をしているシーンを期待していた人をがっかりさせます。

まず、子供達の合唱によるコラール風の美しい旋律をバックに、
ナレーションが始まります。

「調和と生存 調和は自然のバランス 生存は自然が課す試練
試練は生に目的を与え 生存は魂に深く根付く

樹木の小さな種が光に向かい 上へ上へと伸びるように
生存は生き物に植え付けられた本能

自然も日々生存を賭けて闘う 時に美しい風景を見せる
それは 長年にわたる生存を賭けた闘いの果実

自然は厳しい選択を迫り 人が忘れがちな掟をつかさどる
愛 それは原動力 すべてのものを突き動かす
自然は生存の果実を愛する
すべての生き物もその果実を愛し 自然に従って生きる

これが完璧な調和」

こんなネイチャー系ポエムが、地球から昇る太陽、さかまく波、木漏れ日、
茫漠たる雪山、のびゆく白樺、火山から噴火する溶岩など、
ナショナルジオグラフィックの写真のような大自然をバックに女性の声で語られるのです。

ポエムは後半になって、その「愛」が時代の流れとともに変わり、

「人々は大切なものを見失い始めた」

「人間に対する愛、家族に対する愛、祖国に対する愛」

つまり、クラウゼヴィッツ式にいえば、

「戦争はこれらの愛の現れである・・・”by other means."(形を変えた)

といったところでしょうか。
もちろん、この愛が「大切なものを見失った結果」であるという大前提で。

もうこの時点で、タイトルの「アイアンクロス」に疑問を持ち始めるわけですね。
そこで、原題をあらためて見てみましょう。

My Honor Was Loyalty「我が誇りは忠誠心」

そしてメインとなるタイトルが、

LEIBSTANDORTE

フラクトゥール(亀甲)文字で書かれたタイトル文字を読んだのですが、
aとo、さらにbとdがまったく同じ形なので解読に苦労しました。
これを、

「ライプシュタンダルテ」

と発音します。
ちなみに亀の甲文字はドイツ人にとっても読むのが大変だったので、
これを廃止したことはアウトバーンと並ぶヒトラーの功績といわれているそうです。

そして、このライプシュタンダルテという名詞は、一語で

第1SS装甲師団 ライプシュタンダルテ・SSアドルフ・ヒトラー
1. SS-Panzer-Division"Leibstandarte SS Adolf Hitler"

という師団名を意味します。

「虚を突かれた」「タイトル詐欺とはいえない」といった意味がお分かりいただけたでしょうか。
少なくとも後半の「ヒトラー親衛隊《SS》装甲師団」は「間違ってはいない」のです。

ただし、「アイアンクロス」てめーはだめだ。

前回取り上げた「戦争のはらわた」の原題は「The Cross of Iron」=アイアンクロスですが、
このときの映画配給会社が何を思ったかこのとっぴなタイトルをつけたため、
「アイアンクロス」はその後の邦題タイトルで使用されたことはなく、いわば

「取ったもん勝ち」

状態だったのです。

そこでこのナチス親衛隊の映画と「アイアンクロス」を短絡的に結び付けた配給会社が
安直に目を引くタイトルとして拝借しちまったということなんだろうと思います。

しかし、「戦争のはらわた」がミスリードであったと同様、こちらも間違っています。
映画を観た方は、この「アイアンクロス」には首を傾げられたのではないでしょうか。

 

そもそも「鉄十字」というものは、「戦争のはらわた」でもお分かりになったかと思いますが、
ドイツ軍の紋章であると同時に、普通は勲章を指すわけですよね。

鉄十字章の歴史を遡れば、ナポレオン解放戦争の頃のプロイセンから始まったもので、
・・・そしてここのところを是非心に留めていただきたいのですが、

鉄十字は現代のドイツ連邦共和国でも正式な勲章として使用されている

のです。

つまり鉄十字はヒトラー時代の専売特許ではないし、ちょうど我が海上自衛隊、
および陸上自衛隊の旭日旗が、現行で世界に認められている軍旗であるのと同様、
(禁止されたハーケンクロイツとは全く違い)ナチスを表すものでもなんでもないのです。

「戦争のはらわた」はアイアンクロス、鉄十字章が欲しくて狂っていく将校と、
そこになんの価値も見出していない下士官の葛藤がテーマに描かれていたので、
これをタイトルにすることは至極当然のことなのですが、
この映画には、鉄十字をもらうのもらわないのという話は一切ありませんし、
そもそも勲章をもらうような英雄的な活躍が描かれているわけでもありません。

その意味ではパッケージの煽りである、

「最強の部隊の最後の戦い」

というのは、ずいぶん内容からかけ離れていると言い切ることができます。

1. SS-Panzer-Division Leibstandarte-SS Adolf Hitler.svg

ちなみにライプシュタンダルテの徽章はこのような鍵のマークです。
創立者のヨーゼフ・ディートリッヒの名前、ディートリッヒには「鍵」の意味があるからです。

おそらくこの映画の邦題を考えた人は、ナチスやドイツ軍について詳しくないのでしょう。

わたしなら素直にこうするけどな。

「ライプシュタンダルテ〜忠誠こそ我が名誉」

あるいは(どうしてもヒトラーということばが必要なら)

「ヒトラー護衛親衛隊連隊」

そして、じっくりタイトルを吟味してみると、もう一つのことに気がつきます。
サブタイトルの

My Honor Was Loyalty

は、英語圏ではこれがメインタイトルになっているのですが、これは
ライプシュタンダルテを含む親衛隊(SS)の標語(モットー)、

Meine Ehre heißt Treue「忠誠こそ我が名誉」

を、過去形にしたものなのです。

「忠誠こそ我が名誉・・・だった」

というところでしょうか。

さて、タイトルに続いて、戦地に赴く兵士が恋人と別れを惜しむシーンが現れます。
胸に止まったテントウムシのアップ、木陰に隠れんぼしたり、おいかけっこする二人。
いうならばこれも、戦争映画にありがちなテンプレシーンです。

そして彼女は髪を結んでいた青いリボンを彼に手渡すのでした。

観ている人はこの「一人の兵士」が主人公だろうと信じて疑わないでしょう。
ところがそうではないのです。
わたしがこの映画を、ただの戦争映画ではないと思う所以です。

ネタバレ御免で書いてしまうと、この男性は主人公の兵士が戦場で一瞬すれ違い、
わずかの間心を通わせ、その後偶然、彼とその恋人の運命を知らされることになる人物です。

主人公も、この冒頭の兵士も、戦場で華々しく活躍する英雄ではありません。
上官の命令に従い、目を背けるような戦場の酸鼻に慄然とし、死を恐れ、
戦友の死に打ちのめされ、そして敵に復讐心を抱く・・・。

この映画が表現しようとしたものは多層に流れる幾多もの小さな真実です。

主人公たちの体験として描かれていることに、一つとして創作されたものはなく、
全てがあの戦争に参加した兵士たちの体験したことであり、見たものだと監督は言います。


以前、ドイツ制作の映画にナチスを描いたものがないという衝撃的な事実を知り、
それはドイツ人が戦後に置かれた国民総贖罪意識のためだろうか、と書いたことがあります。

そしてこの映画も、吹き替えたドイツ語をメインで使用しているにもかかわらず、
配給会社はUK、監督のアレッサンドロ・ペペも俳優の殆どもイタリア人と言う具合です。

最初に書いておくと、ぺぺ監督は彼らを狂った(と後世のいうところの)
ナチス ドイツ
教義に突き動かされた狂信者ではなく、
むしろ慈愛に満ちた筆致で表現しています。

それは、戦いの彼我にいる双方の戦士たちの個人の内面に分け入り、
ことに、
敗者となったため、戦後一切の擁護や弁明を許されない
ナチスドイツの兵士たちを、
それを放棄させられた(或いは自ら放棄した)
ドイツ国民に代わって語ろうとしているように見えます。

主人公はルードヴィッヒ・ヘルケル

ライプシュタンダルテと改称された第1SS装甲師団は独ソ戦に投入され、
ハリコフで4,500名もの損耗を被ったのち、クルスクに転進しましたが、
1943年になると目にみえて戦況は悪化してきました。

彼は昨日伍長に昇進したばかりですが、森の中で敵と遭遇すると
部下を残して身を隠してしまい、そんな自分を情けなく思います。

たったひとり生き残った彼の部下の名前はシュタイナー。
偶然かか意図的かはわかりませんが、「戦争のはらわた」の主人公の名前です。

行軍しながら兵士が歌う、「ヴェスターヴァルドの歌」

German Imperial song "Oh, du schöner Westerwald"

は「クロス・オブ・アイアン(戦争のはらわた)」にも登場しましたし、
「Uボート」でも劇中で歌われていました。

装甲師団の映画ですから、もちろん戦車も登場します。

メッサーシュミットだと思う

戦車と共に進む彼らの頭上を旋回する味方の飛行機を見て、

「息子はパイロットにしよう」

とつぶやく兵士。

どんなに危険でわずかの間しか生きられずとも、
地面を進んでいる身には飛行士は羨望の的だったのです。

ここでソ連軍との戦闘が始まるのですが、早速わたしは違和感を感じました。
今までの常識から言うと、画面とBGMが全く「別物」なのです。

哀愁を帯びた、センチメンタルなピアノの調べ。
メジャーの心安らぐような美しい音楽が銃声に重なります。

そして、妻に宛てて書いた手紙をヘルケル自身が朗読するかたちで
淡々と「戦況の説明」が行われます。

「最後まで勝つと信じている」「戦友の敵討ちがしたい」

そんな、「良き兵士」であるヘルケルの偽らざる気持ちとともに。

ここには全ての士官を憎む下士官も、傲慢な貴族の士官も存在しません。
フランスの前線からわざわざ危険な独ソ戦線に志願してきたコルベ少尉を、
ヘルケルはその能力と統率力を含めて敬愛しています。

「少尉の指揮を信じています」「ありがとう」

シュタイナーは、負傷した友人を刺されて失ってから、
敵に一切の情けをかけないと決めた男です。

1943年の8月、師団は北イタリアに向かいました。
同盟国ですが、ここではパルチザンの激しい抵抗を受けます。

そして降伏後のイタリア軍の武装解除を手掛けますが、抵抗に遭い、
イタリア軍との交戦の結果制圧するということになりました。

余談ですが、このとき師団はイタリア軍から大量の軍服と、
ドイツがイタリア海軍に供与したUボート乗員用の革のジャケットを押収しています。

ちなみに、正式に師団が、

第1SS装甲師団ライプシュタンダルテ SS アドルフ・ヒトラー
(1. SS-Panzer-Division „Leibstandarte SS Adolf Hitler“)

と改称したのはイタリア戦線の期間のことでした。

 

続く。

 

 


映画 「シュタイナー・ 鉄十字章」(戦争のはらわた)〜ドイツ万歳

2021-05-09 | 映画

「戦争のはらわた」

一度聞くなり見るなりしたら、決して忘れない、インパクトのあるタイトルです。
製作者の意向を全く無視した言葉選びのあざとさといい、

「戦争は最高のバイオレンスだ」

というキャッチコピーといい、このときの配給会社(富士映画)宣伝部スタッフに
一体何があってのこの結果だろうと首を傾げざるをえません。

元々このイギリス=西ドイツ2カ国による共同制作による作品、原題は、

「Steiner - Das Eiserne Kreuz」

シュタイナーは主人公の名前で、そのあとに「鉄十字章」をつなげたものです。
イギリス始め英語圏では「The Cross of Iron」であり、通常であれば日本ではせいぜい

「鉄十字」

か、往々にして

「血の鉄十字」「悪夢の鉄十字」「偽りの鉄十字」「鉄十字はつらいよ」

なんて感じになるのですが、いきなり「はらわた」ですよ「はらわた」。

わたしに言わせると、この国内向けタイトルはいつもと「逆方向」に暴走した結果であり、
「邦題迷走選手権」があれば必ず3位以内に入賞すると信じて疑いません。

そもそも映画を観た人なら、これを「はらわた」で括ることには
誰しも異論とか懸念とか疑問とかを挟まずにはいられないのではないでしょうか。

さすがのサム・ペキンパー監督も、日本で(のみ)こんなスプラッタ風味の
悪趣味なタイトルになっているとは想像もしていなかったことと思われます。

昔の映画ですので、最初の数分間は律儀にオープニングタイトルが流れるのですが、
これがまた一風変わっております。

モノクロの第三帝国の写真をバックに、

Hänschen klein(小さなハンスちゃん)

という子供の合唱。
この曲、日本人なら誰でも知ってる

「ちょうちょ ちょうちょ なのはに とまれ」

というあれなのです。
最後のフレーズが違いますが、これは日本が唱歌として歌詞をつける際、
原曲では言葉がうまくあてはまらないため、アレンジしてあることがわかりました。

子供とヒトラー、そしてヒトラーユーゲントの山登り。

歌詞は、ハンスが一人で旅立って帰ってくるまでの話ですが、
よくよく聞くと、ハンスちゃん、戦争に行ったっぽいんですよね。

ひとフレーズごとに軍楽調のマーチが混入してきますが、それと同様、
死体や捕虜の顔など、
さりげなく本作の内容を示唆する悲惨な写真が挟まれます。

さて、というわけでとっとと本編に入りましょう。

舞台は1943年後半、第二次世界大戦の東部戦線。

クリミア半島近くでソビエト軍と対峙している小隊の隊長、
我らが主人公、ロルフ・シュタイナー伍長はできる男。

彼が率いる小隊がロシア軍の前線基地をまさに襲撃しております。

この最初の戦闘シーンで、戦争映画史上初といわれる

「超スローモーションの銃撃描写」

が現れます。



ペキンパー監督は、これ以前に「ワイルドパンチ」でこの手法を試みていますが、
本格的な戦争映画にこの効果を導入して世間をあっと言わせました。
今ではそう珍しい表現ではなくなりましたが、当時は画期的だったんですね。

ちなみにこのとき、襲撃を成功させたシュタイナー伍長が部下をねぎらう言葉は、

「Good kill」(字幕では”よくやった”)

戦闘後、部下の指し示すソ連兵の遺体を見てシュタイナーが

「・・子供じゃないか」

と言った途端・・・、

別の部下が同じような子供を連れてきました。

「ロシアのヒナ鳥だ」

皆が息を飲んで見ていると、彼はポケットからハーモニカを出して、拙い調子で

「ステンカ・ラージン」

のフレーズを吹き出しました。
これがソ連国歌か「インターナショナル」だったら、命はなかったかもしれません。

少年は捕虜として隊に連れ帰られることになりました。

さて、西部戦線のフランスからシュトランスキー大尉が着任してきました。

当時のナチス将校にありがちな裕福な貴族出身の、尊大で傲慢な人物で
実力はないが出世欲だけは人一倍強いというタイプです。

彼を迎えたブラント大佐キーゼル大尉に(字幕では副官となっていますが多分間違い)
シュトランスキー、こんなところに来たかったわけではないが、全て

「鉄十字賞をもらうためですよ」

と言い放ち、二人ともギラギラしたシュトランスキー大尉の名誉欲に鼻白みます。
なんとこのおっさん、自分さえくればロシアを打倒できるとでも思っている模様。

そこに襲撃からシュタイナー伍長が帰ってきました。

「神がかってる」
「第一級の戦士」
「危険なほど頼りになる男」

ブラント大佐とキーゼル大尉からこの男の評価を散々聞かされ、
面白くないシュトランスキー、この時点ですでに敵意満々です。

敬礼を下すが早いか「ロシアンひな鳥」を見咎め、殺せという大尉に、
シュタイナーは表情も変えず、

「ご自分でどうぞ」

と言い放ちますが、流石に子供を撃つほど非情でもない大尉が戸惑っていると、
機転を聞かせたシュヌルバルト伍長が、わたしがやっときますんでー、と、
適当にお茶を濁してその場を収めました。

ところでこのとき、シュタイナー伍長を演じるジェームズ・コバーンは48歳でした。
いくらなんでもこの歳で伍長役はないだろう、という評価は当時からあったようです。

この映画は、ウィリー・ハインリッチの小説「The Willing Flesh」
(ドイツ語:Das Geduldige Fleisch、1955年)をベースにしているのですが、
シュタイナーのモデルであるヨハン・シュヴェルトフェーガーという主人公は、
1943年の夏時点で28歳という設定でした。
 

ひな鳥くんはシュタイナーが無造作に落とした拳銃を手にして
不思議そうに眺めたりしております。

そんな彼をシュタイナーはただ眺めるのみ。

BGMの悲しげなロシア風旋律にシュタイナーの内心が垣間見えます。

ここで、戦線を描いた映画のお約束、新兵くんが着任してきました。
シュタイナーへの返事にうっかり「イエス、サー」と答えてしまい、たちまち

「俺をサーと呼ぶな!」

と釘を刺されてしまいました。

アメリカ海軍もそうですが、下士官は皆「サー」と呼ばれるのを嫌います。

さてこちら、着任早々シュタイナーを呼びつけ、曹長への昇進を言い渡すシュトランスキー。
こうすれば生意気な彼も畏れいるだろうとでも思ったのでしょう。

しかし、シュタイナー、微塵も喜びません。

昇進を喜ばない軍人などこの世にいるはずがないと信じているシュトランスキー、
この彼の態度が大いに不満です。

そこで報告の言葉尻を捉え、この不遜な伍長に無理な説教を試みますが、
相変わらず人ごとのような暖簾に腕押し的反応に戸惑うばかり。


さて、というところで戦争映画ではもうおなじみ、
「ドイツ兵が皆で歌うシリーズ」!

Hoch Soll Er Leben!

本日のお題は「誕生日」。

「ホッホ・ゾレア・レーベン、ホッホ・ゾレア・レーベン」

という歌詞、つい一緒に歌ってみたくなりますね(嘘)

タイトルの意味は「彼は立派に(よく)生きるだろう」が直訳で、
字幕では

「長生きするぞ 長生きするぞ 今の3倍長生きするぞ」

となっています。(どこかの教団を思い出したのはわたしだけ?)

このマイヤー少尉の誕生日を下士官兵含む皆でお祝いしているわけですが、
戦場で「長生きするぞ」ってあなた・・・。
第一これ、フラグってやつじゃないのかしら。

ちなみに戦争映画で新兵、故郷に恋人、犬飼ってる、そして誕生日、
ときたらもうダメと思った方がいいでしょう。

彼は近いうちに戦死する運命です。

いつの間にかドイツ軍の上着を着たロシアン子供がケーキを運んできました。
クリームもなく実に不味そうですが、とりあえずローソクだけは巨大なのが立ってます。

そんな中、苛立ちをあらわにしてしらけさせてしまう者も現れますが、
シュタイナーは彼を慰め、皆をとりなして場を和ませるのでした。
下からの人望も厚いという設定だね。

ところで何かといらんことばっかり思いつくシュトランスキー。

今度は副官のトリービヒ少尉と伝令のケプラーを前に、ネチネチと
軍隊における男同士の恋愛
について語り出しました。

ちなみにトリービヒは「Leutenant」となっていますが、
ナチス ドイツの階級では少尉の意味です。

ちょっとしたシーンから、この二人が「できてる」と確信を持ったのでした。
こんなことだけにはよく気がつくおっさんです。

二人はフランス戦線から志願して一緒にここにやってきたという関係でした。

ちなみに字幕も解説もトリービヒが中尉だとしていますが、
大尉の副官が中尉であろうはずもなく、これは絶対に間違いです。

当たり障りなく質問に答えていたトリービヒですが、
シュトランスキーの誘導尋問に引っかかってしまいました。

問題は、ドイツ軍では同性愛が禁じられていたということです。
ニヤニヤしていたのが急に目が座って怖いよこのおっさん。

「ラウダー!」「ラウダー!」(大きな声で)

を何度も畳み掛けて圧力をかけ、今度はケプラーにも認めさせ、
二人から言質を取るやいなや、見つかったら二人とも処刑になるぞ、と脅すのでした。

 

本作は、あのオーソン・ウェルズに高く評価されています。
彼は、この作品が「西部戦線異常なし」以来自分が観た中で最高の戦争映画だと述べました。

理由は様々ありましょうが、少なくとも日本の配給会社が「はらわた」と名付けたところの
戦闘シーンの計算されたバイオレンス描写を言っているのではなさそうです。

誕生会の次の日、ロシア軍の攻撃に備え早朝から待機しながら、
シュタイナー曹長がシュヌルバルト伍長とこんな会話をします。

「俺たち、ここで何をしているんだろう」

「ドイツ文化を伝播しているのさ・・この絶望的な世界に」

「誰かが言っただろ?"War is an expression of civilisation by any other means."
『戦争は違う手段による文化的表現だ』と」

「そうだ、あのアホは・・・フリードリッヒ・フォン・ベルンハルディ」

「クラウゼヴィッツは・・」

「クラウゼヴィッツか。あいつはこう言った。
"War is continuation of state policy. "『戦争は国策の延長である』」

「"...by other means."(形を変えた)」

「そうだ。形を変えた」

フォン・ベルンハルディはプロイセンの軍人で軍事学者でもあります。
第一次世界大戦には現役で参戦し、戦死しました。

シュタイナーと伍長、両人の教養と知識の高さを表すとともに、
戦争の本質を観る者に問いかけようと試みる制作の意図が窺えます。


ロシア軍が攻撃をかけてくるという情報により待機している守備線で、
シュタイナーはソ連軍の子供捕虜を逃してやります。
この子供役はどこで調達してきたのか、本物のロシアンキッズです。

そのとき、それまで一言も喋ったことがなかった子供が、
 
「シュタイナー」
 
と彼の名を呼び、ハーモニカを投げて寄越しました。



しかしその直後、やってきたソ連軍の斥候兵に撃たれてしまいます。
フラグには「ハーモニカ」も付け加えることにしましょう。


茫然と死んだ子供の顔を見つめたのも一瞬でした。
ソ連軍が威力偵察をかけてきたのです。

 
イツ側の塹壕にまで迫ってくる勢い。


ブラント大佐は激しい攻撃に狼狽するシュトランスキーに電話で指示を出します。
ていうか、この人戦場で何をオタオタしているの。
大口叩いてた割には怖がりさんなのね。
 

そして激しい戦闘でフラグの立っていたマイヤー中尉も戦死。
果敢に部下を指揮していましたが、塹壕に侵入した敵の銃剣に刺されるという壮絶な最後です。



その後の戦闘で意識を失ったシュタイナーが幻覚から目覚めると、

 
美しい看護師、マルガが彼を覗き込んでいました。


仲間を何人も失ったあの戦闘で、シュタイナーは脳震盪だけですんだのです。
しかし、名誉の負傷ということで帰国を許されることになったのでした。
 

負傷兵を収容する病院では、高官の視察のためにパーティが催されました。
負傷兵バンドが演奏するのは、
 
So ziehen wir unter fremder Fahne(もろい者どもが慄いてるぞ)

 
全員直立不動で合唱しているこの歌は、ナチスの進軍歌です。
よーつべで探したのですが、ブラックメタルバージョンしかありませんでした(謎)


昏睡から覚めたばかりのシュタイナーは幻覚が消えず、
部下と他人を見間違えます。


しかし当時にしてこの特殊メイク、すごいね。

 
そこに高官がやってきて負傷兵の「閲兵」を始めました。

 
こんな人に握手を求めてみたり。
 
ちなみにこの兵隊さんはしつこく左手に握手を求められると、
やはり手首から先のない左手を見せ、次にほらこれとでも握手しろよ、
といわんばかりに無表情で足を持ち上げてみせます。
 

高官は次に握手をガン無視するシュタイナーに一瞬むっとしますが、
その胸に並んだ
戦功の証である各種バッジに気がつくとたじろぎます。

ちなみにこの高官、宴席の料理から肉と酒だけ自室にちゃかり運ばせて、負傷兵たちには
 
「野菜を食べろ。体にいいぞ」
 

シュタイナーは美人の看護師とすっかり意気投合。
ダンスの時に流れているのは、ヨハンシュトラウスの「ウィーン気質(かたぎ)」です。
 
 
しかし、一夜が明けてみると、彼は結局隊に戻ることを選択するのでした。
さっさと荷物をまとめ、寝室を出ていこうとすると、彼女は

 
「戦争が好きなのね」
 
そしてひとことも返事をしない男に向かってこう最後に呟くのでした。
 
「ドイツ万歳 ”Long live Germany."」
 

続く。



映画「大東亜戦争と国際裁判」〜判決と処刑

2021-01-23 | 映画

映画「東京裁判」以前に、これほど極東国際軍事裁判の内容について
史実に沿って作られた映画はなかったのではないかとわたしは思います。

記録に残された裁判における出来事と照らしても、かなりの点
忠実であろうとしている様子が窺い知れるのです。

しかし、ときおり実際にはなかったことが挿入されています。
例えば、東條英機がキーナン検事から

「(開戦を決定したことについて)間違ったことをしたと感じていないのか」

と聞かれ、

「あなたにアメリカ人として愛国心があると同様、私も日本人として
愛国の精神に基づいて行ったのである」

というシーンがありますが、東條は法廷ではこう言っていません。
実際の法廷での発言は、簡単に

「間違ったことはしていない。正しいことを実行したと思います」

というものでしたが、それに対し、キーナンが

「それではもし無罪放免になったら再び繰り返すつもりか」

と尋ねたので、ブルーエット弁護人が途端に異議を叫び、

裁判長が質問を退けたため、
東條はそれに対する返答をしないまま終わっています。

映画の東條の台詞は、このあと彼が夫人と面会したとき、夫人の勝子が

「あなたがキーナンの質問を肯定なさりはしないかと気が気ではございませんでした」

と言ったのに対し、実際に答えたという言葉から取られています。

「返答したとしても大したことはなかったろう。
あくまでも答えろというのであればこう答えるつもりであった。
全アメリカ人がアメリカを愛する如く私も日本人として
愛国の精神に基づいて行ったのである、と」

 

■ 判決

 

検事側の最終論告が始まりました。
4月29日、天皇の誕生を祝う「天長節」に始まった裁判は、
2月21日の「紀元節」に『閉幕のコーラス』に擬えられる最終論告を行う、
というのは、あるいはキーナン検事の「演出」だったかもしれません。

これも要約してみると、

「日本の戦争が自衛のためだったという主張は暴慢無礼の他ない」

「にもかかわらず日本は平和を求めたというのは厚かましい」

「真珠湾攻撃は詐欺、欺瞞、不誠実を象徴する」

「被告は誰一人として人類の品位というものを尊重していない」

ゆえに、被告たちは

人類の知る最悪刑に値する

というのがキーナン検事の論告でした。

このあと記者団に質問されると、彼は

「イエス、死刑だ。遠慮なくロープを使えという意味だ」

と答えました。
この最終論告にははっきりいって罵言に満ちた剥き出しの悪意に満ち、
被告の一人鈴木貞一企画院総裁のいうところの

「復讐心の満足と勝者の驕慢心以外のなにものでもない」

という品位のなさが横溢していました。
もっとも、キーナンの論告はまだ「まし」な方で、ソ連検事のそれは
その勢いで行くと全員死刑しかないのでは、というほど峻烈なものでした。

廣田弘毅外相夫人静子が法廷の傍聴からの帰り、
娘に向かって

「どんなことがあっても廣田の娘として強く生き抜くんですよ」

と思い詰めたように語っているシーンですが、実際には
静子夫人は裁判開廷前の1946年5月18日にすでに自宅で服毒自殺をしています。

夫人は夫が収監されて最初の面会の後、裁判の見通しを聞かされたのか

「パパを楽にしてあげる方法がある」

と家族に言っていたということです。
裁判の傍聴には二人の娘だけがきていました。

そし11月12日、判決言い渡しの日がやってきました。

判決は一人ずつ入廷して行われます。
法廷内は眩しい映画用のライトと多数の電球に照らされていました。

「被告荒木貞夫、被告を終身刑に処する」

土肥原賢治大将=絞首刑(デス・バイ・ハンギング)

広田弘毅元首相=絞首刑

実際の廣田がそうであったように、目を瞑って話を聞いています。
判決の後、廣田は傍聴席の娘たちを見遣りました。

そして実際は彼女らに微笑んだのですが、映画ではそうしていません。

廣田元首相の極刑はだれも予想していませんでした。
極刑の通訳をやりたくないので、

「助かる廣田さんをやりたいから」

とわざわざ東條と代わった二世通訳の林秀一は「あまりのことに
蒼白の顔を引きつらせながら機械的に通訳」したほどです。

板垣征四郎大将=絞首刑

「不動の姿勢で聞き、回れ右をして去る。礼はしない」(東京裁判)

木村兵太郎大将=絞首刑

「姿勢を正して聞いていた」

武藤章中将=絞首刑

「やはりそうか、という感じでうなずき、微笑して軽く黙礼した」

松井石根大将=絞首刑

「二、三度軽くうなずいた」

東條英機大将=絞首刑

「両手を背に組み、ゆったりと現れた。
わかった、わかっとる、といいたげにうなずいた」

東條は判決前日、運動場を歩きながら

「この青空を見るのは、これが見納めかなあ」

と「屈託なげに明るい声で」いい、その声に振り返った
大島駐独大使に微笑しています。

面会に来た夫人には、「七つの喜び」として

1、裁判が順調にうまくいって皇室にご迷惑をかけずに済んだ

2、東條邸が財閥に金をもらって建てられたと報道されたが誤解が解けた

3、長兄、次兄が早死にしたが自分は64歳まで長生きできた

4、これまで健康で過ごしてきた

5、巣鴨に入ってから宗教を真剣に味得した

6、日本で処刑されるので日本の土になれる

7、敵であるアメリカ人の手で処刑されること、戦死者の列に加わること

が嬉しい、と語りました。

東京裁判の判決はニュールンベルグ裁判より軽いものであろう、
と予想されていましたが、全員が有罪となり、死刑七人、終身刑十六人、
有期刑二人とニュールンベルグ以上でした。

厳しく被告たちを糾弾したキーナンですが、個人的には

「なんという馬鹿げた判決か。
重光は平和主義者だ。無罪が当然だ。
廣田が死刑などとは全く考えられない。
松井の罪は部下の罪だから終身刑がふさわしい。
廣田の罪はどんなに重くても終身刑までだ」

とその晩「ヤケ酒」を煽りながら語ったそうです。

逆に巣鴨に拘置されていた未起訴組の間では、絶対に死刑だろう、
といわれていたのが海軍の嶋田繁太郎大将でしたが、
大将は死刑を免れました。

判決に対しては5名の判事が意見書を提出しています。

フィリピンのハラニーヨ判事だけはもっと厳格に処罰するべき、
という意見でしたが、インドのパル判事は全員無罪、
オランダのローリング判事は独自の量刑を述べていました。

ローリング判事の意見は

「嶋田、岡敬純中将、佐藤賢了中将も死刑にすべきだが、
畑俊六、廣田、木戸幸一、重光、東郷茂徳は無罪」

というもので、また政府の政策を実行した軍人は無罪、
という考えでした。

フランスのベルナール判事は

「起訴不起訴の権利は検事側に一方的に握られ、
裁判所には基礎を構成に指導する立場も機会も与えられず、
被告は”不当な責任”を追求された」

「天皇が一切の訴追を逃れたのは”不公平である”」

「判事国は主導権を多数派が握り、少数派国の意見は軽んじられた」

という意見書を出しました。

ちなみにフランス判事オネトは法廷でフランス語の使用を禁じられ、
これに怒り狂ったことがあり、フランス人の誇りにかけて、裁判長に対して
真っ向から噛みついたところ、「愛国者は誰であれ評価する」
というキーナン検事がこれに対し拍手をしたというエピソードがあります。


そして、ウェッブ裁判長自身も個人意見書を出していました。

「裁判所には共同謀議を犯罪にする権限はない」

「日本の被告にナチスドイツ被告より重罰を科すべきではない。
どの被告も死刑を宣告されるべきではない」

「ただし、刑は見せしめのために行うものであるから、
絞首台の上や銃殺隊の前で素早く命を経つよりも、
日本国内または国外に流刑にしたほうがよい」

「天皇は進言によって行動したとしても責任を逃れられないが、
本官は天皇を訴追すべきだったと示唆するものではない」

「つまり被告は全て共犯であり、天皇が免責されるなら被告も減刑されるべきだ」

そしてパル判事の意見書は日本文訳1219ページに及びました。
その主張は東京裁判の違法性と起訴の非合理の強調に貫かれていました。

そして、日本が戦争に踏み切ったのは自ままな侵略のためではなく、むしろ
「独断的な現状の維持」制作を取る西洋諸国によって挑発されたためである、
と弁護側の論調をほぼ全面的にしたものとなりました。

「ハルノートのようなものを受け取ったらどんな小国でも立ち上がって戦うだろう」

「原爆の投下の決定はナチス指導者の指令に近似した唯一のもの」

つまり、裁く者の手も汚れている、というのがパル判事の意見であり、
その結果が被告全員の無罪主張でした。

■ 処刑

映画では、映画的手法として、まず清瀬弁護人が執務室の窓辺にたたずみ、

「わたしは戦争を憎む」

と物思いにふけり、街角で廣田弘毅の助命嘆願署名を集める
廣田の家族と関係者、続いて東條と最後の面会をする家族の姿が語られます。

映画ですのでどうしてもドラマとして盛り上げるため(それでなくとも
裁判シーンが多く盛り上げる部分が少ないので)、娘たちが号泣したりしますが、
実際は夫人に皆に伝えて欲しいこと(皇室に迷惑をかけずに済んだことを感謝していること、
大和民族の血を信じているから前途に明るい見通しをもって死んでいくということ)
を筆記させたのち、微笑してあっさり立ち上がるなど、飄々とした風だったといいます。

そして映画と実際の大きく違うのがこの点です。
先ほども書いたように廣田元首相の妻は裁判前に自決していたのですが、
映画では判決を聞いてから命を絶ったということになっています。

そして廣田は最後まで妻の死を知らずに処刑された、ということになっています。
もちろんこれは演出です。(どうしてこの部分を変えたのか理解に苦しみますが)
廣田は妻の訃報を聞いた時も
「二度三度とうなずき、ひとことものべなかった」(東京裁判)

そして最後に家族が面会に行った時も映画のような愁嘆場はなく、ただ
となりの板垣大将と家族をチラッと見て

「まァこんなことになったのもこの軍人のバカどものおかげだなあ」

と冗談を言っていたそうですが、それでは映画として
観ているものが混乱すると考えたのかもしれません。

廣田元首相本人によると、その板垣大将のことを

「私のところにきて、あなたのような人を引っ張り込んで
誠にすまん、と頭を下げていたよ」

と話していたこともあるそうです。
その板垣大将と家族の対面も笑い声が絶えないといったものでした。

七名の死刑が行われたのは12月23日の早朝でした。
処刑の立ち会いを命じられたアメリカ対日理事会米国代表の
シーボルトは、この日が皇太子の誕生日であることに気がつきましたが、
マッカーサー元帥はこのことについて何も言いませんでした。

前日の午後11時40分、特別に用意された仏間に、
土肥原大将、松井大将、東條大将、武藤中将が入ってきました。

各自手錠をしたまま墨で署名させられていますが、
これは実際と違うような気がします。

処刑の通告を受けた時、東條大将は最後の望みを聞かれ
ニヤリと笑って

「日本人だから日本食を食べさせてもらいたい。
ついでにいっぱいやりたい。つまらぬことだが・・」

と答え、アメリカ人の所長は、

「オールライト、サー」

と答え、「最後の一杯」として紙コップに注がれた葡萄酒が
仏間で手錠をした四人(処刑を二回に分けた)に出されました。

望んだ日本酒ではなかったものの、望みが叶えられたことに
東條大将は満足そうだったと伝えられます。

11時56分、最後に松井大将が音頭をとって万歳三唱が唱えられました。

「大日本帝国万歳、天皇陛下万歳、万歳、万歳」

そして、映画ではケンワージー憲兵大佐と見られる人物に挨拶をし、
手を握って見送られています。

迷人‎⍟Q太郎‎ on Twitter:

オープレー・ケンワージー憲兵中佐
東條大将の頭を叩いたあと、大川周明を押さえている人です。

花山勝教誨師は四名の前を念仏を唱えながら進みました。

そして刑場の入り口で「ごきげんよろしく」と握手をして別れました。
このとき、東條、松井大将は手にかけていた数珠を外し、
家族への形見として花山教誨師に託しました。

午後11時59分、四名は処刑場に入り、午前零時、
執行官が彼らの黒いフードを被せ、処刑準備完了を報告しました。

映画では東條大将はフードを外し、これから登る十三階段を凝視しています。
そしてたった一人で階段を登って行きますが、これはもちろん演出です。

12月23日午前零時1分30秒、「プロシード」という号令とともに
執行係の軍曹がレバーを引くと、轟音とともに落とし板が撥ね、
絞首刑の執行が完了しました。

「身はたとえ 千々に裂くとも及ばじな 栄ゆる御世をおとせし我は」

映画では前日に遺したとされる遺詠のうち一句が紹介されています。
残りの三句は、

「我ゆくもまたこの土にかへり来ん 國に酬(むく)ゆることの足らねば」

「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根の花薫るとき」

「明日よりはだれにはばかるところなく 弥陀のみもとでのびのびと寝む」

映画のエンディングのナレーションは次の通り。

暗いページが閉ざされ、新しい時代の若い日本が平和国家として誕生した。
もう戦いの爪痕はどこにも見られない。

しかし、わたくしたちはわずか十数年前、戦争という現実の中に経験した
数々の悲しみ、憤りを永久に忘れることはできないだろう。

この真新しいページに二度と再び戦争という文字を書き込んではならない。

めでたしめでたし、と言いたいところですが、これは改訂後のバージョンで、
最初は

「アジアの諸民族も共存共栄の夢が実を結び、次々と独立した」

「亜細亜は一つ・・・アジア民族は永遠に限りなき前進を続けるであろう」

というものであったといいます。

これが失くなったのは、誰の、誰に対する配慮だったのかということを考えると
完成後のこの良くも悪くも戦後日本の論調を象徴するような文言には
いろんな製作者の苦渋と妥協の結果が透けて見えるような気がします。

完成した映画は昭和34年の正月映画として封切られ興行的にも成功を収めました。

 

ちなみに小森監督は、後年本作について書いた文章の中で、完成映画について
アメリカ大使館から

『特に反米的には描かれていない』

といわれた、と記しています。

 

終わり

 


映画「大東亜戦争と国際裁判」〜罪状認否から”天皇不起訴”の決定

2021-01-21 | 映画

罪状認否

極東国際軍事裁判、通称東京裁判は、
罪状認否(アレインメント)が始まりました。

罪状認否は英米法では必須の形式的な手続きで、
訴追事項に対して被告が有罪か無罪かを答えるというものです。

形式ですが、ここで「ギルティ(有罪)」と答えれば、
審理は行われず刑の量定だけが審議されるというわけです。

ABC順で最初に立った荒木貞夫陸軍大将(柴田新・似てない)は、
これが形式であることを知らされていなかったのか、

「その件につきましては弁護人より申し述べます」

に始まり、とうとうと思うところを述べはじめましたが、

「イエスかノーかだけいえ」

とつれなく遮られてしまいました。

土肥原賢二(信夫英一・茶髪)陸軍大将
(静かに)「無罪を申し立てます」

廣田弘毅元首相
「端然として『無罪』と答えた」(児島;東京裁判)

廣田の令嬢は全ての裁判に傍聴を行っていたそうです。
罪状認否は板垣征四郎陸軍大将、木村兵太郎陸軍大将と続き、

松井石根陸軍大将(山口多賀志、全く似てない)
「ゆっくりと『無罪を申し立てます』」(東京裁判)

重光葵外相「アイ・プリード・ノット・ギルティ」

重光役は吉田茂役と同じく、一般公募で選ばれた素人さんです。
似ていないことはありませんが、本物の重光葵の持つ、
凄みすら感じさせるあの怜悧そうな眼差しの強さが全くないので
わたし的には低評価。

ちなみに、英語で罪状認否を行ったのはもう一人、
外相だった松岡洋右で、彼の場合

「I plead not guilty on all and every account.」

ときれ切れにこのような発言を行っています。
松岡は裁判の結審を待つことなく亡くなりました。

武藤章陸軍中将(中西博樹・かすりもしないほど似てない)
(切り捨てるように)「無罪!」

ちなみにこのときウェッブ裁判長が次々と呼び立てるので、
マイクを持つ米兵は走り回って大汗をかくことになりました。

最初から二十八人の罪状認否が済むまで9分というスピードです。

そして東條英機元首相が
(胸を張り独特の調子で)

「起訴の全部にィたいしましてェ・・・・・
私はァ無罪を主張いたします」

しかしわたし個人の意見によると、アラカンの東條は、
「カミソリ東條」といわれたあの怜悧な感じは出せていない気がします。

このとき傍聴していた軍服の男が血相を変えて立ち上がり、

「無罪とはなんだああ!それでも日本人か売国奴!」

とキレ出して、たちまちMPに摘み出されました。

もちろん実際にはなかった出来事ですが、この罪状認否が
英米法の手続きと知らず、武士道精神やらなんやらと絡めて
潔くないなどと考える日本人が案外多かった、ということを
端的に表す演出でしょう。

清瀬弁護人対キーナン検事(とウェッブ裁判長)

実際は罪状認否の前、清瀬弁護人が、裁判所の「正統性」について
異議を申し立てる波乱が起こっています。

簡単にいうと、裁判長のサー・ウェッブKBGは、この裁判の前に
ニューギニアにおける日本軍の不法行為とされるものについて調査しており、
これは被告(日本)に関する事件の告発・起訴に関係したということに当たるので
近代法に照らすと今回の裁判において裁判官になる資格はない、ということです。

これは実はアメリカ人弁護士のジョージ・ファーネス弁護士の「作戦」でした。
もしこの映画にファーネスが出演することになっていれば、この部分は
違う演出となったのではないかと大変残念に思います。

映画ではこの申し立ては省略して、清瀬弁護人が

「ポツダム宣言に定められた条件には従うが、ポツダム宣言前に考え出された
『平和に対する罪』『人道に対する罪』は日本に適用されるべきではない」

そして、満州事変やノモンハンなど決着済みのものに対してまで起訴対象にするとか、
同盟国であったタイに対する戦争犯罪などはあり得ない、と主張したのに対し、
キーナン検事(E・P・マクダモット)が激烈に反論した部分だけが描かれています。

キーナンが清瀬博士の言葉が終わらぬうちにわりこんだり、
清瀬が台にしがみついたり、キーナンを突き飛ばさんばかりにしたり、
という実際にもあった「どつき漫才」風の相克はここで表現されました。

なかでも、

「日本国民はこの28名が裁判されるよりは
『速やかな、そして完全な破壊』の方を好んでいたのか」

という言葉は(実際はイギリス判事コミンズ・カーの発言)
つまり

勝者が敗者に報復を加えるのは当然だ

と言っているのと同じと受け止められました。

そこで登場したのが(実際は翌日)我らがブレイクニー少佐です。
ブレイクニーファンのわたしは、この配役(W・ランド?)は
あまりにも似てなさすぎて愕然としてしまったのですが、(特に頭が)
映画ではこのまったく似ていないブレイクニー弁護人、

「戦争は国際法に照らしても犯罪ではない。
ましてや国家の問題でこそあれ個人に責任はない。
当法廷には個人を裁く権限はなく、戦勝国ばかりで構成された法廷では
裁判の公正は担保できず、法廷憲章に違反する」

と述べ、さらにわかりやすくキーナン検事に

「戦争指導者を罰せずに置くことは文明の全滅を意味する」

と言わせて管轄権問題を切り捨てた法廷を再現しています。

ちなみに蛇足ですが、平沼騏一郎の弁護人であったクライマン大尉も
同じく管轄権問題を述べていますが、ウェッブ裁判長は彼に

「大声でわめかないでほしい」←

と言ってから、

「法廷ではなく判事控室で喋る機会を与える」

とやはり切り捨てて終わっています。

■ 日本を糾弾する検事の冒頭陳述

キーナン検事の冒頭陳述は、ものすごく平たくいうと、

「見せしめのためにこっぴどく戦争犯罪人を処罰する。
報復によって再発を予防するために」

というものでした。
じつに日露戦争の旅順港閉塞作戦に遡ってまで(笑)
日本の「侵略」は糾弾され、おそらく法廷の被告たちは

「そんなことまで知らんがな」

と内心思ったでしょう。

そして、冒頭陳述ではあり得ないのですが、例の南京事件が
ここで陳述されたということになっています。

聖戦を標榜していた日本のアジア解放の実態だ、と非難する論調で、
これはアメリカ大使館の申し入れに忖度する形で追加された部分でもあります。

 

ここで留意していただきたいのは、これらの告発は裁判という「法廷論争」において
敗戦国である日本を糾弾するために出されてきた事実であるということです。

言わせて貰えば、南京で起こったのが虐殺だったか戦闘行為だったかを
後世が論じるのは実に「意味のない」ことでもあります。

なぜなら古今東西戦争という枠組みの中では、いかなる国においても
残虐行為が一度とも行われなかったなんてことはないのですから。

ブレイクニー弁護人のいうところの「裁くものの手も汚れている」というのは、
人類最大の一般人虐殺である原爆投下を行なった側が被害国を裁く、
というこの大いなる矛盾を端的にいいあらわしています。

そもそも戦争に勝った側が負けた方を裁く、そんな法律は存在しません。
所詮はその大矛盾の上にこの法廷は成立していたのです。

 

まあ要するに日本はどんな「お前がいうな」的なことを言われても
裁判では甘んじて受けなくてはいけない立場だったってことです。

それが戦争に負けたということだったのです。

ここでなぜか東京裁判関係ではほぼ無名な瀧川幸辰博士(川部修詩)が、
日本の侵略を卓を叩いて激しく糾弾し始めます。

瀧川といえば、「瀧川事件」という政府による思想弾圧事件
(トルストイの「復活」に見る刑法という講演が
無政府主義的ということで
文相だった鳩山一郎に罷免され、
京大法学部の教授が雪崩を打って辞任した事件)
の「被害者」ともいうべき学者だったわけですが、その恨みはらさじとばかり
ここぞと裁判の証人として日本の「ファシズム」を責め立てるのでした。

この部分も後から追加されたシーケンスです。

元陸軍兵務局長、少将田中隆吉(江藤勇)の証言シーンも追加されました。
この役者は多少スマートとはいえ「大入道」とあだ名のあった田中の雰囲気は捉えています。

田中は資料をまったく見ずに細部を語り、あれを見た、これを聞いた、などと
存在しない文書や死人の証言を引きながらスラスラと、検事側の主張通りに
告発を行い、被告たちは唖然、続いて憤然となったといわれます。

彼が証言台に立った理由は主に我が身かわいさだったといわれていますが、
逆に検事側が彼を採用した理由は、ギャングと対峙してきたキーナン検事団の

「ギャングの中に協力者を求める」

という『FBI方式』によるものでした。

ところで世知に長けた田中はオフのキーナン検事を「某所」に
お連れする係を引き受けており、検事が田中にそれを催促する合言葉は

「強くなった」(英語か日本語かは不明)

だったそうです。

次に元満洲国皇帝、溥儀出廷し、満洲国の皇位についたのは、
板垣征四郎大佐の強引な工作によるものだった、と語ります。

「東京裁判」によると実際の溥儀の証言は皆を苛立たせました。

ブレイクニー弁護人に、(映画では清瀬弁護人)

「板垣大佐と会見したときに
『故郷満洲の治安の乱れを憂い、進んで親政を行いたい』

と提案し、自分から進んで受諾する旨書簡を書いたのは本当か?」

と詰められると、そこからあとはどんな質問に対しても

「知らない」「覚えていない」

証拠としてその手紙を見せられると、悲鳴を上げて

「お願いです!これは偽造です!書いた者は処罰されるべきだ!」

と目を血走らせ、ガタガタ震え、その異様さに法廷は息を飲みました。

そのうち溥儀の挙動不審な態度は法廷をイライラさせ、
ウェッブ裁判長がそのうち言語裁定者にまでやつあたりして文句をつけだすと、
咎められたアメリカ人のムーア少佐は、

「圧迫状態にある東洋人が問題をはぐらかすのはよくあることだ」

と反抗的に言い放ち、またそれにキレた中国人検事が

「今の発言は東洋民族に対する不必要な攻撃であり、間違った理解だ」

と文句をつけだすなど場は混乱し、裁判長をうんざりさせました。
ちなみに清瀬一郎は、のちに著した「秘録・東京裁判」に、

「奇怪で不愉快な思い出」

とし、溥儀は妻を日本軍に毒殺されたとか、日本は神道を広めてそれで
宗教侵略しようとしていたとか、とにかく思いこみだけで証言していた、
もちろん証拠などは全くなかった、と苦々しい調子で書き残しています。

■ 日本側の反証

日本弁護団の反証が始まりました。
それは同時に敗北した日本の「抗弁」になるはずです。

Kiyose Ichiro.JPG

ちなみにご存じない方のために清瀬一郎の写真を貼っておきます。

このときの清瀬弁護人の何時間にもわたる「演説」を要約しておくと、

「国家の行為に対して国家の機関であったゆえに個人が責任を負うのはおかしい」

「日本はドイツのような人種的優越感ではなく、『八紘一宇』、
ユニバーサルブラザーフッドの精神の下に治者と被治者が一心になる、
ということを理想としていた」

「日本の行なった戦争はどれも原因も別なら当事者も別で、
一貫した政界征服計画によるものではない」

「盧溝橋事件の発生拡大はコミンテルンの決議にもある通り
反日・抗日運動の所産であって中国にも責任がある」

「ノモンハン事件は解決済みである、日ソ不可侵条約を破棄し、
満洲国に侵入したソビエトこそ侵略国である」

「太平洋戦争における日本の海戦は米国の経済圧迫、
米国の蒋介石政権援助による支那事変延引、いわゆる
ABCD包囲網体制から免れんとする自衛の足掻きに他ならない」

「しかも米国は日本の戦争発起を暗号解読によって予知していた」



「ルーズベルトが前もって真珠湾攻撃を知っていたのは事実であり」


「日本大使館のミスによって手交できなかったというのが本当である」


「駆逐艦ウォードが日本の小型潜水艦を撃沈したのは
日本の攻撃より前であり、日米開戦の最初の一発は日本ではない」

「平和への希求のためにこの戦争の原因を探求するとき、
それが人種的偏見によるものか、私怨の撫養と分配によるものか、
裕福なる人民、または不幸なる民族の強欲か、
これこそ人道のために究明せねばならない」

陳述中も、終わった後も、法廷は水を打ったように静まり返り、

「ひたすら、あるいは高く、あるいは低く、打ち寄せる波のように
説き進む清瀬弁護人の陳述に、息を詰めていた」(東京裁判)

また、このとき清瀬弁護人は、日本の抱いた「三希望」として

「独立主権の確保」

「人種差別の撤廃」

「外交の要義すなわち東洋平和によって世界の康寧に寄与すること」

を挙げています。

映画では意外なことに?あのブレイクニー弁護人(似てねー!)の
原爆発言もちゃんと取り上げています。

しかしさすが文明国アメリカ、なかったことはともかく、
実際に起こった発言まで
映画から削除しろとは言ってこなかったようです。

ブレイクニー少佐は、当ブログがかつてアップしたこともある

「真珠湾が殺人であれば広島も殺人である。
我々は広島に原爆を落としたものの名前を知っている」

という激烈な弁論で法廷を騒然とさせ、記録をストップさせました。

 

本作では検事側が

「いかなる武器を連合国が使おうと当裁判には関係ない」

というと、ブレイクニーは

「かかる武器はハーグ条約で禁止されているため、
日本にはリプライザル(報復)の権利が生ずる」

と発言しています。

当ブログではかつてこの発言について書いているので、
もしこの詳細に興味がおありでしたら一読をお勧めします。

東京裁判の弁護人たち〜ベン・ブルース・ブレイクニー少佐

ここにも書いたように、原爆投下後の3週間の間におきた戦争犯罪は、
原爆使用が国際法違反であり報復が正当であれば
不問になり、
何人かの戦犯にとって有利になる、というのがそ
の「戦法」でしたが、
裁判長は

「本法廷は敗者日本を裁くところで連合国を裁くところではない」

のひとことでブレイクニーの発言を切り捨てました。

 

 東條被告の個人反証

東條英機が証言台に立つ日、巣鴨の法廷は「ハリウッドなみ」に
各メディアのライトがこうこうと照らされることになりました。

一度自決を図り、今更命を惜しむつもりのない東條大将にとって、
この法廷においての使命は、日本が犯罪を犯したのではないと証明すること、
そして天皇陛下をお守りすることであった、といわれています。

キーナン検事は日米交渉案の甲乙を出してきて、
そのどちらかでもアメリカが飲んでいたら戦争は回避できたのか、
と尋ね、東條は、こちら側の条件に「最後通牒」はなく、
「ハルノート」という最後通帳を叩きつけたのはアメリカだ、と答えました。

 

また、この映画では触れられていませんが、キーナン検事は東條への尋問で
天皇に責任はないという結論を何とか引き出そうとしていました。

米政府及びマッカーサー元帥は、占領政策を成功させるために、
そして日本の赤化防止、日本国民を掌握のために、天皇を起訴せず
安康にすることを至上目的としていたのです。

東條大将が

「(天皇陛下は)私その他の進言によって渋々ご同意になった。
平和ご愛好の精神のため最後の一瞬に至るまでご希望をもっておられた。
まことにやむを得ないが朕の意思にあらずという開戦の御詔勅であった」

と答えたとき、キーナン検事は心から満足した様子であったといわれます。

かくして天皇不起訴は正式に決定されました。
マッカーサーはウェッブ裁判長とキーナン検事を総司令部に招き、
その正式な決定を告げています。

ウェッブ裁判長ははなお釈然としない表情でしたが、
「よろしいな」という元帥の言葉に内心はともかくも頷かざるを得ませんでした。

 

続く。

 


映画「大東亜戦争と国際裁判」〜終戦から東京裁判開廷まで

2021-01-19 | 映画

新東宝映画、「大東亜戦争と国際裁判」二日目です。
大東亜戦争をかいつまんで説明していくスタイルは、まるで
おさらいをしてもらっているような感があります。

高校の日本史の授業で見せたらいいのではないかとふと思いました(提案)

さて、アメリカ大使館がクレームをつけた部分は他にもあって、
それはハルノートに続き、日本大使館が最後通牒を手交するのに手間取り、
その結果攻撃が先になってしまった(攻撃より1分でも早ければよかったわけです)
というシーン。

「日本の行動を正当化する以外の何ものでもない」

という理由で削除を求めてきたそうです。

正当化も何も、大使館の事務ミスが結果的に最後通牒なしの攻撃になったのは
歴史的な事実であるというのに、削れとはいかなる言い分でしょうか。

しかし、制作側はこれを飲んだらしく、大使館がタイプに苦労するシーンは
かなり詳細に描写されていたにもかかわらず、全てバッサリカットされました。
(大使館員役の人が気の毒・・)

 

さて、前回の部分で描かれた如く、開戦以来日本は押せ押せのイケイケでした。
その頃、近衛元首相邸に吉田茂元駐英大使が訪問しています。

「今こそ平和交渉のチャンスと考えます」

この吉田茂役、そっくりでしょ?
似ている俳優がいなかったのか、一般公募で選ばれた素人さんです。
確かにそっくりですが、映像を見ると音声と口が全く合っていません。

素人の悲しさ、セリフどころか発声ですら全く話にならず、
こっそり吹き替えしたのではないかと思われます。

吉田は勝っている今こそ和平工作を行い終戦させるように勧告しますが、
イケイケの軍部(そして何より国民)の前には、近衛ならずとも
何も動かすことができなかったのは歴史の示す通りです。

■ 反撃

しかし、ここまで劣勢だったアメリカが情勢を転換させる
乾坤一擲の打開策として、帝都東京を爆撃するという
「ドゥーリトル爆撃」を慣行したのでした。

こちら帝国海軍旗艦「大和」では、聯合艦隊司令長官山本五十六(竜崎一郎)
東京空襲をすなわち米軍の反撃が始まった、と呟きます。
そして威儀を正し、

「陛下の御ためにもなんとしても早期決戦として敵の空母を叩く」

そう、日米戦の勝敗の転換といわれるミッドウェイ海戦に突入するのです。

聯合艦隊は出撃直後、米潜水艦によって発見され、

日本機動部隊がミッドウェイに向かっていることが知られてしまいました。

アメリカ空母機動部隊はすでにミッドウェイ周辺になく、
日本機動部隊は待ち受けた罠の中に突っ込み、
開戦以来の死闘を余儀なくされた。(とナレーター)

結果、聯合艦隊は大型空母4隻を始め、機動部隊の主力を失い、
ここで大東亜戦争は文字通りの転換期を迎えてしまうのです。

そして、戦いの前線はソロモン群島に移りました。
ガダルカナル島をめぐっって死闘が繰り返される中、

山本長官はラバウルにあってアメリカの反攻を食い止めんと
陣頭指揮にあたりましたが、

無線を解読したアメリカ軍は、ワシントンのノックス海軍長官直々の
「山本を葬れ」という指令の下にP-38で長官機を待ち伏せ、
これを撃墜して我が方は聯合艦隊司令長官を失います。

その後相次ぐ敗戦に、鈴木貫太郎首相は終戦を工作しますが、
本土決戦を望む軍部はそれを退け、戦局はより絶望的な道を辿ることに。

 

このあと戦況は日を追うにつれ悪化し、サイパン島陥落後、
東條内閣は解散に追い込まれました。

アメリカの映画や漫画などで、ヒトラー、ムッソリーニと並んで
東條がまるで彼らと同じ独裁者であるかのように登場することがありますが、
任命された総理であり、政治結果を問われれば
更迭される身分であることを
ほとんどのアメリカ人は知りもしなかったということになります。

そして追い込まれた日本は取ってはならない戦法、特攻を選んだのでした。

特攻隊の隊長がなぜか丹波哲郎。

人間魚雷といわれた「回天」も、若い命を乗せて散っていきました。

天一号作戦で生還を期さぬ戦いに赴く戦艦「大和」の
艦長有賀幸作中佐(菊池双三郎、似てない)。

軍令部次長、第二艦隊司令伊藤誠一中将(船橋元
どちらかというとこちらの方が有賀っぽい?)。

なぜか大和副長能村次郎大佐に天知茂が!

と、惜しみなくちょい役に有名どころを使っている当作品です。
ちなみに、本作登場人物は述べ5千人に上ります。

大和の三人はセリフがなく、双眼鏡をのぞいているだけの出演です。

そして世界最大の不沈戦艦大和は九州南西海上に至るや、三時間の猛襲ののち沈みました。

それは同時に日本海軍の最後でもありました。

 

聯合艦隊を失い、サイパン、グアムを落とした日本本土には
連日のB-29により都市爆撃が襲いました。

「都市と一般人を攻撃することで国民の戦意を失わしめる」

というドゥーエの理論そのままに・・。

米英ソ三国が突きつけてきた、日本に対する無条件降伏の勧告、
三国共同宣言について首脳会議が行われました。

「日本から軍国主義を排除」

「日本領土を北海道、本州、四国、九州に限定」

「軍隊の武装解除」

東郷外相はこれを受け入れるべきという考えでしたが、
徹底抗戦を訴えたのが阿南惟幾陸相(岡譲司)でした。



米内光政海相(坂東好太郎)は受け入れ派です。

しかしそんなことをやっている間に、
アメリカは世界初の原子爆弾を広島に落とし、
一瞬にして三十万人の非戦闘員を殺傷しました。

三日後には長崎にも。

ソ連が日ソ不可侵条約を破って満洲に侵攻してきたのも同じ8月9日でした。

そしてついに天皇陛下のご聖断がくだりました。
日本はポツダム宣言を受諾する旨鈴木首相が閣議で告げたその夜、

つまり8月14日、阿南陸相は自宅で切腹による自決を遂げます。

8月30日、連合軍最高司令官マッカーサーがバターン号で厚木に到着しました。
彼曰く「私の国」を勝者として統べるためです。

9月2日、東京湾上の「ミズーリ」艦上で日本の降伏調印式が行われました。

降伏文書にサインする重光葵。

占領軍の総司令部はお堀横の朝日生命ビルに置かれ、
直ちに占領政策を進める一方、勝者が敗者を裁く、
軍事裁判を行うための準備を進めました。

戦犯第一号として逮捕が指示されたのは東條英機でした。

東條は妻と娘に、実家に帰っているようにといいます。

「アメリカが自由に発言する機会を与えれば、
わしは堂々と所信を述べて戦争の責任を取る。
しかし、晒し者になるようなら覚悟はできている」

そのとき、表にジープや車がやってきました。
連合国が身柄を確保に来たのです。

東條は夫人と令嬢を裏木戸から出るように促し、
兼ねてから覚悟のとおり引き出しの銃を取り出しました。

監督は登場夫人に話を聞き、その時の会話もほとんど
そのとおりに再現していますが、夫人からは

「米軍は(脚本に書かれているより)もっと荒っぽかった」

と指摘されたので、東條が自決を図るための銃声が聞こえた後は
ドアを足で蹴破るなどの演出をした、とノートにはあります。
(しかし実際にはそのようなシーンはない)

元々の脚本では、東條はこのとき、

「儂は間違っておらん・・・戦争は正しかったのだ」

となっており、撮影もされたそうですが、完成時にカットされました。
もちろんその筋の「検閲」に対し自主規制した結果です。

「儂に生恥を欠かすなと伝えてくれ」

映画ではこう切れ切れに苦しい息の下から護衛に告げています。
それにしてもこの角度、東條英機に似てますよね。

妻は生垣に屈んで、銃声が聞こえた時に
早く楽に逝かれますように、と唱えていたそうです。

その後、戦犯の逮捕が始まりました。
東條は命を取り留めましたが、米軍はこれを失態と感じ、
とにかく生きて捕らえることを至上命令としました。

近衛公(高田稔、似てる)

弟は指揮者の近衛秀麿ですが、ヨーロッパで指揮者として活動していた頃、
ナチス嫌の彼は、たびたび彼らの意向を無視し嫌がらせを受けていました。

ある日、総理となった文麿が電話で

「ドイツ大使館からお前のことで文句いわれている。
総理の面子を保つため、お前ナチスの言うことを聞いてくれないか」

と言ってきたのに憤慨し

「弟が自分の信念を貫くために苦しんでいるのに、
そんな言い方はないだろう!」

以後、終戦になるまで文麿と秀麿は音信不通だったそうです。

次男(和田孝)が裁判の公正性から、父が罰せられることなどない、
と希望的観測を述べるのに対し、近衛は
自分の責任を痛感している、と眉を曇らせます。

おそらく彼はこの裁判に「正統性」などないことを知っていたはずです。

ここにいるのは次男ですが、近衛の長男はこの頃
シベリアに抑留されており、抑留中病死しています。

だからこそ裁判の前に自死する道を選んだのでしょう。
ドイツから帰国した弟の英麿は、兄が自殺するのではないかと
薬物を捜索したものの見つけることができず、
安心して隣の部屋で寝ていたら死んでいたということです。

青酸カリは風呂の中にまで持ち込んで見つからないようにしていたものでした。

小森監督は近衛文麿夫人にも直接話を聞いています。

戦犯指名された人々が収監されていた巣鴨拘置所はこの映画公開1年前、
最後の戦犯が釈放され、閉鎖されたばかりでした。

その後取り壊され池袋サンシャインシティになったのはご存知の通り。

ですから拘置所内部もかなりリアルに再現されています。

日本人被告たちの弁護団の会議が行われています。
その弁護方針について林逸郎弁護士が説明します。

1、日本が侵略者ではなかったことを証明すること
2、何を置いても天皇陛下への訴追がなされないようにすること

ここでアメリカの検閲に備え、当初の脚本になかったシーンが挿入されました。
弁護人島津久大(江川宇礼雄)が、国家弁護には限りがあるから、
個人の刑を軽くすることに注力すべきだと異論を唱えるのです。

それに対し林逸郎弁護士(沼田曜一)は、

「あなたは国家弁護をしないで個人の弁護ができると思いますか」

すると顔を硬ばらせて、島津弁護士は

「あなたは幾千万の血を流した今度の大東亜戦争が
正しかったと思ってるんですか」

実際に島津弁護人がこのようなことを言ったという記録はありません。
児島譲の「東京裁判」でも読んだ記憶がありません。

これに対し、戦争そのものを正しかったと思う人間はいない、しかし、
国家にも自衛権があるはずだという林に対し、島津は嫌悪感をあらわにします。

これもまた、「戦争の美化、正当化を否定する登場人物」を加える、
という配慮のもとに付け加えられたシーケンスです。

日本人弁護団団長清瀬一郎弁護士(佐々木孝丸・全然似てない)が一言。

「どちらかを優先させるということでなく、あくまで法律の立場から
今度の戦争の真の原因とその責任の所在の限度を明らかにすることが必要です」

本当に起こった論争ではないので、このセリフは創作となります。
でも、一言言わせてもらうならば、限度は向こう(勝った方)が決める、
つまりこちらにそれを明らかにする権利はないのでは?

限度をできるだけこちらの立場に有利に勝ち取るのが弁護人の仕事ですよね?

さらに、児島㐮の「東京裁判」によると、個人弁護に反発したのは
「軍人嫌い」だった滝川政次郎法学博士だったとされています。

実際の弁護団の弁護方針が一致しなかったというのは事実通りです。

いよいよ市ヶ谷において極東国際軍事裁判が開廷されました。
陸軍士官学校の大講堂が法廷に使われ、そこは一部のみ現在の場所に移設され、
市ヶ谷記念館として一般公開されています。

開廷したのは昭和21年5月3日。

国家指導者というカテゴリを意味するA級戦犯として
軍事法廷で裁かれるのは全部で28名となりました。

清瀬一郎、林逸郎を始めとする日本人弁護団。

入廷する被告たちの家族も来ています。
撮影は実際に市ヶ谷大講堂で行われたのではないかと思われます。

連合国判事が入廷する中、一人落ち着きのないのが
ご存知大川周明(北沢彪)

「パジャマをシャツがわりに着込み、鼻水をたらしたまま
只管合掌しているかと思ったらボタンを外して胸をはだけ腹を出した」
(児島㐮:東京裁判)

開廷の宣言を行ったのは法廷執行官である
D・バンミーターアメリカ陸軍大尉です。

裁判長であるオーストラリアのサー・ウィリアム・ウェッブ
(W・A・ヒューズ、割と似てるけどイケメンすぎ)が、
開廷の辞を述べました。

「しかしながら彼らがどんな重要な地位にあったにせよ、それがために
最も貧しき一日本人兵卒、あるいは朝鮮人番兵が受ける待遇よりも
より良い待遇を受けしめる理由とはならない」

このときの有名な一節は、法に仕えるものが憎悪と復讐の感情で
裁判に臨んでいる、と取られ、米人記者ですら不快と取れる論評を残しています。

裁判が始まるなり事件が起きました。
挙動不審だった大川周明が、東條の頭を音が出るほど叩いたのです。

映像に残されているのは1回目で、軽く叩く程度であり、
東條は振り返って苦笑いしているのですが、2回目は
大川を笑わずににらんだ、と記録にはあります。

「インディアン、コメン・ジー!(ドイツ語で”こっちこい”)

このあと精神鑑定を受け松沢病院に入院した大川は、
インタビューに来たアメリカ人記者に滑らかな英語で

「アメリカは民主国家ではない。”デモクレイジー”だ」

といい、記者もケンワージー憲兵中佐も笑い転げました。

入院中彼はコーランの聖典の翻訳を見事に完了し、
月・英語、火・ドイツ語、水・フランス語、木・中国語、
金・ヒンズー語、土・マレー語、日・イタリア語でしか話さず、
精神疾患は詐病ではないかと疑いを持たれていましたが、
正式な検査により、梅毒が「脳に回った」精神障害であると認定されています。

裁判は続いて罪状認否に移りました。

 

続く。