◎帰神法と審神者、天の岩笛、シャーマン適齢期
出口王仁三郎は、帰神という神下ろし手法において、神霊を感じるだけなら3~5週間の修行で感じられるが、正邪両方とも憑く可能性がある、とする。
そこでどうすれば邪神霊が憑かないのかという対応については、幽斎を自修する要件の中に、『精神正しければ、即ち正神に感合し、邪なればすなわち邪神に感合すべし。わが精神の正邪と賢愚は、直ちに幽冥に応ず。最も戒慎すべし。』と出されている。
そうであれば、どうすれば精神が正しくなるのかということについては、自修する要件七か条に一切の妄想を除去することなどが示され、世務を棄却して、以て大死一番の境に至って、一意専心に、わが霊魂の天御中主大神の御許に至る事を、黙念せよとある。
帰神の極みは、大神たる天御中主大神が降臨し我に懸かること。降臨し、懸かるというのは、それを極めても大神と自分は別であることに変わりはなく、神人合一とは別である。
そこで、審神者の資格が問題となるが、以下の引用文中の
第四条「神の功業を知らなければならない」
第五条「荒魂、和魂、幸魂、奇魂をしらなければならない」
が特徴的である。
神の功業を知るとは、宇宙創造の葦芽から宇宙の終末を含めすべてを見るということで、生の世界も過去現在未来もすべて見るということ。これは、少なくとも見神は経ていないとそうはならない。
また荒魂、和魂、幸魂、奇魂とは、一霊四魂のこと。四魂を仮に四チャクラに充ててみれば、四チャクラすべての機能を知るということは、メンタル体以下のチャクラの機能をすべて承知しているということ。これは理屈的にはコーザル体まで至ればわかりそうなものだが、七つの身体論で言えば、第七身体ニルヴァーナまで至って、ようやく下位六身体のあることを弁別できるということもあるので、四魂を知るということも最低でも大神(天御中主大神)を見る(見神)という体験がなければわからないということなのではないのだろうか。
以下出口王仁三郎の説明。
『帰神の事について古典を調べてみるに、『古事記』には「天の岩戸」の段に至って、「神懸り」また「帰神」と現わしてある。また『日本書紀』には、「帰神」とのみ現わして「神懸り」とは無いが、いずれも神人感合の事実を誌されたので、意味においては同一である。
この帰神に最も重要なるものは審神者の役である。その人にあらざれば、すなわち能わざるものである。
その注意周到にして、胆力あり学識ありて理非を明らかにするに速やかなるを要する術である。左の八章は審神者の覚悟すべき事であって、最も重要なるものである。
審神者の覚悟
一、過去、現在、未来を伺うべし。
二、実神なるや、偽神なるや、弁ぜずばあるべからず。
三、神の上、中、下の品位を知らずばあるべからず。
四、神の功業を知らずばあるべからず。
五、荒魂、和魂、幸魂、奇魂を知らずばあるべからず。
六、天神、地祇の分別なかるべからず。
七、神に三等あるを知らずばあるべからず。
八、神に公憑、私憑あるを知らずばあるべからず。
合せて八種の覚悟。
審神者の事について古典を調ぶるに、『古事記』には「沙庭」と現われ、また『日本書紀』には「審神者」と現わしてあるが、要するに、審神者なる役は神感を審判するものであって、「沙庭」も「審神者」も、その意味においては同一である。
幽斎の修行には、少々修行場の装置を整えねばならぬ。閑静なる家や幽邃なる地を選ぶべきは前述の通りであるが、第一、「審神者台」という器具と、「帰神台」という器具が、ぜひとも必要である。またこの台は、審神者なり神主の坐して修行する所の清所であるから、最も清潔を要するのである。また両種の台とも、檜木を以て造るのである。三尺四方の台にして、高さは五寸なければならぬのである。[図 帰神台]
この台の上面に荒蓆を敷いて、身心を清めたる審神者なり神主が、静坐瞑目して神人の感合を祈る至清所なのである。神主というは、幽斎修行者の別称である。以下これに做う。
それから審神者に必携すべき神器がある。それは「鎮魂の玉」と「天の岩笛」の二品である。「鎮魂の玉」は前章に記したる通りであるから、敢えて説明の要はないから、「天の岩笛」について一言述ぶる必要がある。そもそも「天の岩笛」なるものは、一に「天然笛」と云い、また「石笛」とも称えて、神代の楽器である。天然の石に自然穴のあいたもので、これに口をあてて吹奏する時は、実に優美なる音声を発するものである。穴の全く貫通したのは最も上等であるが、半通のものでも用いられるものである。
また、これを吹奏するには、よほど鍛錬を要するものである。吹き様によりて千差万別の音色を出すものであるが、総じて、耳に立って喧ましい。むやみに「ピューピュー」と吹くのはよくないのである。極めて耳に穏やかにこたえて、何となく優美な音色を発せしむるのは最もよろしいのである。「ユーユー」と、長く跡の音を引いて、「幽」と云う音色を発生せしめるのが第一等である。神人感合の道は至善至重なる術であるから、審神者も神主も最も厳粛の態度を持してかからなければ、宇宙の主宰に感合し、また八百万神に親近するの道であるから、神界へ対して不敬を加える恐れがあるから、最も注意周到でなくてはならないのである。
この天然笛を吹奏するの術は、神主の霊魂と宇宙の正霊と互いに感合するの媒介となるべき、極めて貴重なる方法であるから、無意味に吹いたり、また狩人が鹿を呼ぶような吹き方をしては、神界の怒りに触るるのみでなく、妖魅の襲来を招くの恐れがあるのである。神主には清浄なる白衣を着せしめ、下部は赤か紫の木綿袴を穿たしめて、婦人なれば総髪にしておくが便利である。
幽斎修行に最も適当なる気候は春秋である。夏は蚊蝿が沢山な上に汗が流れるので、よほど修行の妨害となるなり。冬は寒気のために自由の行動が取れず、かつまた、山中なぞは積雪のためにその目的を達するにおいて万事の障害となるものである。
神主の適齢は、女子にて十二、三歳から十五歳位までが最も上等である。その上の年齢になると、修行の結果が面白くないものである。すべて婦人の神主は、老人ほど結果が面白くない。すべて婦人は精神狭量にして無智者が多いから、婦女なれば十二、三歳に限るというてもよい位なものである。
また男子の神主は十五、六歳が適当齢で、それから三十歳まで位である。男子はよほど感じ難き傾向があるから、男子の神主は、よほど審神者において苦辛するのである。第一に、男子は知識あり、学力あり、胆力あるもので、徳義心の篤き者でないと、正しき神主となる事は出来難い。またよろしき神主になる性質のものは、よほど英敏であって、どことなく凡人に勝れた所のあるものでないと、完備した神主にはなり難いものである。感合する事は、三週間か四、五週間の修業で感ずるが、すっかり、邪神界の神主になり果てるものであるから、みだりに幽斎は人に伝授すべからざるの術である。幽斎の術については大略記述したから、これから進んで、余が第一期の研究会における状況を次章において略述するの考えである。
明治三十七年一月二十八日筆』(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間
本教創世記第九章から引用)