アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

まだ準備のできていない魚

2023-02-27 17:43:10 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎情報だけは提供される

(2012-02-01)

 

世界観の変貌には2段階あって、まずは肉体だけが世界ではないという変貌と、世界は自分だったという変貌である。

 

ドラッグも、統合失調症における変化した世界観も、霊能力の開顕も、お題目や念仏を死ぬほど唱え続けたマントラ・シッディも、突然肉親を奪われるというような不条理に直面するという事件も、まずは肉体だけがこの世界ではないという世界の裂け目を見せてくれる。

 

その裂け目に出会うのは、まずは一瞥は一瞥であって、自分・自我は温存されている。通例そのステップを踏まないと次のステップには進まない。

 

20世紀初頭に心霊主義の時代というのがあって、世界中でブラバツキー夫人やら、ルドルフ・シュタイナーやら、出口王仁三郎が盛んに霊だ霊界だとやった。残念ながら心霊はいまだにワイドショーネタでしかないが、その先に行くには、時代全体としては欠かせないステップなのだったろうと思う。

 

心霊ネタというのは、霊がかりではあるが、人間は死後どこへ行くか、死後どこかへ行く自分とは何なのか、この世に生まれる前の自分は何なのか、自分はこの世に何のために生まれてきたのか、という課題へのとっかかりにはなる。

 

しかし心霊主義のような第一ステップへのきっかけですらまだ準備のできていない人たちがいる。

 

『酸素をふがふが吸う魚のことは、過去に何度か冗談のネタにしたことがある。奇妙なこいつのおかげで進化が促された。だが本当のことを言うと、酸素を吸うところまで至っていない魚もたくさんいる。

 

自分のことかどうか、大半の魚は分かっている。

 

たとえばLSDを初めて摂取した者はパニックを起こしやすいという。まだ準備のできていない魚を、私が早まって岸へ誘い出してしまったとしたら、それは悪いことをしたと言わざるをえない。招待状を出す相手は、もう少し注意して選別するべきだったのだろう。

 

現状では残念ながら精神変容をもたらすすべてのドラッグの価値と危険について、正確でアップデートされた情報とアドバイスを提供することは、とても難しい。』

(死をデザインする/ティモシー・リアリー/河出書房新社p126から引用)

 

これからの時代は、最終的にはその両ステップの準備のできた者だけを相手にしていくことになるのだろうが、情報提供だけは万人にもれなく行われるのだろう。

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禅と大脱身

2023-02-27 17:39:46 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎乾いた道あるいは近道

(2017-10-28)

 

禅でもヨーガでいうところの大脱身は意識せられている。

 

道元の師匠たる天童如浄も道元もその体験とはいえない体験のことを身心脱落と言う。

 

そして唐代の禅僧鏡清和尚の

『出身は猶お易かるべきも、脱体に道(い)うことは還って難し(出身猶可易、脱体道還難)』。

 

これは、大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しいということ。

これは、碧巌録第四十六則に見える。

 

大脱身あるいは、中心太陽への突入がそんなに簡単なはずはないが、「猶お易い」と断言しきるのは、それを既に経た者だけに許された言い回し。

 

クンダリーニ・ヨーガにおけるニルヴァーナと禅のニルヴァーナは、ニルヴァーナそのものに違いはないが、還ってきてからが相違があり、西洋錬金術などでは、そのことを『乾いた道と湿った道』あるいは『(普通の)道と近道』と表現しているのではないかと感じられる。

 

禅のほうが『乾いた道』『近道』なのだろう。

 

『以心伝心』『不立文字』は、出身・脱体という身心脱落を経て、初めて意味が通ずる。悟っていない者が、その真髄を『以心伝心』『不立文字』と語るのは嘘だが、悟った者がそれを言うのは真実。

 

※鏡清道怤(八六八~九三七):雪峰義存の法嗣(悟った後継者)

 

 

碧巌録第四十六則:

 

鏡清が僧に問う「門外は何の音だ?」

僧「雨だれの音です。」

鏡清「人はひっくり返っている。自分を見失って物を追う。」

 

僧「和尚自身はどうなんですか。」

鏡清「かろうじて自分を見失わずに済んだわ。」

 

僧「かろうじて自分を見失わずに済んだとは、いったいどういう意味ですか」

鏡清「大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しい」

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肉体とアストラル体の分離と健康喪失

2023-02-27 17:37:17 | 究極というものの可能性neo

◎それでもオレたちは窮極へ進む

(2020-11-09)

 

OSHOバグワンの最初の肉体とアストラル体の分離は、彼にとって大悟の前奏だった。分離した時に、彼は肉体とアストラル体間に銀色のクンダリーニのエネルギーコード(霊線)がつながっていることを目撃。

 

だが、最初の分離以後の半年で、肉体とアストラル体の分離は約六回発生。その結果、彼は寿命が十年短くなったと感じ、胸毛さえも白くなったという。

 

肉体とアストラル体はもともと相互に自動的な調整、調和を行っているのだが、一度でもこの分離、アストラル・トリップが起こると、その自動制御システムは破壊される。OSHOバグワンは、この破壊によって、有名ヨーギが短命に終わる例として、シャンカラチャリヤ(ヒンドゥー教の最高指導者であるシャンカラ派の寺院の法主の尊称)が33歳で死んだことやヴィヴェーカナンダが36歳で死んだことを挙げている。

ラーマクリシュナは、50歳で喉頭ガンで逝去。ラマナ・マハルシも71歳でガンで逝去。これらもその自動制御の喪失が原因であって、肉体的な原因ではないとしている。

 

おまけに(肉体とアストラル体を分離したことのある)ヨーギは不健康だとし、一旦分離が起きたら元の自動調整が戻ることはないと断言している。自動調整の復元の必要性について、その必要も復元する目的も意味もないとする。

(参照:死ぬこと生きること/OSHOバグワン/市民出版社P30-32)

 

冥想修行には肉体の健康が必要であるという大前提は百も承知の上で、ダンテス・ダイジが、『健康が人間にとって何を意味するのか?』と思わせぶりに発言していたのは、この辺のことを言っていたのだろうと思う。

 

究極に至る冥想修行では、アストラル・トリップでなく、メンタル体での離脱が問題になるが、一度肉体を離脱したら、健康がのっぴきならない問題として意識されることはないと言っているのだろう。

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人はどうやって超人になるか

2023-02-27 17:34:40 | 究極というものの可能性neo

◎四つの身体の純化と正師の助け

(2022-02-09)

 

『聖なる科学/ユクテスワ/森北出版』の最後の方に、人はどうやって超人になるかについての説明がある。

 

その方法は大別して二つであり、一つは四つの身体の純化、もう一つは正師の助けを得ること。

 

四つの身体の純化とは、

1.肉体の純化は、正しい食物や環境によってなる。

2.エーテル体の純化は、感覚と利己心の制御によって、いかなる環境にも心の平静を妨げられないことによってなる。

3.アストラル体あるいはメンタル体(これらが磁気的身体と思われる)の純化はマントラと呼ばれる呼吸の制御によってなる。

 

正師の助けを得ることについては、シャンカラチャリヤの言葉を引いて、『人生は、蓮の葉の上の水滴のように不安定で、たえず苦難にさらされている。

しかしたとえわずかな間でも聖者と交われば、救いを受けることができる』(聖なる科学/ユクテスワ/森北出版P91から引用)

とする。

 

聖者の助けは万能だが、わたしは準備のできた者、資格のある者(公的資格なんぞではない)だけがそれを得られると思う。だが、聖者に出会うこと自体奇跡のようなものではあると思う。

 

これも『乾いた道』なのだろうか。

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魂はこの世に生まれて男や女に扮するが

2023-02-27 17:11:23 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎男でもなければ女でもなく神である

(2022-02-20)

 

男と女を比べれば、女の方が生きやすいとダンテス・ダイジは言っていた。それが証拠に平均寿命は一貫して女性の方が長い。

 

日本では、武家社会、近代国家と進んでも男性優位社会が維持されている。1970年以降ウーマン・リブ運動があって日本でも男女同権が叫ばれ、男女雇用機会均等法もでき、福祉面では男女ほぼ同等になっている。

 

出口王仁三郎は、大正期にあって男女同権を唱え、女が先に湯に入ってはいけないという法はないと説く。天照大神と素戔嗚尊は姉弟だが、天の安の河原での誓いという陰陽合体、すなわち厳の霊(男性)天照大神と、瑞の霊(女性)素盞嗚尊の合体の秘儀により男女同権を示す。

 

キリスト教の聖書では、アダムの肋骨から女性を作ったなどと書くから、西洋では、女性の側からの揺り戻しが、東洋に比し激しいのではないか。

 

ユクテスワは、『「睡眠中は、だれも自分が男であるか女であるかを知らない」先生は言われた「ちょうど男が女に扮しても本身はあくまで男であるように、魂はこの世に生まれて男や女に扮するが、魂は依然として魂であって、男でもなければ女でもない。

魂は不変にして変幻自在な神の似すがたなのだ」』

(あるヨギの自叙伝/パラマンサ・ヨガナンダP132から引用)

 

このような認識を前提にダンテス・ダイジが前世の一つで娼婦だった時に、女としてセックスした時の「感じ」を語るシーンは、若い時分にはぞっとするものがあった。

 

だが冥想では、男性の側の冥想が多いのも事実である。

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出口王仁三郎の鎮魂法-3

2023-02-27 06:13:19 | 浅い霊感から神人合一まで

◎幽斎を自修する要件

 

出口王仁三郎は、次の文で鎮魂法の準備段階を示し、天御中主大神の御許(もと)に至ることを目的とし、世務を棄却して、そこで大死一番の境涯に至らねばならないとする。

ただし、天御中主大神の御許(もと)に至るとは、神と自分は別のままではある。見ている自分を残しているのである。

 

『神界に感合するの道は、至尊至貴にして、神秘に属し、みだりに語るべきものではないのである。わが朝廷の古典、就中『古事記』『日本書紀』等に、往々その実蹟を載せあるといえども、中つ御代に仏教が到来してから、わが国粋たる祭祀の大道なるものが追々に衰えて来て、その実を失える事、既に久しき事があったが、天運循環して、神伝により、その古代の法術に復帰するの機運が出て来たのである。これすなわち玄理の窮極であって、皇祖の以て皇孫に伝え給える治国の大本であって、祭祀の蘊奥である。

 

けだし幽斎の法なるものは、至厳至重なる術であるから、深く戒慎し、その人に非ざれば行うべからざるものがある。みだりに伝授すべからざるの意は、ここに存する次第である。

 

しかりといえども、その精神にして、千艱万難に撓む事なくして、自ら彊めて止まざるにおいては、ついに能く神人感合の妙境に達する事を得らるるに到る者もある。後のこの伝を受けんとする行者は、右の理由をよく諒察せねばならぬのである。

 

幽冥に通ずるの道は、ただその専修するにあるのであるが、ここにその法を示さんと思う。

 

一、身体衣服を清潔にする事。

二、幽邃の地、閑静の家を選ぶ事。

三、身体を整え、瞑目静座する事。

四、一切の妄想を除去する事。

五、感覚を蕩尽して、意念を断滅する事。

六、心神を澄清にして、感触のために擾れざるを務むべき事。

七、一意専心に、わが霊魂の天御中主大神の御許に至る事を、黙念すべき事。

 

右の七章は、自修の要件を明示せしものであるが、すべて幽斎の研究なるものは、世務を棄却して、以て大死一番の境に至らねば、妙域に到達する事は出来ないのである。

 

幽斎の法は、至貴至厳なる神術であって、宇宙の主宰に感合し、親しく八百万の神に接するの道である。ゆえに幽斎を修し得らるるに至っては、至大無外、至小無内、無遠近、無大小、無広狭、無明暗、過去と現在と未来とを問わず、一つも通ぜざるはないのである。これすなわち惟神の妙法である。修行者たるものは、常に服膺しおくべきものがあるから、ここにその概略を挙げておく次第である。

 

一、霊魂は神界の賦与にして、即ち分霊なれば、自らこれを尊重し、妖魅なぞのために誑らかさるる事なかれ。

 

二、正邪理非の分別を明らかにすべし。

 

三、常に神典を誦読し、神徳を記憶すべし。

 

四、幽冥に正神界と邪神界とある事を了得すべし。

 

五、正神に百八十一の階級あり。妖魅またこれに同じ。

 

六、精神正しければ、即ち正神に感合し、邪なればすなわち邪神に感合すべし。わが精神の正邪と賢愚は、直ちに幽冥に応ず。最も戒慎すべし。

 

七、正神界と邪神界とは、正邪の別、尊卑の差あり。その異なる、また天淵の違いあるを知るべし。

 

以上は、ただその概を掲ぐるといえども、幽冥の事たるや深遠霊妙にして、その至る所は、これを言詞の尽くす能わざるものがある。ただ、その人の修行の上に存するものである。』

(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間

本教創世記第九章から引用)

 

ここでは、霊界に正神界と邪神界があって、それぞれ181階がある。また『精神正しければ、即ち正神に感合し』云々などと、これはあきらかに憑依系のシャーマニズムのことについて述べている。

 

古神道というクンダリーニ・ヨーガ系の道は、善も悪もあるという中間段階を相手にしつつ、大神に徐々にアプローチする。そして人間には、神とコンタクトする方法は、神に憑依していただく(神下ろし)、神を見る、神と合一するの三通りあるが、ここは神に憑依していただく道を説く。

 

その道では、憑依される本人(よりまし、medium、媒体)以外に、審神者が必ず必要なのだが、その理由は、憑依されている本人には、何が起こっているのか、何が起こったかはわからないからである。

 

飛び切り優秀な依り代だった出口ナオも自らが神を悟ったのは晩年だったと、出口王仁三郎は殊更に言及している。こうして大衆宗教での修行法としての神下ろしは、やがて大正年代に放棄されるようになっていく。

 

ところが21世紀の今でも、神を降ろして神の言葉を聞くようなパフォーマンスを重視している人々もあるが、大正年代には行法としての結論は出ていたのだと思う。

どんなに優秀なシャーマンであっても最後は見ている自分を棄てねばならない。神下ろしは、大衆に自我が未発達な時代ならばいざ知らず、価値観の多様化、欲望の極大化した21世紀の今では、古色蒼然たるものなのではないか。

 

だが、出口王仁三郎のその試行錯誤の経緯は承知しておいて悪いことはないと思う。

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