◎幽斎を自修する要件
出口王仁三郎は、次の文で鎮魂法の準備段階を示し、天御中主大神の御許(もと)に至ることを目的とし、世務を棄却して、そこで大死一番の境涯に至らねばならないとする。
ただし、天御中主大神の御許(もと)に至るとは、神と自分は別のままではある。見ている自分を残しているのである。
『神界に感合するの道は、至尊至貴にして、神秘に属し、みだりに語るべきものではないのである。わが朝廷の古典、就中『古事記』『日本書紀』等に、往々その実蹟を載せあるといえども、中つ御代に仏教が到来してから、わが国粋たる祭祀の大道なるものが追々に衰えて来て、その実を失える事、既に久しき事があったが、天運循環して、神伝により、その古代の法術に復帰するの機運が出て来たのである。これすなわち玄理の窮極であって、皇祖の以て皇孫に伝え給える治国の大本であって、祭祀の蘊奥である。
けだし幽斎の法なるものは、至厳至重なる術であるから、深く戒慎し、その人に非ざれば行うべからざるものがある。みだりに伝授すべからざるの意は、ここに存する次第である。
しかりといえども、その精神にして、千艱万難に撓む事なくして、自ら彊めて止まざるにおいては、ついに能く神人感合の妙境に達する事を得らるるに到る者もある。後のこの伝を受けんとする行者は、右の理由をよく諒察せねばならぬのである。
幽冥に通ずるの道は、ただその専修するにあるのであるが、ここにその法を示さんと思う。
一、身体衣服を清潔にする事。
二、幽邃の地、閑静の家を選ぶ事。
三、身体を整え、瞑目静座する事。
四、一切の妄想を除去する事。
五、感覚を蕩尽して、意念を断滅する事。
六、心神を澄清にして、感触のために擾れざるを務むべき事。
七、一意専心に、わが霊魂の天御中主大神の御許に至る事を、黙念すべき事。
右の七章は、自修の要件を明示せしものであるが、すべて幽斎の研究なるものは、世務を棄却して、以て大死一番の境に至らねば、妙域に到達する事は出来ないのである。
幽斎の法は、至貴至厳なる神術であって、宇宙の主宰に感合し、親しく八百万の神に接するの道である。ゆえに幽斎を修し得らるるに至っては、至大無外、至小無内、無遠近、無大小、無広狭、無明暗、過去と現在と未来とを問わず、一つも通ぜざるはないのである。これすなわち惟神の妙法である。修行者たるものは、常に服膺しおくべきものがあるから、ここにその概略を挙げておく次第である。
一、霊魂は神界の賦与にして、即ち分霊なれば、自らこれを尊重し、妖魅なぞのために誑らかさるる事なかれ。
二、正邪理非の分別を明らかにすべし。
三、常に神典を誦読し、神徳を記憶すべし。
四、幽冥に正神界と邪神界とある事を了得すべし。
五、正神に百八十一の階級あり。妖魅またこれに同じ。
六、精神正しければ、即ち正神に感合し、邪なればすなわち邪神に感合すべし。わが精神の正邪と賢愚は、直ちに幽冥に応ず。最も戒慎すべし。
七、正神界と邪神界とは、正邪の別、尊卑の差あり。その異なる、また天淵の違いあるを知るべし。
以上は、ただその概を掲ぐるといえども、幽冥の事たるや深遠霊妙にして、その至る所は、これを言詞の尽くす能わざるものがある。ただ、その人の修行の上に存するものである。』
(出口王仁三郎著作集 第1巻 神と人間
本教創世記第九章から引用)
ここでは、霊界に正神界と邪神界があって、それぞれ181階がある。また『精神正しければ、即ち正神に感合し』云々などと、これはあきらかに憑依系のシャーマニズムのことについて述べている。
古神道というクンダリーニ・ヨーガ系の道は、善も悪もあるという中間段階を相手にしつつ、大神に徐々にアプローチする。そして人間には、神とコンタクトする方法は、神に憑依していただく(神下ろし)、神を見る、神と合一するの三通りあるが、ここは神に憑依していただく道を説く。
その道では、憑依される本人(よりまし、medium、媒体)以外に、審神者が必ず必要なのだが、その理由は、憑依されている本人には、何が起こっているのか、何が起こったかはわからないからである。
飛び切り優秀な依り代だった出口ナオも自らが神を悟ったのは晩年だったと、出口王仁三郎は殊更に言及している。こうして大衆宗教での修行法としての神下ろしは、やがて大正年代に放棄されるようになっていく。
ところが21世紀の今でも、神を降ろして神の言葉を聞くようなパフォーマンスを重視している人々もあるが、大正年代には行法としての結論は出ていたのだと思う。
どんなに優秀なシャーマンであっても最後は見ている自分を棄てねばならない。神下ろしは、大衆に自我が未発達な時代ならばいざ知らず、価値観の多様化、欲望の極大化した21世紀の今では、古色蒼然たるものなのではないか。
だが、出口王仁三郎のその試行錯誤の経緯は承知しておいて悪いことはないと思う。