アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ゾーハルでの万物のスタート地点

2023-02-01 18:05:45 | クンダリーニ・ヨーガneo

◎一条の黒ずんだ焔

(2012-02-26)

 

古事記では葦牙(あしかび)なる世界の始まりを幻視するが、ユダヤ教ゾーハルでも似たようなの(一条の黒ずんだ焔)を見ている。モーセス・デ・レオンは13世紀スペインのカバリスト(ユダヤ教の学者)で、ゾーハルの著者に擬せられる。文中の王とは神たり。

 

『ゾーハルの数多くの箇所では、モーセス・デ・レオンのへブライ語の著作と同様に、無カら存在への発現が原点の象徴によって描かれている。「隠れた原因」から流出する発端を数学上の点―――その運動によって更に線と面が生ずるもの―――になぞらえることは、すでにゲロナ学派のカバリストが試みているが、モーセス・デ・レオンのばあいにはこれに加えて、円の中心としての点の象徴が登場する。

 

無の中から輝き出る原点は、神々の誕生や宇宙創造の諸々の出来事が集中している神秘的中心なのである。それ自体は無次元的に、無と存在のあいだにあるこの点はこうして「存在の根源」、ハトハラース・ハ=イェシュース、つまり聖書の最初の言葉が語っているあの「初め」を描出するのに用いられている。天地創造の物語を解釈するゾーハルの冒頭の文章がすでに、この原点の輝き出るさまをなかなか見事に書き出している。

 

その輝きはもちろんここでは無の領域からでなく神のエーテル状のアウラから出ている。次に掲げる数行は、ゾーハルの神秘的な象徴世界を示す例として、ここにふさわしいものであろう。

 

「はじめに、王のみこころがはたらき始めたとき、王は身辺に輝く天上のアウラのなかへ符牒を埋められた。

 

一条の黒ずんだ焔が、隠れた深奥の無限なるもの、エン・ソーフの秘密のなかからもやもやと湧き出る雲霧のごとく立ち昇り、かのアウラの輸に囲繞された。

 

それはまだ白くもなく黒くもなく、赤くもなく青くもなく、およそいかなる色もおびていなかった。しかるにこの焔が容積と広がりを具え始めると、それは燦然と輝く色を現した。

 

つまり、焔の深奥にひとつの泉が、エン・ソーフの神秘的な秘密に包み隠されて湧出し、そこから色が下方のいっさいのものに注がれたのであった。この泉は溢れ出たが、それを囲繞するエーテル状のアウラを完全に突き破ることはなかった。

 

この泉は、その溢れ出る勢いのためにあの隠れた最高の点が輝き出すまでは、まったく認識できなかった。およそこの点を越え出ては何ひとつ認識しえず、それゆえこの点はレーシース、始まり、つまり万物の創造の最初の言葉と呼ばれるのである。」

(ユダヤ神秘主義/ゲルショム/ショーレム/法政大学出版局P287-288から引用)

 

無の中から輝き出る原点とは、古神道の言霊では「ス」にあたるのだろう。また神の身辺に輝く天上のアウラを、パラケルススは万物の故郷たるマトリックスと呼んだ。

 

このレーシース=万物の最初の言葉のポジションは霊がかりな感覚(アストラル)では決して不可知なものだと思う。またこれは、フィリス・アトウォーターの見たのとは見え方が違う。違うものを見ていたのか、あるいは同じもの(万物のスタート地点)を見ていたが、違ったもののように見えたか、あるいはそのどちらでもないのかについては、ここでは明確にすることはできない。アストラル体では見えないのではないか。

 

神はもとより言葉にならないが、ここが言葉になる最初の地点ということだろうと思う。

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日の老いたる者の言葉

2023-02-01 17:26:52 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎音楽の効用

(2014-12-08)

 

言葉は、音であり、響きである。トーラーの言葉から

 

『ラビ・シモンが次の聖書の文を引いて語りはじめた。「わたしはわが言葉をあなたの口に置く」(イザヤ書五一-一六)

至聖がトーラーに取り組む人たちの声を聞き給うように、人間は日夜トーラーに励まねばならない。だがトーラーに励む者らによって新しくされる一語一語から至聖は天の空間を作り出す。わたしたちはこのように学んだ。

 

トーラーの言葉が人間の口から新しくなって出ると、それは上昇して至聖の前に立つ。すると至聖はその言葉を迎え、それに接吻し、しるしを打印した彫りこんだりした70の王冠をかぶせる。

 

新しくなった高い知恵の言葉はまた上昇し、ツァッディーク、永遠に生きる者の頭にとどまり、そこから飛び出して、七万の世界を通り抜けて、「日の老いたるもの」(ダニエル書七-九)の前へ昇って行く。

 

 

だが日の老いたる者の言葉はすべて知恵の言葉であり、隠れた高い秘密となっている。』

(ゾーハル/エルンスト・ミュラー編訳/法政大学出版会P29から引用)

 

この文からすると、「トーラーに取り組む人たち」とは、菩薩であって、最低でも見神を経た人。

 

しかしジャンルは問わないが、至聖なるものを求めてやまないミュージシャンにも、その旋律が、至聖の前に届くことがある。

 

そしてあろうことか、その旋律は日の老いたる者=中心太陽の前に登りさえするという。永遠に生きる者の頭とは、アートマン。

此の辺は、クンダリーニ・ヨーガの奥義をきわどく暗喩しているように思う。その場に立ち到った者だけがそれと気づく。

 

70の王冠の7万の世界も7つのチャクラの強調。

 

そうした前向きの想念を有した演奏者の手による音楽により、時として病んだ肉体は快癒のきっかけをつかむことがある。大いなるかな音楽の効用。

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人種差別と自由平等博愛

2023-02-01 17:21:35 | 時代のおわりneo

◎ユダヤ教での十字架

(2017-08-07)

 

自由平等博愛の三色旗は、フランス国旗で有名だが、ロシア国旗も同じ三色を用いている。

 

戦前の上海にも石屋があって、欧米、日本、中国、ユダヤ等と各民族が加入していたが、その中では、欧米の白人至上主義であって、アジア人差別、ユダヤ人差別が徹底していたという。つまり自由平等博愛とは、欧米の白人仲間での自由平等博愛であって、東洋人やユダヤ人は人種差別され、その埒外だったという。

 

人のよい日本人は、自由平等博愛と聞くと自分も一人前に扱ってくれるのかと勘違いしがちである。

 

またヘイト・スピーチ反対とか、差別反対とかいろいろ妙なスローガンが出てくるが、その手の話は文字通り信じるわけにはいかない。とりわけ敗戦国日本には、今の国連憲章下では、うまい話はないのだろう。

 

最近は知らないが、昔はユダヤ人で石屋になった人の率は低く、さらにユダヤ教徒で石屋になった人の比率は更に少ない。

 

十字架は、正統派ユダヤ教徒にとって重視されないのだが、石屋では重視される。そのことだけをとっても、石屋とユダヤ教は全く別物であって、ユダヤ教から見ても石屋の教義、シンボリズムは異質なものらしい。

 

戦後、中国も韓国も反日ではなかった時期がある。ここまで中国、韓国の反日方針を徹底させたのは、石屋の影響があるという説もある。

 

1970年代以前の中国、韓国のアンチの第一はまず反米であり、反日はその次以下だったように記憶している。

 

マスコミ報道とか煽情的ネット情報はわかりやすさ・単純さを前面に出してくるが、これにひっかからないような心がけは必要だと思う。

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私は私という心身の異郷の客

2023-02-01 12:28:23 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎何一つ見知らない悲しみ

(2015-12-11)

 

12月11日は、知る人ぞ知るダンテス・ダイジの命日。

 

人は、覚醒した世にもまれな人物に出会えば、テレビの突撃リポーターよろしく、なんでも質問しようとするものだ。

 

そうした心理を見越してか、ダンテス・ダイジは自作の著作を用意してくれている。その一冊についてでもきちんと最後まで同一の実感をもって感得できたり、あるいは知的理解でもできたりしたら、その読者はほとんど覚者だろう。

要するに普通の人は一冊読み通せないだろうと思う。

 

以下の引用文は、彼の「今でない今、ここでないここで」という詩の一部。

 

『一刹那の生涯でよい

神の御意のままに生き

神の御意のままに死にたい

一刹那の神の御意は

すべての生命たちの生涯と

すべての生命たちのそれぞれの宇宙であった

 

神のみが絶対無の中に

久遠の安住を続け

あくび一つも神には無縁だ

 

私は私という心身の

異郷の客であり

何一つとして

私のかつて見知った事柄はない

この悲しみが

人間に理解できるだろうか』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ/森北出版P118から引用)

 

教条的に、「人間とは、すべての世界が一つながりになったアートマンと合体できるし、統合している」などと語ることはできるが、その実感を語りえる者だけが真正の本物の超越者である。その悲しみを語った者がかつてあっただろうか。

 

人間はその悲しみを知りたがるほどに近づいてきた。

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ハシディズムの祈りの方法

2023-02-01 06:54:07 | 浅い霊感から神人合一まで

◎イスラエル・ベン・エリアザールのグループの祈り

 

世界的に霊がかりが一掃される趨勢となったのは20世紀になってからだが、霊がかりやそうでないものも混交したユダヤ教では、18世紀ハシディズムの中に脱霊がかりなマスターが登場した。それが、西ウクライナ生まれのハシディズムの創始者イスラエル・ベン・エリアザール(バアル・シェム・トブ(聖なる御名の師家))。

 

それは彼の弟子のメツェリチェのマギドの次の祈りの説明でもわかる。

 

『実際にはバアル・ シェム・トヴの内弟子たちは律法の伝統においてもカバラーにおいても極めて高度な教育を受けていた。彼の一番弟子であるメツェリチェのマギドは、師の教えを広めたのみならず、自分自身の洗練された哲学的な様式でそれを発展させた。

 

祈るときは、自らを無とし、完全に自分を忘れよ。ただ自分は〈神の臨在〉のために祈っているということだけを覚えておれば良い。そうすれば<思考の宇宙>、すなわち時間を超越した意識の状態に入ることができるだろう。この領域においては、あらゆるものは等しい生命――と死も、陸と海も・・・・・・だがこの領域に入るには、自我を放棄し、あらゆる問題を忘れ去らなくてはならない。

 

物質的、世俗的な事柄に執着したままでは、到底この水準に到達することはできない。そこに執着する者は、善と悪の分離、すなわち<創造>の七日間の間の二元論から脱することができないからだ。このような者が、如何にすれば究極的な統合が支配する領域に接近できようか。

 

さらに自らを「某(なにがし)か」であると考え、自らの必要のために〈神〉に祈る者の中に〈神〉は現れることはできぬ。〈神〉は無限であり、自ら〈無〉となった器以外は、如何なる種類の器にも盛ることはできぬ。

 

祈りにおいては、自らの力のすべてを単語に込め、文字から文字へ、自らの肉体を忘れるまでに没入せねばならぬ。文字の置換は、肉体的にも、また霊的にも汝の心に大いなる喜びをもたらす。』

(カバラーの世界/パール・エプスタイン/著 青土社P165-166から引用)

 

時間を超越した意識、万物斉同、自我の放棄と二元からの卒業と、一通り神(第六身体、アートマン)に至る要素が整理され揃っている。これぞ知性の極みであり、何が起こったかをわかっている者でなければ、書けない一文である。

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