◎現成公案
(2006-05-29)
瓊禅師は、薄皮を剥いでいく微妙な感覚を得て、更に坐禅を推し進めた。
『ある日壁の上に掛けてある三祖僧璨の「信心銘」の「根本に帰着して、本来の旨を会得する。観照するにしたがい、本来の宗旨を失う。」という句を見て、また一皮はげ落ちた。
蒙山禅師が言われるには、「この参禅の事は珠を剥いでいくようなものである。剥げば剥ぐほどますます光り、ますます明るく、ますます浄らかになる。ひと剥ぎひと剥ぎが幾世の工夫に勝るものがある。」と。
しかし私が見解を呈すると、「欠けておる」と言われるだけであった。
ある日坐禅中に突然「欠」ということにぶちあたって、身心がからりと開けて骨髄にまで貫徹し、積日の雪がにわかにやんで、晴れ渡ったようであった。
それでじっとしていることができず、地上に飛び下りて蒙山禅師をひっとらえ、「私に一体何が欠けているのか」と言った。
すると禅師は私を平手で三度打った。
私は三度礼拝した。
禅師は言われた。「この一句を(吐き得るまでに)幾年かかったか。今日まさに出来上がった。」と。』
(禅関策進/筑摩書房から)
この後にコツが示されている。
1.公案と取り組んでいる時に定力を得ているかどうか点検すること。
2.禅定中に公案を忘れてはいけない。
3.心中に悟りを期待してはならない。
4.文字を読んで概念的に理解してはならない。
5.少しばかりの体験でもって、大悟し終わったなどと思ってはならない。
定力とは、胆力のことだから、今の社会で一生懸命、精根込めて仕事をしている内に定力は知らないうちについてくるものだろうと思う。そのような仕事をするのは公案と取り組むようなものだから、何年か、まじめに一生懸命働いている人の中には、十分に公案と取り組んで、定力を得た状態の人が少なからずいるのだと思う。
このように定力がすでにあって毎日公案に取り組んでいる状態なのだから、あとはぶち抜けるために坐禅をするだけの人というのは、結構世の中にいるのではないかと思った。
私が仕事上で出会った人の中に、胆(ハラ)ができている上に、『これは凄い人だ』と感心させられる人は何人かいた。現代社会の複雑さと困難さが自然とそうした人を生んでいるのである。
『現代社会を生きるとは、現成公案を生きるようなものだ』とは、このことだろう。