アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

七日間で悟りを得る-3

2023-02-03 07:16:18 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎現成公案

(2006-05-29)

 

瓊禅師は、薄皮を剥いでいく微妙な感覚を得て、更に坐禅を推し進めた。

 

『ある日壁の上に掛けてある三祖僧璨の「信心銘」の「根本に帰着して、本来の旨を会得する。観照するにしたがい、本来の宗旨を失う。」という句を見て、また一皮はげ落ちた。

 

蒙山禅師が言われるには、「この参禅の事は珠を剥いでいくようなものである。剥げば剥ぐほどますます光り、ますます明るく、ますます浄らかになる。ひと剥ぎひと剥ぎが幾世の工夫に勝るものがある。」と。

しかし私が見解を呈すると、「欠けておる」と言われるだけであった。

 

ある日坐禅中に突然「欠」ということにぶちあたって、身心がからりと開けて骨髄にまで貫徹し、積日の雪がにわかにやんで、晴れ渡ったようであった。

それでじっとしていることができず、地上に飛び下りて蒙山禅師をひっとらえ、「私に一体何が欠けているのか」と言った。

 

すると禅師は私を平手で三度打った。

私は三度礼拝した。

禅師は言われた。「この一句を(吐き得るまでに)幾年かかったか。今日まさに出来上がった。」と。』

(禅関策進/筑摩書房から)

 

この後にコツが示されている。

1.公案と取り組んでいる時に定力を得ているかどうか点検すること。

2.禅定中に公案を忘れてはいけない。

3.心中に悟りを期待してはならない。

4.文字を読んで概念的に理解してはならない。

5.少しばかりの体験でもって、大悟し終わったなどと思ってはならない。

 

定力とは、胆力のことだから、今の社会で一生懸命、精根込めて仕事をしている内に定力は知らないうちについてくるものだろうと思う。そのような仕事をするのは公案と取り組むようなものだから、何年か、まじめに一生懸命働いている人の中には、十分に公案と取り組んで、定力を得た状態の人が少なからずいるのだと思う。

 

このように定力がすでにあって毎日公案に取り組んでいる状態なのだから、あとはぶち抜けるために坐禅をするだけの人というのは、結構世の中にいるのではないかと思った。

私が仕事上で出会った人の中に、胆(ハラ)ができている上に、『これは凄い人だ』と感心させられる人は何人かいた。現代社会の複雑さと困難さが自然とそうした人を生んでいるのである。

 

『現代社会を生きるとは、現成公案を生きるようなものだ』とは、このことだろう。

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七日間で悟りを得る-2

2023-02-03 07:06:48 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎定力で推し詰める

(2006-05-28)

 

雪巌和尚からは、「仏祖の教えの本当のところを受け継ぎ、興隆してもなお、脳の後ろに依然として一槌が欠けている」との法語をもらったが、自分では、一槌が欠けていると思わず、この法語を信じなかった。けれども、自分でもまだ疑いがあるようなので、鉄山の瓊禅師は、その後も毎日じっと動かずに坐禅した。

 

その後、瓊禅師は、蒙山禅師のところに移った。

『蒙山禅師は、私に問うた。

「参禅は、一体どこまでいったら、一大事をわかってしまったといえるのか。」と。

私はどこから入って良いか、その入口すら知らなかった。

 

それで蒙山禅師は、再び定力をつける工夫をして、煩悩を洗い流せと言われた。

 

私が入室参禅して、自分の見解を呈するたびに、禅師はただ「欠けている」と言われるだけだった。

 

ある日午後4時から坐禅して、夜更けに至った。定力をもってだんだんと推し詰めていき、真っ直ぐに深幽微妙の境地となった。禅定から出て蒙山禅師に見(まみ)え、この境地について述べ終わると、禅師は、

 

「一体何がお前の本来の面目であるか」と問われた。

私がまさに見解を述べようとした途端、禅師はぴたりと門を閉じてしまわれた。

 

それからというもの、私の坐禅工夫は、日々に微妙な境地を体得することができた。

思えば雪巌禅師の下を離れるのが早すぎたため、これまで綿密な工夫を為すことができなかったか、幸いに今、正真正銘の師家に遇ってここまで来ることができた。

 

もともと坐禅工夫は緊張してやれば、時々刻々に悟入するところがあり、一歩ずつ皮がはげ落ちて行くものである』

(禅関策進/筑摩書房から)

 

結局7日間で悟りは開けなかった。

 

この定力をもって推し詰めるという感じは、「公案との取り組みで練りに練った丹田から出る力でもって坐る」という感じなのだろうと思う。これはクンダリーニ・ヨーガとも、只管打坐とも全く違った坐り方であることに注意が要る。

 

公案禅でも初心のうちはわかる由もないが、ある程度まで修行が進めば、うす皮を一枚一枚剥いで行くように、「本当の自分=本来の面目」に一歩一歩アプローチしていることを感じることができることがわかる。

 

時々刻々に悟入するところがあることを信じて、一坐一坐緊張してすわりたいものだ。

 

瓊禅師は更に坐り続ける。

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七日間で悟りを得る-1

2023-02-03 06:58:17 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎リフレッシュ&トライ

(2006-05-27)

 

鉄山の瓊禅師は、例の雪巌禅師の下で修業して無字の公案に取り組んでいた。

 

『雪巌禅師が

「あなたがたは、長い間座布団の上に坐って居眠りしている。地上におりてぐるりと一回りして、冷たい水で顔を洗い、口をすすぎ、両方の目をパッチリ開いて、再び座布団に上がって、背骨をまっすぐ立て、山や岩が壁のように切り立っているように端座し、公案をひたすら工夫すべきである。

 

このように修行すれば七日間で必ず悟りを得るであろう。これは私が40年前に既に用いた方法である。」と。

 

私はそこで、第一日に雪巌禅師の言われたとおりにやってみたが、その工夫の仕方が普通と違っていることを自覚した。

 

第二日には、両眼を閉じようとしたが、閉じることはできなかった。

 

第三日には、この体が虚空の中を行くような気がした。

 

第四日には世間のこと、すなわち外界のあることを知らないような気持がした。その夜てすりに寄り掛かってしばらく立っていた。するとぼんやりして何もわからなくなった。

 

それで公案を点検してみたら、忘れてはいなかった。早速引き返して座布団の上に上った。するとたちまち、頭から足に到るまで、ちょうど髑髏を打ち割ったように、また万丈の深い井戸の底から空中に引き上げられたように感じた。

 

その時その歓喜を告げる人もなく、雪巌和尚に話した。ところが、和尚は「まだだ、もっと工夫して来い」と言われた。』

(禅関策進/筑摩書房から)

 

ここは七日間で悟りを得なかった。

最後の四日目のレベルも、初禅と言われる、うれしく、楽しい状態までも至らない、欲界定レベルではないかと思われる程度であるが、とにかく、とっかかりがあったことは事実である。

 

「潜在意識を使ったメソッドで、あなたは一週間で開悟できる」とは、最近流行のキャッチ・コピーそのものだ。禅では、願望が叶うとか、金がもうかるとか、先祖供養が足らないなどの無粋なことは一切言わない。

 

スピリチュアルな体験は、私だけの特別な体験であるものだから、誤解しやすいものである。すっかり有頂天になって、誤解してしまわないように、正しい指導者のいることはありがたいものである。鉄山の瓊禅師は、更に工夫を続けていく。

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ダンテス・ダイジの気合訓練

2023-02-03 03:12:16 | 冥想いろいろ

◎日本人は、気合の抜けた人間ばかりとなった。

 

戦後、根性論、精神論が忌避される世論が長い間形成された結果、日本人は、気合の抜けた人間ばかりとなった。が、それは、マクロなマインド・コントロールの影響もさることながら、老人比率が多いこともその原因だとは思う。

 

しかしながら、若くても年をとってもこの競争社会を生き抜いていくには定力が必要なものだ。毎日冥想修行だけすればよいような恵まれた環境の人はいざ知らず、大半の人は、世の人と交わって定力を必要とされるシーンが必ず出てくるものである。

 

だが、気合術は廃れ、古神道の天の鳥船雄詰(をころび)の禊が残る程度と思う。

 

ダンテス・ダイジは、冥想道手帳に気合訓練の一章を挙げている。

『気合訓練

 

気合とは、必ずしも絶叫するものとは限らない。自己の心身のとどこおりをほどいて、宇宙的ヴァイブレーションと溶合していくことが気合である。

気合訓練は、定力を養成するための準備となる。

 

カーッ

 

シヴァ

 

 これらは、全身全霊で叫ぶものである。

 

 

アーウームー

 

ホー

 

 自分の形式を越えて、自由にのばすように発声する。

 

 

ムー

 

 全心身の力を込めてうなることと一気に力を抜くこととの反復。

 

 

天之数歌

 

「一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 百 千 万」(読み:ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ )』

(冥想道手帳/ダンテス・ダイジから引用)

 

久しぶりに読んでみると、『ムー』には、『一気に力を抜くこと』というパートがあったのですね。

 

冥想は特に実際にそのとおりにやってみて、そのやり方の絶対性に気づくということはある。

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