アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-11

2023-02-22 18:16:06 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-8

(2006-09-09)

 

バーナデット・ロバーツは、ついに見た。

 

『それは冬の末のことでした。

川には2年前の山火事の焼け屑で一杯の泥水が流れていました。毎日私と息子は川岸で増大する流れを測り、息子は素早く流れ過ぎる木材を的にして、石を投げたりしました。

 

ある日、息子の来るのが遅れ、私は一人で川岸に降りて、木々が海に流れ下るのを見守っていました。

 

その時何のわけもなく、私の顔に微笑が浮かび、その瞬間に私は「見た」のです。ついに私は見ました。そこで見たのは、微笑そのもの、微笑するもの、微笑が向けられたもの、この三者が相互に区別されずに、ただ「一つ」になったものです。それもどのように一つになっているかをごく自然に見ただけで、それ以上の洞察や幻視などはないのです。

 

私は、自分の見たものを心に止めておくことができませんから、そのまま川の流れを見つづけ、その後少し歩きました。「通路」がもう終わっていることがわかりましたが、何もかも前のとおりで、何も変わっていなくてほっとしました。「見た」ということに何か特に素晴らしいことがあるとすれば、すべてがいつものとおりで、何も変わっていないことでしょう。(中略)

 

私に分かったことは、微笑が向けられた未知の対象が、その主体と同一であり、それがまた微笑自体であるということです。これは一体何でしょうか。これこそ自己がなくなった後に残っているものなのです。微笑という姿で「不可知のもの」が示現されたと言っても良いでしょう。ここで見たものは極めて重大ですが、心で把握することはできないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P60-61から引用)

※通路:狂気と絶望を超えた窮極への通路

 

キリスト教風に言えば、微笑そのものは、父なる神、微笑するものは、聖霊、微笑が向けられたものは、人であり、ここでは三位一体を微笑という形で見たことが分かる。彼女は神を微笑として見たのだ。

 

神を最初に見た体験と、三位一体の構造で世界を把握した体験は、別であり、他の見者、たとえばイグナティウス・ロヨラの述懐においても、三位一体を見る体験は格別のものであり、大きな驚きと感動をもって受け入れられている。従って三位一体というのは、求道の頂点のシンボルとして、世界の秘密の開示として登場してくるのだろうと思う。

 

前回記事では、バーナデット・ロバーツが完全に見る準備がまだできていなかったせいか、肉体クンダリーニが上がる症状もみられていたが、ここではその症状も消えたようだ。

 

彼女の体験の記述は、十牛図でいえば、自己喪失とは、牛がいなくなったということなので、牛がなくなった第七忘牛存人のことが中心で、ここで第八人牛倶忘に到達したのだと考えられる。

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暗夜から光へ-10

2023-02-22 17:02:11 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-7

(2006-09-08)

 

その後彼女は、氷の指と呼ばれる虚無と、一瞬の油断もなく向き合うはめになった。

神に対して自分を捨てたつもりだったが、捨てた相手は実は無だった。自己を捨てた向こうには神はいなかった。

 

氷の指は、彼女にとって、ある時は発作的な狂気の恐怖、ある時は更年期障害かと思われたが、それが何であるとしてもその時は打つ手がなかった。

 

『この指は長く見つめるほど接近して、時にはほとんど触れそうになり、それから急に退きます。それは絶えず動いているように思われました。初めのうちの私の反応は、鳥肌がたったりぞっとしたりする位でしたが、そのうちに頭に火がついたように熱くなり、目の中に星が一杯見えるのです。その時私の足が冷え始め、その冷えが次第にのぼって、頭を除いた全身に及んできました。とうとう私は痙攣を起こして激しく動悸したまま背後に倒れてしまいました。

 

私は今にも真二つに割れてしまうと思いました。「氷の指」が私の身体を裂く間、いつ割れるかと待ったのですが、無限の時間のように思われました。内には何の動きもなく、恐怖もどんな感情もありません。(中略)

 

次に気がついた時、恐ろしい相手はいつのまにか立ち去っていて、私は身体の感覚を全く失って、深い静寂の中にいました。すこしたってふと振り向くと、一尺ばかり離れたところに立つ野草の小さな黄色い花が目に入りました。

 

その時見たことはとても言い表せませんが強いて言えば、その花が微笑んだのです。全宇宙からの歓迎の微笑というように、私はそのまま目もそらせず身動きもできずに、その微笑の強烈さに耐えていました。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P46~47から引用)

 

それ以後、彼女は虚無の氷の指に出会うことはなくなったが、自分の存在の感覚もなくなった。彼女は、目に見えている時だけは自分があると思っても、祈っている時や何もしていない時は身体が溶けてなくなっているようだと感じていた。

 

彼女は、しばしば頭が燃えるように熱くなったといい、この場面でも、明らかに肉体レベルでクンダリーニが上がって頭が熱くなっている。残念なことに途中で気絶してしまい、そこで起きたことを知ることはできなかった。そこで起きたことを直視できるほどの情熱が足りなかったか、魂の成熟度が不足していたかという説明になるのだろう。醒めたままでいられなかったのだ。

 

ここまでの経過を見ると、自己を失うということは、既成の世界認識を失うということでもあるが、彼女の場合はそれが徐々に起きていった。この虚無との溶解の段階まで来ると、自己喪失という狂気と絶望を超えたトンネルの出口は近くなっている。

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暗夜から光へ-9

2023-02-22 16:54:08 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-6

(2006-09-05)

 

山から降りて、海に臨むキャンプ場に向かったバーナデット・ロバーツは、虚無と直面することになった。それまでの彼女には、「一なること」に達せられたという大きな解放感があった。

 

そして、それまでは常に「大いなる流れ」「一なるもの」と他のものの区別がない立体鏡で見えていたのが、この海岸にきた途端に、すべての差別が溶解していく先が得体の知れない虚無になってしまった。

 

『しかし絶えず虚無をみていることが、耐えがたく恐ろしいとしても、私がある朝海岸を歩いていて出会ったことに比べれば何でもありません。

 

私は突然周りのすべての生命が完全に停止してしまったのに気がつきました。どこを見ても恐ろしい虚無がすべてのものに進入して生命を奪ってゆくのです。皆忍び寄る虚無に息をつまらせ、断末魔のうめき声を発する他ないのです。生命が急に抜け落ち、その後には死と崩壊しかありません。

 

これは奇怪な恐ろしい光景で、こんなものを見てはもう誰も生きていられないと思いました。わたしの身体はその場に凍りついてしまったのです。

 

一瞬思ったのは、この光景から目をそらせ、何らかの説明を与えて片づけること、合理化してしまうことでした。しかしその途端に、私にはその手だてが何もないことに気がついてはっとしました。

 

そしてその時はじめて、自己と呼ばれるものは、絶対の無を見ること、生命の欠如した世界を見ることから人間を防いでいることがわかりました。自己がなければ、この虚無に直面するのを避けるすべはなく、直面してはとても生きられないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P39~40から引用)

 

彼女は、この「恐怖も起こらず、逃げもできず、虚無を見守り続けるという生きた心地もない状態」から、海岸から2キロも駆け降りることで、逃げおおせることができた。

この虚無の恐怖を、彼女は氷の指と呼んでいる。これはあらゆる様相の恐怖と狂気が寄せ集まったもので心理的な殺し屋だとしている。

 

そしてまた、自己を脱ぎ捨てることは、どんな敵がいるかわからないところで武器を手放すようなもので、全く狂気の沙汰であると評価している。

 

まことにもって自我をなくす、自己を捨てるということは、神に対してオープンになっていくのと同時に、悪魔に対してもオープンになるということという危険性をはらむものであることがよく分かる。彼女は、虚無が悪魔だとは言っていないが、ここは自己を捨てることは捨てたが、捨てきれていない揺り戻しと見たい。捨てきるというのは、とても難しいものなのだと思う。

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洞山が弟子の首座を問殺する

2023-02-22 06:54:02 | 無限の見方・無限の可能性

◎問い詰められてすぐ死んじゃった初首座

 

洞山録から。先生とは洞山のこと。首座はランキング上位の弟子。

『【首座を問いつめる】

 

先生は、泐潭(ろくたん)で、初首座に会われた。かれはこういった、「すばらしや、すばらしや、仏道の 世界は測ることもできん」

 

先生はそこでたずねる、「仏道の世界のことはおいて、たとえば仏道の世界を語る君は、どういう世界の人なのだ」

初は沈黙して答えない。

先生、「どうして早く返事せぬ」

初、「せかせてはいけません」

先生「まともな返事すらできないで、せかせてはいかんなどとよくもいえたものだ」

初は答えない。

 

先生、「仏といっても道といっても、みな名前にすぎん、とある。どうしてお経を引用せぬ」 初、「お経にはどういっている」

先生、「意味を把めば言葉はいらん、とある」

初、「君はまだ経典によって心の中に病気を作りだし ているぞ」

先生、「仏道の世界をあげつらう君の病気の方はいったいどれほどだ」

初はこんども答えられぬ。そして次の日、にわかに死んだ。

人々は先生のことを、首座を問いつめた价と呼んだ。』

(禅語録(世界の名著)/中央公論社P315から引用)

※价とは、洞山良价のこと。

※<泐潭> 江西省洪州南昌県。当時、ここに「大蔵経」があった。

 

禅問答は、そもそも解答のない問題に自分自身がなりきり、その不条理を体感しきった先に起こる何かを求めようとするもの。この問答は公案ではないが、求める解は同じ。

 

人は、大災害に突然出くわすと、心を石のように閉ざすか、自殺するか、心をオープンにして大悟するかのいずれかに分かれるなどと言われる。

 

禅語録では、不条理に迫られた求道者が、悟れないまま禅堂で暮らし続けるか、退去を求められるかなどするケースがあるが、死ぬケースはさほど多いものではない。

 

悟りを開くには、人生を卒業するに足るあらゆる実感を経験していることが求められる。そうした蓄積がなければ、準備ができていないということになるわけだが、特に禅では、今日只今悟っているかどうかを求めるために、覚者老師の側は、準備ができていようができていまいが、そんなことはおかまいなしのところがある。

 

洞山には他にも、彼が死んだばかりの僧(悟りきらないまま死んだ若い僧)の頭を三度棒で打ち、輪廻から抜けられないぞと独白するシーンがあり、結構素人目には酷薄な言動の目立つ人だったのかもしれない。

 

悟りを開くには、高額な金を払えばよいとか、何かスペシャルなあるいはバーチャルな環境に身をおけばよいとか、悟りを促す姿勢保持をサポートする機器を使えばよいなどといろいろなことが言われる。だがそんなうまい話はない。

 

また今はスマホ1台で、居ながらにして大蔵経のテキストを読める時代になったが、当時希少な大蔵経にアクセスできる洞山の僧堂にあって、お経の意味を把めば言葉はいらんなどと、言っていることは、現代と何も変わらない。自分で飛び込んでいくしかないのだ。

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