アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

預言者エリヤのクンダリーニ上昇

2023-02-14 16:45:37 | キリスト者の秘蹟neo

◎つむじ風

(2010-02-01)

 

預言者エリヤのクンダリーニ上昇の材料として旧約聖書テクストを見る。これによると、クンダリーニ上昇の叙述は簡潔であって、最初に火の車と火の馬があらわれて随伴者エリシャを隔て、つむじ風に乗ってエリヤを天に昇らせたというだけである。火はクンダリーニの火、馬が車を引くので馬と車はセットだが、車はチャクラ。昇る時はつむじ風のように迅速であり、らせんを巻いているという比喩だろうか。

 

この上昇の評価はこの事件を目撃した人間の力量によるが、釈迦の涅槃を目撃した人ほどの精密さはなかったのか、あるいは見るには見たが理解できなかったか、あるいは起きたことを見て理解もできたが、秘儀にあたるそれを描写するのは避けたか、これらのいずれかだろう。

 

これだけ簡潔な表現は、道教の白日昇天の記述に似た印象を受ける。余計なことは書かないということ。

 

またこの本文には、ヨルダン川の水を打って水面を二つに分けて、露出した地面を渡る超能力が披露されているが、これは本筋の話ではない。

 

旧約聖書列王紀下第2章

『2:1主がつむじ風をもってエリヤを天に上らせようとされた時、エリヤはエリシャと共にギルガルを出て行った。

2:2エリヤはエリシャに言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをベテルにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはベテルへ下った。

 

2:3ベテルにいる預言者のともがらが、エリシャのもとに出てきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。

2:4エリヤは彼に言った、「エリシャよ、どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをエリコにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはエリコへ行った。

 

2:5エリコにいた預言者のともがらが、エリシャのもとにきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。

2:6エリヤはまた彼に言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをヨルダンにつかわされるのですから」。しかし彼は言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そしてふたりは進んで行った。

 

2:7預言者のともがら五十人も行って、彼らにむかって、はるかに離れて立っていた。彼らふたりは、ヨルダンのほとりに立ったが、

2:8エリヤは外套を取り、それを巻いて水を打つと、水が左右に分れたので、ふたりはかわいた土の上を渡ることができた。

 

2:9彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。

 

2:10エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。

 

2:11彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。』【口語訳旧約聖書(1955年版)から引用】

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エノクは神に連れ去られた

2023-02-14 16:37:44 | 究極というものの可能性neo

◎さてその後は死ぬるばかりよ

 

古代ユダヤでは、どうもエリヤとエノクがクンダリーニ・ヨーガの奥義を体得した人物のようである。2人とも死んでいないとされるからである。

 

エノクは、ノアの曾祖父であって、旧約聖書創世記5章に、

『エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。

エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。

エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。

エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。』

とあり、召命の後、死んではいない。

 

 

よの中はくうて糞して寝て起きて

さてその後は死ぬるばかりよ 一休 

 

このデリカシーのなさ。

けれども“死ぬるばかり“になりきらぬと、死の本性が見えてこないのであって、前半の” くうて糞して寝て起きて“ばかりに気を取られると、生き地獄から抜け出せないままに終わる。

 

幸運にも抜け出したのが、エノク。

 

エノクはこの世の初めから終わりまでを語り聞かせ、予言したというが、これは、悟った人はそういうのをなぜか語りたがるものだ。

 

エノクの生きた超古代には、文化、時代の風光、言葉、流行語などあらゆるものが今とは違っていたのだろうが、時代を超えたものだけが、あるいは今の時代に通用するものだけが、聖書外典などで伝承されてきたと思って間違いないのだろうと思う。

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達磨の利根、鈍根

2023-02-14 16:00:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎師の教えにしたがって悟るのは鈍根

(2017-12-01)

 

達磨の語録に、『師の教えに頼らず、事上に法を見る人は、利根とよばれる。師の教えにしたがって答えを得るものは鈍根とよばれる』というのがある。

 

釈迦は、鞭の影を感じて走る馬は上根とし、鞭で叩かれないと走らない馬は下根とする。

 

特に禅では、境涯が師匠を超えない場合、師匠の咎とされるという側面もあるので、師匠の指導どおりで悟ったのは鈍根なのだろう。

 

また達磨は古典によって悟った人は力が弱く、日常の事に即して悟りをつかむ人はどこにでも法を失わないとする。

 

このことは、高さだけでは、現実のより深刻なイベントに対処できないので、禅堂を出ていろいろ経験しなさいという聖胎長養の必要性にまで言及している。

 

特定の師匠につかず闇雲に坐りながら、世間で働き続ける修行スタイルは、江戸時代の至道無難。彼は関ケ原の宿屋の親爺として働きながら修行したが、何か月も高名な師匠のところに行ったきりというのが何回かあったらしいので、関ヶ原に閉じこもっていたわけではないようだ。現代でも冥想フリークはそんな生き方をする人がいる。

 

達磨は、師匠の言いつけどおりでないほうが良いとか、古典で悟りを学ぶのは弱いとか言うが、実際のところそれを実行するのもそんな簡単なことではない。利根、鈍根は自分では選べないところがある。

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聖なる傷痕に指を入れた使徒

2023-02-14 15:52:17 | キリスト者の秘蹟neo

◎見ないのに信じた人は幸いである

(2005-07-07)

 

12使徒の一人ディディモのトマスは、イエスが復活して来られたとき、他の使徒と一緒にいなかったので、会いそびれた。そこでディディモのトマスは、言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」

 

さて八日の後、弟子たちは家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

 

トマスは答えて、「私の主、私の神よ」と言った。

イエスはトマスに言われた。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じた人は幸いである。」

《ヨハネによる福音書20章24~29節》

 

 

このたびは、イエスのまねびとしての聖痕がある人の話ではなく、イエスそのものの傷跡の話である。

 

見ないのに信じる人は、今の時代では、だまされ易い人とか、ひとの良い人などと呼ばれ、マルチ商法などの悪徳商法の格好の標的となるので、あまりよいこととされない。

この世をわたる場合は、見ないのに信じることは、あまりあってはならないが、ここの見ないのに信じるというのはそのことではない。

 

イエスの言う見ないのに信じるとは、イエスが復活した話を聞いて、人間の魂の永遠性に思い当たり、その永遠性を確信することを言っているように思う。イエスのその教えは、ある種バクティ・ヨーガであり、父なる神への献身の教えである。ところが復活を含め、その超能力を使いまくる姿は、地味で堅実なパクティ・ヨーガ行者の姿ではなく、一流のクンダリーニ・ヨーギ(行者)の姿に見える。日本で言えば、弘法大師のような感じだ。イエスの復活は、キリスト教では神の恩寵によるものと説明するのだろうけれど。

 

ディディモのトマスは、イエスの釘跡を見て、手まで入れないとわからなかった。

肉体には永遠の性質はないので、使徒にここまでさせて信じさせようとしたのは、人間の持つ潜在的能力の無限性を披瀝する一方で、人間というのは、肉体をまとった人間である以上は、どんなにすばらしい超能力を駆使できる者であっても、死を迎えねばならないので、永遠性というものは、肉体には属していないことを示したのだろうと思う。

 

結局のところ、超能力がいくらできても、永遠の命とは何にも関係がない。復活するほどのパワーがあっても、人間のはかなさからは逃れられないということを見せてくれたのだろうと思う。しかしディディモのトマスは、まだ超能力のすごさに関心があったということになろう。

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西洋人の疑い深さと心的圧力

2023-02-14 07:42:37 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎三位一体が四位一体に変容

 

聖母被昇天は、19世紀に無原罪のお宿りがカトリック教会に認められ、さらに1950年に一歩進めたものだった。C.G.ユングですら聖母被昇天というのは、神聖結婚(天国と地獄の結婚)の重要な要素であるにもかかわらず、肉体自体が聖なるものに転化するという望みを捨てていないことに驚かされる。これは、彼が錬金術が黄金という物質を最後の最後まで追い求める姿勢が連綿として変わらないことに影響を受けてしまっているせいかと思う。

 

歴代錬金術師の中で、錬金術の目的が黄金変成でなく、悟りを求めるものだという見解に立っているのは意外に少ない。それが証拠に無数の錬金術師は、一生の間、全財産を費やし薪・石炭などの燃料を買い水銀や硫黄などの素材を集め、実験に継ぐ実験を繰り返し、最後は文無しに陥るのが常だった。

ユングはそうした例をいくつも見ているから余計に肉体や物質自体が聖なるものに転化するという奇蹟を信じていたのだろう。

 

イエスの弟子トマスは、イエスの槍で破られた脇腹に手を入れさせてもらってようやく信じた。その姿勢を科学的とか疑り深いというのはたやすいが、その心性は西洋人の深いところに根差すものであり、それが産業革命以来の物質文明発展の原動力になったが、むしろそれは、神、聖なるものを素直に直観しにくいという心性と裏腹であるように思う。

 

よって、キリスト教では最初に原罪という自分は罪人であるという心的プレッシャーを置かずには、最後の悟りまで突破できないという特徴がみられるのではないかと思う。

 

釈迦は、馬の中でも実際に鞭に叩かれなくても鞭を見せるだけで走るのが良い馬だと譬えたが、そういうこと。

 

聖母被昇天は、素朴なキリスト教信者にあっては、マリアは肉体のまま死亡したのか、エノクとエリヤのように生きたまま天に上ったのかという疑問や、肉体のまま死亡したのであれば、苦痛を感じつつ死んだのかなどという疑問などいくらでも突っ込みポイントが出てくる。

 

だが聖母マリア被昇天の本丸は、完璧な四位一体が成ることで、三位一体が四位一体に変容し、えり好みをしない、反対物の一致、聖なる結婚が公式にあることを認めたということではないのだろうか。

 

       聖霊(鳩)

キリスト    +     父なる神

       聖母マリア      

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