アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

静御前は愛に死し、祇王は仏を見る

2023-08-03 19:33:04 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎仏もむかしは凡夫なり

(2022-05-25)

 

2022年5月22日のNHK 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝以下が鶴岡八幡宮に参集し、義経の愛人にして絶世の美女静御前(石橋静河)の辞世の舞を観覧した。その装束は、水干に、立烏帽子、白鞘巻と男装であって、歌って踊る。それだけでも当時はインプレッションのあるものであったろう。宝塚歌劇団の男役の走り。

 

仇敵となった鎌倉方の有力武将が居並ぶ前で、義経が彼女と「しづや、しづ」と交わした睦言を披歴して、悲恋を慨嘆したことは、女が恋に死ねることを示す。(しづやしづのおだまき繰り返し、昔を今になすよしもがな

:おだまきの糸を巻き戻すように、義経様が「しづや、しづ」と恋しく呼んでくれた当時に時間を巻き戻したいものだ。)

 

ところで平清盛の愛人だった祇王。祇王も白拍子だったが、新たな愛人の仏御前に清盛の寵愛を奪われ、憮然としつつ清盛の何回もの呼び出しにすねつつ応じた今様。

 

仏もむかしは凡夫なり

我らも終(つひ)には仏なり

いづれも仏性具(ぶっしょうぐ)せる身を

へだつるのみこそ、かなしけれ

 

寵愛のことしか胸中になかった彼女でも、「釈迦ももともと凡夫であって、私たちもついには仏となる」と歌うほどに、これが社会通念だったことに驚かされる。

 

現代社会もこの程度のことが社会通念となれば、社会のギスギスは大きく変わると思う。平安時代から鎌倉時代初期と言えば、方違え、陰陽道全盛で、霊が病気や異常気象などの現象に作用するなどの軟弱スピリチュアルの時代と見られるが、むしろ現代人より人としてまともだったかもしれない、と思う。

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一休という名の由来

2023-08-03 19:28:44 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎祇王寺

(2005-11-06)

 

京都の祇王寺に参ると次のような説明を目にする。

「平清盛の寵愛を受けていた祇王は、仏御前に寵愛が移ったことにより、清盛に捨てられ、祇王は母と妹と共に出家して、この祇王寺に移り住んだ。

後にやはり清盛に見限られた仏御前も祇王を追い、四人の女性はここで尼としての余生を過ごした。」

 

そこで「女所帯のわび住まいの場所なのだろうが、出家して納得したところがあったのだろうか。そういえば、平安文学に、悟りの概念などなかった」などと感慨を新たにしたものだ。

 

さて一休が25歳の時、ある日盲目の琵琶法師が、平家物語の祇王が清盛の寵愛を失うの段を歌うのを聞いている時、公案の『洞山三頓の棒』のことで突然悟るところがあった。このことで、師匠の華叟は、一休の二文字を与えた。(祇王の悲話と公案にはストーリー的に何も関係はない。)

 

『洞山三頓の棒』の公案とは、これ。雲門、洞山とも中国の有名な禅匠。曹洞宗の洞の字は、洞山の名から来ている。雲門は、肝心なことをわかっていない禅僧が来ると、親切にも棒で20発たたいてあげた(棒を食らわすとは、このこと)。

 

******

「雲門は洞山が初めて参じたとき、いきなり尋ねた。「何処からやって来られたか」

洞山「査渡からやってきました」

 

さらに「この夏(安居)は何処で過ごされたか」

「湖南の報慈寺でございます」

「いつそこを出てこられた」

「8月15日であります」すると、

「お前さんに三頓の棒(六十棒)を食らわせてやりたいところだよ。」とすげない応えが返って来た。

翌朝洞山は雲門和尚の室に行って、「昨日は六十棒を食らわせたいと言われましたが、私のどこが間違っているのでしょうか」と尋ねた。すると雲門が言った。「この大飯食らいの能無しめ、江西だの湖南だの、お前はいったい何処をうろついていたのじゃ」

洞山はその途端に大悟した。」

*****

 

大悟するしないは、薄皮一枚の差とは承知しているが、そこに飛び込む勢いがないと飛び込めるものではないのではなかろうか。現代はテレビやブランド漁りを始めとして、その勢いを消耗させるものがあまりにも多い。

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涿州の洪水

2023-08-03 07:02:54 | 時代にFace it

◎ある青年が泣きながら嘆く

 

涿州楼桑村は、三国志の劉備玄徳の故郷であり、また関羽と張飛とで桃園の誓いを結んだ故地。涿州市は三本の河が流れ込むところだそうで、今般の水害では、全市避難を求められた由。youtubeでは、一人の青年が泣きながら惨状を訴え、徒歩で小さな荷物を持った老若男女が行列して避難する様子や大きな工場群を見渡す映像からは多数の「助けてくれ」の声が聞こえ、また夜間の幹線道路には無数の避難車両が渋滞でストップしている状態が上がっている。

https://www.youtube.com/watch?v=rn74TVHRA2M

凌晨涿州幾十萬居民全部撤離,幾公里的車龍全都堵在高速口,直播救援被封,跑到哪裡淹哪裡,現在只有雄安是最安全,快叫如來佛祖|洪水失控流向北京轄區)

 

洪水によって、治水もぎりぎりの判断になれば、ある低い地域を犠牲にして、ある地域を助けるということはあり得るのだろうが、実際にそういうことがあるというのは、恐ろしいものである。

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華叟宗曇

2023-08-03 07:01:38 | 達磨の片方の草履

◎冷たい灰をかき混ぜて炭火を見せる

 

自殺未遂をして、傷心癒えきらぬ一休は、求道の志やみがたく、22歳にして堅田のやはり貧乏寺の華叟宗曇の祥瑞庵の門を叩いた。華叟はなかなか入門を許さず、一休は四、五日門前にあったが、ある朝華叟の目に留まり、「すぐに水をぶっかけて、棒で叩いて追い出せ」と弟子に命じられたものの、夕方には入門を許された。

 

華叟宗曇は、大徳寺の大燈国師の系譜に連なる師家。一休は、堅田の岸辺の葦の間やあるいは知り合いの漁師の小屋を借りて徹夜で坐禅を続けた。食事も一日二回とれなかったので、その漁師からもらったもので食いつないでいたらしい。なおその漁師の妻は鍋や釜をかきならしては夜坐の邪魔をした。

また華叟が病気になった時、窮迫のあまり一休は、香包や雛人形の衣装などをこしらえては京都で売って、薬代を稼いでいた。

ある日、一休は華叟に命じられ薬草を刻んでいたところ指から血が出て作業台を赤く染めた。華叟はこれを睨みつけて、お前の身体は頑丈だが、手の指は軟弱なことよと言った。これを聞いて一休の指はますます震えたが、華叟は微笑んだ。

一休25歳。平家物語祇王失寵の段で小悟。

 

一休27歳の夏の夜、鴉の声を聞いて悟るところがあり、すぐにその見解を華叟和尚に示した。華叟は「それは羅漢(小乗の悟り)の境涯であって、すぐれた働きのある禅者(作家の衲子)にあらず」といわれた。そこで一休は「私は羅漢で結構です。作家などにはなりたくない」といった。すると華叟は「お前こそ真の作家だ」といい悟りを認め、偈を作って呈出するようにいった。

「悟る以前の凡とか聖とかの分別心や、怒りや傲慢の起こるところを、即今気がついた。そのような羅漢の私を鴉は笑っている。

前漢の班婕妤は昭陽殿に住んで、成帝の寵愛を受けたが、趙飛燕姉妹のために寵を失った。その際、彼女の美しかった顔は、寒い時の鴉にも及ばないと嘆くようなことになった(それは羅漢と同じ)。」

 

その後華叟は、一休に印可(悟りの証明)を渡そうとしたが受け取りをことわったので、彼の同席のもとに一休の縁者の橘夫人にこれを渡した。

華叟は、腰痛がひどく、おまるも自分で使えないほどだったので、弟子たちが交代で下の世話をした。弟子たちは竹べらで始末したが、一休は素手で始末した。

一休は、大燈国師にならったのか以後放浪の風狂(聖胎長養)の一生を送る。一休35歳の時に華叟は亡くなった。

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