アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ダライ・ラマとアメリカ

2023-08-27 06:37:09 | 密教neo

◎弱腰な対応に終始

(2010-09-14)

 

中国がチベット侵略の意図を明白に見せたのは、1950年7月の昌都の北東200キロにある小さな国境の町を中国人民解放軍が制圧したのが始めとされる。

以後正規戦、ゲリラ戦を織りまぜて、特にアメリカ・CIAの支援を受けながら、チベット全土で、中国に対する抵抗が行われていた。既にチベットからは外交主権が奪われていたが、ダライラマは中国との直接交渉によって事態を打開できると信じ,北京まで交渉に行ったが、結局その交渉は失敗に終り、ダライ・ラマ自身が1959年インドに亡命するまでチベット領内での散発的な軍事的抵抗は続いていたのであった。

チベット側の全土を挙げての組織的な軍事的抵抗計画に対して、終始拒否権を発動し続けたのはダライ・ラマであって、彼の側近達ではなかったようである。これは、いままでの坊さんが書いたものばかり読んできた私にとっては意外だった。

1959年のダライ・ラマ脱出の直前に、中国によるダライ・ラマ誘拐計画が実施されようとしていることにチベット側が気がついて、それを阻止しようとしてラサの夏宮ノルブリンカに集まった三万群衆と人民解放軍との間の騒乱が発生した。その最中に、ダライ・ラマのラサ脱出が敢行されたものだった。これも知らなかった。この脱出行にもCIAの支援があった。

チベットがここまでジリ貧になったのも、1959年までの10年間、ダライ・ラマが正面切った中国との軍事的対決姿勢を打ち出してこなかったことに原因があるように見える。しかしその姿勢は宗教者としては当然のものであるから、その是非は言えない。

 

1955年、毛沢東が北京を離れるダライ・ラマに別れの言葉を述べた。

『「宗教は毒だ。ひとつには僧侶や尼僧は独身でいなければならないから、人口が減る。ふたつ、宗教は物質的な進歩を拒絶する。」

この言葉で、ダライ・ラマの目からうろこが落ちたらしく、ダライ・ラマはのちに毛沢東のことをこう記している。

「結局のところ、あなたは法(ダルマ)を破壊する人なのです」』

(謀略と紛争の世紀/ピーター・ハークレロード/原書房P394から引用)

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就活で使える人物を見る方法

2023-08-27 06:29:28 | 時代のおわりneo

◎悪党小人相手の技術

(2008-12-20)

 

呂氏春秋には、六験の他に八観という人の鑑定法もある。

 

1.貴ければ、その進むるところを観る

  地位や身分が上がった時に、どういう人物を推挙してくるか、どういう人物を尊敬しているかを観る。全体的な人間観、人生観がわかる。

 

2.富めば、その養うところを観る

  金ができれば、ペットや女や子分を養うものだが、それを観る。その組織が将来栄えるかどうかはこれでわかる。

 

3.聴けば、その行うところを観る

  善なることを聞いたら、実際にそれを実行するかどうかをみる。何か適当な理由をつけて善いこととわかっていてもやらない人は多い。善事を為すには、根底に有る志があるものだと最近つくづく思うようになった。

言うは易く行うは難し。

 

4習えば、その言うところを観る

  習熟すれば、人はそれについて語るもの。その話を聞けば、どういう考え方の組み立てをしているかわかるもので、その人物の軽重、広狭、善悪、清濁を測ることができる。

 

5.止(いた)れば、その好むところを観る

 仕事が板について、一人前になってくれば、何を好むようになるかで、人間の幅や志向がわかるもの。立派な奴なのか、つまらない奴なのか。誠実な女なのか、いい加減な女なのか。

 

6.窮すれば、その受けざるところを観る

  人は貧窮に陥れば、金のため、食うためには、なんでも受けてやってしまいがちなもの。そうした中で、最後の一線である何を受けないかを見る。人間の尊厳を試す見方であり、冷酷なしうちだと思う。

人が人をそこまで見抜く必要があるとするところに中国の風土の過酷さを感じざるを得ない。

 

7.賤なれば、その為さざるところを観る

  人は落ちぶれると、恥知らずなことでも何でもやるようになりがちである。そこで、最後の人間としての誇りがどこにあるかを観ようとするもの。

 

就職活動ではこんな場面はないだろうが、人生場裡には、心の準備ができないまま、こんなシーンに出くわしてしまって、観られる人がいる。

 

8.通ずれば、その礼するところを観る

 とんとん拍子に出世していけば、何を大切にするかを観る。それは金だったり、女だったり、威張り散らして権力を誇示することだったり、勲章をもらうことだったりする。

 

さすが中国儒教3千年の歴史であって、このような小技にはノウハウの重篤な蓄積を感じさせられる。

 

しかし共産中国に至っても、毛沢東ですら「政治の秘訣は、悪党小人をいかに支配し操縦することだ」と言わざるを得なかった。つまり、それほどに中国の民衆は食えない者ぞろいであるがために、こんな人物の見方を持ってこなければならなかったのである。

 

昨今の日本の大衆も、だんだんそうなりつつあるところがあるのは、皆様お気づきのとおり。儒教でいう利、最近でいえば自分のメリット、自分の権利ばかりかざす社会だと、中国的なせちがらい社会になりがち。

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就活に役立つ人物を見る方法

2023-08-27 06:23:39 | 時代のおわりneo

◎人を見る目の拠って立つところ

(2008-12-19)

 

採用では、今も昔も人物を見るのが基本で、それは変わらないところがある。

呂氏春秋にある六験では、

1.之を喜ばしめて以てその守るを験す

  人を喜ばせて、会社の立場など、人として守るべきところを守れるかどうかを見る。

2.之を楽しましめて以てその僻(へき)を験す

  人を楽しませてそのかたよった好みを見る。楽しんでいい気分になると人はその好みを見せるもの。変な嗜好はそんな時に明らかなる。

3.之を怒らしめて以てその節を験す

  人を怒らせて、感情を爆発させて、どの程度抑えるべきところを抑えられるかを見る。かっかとして我を忘れるようではだめ。

これは面接の時にいやみをちょっと言う手で、よく使われるもの。

4.之を懼れしめて以てその特(独)を験す

  人は恐れると、びくびくして何かにすがりたくなる気分に陥るもの。窮地にあっても、どの程度しっかり独立した行動ができるかどうかを見る。

5.之を哀しましめて以てその人を験す

  人は悲しい目にあうと、その人のすべてが現れるもの。正面からその悲しみを受け入れられる人、他人のせいにする人、酒などに溺れる人、さまざまとなる。

6.之を苦しましめて以てその志を験す

 就活の面接ごときでは、苦しむ場面はないだろうが、艱難辛苦の場面でこそ、その意志力の堅固であるところが試される。組織の成員にとってはとても貴重なファクターである。

(参考:人物を修める/安岡正篤/竹井出版)

 

私も昔は、人相や手相も含め、こういうのに非常に関心を持っていた時期があったが、所詮こうしたものは、小手先の技術、枝葉末節ではある。幹たる部分がしっかりしていないとどんな悪事もやる。組織に役に立つ人間であるかどうかと、人間としてまともかどうかは全く別の問題であることは、昨今のいろいろな痴漢や万引などの軽犯罪事例が示している。

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中国渺々

2023-08-27 03:26:23 | 時代にFace it

◎鼓腹撃壌という地上天国の時代もあった

 

中国が日本のようにあらゆる地に神仏の薫香がして、人も貴賤を問わずその所作に神仏の貴さを宿している国になることは望外としても、中国が少なくとも神仏へのリスペクトが感じられるくらいの国にすらならなかったのは何故だろうか。

 

春秋戦国時代以降、中国には長い宗教の歴史がある。儒教を宗教と見れば、儒教は、社会に秩序、君子以上に道徳をもたらすという点で大いに影響があったが、神なるものは易経には出てくるが、はっきりと大衆に意識できるような形はなかった。その不足した部分を道教が補ってきた。

ところが、20世紀に共産主義政権となることで、儒教も道教も仏教もまとめて排斥されることになってしまった。

 

聖者列伝ということで言えば、孔子、老子、荘子、達磨以下の禅の祖師たち、道教系でいえば呂洞賓や列仙伝、神仙伝に登場するような熟達の道士が多数いた。

これだけ多数の聖者が投入されてきた割には、清朝で阿片による亡国を招き、結局現代のような無神論の共産主義政権の樹立を招くことになった。

歴代各王朝は、道教崇拝の場合がほとんどで、仏教崇拝の王朝は例外的に存在しているにすぎない。だからと言って例えば唐朝が道教崇拝であると言っても、道教の窮極である昇仙を出神の延長と理解して丹薬を皇帝が服用したわけではあるまい。またその信仰はせいぜい君子の段階にとどまり、農民庶民までもが昇仙することを願った風でもない。

 

このように書くと中国・支那はまるで宗教にとって有史以来砂漠の如き状態であったかに思えるが、意外にも古代聖王の堯、舜の時代こそは、地上天国が実現していた時代だった。すなわち鼓腹撃壌の時代のことである。

 

このように中国に宗教が根付かない原因について、ダンテス・ダイジは、中国が生きていくことが非常に厳しい環境であることを指摘している。

下世話な言い方では、宗教は旦那衆の道楽と言われ、生活に余裕がないとできないものとされてきた。ゆえに中国では、君子以上でなければ、求道などできないとされ、一般庶民は明日の食糧に悩むことの繰り返しで、求道どころではない。禅僧趙州の趙州録などを見れば、庶民の困窮ぶりがよくわかる。中国では、古代を除き一貫して庶民が宗教に打ち込める生活条件にはなかったのだ。

そこに注目して中国共産党はまず全国民に飯を食わせることを目標とした。それはやがて達成され、都市に大廈高楼が立ち並ぶ現代になって、今度は共同富裕などと言い出したが、スーパーリッチは多数出現する一方で貧富の差が開き過ぎ、無数の貧困者を産んでいる。もっとも模範兵士だった雷鋒に学んだ人々は、富を過度に集めることなどしなかっただろう。

 

食べられるようになれば、人は無形の価値を求めるようになるものだが、その流れに掉さして、あくまで有形の価値希求を国家体制として推し進めるのだから、無理にもいつか限度があろう。

おそらくは、全国民が食べられるようになった時期が、中国での宗教復活のチャンスだったのだろうが、共産主義ではもともと「宗教は阿片」と決められており、神仏の出る幕はなかった。

道元は、『花は愛惜に散り、草は棄嫌に生(お)ふるのみなり』(花は人に惜しまれつつ散るが、雑草は嫌がられつつ生える。)と言ったが、中国でも花は咲く。中国では、神仏、宗教という花は稀に咲くが、根は張れなかったのだ。

 

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