◎この世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面すること
ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。
『渡辺「さっき言ったね、普通の宗教のメソッドの悟り方っていうのは、機が熟してないと起こらない?」
ダン「うん。全く偶発的に起こる。」
渡辺「偶発的?」
ダン「うん。」
渡辺「起こるだけの素地というか、経験ていうものがあるってことでしょ。」
ダン「もちろんある。それは、それに機が熟するというよりはね、その人が本当にこの世の仮の姿というのを認めてしまう。認めざるを得ないような事態に直面したっていうことだ。
そういう時は、本当にものすごくそれはきつい。最初は。きついけど、必ずその人の情熱が、本当にこの世のどうしようもなさっていうのをさ、簡単に認めるような人でなければないほど、つまり迷いが大きければ大きいほど、 必ず素敵な世界であったっていうことを気付く。」』
(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P55から引用)
ここでは、悟りがどのように起こるかを、微妙な言い方で語っている。
つまりその人が迷いが大きい人であって、本当にこの世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面する場合に悟りが起こるとする。それは、そのような事態が起こっても、誰もが悟るわけでもない。
それを承けて考えてみると、
迷いが小さい人の場合、行く先は次のとおりになる。
①元の社会的常識世界に退行していく
一方迷いが大きい人の場合、行く先は次の三種のどれかになる。
①元の社会的常識世界に退行していく
②発狂する、自殺する
③悟りを開く
翻って、例えば長年神の来臨を待望した人が、いざ神が不意に来臨した時に寝過ごしてしまうなどというのは、「起こることは起こったが、何が起こったかは分からないままだった。」という風に説明されてしまう事例の一つなのだろう。
なぜそのようなことが起こるのか。