9・11テロ「歴史の必然で起きた」 自民・石原幹事長(朝日新聞) - goo ニュース
今日、NHKの政治討論番組で石原幹事長が鉢呂氏辞任について話していた。
いっていることはまともだと思った。
その石原幹事長が、こんなことをしゃべっている。
一般の人が呑み屋で話すのならまあいいとして、党の幹事長としてはいけないでしょう。
あれから10年たったんですね。
いま10年前の9月11日の九想話「アメリカで同時テロ」を読んだ。
10年前は楽家があったんだ。
そして私は肥さんと呑んでいた。
そのとき勤めていた会社が2003年7月で閉鎖になり、私は福祉施設に勤めることとなった。
その福祉施設とは、10年前に楽家で話していたTさんの作った施設だ。
何年後かに楽家のマスターとママが別れて、マスターが新所沢を出て行った。
楽家のマスターは東京で立ち呑み屋をやっていると聞いている。
そしてママが癌で亡くなって、楽家の店が肴やになった。
2007年1月、私は福祉施設の実質経営者とケンカをして辞めた。
福祉施設を利用して金儲けをしていることが私は厭だった。
無職になり職安通いを3ヶ月したあげく労働条件の悪い会社に入った。
55歳にもなると、どの会社も面接すらしてくれない。
足場機材をレンタルする会社で、私は1日中フォークリフトを使って重い物を運んだ。
そんなところでも私は仕事があるだけいいと我慢した。
ところが膝を傷めてしまった。
整形外科の医師が今の仕事を続けていると歩けなくなる、といった。
歩けなくなるのは厭なので仕事を辞めるほかなかった。
次に以前の会社で一緒に働いていた友人の紹介で派遣会社に入った。
そこからホンダ車のタイヤの組み立てをする会社に派遣された。
そこでの仕事は、コンベアで流れてくるタイヤホイールにセンサーを付ける仕事だった。
1日立ちっぱなしだが、重い物は持たなくてすんだ。しかし、これが難しい。
自動機でセンサーを取り付けるのだが、手でかげんしないとセンサーがすぐ壊れた。
2週間ほどして私はマスターしてホンダの社員の見てる前での試験に合格した。
ところがその仕事はやる人がいるので、他の仕事をやってくれということになった。
それで次にやらされたのが、ベルトコンベアのはじめの所にタイヤを置く作業だった。
昼から深夜まで8時間、重いタイヤを持って4段とか5段に重ねて置く仕事だった。
膝を傷めて足場の会社を辞めたのに、これでは意味がなかった。
私は膝が痛くなり、やむなく派遣会社を辞めた。
それで見つけた仕事が警備員だった。
立っているだけでいい。でも24時間勤務でした。きつかった。
今振り返って思うのですが、日本に仕事がないといっても働こうと思えばあります。
辛い仕事しかありませんけどね。
健康だったら仕事はできます。
私は、膝と腰を傷めているのでもう肉体労働はできなくなりました。
この10年間の九想話には、こんなことが書いてあります。
昨日の「久米宏 ラジオなんですけど」(TBSラジオ午後1時~)で、
「10年後のあなたは何をしてますか?」というのでメールを募集していた。
私もちょっと考えてみた。
どう考えてみても私は生きていないでしょうね。
私は69歳の自分を想像できません。