香原崎浄寛(かわらざききよひろ)の道場に集まった農民・遊び女・武士からいろいろ親鸞に質問が飛ぶ。
「おれは、かだいっぽうの脚が不自由で、杖つかねえど歩げねえ。
そんで、雨の日なんか、痛みがひどくて、夜も眠れねえんだ。念仏すっと、この脚よぐなっけ」
「亭主の大酒と浮気は、なおっけ」
「念仏は一体、なんのタシになんだっぺな」
「みんなしていっしょに念仏すんのは、おもしい。そんで気散じにもなっぺ。
けんども念仏すっと商売繁盛すんのげ、親鸞さま」
「おれの家は貧乏で、借銭がふえるばっかしです。こもままじゃ、息子や娘を人買いに売んなくちゃなんねえ。
念仏すっと、暮らしが楽になんでしょうかね」
「後生のごとは、えれぇ者(やろ)らが心配すりゃいいんだ。
おれらには、死んだ後のごとなんか、どうでもいいべよ。きょう一日(いじんち)、
明日一日、なんとか、大丈夫(だいじぶ)にやっこどが一番だっぺよ」
香原崎浄寛が親鸞にきく。
「親鸞どのにおたずねする。念仏をすれば、病はよくなるのか」
「よくなることは、ありませぬ」
親鸞が答える。
「では、かさねてきこう。念仏をすれば貧乏人の暮らしが楽になるのか。商売は繁盛するのか」
「いいえ」
「ふむ。では、亭主の大酒はとまるのか。浮気はやむのか」
親鸞はだまって首をふった。
「それでもだめか。では、身を売ってあわれな暮らしをしている女の、運命が変わるのだろうか」
「わかりません」
「あれは、わたしが九歳のときのことであった」
親鸞は道場内にぎっしりつめかけている人びとにむかって話しだした。
「当時、わが家の父は家出して行方知れず、母は病で世を去り、
幼いわたしたち兄弟は、伯父に引きとられて養われていたのだ。
しかし、伯父の家でも幾人もの孤児(みなしご)を育てる余裕はなかった。
そこで、縁あって白河あたりの寺にあずけられることとなった。
稚児僧として、一から仏門の修業をはじめたのだ」
その寺にはいってまもなく、寺のえらい坊さまから、
「いまから急ぎ比叡山の横川(よかわ)の宿坊まで荷物をとどけてこい」といわれた。
比叡山は百万坪以上の境内に東塔、西塔、横川の三つの寺域があって、昼なお暗き深山幽谷の地である。
寺には先輩の僧が沢山いたが、だれも恐れをなして引きうける者がいなかった。
それで最後、親鸞にお鉢がまわってきた。そして、親鸞は重い荷物を背おって、比叡山にむかった。
やがて途中で夜になった。最初は月の光をたよりに山道をたどっていったが途中から雲がでて、
月の光が消えるとあたりは真の闇だ。
そして、どこまでいっても、目ざす横川にはたどりつかない。背中の荷物の重さが骨身にこたえた。
草鞋の緒が切れ、いつしか裸足になっていた。
岩にぶつけた指から血がふきだし、荷物が肩に食いこんで体が思うように動かない。
親鸞は闇の中で一歩も前に出られなくなった。そのとき生まれて初めて真の恐ろしさを感じた。
思わず泣きだしてしまった。
「そのとき、空から青白い光がさしてきて、あたりをくっきりと照らしだしたのだ。
雲間から月があらわれたのだった。
月光は信じられないくらいの明るさで、わたしのまわりを照らしていた。(略)」
「月の光があたりを照らしたからといって、背おっている荷物が軽くなったわけではない。
遠くに横川の燈(ひ)が見えたからといって、そこまでの道のりが近くなったわけではない。
荷の重さもかわらない。歩く道も近くならない。だが、わたしはたちあがり、歩き出すことができた」
「つまらぬ思い出ばなしをしてしもうた。(略)
わたしは物心ついた頃から、ずっと心に闇を感じて生きていた。
母と子供をすてて家出した父をうらみ、いつもけわしい目をしていた母をおそれていた。
居候の身をはずかしく思い、弟たちを足手まといと感じる自分を憎んだ。
比叡山で学んでいたときは身分の高い学生(がくしょう)たちをねたみ、
荒々しい堂衆、僧兵をうとんだ。さまざまな修行のはてに、
仏を見出すことのできなかった自分にも絶望もした。心は黒々と底知れぬ闇にとざされていた。
法然上人に出会ったのは、そんなまっ暗闇のただ中にいるときだった。
しかし、わたしは、ただ念仏せよ、という上人の言葉を、そのまま受けとることはできなかった。
百日間ずっとその言葉をききつづけた末に、突然、月の光に照らされたような気持ちになったのだ。
よろしいか、みなの衆。念仏をしても、背おった荷の重さが軽くなるわけではない。
行き先までの道のりがちぢまるわけでもない。だが、自分がこの場所にいる、この道をゆけばよい、
そしてむこうに行き先の燈が見える、そのことだけでたちあがり、歩きだすことができた。
念仏とは、わたしにとってそういうものだった」
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上に書いたものは、五木寛之著「親鸞 激動篇 山と水と空と」の後半の部分です。
信濃毎日新聞の7月末あたりに読んだものです。
私は、五木寛之が、親鸞の念仏をどのように描くのかなと興味を持って「親鸞」を読んでいた。
私は、そもそも宗教というものを受け入れられない人間です。
二十歳前後から宗教には興味があり、私なりに勉強した。
しかし、納得のいく宗教にぶつからず現在に至っている。
そんなこともあって私は今年はじめから連載された「親鸞 激動篇」を読んできた。
五木寛之がどのように、親鸞の念仏を書くのかということに心惹かれた。
念仏=月の光 (こう書いてはまずいのかな?)
でも、納得できる。
だが、私は、こうなんです。
芸術(音楽・絵画・文学など)=月の光
私は、いつになっても宗教には、たどりつけそうにありません。
それにしても五木寛之の“茨城弁”はうまいですね。
茨城に生まれた私としては、合格とします。