国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 陸上自衛隊はなぜ攻めてこなかった?

2006年08月14日 | ロシア・北方領土
●軍事評論家=佐藤守のブログ日記 2005-07-20 サハリン(樺太)を我が統治下に!
今朝の産経新聞は「日本のエネルギー供給源として期待されるロシア・サハリン沖の原油天然ガス事業が,鯨問題で思わぬハプニングに直面している」と報じた.鯨の繁殖地を迂回するためコストが増すという.日本からは三井物産と三菱商事が出資しているそうだが,追加負担が4500億円以上になるという.高い買い物にならねば良いが…と心配になる.

私は昭和14年8月に樺太の豊原市(現在のユジノサハリンスク)で生まれた.父が樺太庁の逓信課に勤めていたからである.昭和15年に,極寒の地樺太を離れて,九州に移動したため父はシベリア送りを免れたのだと思う.生まれた土地を全く知らなかった私は,4年前に機会を得てサハリンを訪ねた.いわば60年ぶりのセンチメンタルジャーニーであった.

羽田から函館に飛び,函館からはサハリン航空のターボプロップ機・An24で約2時間,ユジノサハリンスクに着く.この時は到着後マイクロバスで一気に北上し,旧敷香に一泊,翌日早朝から北緯50度の旧国境まで進出した.国境線にはソ連軍が南下した地点として記念碑が立っていた。頑強に抵抗した我が軍であったが,8月15日に『停戦命令』が出された以降の戦いは,樺太南部全域で悲劇的な戦いとなったことはよく知られている.停戦すべく交渉のため軍使を派遣しても,ソ連軍は軍使一行を銃殺し攻撃を止めず,真岡等では住民が悲惨な目にあっているのを見て、第88師団の数個大隊は、師団の停戦命令を無視して戦闘を継続した.豊原の,樺太庁で停戦交渉が行われたのは,8月27日であり,その後ソ連軍は北方領土まで侵攻した.米軍が北方領土を占領している,と思っていたソ連軍は,米軍が不在である事が分かると,直ちに侵略したのである.

思い出すのも腹が立つが,サハリンの現状は,全くと言って良いほど『進歩』しておらず,父が残してくれた詳細な日記に張られている当時の写真や絵葉書の方が,相当文化的な施設が整備されていて,日本人が懸命に開発に励んでいた事がはっきりと証明されている.

事実,首都のユジノサハリンスクを一歩郊外に出ると,そこはまさに『スラム』の連続であった.7時間以上もかけて北上する『幹線道路』は殆ど未舗装で,あちらこちらに事故で大破した車の残骸が,まるでサハリ砂漠に点在する動物たちの死骸のように転がっている.

旧敷香市街も陰鬱な廃墟のような姿であった.旅行社から「トイレットペーパー持参の事」と言われ,耳を疑ったのだが,ホテルがない町だとかで,旧王子製紙の工場内の社員寮に雑魚寝した.

北緯50度線までの進出も,まるで荒涼たる原野風景であったが,そんな藪の中で,まるで名画『ミレーの落穂拾い』を想像させるように,ぼろを纏った母娘が薪を拾っている.老婆が,バケツを持って道端にたたずんでいて,悪路を通過する石炭運搬トラックからこぼれる石炭を拾っているのである.これがあの米国と覇を競った超大国の真実の姿であった.

帰路,小休止のため立ち寄った村の道端で、女達が茹でたタラバガニを売っていた.一匹500円であったが、彼女達の姿は実に哀れであった.彼女達をここからいきなり『銀座』に連れていったら,どんな反応をするどうするだろう?などと不埒な考えがよぎったが,その中に戦闘服を着た日本語が達者な男がいて,『なぜ自衛隊は攻めてきてくれなかったのですか?』と言ったという.

私は,あまりにも不潔な便所を見て気分が悪くなり,同行者唯一の御婦人と早めにバスに乗っていたから,直接彼の言葉は聞いていないが,尋ねられた青年が私に報告してくれたのである.つまり,自衛隊が『進攻』してきたら,適度に抵抗を示して後退し、沿海州から援軍が来る前に自衛隊に降伏する.そして日本領になった方が余程幸せである,というのである.

現代日本人の感覚からすれば,全く想像できない考えだが,私はある意味でスターリンから棄民としてこの地に追い出された,ロシア人達の本音ではないか?と思っている.

それから2年後の平成15年秋,再びサハリンを訪問した.この時は南部の真岡,豊原,大泊を巡る慰霊の旅であったが,2年前よりも若干品物が豊富になっていた.それは天然ガス事業のパイプライン工事が最南端の港湾である大泊まで進捗していたからだと思われた.工事にかかわる?アメリカ人村も建設されていて,2年前には想像も出来なかった『サービス精神?』もかなり旺盛になってきていた.徐々に『民主化』が浸透しているのである.その成果はホテルの対応,催し物などのサービス,挨拶などに表れていたが2年前にも敷香唯一というレストランでは,強烈なビートの効いた『アメリカ現代音楽』に,ロシア人たちが「しびれて」いて,ツイストに踊り狂っていたから,なんの事はない,アメリカは『文化』でソ連を征服していたのである.

二度目の時も,我々が泊まった駅前のホテルのレストランは,毎夜毎夜うるさいほどボリュームを上げてロシア人たちが踊り狂っていた.2度目の時の案内人は、残留韓国人で、私と同じく昭和15年2月豊原生まれの御婦人であったから,日本語、韓国語,ロシア語が達者で,樺太の実情が実に良く理解できた.

彼女は言った.「日本はアメリカについて行ったから幸せになって良かったね。共産国に占領された国は惨めよ」「北方領土は日本固有の領土である事は皆知っている.1960年代に,この島に送り込まれたロシア人が,石器時代のような惨めな生活に苦しんで『日本に返還すべきだ』と議会で決議した事があった.ところがどうした事か日本はそれを知って物資を援助した.そこでこの返還話は立ち消えになったが,日本は何を考えているんだろう,と言う話になった」「アジア人は良く働くがロシア人は働かない.今は中国人が大量に渡ってきて,百姓をしている.彼らは良く働く。今に中国人だらけになるよ」と言った.仲間が「日本は中国人犯罪で困っている.樺太も犯罪が増えたのでは?」と聞くと,彼女は「ロシア人の方が凶悪だから,中国人は何も出来ないよ.日本の男はだらしなくなったね」と言ったので,一同無言!であった.

樺太韓国人協会を訪問した時,同行者の中の青年が「皆さんも強制連行されたのですか?」と聞いた.「強制連行」の意味がわからなかった代表は,ガイドの婦人から解説を受けて「徴用でした」と答えたのだが,今度は日本人のほうが「徴用」の意味が分からなかった.

ガイドの婦人は「私の父は一旗組,炭坑労働者だったが,給料は郷里の10倍以上だったろう.ソ連軍が来てからは極貧生活になったが…」

父の日記にも,公務員の給料は,内地の1・8倍であったと書いてある.開拓に託した当時の日本政府の意気込みが感じられるが,満州も,半島も,台湾も,日本統治下であったところには共通していたのではなかったのか?あのまま,樺太も日本統治下であったならば,18世紀時代のロシア人母娘や,道端に立ち尽くす老婆のような住民はいなかったに違いない.スターリンは日本人が営々と築き上げた樺太の文化施設を破壊したばかりでなく,社会の進歩を60年間停止させただけであった.しかも,国際法違反,人道に対する罪を平然と強行した結果がこうなのだから,移住させられたロシア人は恨んでいることだろう.

サハリンの天然ガス事業は,今後どの様に展開するのか分からないが,恐るべき荒廃の地・サハリンで、哀れな棄民たちが些かでも人間としての最低限の『権利』を手にするきっかけとなれば良いのだが,人間性を無視されつづけてきた彼らが,現在の日本人の生活レベルに到達するのは,並大抵の事業ではないような気がする.

いっそ,我国が「実力」で取り返して日本統治下に戻した方が,住民達も喜ぶのではないか?と思ったりする.来月仲間達が三度目のサハリン訪問をする.私は、私の講演会が平河総研で計画されているので今回は参加できないが,帰国した仲間から話しを聞くのを楽しみにしている.
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20050720


●軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 陸上自衛隊はなぜ攻めてこなかった?
■陸上自衛隊はなぜ攻めてこなかった?
北朝鮮崩壊予測?を書いたところ、色々なご意見が寄せられている。中でも面白かったのは、陸上自衛隊が北朝鮮を「開放しては?」という≪忍緒氏≫のコメントであった。

2001年6月にサハリン(樺太)を視察したとき、面白いことを体験したことを思い出した。

羽田から函館に向かい、函館からロシアのおんぼろ飛行機に揺られて2時間、ユジノサハリンスク(旧豊原)に向かう。私は昭和14年(1939年)8月にここで生まれた、と父の日記には書いてある。60年ぶりの「センチメンタルジャーニー」だったのだが、各地を見て驚いた。とにかく、サハリンは昭和初期の日本統治下の「原風景」と思しき状態なのである。いや、はるかに日本時代のほうが活気があり、当時のほうが近代的な建物が多かったといえる。つまり、父の日記帳に張ってある写真や絵葉書などと比較して、あれから半世紀以上もたっているのに、日本時代のインフラが活用されていて、何の進歩もなく人民の生活は貧困この上ないのである。何が「人民の幸福」を優先し「差別なき社会建設」を目的とした共産主義か!と軽べつし、こんなイカサマを信じている日本人は、一度サハリンに住んでみるが良い、と思ったものである。

一気に国境(北緯50度)に近い旧「敷香」まで北上して、鉄格子がはめられ「危険(犯罪)防止のため」外から鍵をかけられた、トイレットペーパーもない、旧王子製紙の寮に泊まったのだが、これがかって米国と覇権を争った「ソ連」の実体か、と驚いたものである。

国境を視察して、再びタコ部屋に泊まり、翌早朝今度は一気に南下したのだが、途中旧「栄浜」で休憩したときのことである。

ようやく見つけた駅のトイレ?で、たった一人参加していたご夫人が用を足して、マイクロバスに戻ったのだが、あまりの不潔さに嫌気がさした彼女と、私も一足先にバスに戻っていたので、直接聞いた話ではないことをお断りしておくが、タラバガニを売っているロシア夫人たち、それを取り巻いているロシア人たちが、日本人のわれわれに話しかけてきていた。中に極めて上手な日本語をしゃべる、迷彩服の男がいて、本人は「森の番人だ」と自己紹介していた。とにかく酸性雨の被害がひどく、森林はいたるところ枯れて惨状を呈していたから、多分本当だったのだろう。

出発時刻になったので、どやどやと乗車してきた仲間たちが、「佐藤先生、彼(森の番人)がどうして自衛隊はサハリンに攻めてこなかったのか?というんですよ」と笑いながら私に告げたのである。

日本人のほとんどは「冗談」と捉えていたが、彼(森の番人)は真剣だったらしい。自衛隊が攻めてくれば、われわれは空に向けて銃を撃ちながら後退し、本土から援軍が来ない前に降伏する。日本に占領してもらったら、どんなに幸せになったことだろう」というのである。

ユジノサハリンスク(旧豊原)に着いて、夕食後のひと時、私は自分が生まれた病院だと父の日記に書いてあり、看護婦さんが玄関前で写っている写真と、大まかな地図を元に「高田病院」を求めて一人ホテルを出た。

薄暗い通りを歩いていると、売店らしき建物を見つけたので中に入ると、雑貨店であったが、生鮮食料品は品切れで、牛乳が少し、あとはタバコと酒が並んでいた。

お土産にウォッカを買おうと思い、女主人に見せてもらっているところに、みすぼらしいオーバーを着た紳士(日本風にいえば元校長先生的雰囲気)が入ってきて、いきなり小瓶のウォッカを指差して、私に「買うのは止めろ」というしぐさをする。後は彼の独演会になったのだが、身振り手振りを元に判断したところ、ゴルバチョフもエリチィンも全く信用できない。われわれは捨てられた!といっているらしい。そして「大瓶の方を買え」というのである。「店の“桜”か?」と思ったのだが様子が違う。彼はタバコを一箱買うと私に「大瓶」を勧めて店を出て行った。

女主人にわけを聞いて理解できた。私は「同じラベル」だったから、同じメーカーのウォッカだと思い、出来れば小瓶のほうが便利だと考えたに過ぎなかったのだが、女主人は、瓶の裏ラベルを指差して何か説明する。つまり、小瓶は「モスクワ製」、大瓶は「樺太製」だったのである。二人は、モスクワ製を軽べつしていて、樺太製の大瓶を勧めたのであった。

私も同意して大瓶2本を買って外に出て、再び病院探しに歩き出したところ、例の「紳士」に出会ってしまった。彼は私が「大瓶2本」を抱えているのを見て大いにご機嫌になり、再び演説を始めたのだが、ロシア語は分からない。そうする間に周りには人垣が出来始め、なんとなく不穏な感じを受けるようになった。

彼は英語とロシア語をちゃんぽんに演説するのだが、私は人垣が気になって仕方がない。「仲間が待っているから、ホテルに帰る」と言って解放してもらおうとしたのだが、彼は「ヤポンスキー、サトー(彼から名乗ったので、私も名前を教えた)、ハラショー」と大声で叫ぶ。

これまた独断と偏見で翻訳すると、「われわれはウラル山脈の東に住んでいたのだが、スターリンに追い出され、ここに住まわされた。ペレストロイカ何ぞでたらめである。すべてはクレムリンが富を独り占めしている(ものを袖の下に入れる仕草を大げさにした)」、ということだと理解した。そして最後に「ヤポンスキー、ハラショー、サトー、ハラショー」と叫ぶのである。

薄暗い通りには既に30人以上ものロシア人たちがわれわれ二人を取り巻いて、彼の演説を聞いている。聊か不気味になったので彼と握手して別れたのだが、彼は手を握って離さない。ついに肩に手を回されたから私も、ウォッカの瓶を抱えたまま、右手で彼と肩を組んだのだが、群衆は静かに見つめるだけであるからなおさら不気味である。

ようやく解放されて足早に離れると、後ろから「ヤポンスキーサトー、ハラショー」と大声で叫ぶ声がする。振り返りつつ手を振ったが、車道を日本製の中古車が私をつけてくる。中には4~5人の青年が乗っているから不気味である。

ホテルに無事帰り着き、仲間に報告したのだが、実に良い体験だった。

ところがこれには後日談がある。

帰国した後、都内の軍事研究会で同席した陸自の先輩と昼食中、私の体験談を言うと、先輩は「いつの話だ?」と聞く。そして「現役時代、北海道勤務中にお前と同じ体験をした」といって、次のように語ったのである。

自衛隊の部隊が所在する町には、どこでも「レポ(情報員)」が張り付いている。例えば表向きはパチンコ屋とか、焼肉屋、中華レストラン・・・などであるが・・・。

その「レポ」が会いたがっているから会ってみたらどうですか?と「専門屋」が言うので、その「監視の下」に夕食したところ、「レポ」は、私が樺太で聞いたことと全く同じことを言ったというのである。つまり、「陸上自衛隊に“樺太逆上陸!”してほしい」と言ったのである。当時は米ソ冷戦の真っ只中だったから、「謀略に違いない。冗談も休み休み言え、という気になったが、案外本音だったのかも知れんなあ」と先輩は言った。

私には「これ」が彼らの本音だと思えてならないのだが、外務省のラスプーチン・佐藤優氏の意見を聞きたいものだ。

聊か無責任のそしりは免れないが、≪忍緒氏≫が言うように、陸上自衛隊が「北朝鮮に乗り込んだら、軍の中から協力者が出て、金政権は崩壊」。こうして北を≪開放≫することが出来たら、韓国大統領はどんな顔をするだろう? 極東情勢は一気に面白くなるかも・・・などと思うのだが、日本人には、こんなシナリオはどぎつ過ぎて「冗談だ」としか考えられないだろうなあ、と思うのである。
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20060810

【私のコメント】
 樺太のロシア人の「 陸上自衛隊はなぜ攻めてこなかった?」との意見には正直驚かされる。その様な意見を持つ人も存在するのだろう。そして、その一方で従来のロシア的な「領土の広さ=安全保障であり譲歩すべきでない」との意見のロシア人もいるのだろうと思われる。というより、ロシア人の心の中に両方の意見が共存しており、人によってその均衡が異なるのだろう。ただ、冷戦というものが実は虚構であり、ユダヤ人と米国の軍産共同体以外は冷戦の解消を強く望んでいたことの証拠とは言えるだろう。

 スターリンが死亡した後の1956年には、北方領土返還交渉を巡るダレス国務長官の対日恫喝、スエズ戦争のどさくさに紛れたハンガリー動乱の鎮圧が起きている。これらは共に、冷戦を崩壊させようという反ユダヤ金融資本勢力の企みを潰す目的であったと考えられる。ひょっとすると1956年に冷戦は終結していたかもしれないのだ。そして、ユダヤ金融資本の命令でソ連が崩壊した後、ゴルバチョフが四島返還の提案を持って訪日したという情報もあるが、これが実現されなかったのは米国が容認しなかったことが原因なのだろう。その後、ユダヤ金融資本は発展する中国と領土問題で対立する日本の間でロシアを孤立させ、日本のような属国にしようと計画していたのだと思われる。

 しかし、今や米国の中東戦争は敗色濃厚となり、ユダヤ金融資本の世界支配は維持不可能となっている。それに替わってロシアが世界覇権の中心に乗り出しつつある。日露戦争以降の日露両国のユダヤ金融資本との苦しい闘争がやっと勝利を収めつつあると言えよう。

 北方領土返還については、この樺太ロシア人の意見を考えると賛成派も存在するのだと思われるが、ロシアは自国の国益と覇権のためにかなり大きな見返り(日本の都市ガス会社のパイプライン、日本の属国化等)を要求してくる可能性がある。このブログの記事は、石油価格が暴落しておりロシア人が生活苦に苦しんでいた時代のものであり、石油高騰で経済的に潤って世界覇権国になりつつある現在はかなり状況が変わっている可能性があると考えねばならない。
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