国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

シリウスの都  江戸・東京:家康はなぜ江戸に本拠を置いたか?関ヶ原の戦いの目的は?

2016年03月26日 | 21世紀の日本の進むべき進路
私は遥かに重要なある建造物が聖方位で建設されていることに気付いた。それは、皇居東御苑にある江戸城天守閣跡地である天守台、その東にある楽部庁舎、桃華楽堂、書陵部庁舎、そして少し離れた宮内庁庁舎である。また、多くの皇族が住む赤坂御用地の敷地の境界の多くも聖方位に基づいている。皇族の住居のいくつかは建物や進入路が聖方位に基づいているようだ。徳川家康は聖方位に基づいて江戸城に本拠地を置き、その後聖方位に基づいて天守閣を建設したのだと思われる。聖方位や真言宗僧侶による結界で江戸を防衛するという戦略だったのだろう。明治維新後も楽部庁舎、桃華楽堂、書陵部庁舎、宮内庁庁舎、靖国神社などの多くの施設が聖方位で建設されている。江戸・東京こそは聖方位の都、シリウスの都なのだ。栗本慎一郎氏は恐らくこの事実を示唆するために「シリウスの都飛鳥」を書いたのだと思われる。安土桃山時代の日本は他の東アジア諸国と同様に国際金融資本=西洋シーパワーの侵略の危機に瀕していた。長崎はローマ教皇に寄付され教皇領となっていたし、九州の多くの大名・住民がキリスト教に改宗して日本の神社や寺院を破壊していた。そして国際金融資本はフィリピンやマラッカ、ジャワ島などを植民地化していた。豊臣秀吉の朝鮮・中国侵攻計画は、国際金融資本の海軍力に包囲され危険な日本本土から大陸に戦略的に撤退し、膨大な中国の人口(人民の海)を武器にして国際金融資本と対決するという戦略であったと思われる。この戦略は帝国陸軍が明治維新後に選択し、その後継者である残置諜者国家北朝鮮が現在も継続中である。豊臣秀吉の戦略眼の確かさには感動を覚えずにはいられない。一方、徳川家康の戦略は、大陸への戦略的撤退は行わずに日本本土にとどまり、聖方位や真言宗、皇室の力で日本を防衛するというものであったのだと思われる。この戦略は明滅亡後の清の隆盛、日本や清の海禁政策などによって関ヶ原の戦いから少なくともアヘン戦争までの約240年間は有効であったし、現在も国際金融資本占領下で彼らに対抗するとともに日本の文化を維持し続けるという形で継続されているのである。徳川家康の戦略にも私は驚嘆を禁じ得ない。 . . . 本文を読む
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