噛みつき評論 ブログ版

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教師労働者論の罪

2011-02-07 09:59:07 | マスメディア
 昨年の末、元日教組委員長で総評議長でもあった槙枝元文氏の死去が報じられました。槙枝氏は総評議長として労働界の頂点にも立ち、そしてまた日教組委員長として長期にわたって教育界に君臨しました。その「業績」には多くの批判がありますが、槙枝氏は北朝鮮の金日成を深く敬愛し、北朝鮮から親善勲章第一級を授与されるなど、北朝鮮からは高く評価されていたようです。きっと北朝鮮にとって有益な人物であったのでしょう。日教組はいささか風変わりな人物を頭領としていたわけで、これは日教組の特異な性格を象徴しているようです。

 槙枝氏をはじめとする日教組は教師労働者論を主張したとされています。労働者としての権利を主張するためであったと思われますが、これはそれまでの教師聖職論を強く否定するものでした。聖職という表現には異論もあるでしょうが、それは教職に単なる労働以上の価値を与えるものでした。しかし教師は労働者であるとする主張では、賃金のために働く者という意味が強調され、人を教育し育てる仕事としての意味や使命感が相対的に弱められることになります。

 教職に使命感を持たない教師が、教え子達に対して、様々な職業の社会における意味や職業に対する使命感を伝えるのは難しいと思われます。現在は、職業の価値はそこから得られる所得の高低によってのみ評価される風潮が定着し、職業に矜持(きょうじ)や使命感をもつことが難しい時代になりましたが、その遠因に日教組の教育があるのではないかと思います。

 一方、近年はGDPの僅かな増減が大きく報道されるようになりました。こんな国は日本だけだそうですが、経済への関心が強くなり、経済成長は最重要の問題であるかのようです。物資の乏しい時代、経済問題は場合によっては生存にもかかわる切実な問題でした。しかし十分な豊かさが得られるようになった現代では経済問題の切実さは昔ほどではない筈です。にもかかわらず、経済がより重視される状況は奇妙な気がします。

 「足るを知る」ことのない、飽くなき欲望のためということもあるでしょうが、むしろ他に価値を認めるような対象が少ないためではないでしょうか。戦後教育は家族を支える倫理など伝統的な日本の文化や価値観を封建的なものとして否定し、ことごとく破壊したと言われています。一部にはその必要性はありましたが、残すべきものまで捨ててしまったという感は否めません。

 前にも引用しましたが、かつて三島由紀夫は日本の現状を憂い、
「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」
と述べましたが、これは日教組の「教育成果」に対する三島の絶望を表したものと理解することができましょう。

 日教組が主導したゆとり教育は数年後に学力低下という問題を生じ、その失敗が明らかになりました。これは学力が点数という客観的な方法で測ることができたためだと思われます。しかし戦後教育の結果を客観的に測定することは不可能であり、またその影響が現れるのに長期間を要します。このような問題は結果を見ながら修正する(フィードバック)という方法は有効ではありません。それだけに教育というものの恐さを感じます。

 中国は著しい経済成長が続いていますが、その一方で経済重視の拝金思想が広がっているといわれています。国が物資の欠乏状態にあれば、それは自然なことです。しかし豊かさを達成した日本が途上国と同じ姿勢であれば、それは文化の貧困、あるいは強欲と映るのではないでしょうか。少なくともエレガントとは言えません。