噛みつき評論 ブログ版

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「見て見ぬふり」という処世術

2012-07-23 10:20:25 | マスメディア
 大津市の中学生の自殺事件は学校内でのいじめの存在が浮上し、9ヵ月も経ってから急に大きく報道されるようになりました。メディアの関心はまるで申し合わせたように、学校と教育委員会の対応ぶりに集中した観があります。悲劇の背景には彼らの見て見ぬふり、つまり彼らの事なかれ主義があったのではないかと。それにしても相変わらず横並びがお好きなようです。

 これらの報道を見ていると、メディアによる批判は学校と教育委員会に集中し、いじめは所与の問題とされているように見えます。叩きやすい相手なのでしょうけれど、対象を絞った集中批判はわかりやすい反面、問題を単純化して認識を誤らせることにつながります。

 自殺の主な原因がいじめであったとすると、いじめそのものに対してもっと関心が向けられてもよいと思います。学校などの管理によって悲劇を防ごうとする試みも大切ですが、第一原因であるいじめそのものを減らすことが必要と思われるからです。管理による方法は、病気に対して対症療法のみで対処し、原因療法を軽視するようなものです。

 多人数でひとりを攻撃するという姿はまことに見苦しいものです。多数側の者は皆で共同していじめているのだという気持ちが働き、罪が分散されて軽くなるように感じます。責任の分担というわけです。しかしいじめられる者にとっては、軽い気持ちでやられてはいっそうたまりません。

 「弱きを助け、強きをくじく」という言葉がありますが、決して簡単なことではありません。特別な能力を備えた人ならともかく、一般には、格好悪くても逆の「強きを助け、弱きをくじく」の方が処世術として有効です。「長いものには巻かれろ」はこちらの教えです。いじめられている弱い者を助けようとすれば、強い連中を敵にまわすことを覚悟しなくてはなりません。

 戦前の新聞業界、信濃毎日と福岡日日は強い陸軍に抵抗しましたが、これは例外的であり、大手紙はすべて軍による経済的な締付け等に負けて陸軍の味方となりました。いつも正義や理想を語っていた大新聞ですらこの始末であったわけです。結局、大手紙は「経済合理性」を優先したわけで、いま思えば時代を先取りしていた観があります。

 良心の呵責をあまり感じずに済ませるもっとも一般的な方法は「見て見ぬふり」をすることです。大津市の中学校や教育委員会は「見て見ぬふり」の模範を示したのかもしれませんが、後でバレたときはより大きな災難が降りかかるということをも示した形になりました(彼らの場合は職務の問題も大きい)。これはぜひ生徒達にぜひ学んでもらいたい教訓です。

 多数によるいじめは罪の意識が低い上、優勢ないじめる側が主導権をもつので、一旦始まると簡単には解消しない、安定した構造をもっていると考えられます。そしてこれには個人差が大きいのですが、いじめることに快感を覚えるような心理的特性も関わっているものと思われます。したがって、いじめられる側の捨身の反撃か、第三者の介入がなければ解消は困難です。

 昔はいじめがなかったとは思いませんが、卑怯という概念が広く浸透していて、それがいじめを阻止するのに一定の効果があったものと思われます。卑怯者の烙印をおされることはひどい侮辱であり、そのような行為を抑制する効果がありました。今は卑怯という言葉を聞くことすら珍しくなり、この概念の衰退がいじめを促しているように思います。

 これは戦後教育の成果のひとつでもあり、またモラルが経済合理性に置き換えられてきたことのひとつの現れとみることができます。卑怯などというと古臭く感じる方もおられかも知れませんが、古今東西に見られるもので、共同体の秩序を維持する上で重要な概念であると思われます。

 教育となると時間がかかります。そこでこんな手は使えないものでしょうか。多人数でひとりを暴行するような卑怯な行為は単独での行為よりも重い刑を科すのです。多人数による罪の意識の減少を刑の増加で補ってあげるわけです。暴行などをするとき、仲間を誘えば刑が重くなるとなれば、誘う方、誘われる方、共に抑制効果が期待できます。そしてこれを明確にすれば卑怯という概念の浸透が望めるのではないでしょうか。まあ、頭の固い「法曹業界」がまともに検討することとは思えませんが。


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