噛みつき評論 ブログ版

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来て見れば聞くより低し・・・

2010-11-15 10:12:31 | マスメディア
「来て見れば聞くより低し富士の山、釈迦も孔子もかくやあるらん」(*1)
 
 これは幕末の長州藩で財政改革を実施し、教育にも力を注いだ村田清風が富士山を見て詠んだ歌とされています。私はこれを読売の編集手帳(11/6)で知ったのですが、これが面白いのは「釈迦も孔子もかくやあるらん」の部分で、清風の頭の中には親鸞やキリストもあったかもしれません。私なら神や仏も加えたいところです。

 自分の目で確かめることの大切さを述べたものと思われますが、他人の評価の頼りなさを言うために釈迦や孔子を挙げているのが面白いところです。富士の高さを評価するのは簡単ですが、釈迦や孔子を評価するのは簡単ではないため、どうしても他人の評価に左右されてしまいます。

 釈迦や孔子の話とはいささかレベルが異なりますが、世評と実像が大きく隔たっている人物や書物は数多く見られます。小谷野敦氏の「日本文化論のインチキ」に書かれている多くの人物批評にはたいへん興味深いものがあります。

 小谷野氏はヘーゲルやフロイト、ユングなどをこき下ろし、フランス現代思想の思想家は学問的にはほとんどインチキであると書いています。私にはこれらを批判する能力がありませんが、フランス現代思想に関してはアラン・ソーカルの「知の欺瞞」に書かれていた内容とも一致するので本当かなと思います。(参考拙文「ソーカル事件の教訓

 日本の学者・評論家に対する過激な批判も豊富で、この方の本当の仕事は他人を批判することではないかと思うほどです。
「ユング心理学というのは、学問の世界ではオカルトと思われていて、フロイト以上にまともに扱われていない。しかし、河合隼雄の記述は、次第にユングからも離れて、世間話の部類になっていた」

「多摩美大にはオカルトブームの帝王とも言うべき中沢新一がいるし、亜インテリに人気のある茂木健一郎なる『脳学者』もオカルトだし、その茂木を『疑似科学』と批判している斉藤環も、フロイト派だから、学問的とは言えない」

(次は小谷野氏のブログ「猫を償うに猫をもってせよ」より)
「尾木直樹・法政大教授、鈴木晶・同、そして吉村作治であった。まあ三人が三人とも、まあなんというか、バカで名高いというか、そういう人であるが、しかし法政大はバカ教授率高いなあ」

 ざっとこんな調子です。ほとんどは喧嘩腰であり、あまりエレガントとは言えません。しかしその中で私が多少知っている河合隼雄氏、茂木健一郎氏、教育評論家の尾木直樹氏に対する評価には私も十分納得できるのがあります。

 よく売れる本の多くは有名な著者によるものです。私達が本の購入を決める場合、その本の著者に対して肯定的なイメージをもっていることが大きな条件になります。またアホなことを書いているだろうから読んでみてやろう、と思って購入する人はかなり少ないでしょう。

 読者にとって、先入観なしに読むということはとても大切であって、どこが偉いのかを知る前に、とにかく偉いという評価を受け入れてしまえば、批判的に読むという態度が失われます。くだらない本でも有名な著者のものであればよい本だと思ってしまうことがよくあるわけで、これは価値のない本がベストセラーになる理由のひとつと思われます。

 本や著者を優れたものと思わせて購買意欲を煽るのも出版社の仕事なんでしょうが、それは一方で大きな迷惑を社会に与えています。小谷野氏の本は誤った世評をひっくり返すことで先入観を取り除くところに存在価値があります。まあこの本も出版社の営業に力を貸すことになりますが。

(*1)出典は 徳富蘇峰「吉田松陰」岩波文庫版だそうです。


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2 コメント

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宗教等について (迷える子羊)
2010-11-23 06:59:49
メディア批判など共感する点が多いので、このブログをよく拝見しております。。
ただ違和感を感じるのは、岡田さんの宗教に対する全否定的な態度です。
たしかに、宗教だけではなくあらゆる思想、何々主義といったものは、すべてファンタジーであると言えるかもしれません。これらは人間を救う時もありますが、戦争の原因となることもあり、厄介なものです。
岡田さんは人間は個人が持つ理性によってのみ、真に世界を見ることが可能だと思っておられるようです。
しかし、理性がよって立つ基盤には、何らかのファンタジーが必ずあると思います。
たとえば一般的に理性にとって明らかと思える命題を例としてあげてみます。
「一生懸命努力したものは、最後に報われる」
「人間はみな平等である」
「人を殺すのは悪である」
しかし、これらの命題も、「それは何故ですか」という問いかけに対して、最終的には「そう信じるからだ」という答えしかないと思います。
ある命題をまず無条件に信じるという態度は、すでに宗教的な態度つまりファンタジーと言ってよいのではないでしょうか。
ファンタジーの対義語は理性ではなく、虚無だと思います。
虚無を信じるのであれば、上記に挙げた命題をすべて否定してよいことになります。
しかし、虚無の中で生きていける人間はごく少数だと思いますし、決して幸福にはなれないでしょう。
河合隼雄さんは、ファンタジーがいかに人間にとって重要であるかを述べられた方だと思っています。
小野谷敦氏も必ず何らかの信念(=ファンタジー)を持って、他者を批判をされているのだと思います。
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Unknown (okada)
2010-11-28 00:09:50
迷える子羊さん、返事が遅くなりすみません。子羊さんとても厳密な思考を好まれる方とお見受けします。
一部の人にとって宗教は役立っていることは認めます。しかし人を騙すという部分が嫌いなのです。そこに不誠実さを感じることもあり、特定の価値観、世界観に染める行為にも抵抗があります。
ご存知かもしれませんが、相対主義というのがあります。他の思想と同じように科学をもひとつの思想として扱うものと聞いています。私はこれに反対です。科学と言っても絶対のものではありませんが、膨大な事実を整合的に理解できるだけの厳密性は他と比較になりません。

「一生懸命努力したものは、最後に報われる」など3つの命題を挙げておられますが、私にはこれらは理性にとって明らかであるとは考えません。
理性という言葉をお使いですが、科学的合理性に置き換えたいと思います。1番目は願望を述べたもので他とは少し異なります。後の二つはよい社会を維持するための約束事だと
理解すればどうでしょうか。単なる約束事でも子供の頃から教えると道徳的な観念となると思います。
そうは言っても価値観は説明できないものが多いですね。それぞれの価値観を持てばよいと思います。ファンタジーに基づくものでもよいでしょう。ファンタジーを完全に排除することは無理です。そして宗教がなくてもファンタジーは持てます。
組織的、職業的に特定のファンタジーを押し付ける行為、これがイヤなのです。
とりとめない話になりました。すみません。
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