裁判員制度では評決に於いて、病気などの正当な理由がある場合を除き、棄権は許されません。つまりいくら考えてもわからないという場合でも無理やり決断を迫られることになります。
被告人が犯行の事実を否定している事件、つまり否認事件の場合の事実認定では、検察側、弁護側とも辻褄が合うように「物語」を作り上げるわけですが、裁判員はどちらがウソをついているかを判断しなければなりません。司法試験をパスした優秀な方が練り上げたウソを見破るのは簡単ではないでしょう。
評決のとき、どうしても「決められない」というケースが出てくるのは当然のことと思います。そこでこのような場合の対処法を裁判所に問うたところ、次のような回答を得ました。
①裁判長の訴訟指揮によって判断できるようにするので心配ない
②確信が持てない場合、「疑わしきは罰せず(疑わしきは被告人の利益に)」の原則を適用する
①の訴訟指揮とは、特定の事実・証拠を思い起こさせたり、事実の解釈やその関係性を提示したりして、決断を促すことが考えられますが、裁判長が中立の立場から決断を促すことは大変困難であり、実際はどちらかに誘導することになると思われます。裁判長の意向が指揮に反映するなら、裁判員の存在理由は薄弱になります。
②の確信ですが、否認事件に於いて100%の確信などほとんどあり得ないと考えられ、厳密な意味で「疑わしきは罰せず」を実行すれば有罪にすることはほとんどできなくなるでしょう。もとより裁判は蓋然性の上にしか成立しないもので、数学のような厳密さは望めません。したがって職業裁判官であれば、例えば90%の確信度であれば「疑わしくない」というような基準を持っているかもしれませんが、初めての裁判員は「疑わしくない」というのがどの程度のことを指すのか、わからないと思います。
実際はこの例のように確信度を簡単に数値で表すことができませんから、基準を教えることは難しく、裁判員によってこの確信度の基準はバラバラになると考えられます。したがって確信度に言及せず「疑わしきは罰せず」という理念を持ち出すのは現実的な有効性に疑問があります。
60%の確信で有罪の判断をする裁判員もあれば、「疑わしきは罰せず」を厳密に考えて99%の確信でも無罪とする裁判員もあり得ます。
以上のように①も②も棄権を認めない理由として十分なものではありません。裁判員は確信が得られず、判断に迷ったとしても最後は判断を迫られます。時間が限られる中での苦しまぎれの判断は果たして信頼できるものといえるでしょうか。
そしてこのような状況での判断の強制は真面目な人にとっては精神的な拷問になるでしょう。被告人の生命にかかわる場合などはなおさらで、安い日当にとても引き合うものではありません。裁判員制度の理念を貫くため、あるいは裁判の効率や運営上のための仕組みだと思いますが、棄権が認められないということは深刻な問題を孕みます。裁判員には棄権を認め、裁判官には認めないという現実的方法も検討の余地があると思います。全員が棄権しても従来の裁判になるだけですから。
(参考拙文:算数のできない人が作った裁判員制度)
(ここで確信度90%とは10回の判断で1回間違えるという程度の予想ができること、というほどの意味です)
被告人が犯行の事実を否定している事件、つまり否認事件の場合の事実認定では、検察側、弁護側とも辻褄が合うように「物語」を作り上げるわけですが、裁判員はどちらがウソをついているかを判断しなければなりません。司法試験をパスした優秀な方が練り上げたウソを見破るのは簡単ではないでしょう。
評決のとき、どうしても「決められない」というケースが出てくるのは当然のことと思います。そこでこのような場合の対処法を裁判所に問うたところ、次のような回答を得ました。
①裁判長の訴訟指揮によって判断できるようにするので心配ない
②確信が持てない場合、「疑わしきは罰せず(疑わしきは被告人の利益に)」の原則を適用する
①の訴訟指揮とは、特定の事実・証拠を思い起こさせたり、事実の解釈やその関係性を提示したりして、決断を促すことが考えられますが、裁判長が中立の立場から決断を促すことは大変困難であり、実際はどちらかに誘導することになると思われます。裁判長の意向が指揮に反映するなら、裁判員の存在理由は薄弱になります。
②の確信ですが、否認事件に於いて100%の確信などほとんどあり得ないと考えられ、厳密な意味で「疑わしきは罰せず」を実行すれば有罪にすることはほとんどできなくなるでしょう。もとより裁判は蓋然性の上にしか成立しないもので、数学のような厳密さは望めません。したがって職業裁判官であれば、例えば90%の確信度であれば「疑わしくない」というような基準を持っているかもしれませんが、初めての裁判員は「疑わしくない」というのがどの程度のことを指すのか、わからないと思います。
実際はこの例のように確信度を簡単に数値で表すことができませんから、基準を教えることは難しく、裁判員によってこの確信度の基準はバラバラになると考えられます。したがって確信度に言及せず「疑わしきは罰せず」という理念を持ち出すのは現実的な有効性に疑問があります。
60%の確信で有罪の判断をする裁判員もあれば、「疑わしきは罰せず」を厳密に考えて99%の確信でも無罪とする裁判員もあり得ます。
以上のように①も②も棄権を認めない理由として十分なものではありません。裁判員は確信が得られず、判断に迷ったとしても最後は判断を迫られます。時間が限られる中での苦しまぎれの判断は果たして信頼できるものといえるでしょうか。
そしてこのような状況での判断の強制は真面目な人にとっては精神的な拷問になるでしょう。被告人の生命にかかわる場合などはなおさらで、安い日当にとても引き合うものではありません。裁判員制度の理念を貫くため、あるいは裁判の効率や運営上のための仕組みだと思いますが、棄権が認められないということは深刻な問題を孕みます。裁判員には棄権を認め、裁判官には認めないという現実的方法も検討の余地があると思います。全員が棄権しても従来の裁判になるだけですから。
(参考拙文:算数のできない人が作った裁判員制度)
(ここで確信度90%とは10回の判断で1回間違えるという程度の予想ができること、というほどの意味です)
戦後、加害者の人権、更正に重点を置いた考え方が長く続きました。しかし十数年前から逆転し、被害者の応報感情に配慮する傾向が強くなりました。目には目を、です。私はどちらの場合も偏りが過ぎるのはよくないと思います。現在の被害者感情重視→厳罰化の流れはメディアの興味本位の報道によって起こされた面があると思います。
現行の司法制度とそれに携わる人々を信頼し、制度への多少の誤謬を認識しながらも新制度よりは良しとするかのような印象です。
一つの犯罪に一つの判決。同種の犯罪に多様な判決。多様性は世の常であり新化の糧です。制度発足の過渡期において不可解な判決が現れようとも時の流れとともに世間一般の多数が正当なのもと認識できるようになればそれがその時点での「正義」なのではないでしょうか?現状が「至高」であり到達点であるならば制度をいたずらにいじるのは不当と言えるでしょうが、だれも「それ」を証明することはできないでしょう。
変化は必ずしも進化ではありません。しかし停滞は明らかに退化への一里塚です。検察が裁判所に上げた(起訴した)「事件」の9割以上が有罪となる異常な司法体制に一石を投じる良い機会ともなりえると私は思います。
(蛇足ながらもう一言述べさせていただけば、日本の司法は伝統的に被害者(特に死者)よりも「生きている」被告人の人権に配慮する傾向が非常に強いように思います。罪とはなにか、罰とはなにか、それが因果応報であるするならば、古代中東の法典に発するように「目には目を‥‥」の精神で裁かれるべきであり、その時代のスタンダードとも言える価値観の元に裁かれるべきであると私は考えます。そしてそのスタンダードは庶民の中にこそあるのではないでしょうか?)
国家(司法システム)に価値観を委ねたままの司法は果たして民意に沿っているといえるのでしょか?今回の件は不完全ではあっても民意を司法に反映させる良い機会ではあると私なぞは考えます。
ご興味がおありなら手前味噌ながら拙文 「算数のできない人が作った裁判員制度」をご覧下さい。
早速ですが私は裁判員制度に基本賛成です。
勉強につぐ勉強で司法試験をパスし、過密な業務で日常が占められ、客観的清廉さを維持するためプライベートでの交友範囲や人間関係を限定的に留めている彼ら(裁判官)はとても優秀な「世間知らず」なのではないでしょうか?
そんな「世間知らず」に市井の価値観と本当の世間一般常識を知らしめる良い機会と捉えてみてはいかがでしょう。どんな制度も法令も万人にとって完璧なものなどありえないのですから、一側面としての長所を見出してみて、しばらく様子見というのも一興です。