噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

曲学阿世の徒はまだ生きている

2020-10-11 21:26:03 | マスメディア
 曲学阿世とは、学を曲げ世におもねる意味というである。この言葉が有名になったのは1951年、当時の吉田茂首相が南原繁東大総長に対し「曲学阿世の徒」と非難したことによる。南原は学者・文化人らによる全面講和論の象徴的人物とされ、共産党と社会党が全面講和を支持した。全面講和とはソ連など共産国を含むすべての関係諸国との講和であるが、米ソの対立のためもあってその実現は困難であった。それは講和の実現を阻み、日本の独立を阻止するのと同様の意味を持った。しかし日本は単独講和、この言葉はおかしいが、西欧諸国など48か国と講和を結びことになり、現在に至る。

 当時の学者・文化人の多くが共産主義に親近感をもち、その活動がソ連の利益になるものであったことは日本共産党がコミンテルンの日本支部であったことと、その工作の成功を意味するのだろう。ソ連がコミンテルンを通じてしようとしていたことは全世界の共産主義化であったとされている。イスラム教が聖戦を通じて全世界のイスラム化を目的にしているのと似ている。共産主義と宗教との類似性がいわれるが、世界征服の点でも同じ似ている。また、スペインも大航海時代、宣教師を世界各国に派遣して世界のキリスト教化を考えていたという。せっかくだがどれも迷惑なお節介である。

 さて日本学術会議であるが、政府に会員の任命権があるか、ないかなどの細かい形式な論争になっている。残念なことは日本学術会議の問題の本質に対する言及があまりないことである。学者の世界では依然として左派が力を持っているようで、学者の組織である日本学術会議では活動的な左派勢力が影響力を持ち、日本学術会議の方向性を支配しているのではないかと疑われる。軍事目的の研究を禁止する一方で、中国に学術的な協力を惜しまないという姿勢は協力対象国が70年前のソ連が中国に代わっただけのことである。つまり巧妙に乗せられているのである。

 多くの学者・文化人は70年前も現在も、正義や良心に基づいてのことだろうと思う。ただその正義や良心が問題なのである。なぜかその正義や良心はかつてはソ連、今は中国の利益のためにあるようである。日本の軍事力強化に協力せず、中国の軍事力の強化に協力する姿勢は国の安全に反する。ついでながら死刑制度の存続には国民の8割が支持しているが、日弁連は反対している。日弁連全体として反対しているように理解されがちだが、そうではなく少数の活動的左派が反対運動をしていると言われている。多くの弁護士はそんなことより稼ぐことに関心がある。活動的な少数による支配という日本学術会議と共通の構造がみられる。

 共産主義はロシアで革命を起こし、その後、全世界に広がっていった。膨張性・拡張性はその属性だと考えてよい。東アジアでは北朝鮮、中国、ベトナムに至ってようやく止まった。これだけの広がりを見せたのには、共産主義がもつ強い魅力があるからだろう。学生などの若者はこの魅力に惹きつけられてしまう。私は共産主義をよく知らないので偉そうなことは言えないが、この魅力は労働者、資本家、生産手段、私有、など複雑な概念を単純化し、それを簡単な論理で説明したわかりやすさと、革命によって平等や自由などの理想を実現できると信じさせたことにあるのだと思う。若者や学者、つまり社会の現実を知らない人間に大受けしたのである。

 しかしよくわからないのは70年前ならともかく、親玉のソ連が崩壊し、他の共産国も次々と消滅した現代において、なぜ現実を正しく認識できないのか、なぜ軍事目的の研究をやめろなどと叫び夢を見続けるのか、である。若い日に受けた教育が長く影響を与えるのはわかるが、それにしても国際環境が激変しているのに理解せず、依然として頑固一徹なのは理解できない。学者なんだから多少の理解能力はあると思うが、やはり歳には勝てないということか。

 言論の自由、学問の自由、信教の自由、どれも民主主義を支える基本である。しかし同時にそれは共産主義やイスラム原理主義が他国を侵略しようとする場合の土壌となる。オウム真理教は信教の自由のおかげで発展し、大被害をもたらした。もしイスラム過激派が日本に浸透して、過激な信者を増やしても、行動を起こさない限り、何もできない。それが信教の自由なのである。オーストラリアでは中国による浸透工作が明るみに出て、国同士の対立に至った。先進国の自由権は諸刃の剣なのである。自由が制限されている中国などではその心配はない。非対称の争いであり、自由主義諸国は不利な立場なのである。