噛みつき評論 ブログ版

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裁判官の国民審査という儀式

2009-07-09 11:02:48 | Weblog
 総選挙が近づき、マスメディアの騒ぎが続いていますが、同時に行われる最高裁判所裁判官の国民審査は話題にもなりません。個々の裁判官に関する情報がほとんどない状況で国民審査が機能することは考えられず、これまでにこの国民審査によって罷免された裁判官は皆無だそうです。歴代最高不信任率の裁判官、つまりワーストワンでも15.17%です。

 5月に始まった裁判員制度の導入理由のひとつは国民主権を司法の場に実現するということでした。国民主権を司法の場で実現するもののひとつが最高裁判所裁判官の国民審査であったはずですが、司法改革審議会では無視された形です。

 国民主権を司法の場に実現する必要性があるというのなら、なぜこの国民審査を有効なものにするという努力が払われなかったのでしょうか。有効に機能するならば、司法の頂点に君臨する裁判官の可否を国民が決定することができるというのは国民主権を実現する優れた制度になり得ます(国民の判断を信じるならばですが)。

 そうした努力もせず裁判員制度を導入したのでは、国民主権を司法の場に実現するという理由がウソっぽく見えます。

 日本経済新聞(7月8日)の「大機小機」はこの国民審査の問題を取上げています。そのなかで、一票の格差問題について「最高裁は、格差が衆議院は3倍、参議院は6倍を超えなければ憲法違反ではないという判断を長年続けている」と批判しています。たしかに票の格差は民主制度の根幹を左右する問題ですから、それが3倍や6倍までOKという最高裁の見識には驚きます。

 選挙区や定員の変更によって、できる限り1倍に近づけるのが当然だと思うのですが、3倍や6倍という数にはどんな根拠があるのでしょうか。裁判官の方々の「数」に関する見識はわれわれ凡人の理解の及ぶところではなさそうです(参考拙文 「算数のできない人が作った裁判員制度」)。

 「問題は判断材料がろくにないことだ。本来であれば、裁判官就任前に、公の場で国民の関心がありそうな事項についての見解や信条をただすプロセスがあるべきだが、そういう制度にはなっていない」と述べています。

 まったくその通りで、国民審査制度が有効に機能するようにするのは政治の怠慢であり、またなぜか沈黙を守っているマスメディアの責任でもあると思います。メディアが取上げなければ存在しないのも同じです。第9条に向ける注意の100分の1、殺人事件に割くスペースの1000分の1でもあれば形骸化は避けられたかもしれません。

 審査は任命後最初の総選挙ということなので今回の審査対象者は15人のうちの9人だそうです。日経記事は「審査対象の9人の裁判官に対し質問し判断材料を提供していただけないだろうか」と述べています。

 私は9人にテレビ出演してもらって、一票格差が3倍や6倍まで合憲とする根拠など、様々なテーマについて意見を求める、あるいは討論をしてもらえば、さらに有効な判断材料が得られるのではないかと思います。逆に判断材料を提供せずしての国民審査であれば意味がなく、やめた方がよいでしょう。