噛みつき評論 ブログ版

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「卑怯」という感覚の衰退・・・通り魔からテレ朝まで

2008-07-24 09:29:35 | Weblog
 通り魔事件は身勝手な理由で、何の関係もない人を襲うという極めて理不尽な犯罪ですが、さらに許せないのは、凶器を用意した上で予告もせず、無防備な人を突然襲うという極めて卑怯な方法です。相手が体力に劣る女性や子供なら、これ以上の卑怯な行為はないと言えましょう。

 また、少年が集団でホームレスを襲い、殺害するという事件がいくつかありました。元気な少年が集団で老いたホームレスを襲うという、あまりの卑怯さと残忍さに、胸の悪くなる出来事でした。

 秋葉原事件の跡に設けられた献花台の供え物を取り上げたテレ朝の番組も共通の要素を含みます。ホームレスと思しき人物が供え物を持ち去るのを密かに撮影した上、スタッフは供え物の食物を返せと執拗に迫りました(前回の記事に詳細)。

 ホームレス側に僅かな不道徳行為があるとは言え、強者が多勢でひとりの弱者を責める行為は卑怯と映ります。食物に不自由しない連中が食事も十分できない人から食物を取り上げる行為も卑怯な行為と言うことができます。これを見て不快を感じた方はそのように感じられたのでしょう。

 無論これだけで断じることはできませんが、卑怯という感覚が徐々に薄れてきているような気がします。古い世代にとっては、卑怯というのは最大の恥、不名誉、格好悪さであって、卑怯者と言われることは最大の恥辱であり、人格の否定と受けとられます。このような感覚は、少なくとも大多数に共有されていました。

 もっとも、卑怯な犯罪は昔からありました。したがって犯罪者に代表される少数者だけがこの感覚を持たない、あるいは希薄なのだという見方も可能でした。しかし、前述した事件の頻発やテレ朝の報道を見ると、卑怯の感覚の衰退が若い世代に広がっているのではないかという強い懸念が生じます。テレ朝の番組は卑怯という感覚の喪失がもはや個人レベルだけではなく、組織レベルでも生じていることを示唆しています。

 犯罪者達が卑怯という感覚をもっと身につけたなら、胸が悪くなるような事件が少しは減るのではないでしょうか。少なくとも劇場型犯罪と呼ばれるものは自分を世に晒(さら)すわけですから格好悪さはブレーキになると思われます。

 卑怯という感覚の衰退は戦後の教育の結果であることに異論はないと思います。戦前の体制の復活をパラノイア(*1)のように恐れるあまり、関連の疑われるものすべてを捨て去った結果とも考えられます。武士道を持ち出すまでもなく、卑怯という感覚は洋の東西を問わず、社会にとって大変有用なものです。それを社会の成員が共有できるようにすることは、今後の教育の課題のひとつだと言えるのではないでしょうか。

(*1)パラノイア・・・体系立った妄想を抱く精神病